よりよい死後の生活のために

  

  地上――通行人がほとんど皆無である路地裏に降りたその瞬間、ルシオ・カブラルは横から猛烈な勢いで衝突してきた何かに吹っ飛ばされたのである。

  短距離走もかくやの走りでぶつかってきたのは、こちら側の現人類。ルシオとさほど体格の変わらない人間の少年だった。なぜ寄りによってこのタイミングでと言えば、理由は簡単で、その路地が少年の目的地への近道だったためである。

  まったくの意識外から全身でぶつかられ、突き飛ばされはしたものの、ルシオにとってその程度ではダメージにもなりはしない。ぶつかってきた少年の側だけが、突如かつ瞬時に現れたルシオへの驚きと、激突した痛みに悲鳴をあげていた。何かの店のゴミ箱をひっくり返し、ぶちまけた中身に倒れ込む。

  それにしても、である。いきなり人間に姿を見られてしまうとはとんだ失態だ。

  本来、地上への干渉はそれ自体が特例中の特例である。人類との接触を最小限に留めることは、今回の任務における絶対かつ当然の義務であった。

  ただ、姿を見られただけで終わっていれば、まだ誤魔化しようもあった。

  地上において、ルシオは人外未知の存在である。裾の長い燕尾服を身に纏った、二足歩行する山羊。それがルシオの風貌だった。体格こそ、十代前半ごろの少年と同程度ではあるが、一目見て理解できる怪物がルシオだった。しかしこの場合、そこはあまり問題ではない。人間には適当に「仮装です」などと言えばいかようにも誤魔化せる。ルシオはどちらかといえば嘘を好まないが、この際、モットーは仕方ない。人間に騒がれるリスクには替えられない。

  しかしその上、[[rb:IHOP > アイホップ]]([[rb:Interdimensional > インターディメンショナル]] [[rb:Hole > ホール]] [[rb:of > オブ]] [[rb:Pancake > パンケーキ]]――どどめ色をした三段重ねの輝きの渦で、あちら側とこちら側を繋ぐ扉の通称)まで見られてしまってはルシオもいよいよどうしようもない。少年のリアクションは素直だった。痛みに呻きつつ慌てて謝罪の声をあげ、次に体を起こすルシオの風体に目を剥いて驚き、さらに何もない場所に不条理に存在する正体不明の光の穴にも絶叫した。

  「な、な、な……なに?」

  「秀逸な質問です。そのひと言にすべての疑問が集約されます」

  少年の、きわめて大雑把な疑問にルシオは答えることにした。

  「私はルシオ・カブラル。あなたがたの言葉で言えば、[[rb:悪魔 > デーモン]]といったくらいの存在です。そして、これはIHOP」

  ルシオ・カブラルは、死後の人間の魂を永遠に拷問するデーモンであった。すべての人間の魂が拷問にかかる訳ではなく、生前にはたらいた悪行の数が多すぎる人間の魂だけが、「悪いところ」へ送られてデーモンの餌食となる。善行を重ねた人間の魂は「良いところ」へ送られ、ほぼ永劫といってよい時間を安寧の元で過ごす。

  しかしこのところ、「悪いところ」へ送られてくる魂があまりにも多すぎた。拷問のためのデーモンの庭では、すべての魂を到底まかなえないほどの大量なのだ。そこで、ルシオは新たな庭を創る設計者として、世界に誕生させられた。

  新たな庭を設計するうえで、ルシオはどうしてもある調査の必要を感じ、IHOPを使って地上にやってきた――

  以上のことを、ルシオは少年を黙らせるために説明した。

  「私たちは、人間など殺そうと思えばいつでも容易く殺せます。しかしデーモンは皆、生きている人間には手を出せない決まりになっております。私はこの地上で、決してあなたがたに危害は加えません。ですので、どうか私のことは他言無用に」

  ルシオの話を聞きながら少年は立ち上がり、はあ、とか、まあ、とか言いながら、体じゅうのゴミを払い落していた。その今ひとつ気概の感じられぬ返事に対し、ルシオはさらに押してみる。

  「お約束いただけない場合、あなたを安全に帰す訳にはいかなくなりますよ」

  「え? 手を出せない決まりって、いま言ったのに?」

  「私が無許可で地上に降りていることが判事にバレたら、とんでもないことになりますよ。判事のハンドバッグにはいつも『世界を終わらせるやつ』が入っております。ただでさえ、この地上は今ハチャメチャにメチャクチャなのです。この上、デーモンの干渉まで受けてしまったからには、いっそこの世界をリセットしてしまうかもしれません」

