AdAd
  
第9話 鉄壁の王都

  オプスティア首都ジェレズニーフラドの南方の小都市ミリアの駐屯地。

  報告は、夜明けとともに届き始めた。

  最初の報告は、オプスティア北東の工業地域から来た。

  「北東工業地域、第五区画まで帝国軍に掌握されました。職人が拉致され、その他は――処刑されたとの情報が入りました。」

  「処刑――だと?」

  「……全員です。老人も、女も、子供も。」

  その言葉が落ちた瞬間、天幕の空気が止まった。

  ヒディが、一度だけ呼吸を忘れた。

  次の瞬間、指先がわずかに震えた。

  短剣の柄を握る手に、力が入りすぎる。

  ギシ、と革が軋んだ音がした。

  誰もそれに気づかないふりをした。

  セリナは――すぐには動かなかった。

  反応が、ひとつ遅れた。

  いつもなら「次の報告」「戦況」「対応策」に切り替わる目が、その場で止まっていた。

  (……全員。)

  その単語だけが、少し遅れて意味を持った。

  視線が、わずかに揺れる。

  そして、戻ろうとして――戻りきらない。

  「……全員――処刑、ね。」

  声が出るまでに、ほんの僅かな間があった。

  その言葉が、頭の中で別の意味に変わる。

  ――全部を、消すこと。

  セリナは一度だけ目を伏せた。

  伏せたまま、息を吸う。

  吸ってから、初めて気づく。

  自分が今、少しだけ『遅れている』ことに。

  そして何事もなかったように、顔を上げた。

  天幕の中に、沈黙が落ちた。

  次の報告は、西の街道から来た。

  「グレンツベルク州との国境地帯の村落、三つが焼かれました。住民の生存者は確認されていません。」

  「メストナスヴァフの状況が把握できました。住民は多数が逃亡しましたが、それでもかなりの数が拘束され、殺害された模様です。市街は無人の状態で、……町の広場に死体が積みあがっています。」

  また次の報告。

  「北部の鉱山都市クラーロフ。抵抗した市民が全員処刑された模様。坑道に追い込まれ――」

  「もういい!」

  エトセニアから補充兵と戦略物資を運んできたムパンギが、低い声で遮った。

  斥候が、口を閉じる。

  天幕の中に集まった全員が、黙っていた。

  誰も言葉を発さなかった。

  だが、その沈黙の中にあるものは――同じ方向を向いていた。

  アキンの手が、長槍の柄を強く握っていた。

  その手が、白くなるほど。

  「許せねえ!あいつら……俺たちを何だと思ってやがる!」

  ヒディは、俯いていた。

  その肩が、わずかに震えている。

  アスラは、目を閉じていた。

  静かな顔だった。

  だが、その耳が――わずかに立っていた。

  怒りを、全身で押さえている。

  エシュトは、使者の言葉を記録しながら、唇を噛んでいた。

  ムパンギは、ただ一度だけ、目を閉じた。

  セリナは、シンを見ていた。

  シンは――地図を見ていた。

  動かない。

  表情も変わらない。

  ただ、炭を持つ指先が、一瞬だけ止まった。

  (……神聖騎士団が、進軍より虐殺を優先している。)

