一
二十分、ポーズを取る。木製の椅子に深く座り、背もたれに体重をかける。尻尾のの落ち着くところを探してもぞもぞやって安定させると、脚を組んだ。椅子の手すりに腕を置く。視線を走らせる。黒い毛皮に、同じく黒いエプロンを付けた正太郎さんの背後、作業途中の油絵や、鉛筆画の立てかけられたアトリエの白い壁は年季の入ったくすみのせいでほとんど生成り色に近くなっている。経年劣化で無作為にできた染みの一つを選び、俺はそれにぴたりと瞳を合わせる。
鼻から深く息を吸って、吐く。油のもったりしたにおいや、薬品のぴりっとしたにおいが肺一杯に広がる。
ぐりぐりと肩を回し、俺は身体のかたちを決める。
休憩して戻ってきたときに違うところに足を置いてポーズがずれないように、正太郎さんが爪先の位置にテープを貼り、かち、と時計のスイッチを押した。
開始。
狼特有の、というか正太郎さんは狼の中でも強面なので、俺が出会った狼族の誰よりも威圧感たっぷりな切れ長の瞳が、俺の身体に視線を這わせる。肉食獣の、獲物を見定めて距離を測る瞳は、今では俺の輪郭を捉えるために働いていた。俺が着ている群青色の細身のデニムと、硬めの質感の白い綿のシャツを通して、視線が髪の毛、茶色の毛皮の一本一本に至るまで精密になぞる。毛並みの下の皮膚の輪郭まで見通しそうな、硬質な鈍色の瞳が俺を映す。唾液を飲み込む。
染みから目線を外さず、俺は少しだけ緩みそうな頬を引き締めた。力みは外し、体勢の保持のためだけに筋肉を最低限の強度で、しかしブレなく一定に保つ。まばたきをしても、眼球は動かさない。
視線が耳の先から爪先までなぞり、ある程度立体や陰翳の構造を把握すると、正太郎さんはカンバスに鉛筆を走らせ始める。正太郎さんは慣れたもので、片目を閉じて握った鉛筆を合わせるなんてことはしない。見て、描く。
さっ、さっ、と柔らかな黒鉛がカンバスを擦過していく。大まかに形を捉え、曲面と陰翳と質感が写し取られる。線の一本一本が、今ここにいる実体の俺から運び出され、カンバスに転写される。その度に、衣服から一本ずつ繊維を抜き取られ、ゆっくりと何かを脱がされているような妄想にとらわれる。正太郎さんの視線と手の動きには、真摯で、淫靡な気配があった。これこそ俺の妄想なのだろうけれど。
絵画のモデルはただ同じ姿勢を取り続ければいいというものではない。一年ほど正太郎さんのところでモデルをやってきて、そのことにすぐ気づいた。顔の緊張が解ければ緊張の解けた顔になるし、瞳から力が失われれば力のない瞳に変わる。そしてそこに存在していた重みのようなものが、溶けてだらけてしまうのだ。視線を固く、顎を引いて、表情から緊張を抜かないこと。普段俺の身体に充満している俺自身を抜き去り、物体としての「俺」でいること。それがたぶん求められていた。肉体の客体化を行う視線に、むしろこちらから協力して肉体を脱ぐということ。
モデルをしている間は動かないからと言って、考え事にも向かない。考えていれば自然と視線が動いたり、脚を組み変えたり、手を顎にやったりする。それではよくない。かといって、身体を動かさずにいる思考はあまり深いところまで行くことができない。浅瀬をぱちゃぱちゃとやっているような、堂々巡りのような思考になって、結果として肉体をだらけさせてしまう。
もちろん、そうは言っても正太郎さんは、溶けようがだらけようが明らかに姿勢が変わらなければ、何も言わないし、バイト代も変わらないだろう。しかし、最初のだらけたときの絵と、最後まで「俺」のままぱりっといられた絵では、そこに何か骨子のようなものが異なっていた。姿勢を保っていること以上に、肉眼では見えないわずかなゆるみが絵に表れていた。
その絵を見たときに、ぱりっといよう、と思った。二十分ポーズ、十分休憩の三十分のサイクルで、正太郎さんが俺から何かを捕らえようとしているのだから、捕らえられるように道を作ろう。
