閑話八話『八千代まで』

  「ぐっ、だらぁ!」

  地面から伸びてくる氷柱を足先で蹴り飛ばして回避し、地面へ降り立つ。氷を突っぱねた足先がジンジンと痛むのを無視して、そのまま背後の木に飛び乗る。

  飛び乗った先で、残りわずかな魔力をフルに回転させながら、風を身に纏い、上下左右に縦横無尽に加速する。

  撃って撃たれて飛び退いて、相手に隙を見せるためにわざとこちらも隙を作り、攻撃を誘う。ヒットアンドアウェイを繰り返すも、カガチから有効打を与えられることはなく、ジワジワと、少しづつ削り取られていく。

  

  何せ、相手方はただ女を守っていればそれで良いのだ。わざわざ向こうからこちらに仕掛けてくる必要はなく、ただ冷静に。カガチの出方を伺ってそれに対処するだけでいい。

  カガチはシノビであって、戦闘技術はそこまで卓越していない。あくまで人知れずひっそりと。正面から正々堂々と戦うのは、本来のシノビの戦い方ではない。不意打ち、騙し討ち。そっちが専門だ。

  とはいえ、戦闘という手段において、カガチはからっきしというわけではなかった。多少の心得はある。が、あくまでそれも『躁』の家の戦闘技術を目で見て盗んだだけの付け焼き刃だ。

  相手がチンピラや、そこそこの手合いだったらカガチにも勝ち目があっただろう。

  ビキビキと、身体中から悲鳴を上げる音が聞こえる。

  「あっぐ」

  突然頭を殴られるような感覚がして、思わず動きが一瞬止まる。タイミング悪く、地面に着地するタイミングで激痛が走り、カガチは地面へと転がり落ちる。転がり落ちた先で、再び地面から揺れが接近してきて、それが一番大きくなったタイミングでカガチはギリギリ立ち上がり飛び退く。

  地面からは鋭く光る棘を蓄えた氷の木が生えて、危うく刺し貫かれるところだった。

  「これだから魔法使いは…」

  狩人というやりにくいことこの上ない相手へと愚痴をこぼす。近づいても離れても、どこからでも魔法が飛び出してくる。まるで自分が巻き込まれることなどお構いなしだと言いたげに、相手は一切動じることなく、自身の周囲にも氷の種を発芽させる。

  魔法が使えるというだけでもやりづらいというのに、狩人という連中は、自らバケモノの領域に飛び出すイカれた奴らばっかりだ。ただただ殺すために襲いかかってくるバケモノ。理屈もなく知性もなく、ただ本能の赴くままに襲いかかってくる奴らを当たり前のように相手どる異常者。

  カガチより圧倒的に命のやり取り、ひいては戦闘技術においては卓越している。

  圧倒的な戦力差に、小手先だけのカガチでは追いかけるので精一杯だ。

  

  それに加えて、カガチの体をめぐる魔力は、圧倒的に不足していた。

  

  体内にある魔力という燃料。それが枯渇すれば、もちろん体を満足に動かすことは叶わなくなる。シナノとやり合った時から今に至るまで、カガチは思い切り魔術に頼ってきた。そしてカガチの魔術というのも仕事をこなす上で盗み見たり聞いたりした完全独学の付け焼き刃だ。効率のいい魔力運用も、自身に刻まれた術式の使い方も、どんな仕組みで魔力が形になっているのかも知らない。

  

  ただできるからやっている、それだけだ。

  盗んだ技術。めんどくさがりなカガチは、何一つとして数多くの手札から一つでも極めようとはしなかった。そのつけがーーありとあらゆる事象をめんどくさいで片付けてきたツケが、ここにきて巡って来ているのだ。

  「うざってぇ」

  これ以上は危険だと告げるように、頭痛はしつこくなり響く。

  ガンガンと、何かに殴られる。

  グリグリと、何かに押さえつけられる。

  ギリギリと、何かに引っ張られる。

  そんな得体の知れない何かよる激痛を耐えながら、カガチは飛び続ける。

  

