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なんでめんどくさい機械式時計を買うかってレトロですよ

  絹呉山市立体育センターにはプールがついていて、オフシーズンには近隣高校や大学の生徒・学生が、トレーニングはもちろん、勘を鈍らせないように訪れる。ぼくは水泳部ではないというか帰宅部なんだけど、どうせヒマだろうという理由から、友人の狼、戌神の練習に付き合わされている。

  それにしてもプールというのは毛皮の色がはっきり見えるもので、体毛をきっちり整えてから来る人も多い。戌神はスタイルもよくて銀髪がとてもかっこいいので絵になるんだけど、ぼくは肥満気味でかっこいい虎縞がびよんびよんに伸びきって、かなり残念なことになっている。

  それにしてもかなり疲れてきたな。ぼくは戌神にそろそろ帰らないかというと、だらしないなあと腕時計を見た。プールには時計があるものだけど、いつものクセだ。戌神は泳ぎながらタイムや時刻を見るため、ぼくはスマートウォッチだから普段ずっと付けっぱなしなのだ。当然、ふたりともウォータープルーフだ。ところが——

  「あっ 文字盤に水滴が……なんでだ? 防水なのに……」

  「ええ……それ高いの?」

  「わかんないけど親父のお古なんだ。お古でくれるくらいだから安物じゃないと思うけど……その前に、もらったモンを簡単に買い換えられないしな」

  もっともだ。戌神が挙げた腕には、普段水泳をするからそれほど高くない樹脂製のバンドに付け替えているものの、上品なデザインと文字盤の本体がついている。でもこういうのってどうしたらいいんだろうか。置いておいたら機械に染みこんでいったりしないんだろうか。お父さんがどういう意図でくれたのかは分からないけど、思い出のものが壊れたりするのはちょっとな。念のために見てもらったほうがいいのかな。

  「ね、うちの近くに時計屋さんなかったっけ。一応見てもらったらどうかな」

  「そうだな、何もなかったらそれでいいしな」

  絹呉山大学の周辺はそれなりに商業施設も多く賑わっているけど、少し住宅地のほうに離れると、その表情は様々になる。古い街並みを残した景観保護地域、最近のモダンな工法で建てられたのであろう住宅が軒を連ねる新興住宅地。そしてその間にあるのが、少し古めかしい通りだ。

  三十年、四十年前に建てたのだろう、少し意匠の古い住宅の前には白いプランターに葉牡丹やらが植わり、家と家との間にある商店は、コンクリートの壁に銀色のサッシがはめこまれ、店頭ではパックの果物や日用品雑貨が売られていたり、床屋のサインポールが置いてある。古き良き時代の街並み、って感じだろうか。

  その一角に、焼杉の壁にガラス窓がはめられ、金色の文字で「橙矢時計店」と書いている店がある。古いながらもお洒落な店構えだ。ぼくは同じく木製でガラスのはめられた引き戸をあけた。

  「はーい、いらっしゃい……ちょっと……まって」

  少し時を巻き戻したような店内では、黒いエプロンをしたレッサーパンダが奥の机で何やら作業しているようだ。頭にいかにも時計屋さんが修理するときにつけそうだなという片目につけるスコープのようなものをしている。ぼくらは何となく店内の時計を眺めた。

  壁には学校や洋室にかかっているようなシンプルなデザインから、デザイナーズクロックとでもいうのか、文字盤の数字がびよんびよんに伸びた変な時計、古くからのデザインの振り子時計もある。たぶん中身は新しい機械が入ってるんだろうけど。

  宝石店のようにガラスケースに入れられたのは腕時計だ。かなりの数が置かれている。衝撃に強いバンパーの付いた時計、シンプルなビジネスウォッチ、ちょっとお洒落な、そう、デートの時にでも着けそうな時計に、これは——懐中時計ってやつか、実物を見るのは初めてだな。

  棚には目覚まし時計がある。普通の電子式からベルの付いたデザインのものもあるけど、意地でも起こしてやるということなのか、明らかに走って逃げそうなタイヤがついた時計もある。あまり使いたくないな。

