春③「スメルズ・ライク・チョコレート」

  「若葉屋君、これ、頼めるか」

  「はい!」

  「前も言ったが――」

  「発注とか、お金に関わることは必ずダブルチェック!」

  「ん。俺がどんなに忙しそうでも気にせず声かけろよ」

  「りょーかいです!」

  俺の言葉に、フンスと気合を入れる部下君である。

  あのファックス事件……というか「会社の裏手で大好きを叫ぶ(俺が名付けた)」事件の翌朝の話。

  彼は俺より早く来ていて、こちらの姿が見えた途端に机の上で土下座しようとしたのでマッハで止めた。

  新人を土下座させたとか、俺の[[rb:顔恐 > カオコワ]]エピソードがレジェンドになるところだった。

  「課長、休憩もらってもいいですか!」

  「ああ」

  今はそれから数日後の午前中。

  休憩時間は特に決まっていないから好きにとっていいのだが――マジメである。

  見れば、あちらで第一営業課の女の子たちとお菓子を交換しているらしい。

  まったくコミュニケーション強者め。

  そんな姿を遠巻きに、俺もペットボトルの水を口に含んだ。

  コーヒーに誘っても良かったのだが――。

  「…………。」

  俺は眉間をもみもみする。

  ――熱くなっていたとは言え、あの時、かなり恥ずかしいことを言った。

  “何度だって助けてやる”とか。いやいやいやいや。

  ……いやいやいやいや!

  今思い出しても、枕に顔を突っ込んで吠えたくなる。実際、家で二度ほど吠えた。

  ……本当に、何言ってんだ、俺。

  しかし、言ってしまったものはしょうがない。

  一回り以上年下の新入り。俺を怖がらず慕ってくれる部下。

  ひいき目で見たって、よく仕事もやってくれている。

  助けてやりたい。その気持ちに嘘はないのだ。

  これって父性……それとも母性? まあ、なんでもいい。

  彼は俺の大切な、部下なのだ。

  戻ってきた部下君は今、自分の机でポッキーらしきお菓子をこりこり齧っている。

  リスかハムスターみたいだ。

  俺がじっと見ていたのに気付いて、やはりニコッとした。

  「食べますかー?」

  「あ、いや。甘いものは……」

  そういうつもりではなかったので反射的に断りかけたが――、

  「……一つ、くれるか」

  「はーい」

  そう言ってしまった。

  きっと、部下から分けてもらうってことをやってみたかったのだ。

  と、彼、返事をするや机に手をついてこちらに身を乗り出してきた。

  「はい、あーん」

  「なんでだ!?」

  だからそういうことをするなって!

  俺が注意するより早く、彼はポッキーを握った手を限界まで伸ばして――プルプルしてる。落ちそう。

  「か、課長~はやく、落ちちゃう~!」

  「おっ、おまっ、おぉっ……」

  食べる or 食べない? どちらにしたってハズカシイ。

  どうする。どうする俺。灰色の毛並みがざわざわする。

  ――ええい。俺は机に両手をついて、思い切り前に乗り出した。

  首を曲げ、口を突き出して。舌、舌がっ、舌の先端が……ぎりぎり――、

  「海に捨ててぇぇ~~」

  「ラピュタ!?」

  その時、手をついていた書類が滑った。ズルっと。

  「うおっ――ぶほぉっ!」

  「うわ課長だいじょひゃー!」

  鼻の穴に突き刺さるポッキー。仰け反る俺。落ちる部下君。

  倒壊するファイルケース。宙を舞う書類。転がり散らかすペン。

  どったんばったんの第二営業課。控えめに言って地獄絵図。

  「お、お前な! 大丈夫なわけ――」

  そして気付く。こちらを見ていらっしゃる第一営業課の女性たち。全員。

  ……少しのフリーズのあと。

  俺は、照れ隠し半分で声を上げた。

  「普通にくれ!」

  俺だって、ちゃんと怒れるのだ。

  なお、お菓子はちゃんと拭いてから、美味しくいただきました。

  [chapter:春③「スメルズ・ライク・チョコレート」]

  「まったく。お前のせいで俺の痴態が社内に知れ渡ってる」

  「ごめんなさい~……」

  昼前。大騒ぎの跡を片付けていたらこんな時間。

  部下君、ペンを束ねながらちらっと上目づかいでこちらを見た。

  「怒ってます?」

  「怒ってな……いや怒ってるだろ。

  さっき俺の鼻にポッキー突っこんだ時も、結構怒ってたんだぞ」

  「えー、課長優しいからわからなかった」

  「オイ」

  まったくいい性格をしている。

  ただのいい子ちゃんではない。その強かさがありがたくもあるのだが。

  気を取り直して書類のチェックを頼もうと、俺は紙束を片手にして、

  「わか――。…………」

  ふと思った。若葉屋君、と呼ぼうとして。

  こう、いつまでも他人行儀なのもいかがなものか。

  そろそろ……いいんじゃないか? 名前呼び。

  “君”付け自体はともかく「若葉屋君」は長いし?

  「言いたいこと言う」宣言もしたし? 鼻にポッキー突っこまれる仲になったし?

