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遊牧物語

  日が暮れかかると、ぼくは馬に乗って羊七百頭とヤギ三百頭を見回った。遠くの方に少し群れから離れているやつらがいるな。家畜たちも長年移動していると慣れたもので、勝手にどこかへ行ってしまうことはあまりないのだけど、たくさんいればこういうこともあるから見回りが必要だ。ぼくはのんきに草を食べているはぐれ羊を群れの方に追い立てると、羊は何事もなかったように草を食べ始めた。現金なヤツだなあと苦笑しつつ、ぼくは家の方向へ馬を走らせた。虎縞の家族が見えてくる。

  「父さん、終わったけどどう?」

  「ああ、順調だ。明日移動できる」

  小さな集落の中、民家以外の集会所など今使っていない建物はすべて分解されている。明日は遊牧の日だ。朝になればすべての家をバラして、資材を持って、羊とヤギと馬を引き連れて冬営地へ向かう。

  冬営地とは遊牧民が越冬するとき、あちこちから家族が集まってひとつのコロニーを作る場所といえる。ぼくらは年中あちこちを動き回っていると思われがちだけど、実はこういったポイントを拠点としているのだ。

  そして春になるとまた遊牧し、動物たちに草を食べさせ、草が食べ尽くされる前に移動して、それを繰り返して、また冬営地へ戻り……こんなふうにぼくらは一年を過ごしているのだ。

  「ふぃー、今日は肉が食えるぞぉ」

  「酒も飲み放題だなあ、ハハハ」

  長い旅路の末に冬営地に着くと、疲れた体や痛む足のことを忘れるように安堵のため息をつき、みんな顔がほころんだ。何家族もが集まる冬営地では、取引や物々交換などといったことも行われる。遊牧中に女性が編んだ貴重な布で作られるきれいな着物を買ったり、移動するときに壊れた資材をもらったり。もっとも、父と叔父さんは肉と酒が目的のようだけど。そんなことする前に今晩寝る家を建てないと……と言いかけるやいなや、お前ちょっと建ててこい、終わるまでに肉が無くなってないといいな、ガハハと酒をあおった。ぼくは兄ちゃんと顔を見合わせるとため息をついた。

  ウチの家族の力仕事担当はぼく、兄、父、叔父だけど、後ろのふたりが飲んだくれて使い物にならないので、仕方なくぼくらはふたりで家を建てる。遊牧民といったって別に太い木の柱を立てたりしているわけではなく、今どき現代の文明社会から持って来た軽くて丈夫なパイプとか建てやすい部品が多いし、何より慣れているからサクサク建てていけるけど、肉と酒は確実になくなっているだろう。

  結局ぼくらがへとへとになるころにはおっさん共はへべれけにできあがっていた。久々に落ちついて大量の肉料理も食べられてご満悦なのだろうけど、ぼくと兄はカラになった肉の鍋を見つめながら馬乳酒を飲んでチーズをかじった。くそう。

  そんなことをしている場合ではない。適当に腹がくちると、ぼくはすぐ戻るよといって馬を一匹連れだした。どこへ行くんだいと母が不安そうにするのも無理はない、小さい頃一人で馬で飛び出して迷子になったことがあるのだから。

  「バーヴに会いに行くんだ!」

  そうかい、とホッと顔を落ちつかせた母は、森へ入っちゃダメだよといって家へ戻っていくのだった。

  ぼくは馬を駆ると川沿いを駆け上り、大木の根元へ向かった。

  「ゼル氏族のバーヴ! 会いに来たぞ! どこだ!」

  ぼくがはやる気持ちを抑えられずに叫ぶと、幾何学的な模様をした綺麗な民族衣装を着た白い影が動いた。

  「ゾリク氏族のバル! 遅いよ! 今日はもう帰ろうかと思ったよ!」

  人懐っこそうなしろくまはえへと笑う。バーヴの家、ゼル氏族はしろくまの家系だ。一方ぼくのゾリク氏族は虎の家系だ。ぼくは馬を下りるとバーヴの馬のとなりにつないだ。そして再会を祝して抱きしめ合った。

