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~これまでのあらすじ~
人間が遥か昔に滅び、「伝説上の化け物」に過ぎなくなった世界:《楽土》。そこでは大小様々な国家が覇権を巡って争いを続けていた。
生死不明扱いだった[[rb:墨雲 > すみぐも]]の生存と叛逆が判明したことで、『左目』国王〈[[rb:端倪 > たんげい]]〉は墨雲の親類縁者並びに、彼の母国にして、長年『左目』の属国と言う立場に甘んじていた『右足』の王族の公開処刑を決定。更には各国に書状を送り、要人を招待する。
その公開処刑の場へと、罠を承知で赴いた[[rb:赫 > かく]]・[[rb:碧 > へき]]・[[rb:潮 > うしお]]の三名。しかしそこで待ち受けていたのは、彼らの予想を遥かに上回る惨劇だった……。
~用語~
【RED】
今となっては人間同様、もはやおとぎ話の中の存在と化している細菌兵器。正式な識別コードは〈RED1052762〉。潜伏期間が比較的長く、空気感染によって爆発的に増殖する。症状が進行すると表皮に真っ赤な斑点が現れるのがその名の由来。
[newpage]
~登場人物~
(※年齢は人間に換算した場合の、おおよそのもの)
▽『顎』軍
【碧】
二十代前半の海竜。〈[[rb:韜晦 > とうかい]]〉王の長子。文武両道かつ勇猛果敢。無益な戦は好まないが、然るべき時には非情な判断をも下す……と、頭がお花畑の父親よりよほど王の器だと評判。しかし当人は一介の武人として、最前線で槍を振るう方が性に合っている。
アニマは液体の〝酸性度〟を操作するもの。強酸性から強塩基性まで自由自在で、同時に複数使い分けることも可能。射程距離自体はそれなりだが、標的との間に障害物が存在するとそちらを優先して変化させてしまう弱点がある。天候次第では広範囲に強酸の雨を降らすことも可能だが、本人は民間人を巻き込むような行為を何よりも嫌う性格。
赫に対しては相変わらず「貴様など俺の弟ではない!」などとつっけんどんな態度を取り続けているが、その実、欲望を覚えてしまって自分でも困惑している。
【赫】
人間の子供。通称〈赤子〉。『顎』の第二王子としてその存在が明かされたのはほんの数年前のことだが、既に多くの戦果を挙げたことで敵からは「伝説上の化け物が甦った」と恐れられ、自国民からは神の使いや化身として半ば崇拝されている。
年少ながら頭脳明晰で軍師的な立場を担っているが、身体能力は貧弱そのもの。おまけにアニマも宿していないので、戦力としては全くと言って期待できない。しかしそれはすなわち、敵からも味方からも「アニマによっては赫の居場所を探知できない」と言うこと……。
【潮】
アラフォーの巨漢の[[rb:鯱 > しゃち]]。かつては悪名高き海賊団の棟梁として、『顎』の跡目争いに乗じて近海を荒らし回っていたが、「若」こと赫に一目惚れ。今では一の子分を自称し、何とか求婚を受け入れてもらうために馬車馬のように働いている。
アニマは触れた対象を〝液状化〟するもの。堅固な城壁を水同然にすり抜けたり地面に潜ったりする以外にも、己の体内に様々な道具を隠し持ったり、敵をドロドロに融かして無力化したり……と汎用性が高い。更にその状態ではどんなに切り刻まれても火で焼かれても術を解けば元通りになるため一見不死身のようだが、痛みや熱さは普通に感じてしまうのが弱点。
▽『左目』軍
【ブチ】
二十代前半のハイエナ。趣味は男漁り、好きなタイプは色んな意味で「強い男」。いつもヘラヘラとした軽薄な笑みを浮かべており、およそ正規の軍人には見えない。階級的には下士官止まりだが、〈端倪〉から直接王命を下される立場に在る。
貧民窟で幼少期から身体を売って生活していたが、〈端倪〉にその素質を見出された。本人は至ってお気楽な性格でそんな生まれや育ちを今でも全く気に病んでいないが、この先も重用され続けるほど己に才覚がないことは馬鹿なりに理解しているため、寿退役を目論んでいる。
ファザコンのケがあり、〈端倪〉に対しても喜んで夜伽を務めていた。意外に忠誠心が強いものの、それはあくまで〈端倪〉個人に対するもの。
アニマは「死体を操作する」単純なもの。ただし操作中も腐敗等は進行する上、格別身体能力が向上するわけでもないので、大量の死体を次々と使い捨てにすることが前提。従って戦時ならともかく、平時では全くと言って役に立たない。手足がちぎれたくらいなら本体はもちろん手足の方も動かせるが、例えば白峰の〝空気穴〟を開けるアニマで木っ端みじんにされてしまうとさすがに無理。
ブチと言うのは通称に過ぎず、本名は自分でも知らない。実際はタテガミハイエナであるのだが、それにも係わらず毛皮に斑点が存在するのは……?
【端倪】
六十代の獅子。《楽土》一の強国たる『左目』の王にして、当代一の術士と謳われる男。『左目』王家に代々受け継がれてきた〝流体操作〟のアニマを宿す。
既に老人と呼んで差し支えない年齢にも係わらず頑健な肉体の持ち主で、精力絶倫。號鐘や陸以外にも、彼自身が把握しているだけで百人単位の子供が存在する。
完全実力主義を標榜し、現にブチのような男も直臣として取り立てているが、それは一般に誤解されているような「弱肉強食」の思想ではないらしい。
【[[rb:號鐘 > ごうしょう]]】
三十代前半のライガー(=雄獅子×雌虎)。
〈端倪〉王の数多い息子の一人。母親は『右足』の由緒正しい家柄の出で、墨雲とは一応遠縁に当たる。〝流体操作〟のアニマは父親から遺伝せず、また子孫を残す能力がないため、『左目』の王位継承権は与えられなかった。
母親の死後は流浪の旅に出ていたが、今回〈端倪〉に呼び戻されて十数年ぶりの里帰りを果たした。
通常の虎獣人に比べて縞模様が薄く、図体が大きい。父親譲りの巨根の持ち主で、並の雌では相手が務まらないため男色も嗜む。
威圧感のある見た目に反してボソボソとした喋り方。理知的かつ落ち着いた物腰で、見聞も広い。
アニマは対象にくしゃみや咳、しゃっくり等を惹き起こさせるもの。本人は「お粗末」と評しているが……?
【[[rb:砥砂 > とぐさ]]】
四十手前の鰐。『左目』の将にして、〈端倪〉の側近の一人。主君に対しては慇懃な態度を取り、どんな命令にも従うが、雷花ほどの忠誠心もなければブチのように心酔してもいないので内心は不満たらたら。
利己的かつ打算的な性格で、生きることに貪欲なので〈端倪〉からは気に入られている。〝沈殿〟のアニマを宿す。
▽『鼻』軍
【白峰】
アラフィフの白熊。傭兵からの叩き上げの将軍として、精鋭揃いの重騎兵隊を率いている。
重厚な白銀の鎧を着込んだ巨体に、傷だらけの厳つい顔……と言う如何にも恐ろしげな風貌。「誰よりも多くの戦場で誰よりも多くの敵を殺した」と謳われるほどの猛将であり、その異名たる〈鳳仙花〉を耳にしただけでたいていの敵は裸足で逃げ出す。しかし本人は至って温厚かつ誠実な人柄で、部下たちからの信頼も厚い。
[[rb:陸 > くが]]とは目下、相思相愛(?)の仲。相手に対して父性的な愛情を抱く一方で、己の歪んだ性的指向を相手が受け入れてくれたことで依存傾向にある。
アニマは対象に〝空気穴〟を穿つもの。触れられたら最後、そこから周囲の空気や水が自動的に吸い込まれてゆき、最終的には無残な爆死を遂げる。おまけにその破片が触れたものにも再び〝穴〟が開く……と言う恐怖の連鎖が、射程距離から逃れるまで延々と続く。
既存の分類体系に収まらないような、極めて稀少な固有術。しかし「敵も味方も、己自身も無差別に巻き込む」「一度〝穴〟を開けてしまうと白峰自身にも塞げない」などリスクが高い上に完全にオーバーキル。
本来は自分から「触れた」場合のみならず相手から「触れられた」場合にも自動的に発動させることができるのだが、己の歪んだ〝魂のかたち〟を忌み嫌う白峰は、後者を半ば無意識的に封印している。
本人は数々の実戦を通じて多種多様な応用法を編み出しているが、実際のところ、かなり扱いづらいアニマ。〈磨崖〉曰く、その真価は別のところに在るらしいが……?