  いくらか上司の威厳を出しておくのもなんたらかんたら。

  そんなゴタクを脳内でたくさん並べてから。

  そう、だから呼び捨てでもヘンじゃない、よな?

  俺は咳払いをひとつした。

  「カ、カ――――」

  すぐ気付いて目線を上げる部下君。

  「なんですか?」

  「あ、いやその…………カ……」

  じっと見つめて待たれると非常に言いにくい。

  カナト、とだけ簡単に言えばいいのに。

  それに、意識した途端に言葉が出てこなくなる。どうしてだ?

  「あのさ、カ、カ…………」

  「価格表、新しいのですか? こないだメールした」

  「いや、そうじゃなく……」

  「“カカオは身体に良い”?」

  「ポッキーの話じゃない……」

  ダメだ。気が利きすぎてめちゃくちゃ先回りされる。現代の若者、強敵すぎる。

  「いやあのな。カナ――」

  「カナト君!」

  不意の、横手からの声に石化する俺。

  「卯川さん」

  「さっき大丈夫だった? 何してたの?」

  「ポッキーゲームです」

  「おい変なこと言うな」

  「それ飲み会芸だよ? 堅倉さんがそんなことするなんて」

  「してない」

  「課長は優しいからなんだってやってくれます! 最高の課長なんです!」

  「へええー。それはそれは」

  ガン無視される俺。そして卯川のニヤニヤ顔。

  俺はモニターの陰に隠れた。なんだってんだ。くそう。

  「そうそう、そんなことより。これこの前の歓迎会の写真ね。みんなで撮ったやつ」

  「わ、ありがとうございます! 嬉しいです!」

  「本社みたいにはいかないけど、こっちはみんな仲良くしたいから。よろしくね」

  「はーい」

  そうして去っていく卯川。白い短い尻尾が跳ねている。絶対面白がってる。

  それに……もう名前呼びしてるのかよ。

  「課長、なんでそんなところから睨んでるんですか?」

  「睨んでない。こういう顔だ」

  むっつり返す俺。まさかこんなところに伏兵がいるとは。

  ――けど、卯川が呼んでるんだし、いいよな、俺だって。

  「あーその。カナ」

  「カナト―!」

  俺は再び机に突っ伏した。

  向こうからやってくるのは、健康的な色をした毛並みの犬獣人。

  機嫌よさそうに、尻尾と耳が揺れている。

  「あ、二子柴さん! どうしたんですか?」

  「今日は人事に用事あってさ。それよりこないだサンキューな、マジで。娘ちゃんチョー喜んじゃってさ」

  「良かったですねー」

  「マジマジ。もうさ、パパと結婚する? って聞いたらさ、するするー! って。ヤバくね?」

  「ヤバーい! 二子柴さんが」

  「あー?」

  髪をくしゃくしゃされそうになって、部下君はきゃあきゃあ言いながら身をよじって逃げている。

  ……なにその仲の良さ。

  

  「まあまたライヌするわ。じゃあな! あ、先輩おつー」

  そして二子柴は俺にはついでみたいに挨拶して帰っていった。

  「……何の話?」

  「あっ、前の飲み会の時に二子柴さんとライヌ交換したんですけどー。その時に娘さんが『もふきゅあ』のファンだって教えてもらって」

  「もふきゅあ?」

  「もふもふできゅあきゅあなアニメです」

  「……へえ」

  まったくわからん。

  「それで娘さんが欲しがってるおもちゃあったんですけど、すごい人気で買えないんですよ。それが僕、応募したら抽選当たっちゃって」

  「すごいじゃないか」

  「でも送り先ウチにしちゃってー。そしたら二子柴さん、車でうちまで取りに来てくれて、そのまま二子柴さんちでごはんいただきました!」

  ……コミュニケーション強者ども。

  名前呼び云々で悩んでる俺がバカみたいじゃないか。

  「……課長、さっきから顔恐いですけど」

  「……知ってる」

  誤魔化すため、目がつらいふりをして眉間をもみもみするしかない。

  いやもう、ムリして名前呼びなんてしなくてもいい……か?

  と、早くも俺の心が折れかけたところで、

  「お疲れ様です」

  次にやってきたのは人事課の鷹獣人、高市だった。

  何か書類を手にしている。俺の横をすっと通り過ぎて。

  ……まさか、と思っていると、そのまさか。

  「カナトくん」

  「あっ、高市さんお疲れ様です」

  「お疲れ様。こないだ出してもらった書類だけど」

  「えっ、間違ってました? すみません」

  「いや、こっちもちゃんと説明してなかったから。ここ、サイン」

  「あーすみません、今書きます」

  「ハンコ持ってる?」

  「はーい」

  聞き耳を立てているわけじゃない。

  聞こえてしまうのだ。耳がいいから。耳がいいからだ!

  それより――こっちもなのかよ。

  「高市さん、今日もお昼行けます?」

  「――うん。前と同じ所でいいの」

  「はい。あそこのデザート、美味しかったですよね」

  「あれ、プラス百円で倍にしてもらえるんだって」

  「わお。じゃあ今日はそうして、またシェアしましょう」

  「うん。じゃあ、後で」

  「12時なったら即ダッシュで」

  「即ダッシュで」

  ふふっと笑いあう二人。そんな高市の顔を、俺は見たこともない。

  そして彼はそそくさと去っていった。

  「……仲いい、んだ、高市と」

  「お昼仲間です!」

  いや別に。全然悔しくない。悔しくないし。

  直属の上司の俺が一番遅れてるだなんて? そもそも人と比べることでもないし?

