双眸の檻(三)

  一

  話は学生時代にさかのぼる。

  正太郎さんと仲須田さんは共に油彩専攻で、実力としてはむしろ正太郎さんの方に軍配が上がっていた。入学当初から、構図、色彩構成、発想、どれも正太郎さんが評価されていた。しかし二人は親友になれたという。どちらも油絵を専攻していたし、どちらもプロ志望で、どちらもゲイだったからだ。

  「え、でもお二人ともオープンにしていたわけじゃなかったんでしょう」

  「けっこう分かるもんだよ。視線の運びも歩き方も違う。笑い方も違う。線も色彩も作品のアプローチも違う。どれだけうまく隠しても、俺には分かる。何もかもがヘテロの男と違う。正太郎の作品を見たときに、こいつは男が好きな男が描いた絵だって、すぐに分かった。光の射し方、陰翳の表れ、肌の曲面、顎の骨の流れ、睫毛の傾き、全部男が好きな男でなければ出てこないところから線が生まれていたからな」

  彼の話によると、正太郎さんも絵を見ただけで仲須田さんがゲイだと分かったのだという。二人は講評会のあと、カフェで昼食を食べ、すぐに無二の友人になった。

  仲須田さんの黒い瞳が何も映っていないテレビを見る。でも視線は電源の切れた液晶ではなく、ずっと過去に向けられていた。おそらくは学生時代の正太郎さんに向けられていた。仲須田さんの太い眉の隆起、厚い一重の瞼、やや小さめの三白眼じみた瞳孔。そしてその睫毛の憂鬱な角度は、たぶん彼の言う男が好きな男だけが持つ角度なのかもしれなかった。

  「上野の特別展を回ったり、二丁目を冷かしたりいろいろしたよ。発展場にも行ったな。正太郎はあのとおりだから合わなかったようだが、それでも何人かの友人グループを作って遊んだり、二人で交代でモデルをやったり講評会したり、オールナイトの映画を見たり。まあ熱心な美大生がやることはあらかたやった」

  彼らが学生だったころの東京がどういう世界だったのか、俺は知らない。テレビは色付きだったよな、スマホはないよな、携帯電話はあったっけ、くらいのひどい認識だ。でも何よりも男が好きという一点をもって親友になれるほどの環境という点で、ある部分についてはなんとなく分かってしまう。孤独や抑圧の気配が滲んでいた。

  正太郎さんは入学試験をトップでパスして、入学してからも一位を独走していた。油絵だけでなく造形のような別分野の芸術においても、あらゆるものは正太郎さんの手で生み出されると強いオリジナリティを持っていた。素材が正太郎さんの意識を通ると、それはすでに彼が慣れ親しんだもののように振舞い、彼の意識や興味やテーマに沿った形態を取った。

  「その中でも、俺はあいつの絵が好きだった。あいつの絵には訴求力があった。見たことあるか?」

  「……実は、ちゃんとは見たことがないんです」

  「ま、芸術家のパートナーにはそれくらいがいいんだろうな。仕事の外まで芸術家だと、あいつは潰れてしまうだろうし」

  芸術家。

  仲須田さんはまだ正太郎さんのことを芸術家だと思っているのだろうか。

  ——お前は画商としてもすっかりプロだな。

  も、ということは、他の何かについてもプロだと示唆している。例えば、画家として、とか。

  俺が好きになったのは芸術家の正太郎さんだったが、やがて折れてしまった。そして敗残兵の画商としての正太郎さんも、俺は変わらず好きだ。

  「話を戻そう。その二丁目の友人グループで、特に正太郎と気が合った男がいた。名前は何だったかな——忘れちまったな。文系の学生だったが」

  犬系の年下の男だったとは覚えていると仲須田さんは言う。

  内気な男だった。単身で入ってきたというよりは、友人グループの他の誰かが連れてきた、大人しいタイプの青年。自己主張が少なく、食べるのが好きで、いつもにこにこしながら食事をしていたという。気難しく繊細で、鋭すぎる感受性を持っていた若い正太郎さんは、彼の柔和さによって社会性を手に入れていく。

  正太郎さんはほどなくしてその青年に告白し、交際を始めた。

  「立ち入ったことを聞くようだが、正太郎の具合はどうだい。あっちがタチをしているんだろう」

  「……素敵ですよ、ええ。うまいし」

  なぜそんなことを話さなくてはならないのだ、と示すように声に嫌悪を含ませて答える。半分嘘だ。正太郎さんの勃起は失われつつある。動脈は硬くなり、海綿体は血液を留められなくなっている。