とはいえ、緊張の中で時間の進みはのろのろとして、ほとんど苦痛に近づいてくる。それに耐えていると、やがてアラームが鳴る。
「休憩だ」
時計に新しくアラームをセットする正太郎さんは、口の端を引くと笑顔になるんだよな、という作り方をした控えめな笑みを浮かべる。粘膜の隙間から乳白色の牙が覗く。俺は笑みを浮かべ返すと、指を汲んで大きく伸びをした。
三十分を何セットか繰り返し、アトリエに入る日光が薄まると、正太郎さんが切り上げた。
「ご苦労」
俺はまた伸びをする。デッサンが終ると、正太郎さんは決まって、「ご苦労」と言った。彼の声は驚くほど低く、ともすると恐ろし気に聞こえるのだが、この時は俺をねぎらうように優しく、柔らかい響きを帯びていた。俺はこの響きが好きだった。
アルバイトが終ると、決まって正太郎さんと食事をした。メニューにはこだわりがないのかあるのか、パスタと牛肉のステーキにワインの洋食だったり、鰹のたたきと米と焼酎だったりと振れ幅が大きかったが、貧乏学生だった俺からするとただで飯が食えること以上のものはなかった。正太郎さんは食が細いのか、さっと食事を済ませると、酒を飲んでいた。
そして封筒に入った給金を受け取り、辞する。
こういうところから正太郎さんとの関係が始まったものだから、いつ俺が正太郎さんのことを好きになったのかは定かではないし、正太郎さんは果たして俺のどういうところを好きになったのかもよく分からない。でもどにかく俺は大学を卒業すると、正太郎さんと正式な交際をした。
社会人になったばかりの当時はまだ、正太郎さんのペニスは常に硬く、精液も年の割に濃かった。粘液だけでなく、白いぷちぷちとした精子が俺の肛門で何度も放たれた。俺は大学時代から正太郎さんが気になっていたとはいえ、それなりに経験を積んできていたので、彼のセックスは痛みよりも快楽の方がずっと多かった。
そこから三年。住んでいたアパートの更新を期に、俺は正太郎さんと同棲することになったのだった。もちろんここには色々とディティールがあるわけだけれど、そんなことは些末な事である。大事なことはこの後で、年のせいか、正太郎さんの勃起が悪くなってきていた。俺のアナルに男根を挿入し、その後、二人とも行きたいところまで行けずに正太郎さんの勃起が終ってしまったり、挿入にたどり着けないことも増えていた。
今回もそれだ。
洗浄時にほぐしきり、ベッドで念入りにフェラチオを施して、そして挿入をしようと正太郎さんの男根が肛門に触れたときである。俺の股を割るように両手で広げて、その向こうから、おずおずと正太郎さんはため息をついた。
「……すまん」
ごとりと正太郎さんの頭が下げられる。武士みたいだった。彼の目の前で俺のペニスは勃起しているのを何でもないことのように、指先の肉球で、彼の頬をさらりと撫でる
「いやいや、とんでもないです」
あるあるっすよ、と明るく言おうとしたが、年上の男と経験豊富みたいなことを口にしない方がいい気がして、やめた。股割りの脚を外し、身体を起こす。あぐらを絡めるように抱き合って腕を背に回し、毛流れにそって手の平を滑らせる。艶というよりは乾燥でさらさらと指が流れていく。更に細くなっているのか、毛皮と皮膚を通して肋骨の波があった。口吻の先端同士を触れ合わせるだけの軽い口付けをすると、老いたにおいがした。
自嘲気味に正太郎さんが口の端を引いて笑う。
「どうも最近うまくいかない……。年かもしれないな」
「それもまたチャームポイントかもしれません」
「慰めになっていないぞ」
「ま、そんなときもありますよ」
正太郎さんが細く息を吐くと、俺の抱擁から抜けた。
「すまん、流してくる」
俺は笑いかける。
「ごゆっくり、です」
彼が部屋を出ていくと、俺の興奮と勃起だけが残される。