【陸】
黒獅子の少年。〈端倪〉の末の息子だが、現在は『鼻』にて転地療養中。
〈端倪〉が実の娘に産ませた子供で、その影響からか生まれつき心臓に欠陥があるが、アニマで血流を操ることで辛うじて生き永らえている。
お目付け役の白峰と[[rb:爛 > ただ]]れた仲になって以来、容態は安定し、心身ともに少し大人っぽくなったようだ。
【〈磨崖〉】
『鼻』の現国王。アラサーの灰色狼。鷹揚を通り越していい加減としか思えない性格で、いつも眠たげに目をしょぼしょぼさせたり、大あくびをしたりしている。
急逝した父親から「一時的に」王位を預かり、《楽土》に於ける史上最年少の国王となった。地の利や『左目』との同盟関係を最大限に活用し、玉座から一歩も動かずして巧妙な戦略・戦術眼を発揮する。
白峰の他にも小姓の[[rb:飛車丸 > びしゃまる]]など、特殊なアニマの宿主を手駒として確保している。
[newpage]
[chapter:第七話 碧]
▼1
『ふんふんふ~ん♪』
両手いっぱいに重そうな籠を抱え、薄汚れた通りをひょこひょこと進むハイエナ獣人。まだほんの子供なのか、[[rb:鬣 > たてがみ]]も生え揃っていない。ボロ布一枚を腰に巻いただけの貧しい身なりだが、本人は悲壮感とは無縁の様子。それどころかヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべ、如何にも上機嫌そうに鼻歌まで歌っていた。
朝方だと言うのに、通りには犬の仔一匹見当たらない。左右にはごちゃごちゃと、果たしてこれを「家」と呼んでよいものか戸惑ってしまうような掘っ立て小屋が立ち並んでいるが、半開きになった窓や扉の中はひっそりと静まり返っている。薄汚れた洗濯物は干しっぱなし。路傍には住民のものと思しき骸が天日に晒されて朽ちるがままにされているが、これ自体は貧民窟ではさして珍しい光景でもなかった。
やがて一軒の、一番みすぼらしい小屋に辿り着くと、仔ハイエナは籠を抱え直し、足で蹴って扉を開けた。ただでさえ建付けが悪くなっていた扉がその拍子に半分外れてしまったが、さして気にも留めずに中に入る。――窓など一つも空いていない小屋の片隅で、何かがもぞもぞと蠢いた。暗がりの中から目玉が一つ、ぎょろりと仔ハイエナの方を向いたかと思うと、もはや声と言うより単なる耳ざわりな音を発する。
「オ、カ、エ、リ」
『ただいま、父ちゃん。見て見て、これ!』
しかし仔ハイエナはその不気味な声に満面の笑みを返すと、籠をどさりと地面に置いた。中から大量の、腐りかけて悪臭を放つ魚介類が溢れ出しては辺りをびちびちと跳ね回る。
『最初は普通に、魚の骨で釣り針作って、虫を餌にして糸垂らしてたんだけど……。ふと思い付いたんだ、「もう死んでる魚」なら、おいらのアニマで操れる。んで以て標的をおいら自身に指定したら、勝手に集まってくるんじゃないかって。試してみたら大漁、大漁! あ~、もっと早くに気付けてたらな~。魚はもちろん肉だって、店先から盗み放題だったのに』
「エ、ラ、イ、ゾ」
『褒めるのはまだ早いって。――はい、これ。お土産!』
そう言って仔ハイエナが籠の底から誇らしげに取り出してみせたのは、太く逞しい獣人の右腕。毛並みや爪の形状から察するにイヌ科の男のもののようだが、
『これも波打ち際で見つけたんだ~。ほら、何日か前にどこかの国の軍隊が攻めてきたじゃん? 多分その時に戦死した兵隊さんだと思うんだけど、生憎、大半は魚に食われちまっててさ。おいらのアニマじゃ、さすがに骨にまでなっちまうと操作できないから……』
と言いつつ、相手に歩み寄る仔ハイエナ。ちょうどその時、外れかかっていた扉が完全に壊れて地面にばたんと倒れるとともに、朝日が小屋の片隅にまで差し込んできた。
「アッ、ア……」
『あ、眩しい? 大丈夫、おいらが後で直しとくから。直射日光に晒しっぱなしだと、すぐに腐っちゃうもんね~』
笑顔で相手に向き直る仔ハイエナ。――そこにうずくまっていたのは、彼が屍肉を継ぎ[[rb:接 > は]]いで作り上げた「理想の父親」だった。
既に相当腐敗が進み、骨が露出していた古い右腕を相手からもぎ取ると、代わりに新しい右腕をそこにあてがって、
『やった、ぴったし! やっぱ、腕枕してもらうならこう言う太くて逞しい腕だよな~』
あちこち溶けたりガスで膨らんだり、虫が湧いたりしている「理想の父親」を眺めつつ、お世辞にも器用とは言えない手つきで右腕を胴体に縫い付ける仔ハイエナ。それから己のアニマで右腕を操作し、頭を撫でさせる。
「ア、リ、ガ、ト」
『でへへ~』
だらしなく相好を崩すと、「理想の父親」に頬擦りする仔ハイエナ。相手の皮膚が剥がれ落ち、自分の頬にへばり付いてきたが気にはしない。――当然ながら相手の声も自分が操作して出させているので所詮は虚しい人形遊びに過ぎないものの、実の親すら知らない彼は、たとえこんな形であっても「家族」が欲しかったのだ。
『戦場になったトコに行ったら、まだ新鮮な死体がゴロゴロ転がってるかな? それとも、もう全部火葬されちまったかな~。父ちゃんに似合いそうな立派なチンチンが見つかれば、おいら、嬉しいんだけど……』
などとのたまいつつ、半分腐った魚を頭からバリバリかじる仔ハイエナ。「屍肉漁り」と忌み嫌われる彼らだが、この貧民窟の住民にとってはこれでも格別の御馳走である。
『――なるほど。[[rb:幼仔 > おさなご]]らしき「無邪気」なアニマよな』
聞き覚えのない――否。久方振りに耳にする生者の声に、仔ハイエナはきょとんとしてそちらを振り返った。いつの間にか戸口に立っていたのは五十がらみの、大柄な獅子獣人。朝の日差しに照らされて、その豊かな鬣が燃えるような[[rb:金色 > こんじき]]に輝いている。
その傍には護衛役と思しき、これまた巨漢の象獣人が控えていたが、如何にも不愉快そうに顔をしかめ、長い鼻を丸めている。小屋の外にいても、文字通り鼻の曲がるような死臭や腐臭が漂ってくるのだ。――にも係わらず、獅子は平然と小屋の中に足を踏み入れると、外れて地面に倒れていた扉を踏み砕いた。
『住民を皆殺しにしたのも、貴様か?』
『だって、他に娯楽がないからって、朝から晩まで公衆便所みたいに犯(ヤ)られまくって――[[rb:飽きちゃった > ・・・・・・]]から』
その上で、自分の気に入った部位だけを集めてこの「理想の父親」を作ったのだと、仔ハイエナはあっけらかんと答えてみせた。そして見知らぬ男を改めて、鼻の頭から尻尾の先までしげしげと観察する。他者のアニマを感知するのはあまり得意でない彼でさえ、この獅子が自分などとは比べ物にならない力の持ち主だと一目で理解できたのだ。悪臭を物ともしていないのも、恐らくはその力で[[rb:空気の流れ > ・・・・・]]を操っているからだろうと。
「強い男」が好みの仔ハイエナはにへらぁ……と相好を崩すと、
『おじさん、どこのひと? ひょっとして、例の軍隊の偉い将軍サマとか? とりあえずチンチンしゃぶらせて♡』
『……本当に、どうしようもないお馬鹿さんですねぇ。この御方はぁ――』
この《楽土》で知らぬ者はいない筈の〝流体操作〟。それを目の当たりにしても未だに相手の素性に見当がつかないらしい仔ハイエナに対し、象は呆れ顔で口を挟もうとする。しかしそんな護衛役を制すると、獅子は操作の対象を追加した。その左目が金色に妖しく光ったかと思うと、「理想の父親」が動き出す。
「儂は〈[[rb:端倪 > たんげい]]〉の二つ名を冠する者。『左目』の現国王ぞ」
『……』
その口をパクパクと動かして、代わりに名乗らせてみせる獅子。しわがれてこそいるものの、その発音は仔ハイエナが操作していた時よりよほど流暢かつ明朗だった。
案外つぶらで愛らしい瞳を輝かせる仔ハイエナに対し、〈端倪〉はまるで腹話術の人形を投げ捨てるように操作を終えると、
『――とまぁ、儂も似たような芸当をできなくもないが。見たところ、貴様は同時に複数の[[rb:屍 > かばね]]を使役した上で、自動的に操縦することができるようだな』
『「生者を手当たり次第に食い殺せ」ただし「おいら自身は狙うな」みたいな、簡単な命令なら入力できるよ』
『平時は全く以て役に立たない挙句、たとえ戦時でも、敵味方ともによほど損耗率の激しい戦でしか意味をなさない……。率直に申し上げて、かなり使い勝手の悪いアニマだと、わたくしは愚考いたしますがぁ……』
慇懃だが、スローペースすぎて却って嫌味ったらしく聞こえる口調で控え目に具申する象。どんよりと曇った小さな目が、嫌悪感を隠さずに仔ハイエナを見つめてくる。〈端倪〉は護衛役の真に言わんとすることを察したらしく、
『……確かに。「尖ったもの」に反応する貴様のアニマを以てすれば、生ける屍の大群に襲われたところでまとめて黒焦げにできるであろうな、[[rb:雷花 > らいか]]。されどそれは[[rb:相性 > ・・]]の問題だ。――何より、新たに占領した土地のこの貧民窟に、儂が敢えて足を運んだ理由を忘れてはおるまい?』
『はぁ……』
鈍重な見た目に反して意外と神経質で潔癖症なのか、大きな耳をパタパタとさせつつ、一刻も早くこの不衛生な環境から立ち去りたいと言う顔をする雷花。とは言え彼自身もこんな風に〈端倪〉王直々に「見初められた」口なので、黙って事の成り行きを見守る。
『貴様、名は? タテガミハイエナの仔のようだが』
『さぁ? 「おい」「こら」「そこの」みたいな声しかかけられたことないし……』