  それは、戦略的には――帝国軍の弱点だ。

  制圧速度が落ちる。

  補給線が分散する。

  兵力が虐殺作業に割かれる。

  だが。

  頭の奥で、頭痛が始まった。

  前世の記憶が、静かに押し寄せてくる。

  歴史の中で、同じことが何度も起きた。

  組織的な大量虐殺。

  効率的な「処理」。

  数字として記録された『奪われた命』。

  シンは、その頭痛を――今回は、押しつぶさなかった。

  ただ、受け取った。

  ――そこで、一拍止まる。

  ほんの一瞬だけ、思考が空白になる。

  天幕の音が遠くなる。

  そして、その空白を埋めるように――現実が戻る。

  シンは、静かに息を吐いた。

  まだ、完全には戻りきっていない感覚があった。

  それでも――視線だけは、地図に戻った。

  「……進軍速度が明らかに落ちている。」

  声は、すでにいつものものだった。

  「神聖騎士団が弾圧に人員を割いているからだ。皮肉だが、これは、俺たちにとって時間的な猶予になる。」

  「……戦略的な話をするのか。今。」

  アキンの声は、抑えていた。

  だが、その底に――怒りがあった。

  「今だからこそ、する。」

  シンは、アキンを見た。

  「怒りは持っていい。憎しみも持っていい。だが――それを今、それをただ外に出すだけならば、次は俺たちが死ぬ。」

  「わかってる。」

  「怒りは、戦場で使え。今は地図を見ろ。戦略を考えろ。」

  アキンは、唇を噛んだ。

  それから、地図に視線を落とした。

  「……ムパンギ。」

  シンは、向き直った。

  「エトセニアに戻って援軍の準備はできるか。ジェレズニーフラドへ向かう本隊と、ここに残る後衛に分ける。援軍を率いて後衛と合流したらジェレズニーフラドに駆け付けてほしい。おそらく帝国はエトセニアではしばらく動かない。賭けになるが、できるだけ多く連れてきてくれ。」

  「できる。」

  「この拠点と後衛の指揮は、アマディに任せる。不測の事態に備えてくれ。」

  「承知しました。」

  アマディが、静かに頷いた。

  その顔には――無駄な感情がなかった。

  歴戦の男が、感情を全て内側に押し込んだ顔だ。

  「シン。」

  ヒディが、顔を上げた。

  目が赤かった。

  「……あたし、行く。ジェレズニーフラドに。」

  「わかっている。」

  「絶対行く。」

  「ああ、わかっている。」

  ヒディは、それ以上言わなかった。

  だが、その目の中に――昨日までとは違う何かが、静かに燃え始めていた。

  出発の前に、シンは一人になった。

  天幕の外。

  夜明けの光の中、一人で立っていた。

  使者たちが報告した内容が、頭の中で繰り返されている。

  頭痛が、静かに続いている。

  前世の記憶の中にある言葉が、重なった。

  最終解決。

  特別処置。

  移送、収容、処理。

  全部、同じだ。

  言葉を変えて、同じことを繰り返している。

  (……俺も、昨日――降伏した者を「処刑」、つまり処理した。)

  その事実が、今、別の形で返ってきた。

  シンは、目を閉じた。

  (違う。)

  現世の自我が、言った。

  (俺がやったことと、あいつらがやったことは――違う。)

  (どう違う。)

  (……理由が、ある。)

  (あいつらにも、理由がある。神の名という理由が。)

  (俺にもある――)

  (……それでも、許せない。)