  「……やっと一年、だね」

  ぼくらは冬営地に来る一年に一度、冬営地にいる間しか会えないのだ。バーヴとぼくはギリギリ記憶がある程度の小さい頃にこの冬営地で出会った。気が合った。楽しかった。ずっと一緒に遊べたらいいのにねなんて言っていた。

  でもゼル氏族とゾリク氏族は別の家なのだから、冬営地を出たらバラバラに散っていくことになる。後ろ髪を引かれる思いでバーヴに手を振って冬営地を出た。あのときのバーヴの悲しそうな顔を今でも忘れることができない。

  「バルとひとつになりたいな……」

  「ぼくも……」

  これはぼくたちが完膚なきまでにビッチというわけではない。そもそもぼくも、そしてバーヴも確実に童貞だ。ぼくらは交わったらイコール結婚、という文化だからだ。ぼくらには若い男子という労働力の問題もあれば、女子の将来こどもを産んでくれることへの期待なんかもあるから家の存続が第一だ。ぼくたちにとって氏族というものは何より重いのだ。まったく恋愛がないわけではないけど、あくまで男子が多い家から選びなさいとか、そういうふうに限定された中での“自由”恋愛だ。

  「……バーヴと交われないなら、他の誰かと結婚しようと思えないよ」

  「! だ、ダメだよ! ゾリク家の大事な男子……だもの」

  「なら、バーヴはぼくがダメだったら他の誰かと交わってしまうのか?」

  「う……やだよ。でも、家のこと、どうすればいいってのさ」

  うちの家族はぼく兄弟、父母、叔父夫婦、祖父母。兄弟はぼく、兄、姉二人。バーヴも似たようなものだけど、兄弟がバーヴと姉三人だ。バーヴがもしうちに嫁げばゼル家からは貴重な若い男の労働力が失われる。ぼくがバーヴのうちに嫁げばゾリク家の若い男は兄だけになる。元々男子も女子も潤沢にいる大家族ならともかく、ぼくらのような平均的な家庭では、こどもを産まない上に一方の家から労働力を奪ってしまう同性の婚姻は認められない人も多いのだ。

  そんなことを深刻に考えていると、バーヴが歩み寄ってくる。ぼくを抱き寄せ、着物の隙間から手を入れて股間をさすってくる。すがるような目で。だめだ、だめだ。射精して染み出てバーヴの手についてしまったら婚姻が成立してしまう。たとえ誰も見ていなかったとしても後ろめたさは残るだろう。ぼくは咄嗟にバーヴの手を振り払ったけど、すぐ愛おしくなってバーヴの胸に額を付けて泣いた。

  「ねえ……何年かして弟や甥が増えても一人だったら……結婚しようよ」

  ぼくは答えなかった。願望だけで確実性のない、自分の力だけではどうにもならないことに迂闊にうんと言える程軽い問題じゃないからだ。ぼくはまた明日ここで、といって馬に乗った。バーヴは終始悲しそうに立ち尽くしていたような気がしたけど、ぼくにはそちらを向くことができなかった。

  「バーヴと喧嘩でもしたの?」

  「違うよ。……もっと一緒にいられたらいいのに」

  ああ。なんとかして家族にこの気持ちが伝えられたらいいのに。祝福して貰えたらいいのに。でもぼくがバーヴと一緒になったなら、祝福どころかすべてを台無しにしたと罵倒されるだろう。生きていくことは何より重いのだ。……バーヴを失って空虚に生きながらえるよりも?

