教壇の鴉

  一

  埋蔵文化財研究室、と記された重たいドアを開けると、古い匂いが篤の鼻腔に流れ込んだ。学校の人通りがない部屋特有のほこりの匂いの上に、部屋の多くの面積を占める、農具や生活品の纏う土や木の湿り気を帯びた匂いが流れている。

  煮炊きに使う壺、矢じり、装飾具の類。材質は多くが土と石と金属類。うわぐすりの類はなく、焼いた土のままだ。近隣で発掘された文化財の保管が主な目的の研究室だった。書き上げた民俗学のレポートを、隣接した執務室にいる教授に提出しなくてはならなかった。

  「わあ……」

  研究室というか保管庫という趣の部屋を見回して、朽縄が淡く紫を帯びた黒曜石の瞳を光らせて見回した。蜥蜴を思わせる滑らかな唇から小さく驚きの声が漏れる。爬虫類の顔立ちとはいえ、慣れれば人間の顔と同じくらいに表情が豊かだ。

  [[rb:朽縄 > くちなわ]]。

  竜神の使い魔。

  カナヘビの少年。

  藍色のジーンズに黒い半袖のシャツという出で立ちの篤に比べて、朽縄は白い狩衣を着ている。頭髪のない丸い頭には烏帽子だ。異様と言ってもいい服装だが、篤にしか見えないので構わない。

  大学に朽縄が着いてきている——文字通りに憑いてきているというのには、老竜の指示があったからだ。

  あの社の暗がりで、老竜は尾の先で篤の頬を撫でながら、

  「お前と私の間に縁ができた。しかし、それは私以外の人ならぬものとも縁が開かれることになるだろう。それは必ずしもいいことばかりではない。対策を打とう」

  「そ、それって僕を社に閉じ込めるとか……」

  「なんだ、してほしいのか? 私も人間一人飼殺すくらいの甲斐性はあるぞう」

  御機嫌という感じの調子で、老竜の尾の先が針金のように硬くなり、ぐりぐりと頬を押す。篤が抗議の声をあげようとすると、老竜は尾を離してくつくつ笑った。

  「人間は人間の暮らしをするのが一番いいに決まっている。そら、朽縄」

  「はい」

  「使い魔の仕事だ。今以上に因果を踏み外さぬように、こいつを守ってやれ」

  竜神は、朽縄の額を鋭い爪で優しく撫でた。爪は何かの文字を示していた。それは多分なにか魔的な儀式だった。指が離されると、朽縄は深く頭を下げた。

  それ以来、朽縄は篤の外出時にはどこかしら近くにいる。大学や家のような、人目があるところでは見えなくなるものの、いつも近くにいた。そして一人だけになると、朽縄はどこからともなく現れた。忍者のように陰に隠れているというよりも、幽霊のように人減の知覚から外れているのだろう。

  朽縄は体格としては篤よりも小柄で、顔立ちもどことなく幼い。好奇心をいっぱいにして、近くに展示されている煮炊きの壺に顔を寄せているところなんかは、まるで天真爛漫な弟のようだった。篤は老竜との縁もあって、爬虫類の姿かたちに親近感を覚える質だったので、篤はすぐに朽縄のことを好ましく思った。朽縄は朽縄で、脱水を起こしていたところを助けられたからか、彼もすぐに篤に懐いた。老竜が見えるようになってから、街は人ならぬものに満ちていて、カナヘビの少年は無自覚な霊媒者の篤を守っていた。

  あるとき、大学の帰りに蛇に行き会ったことがある。

  家の近くの空き地だった。その空き地で蛇がいたのは初めてだった。透き通るような翡翠色をした鱗の美しさに惹かれて近づいても逃げる様子がない。脱水か空腹かと案じたが、短く舌打ちのような音を立てて、無防備な篤の首筋に向かって蛇は飛び上がった。注意深く見れば、蛇の胴に小さな羽が生えているのが見えたはずで、蛇の形をした何かだと気付くべきだった。

  横から、朽縄の紅葉のような華奢な手が伸びて、的確に蛇の首を掴んだ。彼はなんでもなさそうに、つるりと蛇のあやかしを飲み込んでしまった。篤が止める間もなかった。味が悪かったのか顔をしかめて、篤に怪我がないか聞く。篤は礼を言って、口直しに飴玉を買ってやった。

  目を輝かせてありふれた飴玉を舌に転がす朽縄は、思わず頬がほころぶほど可愛らしかった。

  烏帽子を避けて、朽縄の額を半ば衝動的に撫でると、彼はいかにも自然に篤の手の平に滑らかな鱗の頭を押し付けた。数度撫でられると、彼は恥ずかしそうに姿を消したのだった。篤にとっても朽縄の鱗は素敵な感触をしていた。つるりとした冷えた鱗の滑らかさは、篤の手の平に強く印象付けていた。老竜のごつごつとした頑強な鱗とは違う、繊細な質感だった。

  ◇

  そっと若竹色の鱗に覆われた指先を土の壺に近づける朽縄に、

  「触っちゃだめだよ——いや、いいのか」

  と声をかけるが、触れた指先は壺の表面と溶けあうように輪郭の区別を失っていた。水面に指を入れるように抵抗なく、彼の指先は壺そのものの中に指が入り込んでいる。

  朽縄が鈴を鳴らすように言う。

  「触ろうとしないと物体そのものには僕は触れないんです。僕が触るのは、物の奥にある方ですから」

  「物の奥?」

  「物にも魂があるのです。そちらに触る分には、物自体に影響はないので」

  「付喪神だ」

  「そうなることもあります」

  「その壺は魂がまだ残っているの?」

  「眠っていました。穀物の煮炊きに使われていたようで、料理の夢を見ています」

  朽縄は唇を湿らせるように、細い舌をちろちろとやった。こころよいものを見たときのように、目が細められている。

  「荒々しく使われた道具は夢も荒々しく、和やかに使われた道具は和やかな夢になっていきます。この料理道具はとても穏やかです。きっとこれで煮た粥はおいしいでしょうね……あ、でも現代の洗練された料理とはちょっと系統の違うおいしさです。味とか歯ざわりではなくて」

  「竜神様は真心を食べるっておっしゃってたね」

  「そうです」

  朽縄は指を離す。

  「篤様も耳を澄ませてみると聞こえるかもしれません。人に使われたものは人にも良く聞こえるものでしょう」

  「そういうものかな」

  篤はちょっとだけ笑って、軽く目を伏せて耳を澄ませてみると、確かに遠い喧騒が聞こえた。それは部屋にうっすらと満ちていた。大学のざわめきではなく、焚火にかけられた水分の弾ける気配、沸いた湯の中から浮き上がる泡、密やかな会話で構成された無作為なざわめきだった。その焚火は火ではなかった。それは明りであり温もりであり、魔除けだった。それは現象から意味を読み込む人間の技法だった。

  「聞こえましたか」

  「うん」

  「よかったです。きっと篤様は霊媒の才能をお持ちです」

  朽縄はそう言って、篤から離れ、穀物の収穫に使われる千歯こきに指を向ける。細い爬虫類の指が、千歯こきの骨組みにそっと触れて、夢を見はじめた。

  ドアが開く。

  「レポートかい」

  と掠れたやや高めの男の声がした。

  振り向く。

  大柄な男だ。ベージュのスラックスに、薄い青のシャツ。白の混ざり始めて、灰に近い色合いの髪を長く伸ばして、後ろにくくっている。頭髪と同じく灰に近い長く伸ばした髭が特徴的だ。民俗学の講義を担当する[[rb:栫井 > かこい]][[rb:雅己 > まさみ]]教授である。

