閑話『枯れ木に灰を』

  沈みゆく意識の中で、ただひたすらにその名を叫んだ。

  

  沈みゆく意識の中で、ただひたすらに迫り来る死を拒んだ。

  沈みゆく意識の中で、ただひたすらに縁を願った。

  肉体の限界が近づき、体が腐敗していく感覚があった。虫が体にたかって、愛しき君を分解していくのをただただ眺めていた。

  風が頬を透き通る。その風は、まるでカガチの誘いのように思えた。最後に見せた優しい微笑みのまま、カガチは力尽きている。

  一緒に行こうと、そうやって、兄貴面をして手を引っ張ろうとしてくれているのだと。その風に身を委ね、生き汚いその人生に幕を閉じる。

  意識は徐々に、空を描き始める。

  シナノという自我が少しずつ失われ、虚な目に映る何もかもの意味が分からなくなる。ここはどこで誰が私で、君はなんなのかーー。

  「カガ……チ……」

  肉体が完全に力尽きる瞬間、思い出したその名前に、魂は震える。

  雨が降る。

  雪が降る。

  花が咲く。

  そしてまた、雨が降る。

  雪が降る。

  花が咲く。

  花が咲いて、雨が降って、雪が降る。その移ろう時間の中で、シナノという男がいたこと、カガチという男がいたことは伝承となり、逸話となり、そして消えていく。

  消えていってーー、そしてーー。

  ーー、ーーーーー。

  ーーー、ーーーーーー。

  ーーー。

  ーーー。

  ぁーーーーー。

  ーーカガチーー!!

  →→→→→→→→→→→→

  意味をなさない言葉の羅列が、一気に頭に流れ込む、そんな感覚だ。理解と無理解の狭間で揺れる意識を、無理矢理引き剥がす。

  俯瞰した文字盤には、幾つもの文字が書かれているように見えた。

  ただその中から、意味のある言葉を引き抜きーー

  「ーーッな」

  突然後頭部を貫く大声が脳内に響き渡り、その衝撃で目を覚ます。それと同時に、不意に漏れた声は間違いなく自分のものであることに安心を覚えた。

  目を覚ましたのは、いつも通り見慣れた天井の下だった。特に、なんということのない白い天井。一つあるとすれば、この建物の立っている期間を考えれば割と綺麗だということだろうか。

  普遍的な風景が目に飛び込んできて、安心感が心に湧く。しかし、それと同時に爆発的な不安が心に残っていた。

  それが何に対してなのかは、明確には分からなかった。

  

  多分夢を見ていたのだと、思う。

  

  頭の中にある光景、それは紛れもなく自分の頭のなかにある。それを確かに見た記憶、刀をふるい、神楽を舞い、そしてーー

  「………、おれは……」

  そこにない感触を求めて、布団を両手で握りしめて胸元に抱える。なぜ、それがなぜなのか。ひどく虚しく、寂しく、悲しい思いが胸中を巡っていた。

  ーーーー。

  酷く、鮮烈な記憶だった。

  最後の記憶は、血で濡れていた。

  最期に眺めた、青い月。血に濡れた自分の手を思い出す。

  刀を振るって、生きて生きて、死んだ記憶。

  だけど、そんなはずがない。あるはずがない。ならばこの記憶はいったい誰の、なんなんだろうか。

  すぐそこにある、消えていく記憶。その残穢をかき集めようとするが、網の隙間からこぼれ落ちていくように消えていく。

  「……いえ、夢を追ってる場合じゃありませんでしたね」

  夢の中の、壮絶な記憶。

  夢は夢と割り切ればいい。惜しい夢、無くしてはいけないようなそんな夢だった気がする。

  だけど、夢の記憶というのはどうしてもすぐに消えて無くなる。

  それに、そんな夢にかまけている暇も、今は無いのだ。

  光が舞い込む窓を見上げると、すでに太陽は大地を暖かく包んでいた。すでに日は十分に登っていた。

  同居人は、すでに準備を済ませた後だろうか。隣のベッドにいるはずの姿が見えずに、自分が思ったより寝過ごしていたことに気づいた。

  

  急いで準備しようと立ち上がると、何かが足元を濡らした。そしてそれはーー、

  「……涙…?なんで…」

  足元を濡らしたそれは、自分の目からこぼれ落ちた涙だった。

  目を擦ると、目の周り、果てや頬にまで濡れた形跡があった。そして、一度自分の涙を自覚してから次々と涙がこぼれ落ちてくる。

  「ーーッ、なんで、こんな時に……なんで…」

  何が悲しいのか、何が悔しいのか、それも分からず涙はただ流れ続ける。じめんにすわりこんで、両手で両目から流れる涙を止めるように、目を塞ぐ。

  目を塞いでも、涙は止まらず流れ続ける。

  流れる涙はなんのために流れているのか。何がそんなに自分を泣かせているのか。

  「……カガチ……?」

  

  脳裏にチラつくこの名前は、誰のものなのかーー。

  泡沫の夢、その中で絶えず求めた何かがあった。鮮烈に彩る赤い血の記憶ーー。その中で一際輝く、美しい赤を覚えている。

  それはまるで、ホオズキのように妖しくゆらめく赤い果実。そればかりが脳裏に焼き付いて、離れない。

  肩を揺らして涙を流しながら鼻をすする。きっとこんな顔、誰にも見せられない。自分がなんのために泣いているか、それすらも分からない。悔恨だけが心を支配して、それがなんのためなのか、誰のための感情なのか。それすらも、分からない。

  「……行かなきゃ、ですよね…」

  最後にゴシゴシと目元をぬぐい、カーペット敷きの床に手をつき、体を押し上げ立ち上がる。

  

  今日は、遠征の日ーー。否、正確には遠征を装った魔道士狩りへ揺さぶりをかける日だ。訓練生とはいえ狩人の身である自信も、これについて行く。

  朝食をとり、装備の準備をして身支度を整え、仲間とともに結界の外へーー。

  忘れられない赤い実を、カガチという名を頭の中で反芻し、記憶に刻み込む。

  徐々に失われて行く夢の光景。だけど、その中で忘れてはいけないと思ったその二つ。きっとまた、今日が終わる頃に思い出そう。そう決心して新米の狩人は立ち上がる。

  

  腰にしめ縄を背負い、大きな耳を揺らしながら小麦色の犬はかけだす。

  ヤシロ本山に聳える殿の後継、橙色の瞳を灯す若き犬ーーシナノ。

  

  己の生きゆく道を探して、立ち上がった。