相変わらず悲壮感とは無縁な調子で、あっけらかんと答えてみせる仔ハイエナ。もはや完全に興味を失ったのか、あれだけ大切に維持管理してきた筈の「理想の父親」がその背後でただの腐肉の山と化す。
――そう。この時はまだ彼の肩にも背中にも、そのあだ名の由来となった[[rb:斑 > ブチ]]模様は一つも存在しなかったのだ。……
「なるへそ。あいつが墨雲将軍と組んで、雷花を[[rb:斃 > たお]]したって言う……」
あれから十数年。立派な……と形容してよいものか不明だがとりあえず青年に成長し、階級的には下士官止まりでも〈端倪〉の直臣としての地位を手に入れたブチは、片手を目の上に翳して、処刑台の上から貴賓席の向こうを眺めていた。逃げ惑う群衆の足の合間を縫って、石畳から突き出た鯱の背びれがぐんぐん遠ざかってゆく。
「触れたものを〝液状化〟するアニマ。確かにああして地中に潜ってれば、飛沫感染も空気感染もひとまずは防げるだろうけどさぁ――どこまで息が続くかな? 鯱族や海竜族はともかく、[[rb:人間の子供 > ・・・・・]]は」
我ながら似合わない式典用の軍服の懐を探ると、水晶の小瓶を合計三本取り出すブチ。そこに封入されているのは、かつて彼ら獣人を絶滅の淵にまで追いやった悪魔の細菌兵器――REDの、[[rb:三種類 > ・・・]]の株。ブチは処刑対象の三十余名をそれに感染させ、REDが体内で最大数にまで増殖した段階で殺害。然るのち己のアニマで彼らの死体を操り、あたかもまだ生きているように見せかけてこの公開処刑の場に引き連れてきたのだ。
そうとも知らず外交上渋々ながら、あるいは野次馬根性でこの場にやってきていた招待客や見物人たちが、たとえ手足がちぎれても頭が潰れても動き続ける「生ける屍」の出現に大恐慌に陥り、我先にと逃げ出しながら結局はその餌食になったり、辛うじて逃げ延びたものの我知らずREDの感染拡大を手伝ったりしている阿鼻叫喚の光景を見渡しながら、相変わらずヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべるブチ。自分はこの役目を果たすために今までの十数年間、〈端倪〉に生かされていたのだと再認識する。
「港まで一目散に逃げるかな? それともこの混乱に乗じて王宮に乗り込んで、陛下を暗殺しに行く気概があるかな? ――どっちみち、あんたらは生かして帰さない」
処刑対象とはまた別に、既に複数人の部下を同様にREDに感染させた上で殺害し、己のアニマで操って、市街各地に潜ませている。ブチはその中の一体を遠隔操作すると、通信機代わりにして、
『ソッチ、ニ、イッタ、ヨ』
[newpage]
▼2
「REDだと……!?」
潮の背びれに掴まって地中を泳いで逃げながら、処刑台の方角を振り返る碧。その名の由来の一つは、感染者の体内で菌が爆発的に増殖した時に体表に生じる、無数の真っ赤な斑点。確かに壇上に現れた「生ける屍」たちの肉体には、それを彷彿とさせる斑点が見受けられた。――しかしそれは人間と同様、もはや「おとぎ話の中の存在」と化していた筈のもの……と混乱しつつも、基本的に合理的な考え方をする碧は、
「だが自国の首都のど真ん中に、細菌兵器を持ち出すなど……! 〈端倪〉めは気でも触れたのか……!?」
「貴様独りを始末するためだけに」と言う含みを持たせ、潮の小脇に抱えられている相手を一瞥する。赫は首を横に振ると、なるべく息を節約するよう小声で、
「潮。[[rb:垂氷 > たるひ]]は何と申していた?」
「えっ? REDに関する古文書をあの助平ジジイに見せられて。興味ない素振りをしたら――」
「そこでの詳しいやり取りのことだ」
「ええと、確か……。仮に人間が再びREDをバラ撒いても、結局生き残るのは自分たち優れた獣人たちだって、垂氷の野郎が言ったら。あのジジイは、『生き残るのは環境に適応した者だ』って――」
ハッとして口を噤む潮。碧もその発言の真意に気付いたようで、
「よもや〈端倪〉めが常々標榜しておった、完全実力主義と申すのは……!」
「一般的に誤解されていたような『弱肉強食』の世界ではなく。未曽有の戦争からも飢餓からも、REDの如き疫病からも。[[rb:生き残る > ・・・・]]ことが可能な人材を養成すること……」
何の因果か、人間の生存には適していない環境にたった独り甦ってしまった少年は思案深げに、
「なぜ『左目』王家に於いて、〝流体操作〟が王位を継ぐ条件とされてきたのでしょうか。複数の標的を同時に心臓麻痺や脳梗塞で即死させ、あるいは土砂降りの雨をたちまち止ませるほどの強力なアニマだから? ――いいえ。さもなくば、REDを[[rb:安全に管理 > ・・・・・]]できないからです。もはや伝説やおとぎ話と化してしまった遠い昔から、歴代の『左目』国王は……極秘に、REDを受け継いできていたのです。いずれ人間が甦り、再びその種の細菌兵器を開発した時に備えるために。あるいはこうして、彼ら自身が用いるべき時のために……」
「馬鹿な……!」
REDが今もこの《楽土》のどこかに眠っている可能性自体はつい先日、碧はこの「弟」から聞かされて、一応念頭に置いていた。しかし異種族とは言え、かつて共に「伝説上の化け物」に立ち向かった筈の同胞がそれを持ち出すと言うのは、彼にとってはとうてい受け入れがたい現実。
「我々を始末する過程で多数の死傷者が生じても、それは必要な犠牲であったと――否。『遅かれ早かれ淘汰される運命にあった』と、〈端倪〉めは片付けるつもりなのか!? 自国民を護り、導くべき立場に在りながら……!」
「……いいえ。私と言う『伝説上の化け物』の復活や墨雲の離反が、引き金の一つになったこと自体は否定いたしませんが……。これこそが長年、あの老獅子が温めていた計画なのでございましょう」
王族としての誇りが高いと同時に、責任感も強い兄のことを赫はじっと見つめ返すと、
「『左目』国内のみならず《楽土》全域に於いて、再びREDに[[rb:猖獗 > しょうけつ]]を極めさせる。それでも生き残った一握りの者たちこそが、新たな時代を築くべきだと。――神話の時代。被支配階級に在った獣人たちが、アニマの発見によって人類に叛旗を翻したように。REDによって絶滅の淵に追い込まれつつも最終的な勝利者となり、この《楽土》を築いたように……」
「己が生きとし生ける者の、審判者にでもなったつもりか!? 傲慢が過ぎるぞ、〈端倪〉……!」
このまま赫たちや他国の要人が呆気なく病死したとしても、それは最初から「土俵に上がる資格もなかった」だけのこと。〈端倪〉ならばそう結論付けるに相違あるまい……と察した碧は、息を節約しなければならないのも忘れて吠え猛る。
「若。一旦[[rb:陸 > おか]]に上がって息継ぎしておきやすかい? まだここまでは屍どもも追っかけてきてねぇみてぇだし、今、辺りがどうなってっか確かめとく必要も――ヒック」
そんな碧のことを心配して尋ねた潮が、巨体には見合わない可愛らしいしゃっくりをする。鯱族に生まれたおかげで両肺にはまだまだたっぷり新鮮な空気が残っているのだが、こんなことで無駄に消費してはいけない……と己の[[rb:鳩尾 > みぞおち]]を握り拳でトントン叩く。が――
「くしゅん」
今度は赫が小さなくしゃみをした。この「水中」は太陽が照り付けている地上より温度が低いため、冷えてしまったのかと思ってその矮躯を抱き直す潮だったが、碧は血相を変えて、
「貴様、よもや既にREDに感染しておるのではなかろうな!? 伝説に謳われている通りならば、あれは飛沫のみならず空気感染もする筈だ。あのハイエナが屍を引き連れてきた道筋は、我らの席からは遠かったとは言え――ぐっ!? んっ、ぐふっ……!?」
己の鼻面の先を片手で覆うと、くぐもった咳をする碧。斯く言う己こそ既に感染してしまっていたのかと愕然とするも、ブチとは異なるアニマの持ち主が地上を歩き、ゆっくりとこちらに接近してくるのを感知する。
(馬鹿な。「生ける屍」や大気中のREDが急速に増殖しつつあるこの状況下で、[[rb:もう一人 > ・・・・]]、だと……!?)
「『くしゃみや咳やしゃっくりをさせる』。たったそれだけの、お粗末なアニマ」
コツコツとブーツの底を鳴らし、石畳を歩む巨漢のライガー獣人。ブチから連絡を受け、「地中を移動している」アニマを探知していた號鐘だ。先日は実父とは言え現国王たる〈端倪〉にお目通りを願う関係上、サイズの合わない軍服に無理矢理袖を通していたのだが、今回はまたみすぼらしい旅装に戻っている。作戦開始までなるべく目立たないように……とは言っても彼の人相風体では土台無理な相談だったので、せめて着慣れた服に身を包み、一介の旅人を装っていたのだ。
相変わらずその人相風体には似つかわしくない、ボソボソとした喋り方で、
「……だが、『息を止める』ことはできても。果たしてくしゃみや咳やしゃっくりを、己の意志で抑え切ることができるか……?」
[newpage]
▼3
「確かにまだここまでは『生ける屍』も、大気中のREDも到達してはいないようだが……。こやつは、作戦の詳細を知らされていないのか? それとも〈端倪〉めがどこからか、こやつらにだけは感染せぬよう流体を操作しているのか……!? ぐっ。げ、ほっ……!」
新手の術者が近付いてくればくるほど彼らのくしゃみも咳もしゃっくりも激しさを増し、己の意志では抑え切れなくなってくる。碧は牙を噛みしめると、
(あのブチとか言うハイエナは――否。〈端倪〉めは、全て計算していたのだ……!)
