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六年目のオーバーホール/緊急メンテナンス

  「ぐふふふふ。かっこいいなあ」

  橙矢時計店を出ると、白水さんと戌神とぼくは向かいの喫茶店で休憩した。終始顔を綻ばせたというかニヤけっぱなしのぼくを見て戌神は苦笑していた。白水さんは気持ちは分かるよといった感じでニヤニヤしていた。

  「白水さん、かっこいいバンドありがとうございます。似合いますか?」

  「うん、やっぱり毛皮の色と合ってるね。凄く良いよ」

  「ありがとうございます。ぐふふふふ」

  茶色のバンドはぼくの腕に映えて、文字盤にはギアが芸術的な配置と動きをして所有欲や男の子のメカ好き欲求をくすぐる。

  戌神はお父さんの時計があるけど、ぼくのギアが見える時計を見てうらやましそうにしている。そりゃ戌神は今まで機械式だと知らずに使ってたから、愛着はあっても、男の子心をくすぐるメカ部分を見たことはなかったんだもんなあ。ちなみにやけに電池が持つなあとは時々思ってたけど、すぐに忘れてしまってたらしい。まあ、電池のことなんてそんなもんだよな。

  ギアが見える時計に興味津々の戌神に、白水さんはきみも買ったらと勧める。戌神はお父さんの時計があるからと言うけど、でもお父さんの時計を外して新しいものに買い換えても、お父さんの時計に刻まれた思い出は形あるまま残るのだ。それに橙矢さんがぼくに言ったように、シーンによって時計を付け替えるのもアリだ。

  「そういえば、白水さんは何年使ってるんですか?」

  「まだ六年くらいしか使ってないさ」

  「……じゃあ、懐中時計は?」

  「あれは……同じくらいだね」

  白水さんはなにか考え込んだようだけど、すぐにいつもの笑顔に戻った。ということは、二十歳頃に腕時計と懐中時計を両方買ったってこと? それだとかなり思い切って買ったハズだ。

  「さあ、これからが楽しくなってくるよ。時間を見るだけじゃなくて、ギアが動くところを見たり、何年も何十年も共に過ごす相棒として愛着が湧いてきたり」

  「そう言われると俺もマジで欲しくなるな……」

  時計には思い出も刻まれる。十九歳の戌神がたまたま時計を濡らしてしまって、十九歳のぼくと一緒に橙矢時計店を訪れ、聞いたところでは二十四歳の橙矢さんと修理や機械時計の話をして、たまたま時計の修理に来た二十六歳の白水さんと会ったわけだ。来年はひとつずつ、十年後は十歳ずつ歳を重ねていくけど、たしかにぼくらが出会った思い出は残るのだ。そういう意味では確かに相棒なのかも知れない。

  「どうした周、まだ見とれてるのか?」

  「え、うん……戌神もいつか買うといいと思ってさ」

  急にそんなことを言うぼくに首をかしげる戌神と違って、きっとぼくと同じことを考えていたのであろう白水さんはほほえんだ。

  *

  時計を買って三年後、時計は元気に動いている。ぼくは水泳のときや自宅、睡眠時にはスマートウォッチを着けているけど、外では機械式時計を着けている。

  戌神は研究室が忙しくなるまでの二年間貯金していたらしく、ぼくの持っているシルバーの時計と同じような、メタリックで文字盤からギアが覗き、パワーリザーブインジケーターがついている機械時計を買った。ただ金属の部分がブラックに近く、戌神の毛皮にきれいに映える。

  「あ、いらっしゃい。今日はバンド見てく? 時計見てく? 話でもする?」

  「いえ、そろそろオーバーホールしたりするのかな、って」

  「三〜五年ごとにするものだけど、やっちゃう? 時間がズレやすくなったり、衝撃を与えたりとかよくない覚えがあるならしたほうがいいけど」

  カランカラン。白水さんが入ってきた。ぼくがオーバーホールしようか悩んでいるというと、白水さんもそうだという。そういえばぼくが時計を買ったのと白水さんがオーバーホールしたの、ほぼ同じタイミングだったっけ。