  「シン。」

  セリナが来た。

  「……考えすぎている顔をしている。」

  「そうか。」

  「行く時間よ。」

  「……ああ。」

  シンは、目を開けた。

  「セリナ。」

  「なに。」

  「俺は――どこかで、線を引いている。だが、その線がどこにあるのか、自分でもわからなくなる時がある。」

  セリナは、少しの間だけ黙った。

  「……また、あなたは敵を大量に殺すかもしれない。」

  「そうだ。」

  「その時、また頭が痛くなるでしょ。」

  「おそらくな。」

  「それでも、行くのね。」

  「行くしかない。」

  セリナは、シンを見た。

  「……私も、今度もまた、敵を殺す。」

  その声は、静かだった。だが、その静けさの中に――覚悟があった。

  「生き延びるために。そしてあなたの背中を守るために。」

  シンは、セリナを見た。

  「……ありがとう。」

  「珍しい。シンが言うのは。……必要な相手には言うのよね。」

  「……ああ」

  セリナは、わずかに目を細めた。

  それから、先に歩き出した。

  ジェレズニーフラドへの入城は、夕暮れ前だった。

  ドワーフの首都は、想像より大きかった。

  高い城壁。

  深い堀。

  石造りの建物が密集している。

  街の中心に、巨大な城塞がそびえている。

  帝国の城塞とは違う、重厚で機能的な美しさがあった。

  城門が開いた。

  出迎えたのは――オルドリカだった。

  その顔に、安堵が浮かんだ。

  「シン、来てくれた。」

  「約束したからな。」

  シンは、短く答えた。

  「ベドリフ王に会わせてくれ。時間がない。」

  「父上は待っています。来て。」

  オルドリカは、一行を案内しながら――アキンの隣に、自然に並んだ。

  「やっぱり槍にしたんだ。」

  「ああ。」

  「似合っているよ。」

  アキンは、少しだけ視線を外した。

  「……ありがとう。」

  「うん。それから来てくれてありがとう。」

  「礼は言わなくていい。たいしたことしてないからな。」

  「でも――来てくれた。それがうれしい。ありがとう。」

  アキンは、それ以上言わなかった。

  エシュトが、その二人のやり取りを、少し離れた場所から見ていた。

  その目が、細くなった。

  ヒディはエシュトの様子を、ただ見ていた。

  ベドリフ王との謁見は、短かった。

  王の顔には、前回とは違う疲労があった。

  国内の惨状の報告が、この男にも届いている。

  「……来てくれたか。シン殿。」

  「ええ。」

  「あの時、卿の進言を容れなかった。その結果が――これだ。」

  「過去は変わりません。これからのことを話しましょう。」

  ベドリフは、わずかに目を細めた。

  「……怒らないのかね。」

  「怒る理由も時間もありません。」

  シンは、羊皮紙を広げた。

  「帝国北方軍は、現在どこまで来ていますか。」

  「城壁の北、三里のところまで来ている。」

  「北東軍は。」

  「工業地域の制圧が終われば、こちらへ向かうはずだ。」

  「南方軍は――リストホルトは撤退しました。当面、南からの脅威は消えた。」

  「……ハンス・カイテルが、死んだと聞いた。」

  「はい。」

  「お前が殺したか。」

  「ええ。」

  ベドリフは、しばらく黙っていた。

  「……礼を言うべきか、わからない。」

  「礼は要りません。何よりあれは私の仇です。次の話をしましょう。」

  シンは、地図を広げた。

  「籠城戦を行います。」

  籠城の設計は、その夜から始まった。

  シンは、アレシュとツティボルと、オルドリカと、アキンと、アスラを集めた。

  「城壁の外に、荷馬車の陣地を作る。」

  シンは、羊皮紙に線を引いた。

  「荷馬車を鎖で繋いで、移動式の防壁を作る。その内側から弩と長弓で攻撃する。敵が壁を突破しようとしたら、陣地を動かして対応する。」

  アレシュが、低い声で言った。

  「……荷馬車の防壁か。帝国の騎士団が相手でも、持つか。」

  「持たせる。荷馬車の前に、アキンのパイク兵を配置する。騎兵の突撃を、槍の壁で止める。止めた瞬間に、荷馬車の中から弩で射る。」

  「騎兵が崩れたら?」

  「その時は――アスラのビースト隊が追撃する。」

  アスラが、腕を組んだ。

  「面白いじゃん。動く要塞か。」

  「そうだ。敵は重装騎兵が主力だ。だが、この陣地はそれを上回る対応速度を持つ。」

  ツティボルが、豪快に頷いた。

  「面白い思い付きだな!騎兵の無力化か!やってみようじゃないか!」

  「ドワーフの重装歩兵は、城壁の守備に専念してもらう。城壁の上から投石機と長弓で敵を削る。」

  アレシュが、地図を見た。

  「……援軍は?」

  「ムパンギが、エトセニアから来る。到着まで――三日から五日。それまで、城を持たせる。」

  「持つと思うか。」

  「持たせる。」

  断言だった。

  アレシュは、シンを見た。

  その目が――前回の謁見の時とは、違っていた。

  「……わかった。指示に従う。」

  深夜、オルドリカが工房でアキンを見つけた。

  槍の手入れをしていた。

  黙々と、丁寧に。

  「眠れないの?」

  「考えることがある。」

  「シンみたいなこと言うね。」

  「……そうか。」

  オルドリカは、アキンの隣に座った。

  「今日の報告、聞いた。北東の工業地域で、何が起きたか。」

  「ああ。」

  「……職人仲間が何人も死んだ。一緒に鉄を叩いた人たちが。」

  アキンは、槍の手入れを止めた。

  「……すまない。」

  「なんで謝るの。アキンのせいじゃないよ。」

  「でも――俺たちがもっと早く来ていれば。」

  「それは、シンの責任でもない。」

  オルドリカは、小さく息を吐いた。

  「父が判断ミスをしたから。私たちの責任だ。私たちが、もっと早く決断していれば――」

  「……オルドリカ。」

  「なに。」

  「お前は――怖くないのか。」

  オルドリカは、少しだけ間を置いた。

  「怖いよ。すごく怖い。でも、それでも、ここにいる。職人は、逃げない。自分が作ったものを守る。」

  アキンは、その言葉を受け取った。

  「……俺も、守る。」

  「何を?」

  「お前たちを。シンを。みんなを。」

  オルドリカは、アキンを見た。

  その目が――少しだけ、柔らかくなった。

  「……うん。信じてる。」

  二人は、しばらく黙っていた。

  工房の炉が、静かに燃えていた。

  翌朝、帝国北方軍が動いた。

  城壁の北、三里の平原に、帝国軍の陣が広がった。

  旗が並ぶ。

  白地に金。

  その数――三千を超える。

  城壁の上から、シンはその陣を見た。

  (……本軍だ。)