  「あ、はい。今渡しても大丈夫ですか」

  「ええ。もう一人は? 俺は本人からしか受け取らないよ」

  「もう一人?」

  「女の子ですかね、さっきまで声の高い方がいなかった?」

  「え……。いや、僕はずっと一人だけでしたけど」

  篤は自然に嘘をつく。

  ほとんど無意識といっていい。本人に嘘をついている自覚があるかどうかも実際は分かったものではなかった。

  何しろ彼は竜神と育ったせいで、物心ついたときから嘘と共に育ってきたのだ。瞳は一つも揺れず、舌はもつれることなく、きわめて滑らかに嘘をついた。首をあげた篤と、見下ろすような栫井とで目を見合わせた。すぐに栫井がにやっと髭の下で笑った。

  「はは、よくあるんだよ、こういうの。信仰だとか民話ばかり相手にしているからかねえ」

  「よくあるんですか……」

  「うん。ほら、こういうもののほかに俺は地方信仰のものも集めているんだけど、まあいろいろあるよ。夏も近いしねえ。声くらいで済んだのはラッキーかもな。……じゃ、レポート出してくれるかな」

  栫井の出した分厚い手の平に、篤は鞄からレポートを取り出して渡す。黒目の小さい栫井の眼が、ざっと目を走らせるのが分かる。

  「ふうん、よく書けている」

  「恐縮です」

  「詳しくはまた読むけど、いい成績になるよ。ちなみにレスポンスはどうする?」

  「レスポンス?」

  「欲しい方には引用や注、論の進め方や参考文献を案内してるんだ」

  「へえ……手厚いんですね」

  民俗学の講義はかなりの人数がいたはずである。しかも問題集ではなくレポートなのだ。読んで採点するだけでも多くの手間が発生する。希望者のみとはいえレスポンスをするのは重労働なはずだ。

  「研究者とはいえ教育職だからね。書いたものの結果くらいは見てもらうべきだろ」

  栫井はファイルに篤のレポートをしまい込む。

  「ま、レポートは出したら終わりということで、欲しがるはあまりいないから、手間ではないけど。木田さんはどうする?」

  「えっと、……じゃあ、お願いします」

  「分かった。レポートに書き込んどくよ。では」

  と、彼は鷹揚に手を振って、研究室に戻る。

  再び、朽縄の気配。

  すぐ後ろに、カナヘビの少年がいた。

  「篤様」

  少し不安げな響きだ。言いにくそうに、

  「あの方は何かされてるのでしょうか。陰陽師とか祓い屋とか?」

  と聞く。

  「いや……そんなことはないと思うよ。確かに鋭い人みたいだったけど」

  「んむ、や、そこではなくて……。ちょっと、嫌な感じが」

  「嫌な感じ?」

  「人じゃなくて、……ううん、人でもあるんですけど、扱ってるものが少し……強い」

  「この部屋にあるものよりも?」

  ことんと頷く。

  「地方信仰もやってるっていうから、そっちかなあ」

  「そういう感じじゃないです……」

  目を閉じて、朽縄は、くん、と残り香を嗅ぐように鼻孔を膨らませた。

  警戒するように、小さく朽縄は、

  「死臭がするのです」

  と言った。[newpage]

  二

  研究室を辞して、帰路についていた。

  朽縄は言いにくそうに俯いて、ぽつぽつと言う。

  「あの部屋全体から死臭がします。死の夢の気配がします。強すぎて、まずいものを取り扱っているのか、あの人自身が死んでいるのか区別がつかないくらい。あの方って今生きていらっしゃいますよね?」

  「うん。生きてるよ」

  大学前に停まっていたキッチンカーで買ったジェラートをぱくつきながら、平然と篤は答える。橙色の氷菓をスプーンですくって、朽縄に差し出すと彼は照れたような苦笑をして、恥じるようにそっぽを向いた。

  「溶けちゃうよ」

  「あの……確かに見てましたけど、別に食べたいってわけでなくて」

  「でも気にしてたみたいだし、気分転換に……いらない?」

  「私は食べなくても平気なんですよ、神饌だけあればそれで」

  「平気ってだけで、食べられないってわけじゃないんだよね? せっかくだしさ」

  「お、押しが強いですねえ……!」

  拒みながら、ちらちらと瞳がジェラートに向かっている。手作り無添加が売りのジェラートからは、新鮮な果汁の香りが漂ってくる。プラスチックのスプーンの先でとろけてこぼれそうになったそれを、篤は慌てて自分の口に運ぶ。オレンジの果汁がしゃりしゃりとした涼やかな食感が、舌の上でとろりと溶けた。飲み込み、上下する喉仏を朽縄はじっと見ている。

  「あの先生は朽縄から見てどうかな」

  「んん……あまり悪い方じゃないとは思うんですが……」

  「僕もそう思う。いい先生だよ。それじゃだめかなあ」

  篤はのんきに首をかしげて紙製のカップに盛られたジェラートを再度すくい、朽縄に向ける。朽縄はそれで毒気を抜かれてしまった。この男は教師の纏う死臭など気にしていないのだ。したたかさ、神経の太さ、現実への頓着のなさ。こういう人間だから朽縄はため息を吐く。

  「はいあーん」

  「あのですねえ、もしかしたら篤様は私を弟か何かだと思ってらっしゃるかもしれませんが、主様と恋仲でいらっしゃること忘れないでくださいよ」

  「……これって竜神様的にまずいかな?」

  「私に聞かないでくださいよ……!」

  真っ赤な顔をしているような調子で、朽縄はジェラートを舐めとり、一瞬だけ目を輝かせて、気配を消した。

  これって浮気になるのか?

  篤はジェラートを大きくすくい、すぐに食べきると、近くのごみ箱に捨てる。暑い中で食べる冷菓は、思わず頬がほころぶほどだった。

  やがて、竜神の社に着く。篤の家の隣の神社だ。彼は古びた鳥居の前で周囲を見回し、人がいないことを確認すると、深く頭を下げる。足を踏み出して鳥居をくぐった瞬間に風が吹いた。

  目を開けると、そこは神域だった。

  辺りはやんわりと薄暗く、気温は暑くも涼しくもなくなり、お香の控えめな匂いが流れ、遠くでかすかな祭囃子のような打楽器の律動が聞こえた。

  人魂の流れはない。篤は緊張しながら神社の本殿に足を踏み入れる。

  社の中とは思えないほど巨大な空間に、老竜がとぐろを巻いていた。苔色の鱗、岩色のたてがみ。気圧されるような瞳。

  「来たな、浮気者」

  「こ、こんにちは、え、いや、いま浮気者って」

  「ふうむ」

  老竜は無視。何かを考えるように息を細く吐きながら、とぐろを解いて、篤を囲むように数周ほど滑空する。彼の瞳は絶えず篤を映している。そして彼を中心にして円状にわだかまる。老竜と篤は正面に相対する。

  「ずいぶん私の使い魔と仲良くやってるようじゃないか」

  呆れたように、からかうように、しかししみじみと、老竜が言った。

  どっちだ?