  「今ちょうど三年だからどうするか、だってさ」

  「ああ、でもわかるよ。大事な相棒だったらきちんとしておきたいもんね」

  「そ、そう、そんな感じです! だから一度見てもらおうかなって」

  了解、と微笑んで、橙矢さんはぼくと白水さんの時計を受け取った。ぼくは白水さんと久しぶりに向かいの喫茶店に行った。

  橙矢時計店にはバンドを見に行ったり、何もなくても橙矢さんと話しに行ったりするので、白水さんとも時々会う。なのでものすごく久しぶりというわけでもないけど、今日はふたりともオーバーホールというわけで、なんとなく節目だなあという空気になっていた。

  ぼくは四年生までの三年間時計を着けてきて、これまでは便利ツール——スマートウォッチだったから実際そうだったんだけど——という位置づけだった腕時計に、なんとなく愛着が湧くようになってきた。今も時計を着けてないとなんだか落ちつかなくて、スマートウォッチを持ってこればよかった。

  「ははは、そうでしょう。……しかし時計は長年使えばそれだけ愛着が湧くからいいけど、体のほうは歳なんて取るもんじゃないね。最近なんか疲れやすくなっちゃって」

  「三十でしたっけ?」

  「二十九だよ!」

  こういう話は三十代にとってのほうがセンシティブだからこのくらいにしておこう。

  「そういえば確か白水さんの時計は九年目ですよね。もうすぐ十年かあ」

  「……そうだね、もうそんなになるのか」

  白水さんはやけに懐かしそうにコーヒーカップを持ち上げた。

  「あ、そうだ。折角だし『時計の博物館』行きませんか?」

  「ああ、面白そうだけど億劫で行ってなかったな」

  時計の博物館は日時計など昔の時計から最新の時計までが展示されていた。初期の腕時計は機械式だけど今とほとんど変わらないねとか、ソーラーはやっぱり便利だねとか、なんだかんだ言ってぼくの時計が一番だねとか、親バカっぷりをふたりで遺憾なく発揮していた。いわゆるクロックが多くてウォッチは少なめだったけど、どれも時代や思い出を刻んできたというのは同じだ。今ぼくの目の前にある古ぼけた時計が、百年前からみんなを見守ってきたというのは感慨深いものがある。

  「あっ、この懐中時計、白水さんのに似てますね」

  「えっ ……ああ、そうだね。でも刻まれている思い出は違うよ」

  「?」

  白水さんはすぐに笑顔に戻ったけど、彼にしてはネガティブな口ぶりと表情が気になった。さすがに鈍感なぼくにも分かる。白水さんの懐中時計には、なにか心に傷跡を残すような思い出があるのだろう。それが忘れたくないのか、忘れてはいけないのか、捨てられないのか、捨てたくないのか、それは分からないけど。少なくとも、彼は九年間、なんらかのただ嬉しいだけではないのであろう記憶を抱え続けているのだ。

  その日一日時計を見たあと、ごはんを食べに行ったりして、見た時計の話をしたけど、白水さんは懐中時計の話は一度もしなかった。

  *

  三年後。つまり時計を買ってから六年後。ぼくは大学のそばに就職したからいままでどおり橙矢さんと駄弁りに来ている。戌神は都会の方にいってしまったけど、オーバーホールは橙矢さんに頼みに来るし、ちょっとした修理とか、バンドが欲しいとかちょっとした理由を見つけてちょくちょく来てくれる。

  「やあ嶋野くん。ごはんにでも行かない?」

  「いいですね」

  「橙矢くんもたまには来られそうかい?」

  「ぼくは営業中なんで、終わってからでいいかな」

  時計の博物館からこっち、ぼくらは普通に友達として遊ぶようになった。タイミングが合えば戌神と四人で飲みに行くこともある。

  今日は戌神・ぼく・白水さんがそろってオーバーホールということで、橙矢さんは嬉しい悲鳴だ。戌神は連休の都合があるし、白水さんはふたつしなければならないから、順番は戌神・ぼく・白水さんの順番ということになる。