どうしたものか。
帰ってくるまでに萎えそうなものだが、せっかく洗ったのにもったいないので軽くアナニーすることに決める。傍らのローションを左手に出すと、揉み込んで指の肉球や毛皮に纏わせる。粘液を纏った指を、犯されるはずだった穴に差し込んだ。
「ん……っ」
久々だったので、自分の指がにゅるりと入り込んで来る快感で声を漏らしてしまう。門が関節を飲み込む刺激がたまらない。拡張と言うほどではないが、それなりに場数を踏んできた門は柔らかく、俺の指程度ならすぐに飲み込んでしまう。
仰向けになって、正太郎さんに犯される時の体勢みたいに脚を開き、指を根本まで入れる。本数は増やさずに、指の腹で男根の裏側をゆっくりと押し込むと、反射で穴がきつく指を締め付ける。自分の前立腺くらい自分で把握している。そこを優しく撫でるように、く、く、と柔らかい部分を刺激する。
「あぁ……っ!」
前立腺の緩やかな快楽で、触りもしていないのに尿道口からじわりと先走りが漏れる。
あまり時間をかけても正太郎さんが戻ってくるかもしれない。
ペニスに手を添えると、先ほどまでの未遂で高められた興奮と、後ろの快楽が感度をあげている。後ろに入れた指は派手に動かさず、前立腺を押し込んだまま、ペニスを扱く。
「う、うぅ……っ」
指の腹で刺激されている前立腺が弾力を増す。太ももに甘い痺れが溜まってくる。俺は我慢せず早々に自分の腹に精液をぶちまけた。
精液やローションをふき取り終わり、ティッシュをゴミ箱に捨てて、大の字になって一息つく。せっかくのセックスだったのだが、これから先どんどんこういう展開は増えていくのだろうということは簡単に想像できた。俺としてはアナルセックスは絶対に必要という訳ではないし、射精がマストという訳でもない。だからと言って、性欲はそう簡単に乗りこなせはしないだろう。こっちはまだ二十代の半ばで、還暦のペースに合わせるのは難しいはずだ。セックスができないこと、というよりは、セックスができないために正太郎さんへの気持ちが醒めていく恐れの方が大きい。当面はオナニーの回数を増やしていくか。
こういうとき、リバ同士だったらまた違う展開があったのかもしれない。でも俺はタチをやっても楽しくなかったし、正太郎さんも犯されることへの拒否感が強かったので、言っても仕方ない。
むしろ俺の性欲の問題よりも、正太郎さんのフォローの方が重要かもしれない。還暦の男の性欲がどれくらいあるのべきなのか知らないが、勃起の喪失は遅い方ではないだろう。
対応としては病院に進めるか、民間薬か、自然に任すか、あたりに落ち着くのだろうがどうしたものだろう。こちらから水を向けるのも、まるで治せと言わんばかりだ。こちらからは触らずに、気にしている風だったら病院を薦める、くらいが妥当か。
「戻ったぞ」
「おかえりなさい」
考えているとわずかに隙間が空いていたドアから正太郎さんが入ってくる。俺は先ほどのことを引っ張っていないと示すために、俺は敷いてあるバスタオルを剥いで、掛布団をめくる。おどけた調子でベッドに誘導すると、苦笑して全裸のままで正太郎さんがベッドにもぐりこんだ。
バスタオルとローションを持って風呂場に歩いていく。一番怖いのが正太郎さんの落胆である。何とか力になりたいが、こちらから触るのも配慮に欠けるだろう。
二
正太郎さんが画家を引退してからは画廊の管理者に落ち着いた。画家の生活スタイルよりかはずっと安定した収入になったし、厳しい仕事もほとんどないようだったから、正太郎さんには合っているようだった。外見の威圧感も、仕立てのいい正装で画廊に立てば、信頼できそうな画商に見えた。実際、画家時代のコネもあって、売れ線の作品を集めることが出来た。そして正太郎さんには売れそうな作家を見分ける眼が備わっていた。これはたぶん、何かの伏線だとか、何かの暗喩とかではなく、ただそういう才能が脈絡もなく表れていた。甲斐犬の俺が生まれつき筋肉に恵まれるように、狼の正太郎さんは獲物を見る目に恵まれていた。