不測の事態に備え、赫が潮を供に選ぶであろうことも。REDの感染を防ぐため、潮のアニマで地中に逃れるであろうことも。――だからこそ、「くしゃみや咳やしゃっくりをさせる」この術者を港方面に配置した。地中でこのまま強制的に肺を空っぽにさせられた末に窒息死するか、REDに感染する危険を承知で息継ぎをしに陸に上がるかの[[rb:二者択一 > ・・・・]]を強いるために。
「急げ、潮。来た道を、戻るのだ……!」
しかし、そんな二択の間で迷っている暇はないと結論付ける碧。潮はくしゃみをしている赫を己の懐に庇いつつ、
「でっ、ですが碧様。あのハイエナ野郎を斃したトコで、既にバラ撒かれちまったRED自体が消えてなくなるわけじゃあねぇんでしょう? なら速攻でこっちの敵を片付けて脱出した方が――ヒック! ウイック!」
「いいから戻れ、説明している時間が惜しい。これ以上屍や大気中のREDが増殖して、俺の手に負えなくなる前に……!」
「てっ、てめぇ。こりゃあ一体、どう言うこった……!?」
「へっ?」
何だか聞き覚えがあるような声に、ブチはふと振り返る。そこに立っていたのは、野次馬根性を発揮して公開処刑を見物に来ていたと思しき猪獣人。豚っ鼻と牙の生えた口元を片腕で覆っているものの、REDの爆発的な感染力を前にしてはその程度の対策は無意味である。
ブチは首を傾げつつ、案外つぶらで愛らしい両目をぱちくりさせて、
「え~っと、どこの誰だっけ? どっかで見た気はするんだけど、ごめん。おいら、『強い男』の顔と名前しかちゃんと一致しなくってさぁ~」
「ふざけんな。何でてめぇ独りだけ、ケロッとしてやがんだ!? こんな、地獄絵図の中で……!」
処刑対象の三十余名が「生ける屍」と成り果て、手足がちぎれても頭が潰れても尚、逃げ惑う人々を手当たり次第に襲っている様。そのちぎれた手足がひとりでに動き回っている様。既にREDに感染してしまった招待客や見物人が激しく咳込んだり、毛皮に生じた真っ赤な発疹を掻き毟ったりしている様。それらを改めてぐるりと見渡しながら、猪は叫ぶ。それは先日、酒場で因縁を付けてきた傭兵隊長だったのだが、当のブチは本気で思い出せない様子である。
自分より小柄なブチの胸倉を両手で掴むと、必死の形相で激しく揺さぶる猪。軍服のボタンがちぎれ飛び、ブチの左鎖骨から肩にかけての毛皮が覗いた。
「寄越せ、『治療薬』を! さもなきゃ、こんな得体の知れねぇ病気が蔓延してるド真ん中でヘラヘラ笑ってられるわけがねぇ! 今すぐ、俺様に寄越しやがれ!!!」
「え~っ? 持ってるわけないじゃん、そんなの」
ブチはそこに散在している、本来タテガミハイエナにはある筈のない斑模様を一瞥すると、
「だっておいら、[[rb:免疫 > ・・]]あるし。陛下に拾われてから定期的に、REDの接種を受けてたからさぁ。――おいらは、そのための被検体」
「何だと……!?」
術者以外のアニマを感知した屍の数体が背後から、一斉に猪へと襲いかかる。死に物狂いで抵抗する猪だったが、それは無意味どころか逆効果で、飛び散った体液からREDに感染させられてしまう。
生まれつきの斑模様ではなく、REDの接種痕であるそれらをポリポリと掻きながら、そんな相手の姿を見下ろすブチ。そう、だからこそ〈端倪〉は新たに占領した地区の貧民窟に、自ら足を運んだのだ。そうした劣悪な環境に適応した者の中にこそ、己の求める人材が眠っていると考えて。
ようやく顔を思い出せそうになった次の瞬間に猪は喉笛を食いちぎられて絶命してしまったので、ブチは仕方なく相手も制御下に置く――と同時に、己自身を庇わせた。猪の死体が白煙を上げ、ブスブスと内側から焼け爛れてゆく。
「……そ~言えば。お兄さんのアニマに関しては、何も情報がなかったけど」
猪に群がっていた屍たちを操ると、処刑台の陰へと殺到させる。他者のアニマを感知するのが不得手なブチでも、高位の術士がそこに潜んでいるのが分かったのだ。――それらの屍たちの体液を、全て同時に「強酸性」に変化させると。碧は地中からたった独り、ざばりと陸に上がった。全身の筋肉や骨や靭帯を強酸によって破壊され、もはやブチのアニマを以てしても操作できなくなった死体たちがグズグズと融け崩れてゆく。
「参ったな~。〈鳳仙花〉のダンナもだけど……その手の、[[rb:原型を留めない > ・・・・・・・]]程度に人体を破壊できちまうアニマ、おいらの天敵なんだよね~。詳細不明のまま、REDでくたばってほしかったんだけど――何で平気なわけ? まさか『顎』でもおいらみたいに、免疫持ちを秘かに養成してたとか?」
それには答えず、再び術者本人の体液を強酸性に変えようとする碧。しかしブチがすかさず別の屍を盾にしたことで、またもや狙いを外される。本来はその名の通り、海を思わせる紺碧色をしている筈の彼の鱗にはなぜか大きな網模様が広がり、ぬらぬらと虹色に光を反射させていた。
碧のアニマは液体の〝酸性度〟を、強酸性から強塩基性まで自由自在に操作するもの。そしてREDの細胞壁及び細胞膜は強塩基で破壊できると、赫から事前に聞かされていた。――だからこそ、碧はこんな荒業を思い立ったのだ。潮のアニマで羽織を〝液状化〟させ、膜状にしてすっぽりと己自身を覆った上で。それを強塩基性に変え、REDに対する即席の[[rb:防護服 > ・・・]]にすることを。
「よく分かんないけど、とりあえず――その変な膜を、引っ[[rb:剥 > ぺ]]がしてやればいいのかな?」
碧を集中攻撃するよう、命令を切り替えるブチ。さっきより大勢の屍たちが一斉に碧に襲いかかるも、片っ端から体液を強酸に変えられ、内側から破壊されてゆく。
碧は身を護るのに精一杯で、ブチ本人を攻撃する余裕はない。如何に海竜族の肺活量が鯱族並みに多くてもいずれは底をついてしまうだろうが、有限と言うならば、それは屍の頭数も同じこと。
(こやつを斃してもREDが死滅しないと言うならば尚更、現段階で確実に仕留めておかねばならぬ。万が一こやつを逃がし、REDに感染した「生ける屍」を陸路や水路経由で送り込まれでもした日には。《楽土》が再び、赤に染まる……!)
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▼4
むかしむかし、あるところに。[[rb:逆櫓 > さかろ]]と言う名の鯱獣人と、[[rb:幸 > さち]]と言う名の人間がおりました。深手を負って波打ち際に漂着していた逆櫓を、まだほんの子供だった幸が見つけて手当てした……と言う、あまりにも陳腐な出会い方でした。
二人が出会った当時はまだ、獣人たちは人類に支配されておりました。とは言え鯱族は海竜族ともども「海」を縄張りとしていた上に身体能力も知能も高く、如何に科学文明と言う「偽りの火」を以てしても、人類には手出しが難しい存在でした。
従って鯱族全体としては、比較的中立の立場を保っていたのですが……逆櫓は、大の人間嫌いでした。命の恩人に対しても「弱っちぃ癖に偉そうに指図すんな!」とぷりぷり怒ってばかり。――けれどもこれまた陳腐なお話で、いつの間にか、幸のことが大好きになってしまいました。幸が優しい子守唄を口ずさむと、逆櫓は荒っぽい舟唄のこぶしを利かせてみせました。幸がもう少し大きくなったら、結婚を申し込もうと逆櫓は心に決めました。
しかし、ある獣人の英雄がアニマを発見したことをきっかけに、人類との間で戦争が始まりました。最初は単に、獣人たちが自由に暮らせる国を新しく作ろうとしていただけの筈だったのに、それはいつしか一方が他方を絶滅させるまで終わらない、のっぴきならぬものに変わっていってしまいました。
それでも二人は人目を忍んで逢瀬を重ねていたのですが、遂に人類側があの悪魔の細菌兵器を――〈RED1052762〉を持ち出し、あくまで中立の立場を貫いていた鯱族にも被害が及んだことで、遂に族長も獣人側に[[rb:与 > くみ]]することを決めました。幸か不幸か鯱族には強力なアニマの持ち主が多く、「人類側に寝返るのでは」と疑っていた獣人たちでさえ認めざるを得ないほどの戦働きを見せました。
そんな中、逆櫓独りは「オレにゃあアニマなんざ使えねぇから」と出陣を渋っていたのですが……一旦仲間がREDに感染したか、その疑いが濃厚と判ると見殺しにせざるを得ない上、遺体を弔うこともできない現状に苦悩しました。人類への憎しみは募るばかりで、久しぶりに幸と会えた時も、感染の心配とは無縁で外を出歩いている相手の姿を見て、思わず怒りを爆発させてしまいました。この戦争に翻弄されていると言う意味では幸も自分と同じだと頭では理解できているのに、酷い言葉をいくつも投げかけてしまいました。
逆櫓は頭を冷やすため、陸には一歩も上がらずに来た潮路を戻りました。幸は波打ち際に立ったまま、ぽろぽろと涙を流しておりました。
戦争は、呆気なく終わりました。REDに対する免疫や、それに対抗しうるアニマの持ち主が獣人側に次々と現れた一方で。変異を繰り返したREDが、人類自身に牙を剥いたのです。
