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オプスティア首都ジェレズニーフラドの南方の小都市ミリアの駐屯地。
報告は、夜明けとともに届き始めた。
最初の報告は、オプスティア北東の工業地域から来た。
「北東工業地域、第五区画まで帝国軍に掌握されました。職人が拉致され、その他は――処刑されたとの情報が入りました。」
「処刑――だと?」
「……全員です。老人も、女も、子供も。」
その言葉が落ちた瞬間、天幕の空気が止まった。
ヒディが、一度だけ呼吸を忘れた。
次の瞬間、指先がわずかに震えた。
短剣の柄を握る手に、力が入りすぎる。
ギシ、と革が軋んだ音がした。
誰もそれに気づかないふりをした。
セリナは――すぐには動かなかった。
反応が、ひとつ遅れた。
いつもなら「次の報告」「戦況」「対応策」に切り替わる目が、その場で止まっていた。
(……全員。)
その単語だけが、少し遅れて意味を持った。
視線が、わずかに揺れる。
そして、戻ろうとして――戻りきらない。
「……全員――処刑、ね。」
声が出るまでに、ほんの僅かな間があった。
その言葉が、頭の中で別の意味に変わる。
――全部を、消すこと。
セリナは一度だけ目を伏せた。
伏せたまま、息を吸う。
吸ってから、初めて気づく。
自分が今、少しだけ『遅れている』ことに。
そして何事もなかったように、顔を上げた。
天幕の中に、沈黙が落ちた。
次の報告は、西の街道から来た。
「グレンツベルク州との国境地帯の村落、三つが焼かれました。住民の生存者は確認されていません。」
「メストナスヴァフの状況が把握できました。住民は多数が逃亡しましたが、それでもかなりの数が拘束され、殺害された模様です。市街は無人の状態で、……町の広場に死体が積みあがっています。」
また次の報告。
「北部の鉱山都市クラーロフ。抵抗した市民が全員処刑された模様。坑道に追い込まれ――」
「もういい!」
エトセニアから補充兵と戦略物資を運んできたムパンギが、低い声で遮った。
斥候が、口を閉じる。
天幕の中に集まった全員が、黙っていた。
誰も言葉を発さなかった。
だが、その沈黙の中にあるものは――同じ方向を向いていた。
アキンの手が、長槍の柄を強く握っていた。
その手が、白くなるほど。
「許せねえ!あいつら……俺たちを何だと思ってやがる!」
ヒディは、俯いていた。
その肩が、わずかに震えている。
アスラは、目を閉じていた。
静かな顔だった。
だが、その耳が――わずかに立っていた。
怒りを、全身で押さえている。
エシュトは、使者の言葉を記録しながら、唇を噛んでいた。
ムパンギは、ただ一度だけ、目を閉じた。
セリナは、シンを見ていた。
シンは――地図を見ていた。
動かない。
表情も変わらない。
ただ、炭を持つ指先が、一瞬だけ止まった。
(……神聖騎士団が、進軍より虐殺を優先している。)
それは、戦略的には――帝国軍の弱点だ。
制圧速度が落ちる。
補給線が分散する。
兵力が虐殺作業に割かれる。
だが。
頭の奥で、頭痛が始まった。
前世の記憶が、静かに押し寄せてくる。
歴史の中で、同じことが何度も起きた。
組織的な大量虐殺。
効率的な「処理」。
数字として記録された『奪われた命』。
シンは、その頭痛を――今回は、押しつぶさなかった。
ただ、受け取った。
――そこで、一拍止まる。
ほんの一瞬だけ、思考が空白になる。
天幕の音が遠くなる。
そして、その空白を埋めるように――現実が戻る。
シンは、静かに息を吐いた。
まだ、完全には戻りきっていない感覚があった。