  しかし仲須田さんは意にも介さない。

  「プレイボーイも年には勝てねえってか」

  俺は黙る。

  勃起不全のことを知っているようだ。

  「あいつのセックスめちゃくちゃうまかっただろ? 今は厳しいみたいだが。正太郎の若い頃はドン引きするくらい絶倫だったんだぜ。付き合った相手もあっという間にメロメロさ。正太郎だって初めての彼氏だ、めちゃくちゃ嬉しそうにしていた。……おい、何十年も前の話だぜ、嫉妬するなよ」

  「していません」

  仲須田さんはにたにたと笑いながら続ける。ソファの近くのローテーブルに、俺は飲み終わったカップを置く。

  正太郎さんは幸福な恋愛をしたそうだ。そして創作の手も止まらなかった。幸福も薪として芸術の炎は燃え盛った。斬新な構図、緻密な描写、強い訴求力の絵画たちを正太郎さんは描き続けた。正太郎さんへの評価は揺らぐことなく、仲須田さんの評価も変わらなかった。一番と二番。

  そう聞くと、正太郎さんへの嫉妬で寝取ったように聞こえるが、「そうじゃない」と仲須田さんは紅茶を飲んだ。

  「俺はあの青年のことも、正太郎のことだって好きだったんだ。それにあいつの絵に嫉妬なんかしないぜ。俺が見たいものを描いているわけじゃなかったから」

  「でもあなたは正太郎さんから恋人を奪った」

  「うん」

  軽そうに仲須田さんはうなずいた。

  卒業制作が本格化する少し前に、仲須田さんは恋人を寝取った。正太郎さんは恋人を大切にしていたが、芸術家の宿痾として、彼よりも制作を優先すること度々あったため、二人の間には元から微細なひびがあった。その亀裂に染み込むように、仲須田さんは注意深く狡猾に動いた。曰く、それはとても簡単だったという。ある程度二人きりで遊ぶ関係性を作ってから、ただホテルに誘えばその男は容易く好感度を反転させた。そして仲須田さんは、青年と正太郎さんとの三人で旅行に行き、そこで青年を犯した。青年は拒まなかった。

  「正太郎は俺とそいつのセックスを見ていた。隣でごそごそやってりゃ、眠りの浅い正太郎は絶対に目覚める。受けがどれだけ声を殺したってばれるもんだ。あいつは何も言わなかった。身じろぎ一つしなかった。ただ、あの目で俺たちのセックスをじっと見ていた」

  あの目。鈍色の瞳。雄の瞳で、正太郎さんは仲須田さんの情事を見ていた。

  そしてその直後に、正太郎さんは破局し、青年は仲須田さんと付き合うことになる。しかし卒業制作に集中したいという理由でその青年を捨てた。三人の関係は仲須田さんの性欲によって徹底的に破壊された。

  恋人を親友に奪われた正太郎さんは深く傷つけられた。あるいはその青年と真剣に交際をしていれば、まだ傷つきはましだったかもしれない。でもそうはならなかった。仲須田さんの目的は正太郎さんの恋人ではなく、恋人を寝取ることそのものにあった。文脈のない暴力のような一連の破局は正太郎さんを深い孤独に追いやった。

  彼は仲須田さんと縁を切り、憎悪と後悔と不信の中で過ごすことになる。正太郎さんがセックスが上手いというのは、もちろん本人の素質もあるのだろうけれど、経験数が非常に多いのだ。正太郎さんの端正な顔立ちはそれだけで色々な男を惹きつけたし、仲須田さんの加害によってできた傷は、見た目で惹きつけられた男を捕らえる致命的な儚さのように働いた。まるで誘蛾灯のように、様々な男が正太郎さんとセックスをした。正太郎さんにとって、男たちの肛門にペニスを挿入することは何より簡単なことだった。

  仲須田さんの推測だが、正太郎さんの情事は絵画の材料になっていたという。彼は自身のセックスも、自分を口説く男たちも、余さず全員をあの瞳で見ていた。それらの色彩や陰翳や構図は、正太郎さんの無意識を通り、深いところで組み替えられ、創作の炎を燃やす薪になった。

  正太郎さんの創作意欲は萎えなかった。傷も孤独も憂鬱も暴力もアルコールも性も、その時期の正太郎さんにとっては絵に落とし込む熱量になった。

  酒とセックスに溺れるようにして生み出された自画像は卒業制作展の最優秀賞を獲得した。筆跡の一つ一つに怒りと絶望が滲んでいた、と評された。絶え間ない憂鬱とそれが要請する官能の狭間から、正太郎さんの絵画は忌み子のように生まれてきた。個人的な経験に裏打ちされた自傷としての自画像。傷を囲い、記憶を閉じ込める檻としての自画像。