  「周は六年、俺のは三年、そして俺らは二十五歳か……」

  「ピチピチじゃない! ぼくなんて三十だよ!」

  「……ぼくのこと忘れてる? 三十二歳だよ……ちなみに時計は十二年」

  白水さんは小さくため息をついた。ぼくはそのとき心配そうな顔で白水さんを見つめる橙矢さんの一瞬の表情を見逃さなかった。……やっぱあるんだね、何か。しかも、橙矢さんが知っていること。

  少し心配事が残ってしまったけど、ともあれ少し酒が入ってしまえば気にならないものだ。ぼくらは久々に四人揃ったってことで、大いに盛り上がった。

  ぼくはひとりで橙矢時計店の前にいた。

  懐中時計の話をしている白水さんは何かこう——壁があるというか、あと一歩寄せ付けない感じがする。余計なことかも知れないし、怒られるかも知れないけど、ぼくはそれを知っておきたかった。

  「いらっしゃい。今日はどうする?」

  「…………その、白水さんの懐中時計ってなんなのかって」

  「!」

  「考えて見たら、腕時計があるのに懐中時計って不思議とは思ってたんです。それで懐中時計の話をするとき、白水さんは寂しそうだし、橙矢さんは心配してるし」

  橙矢さんは思い悩んだあと、ぼくから目を逸らした。

  「ひとつ言えることは、これは白水さんの問題だということだよ」

  「……そうですね」

  「白水さんが全てを了解の上で、きみに言えることがあるなら話すよ」

  「……はい」

  「……今の話は忘れてね」

  今日は帰りますといってドアに向かうと、タイミング悪く白水さんが鼻歌を歌いながら来店した。オーバーホールした時計を取りに来たのだろう。ぼくと橙矢さんは揃って深刻な顔をしていたのだろうか、どうしたんだいと訊かれた。何事もなかったように橙矢さんは腕時計を白水さんに渡した。

  「うんうん。……それで、懐中時計は?」

  「……メッセージがあるんだ。……懐中時計の中に」

  白水さんの顔が固くなる。しばらく気まずい空気が流れたけど、それを破ったのは橙矢さんだった。

  「嶋野くん、今日はごめん、また別の日に————」

  「いや、いいよ。彼にも迷惑かけたんだ。それに隠すことでもないし」

  橙矢さんは様々な道具が載った机の上から、おそらく裏蓋を白水さんに渡した。ぼくが刻印した外側ではなく、内側になにか刻印されているのが見えた。

  『仕方ないことなんだ。こいつは捨てて次へ進んでくれ』

  白水さんはその場にへたり込んで涙を流した。あのライトな感じの白水さんがこんなことになるなんて、よっぽど心に刺さることなのだろう。ぼくには意味が分からないけど、誰かとの別れということはなんとなく分かる。

  「……橙矢くんは知ってたのか?」

  「その話を請けたのはじいちゃんで、じいちゃんが引退するときにぼくが話を受け継いでた。二回目のオーバーホールまでは黙ってろって涅田(くりた)さんに言われてた。六年間経っても引きずるトンチキなら中身を見せてやってくれ、ってさ」

  「どうして教えてくれなかったんだ……いや、聞いたところで忘れられるわけがないよ……」

  白水さんは裏蓋を橙矢さんに返すと、明日までに直しておいてくれといって出口へ向かった。そしてぼくのほうを向かずに言った。

  「ああ、聞いてくれといいながら無様なところを見せてごめん。でも今日はちょっと無理そうだね。来週、同じ時間に来てくれないか」

  そういって返事も聞かずに店を出ていった。

  白水さんは隠すことではないと言っていたけど、やはり来週本人から直接聞くべきだと思った。ぼくはやりきれないまま、橙矢さんにじゃあ……といって帰っていった。

  翌週。ぼくと橙矢さんは固い空気の中で白水さんを待った。白水さんは意外にもスッキリした顔で現れて、やあと軽く挨拶をした。

  「心配かけてごめんね。さあ、先週の続きを話そうか」

  白水さん、橙矢さんはそれぞれ自分の知っていることを話し始めた。

  あの懐中時計は元々白水さんのものではなかった。彼の六年前の恋人、涅田さんのものだったのだが、彼はがんで入院していたのだ。はじめは大したことがなかったのだけど、ステージは進行していった。それで橙矢さんのおじいさんを病室に呼んだのだ。