  だいたい名前呼びなんて、別になんてことないのだ。

  ……ないのだが!

  部下君は俺を見て、ぎょっとした顔をした。

  「課長。さっきよりも、眉のシワが」

  「……いいんだ。俺のことは」

  ……でもやっぱり、ちょっとヘコむ。

  [newpage]

  昼休み。電話番の俺は、また一人で物思いに耽っている。

  彼とはかなり打ち解けたとは思うものの、やはり年がひと回り以上下というのも多分に影響がある気がする。

  俺くらい年上からの呼び捨てなんて、昭和の匂い漂う体育会系っぽいし……。

  「ちわー」

  フロアに入ってきたのは、またしても二子柴だった。

  まっすぐにこちらに向かってくる。昼休みだから他に誰もいないし、目当ては俺か。

  「また来たのか」

  「先輩が寂しがってるかなーって――なんか疲れてんね」

  「お前のせいだ」

  「へー」

  ……こいつ。どうでもよさそうなことこの上ない。

  「なんすか顔こわ」

  「うるさい」

  誰も彼も、こいつくらい簡単に扱っていいならまったく苦労しないのだが。

  俺は咳ばらいをひとつした。

  「人事に用事だって?」

  「娘ちゃん来年から保育園。ようやく希望んとこの抽選当たってさ。んで書類とか色々」

  「そうか。ニュースじゃよく聞くが……抽選とか大変だな」

  「まあね。――ほい。どうせ昼、食ってないっしょ」

  「ああ……。ありがとう」

  コンビニのビニール袋を持ち上げてこちらに見せる二子柴。

  俺の礼に、ふふんと鼻を鳴らした。なんかニヤニヤしている。

  「なんだよ」

  「なんでもー?」

  変な奴。前からだが。

  椅子を引っ張ってきて、俺の机の空いているところにどさどさと袋の中身を広げた。

  「梅食べて。オレ、ツナマヨとエビマヨと鳥マヨだから」

  「マヨばっかりか。太るぞ」

  「いやマジ太ったって。ほら、幸せ太り~♪」

  椅子にどっかと腰を下ろし、ワイシャツの上からぽんぽんと腹を叩いて見せる。

  確かに[[rb:支社 > こちら]]にいた頃より肉がついたようだ。スーツの腰回りがきつそう。

  「幸せ太りって新婚の話だろ。子供できてもあるのか」

  「んー、子供の食べ残しとか食ってるから、それで太るんじゃないっすかね」

  「そういうメカニズムか」

  そんな話をしながら、俺もありがたく頂くことにする。おにぎり、好きだ。

  「にしてもマジで誰もいねーし」

  「昼はいつもそうだよ」

  「リーダーに電話番させるのとかありえなくね? もっと気ぃ遣えよあいつら」

  「お前その発言。コンプライアンス」

  「ふーんだ」

  第一営業課のあたりをニラんで言う二子柴をたしなめる。

  言いたいことは言わずにいられない。下ネタも好き。キャバクラも。

  そんなキャラクターだから、二子柴と女性陣との間の溝はなかなか深い。

  「俺がコーヒー休憩行ってる時は代わりにやってくれるから、いいんだよ」

  「甘いって。俺がリーダーなんだから言うこときけー、ぐらい言えばいいのに」

  「……そんな体育会系なこと言うわけないだろ」

  「はあ。でもま、最近、先輩がありがとうって言うようになったのマジでいいと思うな。カナトが来たおかげっしょ」

  「なんでカ……あいつの名前が出るんだ?」

  「だって先輩、二、三年前くらい? マジやばかったじゃん。それと比べたらさ」

  「……まあ、それは」

  あまり思い出したくない過去のこと。

  その頃、第二営業課は立て続けにメンバーが辞め、俺は業務を一人で回さなければならなくなった。

  その後、卯川も課長になり二子柴が異動して、それなりに打ち解けている相手とは距離が出来ていって。

  「あの時、マジで先輩死ぬんじゃねって思ってた」

  「忙しすぎてあの頃の記憶あんまりないな……。よく乗り切れたよ」

  「なんでそれでやっちゃうわけ。もっと怒れば良かったのに。やってらんねーって」

  「俺がやらなくても、他の誰かが押し付けられるだけだしな……」

  「それで自分が病んでたら意味ねーじゃん」

  ごもっとも。

  何も言えず、俺はおにぎりのビニールを黙って割く。

  「ふざけんなって先輩キレたら、さすがに本社の役員ジジイ共もビビると思うな。

  やってよ。堅倉、春の陣とか。あ、ジンだから合ってる」

  「何言ってんだ人の名前で……」

  役員と言われると人事課長、深澤さんの食えない顔を思い出す。

  来月からの役員会議、憂鬱だ。

  「けど、最近は少し良くなってきたよ。残業も減らせそうだし」

  「じゃあ今度フーゾク行こ」

  「なんでそうなる! 何度言われても行かないって」

  「もー。オレのやり場のない性欲はどうしたらいいわけ?」

  「一人で行けよ」

  「嫁に怒られるじゃん。枯れてる先輩のためって言えば許してくれるかも」

  「……枯れてない。俺を巻き込むんじゃない」

  二子柴の嫁さんには一度会ったことがあるが、こいつの嫁さんをやれるだけあって、かなりしっかりした人だ。

  「お前さ、そっちのチームでも若いの相手にそういうこと言ってるのか?」

  「うん」

  「うん、て。嫌がられるだろ……」

  「もう下ネタには返事もしてくんねー」

  言いながらケタケタ笑っている。

  まあ、それなりにうまくいっている証なのかもしれないが。

  二子柴は、わかってんだけどさ、と言いつつ遠い目をする。

  「……やっぱ、ピンサロとかじゃないとダメなのかなあ」

  「わかってないだろうが!」

  やれやれである。

  とその時、電話が鳴った。俺は受話器を取る。

  二子柴は早くもおにぎり二個目にかぶりついている。

  『堅倉さん、お疲れ様です』

  「ああ、お疲れ」

  電話先から聞こえてくる、ひんやりした声。

  本社経理チームリーダー、[[rb:巳南 > みなみ]]だ。

  蛇獣人。珍しいシロヘビ種。白い肌――アルビノであることも影響しているのか、社内でも濃い丸サングラスを常用している。しかもいつも細身の黒スーツ。どこかのマフィアかといういで立ち。

  そんな見た目のおかげか、『久間ヶ谷商事で2、3人殺してそうなランキング』では俺とツートップらしい。なんだそのランキング。

  『先日頂いた月次報告書の件ですが』

  「ん……どこか、まずかったか」

  『ええ。修正箇所が大きいところで二つ。小さいところで十七つ』

  「多いな!?」

  経理からの連絡に楽しい思い出があるやつは少ないだろうが、こいつからの連絡はとりわけだ。この全く感情の起伏の見えない声でミスを指摘されて、居心地の悪さを覚えないやつはいないだろう。