それでも――視線だけは、地図に戻った。
「……進軍速度が明らかに落ちている。」
声は、すでにいつものものだった。
「神聖騎士団が弾圧に人員を割いているからだ。皮肉だが、これは、俺たちにとって時間的な猶予になる。」
「……戦略的な話をするのか。今。」
アキンの声は、抑えていた。
だが、その底に――怒りがあった。
「今だからこそ、する。」
シンは、アキンを見た。
「怒りは持っていい。憎しみも持っていい。だが――それを今、それをただ外に出すだけならば、次は俺たちが死ぬ。」
「わかってる。」
「怒りは、戦場で使え。今は地図を見ろ。戦略を考えろ。」
アキンは、唇を噛んだ。
それから、地図に視線を落とした。
「……ムパンギ。」
シンは、向き直った。
「エトセニアに戻って援軍の準備はできるか。ジェレズニーフラドへ向かう本隊と、ここに残る後衛に分ける。援軍を率いて後衛と合流したらジェレズニーフラドに駆け付けてほしい。おそらく帝国はエトセニアではしばらく動かない。賭けになるが、できるだけ多く連れてきてくれ。」
「できる。」
「この拠点と後衛の指揮は、アマディに任せる。不測の事態に備えてくれ。」
「承知しました。」
アマディが、静かに頷いた。
その顔には――無駄な感情がなかった。
歴戦の男が、感情を全て内側に押し込んだ顔だ。
「シン。」
ヒディが、顔を上げた。
目が赤かった。
「……あたし、行く。ジェレズニーフラドに。」
「わかっている。」
「絶対行く。」
「ああ、わかっている。」
ヒディは、それ以上言わなかった。
だが、その目の中に――昨日までとは違う何かが、静かに燃え始めていた。
出発の前に、シンは一人になった。
天幕の外。
夜明けの光の中、一人で立っていた。
使者たちが報告した内容が、頭の中で繰り返されている。
頭痛が、静かに続いている。
前世の記憶の中にある言葉が、重なった。
最終解決。
特別処置。
移送、収容、処理。
全部、同じだ。
言葉を変えて、同じことを繰り返している。
(……俺も、昨日――降伏した者を「処刑」、つまり処理した。)
その事実が、今、別の形で返ってきた。
シンは、目を閉じた。
(違う。)
現世の自我が、言った。
(俺がやったことと、あいつらがやったことは――違う。)
(どう違う。)
(……理由が、ある。)
(あいつらにも、理由がある。神の名という理由が。)
(俺にもある――)
(……それでも、許せない。)
「シン。」
セリナが来た。
「……考えすぎている顔をしている。」
「そうか。」
「行く時間よ。」
「……ああ。」
シンは、目を開けた。
「セリナ。」
「なに。」
「俺は――どこかで、線を引いている。だが、その線がどこにあるのか、自分でもわからなくなる時がある。」
セリナは、少しの間だけ黙った。
「……また、あなたは敵を大量に殺すかもしれない。」
「そうだ。」
「その時、また頭が痛くなるでしょ。」
「おそらくな。」
「それでも、行くのね。」
「行くしかない。」
セリナは、シンを見た。
「……私も、今度もまた、敵を殺す。」
その声は、静かだった。だが、その静けさの中に――覚悟があった。
「生き延びるために。そしてあなたの背中を守るために。」
シンは、セリナを見た。
「……ありがとう。」
「珍しい。シンが言うのは。……必要な相手には言うのよね。」
「……ああ」
セリナは、わずかに目を細めた。
それから、先に歩き出した。
ジェレズニーフラドへの入城は、夕暮れ前だった。
ドワーフの首都は、想像より大きかった。
高い城壁。
深い堀。
石造りの建物が密集している。