残業がちょくちょくある俺にかわって、帰宅の早い正太郎さんが家のことをしてくれたが、そういう売れ線の展覧会を企画したときはいつも帰りが遅かった。
牛肉のなんとかだとか、鰹のなんとかだののしゃれた料理は作れないので、大人しく肉じゃがやシチューを出す。正太郎さん「うまいよ」と言いながらそれでパンや米を食べ、酒を飲んで、風呂に入り、眠る。
金曜、正太郎さんが言いにくそうに、
「明日、個展で取り上げる画家が来る」
と夕食中に言った。眉間にしわが寄っている。やや不本意な予定なのかもしれない。
「珍しいですね。あんまりそういうことないですよね?」
「古い友人なんだ。久々に会ったもんだから、流れで家に来ることになってしまった」
「でもあんまり大した料理作れないですよ、材料もないし」
「いや、そいつには何も出さなくていい。つまみも酒もあいつが買ってくる。もし足りなそうなら、私がその場で何か作るさ」
そいつ。
こういう言葉遣いは珍しい。
古い友人と言っていたし、けっこう気安い間柄なのかもしれない。
「その画家って、名前は何て言うんです?」
「仲須田和夫。絵もその名前で書いている。ジャンルは油絵」
差し出されたスマホには、仲須田氏のものと思しき作品が表示されている。油絵独特の重々しいタッチを強調するように、分厚く荒々しく絵の具が塗り込められている。色彩は暗くずっしりとしている。構図は不安定で、黒と白の明度の差が不安をあおる感じがあった。
「眼だ」
正太郎さんがうなずく。
描かれているものは黒い瞳だった。抽象化された瞳が、影から明るい方へ視線を投げかけていた。そこに描き込まれているはずの感情は、俺の審美眼では分からない。もしかしたらないのかもしれない。ただの瞳。鏡としての機能しか持たない瞳。
昔、俺が意識したような、何か一つを強く見つめるぱきっとした瞳だった。
翌日の日没後、その画家がやってきた。当初通り、俺たちは何も用意していない。ペットボトルのお茶と、新しいワインを用意しただけだ。
インターホンが鳴り、正太郎さんが玄関に出る。俺はお茶をグラスに注ぎ、テーブルに準備する。
「よう正太郎。昨日は稼がせてもらったぜ。これ、おみやげな」
「そりゃどうも」
言いながら、どたどたと足音を鳴らして男が現れた。正太郎さんと負けず劣らずの巨漢で、薄い鞄と、四角いものが入った袋を提げている。においでピザだと分かった。
「ああ、こっちが例の? えーっと、一緒に住んでる……あ、仲須田和夫といいます。ええっと……」
「仁科蓮です」
「おう、よろしくな。蓮君」
大きながらがら声の猪と握手をする。力に満ちた分厚い手だった。よく指先の蹄が手入れされているが絵の具がまだらに染みていて、中指に指輪がはまっている。
上背は正太郎さんの方があるが、横幅の三倍はある。ベージュのセットアップに、白いカットソー。耳には銀のピアスが光っていた。ファッショナブルな中年男性。地味な服を好む正太郎さんとは正反対だ。というか、あんな重苦しい作品から連想される繊細そうな、陰性な作者像とも正反対だ。外交的で、どこか好色そうな雰囲気さえある男である。あの暗く重たい絵がこの人から出るものなのか。
いきなり名前呼びだし。
出会ってすぐに間合いに入られてしまったような感じ。
ぐいぐいきて主導権を取る感じ。
こういうタイプ、嫌いじゃないのだ。
正太郎さんは好きじゃなさそうだ、と思って彼の方をちらりと見ると、彼はテーブルに着き、仲須田さんのお土産らしき袋を広げている。
「久々だしよ、若者もいるってんで、取り合えずいろいろ持ってきたんだ」