  そして壁にはグランドファーザーズクロックがある。見たことがないのに、何故か凄く懐かしい感じがする。そしてこの重厚なボディから、大きな音が店内に鳴り響くのだろう。

  「……っとごめんねー、今日はどういったご用件かな?」

  「ああ、泳いでたら時計に水が入っちゃって……」

  「うんうん、ちょっと借りるね」

  レッサーパンダは時計を裏返したりしてチェックすると、うーんと唸った。

  「これ、機械式だね。オーバーホールしないとだから、今日中には無理だね……」

  「そっスか……防水って聞いてたんスけど、なんで水が?」

  「古いとパッキンが劣化しちゃうんだよね。……それより、これもらい物でしょう? ちょうど大学生の子が生まれたときくらいのモデルなんだよ。水泳用には別のものを買って、これは大事に使ったほうがいいかもね」

  ……そうか、きっとあの時計は戌神が生まれたときにお父さんが記念にと買ったものなのだろう。ぼくが少し感動に浸っていると、レッサーパンダは引き続き戌神にアドバイスをした。

  「クォーツの時計は十年ほどでダメになるけど、機械式時計はメンテナンス次第で半永久的に持つんだ。大事にしてあげなよ」

  へえ、時計もなんか面白いもんだな。スマートウォッチが便利だから考えてなかったけど、ぼくもひとつ時計を持っておくのも悪くないな。

  「あ、そうそう。いまさらだけどぼくは店長の橙矢。よろしくね!」

  「えっ」

  「ああもう、若すぎて頼りにならないとか言うんでしょ!」

  橙矢さんはプンプンしている。だって橙矢さんは二十代中盤ってとこだ。びっくりしてつい声が出てしまったけど、この若さで店をやるのも凄いし、技術があるのも凄い。

  「ま、それはいいとして。その時計の代わりなら、ダイバーズウォッチとかどうかな? スマートウォッチの君は、そうだな、逆にあえて機械式時計とか!」

  「それ、なんなんですか?」

  「ほら、ギアがいっぱい回ってる時計みたことあるでしょ。あんなの!」

  なるほど、敢えてレトロで、かつ男の子が好きって感じの機械時計にするのか、それも面白そうだな。ぼくらは時計の話を弾ませながらドアを開ける。

  「俺は時計もうひとつ考えといたほうがいいッスね。また来ます」

  「はーい! ふたりとも、よろしくね!」

  橙矢さんは手を振って見送ってくれた。

  機械式時計ってどんなんだろう。確かにCMとか映画とかで見たことがあるし、わざと文字盤を透明にして、中のギアが見えるようになっている時計も見かけた気がする。ネットで検索すると五十万円のが出てきて落ち込んだけど、さらによく調べたら一万円のものもあるらしい。なにがそんなに違うんだろう。これも橙矢さんに訊いてみるか。

  ぼくと戌神は水泳の帰りに橙矢時計店に寄った。橙矢さんは嬉しそうに出迎えてくれた。

  「戌神くん、オーバーホール終わったよ。全部直してあるから防水だけじゃなく時間のズレもマシになってるはずだよ」

  「おお! 実はちょっと気になってたんス!」

  橙矢さんと戌神は普通の腕時計コーナーで、新しい時計を探すべく、アウトドアや耐衝撃や防水の時計をわいわいと見ている。ぼくは少し高級な時計のほうを見に行った。うーん、やっぱり高いよね。なんでこんなに高いんだろ……。

  「どう?」

  「高いです」

  あははと苦笑しながら橙矢さんは文字盤がスケルトンの時計を持って来た。ギアがかみ合って、隣の、その隣の、そのまた隣のギアと連動して規則正しく動いている。

  「か、かあっこいいー」

  「でしょ」

  橙矢さんはいたずらっ子のような目でぼくに語りかける。

  橙矢さんとしては、もし今の戌神のようにスポーツ用の時計が欲しいなら迷わずクォーツ式時計を勧めるとのことだ。頑丈でアラームなど多機能だし、時間のズレもほとんどない。寿命は十年程だけど、こういったものは十年もしたら買い換えるだろうから、って。

  確かに今戌神が楽しそうに手にはめてみているダイバーズウォッチはかっこいいけど、何年かしたらもっと高機能なものが出るだろうし、デザインも時代と共に進化していくだろうから、また新しいのが欲しくなるだろう。それなら比較的安いクォーツを買って、欲しくなったら買い換えれば良い。