  この場合の「世界」はデーモンたちの庭も含まれるため、判事が「世界を終わらせるやつ」を使えば当然ルシオもおしまいであった。

  「ならば、ルールを犯してでもここであなたをどうにかしてしまう方が、明らかにリスクが少ないのですよ」

  よせばいいのに、少年はこんなことを訊いてしまった。「ど、どうにかって、どういうのさ」

  「どうとでもできますよ。たとえば――」

  ルシオが一本指を立て、その指を振り下ろすような動作をすると、少年の頭上からバケツをひっくり返すような勢いの水が大量に落ちてきた。

  「あばばばばば、冷たい!」

  「水です」

  「やめ、やめて! わかったからあばばばばば」

  「これを見てどう思いますか?」

  「わかったってば! 信じる、ぜんぶしんじっ、あばばばばば」

  「どうにも反抗的ですね」

  「当たり前だろ! いきなりこんな水をかけられて……」

  「では水をどうぞ」

  「あばばばばば、息、できな……」

  「ゴミまみれになっていましたから、洗ってさしあげましたよ。これはお詫びでもあるのです」

  「う、嘘だ、きみ、拷問が好きなデーモンなんだろ? 絶対おもしろがってあばばばばば」

  「水でした」

  「せめて水って言ってから水をかけてよ!」

  「水です」

  「あばばばばば」

  「これが答えです」

  ずぶ濡れになった少年の全身は、ルシオの指の一振りでたちまち乾いた。ついでに転んで打ち身になったところも治療されている。

  「わかった、わかった。約束するよ。誰にも言わない。というか、言ったところで誰も信じないだろうけどね……」

  不条理の数々を体験した少年は素直だった。そうなるしかなかった。

  「じゃあ行くよ。こんなことをしてる場合じゃないんだ、ぼくは」

  「送ってさしあげますよ」

  ルシオが指を振り、IHOPを開いた。ルシオというのは、人間を拷問することを楽しむ以外は、基本的に親切で誠実なデーモンであった。

  「送るったって……さっきからいったいなんなのさ、これは」

  ダイアン・フォン・ファステンバーグの二〇一二年春コレクションの柄のような光の塊に対して、少年がおびただしい不信を露わにする。

  「IHOPです」

  「アイホップって……パンケーキの?」

  「あなたの思うアイホップではなく、あらゆる時空が交差する場所です。時空のグランド・セントラル駅という具合でしょうか。ジェレミー・ベリミーを通るので、お急ぎであれば少しばかり前の時間にも飛ぶこともできますよ」

  「ジェレ……何?」

  「ジェレミー・ベリミー。我々のタイムラインは直線ではなく複雑な線で表されますが、その線が [[rb:Jeremy Bellimiy > ジェレミー・ベリミー]]と読めるので、そう呼ばれています」

  「まあ、そう……いいよ。もうすぐそこだし」

  「そうですか。人間がタイム・ナイフを見る機会など、もう二度とありませんよ」

  「そのタイム・ナイフって……ううん、やっぱりいい。もう、ただでさえ今からすごく嫌な人に会うんだから、無意味に疲れさせないで」

  「嫌な人ですか」

  ルシオは好奇心を抱く。悪行をはたらく人間であれば、将来の拷問候補である。

  「それはいったい、どこのどなたです?」

  「どなたって……」

  なぜそんなことを訊くのか、という疑念以上の嫌悪を表情にして、少年は吐き捨てた。

  「母親だよ。あのゴミ女のところに今から行くんだ」

  ルシオは即座に庭のデータベースに問い合わせる。人間の善行と悪行はすべてが記録されているため、少年に割り振られた番号からその母親を探し出し、悪行のポイントがいかほどのものかを確認した。

  「52ABX-329Jは……それほどポイントは高くありませんね」

  「なに? ポイント……?」

  「あなたのお母様の善悪のポイントです。過去のマイナスがかなりかさんではいたようですが、ある時期からかなり歯止めがかかっています。多くの善行でマイナスを打ち消しているようですね」

  「善行? って、いいことをしてるってこと。それ、あいつの――ぼくの母さんの話をしてる?」

  「はい」ルシオは頷いた。「あなたのお母様は現状、とても悪人といえるような人間ではありませんね」

  「そんな訳ないよ!」

  少年が声を張り上げる。それは次々と目の前で展開される超自然に対する諦念を差し置いた、強い怒りの発露であった。

  「あれは日焼けしたアリゾナのクズみたいな女だ。ぼくはその隣で焼かれて育った。何の根拠があってそんなことを言ってるんだよ!」

  「お母様のタイムラインを確認しました。再婚されて、娘が一人いますね。これは連れ子のようですが、お母様によくなついているようですよ。おそらく結婚を期に改心されたのでは?」

  「改心」少年はそれを鼻で笑った。「あり得ない。ぼくが小さい頃から、あいつはずっと性根が腐ってた! 母親らしい振る舞いの一つもしたことがない」

  店でカートに五〇品以上詰め込んで、十二品以下専用のレジに入り、「ネズミよ!」と叫んで金を払わずに店を出る――という、過去何度となく繰り返された母親の所業を少年が熱弁した。

  「そのようですね」ルシオは頷いた。タイムラインによれば少年の言葉は事実だった。「しかし今はもう違うのです。お母様は人類の中では間違いなく、それなりに上澄みの善人ですよ」