  感情が読めない。

  「……『はいあーん』はだめでしたかね」

  「いや、私はむしろ朽縄とうまくやれないことを危惧していた。仲良くやってくれれば、朽縄もやりやすいだろう。そうだな?」

  むしろ上機嫌にさえ聞こえる調子で老竜が問う。

  囲われている篤の隣に、ふわりと朽縄が現れた。

  「あれ? 私に向くんですか」

  「篤に食わせてもらった菓子はうまかったかね?」

  「あの、僕が食わせたので……もご」

  「今は、朽縄と話している。篤は黙っとりなさい」

  黙っとりなさい、と言いながら、尾に近い細い蛇体が篤の口をさるぐつわの要領で塞がれてしまう。たてがみはふわふわとして柔らかく、雨の匂いがした。痛くないように力加減が調整されている。

  「菓子はうまかったか?」

  「……あ、いや、その……」

  「うまかったか?」

  「は、はじめて食べる味でした」

  「うまかったか? 『はい』か『いいえ』だ」

  にっこり。

  柔和さが増してくる。

  傍から聞いていても怖すぎる。

  うらめしそうに朽縄が篤をじろりと睨んだ。

  口を塞がれているので篤からはに何も言えない。

  「はい……美味しかったです」

  「そうか」

  篤のさるぐつわが解かれる。たてがみに着いた唾液を払うようにぴっと振って、ふさふさとした尾の先端で朽縄の頭を撫でた。小さい身体が彼を見上げる。

  「あ、主様……?」

  「人の世は楽しいかね、朽縄」

  「……はい」

  「そうか。うむ、それでよいのだ」

  老竜がうなずく。

  「朽縄は奥に下がっていなさい。外に出ても構わない。よくしてくれるとはいっても、ずっと気を張っていると疲れるだろう」

  「ありがとうございます」

  一礼して、存在感を失ように朽縄が消える。

  これで二人きりである。

  残された篤は、老竜の顔を覗き込んだ。

  「お、怒ってないんですか」

  老竜はまばたきを数度する。

  「『はいあーん』くらいすればよいだろう。あの子には何でも初めてなことなのだ。邪険にせずに可愛がってくれて礼を言いたいくらいだ。……本当だぞう?」

  老竜が篤を呼ぶとき、そこには柔らかくて甘い響きがある。そして、あの子、と老竜が言うとき、そこには篤に対してのものとは異なった優しい響きがのぞいた。

  脚からせりあがるように、竜の身体が篤に巻きつき始める。ぐにぐにと痛みなく、それでいて強固に、篤は老竜にとらわれていく。それは甘美な戒めだった。

  「あの子はまだ若いから感性が人に近い。人並に疲れもするし遠慮もするし、嫉妬もするだろうし、私に遠慮もする。だから篤がよく可愛がってくれて、私も嬉しいのだよ」

  「竜神様は?」

  「む?」

  「竜神様は嫉妬……しないんですか。僕は朽縄とも仲良くしたいんですけど、でもやっぱり変に思わせたくないといいますか」

  絡みつかれながら聞く。竜体はすでに胴まで登っている。老竜の頑強な拘束と、少しだけひんやりとした体温が心地良い。老竜はにやりと笑った。白い牙が薄明りを受けてきらりとした。それは刃を思わせるほどに冴えていた。

  「なんだ、あれだけ仲良くしておいて、私には嫉妬されたくないのか? ああ、男はいつの世も勝手で、誰にでもいい顔をするもんだ。泣き虫小僧もやはり男なのだなあ」

  「…………」

  「ふふん、朽縄とよろしくやったところで私は悋気などせんよ。あの子がお前に好かれるのは良いことだ。ただし、私も許せぬことはある」

  にゅるにゅると蛇体が這い上がり、篤の首元にたどり着く。冷たい鱗が敵意を帯びて逆立ち、ちりちりとした先端が篤の柔らかな首の皮膚を、愛しげに刺す。破るほどではない。戯れのような、痛みに変わる前の刺突だ。しかし老竜があとわずかでも力を込めれば、鱗たちは鋭い刃物となって篤の首に食い込むだろう。

  「あ……っ」

  その下には気道と動脈と、神経の束がある。老竜が気まぐれを起こせば、自身の首など容易く締め折るだろう。警戒と興奮。篤の口元から小さな喘ぎが漏れた。

  「朽縄を好くのもいい。他の竜と懇ろになるのもまあいい。人の因果に戻りたいと思うのも許そう。だが、竜以外に身体を開くなよ。可愛い私の篤、お前には一つ一つ教えてやらねばなるまいが、人の価値観で私の悋気を定めてはいけない。お前は恋を捧げて、私は受け取ったのだ。お前の恋は私のものなのだから」

  老竜の長い舌がちろちろと頬を舐める。それは雨水のように冷たい。甘やかで危険な快感がさざ波を起こす。篤は小刻みに首を上下させる。

  肯定。

  満足げに老竜がうなずくと、鱗の敵意が収まる。滑らかな鱗たちが整列し、蛇体は和やかにつるりとして、篤の首元に巻きつく。老竜が舌先を篤の唇に触れさせる。

  「ほれ、口を開けろ」

  「ん……」

  言うが早いか、唇を割り開いて老竜の舌が口内に流れ込む。古木と雨の匂いが体内を犯す。篤の身体が一度だけ大きく跳ねた。蛇体がぎゅっと彼の身体を抱きすくめる。

  柔らかくて冷たい肉が壊れ物を扱うように優しく、しかし有無を言わせぬ強硬さで、歯列をなぞり、歯肉を愛撫する。前歯のわずかな隙間をからかうように触れて、臼歯の山並みを撫でる。歯髄が快感を拾って痺れていく。口蓋の波紋をつつき、不思議な模様を描くようにくすぐる。

  「ふ……うぅっ」

  舌先が、篤の舌と絡み合う。老竜の力に満ちた清水のような唾液が、舌肉を伝ってくる。味は甘露、匂いは馥郁。篤は蛇体にしがみつきたい気持ちになるが、胴と一緒に巻きつかれているので、何もできない。老竜のなすがままだ。

  腰が熱を帯びる。唾液で溺れそうになって、篤は唾液を飲み干す。篤の口から舌を引き抜き、彼の目尻から生理的な涙をすくいとって、老竜が笑う。

  「お前の涙は誰のものよりうまい」

  涙の滴を、慈しむように老竜は飲み込む。こくり、と喉が低く嚥下する。人と竜の体液の交換。交わっていく因果。

  古い色をした口吻の先が、優しく篤の瞼に当たる。それは竜神の口づけだった。

  篤の腰の炎は燃え盛っている。老竜の唾液は上質な果汁のように一切の抵抗なく食道を滑り落ち、強烈な酒のように胃を火照らせる。腹で暖められた血流は踊りながら全身に巡り、海綿体を硬くみなぎらせる。肉棒は老竜に応えたいと思っている。老竜は篤の耳にそっと囁く。

  「どれ、こっちも可愛がってやろうかね」

  しわがれた声に潜む劣情が、篤には手に取るように分かった。彼の中心が歓喜に打ち震えた。

  老竜は蛇体をくねらせて、篤のズボンと下着を下ろす。露出された陰茎が切なげに外気にさらされてひくつく。灯火の緩やかな光を受けて、張り詰めた亀頭がてらてらとした。海綿体は期待に硬くなり、睾丸は喜びで引きしまっていた。

  「ふふ、こっちも楽しそうにしとるわ」

  筆を思わせる尾の先が篤の亀頭を飲み込む。先ほどとは違って[[rb:和毛 > にこげ]]のように柔らかな無数の毛束が、敏感な尿道口を撫でて、亀頭の上側の広い面をくすぐり、裏筋をさわさわと通り過ぎていく。背筋がざわめく。

  「んああっ……」

  「雄の感じるところは私もしっかり分かっているぞ?」

  「あっあっ、そこ、気持ちいい……」

  「うむうむ、尻尾で擦られて気持ちよかろうな」

  絶頂には至れない微細な刺激だが、感じるには十分だった。尾がゆっくりと往復し、甘やかすような優しい体毛が、絶え間なく肉棒を撫でまわす。

  「んん……ふうう……」

  「こら、下ばかりに集中してないで、こっちもたんとお飲み」

  「はい……んく、んんっ……」

  勃起の先端を撫でられる甘やかな快感にとろかされながら、老竜の舌が篤の唇をつついてせかす。口を開くと、魔的な唾液を纏った老竜の舌がまた無遠慮に侵入する。赤子が乳を吸うように、篤は夢心地で竜の体液を啜る。