  一方、機械式はぜんまいを巻くのに自動巻きを使ったり、最近では太陽光での自動巻きを使ったりすれば電池が切れて止まるということがない。それにデザインも大人っぽいというか、シンプルで飽きの来ないものが多い。派手さはないけど、どの時代にも持って行けそうなデザインだ。

  でも問題はデメリットだ。橙矢さんは誤魔化すようにあははと苦笑して欠点を挙げた。比較的高い、時間のズレが大きい、機能はシンプル、衝撃に弱い、定期的なオーバーホールでお金がかかる。なんだ、さらにお金がかかるんじゃないか。だったらクォーツのほうがよくないかなあ。渋い顔をしていると、橙矢さんはそれを見透かすように、別に時計をひとつにこだわる必要はないから、例えば今のスマートウォッチと場面によって使い分ければいいじゃない、と言った。確かに。

  うーん、どうかなあ。あのメカの格好良さには惹かれるけど、高いお金を出してまでわざわざ不便なものを買うのはなあ。ぼくとしては時計はやっぱり使ってナンボだ。機能的に劣るのなら、無理して買わないでも……。そういえば、気になっていた値段の違いはなんだろう。すると橙矢さんは機械式時計の棚を見て、いくつかの時計を指さした。

  値段が高いものは内部が精巧にできていて、パーツの数も多いそうだ。ネームバリューも関わってくるし、何より材質が違う。昔の人がいい時計にこだわったのは、資産価値という側面もあったらしい。あとは付加機能。カレンダーとかそういうやつだ。アナログ機械だけで実現するのだから、デジタルと違ってかなり機構が複雑になるそうなのだ。

  ぼくの場合はいい材質にこだわらなくてもいい。付加機能はメンテナンス費用も上がるからないほうがいい。シンプルで、それでいて安物ではないくらいのものでいいってことだ。

  うーん、ぼくが死ぬまで動き続ける機械。ロマンではあるなあ。それに、あのギアがかみ合って動くのを見るのは、なんとも言えない気持ちよさがある。

  「機械式時計の機械——ムーブメントっていうんだけど、あれを見るのが好きで、裏蓋を開けてじっと見る人がいるくらいなんだよ。そのせいで鼻息でゼンマイが錆びちゃったりすることもあるくらい」

  確かにその魅力はすごくある。でもぼくの貯金と相談なんだよなあ……。アルバイト代から雑費を引くと……なかなか厳しいものがある。

  「ま、今じゃなくてもいいけどさ。記念日なんかの候補に覚えといて欲しいんだ。記念日の二十年後、三十年後、五十年後……一緒にいられるのは機械式だよ。ずっと使い続けてる愛着もある。クォーツにはできないことだからね」

  戌神は時計を決めたらしい。かっこいいダイバーズウォッチだ。腕にはめて橙矢さんとキャッキャ喜んでいる。いいなあ、ぼくも格好いいのがほしいなあ……。ぼくはなんとなく、ケースに目を落とした。五十万円……高いな。手巻きはちょっと……。こっちは文字盤が小さすぎるな。文字盤側からギアが見えるのがいいな。ん……?

  ぼくは橙矢さんを呼んでガラスを開けてもらった。なぜか目に止まった時計を手に取ってもらう。ケースに入っているから当たり前だけど、ぜんまいが巻かれていないから、ギアが止まっている。デザインはシルバーの金属で、重厚感も大人っぽさもあるけど、適度にモダンさも取り入れられていておじさんくさくもない。ぼくの毛皮に合うだろうか。買うつもりで手に取ったわけじゃないのに、なぜか引き寄せられたぼくは、ニヤニヤする橙矢さんに訊いた。

  「えと……これバンド付け替えられないんですか? シルバーのボディは格好いいけど、ぼくの毛皮内側が白いから、茶色とかの濃い色のほうが合うかなって……」

  「もちろん、時計はバンドを替えて遊んだりするものだよ。ほら。……それ、気に入ったの?」

  「……」

  一目惚れってやつだろうか、一期一会ってやつだろうか。きっと、ぼくにしっくりくるんだ。問題は、値段がしっくり来ないことだ。

  「よく見つけたなって思うくらいきみにぴったりだよ。どうする?」

  「……その、お金が」

  「いひ。売れちゃうかも知れないよ?」

  「ひどい!」

  「ウソウソ。買うなら売約済みにしておくよ?」

  とりあえず一晩だけ考えるからとっといてくださいといって店を後にした。ああ、もうちょっと安かったらきっと買ってただろうな。あといくら足りなかったんだっけな。ちょっと大学生には高い買い物だよな。……だからこそ価値があるのかもな。