初めて会った波打ち際に行ってみると、果たして幸はそこにおりました。真っ赤な斑点が浮かび上がった唇で、いつか逆櫓に習った舟唄を口ずさんでいるものの、たびたび咳に中断されてしまいます。
「最後に一目、会いたかっただけだから」
と力なく微笑んでその場を後にしようとしましたが、すぐによろめいて横ざまに倒れ伏してしまいました。少し砂にこすれたり小石にぶつけたりしただけなのに、身体のあちこちに浮かんだ斑点が破れて真っ赤な血が流れ出します。
逆櫓は自らも感染してしまうのを承知で、陸に上がると幸を抱き起こし、結婚を申し込みました。幸が黙って頷き返すと、初対面の時よりずいぶん大きくはなったけれど、彼に比べるとまだまだ小さな相手の身体を両腕で膝の上に抱え上げます。いつか幸に習った子守唄が、自然と口からこぼれてきました。
幸が息を引き取ると、逆櫓はその矮躯を両腕で抱え上げたまま、ざぶざぶと海に分け入りました。彼の皮膚に付着していた幸の血が、海面に赤い筋を引きました。
いつまでも帰ってこないのを心配した仲間たちが、逆櫓を探しにやってきました。その時、逆櫓と幸のシルエットはまだ、遥か彼方の水平線に辛うじて浮かんで見えていたのですが――仲間たちが呼び戻そうとした次の瞬間、すうっ……と海の中に消えていってしまいました。まるで二人の身体がドロドロに〝液状化〟してしまったかのように。もう二度と離れ離れにならないよう、融け合うかの如くに。
「いつぞやお聞かせした、『逆櫓と幸』の昔話。覚えていやすか? 若……」
下帯一丁になった潮が、赫を胸の中に庇いながら、頭上の気配を感知する。そこでは碧が、ブチや「生ける屍」たちと死闘を繰り広げている最中だった。
本来ならば二手に分かれて、敵の各個撃破を狙うべき場面。しかし赫を一旦己の体内に隠し、あの『くしゃみや咳やしゃっくりをさせる敵』に地中から奇襲を仕掛けたところで、自分自身や赫がREDに感染してしまえば元も子もない。何より碧から離れすぎると、せっかく貸し与えた羽織がただの布切れに戻ってしまうのだ。――そうかと言って、碧を助太刀するわけにも行かない。潮のアニマならば触れさえすれば一瞬で〝液状化〟できるとは言え、あの屍たちはそれでも活動を続けるであろうし、今はその「触れさえすれば」と言う部分が大問題なのだから。
赫は息を節約するのはもちろん、敵に居場所を勘付かれないためになるべく小声で、
「鯱族の間に、古くから伝わる物語。単なる後世の創作物と見なされているが、お前は確かに、そいつと同種のアニマを宿している。だからこそ同じ過ちは繰り返さない、とでも?」
「そいつはここで改めて申し上げるまでもありやせんが……。この昔話でも、人間には最初REDは効かなかったことになってやす。それも道理、獣人だけを殺すために開発された兵器なんですから。――そんなら、あのハイエナ野郎がバラ撒きやがったのは一体、[[rb:どの > ・・]]REDなんでしょう?」
「……なるほど。私を招待したのは『真贋を見極める』目的も兼ねているかも知れない、と言うわけだな。本物の人間ならば、初期型のREDには感染しない筈だと」
それならば赫を生け捕りにし、生皮を剥ぎたがっていると言う〈端倪〉の目的にも適うだろう。だからと言ってこれが初期型だと言う確証が得られない以上、赫が無防備に陸に上がるわけにも行かないのだ。
「若……」
赫の矮躯を抱き寄せると、己の肺に残っている空気を口移しで分け与える潮。まさか相手とのファーストキスがこんな形になるとは予想だにしていなかった。役得と言えば役得だが、さしもの潮も興奮している場合でないことは承知している。
己のアニマを敵に感知されてしまわぬよう十八番の[[rb:隠形 > おんぎょう]]術を使用し直すと、潮は頭上を振り仰ぎ、
(碧様。どうか今しばし、踏ん張ってくだせぇ……!)
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▼5
「えっ、何? まさか大気中や飛沫中のRED自体を破壊できんの?」
次々と「生ける屍」を呼び寄せては碧を襲わせ続けるブチ。対する碧は「防護服」を引き剥がそうと殺到してくる屍たちを処刑台に用意されていた長柄の斧で薙ぎ払うと同時に、その体液を酸性化して内部から破壊することを繰り返す。
これだけ大量の血液なり肉片なり骨なりが飛び散っていればいずれ膜に穴が開き、感染してしまうものとブチは高を括っていたのだが――この竜人の王子がRED自体を破壊できるのならば話は別だ。本来この手の物量作戦はブチの得意分野なのだが、碧を追い詰めるどころか却って自分の側がジリ貧に陥りつつある。
「號鐘のダンナが足止めしてくれてる隙に、REDの感染が急速に拡大。労せずして新鮮な死体が手に入るって算段だったから――マズったなぁ」
(戦場や、斯様な人口密集地に於いては猛威を振るうアニマ。屍が新たな屍を生み出し、ネズミ算式に増殖してゆく……。恐らくは都内の各所では未だ、屍が住民を無差別に襲い続けていることだろう。――だからこそ、こやつはそれらを全て呼び戻すわけには行かぬ。[[rb:新たな屍 > ・・・・]]をそれ以上、増やせなくなるからだ……!)
たとえ増殖の効率を落としてでも、屍をもう少し呼び戻すべきか。ブチがそう躊躇した隙に、碧のアニマが最後の一体を破壊した。斯くなる上は、噂の〈赤子〉の真贋を見極める用に持たされていた初期型のREDの小瓶を直接ぶつけて……と懐に手をやるブチ。しかしそれより一瞬早く、碧が今度こそブチ自身に狙いを定めて――
「ぐっ……!? うっ。げほっ、ごほっ……!」
突如として激しく咳込み、斧を取り落としてしまう碧。その拍子に狙いが小瓶へと逸れ、内部に封入されていたREDの方を強酸性に変えてしまう。反射的に喉を片手で押さえると、鱗越しにも、そこの筋肉が激しく痙攣しているのが分かった。
石畳にコツコツとブーツの底を響かせて、大柄な人影がこちらに近付いてくる。號鐘は夥しい血液や屍の残骸が散乱し、酸に焼かれてシューシューと白煙を上げている文字通り酸鼻な現場や、その中心に立って必死に息を整えようとしている碧、そして彼が身に纏っている防護服を順繰りに眺めると、
「……なるほど。〝酸性度〟を操作するアニマか」
「ありがと、號鐘のダンナ。好き♡」
感謝を態度で示そうとしてくるブチを片手で制しつつ、碧との間合いを縮める號鐘。激しく咳込みつつもブチと號鐘の体液を強酸性に変えようとする碧だったが、もはや発作としか形容する他ないものに襲われて、狙いを定めるどころではなくなってしまう。
「ぐっ、げほっ。ごほっ、ごほっ! ガ、ハッ……!?」
「その液状の『防護服』を強塩基性に変えることで、REDから身を護っているようだが……。当然ながら、己自身に触れている部分は[[rb:中和 > ・・]]している筈だ。さもなくば、鱗が焼け爛れてしまうからな。それと並行して屍どもを破壊しつつ、隙あらば術者本人を狙う。――すなわち強塩基性と強酸性を同時に複数、適宜使い分けると言う、極めて繊細な操作を要求されるわけだが」
「ぐっ!? うう……!」
號鐘がそう言い終わらないうちに操作に狂いを来たし、防護服が触れている箇所の一部に激痛を感じる碧。そこの鱗がたちまち酸で焼け爛れ、シューシューと白煙を上げた。どんなに意識を集中しようとしても、『くしゃみや咳やしゃっくり』と言う単純ながらも、自分の意志では抑え切れない生理的反射運動にたびたび乱されてしまう。おまけに號鐘がこちらに近付いてくればくるほどその激しさは増し、今や呼吸はおろか、視点を敵二人に固定しておくことすら困難になりつつあるのだ。遂に喉の粘膜が傷付き、口の中に血の味が滲んでくる。
(こっ……この、アニマ。ただ俺たちに息を浪費させ、窒息死か病死の二者択一を迫るためだけのものでは、なく……!)
「『くしゃみや咳やしゃっくりをさせ続ける』。たったそれだけの、お粗末なアニマ。――お前たちが、[[rb:息絶える > ・・・・]]まで」
「あっ! 今ひょっとして、上手いこと言ったって思った? 號鐘のダンナ」
「ぐふっ!? ゲホッ、ゴホッ、ぐぅ、があっ……!」
口の端から血を流しつつも、再び相手の体液を強酸性に変えようとする碧。激しい発作のせいで視界が霞みはじめているが、アニマを感知して両者を見分けること自体は彼のような高位の術士には容易。――しかし今この場で、果たしてどちらを優先して始末すべきか迷ってしまった一瞬の隙に、屍が複数その背後から襲いかかった。號鐘が時間を稼いでいる間に、ブチが抜け目なく再び量産→こちらに呼び戻していたのだ。
(だっ……だがこのアニマでは、REDから身を護ることはできん筈。「ゴウショウ」とか呼ばれているこの男にも、[[rb:免疫 > ・・]]があるのか? ブチと同じく、〈端倪〉めの被検体となって……?)