  胃も口内も老竜で満たされて、官能のきざはしを登りつめる。篤に巻きつく蛇体は熱を帯びて、尾の先の和毛は勃起から漏れた先走りが蜘蛛の巣のように絡まっている。

  「あ、……もう……」

  篤が呟く。甘くとろけた響きだった。射精に至る強さの刺激ではないにも関わらず、唾液を燃料として燃え盛る興奮だけで、終着が迫っていた。

  「む……そろそろか」

  じゅるり、と水音を立てて老竜は篤から舌を引き抜く。銀色の橋が二人の唇にかけられ、中心にとどまる滴の重みで瞬間に崩落する。そしてその人と竜のあいだにかけられた線は、床に落ちて見えなくなった。

  でもそんなことは二人の気にも留まらない。老竜の細長く荒々しい口吻が、青年の雄をゆっくりと焦らすように咥えた。

  「ああ……っ!」

  粘質な唾液をまぶした舌が、にゅるにゅると篤の肉棒に絡む。先ほどまでの甘やかすような刺激ではなく、射精に向かわせる強い刺激だ。舌先は螺旋を描くように尿道口をなぞり、亀頭、裏筋を巻き込んで絡みつき、ぐちゅぐちゅと湿った音を立ててカリ首を締め上げながら全体を扱く。老竜の瞳は悪戯な光があった。

  「んん……っ」

  快感から逃れて射精を引き延ばそうと、反射的に腰を引こうとするが、堅牢な拘束には意味をなさない。うまく吸収されてしまう。逃げられない。そしてそのことが最後の箍を破った。神経が焼き付く。唾液が熱い。陰茎にいやらしくまとわりつく舌肉の快感。老竜への敬愛。巻きつかれて抱き締められて動けなくて、快楽が稲妻のように篤の背筋を貫く。内腿が痺れる。

  「っごめ、ごめんなさい、僕、僕……」

  「ん、いいぞ」

  「あああ……っ!」

  老竜の柔らかな舌に包まれて、篤の雄が何度も脈動する。筋肉が収縮するたびに跳ね上がり、精液が吐き出される。人の気が満ちた篤の恋がぶちまけられ、老竜は絡めとるように舌で受け止める。口内の容積が人とは違うのだ、篤の恋は一滴も取りこぼされることはない。浸るように淡く目を閉じて、くいくいと搾り取るように、射精する陰茎を扱き上げる。

  「やっ、やだ、イってるのに……っ!」

  了承が含まれた甘えた音色だった。老竜は愛撫を続け、尿道に残った残滓まで搾り取り、ちゅぽん、と駄目押しに中身を吸い取って口吻を離した。

  「篤、よく見てごらん」

  「え……」

  老竜は巨大な口を開く。並んだ牙と、赤くぬらめく舌。人ならぬ竜神の口内には、白い精液が絡みつき、唾液と精液が淫猥に混ざり合っていた。篤の瞳は背徳と興奮で釘付けになる。

  「わ、……」

  やがて舌が蠢いて、精液をかき集め始める。そして口が閉じられ、ごくん、と低い嚥下の音が響いた。

  「ふふ、いっぱい出したな」

  蛇体を持ち上げて、老竜は篤の頬に口吻の先を置いた。[newpage]

  三

  老竜の背に乗せられて、神域を回遊する。まだ熱の冷めない篤の身体を、風が撫でていく。体液の交換は、篤の因果を竜に引き付けるためのもので、ほとんど情事とはいっても本質は交霊の儀式だ。

  肌は触れざるものに触れるためにより鋭敏になり、瞳は見えざるものを見るためにより繊細になる。神域の落ち着いた風と流れる人魂たちの光は、老竜に触れるために敏感になりすぎた感覚をなだめてくれる。

  「今のお前は霊的に不安定なのだ。馴染むまでは神域から出ない方がいいだろう。よくないものに魅入られるかもしれん」

  と老竜は説明していた。

  火照った身体を、神通力が柔らかく蛇体に縫い留めている。たてがみに顔を埋めると、森に降る雨の落ち着いた匂いがした。篤は頬をほころばせる。その匂いが好きだった。

  硬質な月は薄緑を帯びて淡くあたりを濡らしている。わずかに欠けている、小望月だ。天体は沈黙して、穏やかに空に留まっている。視線を落とすと、山脈と海が見える。大まかな輪郭は篤の知っている地形と変わらないが、現代の建物は見えず、人里らしき灯火の集まりがぽつぽつとある。文明が生まれる前、神代のもののように思われた。

  低く、豊かな響きの音律が聴こえた。それは老竜の喉から奏でられていた。篤の慣れ親しんだ音程やリズムではない。のったりと重々しい律動と旋律。おそらくは神楽や雅楽の系譜だ。そっと蛇体に耳を押し当ててみると、彼の体内で渦巻く空気の流れや振動が直に感じられた。

  そのまま二人は黙ったまま神域をゆっくり巡った。雲はなく、月は夜空に君臨し、人魂は滞りなく流れていた。耳を押し付けたまま、篤は目を閉じて、大きく息を吸う。その不思議な旋律や、たてがみの纏う森と雨の匂い、蛇体の親密な温かさが、ゆっくりと篤の熱を落ち着かせていく。

  溶けてしまいたい、と篤は思った。

  ここで、老竜のたてがみにまぎれて、鱗の一片になれたならどれだけ幸せだろう。

  以前までは稲妻を通して幻視するしかなかった竜の神に、今は触れることができる。蛇体にしがみつく手に少しだけ力を込めると、指は硬い鱗をしっかりと噛みあった。姿勢を変えたのが伝わったのか、老竜が声をかけてくる。

  「まだ身体が辛いかね」

  「いえ……、あなたに触れるのが何だか不思議で」

  「お前が恋を捧げたからさ」

  老竜は静かに言う。

  「ほとんどの子らは私が見えなくなったら、一緒に忘れてしまう。幼少の頃の夢として落ち着くことになる。でもお前はそうではなかった。お前は……そうだな、強欲なんだろう」

  「強欲って」

  「人の核だ。農耕を始め、家を作り、狩りをして、鉄が作られた。工業と機械が神代を終わらせたが、事実上は欲だろう。あれが欲しい、あれがしたい、あれを助けたい。そうやって人の世は発達してきた。お前はその中でもとびきり欲深者で、誰もが最初に捨てる恋を手放さなかったんだろう」

  「誰もがって、他にも竜神様のことを好きになった人がいるんですか?」

  「おい、そっちに話を流すな……」

  「だ、だって前に精水を贈ったのは僕だけって」

  「子供の話だぞ馬鹿者。大人になる頃にはとうに忘れとる」

  「ですか……」

  「覚えているのはお前だけだった。ふふん、欲深坊主め」

  からかうように老竜が口の端で笑う。長い髭が風と遊んでいる。

  そして何かを言おうと老竜は口を開きかけて、ある地点で止まる。とぐろを巻くようにして宙に留まる。

  「あれは……」

  「竜神様?」

  「下を見てごらん。大丈夫、落ちないようにしてあるから」

  篤は、はい、と返して、そっと下に視線を向ける。

  そこには光が渦巻いていた。灯火の集まりだが、何かが異質だった。他の灯火と比べて、その流れだけが、妙に嫌な感じがする。部屋の隅にわだかまる濃い影だとか、なぜか誰も通らない道とか、そういった不吉な気配がある。