  ルシオの、山羊が持つ横長の瞳には落胆が浮かんでいた。悪人には、犯した罪に相応しいそれぞれの拷問を受けさせる。その拷問のデザインが、デーモンにとって最上の娯楽なのだ。しかし少なくとも、少年の母は拷問対象になりそうになかった。

  「そんなの、とても信じられない」

  「私はそれほど嘘を吐かないことにしているのです」

  「どうせ何か企んでるに決まってる。良い人のふりをしてるだけなんだよ! あいつが優しい顔をする時はいつもそう。金を盗んだり、物を盗んだり、男を盗んだり……あいつには良心なんて欠片もないんだから!」

  ――いい、落ち着いて聞いて。あなたの大好きな子犬のチディ、あの子はね、遠いところに行ってしまったの。虹を渡って、その向こうにあるきれいな花がたくさん咲いている場所で、これからは幸せに暮らすの。だからもう会えない。うちには帰ってこないけど、大丈夫、チディは今も向こうで元気に駆けまわって……え? あんたもそこに行きたいって? ちょっとやめてよ、わかった嘘よ、ぜんぶ嘘。チディは死んだの。はい、面倒だから泣くの禁止ね。だって知らなかったんだもの、夏の車の中が、あんなに……暑くなるなんて。おかげでバッグの中で、あんな、グロい……お墓ですって? 作る意味ないわよ。だって死体がないじゃない。昨日、バッグごと公園のゴミ箱に捨てたから、もうとっくに片づけられてるわ。だいたいあんなの飼うだけでいくらかかると思ってる訳? 餌代、トイレシート代、予防注射代……犬と遊んでればあんたもぐずらなくなると思ったけど、まったく割に合わなかったわ。可哀想にね、あんたが欲しがったばっかりに、あんなに小さな動物が死んでしまったのよ。わかったら二度と動物なんか欲しがらないで。じゃあね。母さん今日は帰らないから。朝まで電話かけてこないでよ――

  「もちろん、その話も知っていますよ。タイムラインにありましたので。しかしそれは過去に過ぎません。それまでどれだけのマイナスが積み重なろうと、多くの善行が続けばマイナスはゼロに近づきます」

  少年はせせら笑った。「みんながあいつから受けた仕打ちを打ち消すほどの善行って、いったい何をしてる訳?」

  「そうですね。少しショックがありますが、あなたにもタイムラインを見てもらうのが早いでしょうか」

  少年が戦闘的に鼻を鳴らす。

  「いいよ。タイムラインでもなんでも見てやるよ。あいつのやり方は知ってる。どんな魂胆か、見ればすぐにわかるさ。どんな詐欺の手口でも暴いてやる」

  「では、いきますよ」

  ルシオはそっと少年の額に指を当てる。そうしてデータベースの記録を少年にインポートした時――

  ぼふんっ!

  他人の記憶を一瞬にして読み込まされた精神がショートして、少年の首から上で、物理現象ではない爆発に類する何かが生じた。少年に怪我はなく、痛みもない。しかし髪や眉毛が焼け落ち、つるりとした見事な坊主頭に。ただし顔じゅう煤まみれで、何が起こったのかわからずに茫然となった少年が、ごほっ、とむせると鼻や口からも煙が出た。

  もちろん、ルシオによって少年は元通りになった。そして、少年が見せられたものを指してルシオは言う。

  「それが答えです」

  母のタイムライン。それは少年にとっては、見るも無惨な善行だった。

  母は、ある時は日曜日にボランティアへ参加し、ある時は親子で通っていた絵画教室のコンクールで娘の優勝を飛び跳ねて喜んだ。両親の離婚と、それに伴った様々な要因で心が塞ぎこんでいた娘に寄り添い続ける母の姿があれば、次第に娘が明るくなってゆき、よく笑うようになってゆく。娘は学校で友達が増え、帰宅すれば母に一日の出来事を一生懸命に語り、誕生日に友達を家に招く時には、母が部屋じゅうをパーティー仕様にデコレーションして、抱えるほど大きなテディベアのプレゼントを用意した。授業参観があれば、母は必ず出席した。PTAの書記に立候補し、当選は確実とされていた。朝は家で一番早く起きて朝食を支度し、夫と娘を送り出すと毎日必ず掃除と洗濯をして、夜は娘の宿題を見た。夜遅くに遊びに出かけることもなく、帰りが予定より遅くなる時は、それがたとえ五分でも夫に電話した。母の毎日に、だらしなく乱れた生活はなかった。同じブラを二日も三日もつけなくなった。彼女の財布の中には、金やカード類の他に、娘が描いた家族の絵がいつも折り畳んで入れてあった。母は嘘をつかなくなった。物を盗まなくなった。店で飲食すれば必ず代金を支払った。派手な化粧をやめ、肌の露出を抑え、食べるものにはいつの時も家族の健康を意識していた。