  スマートウォッチはいろんな通知をしてくれるけど、機械式時計は完全に趣味の装飾品だ。でもつけている人はほとんどいないからファッショナブルだ。愛着も湧くし、なによりあのギアはかっこいい。

  今日も橙矢時計店に来た。別にあの時計が買えるわけじゃないし、来たって買うものがあるわけじゃない。クォーツの時計に興味があるわけでもない。

  「なるほど。やっぱりあの時計、欲しいんだね。……差し支えなければ、あといくら足りないの?」

  「うーん、五万円くらいなんですけど、それだと持ってるお金全部使っちゃうから……貯金も残すことを考えると、十万円くらい貯めないといけないかなあ」

  「なんだ、すぐじゃない! 売約済みにしとく?」

  するとカランカランと扉が開く。おじさんというほどでもない年齢のしろくまが入ってくる。カジュアルだけどシャツを着て、サスペンダーとベストで、ベストのポケットからはなにやら金色の鎖が出ていて、なんだかお洒落な感じだ。

  「やあ橙矢くん。最近時間がよくズレるんだけど、なんとかならないかな」

  「そろそろオーバーホールする?」

  「そうだね、お願いするよ」

  しろくまさんは懐中時計を出すと、橙矢さんに渡した。機械式時計コーナーにいるぼくを見ると、意外そうな顔をした。

  「おや? 若いのに機械式時計かい? 珍しいね」

  「うん、その——社のモデル——が気に入ってるらしいんだけど」

  「へえ……うん、きみにぴったりだなあ。なんで買わないの?」

  「お金がなくて……」

  するとしろくまさんはぼくにアドバイスした。例えばクォーツ時計を百年使うとすると、十年に一個で十万円かかる。一方、十万円の機械式時計なら、メンテナンスさえ欠かさなければひとつで百年持つ。

  でもオーバーホールする費用がかかると言おうとしたところで話を遮られ、五年で二万円ならそこまででもないし、なによりそのメンテナンス費用であのかっこいい機械式時計が手に入るなら、所有欲も満たされるだろう? と言われた。ぐうの音も出ない。

  「……ぼく、買おうかな」

  「悪くない選択だと思うよ。いろんなものに目移りする学生時代にも関わらず、これがそんなに魅力的に見えたのなら、きっときみにぴったりなんだろうね」

  しろくまさんの言うことはもっともだ。ゲームや旅行や新しいパソコンが欲しい時期なのに、なぜかこの時計がこんなに気になるのだから、これはぼくとつながる何かがあるのだろう。お金があったらその場で買っていたかもしれない。橙矢さんの言うこともそうだ。愛着が湧くものをずっと使い続けるのも悪くないかも知れない。

  「そうだ、せっかくだし向かいの喫茶店で話をしない? 橙矢くん、勧誘してくるから彼が買うことになったらぼくにもバックしてね」

  「ハイハイ、千円まけてあげるよ」

  しろくまさんはぼくをひっぱりだすと、すぐ向かいの喫茶店に入った。しろくまさんはコーヒーを、ぼくは紅茶を注文した。

  「ああ、ぼくは白水(はくすい)。きみは?」

  「嶋野(しまの)ですが……」

  白水さんはさっそく左腕の機械式時計を見せびらかした。ギアがきれいに動いている。ぼくがいいなああとため息をつくと、白水さんはふっふっふと笑ってみせる。

  「機械式時計は『なくてもいい』けど『あると楽しい』趣味ってやつなんだ。レトロカーなんかと同じだよ。興味ない人から見たら、乗り心地や燃費がよくないだけでしょう」

  確かに。性能だけを求めるなら、最新のものを買った方がいいに決まってる。

  「でも、もったいなくないですか? 今安いのを買って、稼ぐようになってからもっと高いのを買ったら、今のが無駄になっちゃうんじゃ……」

  「無駄にはならないよ。だって半永久的に動くんだもん、時々着けてみればいいんだよ。きみが学生のときに頑張って買った思い出が残るじゃない」

  なるほど、そういう考え方もあるのか。クォーツなら買い換えたら古いものはお払い箱かも知れないけど、確かに機械式ならいつまでも使えるもんな。おじいさんになってから学生時代の時計を着けて、昔を懐かしんだり、なんてさ。ぼくが歩いてきた軌跡のようなものが、実際に形となって残るのだ。