先程処刑台の陰で盗み聞いた、ブチと猪との会話内容を思い出しながら考える碧。彼の喉笛にかぶり付こうとしてきた屍の一体の首をブチたちの側にねじ向けると、儀礼用の細剣で掻き切ってやる。そこから噴き上がった鮮血が強酸性の雨と化し、ブチたちの頭上に降りかかった。
「おっと」
すかさず新たな命令を下すブチ。彼らの盾となった屍からシューシューと白煙が上がる。その間に残りの数体が遂に碧に取り付き、血染めの石畳へとうつ伏せに押さえ付けた。
当然ながら直ちにそれらの体液を強酸性に変えて破壊し、拘束を解こうとする碧だったが、新たな屍たちが次から次へと折り重なってくるせいで対処が追い付かない。おまけに今のこの状況では相手を破壊し続けたところで、自分がそのドロドロに融け崩れた血肉に埋まって窒息死しかねないのだ。
「ぐっ!? こっ、このぉ……!」
「ところで號鐘のダンナ。さっきから何でその辺ぐるぐるしてんの? ウンコ漏れそうなの?」
一直線に碧へと接近すれば『くしゃみや咳やしゃっくり』だけでもとどめを刺せる筈なのに……と言う含みを持たせて尋ねるブチ。ブーツの底をコツコツと響かせながら、あちこち落ち着きなく歩き回っていた號鐘は足を止めずに、
「人間はアニマを持たない。従って俺もお前も、陛下ほどの術士であってもその居場所は探知不可能。その男自身も、〈赤子〉が――自分の弟が今どこに隠れているのか、分かってはいないだろう」
「あの化け物は、俺の弟などでは、ないっ……!」
屍たちやその残骸に半ば押し潰されつつも尚、頑なに言い募る碧。しかし號鐘はそんな言葉は聞き流し、持ち前のボソボソした喋り方で、
「だが……REDが大気中に充満し、たとえ地中に潜って逃れているにせよ、息継ぎもままならないこの状況下。〈赤子〉がまだ生きているとすれば、それは例の鯱に、息を分け与えてもらっているからだ。つまりその二人――いや、一人と一匹か――は、今も行動を共にしている筈」
「んで?」
未だにピンと来ない様子のブチに対し、號鐘は碧が身に纏っている防護服を指差してみせ、
「その羽織が〝液状化〟しているのは、鯱が地面を泳いだのと同じ仕組み。それがまだ解除されていないと言うことは、術者が射程内に留まっていると言うことだ。俺にもお前にも未だに探知されていない事実から察するに、隠形の術に長けた男のようだが――『その竜人を中心として』渦を描くように歩き続けていれば、そのうち」
『ぶっ――ふっ、ふえっ。ぶえぇえっく、じょおおぉん……!!!』
號鐘が解説し終えるより早く、雷がすぐそこに落ちたかと思われるような巨大な音と振動が、その場の大気を揺るがした。思わず耳を両手で塞ぐブチと號鐘。――そう、號鐘のアニマは対象に近付けば近付くほどその威力を増す。まだ少し距離がある間は辛うじて堪えることができていた潮も、ここまで接近されるととうとう限界に達し、両肺に残っていた全ての息を吐き出すような盛大なくしゃみを放ってしまったのだ。
〝液状化〟させられていた地面がその勢いでブルブルと煮こごりのように震えると共に、もはや術を維持できなくなった潮が地中から半身を覗かせる。その懐に庇われている小さな人影を、じっと見つめる號鐘。潮の盛大なくしゃみに紛れて全く聞こえなかったが、どうやらそちらも既に息を使い果たし、窒息死する寸前のようだ。――父親からはなるべく生け捕りにするよう命じられているものの、號鐘は油断せず、反撃を受けない程度の間合いを保ってアニマを使用し続ける。
「お兄さん、強いね。〝酸性度〟を操るそのアニマ、ひょっとしたら陛下が相手でも勝機があるかも」
くしゃみの残響でまだ頭がぐわんぐわんと揺れている気がするものの、勝利を確信したブチが碧へと向き直る。「強い男」が好みの彼は素直に称賛の色を目に浮かべつつも、
「てなわけで、この場で確実に息の根を止める! 屍ども、ソイツの頭を――」
しかし、次の瞬間。砕かれたのは碧ではなく、ブチ自身の頭だった。
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▼6
『潮……』
『若!? どうしやした、もう少し入り用なら――』
時は少し遡り、潮が地中で、口移しで息を分け与えた直後のこと。赫は苦しげに、小声で囁きかけてきた。その唇がお互いの唾液に濡れている様子につい劣情を催してしまいつつも、再び口吻を突き出す潮だったが、
『違う。なるべく温存しておけと、言いたいのだ。もう一人の敵が、こちらに接近しつつある。「くしゃみや咳やしゃっくり」をさせるあのアニマで、我々の居場所を探り当てるために。今は何とか持ちこたえられている碧お兄様も、奴らに合流されてしまえば苦戦は必至。――所詮はただのくしゃみや咳だと、[[rb:侮 > あなど]]るなかれ。近付けば近付くほどその効き目が増すとすれば、命に係わる……』
『だったら尚更、若にできるだけ多くの息を分け与えた上でオレも陸に上がって、連中が合流しちまう前に……!』
しかし潮のゴム質の皮膚をぎゅっと掴むと、赫は細首を横に振り、
『何か、適当な得物はあるか……?』
『おっ、応。前の[[rb:銛 > もり]]はあの象に砕かれちまったから、こうしてちゃんと新品を――』
己の土手っ腹に片腕を突っ込むと、〝液状化〟させて隠し持ってきていたそれを半分、引きずり出してみせる潮。その辺りは海賊時代から変わらず抜け目のない「一の子分」に対し、赫は満足げに頷き返すと、
『……奴のアニマを、[[rb:逆用 > ・・]]しろ。ぎりぎりまで引き付けた上で、お前が……盛大な「くしゃみ」をぶちかましてやるのだ。ここまで言えば……お前なら、分かってくれる、だろう……?』
『若……!』
今分け与えてもらったばかりの息を説明のためにほとんど使い果たしてしまったのか、ぐったりと身を預けてくる赫。その矮躯をしっかりと抱き直すと、潮は祈るような視線を〝水面〟に向けた。赫の作戦は理解できた――が、もしもその前に、碧が力尽きてしまったら。あるいは自分がせっかくのチャンスをふいにしてしまったら、それは彼ら三人の死を意味する。加えて、仮に成功したところで全員無事にここから生還できる保証もないのだ。最悪、碧を見捨てて二人だけ逃げると言う手も……。
(何を臆病風に吹かれちまってんだ、この潮様らしくねぇ! 殿様に大見得切った筈じゃねぇか、お二人には指一本触れさせねぇって。――何より、惚れた相手がオレを信じて、こんな風に命を預けてくれてるなんざ、男冥利に尽きるじゃねぇか……!)
そして、潮はその作戦を実行に移した。この『くしゃみや咳やしゃっくりをさせる』術者を可能な限り引き付けた上で、銛を〝液状化〟させて口に含む。そして盛大なくしゃみと同時に、それを連中めがけてぶっかけてやるのだ。――ブチにも、そしてこのゴウショウとか言う大男にもREDに対する免疫があると言うのなら。この状況下でも感染を恐れる必要なく、平然と「呼吸」をしている筈。そうして微細な水滴と化して飛び散った銛を知らず知らずに、鼻や口から[[rb:吸い込む > ・・・・]]筈……。
(そして、タイミングを見計らって〝液状化〟を解いたなら……!)
ブチが既に吸い込んでしまっていた分に加え、その毛皮に付着したり周囲に漂ったりしていた無数の水滴が瞬時に元の固体に戻ると同時に、バァン! とブチの頭を貫いた。実際に吸い込んでいたのは穂先ではなく柄の部分だったようだが、それでも致命傷を与えるには十分すぎるほど。――恐らくはブチ自身も一体何が起こったか理解する暇もなく、即死したのだろう。碧にとどめを刺そうとしていた格好のまま、その首から下がふらふらと揺れ動く。「尖ったもの」に対して自動的、かつ瞬間的に反撃する雷花には決して通用しなかった手だ。
「げほっ! ぐっ、ごほっ、がほっ……!」
しかし號鐘は激しく咳込み、口元から血を流しつつも、ブチと同じ末路を辿ることは辛うじて免れたようだった。その足元の石畳に、銛の穂先がガラガラと耳障りな音を立てながら転がり落ちる。咄嗟に[[rb:自分自身 > ・・・・]]に『くしゃみや咳やしゃっくり』をさせ、銛が固体に戻る寸前に吐き出したのだと理解する潮。
(畜生、二人いっぺんに片付けるつもりが……! やっぱこの野郎、場数を踏んできてやがる……!)
たった今の起死回生のくしゃみのために、潮の両肺はほぼ空っぽ。さりとて息を継ごうにも辺りの大気はREDに汚染されてしまっている。今すぐにでも赫を連れて再び地中に潜らなければ感染の危険が高いが、號鐘が生きていてはいずれ――
「……!」
しかしその時、数体の「生ける屍」が潮たちに襲いかかった。ブチから既にアニマは感じ取れないから完全に、何とやらの立ち往生を遂げている筈……なのだが。どうやら己自身のアニマ=魂を分け与える系統の術だったらしく、屍側からごく僅かながら、ブチと同じアニマを感じる。
急いで赫を抱え直し、魔手から逃れようとする潮。しかし號鐘が今度はその屍たちに激しく『くしゃみや咳やしゃっくり』をさせたことで、REDを含んだ体液がそこら中に飛び散り、潮が庇ういとまもなく――
「……赫……!」
屍の残骸に半ば埋もれ、肺に残る空気も後僅かとなって意識が朦朧としていた碧が、力を振り絞った。それらの飛沫を強塩基性に変え、赫たちの肌に触れる寸前にREDを全滅させる。それと相前後して屍たちも活動を停止し、ばたばたとその場にくずおれていった。
(残すは、この大男――ただ、一人……!)