  魔力だけではなく、血も不足して来ていた。裂かれたはずの腕を無理やり動かし続けて、もはや感覚はほとんどない。けど多分、血がいっぱい切り傷から流れて、本来腕に届くはずだった血が届かなくて、青くなっていたりするのだろう。

  そんないつ倒れてもおかしくない状態にも関わらず、巨体な狸は絶えず動き続けて、水色の男が見せる隙を探し続ける。

  いつの間にか氷に覆われて手を出せなくなった女。氷壁に覆われる女は、飛び回るカガチを見て、まるで童のように無邪気な笑みを浮かべていた。

  氷越しに見えるその嘲笑に、カガチの額から嫌な汗が流れ始める。

  「くっそ、くっそ、くそっ…」

  地面に足をついた。

  足元から氷柱が飛び出して、足に穴を開けた。

  痛みをもろともせず、そのまま飛び退き、風の矢を飛ばすために術式の構えを取る。

  見透かされたように、背後の木から生えた氷に押し出されて術式の行使は失敗に終わる。

  再び風に乗って空を駆けて、四方からクナイを投げつけ、それと同時に足元を薙ぐように腕を振るう。

  だがーー、

  「小手先の技術に頼るのをやめたのは褒めるに値する。だがーー、」

  風を見に纏い、その腕を振るうカガチの足元から突然氷の華が咲き誇り、カガチを空中へ押し除ける。

  その華はそのまま男を守るように、花弁を閉じて男を囲う。飛んでくる無数のクナイも、全て氷の壁に阻まれ、キンキンと音を立てながら地面へと落ちていく。

  どうなっているーー。

  魔法の練度ではカガチが圧倒的に負けている。何なら、魔法以外の戦闘技術においてもそうだろう。バケモノじみた反射神経で、どこまでもカガチの一歩先をいく。

  

  カガチが本調子では無いのもあるだろうが、カガチが本調子ではない理由の一つである魔力切れ。相手方もほどほど魔力を消費しているはずなのに、尽きる気配が微塵もない。

  あれだけの強度、範囲の氷を無尽蔵に咲かせているのにも関わらず、男は汗一つかくことなく、氷の花を咲かせ続ける。

  接近しようにも足元を崩されてまともに近づけない。

  隙を見ようにも、飛び道具は全て魔法に相殺されてしまう。

  四方八方を駆け巡っても、結局はこちらの魔力ばかりが削られて、ジリ貧になるだけ。

  だから結局ーー、

  「付け焼き刃……最後の意地、だな」

  地面から飛び出した氷の勢いに乗って、そのまま空を舞うカガチ。

  付け焼き刃、そう思う。だって、敵う気がしない。

  独学かつほとんど即興の魔術の行使。その手の、ある種の専門である狩人に練度で勝てる気はしない。

  だけど、カガチに残された最後の手段だ。

  文字通り、一矢報いるための隠し種。

  この戦いの最中に、こっそり口に潜ませていた薄く赤く輝く魔鉱石ーー。

  それはあの日、突然押しかけてきたサギリに渡された魔鉱石だった。なんとなく、ずっと手元に忍ばせていたのが功をなした。

  頭の中で、あの健気な鼠へと礼の言葉を述べる。きっと、これがなかったら本当の意味で手詰まりだっただろう。

  魔力の塊、それを思い切り奥歯で噛み砕く。

  硬く割れやすい魔鉱石は、カガチの奥歯に噛み潰される。綺麗に割れて、破片がカガチの口内を薄く切りながら、赤く輝く魔力を爆発させる。溢れ出した魔力は、行き場を求めてカガチの体内、体外をとてつもない速さで駆け巡る。

  体の中で暴れ回る、カガチのものではない魔力。

  それに内側から突き破られそうな感覚がする。

  目の端から涙が溢れて、視界が薄くぼやけて見える。

  