  カンバスに閉じ込められた正太郎さんの瞳には、同じく正太郎さんの像が描かれていた。絵から投げかけられた視線は、絵画自身に巻き取られ、正太郎さんの瞳は正太郎さんを映し、瞳の中の正太郎さんの瞳はまた正太郎さんを映す。巡り巡る視線の輪廻。永劫回帰する孤独が完成する。観客は視線の輪廻を外部から見るしかない。観客の視線さえ、鑑賞者が鑑賞することさえ、その絵画は拒んでいた。

  そう仲須田さんは語った。

  「その作品は本当にすごかった。絵の中に正太郎の魂が書き写されていたみたいに、周りの作品を圧倒していた。線も構図も色もタッチも、何もかもが素晴らしかった」

  仲須田さんの声が熱い。そこには感情を揺さぶられた人間の響きがあった。上質な絵画や物語に心を打たれた響きがあった。これが嘘の感動だというならば、この世に感動なんかないのだろう、そう思わせるほどに彼の声は尊敬と愛情が溢れんばかりだった。

  「卒業して今になった。俺は成功して売れる絵を描き、売れないはずの絵をたまに描く。正太郎は画家としては芽が出なかった。それだって俺に言わせれば必然だな。あれだけのものを描いてしまえば、もう何も描けない。あれは越えられない。正太郎の人生はあの絵で完成した。だが幸運にも画商として成功している。今回の売れ行きはあいつの眼力のおかげだな。それに若い恋人だっている。芸術家の余生として素晴らしき終末だ。俺が寝取った甲斐もあったってなもんだ」

  正太郎さんの挫折までの三十年を、仲須田さんは必然と括った。三十年をかけて敗北した親友の時間を、仲須田さんは何かの作品のように語った。十把一絡げに言葉でまとめた。

  しかしそんなものは勝者の理屈だ。

  時間や体力や気力を懸けて敗北した経緯の、表現されることのない細かな襞を単語一つでまとめてしまう特権は、勝者しか持ちえない。そしてどう考えても取り返しのつかない傷を与えたのは仲須田さんの方だった。古い友人にして勝者にして加害者。

  「どうして——そんなことをしたんですか。話を聞いていると、別にその人が好きだったわけでもないみたいに聞こえますけど」

  まるで、いい絵を描かせるためにやった、という感じさえある。しかし仲須田さんは首を振った。

  「いいや、さっき言った通り、その青年も正太郎のことも、俺はどっちも好きなのさ。付き合っている二人のことが本当に好きだったんだぜ」

  「じゃあ……」

  「好きだから慈しめるわけじゃない」

  ぴしゃりと仲須田さんが言う。

  「…………」

  「お前はもっと自分が多数派だと考えた方がいい」

  何か言おうとした瞬間、ベッドの背もたれが倒れた。油断しきっていた俺は仲須田さんに押し倒されてしまう。好色な熱い息が耳にかかる。快楽に近い痺れが走る。仲須田さんの腹が俺の身体に押し付けられる。意外としっかりとした感触があった。ただ太っているだけじゃない。分厚い脂肪の下には頑健な筋肉があった。

  両手首を掴まれる。甲斐犬の俺の筋力でも、大柄な仲須田さんを押しのけることはできないだろう。はっきり言って怖い。まずった、と思いながら、俺は、俺自身が少しだけこの展開を待っていたのを知っている。それを、仲須田さんの描いたあの瞳の火花が照らしたのだ。

  しかしまだ確証がない。

  仲須田さんが湾曲した牙の先を、俺の頬に擦りつける。硬く冷たく、なめらかな象牙質の感触。

  「俺は人のものじゃないとうまく興奮できんのだ」

  「ね……寝取りフェチってことですか」

  「厳密には違うが、そうだと思ってもらっていい」

  長い口吻の先を奪われないように逸らして、仲須田さんの唇をかわす。

  「でもなんで今になって正太郎さんと交流を再開させたんですか」

  視線を入り口に回す。木のドアは閉まっている。しかし、和室の襖がわずかに開いていた。電灯の着いていない和室には闇が立ちこめているが、そこには煌々とした鈍色の瞳があった。正太郎さんの瞳だった。