  先週のリストホルトとは、明らかに規模が違う。

  練度が違う。

  陣の組み方が違う。

  そもそも漂っている空気が違った。

  (……あの中に、おそらくジッテンホルト将軍がいる。油断できない。)

  シンは、その直感を、静かに確認した。

  「シン。」

  セリナが、隣に来た。

  「……多いね。」

  「ああ。」

  「でも――あなたは、もう計算が終わっている顔をしている。」

  「そうだな。」

  「どれくらい持てそう?」

  「荷馬車の陣地が正常に機能すれば――三日。ムパンギが来るまで、持たせる。」

  「持たせる、じゃなくて持つ、って言ってほしい。」

  シンは、セリナを見た。

  「……持つ。」

  「……今度は自信がなさそう。」

  「正直に言った。」

  セリナは、少しだけ笑った。

  「それでいい。」

  帝国軍の先鋒が、動き始めた。

  重装騎兵。

  旗が揃っている。

  連携がある。

  練度が高い。

  だが――

  「陣地、前進。」

  シンの号令で、荷馬車の陣地が動いた。

  鎖で繋がれた荷馬車が、城壁の外に展開する。

  その内側に、弩兵が構える。

  前に、アキンのパイク兵が槍を揃えて立つ。

  帝国騎兵が、速度を上げた。

  蹄の音が、大地を揺らす。

  アキンは、槍を構えた。

  隣の兵士の肩が触れている。

  その向こうの兵士の肩も触れている。

  一本の壁だ。崩れない壁だ。

  (……俺が、壁になる。)

  「構え!」

  アキンの声が、平原に響いた。

  騎兵が、迫る。

  五十メートル。

  三十メートル。

  二十メートル。

  「受けろ!」

  槍の穂先が、騎兵の胸を捉えた。

  衝撃が、腕から肩へ伝わる。

  足が、地面に根を張る。

  隣の仲間の重みが、横から押さえてくれる。

  崩れない。

  一騎目が、止まった。

  二騎目が止まった。

  三騎目が転倒した。

  「射て!」

  荷馬車の内側から、弩の矢が一斉に放たれた。

  混乱した騎兵の中に、矢が降り注ぐ。

  その瞬間だった。

  右側のパイク列が、一瞬だけ押された。

  騎兵の一騎が、槍の壁の『綻び』に突っ込む。

  一瞬だけ、列が裂けた。

  「崩れるなァ!!」

  アキンの列が、半歩だけ乱れる。

  ほんの半歩。

  だが、その半歩は致命的になる。

  「――っ!」

  セリナの弓が止まる。

  一瞬、射線の優先順位が揺れた。

  (どこを先に潰す?)