氏が持ってきたのはピザに加えて、生ハム、乾きもの、スナック、と無作為なものだ。それとチューハイの缶が数本。ぼんやりとこれは若者向けで、これは正太郎さん向けのものだろう、と想像がつく。でも本当は持ってきた本人が食べたいものだったりするのだが。
にかっと笑って、仲須田さんは続ける。
「ま、大半は俺が食いたいものなんだけど」
ほらやっぱり。
正太郎さんと俺、その対面に仲須田さん、という並びで食卓に着く。仲須田さんがあっという間にお茶を飲み干すと、鞄からタブレットを取り出す。カバーの裏側が特注なのか自分で作ったのか、モノトーンの見たことのないデザインをしている。それを開いて操作をして、並んで座った俺たちに向けた。
「とりあえず、今回出そうと思っている作品はここらへんだな」
猪の蹄がタブレットを滑り、作品をスワイプする。ほとんどベテランみたいな年になってもポートフォリオは使うものなのだろうが、古い友人に最近の作品を見せる意味もあるのかもしれない。
昨日見せてもらった作品よりは、尖りが少ない、見ていて安心できる印象のものが多い。見返り美人のような女性や、摘んだ花を抱える老女、夕暮れの海などのモチーフが連続している。それらを眺めながら、正太郎さんは、怪訝そうな顔をした。
「これだけか?」
「あん?」
「他の作品はないのか?」
「む……あるにはあるけどよ、ああいうのは正太郎のギャラリーには向かんぞ」
「いいから見せてみろ」
やや不服そうにしながらも蹄がタブレットを叩く。昨日見たような、重く暗い作品群が現れる。影と光、ぐらつく構図、静寂、そして瞳のモチーフ。そういう油絵が続く。確かに、かなりコアな客でなければ買わないかもしれない。
絵から視線を外して、正太郎さんの方に目を向ける。鈍色の瞳はすうっとして、何かを見定める眼をしていた。
「…………」
仕事をする正太郎さんを見ることはあまりない。画家とモデルとしての付き合いは短くなかったが、画廊の管理者——画商としての顔はほとんど接点がなかったのだ。だから新鮮だった。正太郎さんは、まだ雄の顔をしていた。何が売れるか、何を求める客が来るのか、狩場に視線を走らせている。
ここにいていいのか? これって商談に無関係な身内がいるみたいなものじゃないか? 何かの法律に引っかかったりしないのだろうか。
そう思い始めていると、正太郎さんはタブレットのケースをぱたんと閉じた。
「だいたい分かった。たぶんタイプのものもいくつか売れるだろう」
「言うじゃん」
「そういう気がする」
頷いて、正太郎さんは無断で生ハムの包装を開けた。一枚つまみ、「うまいぞ」と言う。
そこから酒盛りが始まった。
ピザを温め直し、乾きものとスナックを食卓に広げ、チューハイの缶を開ける。正太郎さんは炭酸で腹が膨れるからとワインにした。
持ち込まれた食べ物や酒は、本当に仲須田さんが食べたいものだったようで、するすると彼の腹に収まっていく。大きくはみ出した一対の牙の隙間に、様々な食べ物が滑り込んでいった。
三人とも酔い始めている。仲須田さんは酒に強くはないのか顔に出やすい質なのか、缶チューハイを二本ほど空けた時点で、鼻の粘膜の血色がよくなり、声がなおさら陽気になっていた。
「そういえばこいつとは美大から一緒だったんだよ。どっちも油彩専攻」
「ああ、でしたらもう四十年近くになるんですね」
グラスを飲み干して正太郎さんが鼻を鳴らす。
「二十年近く会っていなかった。でも全然変わっていない」
「なんか会わなくなっちゃったんだよなー。蓮君はモデルだったんだっけ?」
「大学の募集にあったので。バイト代も良かったし……」
「楽そうに見えた?」
にやにやと笑いながら仲須田さんが言う。俺はうなずく。
「でも結構きつかったですね。それはそれでやりがいもありましたが」
「やりがいねえ」
正太郎さんが言う。