  だけど、そんなぼやけた視界の中で動き出す小麦色の塊が見えた。

  これ以上ないほどの満身創痍、にも関わらず誰よりも諦めず未来を羨望するその意志をーー、カガチは連れていくと決めたのだ。

  痛み、吐き気、頭の中をギュイギュイと警鐘が鳴り響く。全身が内側からはぜそうなほど、その力は圧倒的だった。

  それを全てーー、

  「『風よーー、」

  ドクドクと脈打ちながら血を流し続ける左腕を伸ばし、右手で弓を引くーーその構えを取る。

  うすぼやけた視界を今一度見開き、涙が地面にポタポタと落ちる。

  朦朧とする意識、駆け巡る魔力。

  シナノが刀を引き抜いて、駆け上がっていくのが見えた。

  シナノも、これを機と見たのだろう。ここで、全ての決着がつくと。

  風の弓を構えるカガチに、地面から氷の矢が向かってくる。空を舞い、無防備になったカガチは、それを防ぐ術も持たずにまともに食らってしまい、全身から血を吹き出しながら落ちていくーー。

  そうなるはずだったのだろう、そういう想定だったのだろう。

  

  だが、それらは全てシナノの張った結界によって弾かれ、その勢いをさらに増して地面へと落ちていく。氷の矢を数発、それを喰らってシナノの結界はほつれていく。

  落ちていく氷は途中で崩壊して、キラキラと落ちていく陽の光を反射しながら地面を駆けるシナノの周囲を熱く照らす。

  暗い森の中で、その輝きに照らされたシナノの顔はいつよりも凛々しく、カガチの心を焚き付けた。

  力が入らない左腕を、今一度しっかりと固定して照準を定める。一度は失敗した、風の矢による狙撃。狙いが逸れて、その結果もたらしたのはシナノの腹を抉る所業だ。

  同じ失敗は絶対にしない。

  震える左手にグッと力を入れて、右腕でこれ以上ないほど糸を張り詰めさせる。

  存在しない、ただ術式を行使するために構えの弓だ。しかし、その構えは、筋肉の強張りは、まるで本当にそこに弓と矢があるかのように錯覚させた。

  カガチの体内を荒れ狂う魔力が、カガチの詠唱に従い徐々に風の矢を形成する。噛み砕いた魔鉱石、そこから得られた全魔力がこの一矢のために使われる。

  全身を駆け巡る魔力、それによって上がった体温。

  その熱を全て右手へと、余すことなく持っていく。

  そして、緊張の糸はーー

  「行け……カガチ」

  小さくつぶやかれた、シナノの一言。

  だが、その一言はちゃんと届いた。心を穿ち、何より最強な気分だ。

  カガチの攻撃を察知した水色の狼が、氷の盾を張り巡らせる。だがーー、

  

  ーー、めんどくさがったな。それじゃ防げねぇよ。

  チラリと見えた男の表情、傷だらけのその顔を見るだけで、彼が幾多の戦場を生きてきたことが窺える。

  そんな彼からしたら、カガチの見せる魔術など退屈極まりないものなのだろう。

  何度も見えて、何度も防いで、何度も打ち壊したカガチの魔術。

  退屈な顔をしたくなるのもカガチには理解できる。

  だけど、世の中はそんな『めんどくさがり』に甘くはない。

  「風よーー、穿てええぇぇぇえ!!」

  牙を剥きながら、これ以上ないほどに、張り裂けんばかりに詠唱を叫ぶ。

  右手でつまんでいた風の矢が放たれて、それと同時に身体中から根こそぎ魔力が奪われていくのを感じる。

  一気に体の熱が引いて、凍える寒さだけが訪れる。

  視界が白黒として、意識の喪失が始まる。

  伸ばした左腕はそのままに、右腕と体と、左足と右足が後からついて落ちてくる。

  その五体満足な重さを鬱陶しいと思いながら、カガチは氷が打ち砕かれる音を聞きーー、そして。

  振るわれるシナノの刀の輝きを見てーー。

  「あぁ……、綺麗だな…」

  