  『あの女々しいバカのことだから、俺が死んだらその時計をいつまでも持ってると思うんだよな。だから、そうだな、二回オーバーホールしてもまだウジウジしてたら、裏蓋を見せてやってくれ。……なんて、しばらくは持ってて欲しいって思う俺も大概女々しいけどな。忘れられたくはないんだ。ただ俺のせいでアイツのこの先が潰れるのはイヤなのさ』

  メッセージを彫ったあと、涅田さんは亡くなった。

  「アイツの言う通り、ぼくは捨てられなかったんだ。刻み込まれる記憶というのは必ずしもいいことばかりじゃないんだな」

  「……ごめんね、メッセージのこと、黙ってて」

  「いいんだ。きみはアイツの言うことを守ってくれただけなんだから。それよりメッセージを知っていながら黙っているなんて辛かったろう。ごめんよ」

  白水さんはじゃあこれを捨てに行こうか、と言った。

  捨てるのは正解なのだろうか。ぼくは、自分より大人で、自分より大人の恋愛をして、悲しい別れを経験した人に偉そうに言うのは憚られた、けど。

  「時計には記憶が刻まれるんですよね?」

  「……そうだね」

  「捨てなくていい気がする。今は辛い思い出しか見られなくても、いつか涅田さんの思い出が籠もった時計として大事になる気がする。……あ、す、すいません。生意気なこと言って……」

  「なるほど、そうかもね。アイツが捨てろって言ったのはぼくがいつまでも女々しいからだ。持っていても先に進めるのなら、いい思い出として引き出しにでもしまっておけばいいのかも知れない」

  それから白水さんは懐中時計を持ち歩かなくなった。引き出しに大事にしまってあるのだそうだ。

  *

  三年後。ぼくは二十八歳になった。ぼくの時計は九年。もうすぐ十年にもなるんだな。クォーツだとそろそろ動かなくなってもおかしくないころだけど、オーバーホールの際にチェックしてもらっても、まったく問題なく動いているということだ。ぼくは機械式時計を止めたことはないから、九年間、オーバーホール中以外はずっとムーブメントが動き続けているということになる。すごいなあ。

  橙矢時計店も相変わらずだ。休日が違うから昼間から遊ぶことはできないけど、一緒に飲みに行ったりはよくする。考えてみたら橙矢さん——最近は楓(かえで)さんと呼んでる——とは九年の付き合いになるんだな。ぼくも敬語をやめたし、周くんと呼ばれている。時計を買ったのも時計店、いろんな話をしたのも時計店、深刻な話も時計店。だから時計を見るとこの人とのことをいろいろ思い出す。三十三歳になって腰が痛いと嘆いていたけど。

  そして白水さんは三十五歳。時計はなんと十五年だ。同じ時計を十五年間も使い続けているというのもすごいし、この年月に耐える時計も凄い。……それから、まあぼくが見た感じだけど、涅田さんのことは吹っ切れたんじゃないかな? というのは最近は以前みたいに影のある表情を見せないから。本人は三十五歳か、すっかり行き遅れちゃったねえなんて冗談めかして言うけど、どうなのかな。涅田さんのことをいつまでも愛している白水さん、をまるごと愛してくれる人が見つかるといいけど。

  橙矢時計店。

  そういえば自分や白水さんの時計のことばかり考えていたけど、楓さんも腕時計をしている。それにしても、少しノスタルジーを感じるデザインに見える。機械時計は飽きのこないデザインが多いけど、古さを感じるということはクォーツだったりするんだろうか。でもぼくが覚えている限り、彼はずっと同じ時計をしている気がする。