  「……すまん、直すよ」

  『新しく入った子が担当したんでしょう』

  「俺のチェックが甘かっただけだ」

  だがその淡々とした指摘に、俺は自分が少し意固地になって擁護しているのも自覚する。

  『――そうですか。それと。そちらにアホ柴います』

  「二子柴? いるよ」

  「ちょっ、先輩――!!」

  抗議する二子柴。が、俺が受話器を突き出すと渋々受け取った。

  嫌そうな顔を隠そうともしない。

  「オイ電話かけてくんなよメシ時に! 今、先輩とラブラブチュッチュしてたのに!」

  「してない」

  何言ってんだこいつ。

  呆れつつ眺めていると、二子柴も巳南にこっぴどくやられているらしい。

  大きな眉をぎゅっとしかめたり、耳がびたびた左右に振れたり。賑やかだ。

  飲み会とか感情表現とか、こいつは俺がニガテなことを何でもできる。

  あの激務の時、こいつが絡んで来なかったら俺は一日誰とも会話することもなかったかもしれない。

  少し懐かしい記憶。それにしても梅、おいしい。

  終わったらしく、二子柴はぶすっとした顔で受話器を突っ返してきた。

  通話はまだ繋がってる。

  「まだ何かあるのか?」

  『堅倉さん、さすがにオフィスではどうかと思いますよ』

  「何が?」

  『ラブラブチュッチュ』

  「してねえ!」

  どいつもこいつも。全く抑揚なく言うのも冗談に聞こえなくて恐い。

  『あと。たびたびですみませんが。高市、います』

  「高市? いや、ウチの若いのと昼行ってるから、まだ戻ってないんじゃないか」

  『そうですか』

  ? 俺は少し戸惑った。自分で人事課にかければいいのに。

  困惑を遮るかのように、電話口の向こうでぼそりと言われた。

  『“ウチの若いの”』

  「うっ」

  『まるで体育会系ですね』

  「いいだろ、別に……」

  『その子と、うまく、やれてるのですね』

  「え? まあ、そりゃ、なんとか」

  『今度、教えてください』

  「な、なにを?」

  『若いのと仲良くなる方法』

  「ハ?」

  ――切られた。なんだったんだ。

  受話器を置いておにぎりの残りにとりかかろうとして――ぎょっとする。

  半眼の二子柴がこちらを睨んでいる。

  「なんだよ」

  「……先輩がオレのこと売った」

  「ええ? ――いや、経理からの電話無視できないだろ」

  「おにぎり買ってきてあげたのに!」

  「う……んん、そりゃ、悪かったよ」

  「ダメ。今日と言う今日はぜってー許さない」

  「なんなんだ」

  二子柴、腕を組んで横を向いてヘソを曲げましたのポーズ。

  急に弟モードなのか? こいつ確か5人兄弟の真ん中。たまにこういう面が出る。

  ちなみに俺は一人っ子。

  「先輩の冷血! 人売り! ケツデカ! 顔面ヤクザ!!」

  「おい引っぱたくぞ」

  しかしこいつにヘソを曲げられると困るのも事実。

  こんな奴でも、俺の数少ない気を許せる相手なのだ。

  俺は食べかけのおにぎりを置いて、ちょっと前に身を乗り出して言った。

  「悪かったって。なあ、何でもするから許してくれよ」

  「なんでも?」

  ぴんと二子柴の耳が跳ねる。ちら、と目線だけこちらに向いて、

  「今何でもするって言った?」

  「いや、言ったが」

  「じゃあフーゾ」

  「風俗以外で」