  「恨みと祈りの流れが滞っているな」

  「自然に治るんですか?」

  「大抵はな。よほどひどいときには介入することもあるが。……これはその必要はなさそうだ」

  「と、言いますと……」

  風が吹いた。

  それは嫌な風だった。ぞわりとするような冷たい風だった。

  ほう、と老竜が吐息を漏らした。

  灯火のわだかまりの中心から、黒いものが弾けた。

  があ——、と濁った動物の鳴き声が聞こえる。

  黒い影は小さいがいくつもある。それら一つ一つが鳴いている。

  鳴き声が重なる。

  があ。

  があがあ。

  があがあがあ。

  影が飛ぶ。

  鳥の形の群れだ。

  「これ、……鴉……!」

  狂おしくけたたましく、月に羽を濡らし、鴉の奔流が飛び立つ。鴉たちの群れは、篤たちに向かってくる。激しい鳴き声は、明らかに二人へ敵意を向けていた。

  「いかん」

  と老竜が飛び退くように滞留していた蛇体を走らせる。

  「竜神様」

  「喋るな。舌を噛むぞう!」

  ぐるり、と曲線を描き、加速する。

  「……っ!」

  これまでにないほどの速度。

  くん、と蛇体にしがみついている篤にも圧力がかかる。

  慣性もあるだろうが、神通力の守りが強くなったのだ。

  篤を蛇体に支える柔らかな手の平の圧力が増す。

  鴉たちの群れは、まっすぐに追ってくる。

  速い。引き離せない。

  まるで鴉で作られた竜のように見える。

  老竜が優しい調子を崩さずに言う。

  「篤、落としたりはしないが、怖かったら、たてがみにしがみついてもいいからな」

  「で、でも……痛くないですか」

  「はは、この状況でそんなことを気にするかね」

  「りゅ、竜神様でも痛いのは嫌でしょう」

  「余裕があるな、大物じゃないか」

  「それに……竜神様がいるから怖くありません」

  「ほう」

  老竜は、首をめぐらせて、ぎらりとした瞳で篤を見た。

  「狙いはお前のようだ。どれ、鴉どもに身の程を教えてやらねばな」

  愉快そうに、荒々しく。

  老竜の飛行速度が落ちる。

  鴉竜の嘴が、竜神の尾に食らいつく。

  ぐるり、と宙返りの要領で、老竜がかわす。慣性が篤を蛇体に押し付ける。

  その残心、鴉竜の頭上に、硬質化した尾が叩き込まれた。

  鴉がさんざめく。

  鴉竜の統制が乱れる。

  肉が裂けて骨が砕ける感触が、蛇体を伝って篤の身体に伝わる。

  「ひっ……!」

  それは死の感触だった。

  生々しく、群体の一つ一つを作る鴉の死。

  嘴を割った。

  頭蓋を砕いた。

  翼を脱臼させた。

  胴の肉を打った。

  一撃の暴力に含まれた混淆する振動が尻尾を伝わって、いまだ開いている感覚が丁寧に正確無比に、どのようにたてがみが刺さり、どのように砕かれ、どのように絶命したかを理解してしまう。

  篤の身体が縮こまるように、蛇体に強くしがみつく。

  「すまない、驚かせたか」

  「い、……いえ」

  老竜が柔らかく言う。

  「まだ感覚が鋭いな。私の配慮が足りなくてすまなかった。可愛い篤、お前は目をつぶっていなさい。大丈夫だから」

  言って、老竜はふうっと細く息を吹いた。

  黒い霧が唇から漏れる。

  雨の匂い。

  嵐の気配。

  「竜の宝に手を伸ばした罪、命でもって贖うがいい」

  黒い霧が雲を編む。

  雷雲だ。

  いかづち。

  厳つ霊。

  雨と雷と司る竜神の力。

  急速に膨れ上がった、電流の危うい匂いがして、篤はほとんど反射で叫んだ。

  「待って!」

  「む」

  老竜の唇からほとばしる雷雲が止まる。

  統制を取り戻した鴉の群体が再び竜を構築する。

  突進。

  回避。

  「どうしたね?」

  追いすがる鴉竜の攻勢をいなしながら、老竜は訊く。

  「こ、殺さなきゃだめですか」

  「ふむ」

  「なんで鴉は僕たちを襲うんですか? それが分かれば殺さないでやり過ごす方法とか……」

  「やり過ごす方法はないぞ。殺生を好まないのは美徳だが」

  老竜は鴉の鉤爪をかわす。

  たてがみの数本がちぎれ飛んだ。

  それも篤は振動で分かった。

  「鴉の動機はお前を殺すことだな。あれは現世の鴉ではない。鴉天狗の使い魔だ。おそらく主人が失敗したのだろう。使い魔は主がいなければ統制を失って暴力の嵐となる。霊的に不安定な篤は格好の獲物というわけだ。殺しに来たものは殺すのが一番手っ取り早い」

  「僕たちが現世に戻ったら収まりますか」

  「次は他の灯火に向く。あれは土地の巡りに関わるものだ。守らなくてはならない」

  高速で飛行しながら、老竜は篤に首を向ける。

  「殺すのが一番楽だ」

  「で、ですけど……」

  「なあ篤、可愛い篤、ついさっき教えてやっただろう。人の倫理をこちらに持ち込んではいけないよ。それは人の因果であって、私たちの因果じゃない」

  「…………」

  「不服かね」

  「それは……」

  不服、ではある。

  篤は別に殺生を好まないわけではない。肉も食うし魚も食う。朽縄があやかしを食べたとき、食べられた蛇ではなく、「そんなの食べて大丈夫?」という感想でさえあった。

  しかし、砕かれる骨と肉の感触を全身で知ってしまった。もう篤は老竜が鴉たちを殺すところを見たくなくなってしまった。殺してほしくなくなってしまった。

  被食者としては致命的だ。篤は鴉竜にほとんど共感を持ってしまっている。自分と同じ立ち位置の相手に持つような、親密なものに対する共感を。捕食者を助けたいとおこがましくも思うくらいには。

  鴉竜の嘴が、尾の先を捉える。

  振り払う。

  雷雲は散っている。

  深い溜息。

  呆れの響きがあった。

  「先にお前をこちらの因果に連れ込んだのは私だったな。分かった。思い人の我儘くらい叶えてやろう」

  老竜は、鴉を惑わすように複雑に旋回する。

  口の端からは黒い霧が漏れている。

  それは先ほどのものよりも柔らかな質感をしている。

  霧はその場に留まって、老竜の軌跡にそって複雑に編み上げられる。

  濃密な雨の匂い。

  篤の耳に、冷たい滴が落ちた。

  「殺しはしない。大人しくなってもらう」

  膨大な量の滴が、落ちてくる。

  一滴ずつ竜の体液に似た気配があった。

  老竜は螺旋状に飛び上がる。

  豪雨。

  水滴が乱舞する。

  雨に当たった鴉たちは、途端に攻撃性を失っていく。

  鴉竜が、雨に巻かれてほどけていく。頭、蛇体、脚、それぞれを編み上げていた鴉たちは散らばり、統制を失い、無害な鴉の群れになり、ゆっくりと地面に降り立つ。

  雨に降られた鴉が、灯火の列から離れて、薄明りに照らされている。けたたましい鴉の声はもう一つとしてなく、激しい雨の音が、眩暈がするほどの濃密な竜の気配を帯びて、帳のようにあたりを覆っていた。

  「これは……?」

  「神格の差で、疑似的にあれらの主人になってやった。大人しくさせるくらいはできるが、退去は無理だ。修験者、仙人、陰陽師——何でもいいが鴉天狗の系譜に通じた者を主に据えるか、鴉天狗の雑な仕事をこちらで終わらせなくてはな」

  豪雨の結界が鴉の攻撃性を簒奪し、霊的上位者として老竜は君臨している。神域の一角に雨を降らせたまま、老竜は、社に向かって飛び始める。

  「本来、こういった私の認めていないものはこの神域には来ることがない。ずいぶんこの鴉の主は雑な仕事をしたようだ。篤とも縁があるやもしれんな」

  老竜は続ける。

  「さあ強欲坊主め、次はお前の出番だぞう?」

  「はい……?」

  「私は時間を作った。鴉どもを助けるのはお前だ。欲の深さに見合った働きくらいしてみせろ」[newpage]