  と、そう思ったのだった。

  地面に落ちていく体。裂けて、どこか遠くへと左腕が飛んでいく。

  身体から力という力が抜けてーー

  鼻腔を燻る地面の匂いは、懐かしい感覚がしたーー。

  →→→→→→→→→→→→

  カガチの放った風の矢ーー、それによって大きな音と共に土と葉が舞い上がった。

  そんな土煙の中から、声が聞こえた。

  「……よもや、個が救われる羽目になるとは…」

  「それはそうでしょう?あなたに死なれては、私も死ぬしかありませんもの。」

  カガチの放った矢の着弾点ーー、そこにいたはずの男と女が五体満足で立っていた。男も女も、互いに驚嘆の表情を見せつつも、平静を装っていた。

  「個が見誤った…。個の魔法だけでは防ぎきれなかった。助かったと、そう言わざるを得ない。」

  「いえ…言ったでしょう?あなた無しでは私は死ぬしかない、と。」

  舞い上がる土煙から口と鼻を守るように、袖口を添えながら女が男に微笑みかける。その微笑みに、男は思わず顔を逸らして、そして自身を覆う結界に触れる。

  空に触れるような、不思議な感覚。

  そこに確かに存在して、こうして触れていることがわかるのに、感触はない。土煙は通り抜けていくのに、自分の手足はその中から外へ出れない。

  

  結界術ーー、出入りするものの取捨選択を、この女は一瞬でやってのけた。

  「私一人ではお役に立てなかったでしょう。ですけど、貴方様が契約を疎かにせず、私を守ってくださったから、私も貴方を守り通せたのです。」

  そう言って女が結界を軽くコツンと叩くと、結界はその限界を迎えてガラスが割れるかのように、しかし無音で崩れて消え去った。

  結界から解放されて、男の頬の傷を、再び風が撫で始める。傷口に触れられて、男はその感覚を遮断するため頬に手を触れる。

  カガチの放った風の矢ーー、それは想定を遥かに凌ぐ威力だった。用意した氷の盾が全て打ち砕かれて、そのまま自分も風の矢に体内を侵され、抉られ血を散らすものだとばかり思った。

  だが、風の矢は男に届くことはなかった。

  自身の死を覚悟したその刹那ーー、わずかなその一瞬で、男の周囲に結界が展開された。

  今際の際に展開されたその結界は、男を狙う風の矢を弾き返し、術者であるカガチの左腕を巻き込んで残酷に飛び散った。そして、どさくさに紛れて接近していたシナノ。彼の放った一閃を、人知れず弾き飛ばしていた。

  男の命を狙う二つの凶刀ーー、それらから男は守られてこうしてここに立っている。

  「……個の、負けだ…」

  これがもし、結界の外での戦いであったなら、その時点で男は死んでいた。油断して敵の戦力を見誤り、あまつさえ敵の一人を意識の外側に外すなど、狩人として許されない間違いを犯していた。

  消えていく結界のカケラを手のひらにかざしながら、男は息を吐いた。

  そんな様子の男に、女は不満げに喉を鳴らす。

  「感慨に浸っているところ申し訳ないのですけれど、まだ貴方の仕事は終わっていません。私を守ってくださる……そういう契約ですもの。」

  「……ああ、契約は違えない。個の名誉にかけて、其を守り通そう。」

  あくまで、この女との関係はただの契約。

  女に魔鉱石を提供してもらう代わりに、今日一日、この女をあらゆる脅威から守ること。

  この提供される魔鉱石はどこから手に入れたのか、その辺りも気にはなるが、おかげで万全に魔法を振るうことができる。魔力切れを気にすることなく魔法を行使するなんて、狩人内でも早々できることではない。

  「……!下がれ、まだーー」

  女を手で庇うように背に立てて、男が目を細める。

  未だ晴れず、視界が確保されない土煙。

  

  だが突然、宙を舞う土が一転。渦を撒き始める。風の変容、それはこの戦いで何度も目にした術式の効果だ。

  あれだけの魔法をを行使して、まだまともに動けるとは思えない。男のように多くの魔鉱石の蓄えがなければ、そろそろ魔力切れを起こしてもおかしくない。それに、割れた氷と舞い散る砂埃の隙間から見えた、狸の惨状。あれらを考慮すれば、まともに動けるとは思いたくないがーー。