  それからぼくは毎日バーヴと会って話した。敢えてというか重い話や家族の話、ぼくたちの話は一切しなかった。羊がだいぶ増えてねとか、ヤクがなかなか元気だよとか、最近の家の部品は軽くて丈夫でいいねとか、やっぱりたまには肉を食べたいよねとか、本当にどうでもいい話ばっかりだったけど、ただいっしょにいるだけでよかった。会話はバーヴに寄り添う口実に過ぎなかった。

  ぼくらははじめて出会った頃みたいにこどもじゃない……ぼくが十五でバーヴが十六だ。股間もたわわに実り、お互いに性的魅力を感じ、セックスしたいと性欲を滾らせ、それでも理性でそれをとどめた。ああ、バーヴはぼくを思ってオナニーしているのだろうか。どんな格好で射精しているのだろうか。射精するときの顔はどんなのだろうか。ぼくとどんなセックスがしたいんだろうか。昔は一緒にいるだけで幸せだったけど、ぼくらは結婚適齢期だし、家のこともそろそろ決めなくてはいけない。いよいよぼくたちだけの問題ではないのだ。口には出さなかったけど、バーヴはそれを察して背中をさすってくれた。

  「もう少ししたらお別れでしょう。次の満月にウユルドの丘に来てくれたら、ぼくの本当の気持ちを言うよ」

  「ば、バーヴ、ダメだよ……ぼくたちだけでどうこうって問題じゃ……」

  「バル、決めなくちゃいけないんだよ。安穏とした空虚を選ぶのか、忌み嫌われながら満たされるのか……でなきゃ枯れていくだけなんだ」

  ……。

  冬営地を出る前の最後の日に何か大事なものを交換しようよ、宝物の交換ってやつ? とこれまでの重い話を振りきるようにバーヴは言った。バーヴにあげられるようなものが何かあっただろうか。ぼくは探しておくよといって馬に乗った。

  冬営地最後の日。明日はバーヴ達に先立ってぼくたちゾリク氏族がここを発つから、ぼくらがお互いの声を聞き、体温を感じ、においを嗅ぎ、そして愛情を育めるのもこれが最後だ。ぼくたちはぴったり寄り添って、においを嗅ぎ合って、体の形を確かめ、尻を撫で回し、興奮が過ぎない程度にお互いの性器に手の甲を当てたりした。勃起した陰茎を見せ合った。剛直したそれはお互いに種付けしたい、娶りたいと本能と気持ちの両方が切に望んでいることを示していた。

  家という重いものがのしかかってさえいなければ、理性はホワイトアウトして容易に行為に及んでいたに違いないけど、現実にはその一回をしてしまえば全てがのしかかったり、家から追い出されたりするかもと考えると、理性は強烈に働いた。お互いの陰茎の先端から透明な液がのぞきビクビクと波打ち始める頃にはそろそろやめておこうかと性器をしまった。

  「これ、あげるよ」

  バーヴがくれたのは水牛の角で作った首飾りだった。彼が小さい頃、今の衣装になるまでずっと身につけていたものらしい。ぼくはさっそく首飾りをつけるとバーヴは喜んだ。彼がずっと付けていたというだけで何か——神聖とかはよくわからないけど、何か感じるものがある。さて、次はぼくの番か。

  ぼくは腰のベルトを外すと、はめていた茶色の鞘を抜き取ってバーヴに渡した。ぼくが昔から付けていた短剣——というには少し短い、まあちょっと長いナイフだ。バーヴはこんなの貰えないよというけど、これは小さい頃からずっと付けているから今も付けていただけで、もうなまくらになってしまって草くらいしか切れない。お守りのようなものだから交換するには丁度いいんだよというと、そっか、といって自分の腰に差した。

  「……これで、一年バーヴを感じて生きていくよ」

  「うん……でも」

  「満月のウユルドの丘、忘れないでね……」

  ぼくはそれには返事できなかった。きっとそこで言われるのはバーヴを諦めろということか、家を捨てて自分と逃げての二択に違いないのだ。きっとギリギリまで——いや、決断できないだろう。ただもし行かないと決めたとしたら、もうバーヴには一年会えないのだ。満月までの間だって、そもそも毎日冬営地の大木の下にくるまでの短い間ですら、はやる気持ちを抑えきれないのに。