  まるで別人としか思えぬほどの母の姿だった。自身が幸せに生きることで周囲までも幸せにする、誰からも愛される母の姿だった。

  「いかがですか? お母様は十分によくやっているでしょう」

  「こんなもの、演技に決まってる……詐欺の手口なんだよ」

  「どうしてそこまで頑ななのでしょう」ルシオは淡々と言って、首をやや傾けた。「今の彼女は幸せに生きています。誠実で思いやりのあるパートナーであり、母親なのですよ」

  少年が、弾けた。

  「それは[[rb:ぼ > 丶]][[rb:く > 丶]][[rb:が > 丶]][[rb:欲 > 丶]][[rb:し > 丶]][[rb:か > 丶]][[rb:っ > 丶]][[rb:た > 丶]]母さんなんだよ!」

  母が本当に会心しているであろうことは、むしろ少年の逆鱗に触れた。

  少年の目は赤くなっている。

  少年の中から出てこようとするのは、母からの愛情を求める気持ちだった。かつてはそれが少年にもあった。それを、あいつは人間の屑だからと断定することで、封じ込めていた。求めたところで無駄とわかりきっていた。だから少年が十二歳になると同時に母から離れ、父方の祖父母の家で暮らすようになった。最低の母と血のつながらぬ祖父母は、人並に善良であった。少年の心は落ち着きのある凪の様相を取り戻した。本当に切実に親からの愛を必要とした時期は、もう過ぎていた。だからもういいだろうと納得したつもりでいた。とうの昔に捨てたと思っていた気持ちが、今になって具体的な熱と形を持って、少年の心をバラバラに引き裂こうとしている。

  「ぼくにもおやつを作ってくれる母さんが欲しかった! マックのボール・プールに落ちてるポテトを探せ、なんて言う人じゃなくてさ!」

  なぜ、血の繋がらぬ連れ子にはああなんだ? 改心のための百億の瞬間は、少年との暮らしにも存在していたはずであった。

  「きみが言うのは、あいつはいつでも変わることができたって意味になる。でもそれはぼくのためじゃなかった。なんで? なんであの子なんだよ!」

  ルシオはしばしの沈黙を挟んだ。言葉は頭の中で空転するばかり、音として口から発せられなかった。

  「私があなたの父親だったら、ここで何か慰めることを言うべきなのでしょうが、かける言葉がありません。申し訳ありません」

  ルシオの奇妙な物言いに、少年は少しばかり毒気を抜かれた。

  「父親って……きみ、ぼくと歳はあんまり変わらないように見えるけど」

  「私は先日、今度の庭の設計のために生み出されたばかりなので、人間の理屈ではゼロ歳ですよ」

  「だったら父親どころか赤ちゃんでしょ……理屈とかじゃなくて、ゼロ歳はゼロ歳なんだから」

  「そこがジェレミー・ベリミーでは違います。ですので――はい。十四歳になりました。たった今」

  「ああ、そうなの」

  十四歳って、ぼくと同じじゃないか。少年は思っただけで言わなかった。訳のわからない山羊の化け物と歳が同じというのは、否定的な感情の他に何も湧いてこないのだった。

  「認められませんか?」

  「いや、そりゃあ、まあ、背の高さだってぼくと同じくらいだけど……」

  「そうではなくて、お母様のことです。過去を悔い、よりよい人間になろうとするのは、良い変化では?」

  「でもだからといって、ぼくが受けた傷が消えてなくなるじゃないんだ」少年はかぶりを振った。「あの母親のせいで、ぼくはこの歳でいまだに友達の作り方も知らない」

  「彼女の良い行動は、確実にあなたがた親子の遺伝子ではありません。良い人と出会ったのですね。人間にはこのようなことがしばしば起こります。人間の情緒というのは非常に複雑怪奇ですよ」

  「良い人」というのが母の再婚相手であることはタイムラインからわかりきっていた。少年はまさに、その再婚相手と話をするつもりでいた。あなたが結婚した女が本当はどういう人間なのかを。油断している隙に全財産を持ち逃げされる前に、あるいは娘の成長に甚大な被害をもたらす前に、彼女を追い出すべきだ――と。

  しかしタイムラインを見た少年はもう理解していた。母とその夫は、出会った日の夜に、すべてを語り合っていたのだ。夫は、彼女がどういうことをしてきたのかを理解しながら再婚を決めた。「その野性味がセクシーなんだよ」と夢中になっていた。結果、彼女は家族の生活を大切に守って生きている。娘の宿題を手伝いながら、逆に娘に掛け算を教わるような母でもあるが。

  「あいつは、自分で立候補したくせに、そして当選確実なのに、書記が何をする役職なのかさえわかってないんだよ」

  「はい」

  「でも、それもぜんぶ子どものためって言った。この学校の子どもたちに最高の教育を受けてもらうためって」

  それはルシオと少年が見たタイムラインの最後だった。今からたった一時間前、彼女はそのような演説を披露し、二位の三倍以上の投票数によりPTAの書記に当選していた。彼女の知能から推して、演技では決して出てこない言葉であった。本当にそう考えているのでなければ思いつくはずのない言葉。PTAが具体的に何をする集団かも知らないまま、それでも娘が通う学校を少しでも良くできる仕事と確信して、立ち上がり、支持を受けている。