  俺には明かされないまま、ただ共犯だけが誘われていた。

  「正太郎から声をかけてきたんだぜ」

  耳元で仲須田さんが囁いた。肉厚の唇が、俺の耳を食んだ。

  俺は彼を利用することに決める。彼は彼で俺を利用しているのだ。そして正太郎さんもそうだ。

  ベッド状に展開したソファで、仲須田さんは押し倒した俺にのしかかる。正太郎さんからは失われつつある、太く硬く熱いペニスが俺を犯した。これまでにないほどの絶頂——正太郎さんとのセックスでも得られなかったほど深い絶頂が俺を押し流した。正太郎さんは襖の陰で、俺が犯されるのをずっと見ていた。あの鈍色の瞳で。あの雄の瞳で。俺は本当はその瞳をずっと待っていたのかもしれなかった。考えてみれば、俺は正太郎さんのモデルをすることが好きだったのだし、そういう帰結はむしろ必然だったのかもしれない。情事の終わり、「正太郎を好きでいろよ」と仲須田さんが聞こえるか聞こえないかに呟いた。俺はキスをするふりをして、彼の舌をきつく噛んだ。[newpage]

  二

  しばらくその生活が続いた。

  俺と正太郎さんは恋人の関係を続けている。正太郎さんからは本格的に通常の勃起は失われ始めていたが、以前の彼の勃起不全による微妙な関係の軋みはむしろ解消され、本番はしなくてもたまに抜きあって、一緒のベッドで眠ることが多くなった。いつもの家事は正太郎さんが行い、個展があれば俺が食事を担った。料理、掃除、洗濯は交代で。そして正太郎さんの飲酒量は減り、余暇の過ごし方が変わった。

  仲須田さんの暗い絵は、あの個展以降コアなファンに受けてきて、古典SF小説の新版の表紙に選ばれた。そして画風のない作家の画風が認知され始めていた。正太郎さんはそのニュースを聞いて、そうか、とさして嬉しくもなさそうに呟いていたが、尻尾は揺れていた。

  時折、俺たちは仲須田さんの家に遊びに行く。仲須田さんはピザだとかチューハイだとかでささやかな宴会をした。気が向けばスペアリブを焼いたり、アクアパッツァを作ったりした。正太郎さんは決まって、宴会の終わりごろに酒を買いに行ったり、三人で並んで寝ているうちに小用に立ったりして席を外す。その隙に仲須田さんは俺を抱いた。仲須田さんの硬い指や、強靭な男根は俺の最奥に導かれていった。しかし、それは内表面における最奥でしかなかった。襖の向こう、扉の隙間、陰翳の中でぎらぎらと瞳を輝かせた正太郎さんにこそ、俺の本来の最奥は開かれていた。

  仲須田さんの男根をメディウムにして、俺は正太郎さんの鈍色の瞳に犯され、深く高い絶頂を繰り返した。そして仲須田さんは熱情に犯された粘ついた視線に愛撫されながら、腹の肉を震わせて俺の直腸に射精した。正太郎さんは俺たちのセックスを常に陰から見ていた。情事が終わり、俺と仲須田さんが風呂に行き、洗濯機を回して戻ると、正太郎さんは平然とした顔で先程まで情事をしていた部屋に戻っていた。ごみ箱には、何かを示すように使い終わったティッシュが増えていた。そして三人で眠った。間男というにはあからさますぎるし、ポリアモリーというには三角のままで閉じていた。

  しかし、その日はいつもと異なっていた。

  玄関先で俺たちを迎えた仲須田さんは、居間ではなくアトリエに使っている部屋に案内した。自然光を取り入れるように広めにつけられた窓や、夜でも日光に似た柔らかな照明、画材を収納する使い込まれた机が置かれている。そして使い込まれたイーゼルと椅子があった。

  「机と、机の上のものを触らなきゃ何を使ってもいい」

  仲須田さんはそう言って、俺たちを残してアトリエから出ていく。この家で正太郎さんと二人きりになることはほとんどないので、俺は奇妙な気持ちになる。

  対して、鞄から画材を取り出して正太郎さんは慣れた様子で準備をしている。硬さがそれぞれ異なった数本の鉛筆と練り消し、ケント紙。イーゼルに乗ったプラスチック製の画板に紙を乗せて固定する。