激しい咳を堪えながら、號鐘に狙いを定める碧。身を守ろうとする號鐘だったが、屍を盾にできない今、彼のアニマだけでは攻撃の矛先を完全に逸らすことはできない。屍たちをブチでも操れないよう徹底的に破壊する場合と異なり、敵を絶命させるなら、脳内の血液を強酸性に変えるだけで事足りる……。
「いけねぇ、碧様!!!」
しかし、その寸前。後生大事に抱えていた赫をその場に残して、血相を変えた潮が碧と號鐘の間に跳び込んできた。地面を〝液状化〟させて半身を沈めたままの状態だったので、鯱が海面を跳ねる時のように文字通り「跳び込んで」きたのだが……。
「……?」
半透明の、泡のようなものが左肩に触れると同時に、白黒二色に染め分けられた潮の皮膚にブツリと〝穴〟が穿たれた。そこからひとりでに辺りの空気が吸い込まれていったかと思うと、潮の上半身は風船のように膨らんで――
「――えっ?」
ようやく意識を回復した赫の目の前で、木っ端みじんに[[rb:爆 > は]]ぜ飛んだ。
[newpage]
▼7
潮の上半身が木っ端みじんに爆ぜ飛ぶと共に、彼が〝液状化〟して己の体内に隠し持ってきていた縄だの火打ち金だの油の入ったカンテラだのと言った品々が、ばらばらと辺りに降り注ぐ。――赫はおろか、結果的に助けられた形となる號鐘すらも、その突然の出来事に反応できずにいる中。碧は公開処刑が始まる前、酷く歪んだアニマを[[rb:二つ > ・・]]感知していたことを遅ればせながらに思い出した。その片方はブチで確定だが、もう片方は明らかに號鐘ではない。確かに珍しい系統のアニマで場数も踏んできているようだが、決して「歪んで」などいないのだから。だがたった今、潮を攻撃した術者は……
「……」
REDが充満している筈の大気の中。身の丈は號鐘に引けを取らず、横幅に関して言えば上回る巨漢が、重厚な鎧を鳴らしながらこちらに歩み寄ってくる。血だまりと無数の屍の残骸のただ中に斃れているブチの骸に目を留めると、その場に片膝をつく。籠手を嵌めた片手で、銛の柄が貫通している相手の頭の鬣を優しく撫でてやりながら、
「己が主君への忠義を尽くした、あっぱれな最期であったと――儂から、〈端倪〉王陛下に奏上しておこう」
片耳が破れ、唇も一部が裂けて牙や歯茎が露出した恐ろしげな容貌とは裏腹に、穏やかで理知的な……父性的な愛情さえ感じられる表情と声色でそう呟く、五十がらみの白熊獣人。それから目の前にいる竜人と「伝説上の化け物」に順番に視線を送ると、
「『顎の国』の第一王子:碧殿。並びに第二王子:赫殿とお見受けいたす」
「貴様、〈鳳仙花〉……!」
こうして相まみえるのは初めてとは言え、相手が名乗るまでもなくその正体を悟る碧。敵兵を片っ端から無残に爆死させ、その白い毛皮や白銀の鎧を返り血で朱に染めては悦びに精を漏らす……と言う悪評は当然ながら碧の耳にも届いている。それまで漠然と思い描いていた姿とは些か――否、かなり異なっているものの。潮の肉体を破裂させた先程の術は、そしてこの酷く歪んだアニマは本人に相違あるまい。恐らくは水滴に〝空気穴〟を開け、半透明の即席の爆弾へと変えたのだろう。
(だが、問題は……!)
なぜこの男は、REDに感染しないのか。ブチや號鐘と同じく免疫を有しているのか? ――否、と碧は結論付ける。確かにこの男の仕える『鼻の国』は『左目』と長年同盟関係に在るが、あの老獅子のことだ。こうしてREDを《楽土》中に蔓延させる計画を立てていたと言うなら尚更、その存在をみだりに同盟相手に明かしたり、ましてや他国の重鎮に免疫を獲得させたりはしないだろう。
ならば『鼻』が――現国王たる〈磨崖〉が独断で、同種の研究を進めていたとでも言うのか? 〈端倪〉の計画を見抜いた上で? あの狼ならばやりかねない、が……垂氷の影武者は呆気なく感染し、生ける屍の餌食になっていた。それなのに、なぜこの男、は……?
「……ブチ。確かにお前の申した通り――〝酸性度〟を操るこの男のアニマは、『左目』王家の〝流体操作〟にも対抗しうる」
ブチの頭部やそこに貫通している銛の柄や、あお向けに斃れているその胴体にブツブツと、無数の〝穴〟が開いてゆく。
「それすなわち、陸殿下に対しても脅威となりうると言うこと。――許せ」
それらの穴から周りの空気を吸い込み、たちまち風船のように膨れ上がったブチの骸を、彼らの方に押しやる白峰。屍の残骸の下からようやく這い出した碧の眼前に、その爆弾が迫る。先程潮を攻撃したものとは比べ物にならない大きさだ。
(周りの空気を吸い込んだ――と言うことはつまり、この爆弾内は[[rb:REDで満たされている > ・・・・・・・・・・・]]筈! 死骸を強塩基性に変えても、全ての菌は破壊できない。否、そもそもこの距離でまともに爆発を食らってしまっては……!)
「ぐうっ……!? げほっ、ごっ、はあっ……!」
せめて間合いを開けようとする碧に対し、再びアニマを使用する號鐘。このままでは自らも巻き添えになりかねないと言うのに、碧を確実に仕留めることを優先したのだろう。
(万事休す、か……。父上……!)
[newpage]
▼8
垂氷の影武者に同行して『左目の国』に向かうよう、白峰に命じると。ぼさぼさの灰毛の狼獣人――『鼻』の国王〈磨崖〉は喉の奥まで見えそうなほどの、大あくびをしてみせた。
『ぶっちゃけ面倒臭いけど、〈端倪〉王陛下直筆の招待状まで寄越されちまったからさあ。垂氷を俺の名代として出席させることにした』
『畏れながら、陛下……。先日無事留学を終え、帰還したなどと申すのは偽りで。今現在我が国にいる「垂氷殿下」が影武者である事実はもちろん、本物の殿下の行方に関しましても、〈端倪〉王は誰よりもよく把握しているのでは……?』
本物の垂氷は身の程知らずにも〈端倪〉王に危害を加えようとし、まんまと返り討ちに遭った結果、将軍の一人に下げ渡されたと言う。それ以降の消息は完全に途絶えてしまっており、実の叔父たる〈磨崖〉すら詳しくは聞かされていないようだが……。
『何? お前ひょっとして、あいつのこと心配してやってんの? 相変わらずお人好しだなあ。庶民出の傭兵上がりだからって、公衆の面前でさんざっぱらコキ下ろされてたじゃん。顔が傷だらけで見苦しいから傍に寄るなー、とか。自分のアニマならお前なんか瞬殺だぞー、とか』
玉座の肘掛けに頬杖を突き、こちらを[[rb:揶揄 > からか]]うような視線で見下ろしてくる〈磨崖〉。間の抜けた表情を浮かべているが、氷のように青く冷たいその瞳だけは、自分以外の何もかもを見下していた垂氷のそれと瓜二つだと白峰は考える。
『にしても我が甥っ子ながら、あの助平ジジイに正面切って歯向かうほど馬鹿だとは――もとい、勇気があるとは思ってなかったなあ。「貢ぎ物」を捧げて機嫌を取るつもりが、却って不興を買っちまうとは。おかげでお前の重騎兵隊が「心臓」との国境くんだりまで援軍に向かわされる破目になったわけだし、てっきり、あいつの印象なんて最悪かと』
『……いいえ。儂は敵を殺す以外の、何の役にも立たない男ゆえ……』
相手が露骨に話題を逸らそうとしているのを感じ取ると、白峰はそう答えて再びこうべを垂れた。己の本性と言うものを、垂氷はある意味に於いて正しく見抜いていたのかも知れないと考えていた時、
『ならば今回も、黙って王命に従えばよいでしょう。それなのになぜ、疑義を差し挟むような真似をなさったのですか』
それまで黙りこくっていた黒く艶やかな毛並みの、耳長山羊の少年が口を開いた。小姓の飛車丸である。〈磨崖〉に影のように付き従い、玉座から一歩も動こうとしない主君の世話を甲斐甲斐しく焼いてはいるものの、白峰に限らず〈磨崖〉以外の男とは口を利こうともしない。そんな相手がいきなり刺々しい声を上げたことに白峰はもちろん〈磨崖〉も驚いた様子だったが、飛車丸は長方形の瞳孔を見開きつつ、
『先の援軍の件で、「左目」との貸し借りは無し。陛下が垂氷を名代として派遣するであろうこと、それが影武者であることなど百も承知で、〈端倪〉は我が国に招待状を送ってまいったのです。あなたはそのくらいの政治的駆け引きや、外交儀礼も理解できないのですか? ――それともよもや、あの「左目」の王子にすっかり骨抜きにされて……。陛下に対して、[[rb:二心 > ・・]]を抱きはじめているのではないでしょうね?』
『なっ……!?』
白峰が陸と深い仲になっている事実を飛車丸が把握していること自体は、何も不思議ではない。元々〈磨崖〉王からの命令で、白峰は先方の「お目付け役」を仰せ付かったのだから。しかしまさかそれを理由に、そんな疑いをかけられるとは思ってもみなかった。――確かに長年同盟関係に在るとは言え、陸は所詮他国の王族。もしもこの先、両国が対立するような事態に進展して。陸から「共に来てほしい」と懇願されれば、自分、は……。
『こらこら飛車丸、口が過ぎるぞ』
そんな白峰の内心の葛藤を知ってか知らずか、玉座から片手を伸ばし、小姓の頭をぽんぽんと叩いてなだめる〈磨崖〉。飛車丸が素直に口を閉じ、長い睫毛を伏せたのを確かめると白峰に微笑みかけ、
『自分のアニマは護衛向きじゃないし、だいいち各国の要人が雁首揃えてる場で使いなんかしたら正真正銘の大惨事。だからもっと他に適任者がいるんじゃないか……ってお前は言いたいんだろ? 要するに。――だから「同行」するだけでいいの、行き帰りに。お前だって、公開処刑を見物するような趣味ないだろ? その間、陸殿下のために故郷の土産物でも選んどいてやればいいじゃん』
冗談なのか本気なのか分からないおなじみの口調で、気安く言ってのける〈磨崖〉。まるで崖に彫られた像のように居城から一歩も動かない……と言うその二つ名は当初、この《楽土》最年少の王を揶揄する目的で付けられたものだった。地の利や『左目』との同盟関係を盾に取り、山頂に引きこもっているしか能がない若造だと。――しかしそれは程なくして、[[rb:畏怖 > ・・]]の念を表すものへと変わっていったのだ。遥か高みから盤面を見下ろし、己が意のままに操るその手腕を目の当たりにして……。
『……いいえ。飛車丸の申した通り、差し出がましい真似を致しました。平にご寛恕の程を』
巨体を丸め、いっそう深くこうべを垂れる白峰。自分は所詮、その盤面に置かれた駒の一つ。「指し手」に対して物申す立場になどないと再認識したのだ。
『――あ、でも白峰。お前一つだけ、誤解してるぜ』
玉座の間から辞去しようとした彼の背中に、〈磨崖〉はそう言って、とぼけたような声をかけた。
『「敵を殺す以外の、何の役にも立たない」なんてとんでもない。お前のアニマの本当の値打ちは、ンなトコにあるんじゃないんだ』
そして今。「生ける屍」の残骸が無数に折り重なり、酸鼻を極めている『左目』首都の中央広場で……白峰は、〈磨崖〉の言葉の意味をようやく理解した。大気中に充満しているREDが己の毛皮や粘膜や鎧に触れるが早いか、その細胞壁や細胞膜にひとりでに微細な〝穴〟が開き――次から次へと破裂して、[[rb:死滅 > ・・]]していっていることを。
当然ながらそのたびごとに至近距離で破片が飛び散っているわけだが、元の細菌が小さいためかすり傷にも入らない。それでも、本来はそうして破片が触れた箇所にも再び〝穴〟が開くと言う連鎖反応が、彼の射程内に在る限り起こり続ける筈だったが……陸と言う、「護るべき者」を得たからだろうか。当該連鎖に関してはいつの間にか、己の意志で入/切をコントロールできるようになっている。
(〈磨崖〉王陛下はこれを見越して、儂に陸殿下のお目付け役を――否。儂の如き狂った獣を、将軍の位に……?)