  「行くよ」と、少年は言った。「ぼくは母さんと話をしないといけないらしいから」

  「それがよろしいでしょう」

  ルシオは微笑んだ。山羊の顔では、それが微笑みかどうかさえ少年はよくわかっていなかった。

  「ところで、きみの『調査』って?」

  最後に少年が尋ねた。結局、ルシオが何のために地上へやってきたのかを聞いていないのだ。そしてルシオは、尋ねられれば答えられることは答えるデーモンだった。

  「ポイントシステムの欠陥を突き止めねばなりません。実は今、死んだ人間たちは正しい場所へ送られていないと考えられます」

  「大変な仕事だね」少年は曖昧な理解のまま相槌を打った。「でも、重要な任務なんだね」

  「ええ、とても」

  「本当は、きみの言ったことがすべて嘘で、タイムラインなんて幻を見せてぼくをこっそり拷問してるのかもしれないと思う」

  「そうではないと証明するのはきわめて困難です」

  「でも、信じてみるよ。信じようとするところから始めてみるよ」

  ルシオは手を振った。「じゃあ、[[rb:ま > 丶]][[rb:だ > 丶]][[rb:ね > 丶]]」

  「まだ? 何が」

  「人間は別れの挨拶にこう言うのでしょう」

  少年は笑った。今の少年は、笑って母に会いにゆける気持ちになっていた。

  この世で最もプラスのポイントを稼いでいる人間の家を、ルシオは訪れた。デーモンの特別スーツで人間に化け、雑誌記者を装って彼の暮らしぶりを聞き出すためである。

  その人間は、森に暮らす老人だった。

  老人は昔、マジック・マッシュルームでハイになっていた時、友人と「死んだ後はどうなるのか?」というテーマについて話し合い、その直後、幻覚の中で死後の世界の仕組みをはっきりと見た。老人はその幻によって、ポイントシステムを完璧に理解したのだった。突拍子もないことだと考えながらも、彼は綿密に人生の計画を立て、マイナスのポイントになることはすべて避けるようになり、善行のみで生きている。

  老人の話を聞いて、ルシオは確信した。現在の地上で、システムが想定するような道徳的行動を取るのは、ほとんど不可能レベルの無理難題となっている。

  タイムラインが始まったばかりの原初とは違い、世界が複雑さを増した今では、たとえスーパーでトマトを買うだけでも、有毒の農薬を肯定し、労働力を搾取し、地球温暖化に寄与したことになってしまう。ひとつの選択には不本意ないくつもの選択がつきまとい、人間は知らぬ間にマイナスポイントを増やしながら生きるしかない。あるいは、それを避けるために老人と同じように暮らさねばならない。

  食料は当然のこと電気までも自給自足し、水に至っては排泄物までろ過して使う。人に水を出す時はちょうどよい温度で飲めるよう氷とお湯も添える。虫一匹に至るまで命を大切にし、すでに名前がついていると気を悪くするかもしれないと名前では呼ばず、死んだら墓を作って丁寧に弔う(ルシオが訪ねた時、老人は誤って踏みつぶしてしまったカタツムリの葬式中で、ルシオのインタビューを済ませた夕方には死んだカタツムリの栄誉を称えるために軟体動物協会に寄付をすると言って出かけていった。徒歩で行くため、往復で三週間はかかる)。植物を育てるには二酸化炭素排出量を考慮して、ラディッシュとソラマメに限定し、かつ育てるのみで摂取はしない。近所の悪ガキから理不尽なことを言われても、悪質なイタズラの被害を受けても、決して怒らずにすべて許す。森に迷い込んだ動物はすべて保護する。化粧品会社が動物実験をしないように自分が実験体になる――

  老人は[[rb:幸福 > ハピネス]]ポンプだった。最大多数の最大幸福を目指すあまり、自分を犠牲にして生きている。化粧品のテストで炎のマスクをつけたように顔面が熱くなっても、老人は動物を助けるためであればまったく構わないと言った。どれほど自分が惨めになろうと、人を喜ばせるためであれば文字通り何でもする。

  ――おじいさん、あなたのここでの暮らしぶりは本当に素晴らしい。思慮に溢れていて、決して贅沢をしないのにとても豊かです。

  ――それはありがとう。とても嬉しいよ。ぜひお礼がしたい。水をもっと出そうか? 何か足りない物は? 肝臓をひとつやろうか?