  見覚えのある風景だった。

  「絵を描くんですか」

  正太郎さんはうなずく。

  「お前を描く」

  そう答えたとき、俺の胸が跳ねた。

  余暇の過ごし方が変わった——正太郎さんと仲須田さんの交流の復活と、俺たちなりのセックスの方式が確立されてから、正太郎さんは余暇に少しずつ絵を描くようになっていた。小さなスケッチブックを買い、夕食後や、休日には風景や静物のドローイングをしているのが見られた。

  俺はイーゼルの前に立つ。画板の向こうに、正太郎さんの瞳がある。昔よりも幾分鋭さが失われたものの、まだぎらりとした鋭さは十分に残っていた。この立ち方をするとよく分かる。彼の後ろの壁の染みを検分し、視線の置き方と置かれ方をイメージする。

  「立ったままでいいのか?」

  うなずく。

  目を伏せた正太郎さんがスマホを出して、タイマーを設定する。何分かなど言われなくても分かっている。

  壁の染みの一つに俺は視線を定める。しかし何か違う。しっくりこない。いくつか視線の置き所を試したが、結局壁ではなく、正太郎さんに視線を合わせた。正太郎さんの瞳を見るのが好きだった。顎を引いて、だらりと両腕を横に垂らす。背筋を伸ばし、脱力しながら最低限の力で、ぱきっとする。

  開始。

  期待とは裏腹に、正太郎さんの瞳はうまく動かなかった。鉛筆を握った手も、膝の上に落ちたままで、動揺したように彼の表情が硬直していた。俺はそれでも、描画の回路が動き始めるのに時間がかかっているだけかもしれないと思って、立ったままでいた。顎を引いて、存在を示すように、「俺」でいることに専念した。

  しかし、正太郎さんは鉛筆を上げることはなく、顔を俯いてしまった。いつも上を向いていた黒い耳が、弱々しく垂れている。

  「……正太郎さん?」

  小さく名前を呼ぶと俯いたまま、彼は絞り出すように、

  「すまない」

  と呟いた。

  苦しげな沈黙が降りる。

  俺はポーズを解いて、彼の隣に椅子を持ってきて腰かけた。絵を描くことに喜んでいて、正太郎さんに無理をかけたのかもしれない。

  ここしばらく、おかしな状況だったから。3Pを繰り返し、親密で屈折した遊びをしてきたことは、あまり正常とは言えないはずだ。

  「何か飲み物を持ってきましょうか」

  首を振る。彼は何か言おうとして唇を開いたが、言葉が見つからなかったのかすぐに閉じた。俺はそのまま待った。長い躊躇いの時間が経って、「蓮」と俺の名前が呼ばれた。

  「私は君が好きだ。でも、もう本番では勃たないと思う」

  俯いたまま正太郎さんは続ける。

  文脈がずれている。今のこの状況についてじゃない。彼の中の何かが言葉にされようとしていた。

  「本番では無理なんだ。私はもう終わっている。男として終わっている。……前に、失敗したとき、一人で穴をいじっていただろう。本当に情けない気持ちになった」

  失敗、というか挿入されようとして正太郎さんの勃起が失われたとき、確かに俺は彼を風呂に送り、一人で射精をした。そういえば、その時、部屋のドアがわずかに開いていた。

  見られていたのか。

  「だが勃起した。……あれだけ硬くなったのは久々だった」

  と、正太郎さんは片手で顔を覆いながら、告解する罪人のように痛々しく言った。自信にあふれていて、頼もしくて、ともすると尊大にさえ聞こえる正太郎さんの声は今にも消え入りそうに震えていた。罪悪感に押し潰されそうな声をしていた。墨色の尻尾が、何かを守るように丸まって椅子の下に潜っている。

  「ずっとそういう趣味があるような気がしていた。だから絵画にこだわっていたわけだが……。こうなってから、趣味はどんどん変な方向に曲がってしまった。お前を見るための策に仲須田はうってつけだった。確かに憎んではいたし、制作の原動力にもなっていたが、いい加減憎み続けるのにも疲れていたし、あいつが屈折しているのもよく分かっていた。私はあいつも利用したんだ」

  寝取り趣味。

  「ここしばらく、お前はよく協力してくれた。正直、ずっと捨てられるかもしれないと思って戦々恐々としていた」

  友人に恋人を抱かせ、それを見る。

  通常なら破局ものだろう。

  「自分の強欲さが嫌になる……。お前を抱いているとき、私は自分が普通の男になったような気がしていた。はは、そんなことはあるわけがないんだが。もうあんなことはできないな」