  四

  ことの顛末を聞いた朽縄は、仕方なさそうに微笑した。

  「主様も無理を仰いますね」

  「朽縄は鴉の主になれるかな?」

  篤の自室である。今は暑気が入らないように閉じている窓からは老竜の住む社が見える。社で合流した二人はそのまま帰宅して、夕食を済ませて自室に引きこもった。老竜の設定した時間制限以内に、篤は鴉天狗の術を扱える者を探さなくてはならない。その作戦会議が必要だったのだ。

  篤はベッドに腰かけ、朽縄は勉強机の椅子に座っている。訊ねられた朽縄は、ことりと首を傾げた。

  「私は主様の使い魔ですので、鴉の主にはなれないと思います。蛇か蜥蜴の類でしたら、私も協力できたのですが……」

  「そうだよなあ……。それだと、僕も無理だよね?」

  「適性としては、無理ではないかもしれません。ただ、篤様に教導する鴉天狗がそもそもいませんから……。時間もないですし。どうされますか。鴉天狗の系譜の方がいらっしゃらないか、街の鴉に聞いてみましょうか」

  「そんなことできるの?」

  「ええ。私だって今はこのなりですが、もとは動物ですからね。それに鴉は事情通ですから」

  とりあえずの方針は、鴉たちを介した情報収集となった。そもそも霊能者の人脈を持たない(普通に暮らしている大学生が持つはずがない)篤では、動く道筋さえ立てられないのだ。

  欲深坊主、という老竜の言葉を反芻する。

  それはそうだ。老竜が好きなのも、老竜が殺すのを見たくないというのも、篤の欲である。鴉の砕ける感触に触れたときに、もうどうしようもなくなってしまった。

  上体を倒れ込ませるようにして、篤はぼすっと音を立ててベッドに横になる。蛍光灯の清潔な光を厭うように、篤は横を向いた。

  「……だめなことをしたかなあ」

  「篤様?」

  「朽縄があの場にいたらさ、竜神様を止めたかな」

  「わ、……私は」

  言いにくそうに彼は少しだけためらったが、

  「……止めなかったと思います。そうすべきだと思うので」

  「……そっかあ。僕はさ、怖くなっちゃったんだよね」

  「怖くなった?」

  「竜神様が鴉竜にすごく怒っていたのは分かるんだ。でも、だからって、殺しちゃうっていうのは……」

  朽縄が聞く。

  「主様をお嫌いになりますか?」

  「ううん、好きだよ」

  好きだけど、と篤は続けようと口を開くが、あとに続く言葉が出てこない。彼は横たわったまま沈黙した。

  仕方なしに口を閉じた篤の背中で、ぽすん、と軽い音がした。狩衣が乱れることも構わずに、朽縄が彼の後ろに横になったのだ。朽縄の、温かいわけでもなく、冷えているわけでもない不思議な体温が背中に触れる。

  「いつか私が蛇のあやかしを食べてしまったときは、そう仰いませんでしたね」

  「だってあれは……」

  「私のことは嫌いになりますか」

  「ならないよ。けど……、あれは僕を守るためだったじゃないか。竜神様もそうなんだけど……あのときはそれだけじゃない感じがして」

  「神域に入ったからですよ」

  と朽縄は言う。

  「神域はどのような場所か、篤様はご存知ですか?」

  「え……いや、神様の世界とかじゃなくて?」

  「あそこは、灯火もそうですし、土地の巡りとよく関連づいていますから。許可なく入るだけでも神罰ものです。主様はきっと、本当に怒ったのでしょうね」

  「だったらなおさら止めない方がよかったのかな?」

  「いえ……、そういう我儘、きっと主様は嬉しかったのではないかと思います」

  朽縄の声は探り探りだ。人ならぬとはいえ、少年の姿をした相手に気を使われている気まずさで、篤は話を畳もうとする。

  「……かなあ」

  「そうです。せっかく時間をくれたのです。頑張ってみましょう」

  篤はうなずいた。

  確かに老竜は篤の我儘を聞いてくれたのだし、それに応えるのは篤の仕事だった。

  とにかく時間まで、篤は情報を集めねばならない。できることが少ないということは、やることも少ない。明日は待ちになるだろう。篤は眠ることにして、布団に潜り込んだ。

  ◇

  畢竟、鴉への聞き込みも、待ちの時間も必要なかった。

  翌日の大学、明らかな異変があった。

  民俗学の講義に現れた栫井教授らしき男、らしき、というのは栫井教授の声で、彼の講義に教授として現れるのは彼しかいないからだ。しかし、それにも関わらず、最も重要な個人らしさが失われていたからだ。というか、人らしさが失われていた。

  髪も髭もなかった。それどころか鼻もなかった。眉も唇もなかった。

  人ではなかった。

  黒い羽毛が生えていた。黒く丸い瞳がぎょろりと篤を見た。嘴がかつかつ鳴った。

  があ。

  栫井教授の頭は鴉のものに変じていたのである。

  「せ、……先生」

  鴉は教壇から離れ、篤の席に立った。

  「具合が悪そうだ。今日の講義は出席せずとも結構。木田さんは日数も足りているし。レジュメは後で研究室に取りに来てください」

  深く低い落ち着いた声で、栫井はそう篤に告げたのだった。[newpage]

  五

  資料や標本が積み上げられ、壁いっぱいに書籍が詰まった研究室で、栫井は茶を三人分淹れた。対面して机に着いた篤と、栫井の分。そして篤の隣の空白の席にも。茶器に薄緑の茶が注がれると、ふわりと温かな香りが広がる。

  「えっと……?」

  「ふふ、とぼけなくても大丈夫。カナヘビの子も来てるんだろ?」

  篤が怪訝そうな顔を作って鴉頭の巨漢を見上げると、彼はにっこりと笑った。首から下は栫井のものだが、顔だけがすげ替わっている。そして朽縄のこともばれているようだった。

  隠しても意味がないと思ったのか、ふわりと狩衣を揺らしながら朽縄が現れた。

  「初めまして。朽縄と申します」

  「栫井雅己です。よろしく。伝統的な出で立ちをされていますね」

  のんきな調子で栫井が言うと、朽縄ははにかんで微笑し、身体全体を見せるように両腕を広げた。翼のように狩衣の袖が広がる。

  「えへへ、ありがとうございます」

  「お茶は好きかな? ジュースもあるけど」

  「ありがとうございます。お茶も好きです」

  朽縄は一礼すると、篤の隣の席にちょこんと座る。若竹色の両手でそっと茶器を持ち上げて、熱さを警戒しながら口を付ける。喉が嚥下で膨らむ。彼の表情が花開くように明るくなった。

  「わ、おいしいです」

  「よかった。木田さんも良かったら」

  「はあ、どうもありがとうございます……」

  篤は愛想程度に茶に口を付ける。確かにおいしいお茶だった。でも教授と歓談している場合ではない。すると、栫井は笑みを深めた。

  「すまないね。ちょっと俺も戸惑っているんだ。木田さんは何から聞きたいのかな?」

  こちらからか。

  訊きたいことは山ほどある。先生は人じゃないんですか? 先生は鴉天狗だったんですか? 篤は結局、一番気になる点から話を向けた。

  「その……先生の頭はいつからなんですか。前はまだ……人間の」

  「なんと言ったらいいかね、ずっと前からだよ。君のレポートを受け取ったときも、俺の顔は鴉のものだった。というか、俺は栫井教授のふりをしているだけなんだよ。なぜだかみなさん気付かないみたいだが。気付いたのもこれが初めてだな」