  判断が、一拍だけ遅れる。

  その遅れを見た瞬間、シンが言った。

  「左、補正三列目。押し戻せ。」

  声は短い。

  次の瞬間、荷馬車陣地の一部がわずかに前へ動く。

  弩兵の射角がずれるのではなく、『位置そのもの』が修正される。

  「アスラ!」

  「おうさ!」

  側面から、ビースト隊が踊り出た。

  アスラの獣人部隊が、崩れかけた穴に滑り込んだ。

  騎兵の隙間を、シャムシールが閃く。

  ビースト隊は軽々と騎兵の隙間に入り、騎馬の足を斬る。

  落馬して転がった騎兵はただの的だ。

  ことごとくビースト隊の餌食となっていく。

  帝国騎兵の先鋒が、崩れ始めた。

  城壁の上で、セリナが弓を引いていた。

  小盾を左腕に、レイピアを腰に。

  弓を持つ手は、ぶれない。

  一矢。

  帝国軍の旗手が、落ちた。

  二矢。

  突撃を指示しようとした将校が、落ちた。

  三矢。

  後退を促そうとした連絡兵が、落ちた。

  指揮系統を、一本ずつ断っていく。

  これが、セリナの戦い方だった。

  派手さはない。

  目立たない。

  だが、確実に――敵の「頭」を削っていく。

  シンの隣で、戦場に溶けるように。

  第一波が、退いた。

  城壁の前に、帝国軍の死体が散らばっている。

  アキンは、槍を下げた。

  全身が、汗と泥まみれだった。

  だが、立っている。

  パイク兵の隊列も、崩れていない。

  ツティボルが、城壁の上から叫んだ。

  「やったぞ! 退けた!」

  歓声が上がった。

  だが――シンは、城壁の上から平原を見ていた。

  帝国軍の本陣は、動いていない。

  これは、探りだ。

  本当の攻撃は――まだこれからだ。

  「全員、持ち場を離れるな。次が来る。」

  シンの声が、歓声を静かに遮った。

  帝国本軍の陣幕は、平原の後方にあった。

  白い天幕。

  帝国の旗。

  整然と並ぶ護衛の騎士。

  その中に、二人の男がいた。

  一人は、玉座のような椅子に座っていた。

  豊かな白髪交じりの髪。

  五十代前半。

  装飾の多い鎧。

  フォルトフューラー・フォン・アルトブルク――帝国北方軍の総大将。

  南方軍総大将のリストホルトの兄だ。兄弟とは言え、腹違いで仲は悪い。

  もう一人は、地図の前に立っていた。

  四十代後半。

  引き締まった体躯。

  過剰な装飾を排した実用的な鎧。

  その目は――冷静で、鋭く、そして何かを考え続けている目だった。

  北方軍副将ジッテンホルト・フォン・フェアヴェルター。

  「フォルト、先鋒が退けられた。」

  ジッテンホルトは、地図を見たまま言った。

  「わかっている。」

  フォルトフューラーは、鷹揚に答えた。

  「探りの一手だ。城の守りをどの程度か確かめただけだ。」

  「問題は――守りの質だ。」

  「どういう意味だ。」

  「荷馬車の陣地。パイク兵の密集隊形。獣人兵の騎兵への迂回突撃戦術。弓による指揮官の選択的排除。――これは、素人の守りではない。」

  フォルトフューラーは、眉を上げた。

  「ドワーフの将軍が指揮しているのだろう。」

  「アレシュかツティボルなら、知っている。どちらも優秀だが――あの荷馬車の陣地は、彼らの発想ではない。」

  「では誰だ。」

  ジッテンホルトは、地図から目を上げた。

  「それをまず、確認したい。」

  天幕の外から、足音が近づいてきた。

  使者だった。

  「報告いたします。南方軍より連絡が入りました。リストホルト様が――敗走されました。」

  沈黙。

  「神官将ハンス・カイテル師も――戦死されました。神聖騎士団は生存者なし。」

  また沈黙。

  フォルトフューラーは、しばらく何も言わなかった。

  それから――低く、笑った。

  「それ見たことか。」

  ジッテンホルトは、表情を変えなかった。

  「それ見たことか、とは。」

  「あの愚弟が、と言っているんだ。大方、ハンスの言うことを聞いて、無策に突っ込んで――当然の結果だ。」

  「リストホルトの敗北より――ハンス師の戦死の方が、問題だ。」

  「なぜだ。神聖騎士団の幹部が一人減っただけではないか。」

  「ハンス師を倒せる、そして神聖騎士団を殲滅できる戦力が、亜人の側にいるということだ。」

  フォルトフューラーは、眉をひそめた。

  「パジナのドワーフが合流したか。」

  「それだけではない。すでに敵にゴブリンとビーストが確認されている。つまり亜人どもは既にオプスティアからエトセニア、ベラゼムリアまで連携しているということだ。」

  ジッテンホルトは、使者を見た。

  「続きを言え。」

  「はっ。追加の報告です。南方軍の生存者の証言によると――リストホルト様の軍を破った中に、人間の男が一人いたと。エルフの女とともに、亜人の軍を指揮していたと。」

  天幕の中の空気が、変わった。

  「人間が、亜人の軍を?しかも指揮だと?」

  「そうです。かなりの腕前で――神聖騎士団の精鋭を単独で倒したとも。」

  ジッテンホルトは、目を細めた。

  「特徴は。」

  「黒髪。若い。大剣使い。と。」

  沈黙。

  ジッテンホルトの目が――わずかに動いた。

  (……まさか。)