  正太郎さんは唾を飲んだ。

  「私はもうお前を抱いてやれない。蓮、お前、私と別れるつもりはないか。このままルームシェアに移行してもいいし、引っ越すなら敷金礼金くらいなら出してやるから」

  そこまで言われて、俺はようやく正太郎さんの意図を理解した。

  違う進路に進むカップルが春休みに思い出作りに勤しむやつだ。俺はにわかに鼻白んだ気持ちになる。最後に絵を描くのはこの人の癖なのだろうか。

  これだけ策謀を張り巡らして、絶縁していた仲須田さんとも再会し、俺に共犯をさせてて、まだこの男は自分だけが主犯だと思っているのだ。自分だけが加害者のつもりでいるのだ。

  三人で組み上げたこの歪な関係性を、この人は自分で終わらせようとしている。仲須田さんをまるで復讐のようにはじき出して。

  もしかしたらこの終わりも仲須田さんの狙いなのかもしれない。破局によって深く傷ついた正太郎さんは、きっとその喪失さえ創作の炉にくべて、また絵を描く。それもこれまでの敗北を塗り替えるような。その絵さえあれば正太郎さんのこれまでの人生が塗り替えられるような。

  腰を上げる。先ほどまでポーズを取っていた地点の印まで歩き、爪先を合わせて立つ。

  天井からの柔らかな光を浴びながら、俺はシャツのボタンを外した。緊張はなかった。脂質糖質たんぱく質をコントロールし、適切な運動量を保持し続け、俺の身体は学生時代とほとんど変わっていない。むしろ筋肉の端正さにおいては今の方に軍配が上がるだろう。ずっとこの時のために準備していた。

  俺は待っていたのだ。

  正太郎さんがまた「俺」を見てくれることを。

  シャツのボタンをぽちぽちと開くと、俺は肩をすぼめてするりと布地を床に落とした。

  アトリエの快適な温度に整えられた空気が、背中や胸を撫でる。短いが濃密な毛並みの表面を空気が滑っていく。照明を受けた毛皮が静かに艶めいた。この毛皮だっていつも手入れをしてきた。櫛で梳かし、丁寧に洗い、コンディショナ―で整え、オイルで保湿をする。面倒なルーティンがようやく報われようとしていた。

  衣擦れの音を拾って、正太郎さんの耳がぴくりとこちらを向いた。その耳の毛並みの擦れる音まで聞こえそうなほど澄んだ沈黙が部屋を満たしている。

  肩を回して柔軟さを確かめると、俺はズボンの前をくつろげる。膨らみ始めた下を隠している布をそのままに、ズボンを脱ぐ。正太郎さんの意識がこちらに釘付けになっているのが分かる。ストリップみたいだ。でもそうじゃない。

  間髪入れずに下着を脱ぐ。トリミングされた陰毛と、垂れ下がった袋、小ぶりな男根が空気に晒される。俺は俯いたままの正太郎さんの前に立つ。

  「正太郎さん、ちゃんと見て」

  「蓮」

  「俺はね、あなたに見られたいんです」

  正太郎さんが顔をあげた。焦燥した瞳と目が合う。

  それなりにかちっとした服装の正太郎さんと、全裸の俺が向かい合うのは自分でも間抜けだ。でも表現はいつでも間抜けに見えるのだ。

  「あなたたちが、俺の [[rb: 癖 > ヘキ]]に気付かせたんです」

  画家だからと思って言葉にするのを怠った俺のせいでもあるのかもしれない。でもまさか誘われたから乗っていったのに、まさか本人は思い出作りのためだとは思わないだろう。

  俺はもう覚悟を決めている——決めていた。正太郎さんの勃起不全について、俺は別れることを、気持ちが冷めることを恐れていた。そして別れないことを、気持ちを冷めさせないようにすることを決めていた。俺は別れるつもりなんかないのだ。強欲というなら、俺たち三人もうどうしようもないのだ。互いに利用し合ってもうめちゃくちゃだ。

  勝負師は正太郎さんの方だったはずだが、この交際において先にサイコロを投げたのは俺の方だったらしい。好意は外からやってくる。恋はほとんど不随意運動のように、勝手にやってくる。しかしそうやって好きでい続けることはできない。好きでいることそのものが賭けに近い。好きでいることに体力や感情をベットし続けること。無自覚に投げていたという点で、俺は正太郎さんに何か言える立場ではないのかもしれないけれど。