言うまでもなく、白峰はブチが公開処刑を担当することもその恐るべき作戦も、『左目』がREDを保管している事実も事前に聞かされてなどいなかった。屍たちが暴れ出した時も、この中央広場から離れた場所で、〈磨崖〉に勧められた通り陸への土産物を呑気に選んでいたくらいだ。
逃げ惑う群衆を掻き分け、生者と見れば手当たり次第に襲いかかってくる屍を爆破処理しながら何とかここに辿り着いた時には既に、ブチは事切れていた。自分のことを「立派な将軍サマ」と呼んでくれた時の、相手の人懐っこい表情を思い出しながら――白峰はその骸を、即席の爆弾へと変えたのだ。
(そして、あちらが〈赤子〉……。人間の子供、か)
その爆弾を碧の方へと押しやった上で、赫を一瞥する白峰。ゆったりしたローブから覗くその手も顔も、なるほど、毛を剃られた猿のように赤裸だ。噂の「伝説上の化け物」は陸より更に幼く、彼のアニマを用いるまでもなく触れただけで弾け飛んでしまいそうに脆い風に、白峰の目には映った。
一瞬憐れみを催し、また生け捕りにすべきかどうかも迷ったが、
「――おぞましい化け物め。我ら獣人の、父祖からの恨みを思い知れ……!」
白峰がそう吐き捨ててそちらに向かってゆこうとした次の瞬間、[[rb:地中 > ・・]]から手が伸びてきた。白峰の攻撃から碧の身代わりになり、上半身を木っ端みじんにされた潮だったが、その寸前に己自身を〝液状化〟していたのだ。白峰の足首を掴み、ドロドロに融かしてやろうとしたものの――
「くっ!? ぐっ、わああぁあああ……!?」
それより早くその指先に〝穴〟が開き、たちまち手首から上が弾け飛ぶ。そう、白峰は潮がまだ生存し、どこからか奇襲の機会を窺っていることなど承知の上で、敢えて赫を狙う振りをして相手を引きずり出したのだ。
「〝液状化〟中は切り刻まれても、そうして木っ端みじんにされても死なず、術を解けば元に戻る……。だが、[[rb:痛み > ・・]]までは消せぬようだな?」
しかし潮も、白峰の無力化に成功するか否かはさて措き、最終的に己の手首が破裂させられること自体は最初から計算に入れていたようだった。そうして飛び散った潮の指が碧の足元に「触れ」、石畳を液状化させる。ブチの骸が破裂した時には既に、碧は地中に潜っていて無事だった。武骨な顔を激痛にしかめつつも、もう片腕で赫を抱き寄せようとする潮。
「――来るな、潮!」
思いも寄らぬ赫からの拒絶に戸惑った顔をしたのも束の間、潮の肉体に再び〝穴〟が開き、風船のように膨れ上がる。REDから己の身を護る場合は連鎖を「切」、敵を攻撃する場合は「入」と、白峰は既に使い分けを会得していたのだ。歴戦の猛将は伊達ではない。
「こなっ、くそおぉおおお……!!!」
このままでは〝穴〟が自動的に空気を吸い込む勢いで赫を引き寄せた挙句、爆発に巻き込んでしまう。そう判断した潮は石畳に転がっていた銛の穂先を――ついさっき號鐘をブチと二人同時に始末しようとして吐き出されてしまった物を拾うと、迷わず己の土手っ腹に突き刺した。生きながら己の腹を掻っ捌く苦痛、そして號鐘のアニマによる『くしゃみや咳やしゃっくり』を雄たけびで打ち消しつつギリギリと穂先を横に動かすと、体内に溜まっていた空気がその傷口から、白峰めがけて勢いよく噴き出した。
(〝液状化〟中とは申せ、そんな荒業で儂のアニマを攻略しようとした者は初めてだ。そこまでして〈赤子〉を護りたいのか、この鯱は。――だが)
己の左の籠手を脱いで〝穴〟を開けると、細かなしぶきとなって飛び散ってきた、液状化した潮の肉体を代わりにそちらに吸い込ませる白峰。ブチの時と同様に、それを空気もろとも吸入させて臓器を内部から破壊しようとしたのだろうが……と、潮を見つめる。しかも我と我が身を抉って相当量を排出させたとは言え、潮の身体に開けられた〝穴〟は今も自動的に空気を吸い込み続けているのだ。
「――伏せろ!!!」
夥しい血や臓物の鼻も曲がりそうな臭気の中に不意に[[rb:油のにおい > ・・・・・]]を嗅ぎ取った號鐘が、普段のボソボソした口調からは想像もできない大声で叫ぶ。それと相前後して、うずくまっていた赫が身体の陰で火打ち金をこすり合わせた。それは潮が碧を庇って上半身を破裂させられた拍子に、体内から転がり出て来た品の一つ。
赫の手元から散った火花が、潮の肉体と共に飛び散っていた油のしぶきにポッ、ポッと燃え移ってゆき――今や破裂寸前に膨れ上がった白峰の籠手内の空気に引火し、爆発を起こした。同じ手が二度と通用しないことなど、赫は百も承知。白峰が〝穴〟の性質を利用して潮からの攻撃を防御するのを見越した上で、ずっと機会を窺っていたのだ。潮にあらかじめ、カンテラの油を飲み干させておいて。
「……」
しかし白峰は至って冷静に、己の足に触れている石畳に〝穴〟を開けると爆炎をそちらに吸い込ませた。直撃こそ免れたものの、折悪しく籠手を脱いでいたせいで左の前腕は大火傷。しかも爆炎が目くらましになった一瞬の隙に、潮は赫を回収して再び地面に潜ったようだ。一足先に地中に避難していた碧と合わせて二つのアニマが、一目散に港の方角へと遠ざかってゆくのが分かる。
(あの鯱め。己自身も爆発に巻き込まれ、少なからぬ火傷を負ったであろうに……。だが、真に恐るべきはあの〈赤子〉よ。本来ならば三人とも、とうに息が続かなくなっておった筈が――儂の傍ではREDがひとりでに死滅する=[[rb:安全な空気が手に入る > ・・・・・・・・・・]]と見抜いたな)
左腕の具合を確かめながら考える白峰。最悪爆破処理することも考慮に入れていたが、然るべき治療さえ受けられれば毛並み以外は回復しそうだ。
(……問題は、この有様で、早期に「然るべき治療」が受けられるか否かだが……)
具体的な死傷者数は不明だが、犬の仔一匹見当たらなくなった中央広場を見渡す白峰。続いてもう一人の男に目を向けると、彼に比べて軽装だったためにあちこち火傷を負ってはいるものの、命に別状はないようだ。
ブチと共闘していたのを見て『左目』の、それも恐らくは〈端倪〉から直々に王命を賜った者だと判断して助太刀に入ったものの。未だに相手の素性はおろか名前すら知らないことを思い出した白峰は、
「直ちに追撃に移るべきか、一旦状況を整理すべきか。貴殿は[[rb:如何 > いかが]]お考えか」
しかし当の號鐘はその質問には答えずに、
「先程、『陸殿下』がどうとか言っていたが」
「……? 如何にも」
「息災にしているのか? 俺の――[[rb:末の弟 > ・・・]]は」
(後略)
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