  ――いいえ、結構です。しかしですね、私が思うに、あなたはもっと……

  ――わかっているよ、もっと献血すべきということはね。しかし以前に献血した時は貧血で倒れて、逆に輸血されてしまったんだよ。

  ――違います。もっと気楽に生きてみてもよいのでは、と言っているのですよ。私が知る限り、あなた以上に、自分を人やカタツムリに捧げて生きる人間はいません。あなたの死後の世界の話が本当だったとしたら、もう十分すぎるほど善のポイントを獲得しているでしょう。ですからもう少し肩の力を抜き、楽しんでみては? レンズ豆以外のものを食べてもよいのですよ。

  ――ラディッシュとかか?

  ――いいえ、そうではありません。アイスクリームやチキン・パルメザンのことです。人生を楽しむのです。旅をしたり、自分の水分で作った以外の普通の水を飲んだり、もっと気楽に生きて……

  ――ありがとう、雑誌記者さん。しかしそんなことはできない。リスクは侵せないよ。どこかに私の行いをすべて記録する三十億人の会計係がいるんだ。あなたの言う気楽な生き方で、「良いところ」から閉め出されるほどポイントを失ってしまったらどうする? デーモンたちに永遠に拷問されるよ。

  ――ええ……ええ。その通りですね。

  ――だから、一瞬たりとも無駄にはできない。これが唯一の合理的な生き方なんだよ。それでは失礼。軟体動物協会だけでなく、カタツムリチャリティーにも寄付をしたいからね。

  私はどうすればよいのでしょう、とルシオは言った。

  「それ、ぼくに言ってるわけ?」

  少年である。不明な経緯によって入手した、ルシオが運転する車の助手席に座っていた。

  少年の、母との対話は穏やかに完了した。善行に満ちた暮らしを送る母は、今もひとつだけ悪行を続けていた。それは夫の財布から金を抜き取ることである。しかし今度の盗みは性質が違っていた。母は金が欲しかったのではない。なにもかもが台無しになった時、行方をくらましてどこか違う場所で再スタートするための逃走方法を準備しておかねばと言っていた。それはつまり、彼女は、今の暮らしを気に入っている証明となった。決して失いたくないと考えていた。

  いいえ気に入ってなんかないわ、こんな平凡な生活、あたしはこんな退屈な暮らしに収まる女じゃないんだから。あたしは平凡じゃあない。平凡はあんたよ! じゃあなんでヨガ・パンツをなんて穿いてるのって、娘の放課後にママ友とヨガに行くからよ、そのあとは週末の夜だからみんなでレストランに行ってチーズ春巻きをシェアするの、ワインをもらってね。ワインの銘柄? シャルドネよ! しかも氷入りのね。でも一杯で眠くなるの。だから途中で水に変えるわ……家まで帰らなきゃならないから……ああまったく、こんなのあたしじゃない、絶対にあり得ない……これじゃあ[[rb:オ > 丶]][[rb:タ > 丶]][[rb:ク > 丶]]よ!

  少年は母を諭した。

  まったく、もう……ねえ母さん、それでいいじゃん。幸せなんでしょ。だったら逃げることなんか考えたらだめだよ。盗んだお金はぜんぶ手放して。それは家族のために使うんだよ。小さな女の子がいるんでしょ。ぬいぐるみをたくさん買ってあげてるんだってね。じゃあ、あとはベッドとか、進学資金とか、あとは……車? わかんないよ、子どものことなんか。言っとくけどこれ、母さんのせいだからね。子どもに何が必要かなんてまったく知らない。でも、こんな育て方はしたらいけないんだよ。それに旦那さん、母さんのどうかしてるところを受け入れてくれたんでしょ。そんなの奇跡じゃないか。もう負の連鎖は断ち切って、ちゃんと家族に向き合って。

  少年は母とハグをした。あんた、本当にあたしの子なの? こんなに成長していたなんてね……うん、そうだよ、でも母さん、この感触、もしかしてブラにもお金入れてるの……そう、いつも入れてる。だからブラは洗わなかった……いや下着は毎日洗って……

  そうして別れた。その帰りの近道、つまりルシオと出会った裏路地で、少年は待ち伏せにあった。ルシオだった。ルシオはIHOPでいつでもどこにでも現れることを可としていた。

  「世界の仕組みを操作するモンスターたちの話なんか手に負えないよ。ぼくはただの十四歳の子どもなんだよ」

  「ですが、こんなことはあなた以外に話せません」

  「友達みたいなこと言って」

  ルシオは運転のために前を見つめながら、たっぷり時間をかけて目をぱちくりとさせた。

  「友達? デーモンが、人間と?」

  「そうなんじゃない? 知らない。友達なんかいないもの。作り方も知らないし、一生できない気もするし、でもそれで別に寂しいとも思わないんだよ、ぼくは。母さんのせいでそんなふうになっちゃった」

  少年は、母を許すとは言えなかった。過去と呼ぶには、直線のタイムラインを生きる人間にとっては、今はまだ経過が少なすぎた。そして少年は、これまでずっと過去を直視することを避けてもいた。