  いやまあ。

  フルチンで何を言っているのか、だが。

  正太郎さんは考え込むように数秒ほど目を閉じた。

  そして開く。その瞳は先ほどまでの焦燥は影を潜めていた。鈍色がすうっと静謐に凪いでいた。俺は唇を舐める。

  「すまない。弱気になってしまったな」

  自制力が老年の男性とは思えないほどだ。老化によって感情を制御する能力が落ちていくと聞いたことがあるが、少なくとも正太郎さんには当てはまらないようだ。たぶんまだ悩んでいる。悩んでいるし、迷っている。でも、もう決めたようだった。狼の耳がぴんと立つ。尻尾が、ざあっと持ち上がる。ぎらりとした雄の瞳は、スケッチを始める前の独特の落ち着きと、欲情の熱が入り混じっている。

  俺はポーズを取り直す。

  正太郎さんがこちらを見る。

  それを見返す。

  切り結ばれた視線が合わせ鏡のように循環する。

  タイマーが再開する。

  二十分ポーズ、十分休憩。そのサイクルを繰り返す。

  狼の鋭い瞳は、俺の身体を這い、毛並みの一本一本の複雑な流れを捉え、肉の着き方や、骨格の組み方、重心の置かれる位置まで丁寧に紙に写し取っていく。そして視線は慎重な手つきで俺の身体から俺自身を剥離させ、「俺」をあらわにしていく。肉体の客体化させるあの視線。

  最初の二十分、正太郎さんの鉛筆はどこかもたついていた。視線は俺の表面を滑り、何度もケント紙と往復した。黒鉛が紙を擦過する音も何となくたどたどしく聞こえる。しかし次のサイクルで正太郎さんの鉛筆はスムーズに動き始めた。瞳は俺の身体の陰翳を捉え、輪郭ではなく面で捉える。デッサンの基礎の基礎だ。しかし、面を捉えてすぐに、質感、陰翳と正太郎さんの視線と手は画家としての能力を思い出していった。正太郎さんの柔らかな手首が何度も紙を走る。黒鉛が摩擦する一筆ごとに、俺から離れた「俺」を紙に写し取っていく。正太郎さんのアングルではとらえられない後頭部は背骨の丸みさえ見ているように感じられる。彼の視線は俺の毛皮を把握し、皮膚の流れを捉え、肉の厚みを理解して、骨の形まで写し取ってしまいそうなほどだ。

  デッサンは休憩を挟みながら小刻みに進んでいく。しかし正太郎さんの集中は途切れることなく、三サイクル目から瞳は奇妙な動きをし始めた。淀みなく鉛筆はケント紙を流れているが、視線が俺を外れ始める。見当違いな方向を見ているのではない。正しすぎるのだ。俺は流されて正太郎さんの瞳に視線を向けた。瞳には俺が映っている。本来、数歩も離れた相手の眼球に映る像が見えることなどない。しかし陶酔が見せた。その瞳には、俺と「俺」が二つの像を結んでいた。正太郎さんは客体化された肉体、ただ存在する肉体を明確に知覚していた。俺の筋肉は無意味に立ち、骨は無意味に支え、内臓が無意味に稼働していた。ただの存在として、眼球の中に俺は閉じ込まれていた。そしてそれをずっと待ち望んでいた。俺が死んだら正太郎さんは深く傷つくだろう。正太郎さんが死んだら俺は深く傷つくだろう。その確証があった。そういう取り返しのつかない交換がこの視線で行われていた。

  いつからか、俺のペニスは勃起している。血液は絶えず走り、海綿体は痛いほど熱く震えている。陰嚢の中で精巣が激しくうねっている。前立腺が正太郎さんの視線に犯されているのが分かる。正太郎さんはそれを緻密に書き写していく。彼の顔は火照っている。呼吸が荒い。酸素が足りないのだ。俺も浅い呼吸を繰り返している。切なくて苦しくて悲しい気持ちになる。正太郎さんは学生時代の栄光を手放してここにいる、そして勃起も失っている。聴力も視力もやがて衰えていく。記憶も失われていく。やがて正太郎さんも失われる。俺は叫びたくなる。熱情が俺の中で波濤のように荒れ狂っているのが分かる。正太郎さんの瞳はそれも捉える。ケント紙にそれが写し取られる。

  何度目かのアラームが鳴る。正太郎さんはそれをすぐに止め、こちらをうかがうように視線を向ける。俺はうなずく。関節は固まりつつあるし、肩だっていい加減辛い。足の裏の肉球は同じところばかりに重さが行っているから痛み始めている。ぐるりと腕を回したり、首をひねったりしてもすぐに戻せば問題ないとはいえ、二十分の間でもほとんど苦痛に近くなってくる。でも陶酔が休憩で途切れる方が惜しい。