街の中心に、巨大な城塞がそびえている。
帝国の城塞とは違う、重厚で機能的な美しさがあった。
城門が開いた。
出迎えたのは――オルドリカだった。
その顔に、安堵が浮かんだ。
「シン、来てくれた。」
「約束したからな。」
シンは、短く答えた。
「ベドリフ王に会わせてくれ。時間がない。」
「父上は待っています。来て。」
オルドリカは、一行を案内しながら――アキンの隣に、自然に並んだ。
「やっぱり槍にしたんだ。」
「ああ。」
「似合っているよ。」
アキンは、少しだけ視線を外した。
「……ありがとう。」
「うん。それから来てくれてありがとう。」
「礼は言わなくていい。たいしたことしてないからな。」
「でも――来てくれた。それがうれしい。ありがとう。」
アキンは、それ以上言わなかった。
エシュトが、その二人のやり取りを、少し離れた場所から見ていた。
その目が、細くなった。
ヒディはエシュトの様子を、ただ見ていた。
ベドリフ王との謁見は、短かった。
王の顔には、前回とは違う疲労があった。
国内の惨状の報告が、この男にも届いている。
「……来てくれたか。シン殿。」
「ええ。」
「あの時、卿の進言を容れなかった。その結果が――これだ。」
「過去は変わりません。これからのことを話しましょう。」
ベドリフは、わずかに目を細めた。
「……怒らないのかね。」
「怒る理由も時間もありません。」
シンは、羊皮紙を広げた。
「帝国北方軍は、現在どこまで来ていますか。」
「城壁の北、三里のところまで来ている。」
「北東軍は。」
「工業地域の制圧が終われば、こちらへ向かうはずだ。」
「南方軍は――リストホルトは撤退しました。当面、南からの脅威は消えた。」
「……ハンス・カイテルが、死んだと聞いた。」
「はい。」
「お前が殺したか。」
「ええ。」
ベドリフは、しばらく黙っていた。
「……礼を言うべきか、わからない。」
「礼は要りません。何よりあれは私の仇です。次の話をしましょう。」
シンは、地図を広げた。
「籠城戦を行います。」
籠城の設計は、その夜から始まった。
シンは、アレシュとツティボルと、オルドリカと、アキンと、アスラを集めた。
「城壁の外に、荷馬車の陣地を作る。」
シンは、羊皮紙に線を引いた。
「荷馬車を鎖で繋いで、移動式の防壁を作る。その内側から弩と長弓で攻撃する。敵が壁を突破しようとしたら、陣地を動かして対応する。」
アレシュが、低い声で言った。
「……荷馬車の防壁か。帝国の騎士団が相手でも、持つか。」
「持たせる。荷馬車の前に、アキンのパイク兵を配置する。騎兵の突撃を、槍の壁で止める。止めた瞬間に、荷馬車の中から弩で射る。」
「騎兵が崩れたら?」
「その時は――アスラのビースト隊が追撃する。」
アスラが、腕を組んだ。
「面白いじゃん。動く要塞か。」
「そうだ。敵は重装騎兵が主力だ。だが、この陣地はそれを上回る対応速度を持つ。」
ツティボルが、豪快に頷いた。
「面白い思い付きだな!騎兵の無力化か!やってみようじゃないか!」
「ドワーフの重装歩兵は、城壁の守備に専念してもらう。城壁の上から投石機と長弓で敵を削る。」
アレシュが、地図を見た。
「……援軍は?」
「ムパンギが、エトセニアから来る。到着まで――三日から五日。それまで、城を持たせる。」
「持つと思うか。」
「持たせる。」
断言だった。
アレシュは、シンを見た。
その目が――前回の謁見の時とは、違っていた。
「……わかった。指示に従う。」
深夜、オルドリカが工房でアキンを見つけた。
槍の手入れをしていた。
黙々と、丁寧に。