  そう言って、栫井は机の上に載っている標本の山の中から、細長い桐箱を取り出した。丁寧な手つきで蓋を外し、中身を取り出す。

  それは艶やかな黒い羽根だった。

  よく路上に落ちているような、鴉の羽根だ。でも本質は全く違う。あの鴉竜の気配の何倍もの、強力な気配。

  「これが鴉天狗の羽根。それで、俺の本体」

  栫井はくるりと指先で羽根を回しながら、そう言った。

  彼はもともと純正の人間だったが、なぜ鴉天狗に成り代わることになったのか、栫井は語り始める。

  鴉天狗の羽根を拾う前、彼はもともと地方信仰の調査を兼ねて奈良の一角までフィールドワークを足を延ばしていた。そこには山伏信仰が変形し、鴉天狗信仰があった。ある集落の中だけで流通する極小の信仰の一端を捉えるために栫井は山を登っていた。地方信仰の収拾と編纂はは栫井のライフワークに密着していた。

  また、栫井人間時代からは霊的なものへの直感がかなり強かった。それはフィールドワークにおいては、「あの人に話を聞いてみよう」であったり、「こっちの遺構を見てみよう」であったり、直感で彼は成果を上げてきた。

  そして直感に従って向かった奈良の山中で廃棄された集落の中からご神体として祀られていた鴉の羽根を拾ったのだった。

  「栫井雅己の記憶はここで途切れる。そして俺は教授の部屋で目覚め、よくわからぬままに、栫井教授として生活をしている。騙しているようで周りには申し訳ないんだが」

  つまり、鴉天狗の羽根という強力な霊的遺物に、栫井教授はあてられているということらしい。霊的なショックから守るために、栫井の人格はおそらく眠りにつき、入れ替わるように、羽根に残っていた鴉天狗の残滓が栫井の肉体に入ってしまった。

  「俺としては肉体を返したい。栫井氏が自身の研究……信仰の収拾に並々ならぬ情熱を傾けていたし、目覚めてもすぐ戻れるよう、社会的な地位は失わないようにしているんだが、俺がいることそのものが栫井教授の障害になっているわけだし」

  「鴉天狗の残滓というのは……」

  「俺の実態は羽根一枚に残った人格だからな。自分自身の記憶もあんまりないんだ。天狗としての権能もほとんどない有様で、扇も翼もない」

  「なるほど……」

  鴉天狗は見つかった。しかしほとんど力は振るえない。あの鴉の群れの主になれるだろうか、と朽縄を見るが、彼は首を振った。

  それに気づいた栫井が、恐る恐るという風に聞く。

  「……もしかして二人とも、昨日のことを知っているのか?」

  「昨日のこと?」

  「実は、……身体を栫井氏に返そうとしたんだが、失敗してしまった。一応、現世への影響は最小限にとどめたんだが、どういう影響が出ているか分からない」

  「失敗」

  と朽縄が繰り返した。栫井がうなずく。

  「俺の人格を霊道に流し込もうとしたんだが、うまくいかなかった」

  霊道。言葉通り霊の通り道である。実体としては、神域における灯火の流れ。

  篤は鴉竜のことを説明する。流石に老竜との関係はぼかしたが、鴉竜のことや、「神域」という単語が出た瞬間は、栫井は表情をこわばらせた。

  「恐らく……というか、確定で俺の影響だ。申し訳ない、俺の行いのせいだ」

  と頭を下げた。艶を帯びた黒い羽毛の、つるりとした丸い頭だった。

  「話に聞くとずいぶん鴉は強くなっているようで、情けない話だが、俺が主にはなれるかどうか分からない。しかし、儀式をきちんと終わらせれば、鴉たちは霊道に流れていくはずだ。恥の上塗りで恐縮なのだが……儀式の片づけをすることも俺一人じゃできないんだ」

  栫井は器用に嘴で茶を飲み、また頭を下げた。

  「すまないが、手伝ってくれないか」

  篤は朽縄に視線を向ける。もう彼の頼みを飲むつもりでいるが、手伝う際の戦力は、朽縄しかいない。彼はくりくりとした瞳を伏せてうなずいた。篤は口を開く。

  「それで……先生、手伝うというのは何をすれば」

  顔を上げた栫井教授は、「ありがとう」と言って、

  「こればかりは見た方が早いだろう」

  鴉天狗の栫井教授は、そう言って立ち上がった。[newpage]

  六

  山のふもとに建てられた単身者向けのマンション、三階の角部屋が栫井の部屋だった。解放感のある共通玄関に入ると、敷き詰められた絨毯が靴底を受け止める。部屋ごとのポストは磨かれて光沢を放っている。ラウンジのような、待合室のように小さなテーブルと椅子まで置かれている。高級とまではいかなくても、それなりに上流向けのマンションであることはすぐに見て取れた。気おくれしそうになるが、カナヘビの少年に鴉頭の男と、マンションの内装程度でうろたえていられる状況ではあった。

  しかし、暗い。

  明るさがどうとか、内装が上品とかいうものでは、どことなく暗い感じが隠しきれていない。

  「ちょうど霊道が通っていますね」

  と、エレベーターで朽縄が言う。

  「分かるかい」

  「山から海に流れるように。でも質としては、よくないものを呼んでしまう感じがあります。篤様はなにか感じられますか?」

  「え……僕も大して変わらないよ。どっちからとは分からないけど、なんだか嫌な感じがするくらい」

  朽縄は満足げにうなずく。

  ふと気になって篤はエレベーター上部に取り付けられた鏡に目を向けてみたが、そこには篤と、長髪をくくった栫井教授だけが映っていた。

  「祈りと恨みを運ぶ道でもありますが、ここは恨みを多く呼び込みやすいようです。栫井様はここに住んでいらっしゃったんですか」

  「ああ。栫井氏は家賃のほかに、やはり閃きで決めていたな。霊道の影響を無意識に受けていたんだろう」

  エレベーターの動作音が途切れ、両開きのドアが開く。外気が流れ込んでくる。

  先を歩く栫井についていくと、角部屋で止まる。何の変哲もない、頑丈そうな鉄製のドアだ。

  「ここだ。俺は昨日の失敗ではじき出されてから戻っていない」

  言って、栫井の分厚い手の平がドアノブを回すが、びくともしない。鍵を回してみたり、押したり引いたりとやってみるが、ドアは厳重に閉じられたままだ。

  「……まずいかもしれん」

  「中から閉じていますね」

  手を離した栫井が呟くのと入れ替わりに、朽縄がノブではなくドアそのものに触れる。広げた手の平と、額をそっと押し当て、何事かを呟く。そしてノブをひねると、がちん、と重たい音を立てた。

  「開きました。栫井様、入ってもよろしいですか」

  「あ、……ああ、頼む」

  ドアを開けると、むわっとした草いきれの匂いがした。

  マンションの部屋からはおよそ流れることのない匂いだ。

  覗き込むと、玄関の壁があるはずのところには何もなく、木々が鬱蒼と立ちこめていた。

  [[rb:三和土 > たたき]]があるはずの床には草が生い茂り、湿った土が辺り一面に広がっていた。天井があるはずのところには、何重にも重なった梢と抜けるような青空があった。小さく鳥の鳴き声が聞こえた。風がそよいでいた。燦然とした日の光が降り注いでいた。蒸された草と土の匂いが豊饒に広がっていた。記号的な生命の表象が満ち満ちていた。

  部屋は一面が山だったのである。

  夏の山。

  があ。

  「なに……これ」

  篤が数歩踏み出して、山に足を踏み入れる。朽縄たちもそれに続く。

  状況としては神域に似ている。しかし、神域はもっと落ち着いているし、親密な静けさに満ちていた。ぎらぎらとした太陽や、蒸すようなじっとりした草いきれ、よそよそしく通り過ぎる生ぬるい風は、それらとは似ても似つかない。

  眩暈がした。

  目の奥から眼球が押し出されるような、痛みを伴う強い眩暈。吐き気。

  があ。

  鴉が鳴く。

  拒否感がかなり強い。ここに来てはいけない。ここに入ってはいけない。ここにいてはいけない。ここで生きていてはいけない。身体の細胞全てが叫び出すようだった。神域ではこんなことはなかった。敵意が充満している。