  しかし今は、母をデーモンはびこる拷問地獄へ行くことを阻止したいようにも思っていた。なぜって、あの呆れるほどの平凡ぶりといったら! 母は罪もない主婦になっていた。その行いすらもマイナスだと言われたら、少年はもう、この世界で何を善と思えばいいのかわからない。

  「では、あなたは私の友達と暫定します。友達は友達の相談に乗るものですから、何か考えてください」

  「ぼくはまず何を考えればいいのかも知らない」

  「私が設計する新たな庭での拷問方法です」

  いずれ自分がかけられるかもしれない拷問を自分で考えろというのか。少年は相手にしない。

  「聞いてください。私の庭での拷問は、マイナスを清算した人間を『良いところ』へ送るというものです。過ちを認め、反省の数値が閾値を越え、テストの結果、以前よりも良い人間になったと判断されれば、拷問から解放されて『良いところ』へ送られる。そうして拷問に終わりを設けなければ、拷問を受ける人間は増える一方で、庭はパンクして魂が待機列に放置され、デーモンは休む暇もありません。多くの人間を一度に拷問するやり方は、大雑把で大味で、ちっとも美しくない。ひとりひとりに最適なやり方を考えてこそ、拷問は芸術に昇華するのです」

  少年は曖昧にうなずいた。「まあ、きみの拷問はそんなに悪いもんでもなさそうだとは思うよ」

  「そうでしょう、そうでしょう」満足げに微笑むルシオは、次には嘆息した。「全身が燃えている巨大なイカのデーモンなど、ひどいものです。彼の拷問はすべて……[[rb:針 > 丶]]なのです。信じられない。ヒステリックだし、不健全ですよ。[[rb:針 > 丶]]だなんて!」

  少年はデーモンの美的センスになど興味はない。「とりあえず、ポイントの仕組みが失敗してるってところから訴えてみたら? きみの上司の、なんだっけ……」

  「判事に?」

  「そう。その判事って人、世界を終わらせられるくらいなんだから、システムを組みなおすくらいできないの」

  「そもそも、判事は私の訴えに耳を貸してはくれないでしょう。トマトを買ってマイナスがつくのが嫌なら、ちゃんと調べて安全なトマトを自分で選べばいい、そこにはただトマトを買ったという事実があるだけで、その選択をしたのは人間自身の意思であり、世界が複雑になっていることなど発見でもなんでもない……大方そのような判断が下されるでしょう」

  「いや、それはちょっとおかしいよ」

  少年は、ルシオの話を真剣には聞いていなかったが、ささやかに失笑しながら視線を窓の外から運転手へ移した。

  「ぼくのクラスは今、合唱の練習をしているんだよね。音楽の授業の課題でね、他のクラスと競うことになってる。で、伴奏のピアノを弾く女の子がいるんだけど、ぼくのクラスには他にピアノを弾ける子がいないから――」

  「遮るのは大変恐縮なのですが、それはいま何か関係が?」

  「いいから黙って聞く」少年はルシオを手で制した。「その女の子は去年、お母さんを亡くしてるんだよ。それで、お父さんが仕事に出ているあいだ、家では家事をやりながら、具合の悪いおじいちゃんとおばあちゃん、それから下の妹三人の面倒も見て、もちろん自分の課題もこなさなきゃいけない。だからぼくらは、その子のピアノなしで練習することもあるよ。でも誰も文句は言わない。なぜって、その子にとっては練習に来るだけでも大変なんだって全員が知ってるんだから」

  練習が終われば、彼女は荷物をまとめてすぐに買い物に行かねばならない。わざわざ遠い店を選んででも、少しでも安く買える店へ飛んでゆく。

  「その子に、店に行く前にスーパーのお買い得トマトが安全かどうかを調べる時間なんか、ある訳ないだろ! 判事だかなんだか知らないけど、これくらいの人間の暮らしを知らない人に、人間の善悪の判断がつくの?」

  「素晴らしい!」

  ルシオは少年の手を両手に包んだ。

  「その通りです、あなたの仰ったとおりですよ!」

  「ちょっと、ハンドル! ハンドル離さないで!」

  「あなたしかいません。私といっしょに判事を説得してください。地上の暮らしを伝えて、システムの不具合修正を考えていただくにはあなたが必要です!」

  「わかったから前見て、前! 運転を、しろ!」

  「聞いておきたいんだけど、どんなところなのかな。その、きみたちのところって」

  [[rb:人 > ひと]][[rb:気 > け]]のない工場地帯、打ち捨てられた巨大倉庫のような建物で、少年は訊ねた。眼前には名状しがたき輝を放つパンケーキ状の渦が浮いている。

  「最初に行くのは、ただの場所というか、エリアというか、良くも悪くもない、なんでもないところです」ルシオは質問には事実で応じるデーモンである。「そこからデーモンの住処に入りますが、心配はありません。あなたは私が拷問するために連行しているよう見せかけます。もしバレたとしてもIHOPを開いて逃げられます。急いで開くと調整不足で全身が分解されて液体化する恐れはありますが、そうなっていなければ無事に別の場所に移動して、また方法を考えればよいのです」