「眠れないの?」
「考えることがある。」
「シンみたいなこと言うね。」
「……そうか。」
オルドリカは、アキンの隣に座った。
「今日の報告、聞いた。北東の工業地域で、何が起きたか。」
「ああ。」
「……職人仲間が何人も死んだ。一緒に鉄を叩いた人たちが。」
アキンは、槍の手入れを止めた。
「……すまない。」
「なんで謝るの。アキンのせいじゃないよ。」
「でも――俺たちがもっと早く来ていれば。」
「それは、シンの責任でもない。」
オルドリカは、小さく息を吐いた。
「父が判断ミスをしたから。私たちの責任だ。私たちが、もっと早く決断していれば――」
「……オルドリカ。」
「なに。」
「お前は――怖くないのか。」
オルドリカは、少しだけ間を置いた。
「怖いよ。すごく怖い。でも、それでも、ここにいる。職人は、逃げない。自分が作ったものを守る。」
アキンは、その言葉を受け取った。
「……俺も、守る。」
「何を?」
「お前たちを。シンを。みんなを。」
オルドリカは、アキンを見た。
その目が――少しだけ、柔らかくなった。
「……うん。信じてる。」
二人は、しばらく黙っていた。
工房の炉が、静かに燃えていた。
翌朝、帝国北方軍が動いた。
城壁の北、三里の平原に、帝国軍の陣が広がった。
旗が並ぶ。
白地に金。
その数――三千を超える。
城壁の上から、シンはその陣を見た。
(……本軍だ。)
先週のリストホルトとは、明らかに規模が違う。
練度が違う。
陣の組み方が違う。
そもそも漂っている空気が違った。
(……あの中に、おそらくジッテンホルト将軍がいる。油断できない。)
シンは、その直感を、静かに確認した。
「シン。」
セリナが、隣に来た。
「……多いね。」
「ああ。」
「でも――あなたは、もう計算が終わっている顔をしている。」
「そうだな。」
「どれくらい持てそう?」
「荷馬車の陣地が正常に機能すれば――三日。ムパンギが来るまで、持たせる。」
「持たせる、じゃなくて持つ、って言ってほしい。」
シンは、セリナを見た。
「……持つ。」
「……今度は自信がなさそう。」
「正直に言った。」
セリナは、少しだけ笑った。
「それでいい。」
帝国軍の先鋒が、動き始めた。
重装騎兵。
旗が揃っている。
連携がある。
練度が高い。
だが――
「陣地、前進。」
シンの号令で、荷馬車の陣地が動いた。
鎖で繋がれた荷馬車が、城壁の外に展開する。
その内側に、弩兵が構える。
前に、アキンのパイク兵が槍を揃えて立つ。
帝国騎兵が、速度を上げた。
蹄の音が、大地を揺らす。
アキンは、槍を構えた。
隣の兵士の肩が触れている。
その向こうの兵士の肩も触れている。
一本の壁だ。崩れない壁だ。
(……俺が、壁になる。)
「構え!」
アキンの声が、平原に響いた。
騎兵が、迫る。
五十メートル。
三十メートル。
二十メートル。
「受けろ!」
槍の穂先が、騎兵の胸を捉えた。
衝撃が、腕から肩へ伝わる。
足が、地面に根を張る。
隣の仲間の重みが、横から押さえてくれる。
崩れない。
一騎目が、止まった。
二騎目が止まった。
三騎目が転倒した。
「射て!」
荷馬車の内側から、弩の矢が一斉に放たれた。
混乱した騎兵の中に、矢が降り注ぐ。
その瞬間だった。
右側のパイク列が、一瞬だけ押された。
騎兵の一騎が、槍の壁の『綻び』に突っ込む。
一瞬だけ、列が裂けた。
「崩れるなァ!!」
アキンの列が、半歩だけ乱れる。
ほんの半歩。
だが、その半歩は致命的になる。
「――っ!」
セリナの弓が止まる。
一瞬、射線の優先順位が揺れた。
(どこを先に潰す?)