  ぼくらは自然と力強く抱きしめては、体中をくまなく触り、嗅ぎ、性器をこすりつけあった。ああ、うああ、あの、少し幼い顔をしたバーヴの剛直した陰茎を擦り合わせて、バーヴに気持ち良く射精させて、ぼくもそうして、種を混ぜ合わせて、いつまでも重なってキスして、性器の周りもすべて嗅いで、全部、全部ぼくのものにしたい。きっとバーヴもそうなんだろう。ぼくたちは日が暮れるまで離さないでいた。

  「バル、早く発つ準備を……おや、なにそれは」

  「ん、うん。バーヴと交換した。もう一年間会えないからって」

  「……そう。仲がいいね。引き離すようで心苦しいよ」

  母は家の中のことへ戻っていた。そうか、端から見てもぼくとバーヴはそれほどに仲が良いように見えるんだろうな。そりゃ春を待つための冬営地で毎日を楽しみにして毎日出かけて毎日“親友”と会っているのはぼくくらいのものだろうからな。引き離すようで心苦しいと言ってくれたのは少し嬉しい。バーヴをそれほどまでに大切に思っていることを知ってくれたのは少しだけ救われた。でも十分じゃない。激しく愛し合っていることを知って、そして認めてほしい。

  家をバラすと、ぼくたちは資材を馬にくくりつけ冬営地を発とうとした。——バーヴはそこで、普通の友達にまた会おうねとでもいうような感じに振る舞っていた。ぼくは感極まって抱きしめそうになったけど、一瞬バーヴから来ちゃダメという厳しい視線が飛んだ気がした。ぼくは顔を歪めながらただ別れを告げる友人として、バーヴに手を振った。

  満月の夜はバーヴが発つ日の翌日だ。遊牧民族は年間四、五百キロも移動するから、ぼくが発った日からあまり遠い日にしてしまうと、お互いがどこへ行ってしまったか分からなくなるからだろう。幸いウユルドの丘は冬営地からも近いから、発ってすぐなら落ち合うのは難しくない。だからこの日にしたのだろう。

  ぼくは迷っていた。今何を置いても欲しいものはバーヴだ。そのためなら全てを捨ててもいい——本当に? 家を捨てるなんて遊牧民にとっては宇宙空間に放り出されるようなものだ。ぼくがバーヴを拒絶すればすべてうまくいく……違う、そういうことじゃないんだ。そうであることを知ってさえなお、彼が欲しくて愛しくてたまらないんだ。ウユルドの丘に行って確かめたい? 行きたい。もう一度バーヴを目の前にして、ぼくがどちらを取るのか——考えたい。

  ぼくは両親のテントの中をのぞいて、眠れないから少し馬で走ってくるよなどと適当な理由を付けて母に伝え、かわいそうだけど夢の中にいる馬をたたき起こして飛び乗った。

  ウユルドの丘はそう何キロも離れている場所じゃない。丘なわけだから遠くからでも大体の場所は分かる。帰るのも問題ない。今日は満月だし、方角は覚えている。しばらく走って高台を駆け上がると丘の上に出た。妖精のように柔らかな雰囲気を漂わせたしろくまは月明かりの下で微笑んでいた。

  いつものようにバーヴの馬の隣に馬をつなぐと、待ちきれなかったというようにバーヴは抱きついてきた。そしてぼくを押し倒すと、まるで情事の前——まあぼくは情事になったことはないけど——かのようにぼくの体をまさぐり、自分の体を押しつけて激しく抱き合った。激しすぎて思わずあっ、んっと声が出てしまう。このまま体が擦れ合えば一直線に射精に向かってしまう——と思ったところで、ぼくの上でバーヴは体を起こした。