  正太郎さんの瞳が鋭さを加速度的に増していく。暑い。まるでサウナの中にいるみたいに息苦しい。ナイフのような視線が喘ぐ俺を解体していく。この煩わしい毛皮の衣類を開き、肉の鎧を捌き、骨格を解体し、俺のずっと奥にあるものに、正太郎さんは触れることができる。その甘美で優しい手つきを俺は知っている。俺はそこに導いていく。「俺」の一番奥まで。来てほしい。ここまで。そう思っていたところに来てくれる。

  手で触れるよりも睦言を交わすよりも肛門を貫かれるよりも、もっと深くもっと強くもっと激烈に、俺は正太郎さんに交わりたいと思う。激情が走る。俺と正太郎さんとの輪郭の差がよく分からなくなる。前立腺が鼓動する。そして俺はポーズをとったままで、正太郎さんに向けて激しく射精した。男根が跳ねて尿道から精液が散る。筋肉が収縮して、前立腺が持ち上げられる。下腹部から官能の波が押し寄せる。

  正太郎さんの膝に俺の精液が飛ぶと、彼は手を止めて鉛筆を置き、ぎゅうっと目を硬くつむった。そして数秒か数分か分からない奇妙な沈黙が過ぎ去って、正太郎さんが火照った調子で言う。

  「できた」

  あの不器用な微笑を浮かべて正太郎さんはこちらを見た。俺もぎしぎしとした表情筋を操って笑みを返す。固まった身体を、俺はゆっくりと解して、親指でペニスを拭うと、ケント紙を覗き込んだ。

  そこには、「俺」がいた。棒立ちだが、ただ立っているのではない。毛並みの一本の質感や、光の空気感まで、間違いなく一片の狂いなく三次元立体から切り取ってきたような。さっきまで立っていた「俺」をそのまま紙に閉じ込めたような存在感がその素描にはあった。内面の荒れ狂うような屈折や欠落や過剰が、その陰翳に表れていた。

  訴求力。視線を引き付けるほどの、無音の存在の主張。

  「すごい」

  と俺はかすれた声で言った。

  できるなら、いつか正太郎さんが描いた他の絵も見てみたくなった。

  稚拙な感想だったが、正太郎さんは驚くほど優しい表情をした。ほとんど初めて見るくらい、和やかで甘い曲線が目尻に浮かんでいた。微笑だった。興奮の残滓か、顔が赤い。

  「久々に描くと楽しいな。何年ぶりかなあ」

  その声は本当に柔らかくて、楽しそうでたまらなくて、むしろ俺の尻尾が揺れた。

  正太郎さんがこちらを見た。俺は正太郎さんを見た。視線が切り結ばれた。陶酔は冷めて、幻想は消えていた。ただ確信だけが残った。でもそれを言葉にすることは今の俺にはまだできなかった。マズルの先端を合わせると、正太郎さんは薄く唇を開いて迎え入れた。肉体の境の戯れ。

  下を見ると、正太郎さんの股間に染みができていた。描いているうちに射精したようだった。二人で顔を見合わせて、静かに笑った。

  掃除をして、シャワーを浴びよう、と思った。そして仲須田さんと一緒に夕食にしよう。彼は、この素描をどう見るのだろう。この線たちは男が好きな男の無意識から現れてきたもので、そしてここに封じ込められているものをどう捉えるのだろう。

  俺がよろめいて仲須田さんに恋をしたとき、正太郎さんはきっと最高傑作を描きあげて、仲須田さんは俺を捨てる。画家として正太郎さんがキャリアを閉じられるなら、それもまた悪くないのかもしれない。あるいは画家としての栄光を最後に飾ることができるかもしれない。

  しかし、正太郎さんはここに来るまでにあまりに多くのものを手放してきている。そしてようやく諦めがついたはずだ。敗北のための三十年、その最後の数年を俺だけが知っている。だから、俺は絵のために再び傷ついていいとはとても思えない。その点は仲須田さんとはおそらく意見を異にする。

  美大から今に至るまで多くの作品を描いてきた正太郎さんが、最後に「俺」をカンバスに閉じ込めたのだ。これが最高傑作でなぜいけないのだろう。世に出ないことが絵の価値の何の瑕疵になるのだろう。

  素描を正太郎さんに返す。かさついた肉球、細く関節の浮かぶ骨ばった指たち、白い筋の浮かぶ爪。長い時間を孤独と諦念と共に過ごしてきた手だった。渡した紙を折らないようにそっと彼の手を握った。