「良いモデルだった。美術の経験がないモデルはただ同じ姿勢を続けるだけでいいんだろうとだれた目でそこにいるだけになったり、見られることに慣れていなくて居心地悪そうにするが、蓮はそういうことがなかった。あまりに気に入ったもんだから、最後の絵をこいつにしてしまった」
「おお熱烈」
正太郎さんは細々と画家業を続けて、五十半ばまで来た。自分から書いた絵だけでは売れないので、絵の依頼を斡旋してもらったり、画塾の講師や、画商の真似事をやったりしながら。それで画廊に勤めることになった。俺は画家どころか、芸術家でもないので、彼の人生における憂鬱は想像しかできないけれど、大まかに言ってしまえば、たぶん三十年かけて挫折したようなものなのかもしれない。どれだけ生活が豊かになっても、夢を投げ出すための三十年をどう消化してきたのだろう。画家を投げ出すための三十年。諦めるための三十年。敗北の三十年。負け続けるための人生。
対して、俺は人生に勝負をかけたことがない。行ける高校を選び、行ける大学を選び、行ける会社に行った。挫折も勝負も知らない。子供も家庭も作れないのをいいことに、消化試合のように人生をやってきた。だから、勝負に出た正太郎さんの細い身体、多い飲酒量、そのわりに意志を失わないぎらつく瞳がたまらなく魅力的だった。
最後のモデルのバイトで、正太郎さんは普段の倍の給金をくれた。
「これで絵を描くのは最後にするからボーナスだ」
そして本当に正太郎さんはその後から絵を描かなくなった。
絵を描くこと、表現することがどのような意味を持つのか、描かなきゃきついし、描かなくてもきついもののようで、正太郎さんの飲酒量が増えた。画廊に就職してからはすこし落ち着きを見せたものの、やはり多いには変わらない。思えば、画家廃業と交際と画廊就職という大きめのイベントが短い間に起きたことが、正太郎さんの勃起に関わっている気がしてならない。そのどれもに俺が関わっている。画廊に就職を決めたのだって、俺と暮らしているからだ。正太郎さんの人生の幕引きの要所要所に、俺が関わっているのかもしれない。それをいいことだと思えるほど、俺は大人ではなかった。仲須田さんのような気安い友人がいたならよかった。誰かの人生が俺で埋まることほど恐ろしいことはないからだ。
結局、仲須田さんが持ってきた酒も、用意したワインも全部飲んで、雑魚寝することになった。客用の布団もあったが、もう面倒だった。いつも二人で眠るベッドを軋ませて、三人で入る。下着姿で。俺と正太郎さんは黒いボクサー、仲須田さんはトランクスだった。
正太郎さん、俺、仲須田さん、という並び。
常夜灯の薄い暗闇に並んで眠ろうとしていると、横から手が伸びてきた。分厚くて丸い蹄だ。寝相か、と思って相手の手を取って戻してやろうとすると、握られた。何考えてやがるこの親父。仲須田さんはすぐにその手を離して、またこちらの胸に乗せる。俺は彼に背を向けるが、構わずに腰を押し付けてくる。勃起した男根が尻の付け根に当たる。熱と硬度が俺を捕らえる。酒と欲情に火照った息が耳にかかる。
まずい。
仲須田さん、嫌いではないのだが、こういうのは不本意だ。嫌いというか、むしろ厳ついタイプは好きな部類なのだが——俺にとっては男性らしさが重要なポイントなので、強面な正太郎さんも好きな部類だ——正太郎さんと付き合っているわけだし、他の相手と遊んでいいかどうかのすり合わせが出来ていない。そもそも隣に正太郎さんがいる。
胸にじっとりと熱い手の平を乗せる仲須田さんを拒みつつ拒み切れずにいる。手の平の置き方で何となく、この男が上手いことが想像できてしまったのだ。古い友人の仲を変にさせたくないという意図と、仲須田さんの恐らく計算的な欲望の煽り方が俺を動かなくさせる。
そして不可解にも、正太郎さんの目が開いていた。薄目を開けて正太郎さんの方を見ると、あのぎらつく瞳が見開かれていた。それは久々に俺に向けられた雄の瞳だった。