  「んもう!!」

  パアン、と机をたたく二子柴。

  「オレの選択肢半分くらい潰れるじゃん!」

  「そりゃ選択肢自体に問題があるんだろ……」

  「いい年した男同士がさ! 一緒にどっか行くっつったら、飲み屋か風俗くらいしかなくね!? じゃあオレとフットサルする!?」

  「……しないな」

  しない。というかできない。腰と脚が死ぬ。

  そしてこいつが行くような飲み屋だって俺には縁が無いのだ。

  こればっかりは申し訳ないと思うものの、どうしようもない。

  二子柴は不満げにウーっと唸っていたが、

  「……じゃあ先輩んち」

  「え?」

  「先輩んちいって飲む。酒持ってくから。どう」

  「それなら、まあ……」

  「――えっ、いいの!?」

  「けどお前、家族サービス忙しいだろ」

  「まあ、嫁と娘ちゃん次第だけどさ。良さそうなタイミングあったら電話する!」

  目がキラキラして、耳もぴたぴたしている二子柴である。

  あっという間に機嫌が直ったらしい。切り替えの早さにちょっと苦笑してしまう。

  こいつ、そんなに俺と飲みたかったのか。もっと早く聞いてやればよかった。

  「あっ、そうだ、カナトも誘っていいよ」

  「……ええ?」

  その発言に戸惑う俺である。どうして彼が出てくる?

  「オレと二人じゃ間が持たないっしょ。あいついれば、さ」

  「そう、か? いや、まあ、お前がいいならいいけど……」

  「――ね、ね、先輩」

  今度は二子柴が急に顔を寄せてきて、俺はちょっと身を引いた。

  距離が近い。キスされるかと思った。こいつ、酔うとキス魔になるらしいし。

  「な、なんだよ」

  「そしたらさ」

  二子柴は、俺の耳元で囁いた。

  「――オレが色々仕込んでやるから。3Pでもいいよ」

  俺が振り上げた手を下ろす前に、二子柴は笑いながら飛びのいていた。

  めちゃくちゃニヤニヤしている。この馬鹿。

  「お前、もう帰れ!!」

  言う前から、二子柴はゴミをざっと片付けてさっさと逃げ出していた。

  オフィス出入口付近で、戻ってきた女子社員とすれ違いつつこちらに手を振る。

  「せんぱーい、愛してる~~~!!」

  なんなんだアイツ。前はここまでアホなこと言わなかったのに。アホ柴。

  俺を怒らせたかったのだとしたら、その目論見は大成功だっただろうが……。

  ◆◆◆

  「戻りましたー」

  「おかえり」

  「あれっ、二子柴さん来ました?」

  「ああ。よくわかるな」

  「二子柴さんの匂いがー」

  「えっ……、匂い?」

  匂いに敏感な俺としては結構驚く。

  あいつ、そんなに特徴的な匂いだっただろうか。

  

  「タバコ、最近復活したって」

  「ああ……、これ、タバコの匂いなのか。電子タバコ?」

  「正確には加熱式? よくわかんないですけど」

  俺は曖昧に頷いた。このトウモロコシを蒸したみたいな匂い、そうなのか。

  「鼻が利くんだな」

  「課長ほどじゃないですよー」

  「俺は自分がこんなに鼻利かなくてもよかったと思ってる」

  ムスっとした顔を作って言ってみれば、くすくす笑う部下君。

  彼が笑うと、俺は結構嬉しい。

  「そうだ。朝ミーでも言ったが、あとで倉庫室の片付け手伝ってくれ」

  「りょーかいです!」

  [newpage]