  「楓さんの時計って何年前のものなの?」

  「ん? 五十年以上前かな。ぼくが生まれるよりずっと前だから……」

  「なるほど、受け継がれたものなんだね」

  「そうそう、じいちゃんが使ってた時計でね。孫が時計屋になったから、ってくれたんだ。ぼくが最初に修理した時計でもあるんだよ」

  ふうん。でもいいな、そういうの。ぼくはぼくの時計は死ぬまで動く、と思っていたけど、修理し続ければ自分が死んでからも残るんだよな。考えてみたら白水さんの懐中時計もそうだ。その時計が出来てからの時間を、あとの人にバトンタッチして、連綿と続いていくというのは壮大だなあ。

  ——誰かぼくの記憶を引き継いでくれる人はいるだろうか。二十八だしそろそろ結婚適齢期なんだけどなあ。……そんなこと言ったら楓さんは三十三だし白水さんは三十五だよな。ふたりとも飄々としてるけど、誰かとくっつく気は無いのだろうか。

  「……楓さんは、誰か好きな人いないの?」

  「ぶフッ! な、何いきなり」

  「あ、いや、次に引き継ぐ人って誰なのかなって」

  「あー。そういう人でもいればいいけどね。時計屋なんてやってると出会いがないんだよね。最近は夜間の合コンパーティとかあるらしいし、考えてみようかな」

  「白水さんとかどう?」

  「ないよッ! あの人は『おにいちゃん』なの!」

  白水さんと楓さんは元々ご近所さんらしい。小さい頃こそ久ちゃん楓ちゃんと呼び合っていたそうだけど、高校生くらいの多感な時期に白水さん橙矢くんと呼ぶようになって、今に至るのだとか。

  「きみもそこそこ適齢期じゃない。戌神くんとかどうなの?」

  「いやその遠いしぼくはデブだし引く手あまただろうし」

  「わかんないよ? 戌神くん案外デブ専だったりして」

  昔からデブだったから色恋沙汰は無縁のものだと思っていたし、あんまりそういうの考えたことがなかったなあ。その結果、今もまだ童貞だし。

  白水さんと橙矢時計店前の喫茶店に来た。ダイレクトに誰かと付き合わないんですかと訊くのもアレなので、このあいだ楓さんとこんな話がありましたよ、程度の話を伝えた。

  「なるほど、それで嶋野くんはぼくの恋愛状況を知りたいワケだ」

  一瞬でバレた。

  「うーん、涅田のことを引きずってるワケじゃないんだけど、豪快なクセに優しいヤツだったからなあ。同じような人はいないだろうけど、同じくらい面白い、いい人がいたら行くよ、って感じかな」

  積極的に探してはいない、って感じなのかな。涅田さんが心配するからはやく次の人を見つけてほしいという思いもあるけどなあ。

  「嶋野くんはどうなの? 戌神くんとか?」

  「えええ、やっぱりそっちに行くんですか? アイツイケメンだし引く手あまただしぼくはデブだし」

  「ははは。好きになるってそういうとこじゃないんじゃないかな」

  ううん、釈然としない。そもそも戌神は友達って感じだし、実際そうなんだよなあ。その、例えば二人で向かい合ってレストランで食事するとか、観覧車に乗るとか、ほほほホテルに裸で二人きりとかいうのは想像しにくい。まあ、ぼくのデート観が間違ってるのかも知れないけど。

  「……って感じです」

  「ははは。じゃあ他にいるの? ホテルで二人っきりになれる相手」

  「えと、いませんけど」

  「じゃあさ、別にそっち方面へいかなくてもいいんだよ。例えば、無言で同じ部屋にいても気まずくないような関係、とか」

  橙矢時計店。いらっしゃいといってチラリとこっちを見た楓さんは、ふたたび作業机の上に目線を戻した。ぼくは今日は時計を見るよというと、楓さんはムーブメントをいじくりながら、小さくうんと言った。