  「……ぼく、やっぱりあれ買おうかな」

  「ぼくはそれがいいと思う」

  ぼくらが橙矢時計店に戻ると、橙矢さんはニコニコしながらどうだったと聞いてきた。手に売約済みの表示を持ってるから、もうぼくが買うことを見抜いていたのだろう。

  「うん、きみはもう買うつもりだと思ってたよ。白水さんは後押ししただけ」

  「はい。じゃあ……いつ買えるかな。十二月くらいにはなんとか……」

  「なんかの記念日とかじゃなくていいの? 多少融通きかせるけど……」

  「うーん、初めての時計を買った日が記念日、っていうのもよくないですか?」

  「なるほどね!」

  橙矢さんはケースを開けると、売約済みの表示を置いてくれた。

  十二月二十日。給料が入ってぼくはホクホクだ。といってもこれから使うんだけど。折角なので、自分へのプレゼントという意味も兼ねて、買う日をクリスマスにすることにした。ああ、楽しみだなあ。でもこんなに楽しみってことは、やっぱり買ってよかったってことなんだろうなあ、まだ買ってないけど。

  十二月二十五日、土曜日。クリスマス商戦は大抵二十四日で終わりだし、戌神も友達とのバカ騒ぎは昨日終わったから付いていくよ、と一緒に来てくれた。白水さんも橙矢さんと申し合わせて来てくれたらしい。

  「これを、ください」

  橙矢さんは大げさに丁寧な所作でケースを開け、ついにぼくの新しい時計を取り出した。ちなみに裏蓋に刻印ができるそうだ。せっかくだから記念になる文言がいいな。ぼくは少し考えた後、橙矢さんに文言を伝えた。

  「『2021.12.25 嶋野周(あまね) 橙矢時計店』」

  橙矢さんはウチの名前なんて入れちゃっていいの? と驚いたけど、今ここには戌神、橙矢さん、白水さん、そしてぼくがいる。本当は全員の名前を入れたかったけど。少なくともこれで、今橙矢時計店にみんながいたという思い出ができたんだ。そんなことを伝えると、白水さんはいい思い出になるねと喜んでくれた。

  橙矢さんが嬉しそうに時計を化粧箱に入れようとすると、白水さんはおっとまった、とストップをかけた。そしてバンドコーナーに行って、好きなものを選びなよ、と驚くべき提案をした。だってこのへんのバンド、一、二万円はするんじゃ……。

  「そんなにいい時計に数千円のバンドをつけるワケにはいかないからね。きみの毛皮によく映える色は、銀色じゃなくて茶色とか暖色系じゃないかな、って橙矢くんに聞いたんだけど。お仲間ができた記念だ、買ってあげるよ」

  普段なら断るところだけど、これは買わないと帰してくれないヤツだ。まあ刻印の「橙矢時計店」にはこういう思い出も含まれるのかな、ふふ。ぼくは遠慮無く茶色いベルトを選ぶと、橙矢さんは付け替えてくれた。

  橙矢さんの説明を聞く。自動巻きだから、暫く歩いてたら動くようになる。小窓はパワーリザーブインジケーターといって、あと何時間動くか分かるらしい。この時計は五十時間動くらしいから、一日くらいは着けなくても大丈夫だそうだ。生活防水だから手を洗うくらいは問題ないけど、水泳はダメだし、そもそも革バンドだからNG。ズレは日に十秒くらいだから、月に一度ほど合わせるといいとのこと。

  「また分からないことがあったら来てね。あ、オーバーホールは三年くらいかな?」

  オーバーホールはようするに開けて全体的なメンテナンスをしてくれる分解清掃のことそうだ。戌神のときは水が入っていたから部品の洗浄が必要だったのと、あとはパッキンや減ったギアの交換、潤滑油の追加などを行ったらしい。白水さんのはいわゆる定期メンテナンスだ。

  ああ、かっこいい時計がぼくの左腕に輝いている。ニヤニヤしていると戌神に苦笑された。

  橙矢さんはまた見るだけでも良いから来てねといって、笑顔で見送ってくれた。

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