  「これはバルの都合を何も考えないぼくのことだけを考えた結果なんだけど」

  「しよう?」

  そうだと思った。家のことは——って、こんなこと言う以上バーヴはとっくに覚悟を決めていたのだろう。家を捨てることになってでも、毛虫のように疎ましがられるようになったとしても、ぼくと生きていく道を選んでくれたんだ。ぼくはそれに答えたい。けど、このしがらみをどうすればいいのだろう。

  例え一緒になっても、元の家族と今生の別れというわけではない。今野営地でバーヴと毎年会っているように、近くにいるときは会うことができる。

  けど、そこじゃないんだ。バーヴが嫁げばゼル家の男子はいなくなるからゼル家は滅びることになる。ぼくが嫁いだ場合、ぼくの家は男手が減るのは痛いだろうけどそれでも兄がいる。自分の家のことなら追い出されたら済む。でも人の家をぼくの都合で滅ぼすことなんてできない。

  「バルのせいじゃないの。だってぼくは他の誰とも結婚しないよ。どのみちウチは滅ぶか婿を取るしかないの」

  ぼくは本当にそれでいいのか、それが最善なのか、ぼくのせいじゃないのか、誰かのせいなのか、ぐるぐるとアタマの中を巡らせていた。すると

  「じゃこうしよう。一.ぼくを取るなら……結婚を受け入れるなら、キス」

  何言ってんだ。ちなみにキスは性行為ではないから即婚姻となるわけではないけどいい顔はされない。性行為に及ぶような場にも至っていないのに、軽々しくそんなことをするなといった意味合いだ。で、二は?

  「……二.諦めるなら……ぼくの告白を拒絶するなら……ぼくを捨てるなら…………いっそ、いっそもうなかったことにしよう。今のことも、今まであったことも、初めて会ったことも、全部。これ以上近くにいたって辛いだけだもの。冬営地で会っても知らないフリをするよ」

  ぼくは呆然とした。今この場で家を捨てるか、バーヴを捨てるかを決断しなきゃいけないのか。そんなのどちらも捨てられない。そう、どちらも同様に重いから悩むんだ。どちらかが軽ければとうに選んでいる。選べない。

  「いつかは選ばなきゃいけないんだよ? それは明日かも知れない」

  だからすぐにでも答えを出せというのだろうか。残酷すぎる。いや、これは無慈悲だけどいつかやってくる必要な選択なのかもしれない。目を逸らしてきたつもりはないけど、ぐだぐだとはぐらかしてきて、結局今まで決めることはできなかった。バーヴに会っていないときだって、いくらでも考えることはできたはずなのに。

  バーヴは結婚を急いでいるように見えるけど、実際その通りだろう。だってぼくたちは一年に一回しか会えないのだから。結婚適齢期でお互い一番一緒にいたい時期なのに、ぼくが今は保留でとはぐらかしたら、また一年決断は伸びてしまうのだから。……一年待たせたのち、家をとると伝えたらバーヴはまともではいられないだろう。だからバーヴの本音はどちらをとるか訊いているんじゃない。今。今、ぼくに娶れと迫っているのだろう。

  「じゅーう きゅーう はーち なーな……」

  選べない。

  「……ろーく ごー よーん」

  選べない。

  「…………さーーん、にーー」

  選べない。

  「……………………いーーーーち、……………………いーち……」

  選べない……。

  「ゼロ」

  バーヴは両目いっぱいに涙をためて、ぼくの胸に頭をつけてドンドン叩いた。バカ、バカ! と散々罵声を浴びせられた。ぼくはといえば呆然としていた。——ぼくは何をした? 家が捨てられないのは分かる。でも今目の前で最愛の人を、そして自分のことを最愛として伴侶とすらなってくれるはずの人を、いくらでもすくい上げるチャンスがあったのに、目の前で捨てた。ぼくはバーヴを捨てたんだ。