  営業課のあるこのフロアは、会社が全スペースを借り切っていた。

  オフィス以外の部屋は、会議室や更衣室、倉庫室として利用されている。

  都内と比べたら土地が安くて余っている、支社らしい(無駄な)使い方である。

  「保管期間が終わった廃棄書類をまとめて、溶解に出すんだ」

  「妖怪?」

  「溶けるって意味」

  「へえー」

  部下君を伴って目的の倉庫室へ。

  開錠して扉を開けると、まず鼻につくのは埃と停滞した空気の匂い。

  電気をつければ、無造作に積んである荷物の山が見える。

  段ボール、ひもで括っただけの紙の束などなど。奥のアルミラックにも山積みだ。

  「わ、いっぱい」

  「本当は棚卸の時にやらなきゃいけなかったんだが……全然時間取れなくてな」

  「これ、課長一人で?」

  「やれる男は俺くらいだからさ」

  支社の若い男と言えばあとは高市くらいだが、俺と二人で作業は嫌だろう。

  「課長、なんでもやりすぎじゃないです?」

  「適材適所……って、思ってたけど」

  「今は、僕がいますから!」

  「――ああ、頼りにしてる。俺の腰とか脚とかがな、死んじゃうからな」

  「えへへえ」

  冗談にしつつも、コーヒー休憩のあの会話を思い出しかけて、俺は咳払いした。

  「さあ、まずは入り口付近からだ。そっち半分持ってくれ」

  「はーい」

  ◆◆◆

  手分けして、荷物の山を処理していいものとそうでないものに分けていく。

  保管年数で場所が分けられているから、それ自体はそんなに大変ではない。

  重いものを動かすことだけが肝の作業だ。

  「二人でやると捗るな」

  「重いのはほとんど課長に運んでもらっちゃってますけどー」

  「これくらいならな。それに、お前が身体壊したりするほうがよっぽど問題だし」

  「課長の身体も大切デス!」

  「ありがたいよ。しかし、暑いな……」

  三十分もしないうちに、重いものの上げ下げで汗をかいてきた。

  夏前だからフロア全体で冷房が抑えられている。暑がりな俺には厳しい。

  こらえきれず、ネクタイを外してワイシャツの前をほぼ全開にした。

  「ン゙ン゙ッ」

  「?」

  妙な音。見やると、部下君が両手で目を覆っていた。

  「あっ、すまん。つい」

  慌ててシャツの前を合わせる。いかん、おっさんポイントを稼いでしまった。

  いつも一人でばかり仕事をしていたせいだ。猛反省。

  が、彼はぶんぶんと首を振った。

  「いえいいんですそのままでむしろおねがいしますそのまま、そ・の・ま・ま!」

  「そ、そう、か……?」

  気にしないならいいのだが、じゃあなんだったんだそのポーズは?

  「課長、暑がりさんなんですねー」

  「……汗もな。よく拭いてるつもりなんだが、臭かったら早めに言ってくれよ」

  「全然そんなことないですよ」

  「女子ばかりだからさ、気にしないとマズイんだ。お前に言われるならはるかにマシと言うか――むしろ他に頼めない」

  「わかりました!」

  わかるだろ、と覗き込めば、すぐにニコッとする部下君。

  まったくいい子である。

  「ところで唐突ですが写真撮ってもいいですか」

  「…………何の?」

  「いえほらこういう仕事もしているという記録を残すことも仕事かと思い」

  「よくわからんがダメ」

  「はうー」

  ……やっぱり、若いやつの考えは全然わからない。

  ◆◆◆

  そうして廃棄していいものはあらかた片付け終わって。

  あとはラックの上に残ったいくつかの段ボールだけになる。

  「あそこらへんでラストだな」

  「僕、やります」

  「いや、俺がやるよ。高いところだから」

  「気をつけてください。脚立?」

  「ん」

  俺が脚立に昇ると、部下君は後ろから支えてくれる。

  天井近く、ラック最上段。年季の入った段ボールには何も書いてない。

  かなり昔のものなのだろうが、一体何が入ってるんだ?

  腕を伸ばして――、

  「――――う、おっ!?」

  持ち上げた途端、中で重い何ががズルっと動いた。書類じゃないのか!?

  まったく予想していなかった力のかかり方に、俺はバランスを崩す。

  脚立の上で思い切りのけ反りそうになって、見えたのは――腰がありえない方向に曲がるビジョン。それから、過去にあったいくつかの楽しい光景。

  え…………これって走馬灯?