  何が起こるか、今度は油断しない。

  魔力を練り、何が起こっても対処できるように身構える。あの渦の中から、風の矢が飛んでくるか。それともクナイか、はたまた剣士が飛び出すかーー。

  「……否…」

  そのいずれの可能性も、起こることはなかった。

  風の動きがやみ、そして視界が晴れる。

  一点に集中していた砂埃。しかしそれは散乱して、視界を塞いでいた土煙が全て霧散する。

  そして、晴れた視界の中。そこに立っていたのはーー

  「………ぁ、っ」

  左腕が裂けて、肩からわずかに骨が見え隠れしていた。血がびちゃびちゃと傷口から流れて、目が虚であった。衣服が裂けて、そしてそれに伴って体から血が吹き出している。元からあった腹から胸にかけての一閃。それとは別に、鋭く刻まれた切り傷がいくつも存在していた。耳が裂けて、顔の一部の毛が禿げて、薄ピンクの地肌が見えていた。

  結界術に跳ね返された風矢の一撃ーーそれによってカガチの体はズタズタだった。

  あれをもろに喰らっていたらと思うと、身震いが止まらない。

  「満身創痍……そう、見える」

  薄汚く、そして目を逸らしたくなるほどの重傷を負った狸がそこにいた。目が片方潰れて、血が流れている。空になったその空洞から血が溢れて、顔を汚く濡らしていた。

  だが、そんな状態になってもなお、立ち上がり続けるカガチの一挙手、一投足に至るまで、男は神経を働かせていた。

  正直、こんな状態で立っているだけでも異常と言える。もはやそこにいるのは、カガチという生けるシノビではなく、死に損なったただの意識の塊であるように見えた。

  

  ふらふらと頭を前後に揺らし、バランス感覚を保つのですら精一杯なその巨体。

  しかし、死にかけの生き物が見せる最期の爆発力を男は知っている。死なば諸共、そういう手管をとってくる化け物と何度も対峙したのだ。そしてその爆発力に巻き込まれて散っていった仲間を多く見てきた。

  

  止めをさすその一瞬、否、止めを刺し終えるまで気は抜けない。

  「ーーっ」

  しばらくそのばでふらふらと力無く立っていたカガチが、突然動きを変えた。のそのそと、足を引きずらせながら、少しづつ少しづつ歩いていく。履いていた草履はどこへ行ったのか。土の上を、ガサガサと落ち葉を引き摺りながら歩いていく。

  カガチの進んでいく方向ーーその先には、蹲る小麦色が落ちていた。

  「…ソウケ様」

  「………。」

  女に名前を呼ばれるが、男は振り向かないし、動かない。

  戦意のあるなしは、まだ測れていない。もしこの一瞬気を取られたうちに首を掻き切られでもしたら、たまったもんじゃない。

  

  心の中でそんな言い訳をして、男はカガチの動向を見守る。

  口端が緩んで、よだれが一一滴地面に落ちる。そして、それを追うように、鼻血が出てくる。それらを拭うこともなくカガチは歩き、そして

  「ふ……」

  小さく息を漏らして、カガチはシナノの元へとしゃがみ込む。

  そしてカガチと比べて小柄なその体を、唯一自由な右腕で抱き上げて、小脇に抱え立ち上がる。シナノを抱えたカガチの顔は、虚なままだった。

  

  シナノを抱えたカガチはそのまま、男と女のほうへと向き直り、鋭く光る赤い眼光を向ける。

  「……『風よ』………」

  そして、視線を二人に向けたまま小さく放ったのは、この戦いで何度も聞いた詠唱ーー

  カガチを軸として再び風が渦巻き始める。

  「来るならーー」

  