  家のことだったら最悪ひょっとしたらなにかはわからないけどスーパーアイデアがひらめいて超ラッキーでチョチョイと全ての問題が解決するかもしれない。現実的にはどうにもならないけど、頭を下げるとか、まだ努力する余地はあるかも知れない。けど目の前でバーヴを捨てたという事実はもう消せない。

  バーヴはぼくの前で涙を拭くと、パチンとぼくがあげたナイフを外して草地に捨て、さよならと一言つぶやいて馬のほうへ重い足を向けた。

  「違うんだ! 今消えていく君を見て絶対逃したくないと思った! 家のことなんてなんとかなるかもしれない! でも君のことはどうしようもないんだ! だから……バーヴ……ごめんよぉ」

  バーヴはザッザッとゆっくり馬のほうに歩いて行く。だめか。ぼくは目の前にすでに手にしていた何物にも代えられないものをドブに捨ててしまった。ドブは深すぎてもう拾うことはできない。ぼくはもうこれほど愛せる人を見つけることはできないだろう。ぼくはもう、一生独りなのだ。バーヴの影を抱いて死んでいくんだ。

  「なのに」

  バーヴは振り向いた。涙は目からあふれてあごに集まりぼたぼたと落ちる。

  「……捨てられたのに、どおして、あきらめられないんだろぉ……バル、やっぱりずぎ……だよ」

  バーヴはこちらに走ってきて、唐突にぼくの唇を奪った。彼はぼくを求めることにもうためらいはなかった。彼はぼくと生きることだけを考えている。彼にとってぼくがすべてだ。そしてぼくもそうあるべきだと、なんでもっと早く気づいてやれなかったんだろう。

  これまでは恐る恐る、これ以上先に行ってしまわないようにと優しく触っていた蠱惑的な腹を遠慮なしにこすりつけ、尻を撫で回して間をさわさわといじめ、指を股の間に突っ込むとお互いそれ以上を催促するように股を開き、手のひらで陰嚢を揉みしだき転がし、胸をわしづかむとその先の出っ張りを爪で弾き、幼少の頃から恋慕してきてこれまで一度も聞いたことのない妖艶な喘ぎを出し合い、聞き合って興奮を高めた。

  そして相手の帯をほどくとそれももどかしいと思う程に乱雑に衣服を脱ぎ捨て、草原の上で全裸になった。

  「やっと……ひとつに……あぁ……バル」

  「結婚しよう、バーヴ」

  「うん……」

  激しく求め合い、むしゃぶりつきあい、ちゅばちゅばと淫靡な音を立て、陰茎をこすりあわせ、お互いのそれから流れ出る透明な液体を先端に塗りつけながら腰を必死に、野獣のようにこすりつけ合い、味わったことのない極上の快感と愛を感じて、そしてお互いの上に白い婚姻の印を刻んで果てた。

  劣情が落ちついた後も足りなかった。固く結び付き合い、体に液をすり付け合い、空が白むまで裸のままで今まさに成った連れ合いを心の臓の音まで感じていた。

  「バル、バーヴくんとはどうなの」

  突然出たバーヴの名前に驚くけど、あくまで平静を装って仲はいいよと答えたところでふうん、ところでと母ちゃんが口にした。

  「丘でバーヴくんと会ってたんでしょ」

  何で知ってるのと一瞬驚いたけど、考えてみたら夜が白むまで五、六時間も外にいたらただの散歩ではないと気づくだろう。馬の足音で帰ってきた時間もバレていただろうし。すると母はなにか心配しているように苦笑する。

  「……別に遠慮しなくていいのよ。バーヴくんとはもう……一緒になったの?」

  ああ、これはもう無理なやつだ。誤魔化しきれない。ううん、これではいと答えたらぼくは家から追い出されるのだろうか。でも母はあくまでフレンドリーな感じだし……いつか言わなければならないのなら、ヘタなタイミングより今言おう。俺は母の方にきちんとした姿勢で向き直り、昨日、伴侶になりました、と丁寧に報告した。