  「課長!」

  「ぐぅっ」

  部下君が俺の背中に頭突きするみたいに支えてくれた。さすが若者。判断が早い。

  それはそれで痛かったが、そのまま後ろに折れるか落ちるかするよりははるかにマシだったはずだ。なんとか態勢を整えて、どっと冷や汗をかく。

  「あ、危ねえ……」

  「かっ、ちょ……」

  が、今度は背後からの苦しそうな声。

  「ど、どうした?」

  「モふ、大きなモフが……! 死む……!!」

  なんと部下君が俺の尻尾で窒息しそうになっている。

  いかん。「尻尾で部下を窒息死させた強面課長」。冗談にもならない。

  「おいもう手をオゥッ!?」

  が、今度は俺が変な声を上げてしまう。

  息ができなくて苦し紛れだったのだろう。突起――鼻だ――が、尻尾の付け根のあたりに押し付けられたのだ。

  尻尾の付け根なんて、他者に触らせるような部位ではないから、つまりたいがい敏感なのだ。グリグリされたらそりゃ変な声も出る。

  ――これはマズい。非常にマズい。

  「やっ、やめやめ、離せ、ほら離せ!」

  「ぶはっ、待って待って課長暴れないで!?」

  抱えたままの荷物もあって、脚立が大きく揺れる。俺の腰の危機再び。

  しかし我慢できないくすぐったさで、尻尾で顔をべしべし打ってしまう。

  「ひぃーーーー!」

  「ちょ、おま…………!」

  あろうことか部下君、俺の腰にぎゅっとしがみ付いてきた。

  そりゃ尻尾に打たれないためなら合理的な判断かもしれないが、そのためには顔をより下に潜り込ませることになるので。

  ……尻尾とはまた違う箇所に、刺激が。

  おまけに前に回された手も腹から下へずり落ちてきて。

  「待て待て待てそんなしがみ付くんじゃない!」

  「ひいい課長っ、課長お尻デカい――!」

  「何言っていやオイどこ掴――、ッッッ!?」

  脳天に、電流。

  [[rb:わし掴み > ・・・・]]された衝撃に、俺は仰け反った。

  「えっこれベル、ベルト!? かたっ、なんか硬い! 縦に!」

  「おまえバカッ!」

  ◆◆◆

  と、いうわけで。

  何とか危機を乗り越えた俺たちは、並んで床に足を投げ出していた。

  色々と危なかった。

  俺の腰とか社会的体裁とか、それから部下が窒息しないで済んだとか。

  ちなみに段ボールの中には、いつかの歓送迎会で使ったらしいボーリングの球が二つそのまま入っていた。許すまじ。

  さすがに部下君も、ワイシャツのボタンをいくつか外して肩で息をしている。

  シャツの合間から見える、獣人とは違う毛のない肌。

  触ったらきっとすべすべして――いやいや、何考えてるんだ。

  思わず視線をやっていたことに気付いて、俺はさっと目を逸らした。

  勝手な気まずさの誤魔化し半分、口を開く。

  「その、バカとか言ってすまん」

  「え? ええー、そんなの」

  「なんか、体育会系みたいじゃないか」

  「ぜんぜん! 課長はむしろ、外資系っぽい」

  「よくわかるな。前は外資にいたんだ」

  「えへ。実は卯川さんとか二子柴さんに聞きました」

  「なんだよ」

  俺は苦笑する。そりゃそうか。こいつのコミュニケーション力を考えれば。

  彼らに名前呼びされるのだって、全然不思議じゃない、か。

  「どうせ俺の愛想がないとか、顔が恐いとか顔が恐いとか言ってるんだろう」

  「どんだけ顔の話なんですかあ」

  笑われるが、こちとらコワモテと言われ続けてはや何年である。

  話題にされていないと言われたほうが信じ難い。言っていて悲しいが。

  「みんな課長のいいところいっぱい教えてくれますよ」

  「……ええ? たとえば?」

  「それはえーっと……えー、ヒミツです!」

  「おい、気になるじゃないか」

  「あ、でも顔が恐いも言ってます」

  「オイ」

  思わず肩で小突くと、部下君はくすくす笑う。

  その笑顔に、俺は思った。

  他の奴がどんなでも、これは俺しかできないコミュニケーションじゃないか。

  「予定よりかなり早く終わったし――コーヒー、行こうか」

  「やった」

  ウム。これも自然でいい流れ。

  二人だけで休憩している時なら、名前も呼べる、はずだ。たぶん。

  彼はひょいっと立ち上がる。その際、横手のラックの縦棒を掴む。

  金属の棚が、大きく[[rb:傾 > かし]]いだ。

  「えっ――!?」

  「っ、カナト!!」

  咄嗟にその手を掴んで引き寄せる。壁側に抱え込む形で押し込んで。

  背後から襲ってくるかもしれない衝撃に備えて、俺はぐっと身を硬くした。

  幸いにも、棚がこちらに倒れてくることはなく。

  組まれたラックの上段部分が外れて落ちて、床で大きな音を立てた。

  しばらく、俺たちはそのまま固まっていた。

  「……平気か?」

  「ぼ……僕、また何かやっちゃいました……?」

  よほど驚いたのだろう。彼は俺の腕の中で目を丸くして硬直している。

  「お前のせいじゃない。重いものずっと置いてたから、ヘタレたんだ」

  振り返ってみれば、ラックの脚の部分が歪んでいた。

  アルミだから倒れてもそこまで重くはなかっただろうが……俺は喉の奥で唸った。

  「さすがにこれは総務に文句言う。こんなのずっと放置して、危ないだろうが……!

  ――って、なに笑ってるんだ」

  「えへ。課長って、実は結構よく怒るんだなって」

  「う――」

  「こないだもコーヒーの時、怒ってたし……それに、急に“俺が助けてやる”とか」

  「ゴホッ、ウォッホ! ゴホっ!!」

  激しくせき込んでみる。誤魔化しにもならないが。

  彼だって意識していたらしい。そりゃそうだ。……そうりゃそうだ!