判断が、一拍だけ遅れる。
その遅れを見た瞬間、シンが言った。
「左、補正三列目。押し戻せ。」
声は短い。
次の瞬間、荷馬車陣地の一部がわずかに前へ動く。
弩兵の射角がずれるのではなく、『位置そのもの』が修正される。
「アスラ!」
「おうさ!」
側面から、ビースト隊が踊り出た。
アスラの獣人部隊が、崩れかけた穴に滑り込んだ。
騎兵の隙間を、シャムシールが閃く。
ビースト隊は軽々と騎兵の隙間に入り、騎馬の足を斬る。
落馬して転がった騎兵はただの的だ。
ことごとくビースト隊の餌食となっていく。
帝国騎兵の先鋒が、崩れ始めた。
城壁の上で、セリナが弓を引いていた。
小盾を左腕に、レイピアを腰に。
弓を持つ手は、ぶれない。
一矢。
帝国軍の旗手が、落ちた。
二矢。
突撃を指示しようとした将校が、落ちた。
三矢。
後退を促そうとした連絡兵が、落ちた。
指揮系統を、一本ずつ断っていく。
これが、セリナの戦い方だった。
派手さはない。
目立たない。
だが、確実に――敵の「頭」を削っていく。
シンの隣で、戦場に溶けるように。
第一波が、退いた。
城壁の前に、帝国軍の死体が散らばっている。
アキンは、槍を下げた。
全身が、汗と泥まみれだった。
だが、立っている。
パイク兵の隊列も、崩れていない。
ツティボルが、城壁の上から叫んだ。
「やったぞ! 退けた!」
歓声が上がった。
だが――シンは、城壁の上から平原を見ていた。
帝国軍の本陣は、動いていない。
これは、探りだ。
本当の攻撃は――まだこれからだ。
「全員、持ち場を離れるな。次が来る。」
シンの声が、歓声を静かに遮った。
帝国本軍の陣幕は、平原の後方にあった。
白い天幕。
帝国の旗。
整然と並ぶ護衛の騎士。
その中に、二人の男がいた。
一人は、玉座のような椅子に座っていた。
豊かな白髪交じりの髪。
五十代前半。
装飾の多い鎧。
フォルトフューラー・フォン・アルトブルク――帝国北方軍の総大将。
南方軍総大将のリストホルトの兄だ。兄弟とは言え、腹違いで仲は悪い。
もう一人は、地図の前に立っていた。
四十代後半。
引き締まった体躯。
過剰な装飾を排した実用的な鎧。
その目は――冷静で、鋭く、そして何かを考え続けている目だった。
北方軍副将ジッテンホルト・フォン・フェアヴェルター。
「フォルト、先鋒が退けられた。」
ジッテンホルトは、地図を見たまま言った。
「わかっている。」
フォルトフューラーは、鷹揚に答えた。
「探りの一手だ。城の守りをどの程度か確かめただけだ。」
「問題は――守りの質だ。」
「どういう意味だ。」
「荷馬車の陣地。パイク兵の密集隊形。獣人兵の騎兵への迂回突撃戦術。弓による指揮官の選択的排除。――これは、素人の守りではない。」
フォルトフューラーは、眉を上げた。
「ドワーフの将軍が指揮しているのだろう。」
「アレシュかツティボルなら、知っている。どちらも優秀だが――あの荷馬車の陣地は、彼らの発想ではない。」
「では誰だ。」
ジッテンホルトは、地図から目を上げた。
「それをまず、確認したい。」
天幕の外から、足音が近づいてきた。
使者だった。
「報告いたします。南方軍より連絡が入りました。リストホルト様が――敗走されました。」
沈黙。
「神官将ハンス・カイテル師も――戦死されました。神聖騎士団は生存者なし。」
また沈黙。
フォルトフューラーは、しばらく何も言わなかった。
それから――低く、笑った。
「それ見たことか。」
ジッテンホルトは、表情を変えなかった。
「それ見たことか、とは。」
「あの愚弟が、と言っているんだ。大方、ハンスの言うことを聞いて、無策に突っ込んで――当然の結果だ。」
「リストホルトの敗北より――ハンス師の戦死の方が、問題だ。」
「なぜだ。神聖騎士団の幹部が一人減っただけではないか。」
「ハンス師を倒せる、そして神聖騎士団を殲滅できる戦力が、亜人の側にいるということだ。」
フォルトフューラーは、眉をひそめた。
「パジナのドワーフが合流したか。」
「それだけではない。すでに敵にゴブリンとビーストが確認されている。つまり亜人どもは既にオプスティアからエトセニア、ベラゼムリアまで連携しているということだ。」
ジッテンホルトは、使者を見た。
「続きを言え。」