  母は驚くでもなくそっかーやっとかーとか言っている。やっと? なんか、傾向とか、兆候とか、あった? もっと前からバレてた感じ? どうも腑に落ちない。

  「こどもの時『バーヴと結婚する』と言ってたのは微笑ましかったけど、学校に上がってからも言うし、大きくなったら毎年毎日冬営地で遊ぶし、わざわざ夜のウユルドの丘で密会するし、こりゃ何かあったと思うのが普通でしょう」

  おっしゃるとおりで。母は淡々とどっちの家にするのとか訊いてくる。新婚が男女の場合は男の家に行くのが慣わしだけど、同性の場合は希望性になる。最も、お互いの家の都合とかそういうのも含めての希望、だけど。

  それでいくと男手が足りないゼル家に行こうと思うというと母は少し寂しそうな顔をしたけど、そもそもゼル家のご家族はこどもをつくらない婿を認めるのかねえと心配そうにしている。ぼくも一番懸念しているのはそれだ。

  「でもバルと結婚できなければバーヴくんは一生独りのつもりだったんでしょう。大丈夫、あなたは人を幸せにはしたけど不幸にはしてない」

  昼下がり、草原のある場所。両家の顔合わせというか……こども同士はずっと仲が良かったわけだから家族も顔見知りではあるし、形式上のことだ。問題はどちらの家にいくのか問題だ。ぼくはここでゼル家のお父さんが息子はやれんと言い出さないかが怖かった。いや、もう婚姻は成立しているのだから、息子に何してくれたんだというほうだろうか。

  どちらにせよ、ぼくらの結婚が否定されることが怖かった。これからのことが怖かった。怒鳴っても殴ってもいい。でも、ぼくのことというより、バーヴが愛することを、愛したものを否定することはしないでやってほしい。

  するとゼル家のお父さんは思いのほか穏やかな顔で話し出した。ゼル家の判断はこうだ。バーヴは結ばれたし、あとは娘二人で男子もいないし、家を存続させるには婿でも取りたいがこんな小さく力もない家に来てくれる男は少ないだろう。男子はいないがまだ父祖父叔父と三人男がいるからすぐどうこうということはないし、それに前途ある若者が滅び行く我が家にすがることはない。いきなさいとのことだった。ゼル家は滅びを選んだ。いや、家に縛り付けてバーヴに女子との婚姻を迫るより、息子の幸せを選んだ、といったところだろうか……。

  滅ぶといってもゾリク家とゼル家は親戚になったし、バーヴからは家族、ぼくからは義父家族だ。父ちゃんは困ったらいつでもお迎えしますよといってくれた。……おそらくだけど、もし将来ゼル家が婿を取れなかったとしても、父ちゃんはゼル家のみんなを迎え入れるつもりなんじゃないだろうか。もちろん、両家の繁栄を願ってはいるけど。

  「バーヴ」

  「ん」

  「あのとき、すぐ選んでやれなくてごめんな」

  「ううん、無茶なこと言って、ぼくこそ」

  「今夜丘へ行こうか」

  誰もいない夜の帳の中で風に吹かれながら、生まれたままの姿でもう一度交わろう。今度はお互いに種を受け合って、宇宙で最も大事な人をより近くに感じよう。

  しろくまはこどもみたいに無邪気に微笑んだ。

  [newpage]

  ゾリク・バル Зоригтой бар 勇敢な虎 ザリクトーイ・バルから

  ゼル・バーヴ Зөөлөн баавгай 優しい熊 ゼーリェン・バーヴガイから

  ウユルドの丘 Үүрд 永遠 ウールドから

  ※モンゴル語をロシア語読みしてぶつ切りしたので雰囲気です

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