  来る衝撃に備えて、女を自身の後ろへと庇いながら、右手を突き出して防御の構えをとりーー

  「ーー舞え」

  カガチが小さく呟き、そこに大きく風が舞い踊る。

  構えていた魔力が魔素と反応し、再び二人を守るように氷の花が開花した。

  だがしかし、来るべき衝撃は訪れることはなかった。

  残ったのは、ただただ静寂と、無意味に力強く咲き誇る氷の花だけだった。

  「……逃げたか。」

  氷の花の一部を魔素に還元し、視界を確保すると、そこにいるべき巨体の姿はどこにもなかった。

  微弱に残るカガチの魔力の残滓は、奇襲をかけるための潜伏ではなく、真っ先に山を降りる道を辿ったことを示していた。

  逃げた二人の行き先を眺めながら、男は練っていた魔力を霧散させーー

  「……追ってください」

  「は?」

  カガチとシナノが逃げたことを確認し、脅威を退けたことに安堵する男の背に、女が震える声で告げる。

  「追って、追ってください!あの二人は……あの二人は確実に殺さなければならないのです!でないと、でないと私はーー」

  今まで見たことないほど取り乱した女は、しかし、その美しさは保たれたままだった。その口先から溢れる悪意と執念と渇望を覆い隠せるほどではなかったが。

  歯軋りする女に男は背を向けたまま、息を吐き、

  「個と其の契約は、あくまで、其の警護だ。其を狙う脅威は退かれ、今はただ平穏だけがここにある。故に、其の言葉に従う義理はない。」

  「いえ、あの二人は必ずや私の脅威になります。確実に、仕留めていただきたく」

  「また襲ってくるというのなら、其の言う通りにするのもやぶさかではない。だが、今は違う。」

  そう冷たく言い放って、男は降りてきた道を登り、背を向けたまま境内へと向かう。

  契約の内容に齟齬はない。女を守る、ただそれだけの契約だ。脅威を退けることまではやるが、逃げた脅威を追いかけ排除することは契約には含まれていない。

  そもそも、

  「其自体が、個には脅威に見えて仕方がない。」

  あの二人とこの女がどういった関係にあるのかは知らない。ただ、ヤシロ本山を襲う脅威とだけ知らされていた。しかしまあーーよくそんな大仰を口にできたものだと、感心を覚えた。

  ふっかけた喧嘩の後処理まで、そんなことしていられるか。

  何より、

  「めんどくさいことこの上ない。」

  狼狽して地面を殴りつける女を他所に、男はそう告げて境内へと登って行った。お祭りが執り行われている境内。

  その裏で起きた惨状など知る由もなく、お祭りは盛り上がり、そしてーー神楽の時は訪れる。

  「……。今年はガキがやるんだな…。」

  神楽を木の上から眺めて、男はそんなことを呟いた。

  木の上からは、狼狽した女に声をかける、いろんな男たちの姿が見えていた。

  →→→→→→→→→→→→

  風が一通通り過ぎるーー。

  

  風よーー、風よ、風よ風よ風よ風よーー!!!

  詠唱を繰り返し、ただただ加速して山を降りていく。ほんのわずかに残っていた魔力からなる魔術は、カガチとシナノを抱え、山を素早く降っていく。

  だが、

  「風……がっ……」

  魔力切れーーーそれに伴う頭痛。否、頭痛と呼ぶのも生やさしい激痛がカガチの頭を襲った。脳みそにハサミを無理やりねじ込まれたような、そんな痛みにカガチの意識は持っていかれ、そして。