  「もう一つ聞く。その男は――どこから来た。」

  「エトセニアの方角から現れたと。」

  天幕の中が、静まり返った。

  ジッテンホルトは、しばらく地図を見ていた。

  グレンツベルク。

  かつての辺境伯領。

  粛清された家。

  その嫡子は――エトセニアで死んだはずだった。

  報告によれば、濁流に落ちて生きていないはずだった。

  (……まさか、……生きていたのか。)

  頭の中で、記憶が動いた。

  グレンツベルク辺境伯領を訪れた日。

  辺境伯の隣に、一人の少年が立っていた。

  黒髪だった。

  小柄で、まだ戦場に立つような年齢ではない。

  目つきは悪い。むしろ――何かを嚙み殺しているような、しぶとい目だった。

  (……あのときは、まだ十代の前半だったはずだ。)

  そこまで思いかけて、思考が一度途切れる。

  戦況の地図が、記憶を押しのける。

  (……もし、生きていたとしたら。)

  「……フォルトフューラー閣下。」

  「なんだ。改まって。」

  「進軍速度を上げてくれ。神聖騎士団に『浄化』作業を一時中断させる。」

  「なぜだ。今は着実に――」

  「今すぐ、王都を落とす必要がある。」

  フォルトフューラーは、ジッテンホルトを見た。

  「急ぐ理由を言え。ジット。」

  「……亜人の軍を統率できる人間が、王都の中にいる可能性がある。おそらくは今日の戦術も「そいつ」によるものである可能性が高い。時間を与えれば――収拾がつかなくなる。」

  「大げさではないか。亜人の軍など――」

  「リストホルトの三千が、二千足らずの兵に敗れた。しかも精鋭の神聖騎士団は全滅だ。」

  フォルトフューラーは、口を閉じた。

  「今日の第一波も――歯が立たずに退けられた。重装騎兵がだぞ。それもいとも容易く無力化された。」

  また沈黙。

  「……そこまで言うなら、神聖騎士団に話をしよう。だが――」

  フォルトフューラーは、鷹揚に手を振った。

  「あくまで頼む形でだ。命令はできない。」

  ジッテンホルトは、その答えに――何かを飲み込んだ。

  「……わかった。」

  ジッテンホルトは、天幕を出た。

  夜の平原に、風が吹いていた。

  遠くに、ジェレズナーフラドの城壁が見える。

  その上に、かすかな松明の光が並んでいる。

  (……グレンツベルクの息子。)

  ジッテンホルトは、その光を見ていた。

  (生きていたとすれば――あの男に、わが友に似ているのだろうか。)

  確証はない。

  そして――たとえそうだとしても、今の自分には、どうすることもできない。

  自分の宗派は教父派だ。

  忌々しいが家の立場がある。

  軍人としての任務がある。

  ――だが。

  (……せめて情報だけは、欲しい。)

  ジッテンホルトは、一人の部下を呼んだ。

  「城の中の人間について、できる限り調べろ。特に――亜人の軍を指揮している人間について。」

  「承知しました。」

  「ただし――神聖騎士団には悟られるな。」

  部下が、一瞬だけ表情を動かした。

  「……承知しました。」

  ジッテンホルトは、また平原の向こうの光を見た。

  風が、冷たかった。

  城壁の上で、シンは夜の平原を見ていた。

  帝国軍の陣が、遠くに広がっている。松明の光が、夜の闇に点々と並んでいる。

  (……あの陣に、強い指揮官がいる。)

  今日の第一波は、探りだった。

  だが、その探りの質が――普通ではなかった。

  騎兵の動き。

  退く判断の速さ。

  損耗を最小限に抑えた引き方。

  (……誰だ。もしジッテンホルトなら。)

  シンは、その問いを、今は保留した。

  「シン殿。」

  ムパンギからの使者だった。

  「援軍、二日後に到着します。」

  「わかった。」

  二日。

  その間に、もう二度か三度の攻撃が来る。

  (持たせる。)

  シンは、作戦図を広げた。

  次の手を、考え始めた。

  風が吹いた。

  夜の冷たい空気が、城壁の上を流れた。

  遠くの平原で、帝国軍の松明が揺れていた。

AdAd