  吠えたい。俺は今死ぬほど吠えたいです。

  「その、すごい、びっくりした……」

  「言わないでくれ、頼むから……」

  耳と尻尾が、しなっと力なく垂れるのを自覚する。

  これが二子柴だったら、軽くギャグにでもできるはず。

  重いのはただ俺の問題。名前で呼ぶことだって――。

  「うまく、言えないんだ。ニガテなんだよ……やっぱり。恰好悪い」

  そう。俺だって、恰好つけたいんだ。

  と――そっと、手が置かれた。俺のワイシャツをまくった前腕に。

  柔らかく、しっとりと温かい手が。

  「課長は、カッコ悪いとこも全部カッコいいから、いいです」

  「――――。」

  ――うそだろ。なんだそれ。

  なんでそんなこと、言えるんだ。

  「課長。ニガテなら、僕で練習したらいいです。ね、ライヌとおんなじ」

  「…………。――ん」

  本当に、最近の若いやつには……いや。

  こいつには、かなわないのだ。

  そして改めて、めちゃくちゃ距離が近かったことに内心で激しく慌てる。

  二子柴に文句を言えないセクハラレベルだ。身を引いて、

  「ほ、ほら。立てるか」

  「はい」

  その時、俺は不意に気付いた。

  ――いい匂いが、する。

  ◆◆◆

  最初は、甘いお菓子の匂いかと思った。

  チョコレートみたいな。さっき食べていたから。

  「課長……?」

  「何か、つけてるか」

  「えっ? ううん……」

  身を起こそうとして固まった俺を不思議そうに見る彼。

  そりゃ何してんだって思うだろう。

  けれど。俺は。

  脳のどこかが、じんと痺れたみたいで。

  思考が、ひとつの方向にしか、向かない。

  「なんか、匂いが」

  「え、あの、かちょ……」

  それは本当は、汗の匂いだったのかもしれない。

  でも、不思議と全く嫌に感じないのだ。

  彼が若いから? 新陳代謝がいいから? わからない。

  息が浅くなる。

  やけに[[rb:芳 > かんば]]しくて、やけに気になって仕方がない。

  なんなんだ、これ。

  どうしてもその正体が知りたいと、鼻面が寄っていくのを止められない。

  匂いを感じるあたり――彼の首筋に。

  すべすべして柔らかそうな見た目。ほんのり紅潮している綺麗な肌。

  ――俺は、匂いに、敏感なんだ。

  「すごい音しましたけど大丈夫ですか!?」

  扉が開いて、飛び込んできたのは清掃のおじさん。

  電撃的に飛びのく俺。壁際で固まっている部下君。

  そのまま、全員フリーズしていた。

  いやこの状況。

  俺はワイシャツの前を完全に開き、部下君もはだけている。

  おじさんは飛び込んできたポーズのまま、無言で後退。スッ……と扉が閉まった。

  「だいっ、大丈夫です! なんともありませえええん!!」

  俺は全力で吠えた。[[rb:爆 > は]]ぜたい。

  匂いは、いつの間にか感じなくなっていた。

  ◆◆◆

  「俺、絶対に変態だと思われてる」

  「そんなことないですよお」

  「……じゃあ、どう見えた」

  「そりゃ……倉庫に二人っきりでいてムラムラ」

  「そういうの! そういうの心配してるんだ俺は!」

  俺の痴態が社内どころか、テナント全体まで広がるのも時間の問題かもしれない。

  俺はさっきの二子柴みたいに唸るしかない。

  部下君が笑ってくれるのだけは救い、か。

  あの熱に浮かされたみたいな瞬間。

  思い出そうとしても、白く頭に霧がかかったみたいで、よくわからない。

  なんであんなこと……。

  また溜息をひとつ。なんにせよ、無理やり仕事モードに戻すしかない。

  もう終業時間も近い。結局コーヒーも行けずじまいだった。

  作成してもらった書類をチェックしていて、気付く。

  「――――。」

  あんなことしたのだ。もうこれ以上の恥ずかしいことなんてない、はずだ。

  「ほら、またサイン忘れてるぞ。名前書いてくれ――カナト」

  「わっ、ごめんなさい」

  さっと席を立って取りに来る彼。

  巳南に注意されたこともあって、渡しながら俺は一応言っておく。

  「お前、相当はしっこいけどな、こういうの忘れがちだぞ」

  「はうー、気を付けます。……怒ってますー?」

  「怒ってない、ぞ!」

  「えへへー」

  まったく、強かである。頼りになる新人。大切な部下君。カナト。

  サインし終えて机越しに渡してくるかと思っていたら、回って俺の横に来た。

  「どうした?」

  答えず、彼はすっと上半身を折った。

  俺の前に置かれる書類。周りからは、俺のパソコンを覗いているようにしか見えない、はずだ。

  「――課長。お願い、お願いあります」

  「――なんだ?」

  囁くような言葉。

  何を言われるのか、予感はあった。ほんの少しだけ。

  そっと顔を寄せて、カナトが言った。

  「僕も、ジン課長って、呼びたい」

  ――想像していたより、ずっと、下腹に来た。

  反射的に、俺はぐっと身体に力を籠めて。

  「名前なんて……」

  名前なんて。

  好きに呼べば、いいのに。

  「……最初は、他に人のいないところで、練習してくれよ」

  「やった」

  カナトはさっと離れた。自分の席に戻って帰り支度。終業時間だ。

  ――なんでこんなに、緊張してるんだ。俺は。

  また目頭を揉んでしまう。この動作、完全に癖になっている。

  と、机の端にコトリと小瓶が置かれた。

  「何?」

  「朝から目が辛そうだったので! おつかれさまです!」

  「…………」

  軽やかに駆けて行くカナト。その後姿がオフィスから出ていくまで見送って。

  机の上の栄養ドリンク。眼精疲労に効くやつ。チョコレート風味(甘さ控えめ)。

  手に取って――俺は、窓の外に視線を移した。

  少し日が伸びて、ほんのり明るい。夏が近い。

  蓋が開く小気味良い音。

  ひと息で飲み干して、俺は大きく息を吐いた。

  春の夜は、チョコレートみたいに、甘い。

  春③「スメルズ・ライク・チョコレート」――了。