  「っげぁ、ごっ」

  魔力が切れて、魔術の効力も切れ、風が止み、カガチとシナノは風から放り出されて、斜面をひたすら転がっていく。

  落ちていく意識の狭間ーー、決して離すまいとシナノを抱き寄せて、地面を転げて転げて転がって。

  一瞬体が宙に浮き、そして地面に激突する。落ちた先には水があって、その水によってカガチとシナノ二人の血が少しづつ、少しずつ流れていく。

  落ちた穴はそこそこの深さがあって、このまま水が溜まって、いつかは池になるんだろうなと、そんなことを考えていた。

  「はっ……」

  朦朧とする意識、なぜ生きていられるのかも分からない、そんな状態。

  魔力が尽きて、血も流しすぎた。きっと、自分はもう助からないのだろうと己の運命を察する。

  そして、自分が助からないということはーー、

  わずかに首を動かして、小脇に抱えるシナノを眺める。

  愛らしい。愛おしい。ずっと、これからを生きていくはずだった。縛られた人生を送ってきたシナノを、自由にしてやるはずだった。

  俺が生かしてやると、そう言ったばかりなのにーー。

  涙すら流れてこない、もはやシナノのために泣くことすらもできない。できるのは、ただ、こうして死を待つことのみだ。

  ずっとずっと、怠惰に過ごしてきたことの罰なのだろう。何もかもに気づいておきながら、何もかもを無為に過ごしてきた。

  それをするための能力もあったはずなのに、それをせずにただのうのうと生きてきた自分への罰ーー。

  天を仰ぐと、そこには満点の星空が見えた。

  きっともう、神楽の時なのだろう。

  日が沈んで、行方不明になったシナノの代わりに、モガミが無邪気に神楽を披露している頃だろう。

  あの不器用に、それでも、民衆に期待されていたシナノの神楽はもう失われて。

  何も残してやれなかった。

  何もしてやれなかった。

  最後の最後に、夢を見させることすらできなかった。

  なぜ後悔というのは、先に知らせてくれないのだろう。

  先に悔やんだ分、良い結果を引き起こしてはくれないのだろうか。

  「……カガ…チ…」

  「ぁ………」

  「カガチ……カガチ…!!」

  小脇に抱えた小犬が、体を震わせながら立ち上がる。顔面蒼白、失血過多。もう助からない小犬が立ち上がって、倒れるカガチへとよじ登る。

  大きく肥えた腹、しかし呼吸はまだあり、腹が微かに上下する。

  霞む視界の中でも、シナノの顔だけはやけにはっきり見えた。そんな気がしてーー。

  「……す…まなかった…シナノ……何も、できなかった」

  掠れた声で力を振り絞ってシナノに謝罪する。今更、ここまできて謝られたところで、何の意味もない。分かっている。でも、

  「俺は……お前…が……」

  「カガチ、喋るな、喋らないでくれ…!!私はまだ……まだ、お前に、何も…!!」

  かがちにまたがるシナノが涙をこぼしながら、かがちの胸ぐらを掴んで体を揺らす。

  愛したヒトが、自分のために涙を流してくれている。その事実に、カガチは小さく笑みを浮かべた。

  「俺は……ぉ…まえの、…んに、な…ぇた、か?」

  血を吐きながら力なく喋るカガチの言葉は、節々が形にならず、溢れていく。

  

  カガチの命の灯火が少しずつ消えていくのを感じて、シナノはただただ涙を流す。

  何もできない、何も返せてない。

  一緒に生きたい、そう言われて自分の人生は救われていた。

  これ以上ないほどに、救われていたのはシナノの方だった。

  

  想いの先はー、ここにあった。

  「カガチ……お前は私の、私のものだ。絶対に、何度でも、何度だって」

  お前に会いにいく。

  死の間際、力のないカガチに、今度はシナノの方から想いを告げて、口が繋がる。

  きっと、もっと時間をかけて過ごすはずだった。

  もっと時間をかけて、この気持ちを育むはずだった。

  

  でもそれは叶わなくなってしまった。

  だから、シナノは今ここに、誓う。

  「八千代までーー、この想いはお前に捧げ続けよう。」

  どれだけ遠かろうと、どれだけ長かろうと、その想いは刹那から永遠に至るまで。カガチのために捧げよう。

  カガチの、硬い毛を伸ばした頭を撫でながら、シナノはカガチの目をながむ。

  最後の最後、この想いは聞こえただろうか。

  力無く笑うカガチーーそのままカガチは動かなくなってしまった。

  そしてシナノも身体中を蝕む毒によって、力無くカガチの上から倒れ込み、横並びになる。

  見上げた先には月が上がっていた。

  

  この月が何度巡れば、再びカガチと会えるだろうか。

  それこそ八千代を越えて、その先でーー再開できるだろうか。

  風が吹く。

  風が吹いて、二人のほおの毛を撫でる。

  風がシナノの頬を厚く撫でて、それはまるでカガチの大きな手に包まれている脳内感触でーー。

  「カガチーー」

  最期にぼそっと、愛する者の名を呟いてーー。

  

  静寂の中でつぶやかれたその名を、二人を見下ろして輝く月だけが聞いていた。

  二人の結ばれた手の袂には、赤く輝くホオズキがなっていた。