  ええと、今十七時四十分か。あと二十分もしたら閉店だから、机を片付けて、閉店作業をして——そうだな、三十分後には飲みに行けるだろう。時計は——見た感じ、クォーツのバンパーつきのやつが売れたのか、色が違う。おっ、機械式が売れてる。ローズゴールドのボディだったから女性かも知れない。……おっ、バンドが一新されてるなあ。そういえば白水さんに買ってもらったバンドももうすぐ十年だ。そろそろ買いかえても、または買い増してもいいかもしれないな。オレンジでちょっとカジュアルに、なんてのもいいかも知れない。虎縞だから赤も悪くないな。シンプルなボディとのコントラストがいいかも知れない。楓さんはムーブメントにふたをかぶせると、一瞥もせずに、しかしさも見ていたかのように言う。

  「バンド替える? 悪くないと思うけど」

  「ね。今買うから替えてもらっていい?」

  「ほーい」

  ぼくは楓さんにバンドの付け替え方だけ教えてもらった。新品になったわけじゃないけど、なんか気分が一新される。

  楓さんはさっさと閉店処理を済ませると、じゃ、いこっかと店内の電気を消して店を出た。今日はやきとり屋だ。

  やきとり屋の引き戸をガラガラと開けると、ヒグマ店長のらっしゃいという太い声が響く。左側にカウンター、右側に座敷席がある。今日は空いてるみたいなので、ぼくらは座敷席のほうに座った。

  「ふーん。まあ白水さんは恋愛に積極的ではなさそうだよね。周くんは戌神くんのこと考えたの?」

  「いや、だからあいつは……」

  「冗談。君たちは学生の頃からも切れないいい友達、って感じだもんね」

  そういいながら楓さんはチューハイを半分飲んだ。

  「そういえば楓さんはどうなの? 白水さんのくだりでうやむやになったけど」

  「えー、ぼく? うーん、誰かとホテルに行くとか想像できないなあ」

  「あ、わかる。なんかそういうのじゃないっていうか」

  「どっちかっていうとインドアでふたりの時間を楽しみたいよね」

  「そうそう。無理しないっていうか自然体っていうか」

  「でしょでしょー」

  ぼくらが女子会みたいなテンションで会話していると、カウンター側から大きな影が迫る。

  「あれあれぇ? デートかな? 大将、こっちに移動してもいい?」

  「はいよー 飲み過ぎんなよー!」

  機械式腕時計を着けたしろくまは強引に楓さんの横に座る。マズい。これはぼくが根掘り葉掘り訊かれる陣形だ。

  「君たち、息ぴったりだねえ。恋愛観もそうだし、呼び方、話し方もそうだし」

  「え、それはぼくら付き合いの長い友達ですから……」

  「えええ、じゃあどうしてぼくは『久継くん、元気?』とか言ってくれないの?」

  「それは……年の差といいますか……」

  「ひどいなあ! 橙矢くんとぼく二歳しか変わらないのに!」

  「ああ、そういえば……」

  ってそりゃそうだ。楓さんとは毎週会うし、週によっては一、二回飲みに行くし、こうやって女子会みたいな会話もする。白水さんとも会うけど、数週間に一回だし、たまに土日になにかしたりするくらいだ。それもしらふで。

  「まあ……分かってるんだ。橙矢時計店のそばを通るときに嶋野くんがいると、橙矢くんは黙って時計を直してるんだよね。修理しながら無理して気の利いた話をしようとする様子もないし、縞野くんもそれを気にしてない。いいコンビだよ、きみたち」

  楓さんのほうを見ると目が合い、彼はすぐに恥ずかしそうに目を逸らす。気持ちは分かるけど楓さんもう三十二歳じゃなかったっけ。童貞のぼくと話が合ったくらいだから、おそらく恋愛には疎いのだろう。

  そのあとぼくらは白水さんを間にはさんで会話して、直接は話さなかった。楓さんってこんなにウブだったの?

  飲み会が終わり、じゃあまたねと急ぎ駆け足で帰る楓さんを見て、白水さんは笑いながらつぶやいた。

  「ははは、意外と強敵だなあ。さて、ここからどう詰めていくかが勝負だよ」

  ぼくは実感のないまま、自分が楓さんを好きなのだろうか、ただ居心地の良いだけの友人なのだろうかと考えていた。

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