「はっ。追加の報告です。南方軍の生存者の証言によると――リストホルト様の軍を破った中に、人間の男が一人いたと。エルフの女とともに、亜人の軍を指揮していたと。」
天幕の中の空気が、変わった。
「人間が、亜人の軍を?しかも指揮だと?」
「そうです。かなりの腕前で――神聖騎士団の精鋭を単独で倒したとも。」
ジッテンホルトは、目を細めた。
「特徴は。」
「黒髪。若い。大剣使い。と。」
沈黙。
ジッテンホルトの目が――わずかに動いた。
(……まさか。)
「もう一つ聞く。その男は――どこから来た。」
「エトセニアの方角から現れたと。」
天幕の中が、静まり返った。
ジッテンホルトは、しばらく地図を見ていた。
グレンツベルク。
かつての辺境伯領。
粛清された家。
その嫡子は――エトセニアで死んだはずだった。
報告によれば、濁流に落ちて生きていないはずだった。
(……まさか、……生きていたのか。)
頭の中で、記憶が動いた。
グレンツベルク辺境伯領を訪れた日。
辺境伯の隣に、一人の少年が立っていた。
黒髪だった。
小柄で、まだ戦場に立つような年齢ではない。
目つきは悪い。むしろ――何かを嚙み殺しているような、しぶとい目だった。
(……あのときは、まだ十代の前半だったはずだ。)
そこまで思いかけて、思考が一度途切れる。
戦況の地図が、記憶を押しのける。
(……もし、生きていたとしたら。)
「……フォルトフューラー閣下。」
「なんだ。改まって。」
「進軍速度を上げてくれ。神聖騎士団に『浄化』作業を一時中断させる。」
「なぜだ。今は着実に――」
「今すぐ、王都を落とす必要がある。」
フォルトフューラーは、ジッテンホルトを見た。
「急ぐ理由を言え。ジット。」
「……亜人の軍を統率できる人間が、王都の中にいる可能性がある。おそらくは今日の戦術も「そいつ」によるものである可能性が高い。時間を与えれば――収拾がつかなくなる。」
「大げさではないか。亜人の軍など――」
「リストホルトの三千が、二千足らずの兵に敗れた。しかも精鋭の神聖騎士団は全滅だ。」
フォルトフューラーは、口を閉じた。
「今日の第一波も――歯が立たずに退けられた。重装騎兵がだぞ。それもいとも容易く無力化された。」
また沈黙。
「……そこまで言うなら、神聖騎士団に話をしよう。だが――」
フォルトフューラーは、鷹揚に手を振った。
「あくまで頼む形でだ。命令はできない。」
ジッテンホルトは、その答えに――何かを飲み込んだ。
「……わかった。」
ジッテンホルトは、天幕を出た。
夜の平原に、風が吹いていた。
遠くに、ジェレズナーフラドの城壁が見える。
その上に、かすかな松明の光が並んでいる。
(……グレンツベルクの息子。)
ジッテンホルトは、その光を見ていた。
(生きていたとすれば――あの男に、わが友に似ているのだろうか。)
確証はない。
そして――たとえそうだとしても、今の自分には、どうすることもできない。
自分の宗派は教父派だ。
忌々しいが家の立場がある。
軍人としての任務がある。
――だが。
(……せめて情報だけは、欲しい。)
ジッテンホルトは、一人の部下を呼んだ。
「城の中の人間について、できる限り調べろ。特に――亜人の軍を指揮している人間について。」
「承知しました。」
「ただし――神聖騎士団には悟られるな。」
部下が、一瞬だけ表情を動かした。
「……承知しました。」
ジッテンホルトは、また平原の向こうの光を見た。
風が、冷たかった。
城壁の上で、シンは夜の平原を見ていた。
帝国軍の陣が、遠くに広がっている。松明の光が、夜の闇に点々と並んでいる。
(……あの陣に、強い指揮官がいる。)
今日の第一波は、探りだった。
だが、その探りの質が――普通ではなかった。
騎兵の動き。
退く判断の速さ。
損耗を最小限に抑えた引き方。
(……誰だ。もしジッテンホルトなら。)
シンは、その問いを、今は保留した。
「シン殿。」
ムパンギからの使者だった。
「援軍、二日後に到着します。」
「わかった。」
二日。
その間に、もう二度か三度の攻撃が来る。
(持たせる。)
シンは、作戦図を広げた。
次の手を、考え始めた。
風が吹いた。
夜の冷たい空気が、城壁の上を流れた。
遠くの平原で、帝国軍の松明が揺れていた。
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