  「うん、わかった。でもその前にひとついいかな。なんというか、そこには、その……ええと、つまり……行きたくない」

  「またまた」

  「いや冗談じゃなくって。よく考えれば、拷問されようがなんだろうが、死んだ後のことなんてどうでもいいような……」

  「死後の暮らしは基本的に永遠ですよ。地上での暮らしよりもはるかに長いのです。そのあいだ、あなたは自分が意図すらしなかった選択についてを咎められ、その責任を問われ、やってもいないことを謝罪させられ、人生のすべてを誤謬だと聞かされるのですよ。未来永劫に渡って」

  「でも今すぐに命の危機に直面してもいい理由にはならないよ」

  「そうですか……では、選択肢を用意しましょう」

  ルシオは少年に向き直り、指を立てた。少年が注目する。

  「まずひとつ目は」

  「うん」

  提案を待つ少年の背中を、ルシオが押した。前方につんのめった少年は、両手を前に伸ばしながら悲鳴と共にIHOPへ吸い込まれ、地上から姿を消した。

  ルシオを何事もなく後を追う。光の渦を通過した先は、見渡す限りが春コレ模様のおびただしく胡乱な空間である。光でできたパンケーキがそこかしこに飛び交い、蛍光グリーン色の巨大ナメクジが宙を這っている。ある場所の、宙が折りたたまれているとしか表現しようのない謎の物体もしくはポイントもしくは現象などは、じっと見つめていると刹那のうちにそれそのものが無数の刃物のような形を取って飛来し、無感覚の滅多刺しを受けながら一兆通りの現実が光景として見えた。

  「捕まえた」

  ルシオが肩を掴み、少年が我に返る。

  「それがタイム・ナイフです。あまり見ていると価値観が仙人のようになってしまいますよ。よそ見はせずに行きましょう」

  「た、た、タイム・ナイフ……ぼくは……タイム・ナイフを見たの……」

  朦朧としながら、少年はルシオの後をついて歩いた。それ以外にどんなことができるというのだろう? ほとんどルシオに誘拐されたような少年は、意識が判然としないことでむしろ、徒歩という動作だけを単調にリピートするうちに、「まあ来てしまったものはしかたないし……」と腹を括るような気になりつつあった。当然いくらか、やけくその感も自覚しながら。

  ルシオは、判事の元へ続く専用のIHOPへ少年を案内しながら、その間じゅう、彼の母親のことを思っていた。ありとあらゆる悪辣の限りを尽くした女性が、そのマイナスを振り払うほどの善良な人間に変わっていったことを。デーモンの拷問などに頼らずとも、行いを反省し、自分を変えてゆこうと願い、努力した人間のことを。

  少年の母は、人類の希望とまでは言えない。あくまでも稀な例に過ぎない。エレメント・モデルのようにはとても扱えない。しかし、良い人間になりたいと行動を重ねるその実績に対して、ポイントという古代のシステムによって評価が歪められている。これまでに「悪いところ」へ送られてしまった人間の中にも、彼女のような者がいたかもしれない。デーモンが拷問する人間は無数に存在する。おそらく、いたであろう。

  拷問対象を適切に選別しない、誇りなきいい加減な拷問。そんなものは、ルシオにとってそれこそ拷問といえた。いわれなき魂に、誤った正義を振りかざす――ルシオ・カブラルは、それで高潔を語れるとはとても思われない。そしてまた、ポイントシステムが理想とする人間は、森の老人のような幸福ポンプなのである。客に小便を飲ませるのが道理であってたまるか。

  「しゃんとしてくださいよ」ふらふらとおぼつかない少年に声をかける。「あなたはこれから、神を相手に正義の話をしようというんですよ」

  「神!」少年の落ちかかった瞼が、ぐわと開いた「え? 判事って神様なの?」

  「そのようなものと考えていただいて差し支えないでしょう。しかし、判事はミシガンのお買い得スーパーでトマトのパックを見つけることがどれほど困難かを知りません。神とて、全能とはいえ全知ではないのです」

  「全能なんだったら、全知にもなれるんじゃないの?」

  「近頃の判事は連続ホラードラマに熱中していますから、他に目をやる余裕がないのですよ。私がこの姿で生まれたのも、ドラマのマスコットが山羊のキャラクターだからです」

  「なんか楽勝で説得できる気がしてきた……」

  「その意気で頑張りましょう。全人類の死後が、我々にかかっていますよ」

  気の抜けた会話をしながら、ルシオと少年はIHOPを進む。生後ゼロ年(十四ジェレミー・ベリミー)のデーモンと、ネグレクトを受けた男子中学生は、神に喧嘩を売るために。

  「あ、そういえば地上に干渉したのがバレたら『世界を終わらせるやつ』を持ち出されるんじゃないの?」

  「あっ」

  「えっ?」

  「そうでした。どうしましょうか。何か考えてください」

  「ええ……」

  ――人類の死後は、どっちだ?