  「あ……」

  魔的だ。

  ここは自分の知っている場所ではない。

  原初的な畏怖と混乱で身体の力が抜ける。

  「篤様」

  柔らかな土に膝をついた篤の背を、朽縄がさする。狩衣の四角い袖が地面を滑る。照りつける太陽を受けて、朽縄の翡翠色の鱗はなおさら儚げで美しい光沢を見せた。彼は長い口の先を篤の耳元に付けて、小さく囁く。

  「あてられたのだと思います。すみません、ちょっと失礼します」

  篤の骨ばったおとがいに、朽縄の手が添えられる。朽縄は数秒だけ考えるように、あるいはためらうように、赤く燃える篤の頬を見ていたが、彼はぎゅっと目を閉じた。

  ちゅっ。

  である。

  「え?」

  頬に篤が手を触れる。そこには夢のようにどんな痕跡もなかった。しかし、頬を中心に清涼感に似たこころよさが広がっていくのが分かった。爽やかな風が悪寒を吹き飛ばすように、身体を縛っていた恐れが去っていく。

  「こ、これで動けるようになるはずです」

  怒ったように顔を真っ赤にした朽縄が立ち上がり、手を差し出す。小さな手だ。それを遠慮がちに掴む。人肌よりも低い体温のそれは、想定よりも強い力で、篤を引き上げる。

  「あ、ありがとう……」

  「簡単なおまじないです。また何かあったら、すぐ教えてください」

  手を離す。確かに朽縄の言う通りで、嫌な感じは消えないものの、悪寒や眩暈はかなりましになった。

  数歩離れたところであたりを見回していた栫井が、こちらに声をかける。朽縄のまじないに気付いたそぶりはない。

  「大丈夫か?」

  「すみません、でも、もう大丈夫です」

  「そうか。無理するなよ」

  三人は玄関に当たる場所から、栫井の先導に従って進んでいく。うっすらと獣道らしきものをたどる。マンションの部屋らしきものはどこにもない。入って来たドアさえ山中に脈絡なく立っているようだった。何の目印もない山道であるにもかかわらず、栫井の足どりには迷いがなかった。

  「先生はこの山に見覚えが?」

  「え?」

  「ほら、どこに行けばいいか分かってるみたいなので……」

  「いや、分からないよ」

  と栫井は歩きながら答える。

  「俺はあまり儀式の手順も覚えていないし、力もない。でも、身体のせいだと思うんだが、こっちに行けば何かがある感じがするんだ」

  「…………」

  直感は馬鹿にできない。特に栫井の場合は、直感だけで鴉天狗の羽根を引き当てたわけなのだし。しかし、そうだとしても、篤は怪訝な顔をしてしまう。朽縄に小声で尋ねる。

  「今正しい方向に向かってるのかな……。というか、僕たちは何をすればいいんだろう。儀式を終わらせるって言われても」

  「私たちは……ただついていけばいいと思います。一応、栫井様の霊感は本当に鋭いみたいで、神域の中心に真っ直ぐ向かっていますし。そこにこの神域の要があるはずです」

  「分かるの?」

  朽縄は得意げににっこり笑った。

  「これでも主様直属の使い魔なんですから、これくらいは」

  「僕は全然分からないなあ……」

  「慣れてくると、篤様も分かってきますよ。竜神の恩寵を得る方なんかそうそういないんですから、霊的感度はお墨付きです」

  三人は山を進む。気付けば獣道を外れ、背の高い草をかき分けて、木の根や石で足場の悪い中を歩くことになる。既にマンションの一室の範囲を大きく逸脱していた。

  フィールドワークで悪路に慣れた身体の栫井はもちろん、肉体があってないような朽縄も、まるで苦にもせずにひょいひょいと進んでいく。篤はもう息は上がっているし、暑さもあって汗でシャツにべったりと染みを作っている。腿が重く、爪先の感覚が鈍ってくるのが分かる。もともと体育会系でもないのだ、体力は平均に入るかどうか、というところである。

  二人が落としてくれているペースに、ついていこうとがむしゃらに足を出していたのが災いして、硬いものに足を引っかけてしまい、バランスを崩しかける。

  「っ」

  「おっと」

  篤の漏らした声に反応した栫井が、篤の手を握った。すさまじい反応速度。栫井の分厚く、硬い手が篤の手と組みあっている。

  硬い手。

  人の肌にしては、硬すぎる手。

  「あ、ありがとうございます」

  「…………」

  「先生?」

  「あ……いや……」

  見ると、栫井の手は人の皮膚ではなく鳥の[[rb:趾 > あしゆび]]に似て、硬い皮膚に覆われ、黒い鉤爪が生えていた。その先端は、皮膚に食い込んでいて、ぷっくりと赤い球が膨らんでいる。それを見た栫井の瞳が大きく見開かられた。

  「すまん!」

  栫井は篤の手を慌てて離す。そしてまじまじと趾を見る。

  「こ……これは」

  朽縄が手を覗き込み、下から鉤爪に触れた。彼は優しく言う。

  「中心に近くなってきたから鴉天狗の要素が強まってきたのでしょう」

  「朽縄君……」

  「私のはカナヘビの鱗ですが、私とおそろいですね」

  「そ……そうだな」

  「それは鴉天狗の手です。栫井様には馴染みがないかもしれませんが」

  「いや……馴染み? 俺は鴉天狗で……」

  「栫井様は見えていらっしゃいませんか」

  確信に満ちて、優しく朽縄は言う。

  「朽縄……?」

  「篤様、ちょっと一歩下がっていただけますか」

  「? あ、ああ……」

  朽縄は、つい先ほど篤が足を躓かせた木の枝を拾う。茶色で、苔むした太く頑丈そうな木の枝だ。

  「篤様、申し訳ありません。苦手なものを見せるかもしれません」

  「え?」

  彼は木の枝にふうっと息をかけた。

  があ。

  誕生日の蝋燭の火を吹き消すように、木の枝の像が消えた。その代わりに現れたものを見た篤は息を呑んだ。

  「っ……!」

  それは人骨であった。

  篤は反射的に下を見る。

  見てしまう。

  そこには、うっすらと朽ちた肉の付着した人骨があった。背骨を中心に広がる肋骨、伸ばされた片腕、太く長い大腿骨、そして丸い頭蓋骨。理科室にあるような骨格そのまま、地面に広がっていた。大きさからすると男、しかもかなり大柄なようだ。

  例えば栫井雅己教授のような。

  朽縄の言葉を思い出す。

  死臭がするのです。

  栫井は。

  栫井は。

  栫井は。

  栫井は両膝を地面について、趾の腕で白骨を抱きしめた。

  腕も手の平ももう人のものではなくなっている。

  背中には、服を破って黒い翼が生えていた。

  鴉の翼だ。

  嘴がかちかち鳴った。

  思い出した、と栫井が呟いた。

  があ。

  があがあ。

  があがあがあ。

  風が吹いた。

  鴉の群れが飛び立った。

  暗転。

  冷気。

  「戻りました」

  朽縄が静かに言った。

  ばちん、と電灯が点いた。

  そこはマンションの一室だった。篤が辺りを見回すと、資料や専門書が散乱し、床は大量の鴉の羽根で覆われている中に、何かをかき集めるように四つん這いになった栫井がいた。

  上半身の衣類は破れ散って、蛍光灯の冷たい光が、鴉の豊かな黒い翼を艶めかせていた。彼の腕は鱗に覆われて鳥類の趾の形になり、背中はから鴉の翼が生えている。

  栫井はそのままの姿勢で、かすれた声で言う。

  「朽縄君、いつ気付いた? 俺が……もう死んでいるって」

  「初めて会ったときから……篤様がレポートを出したとき、死臭がしていたので。栫井様は死んでから、鴉天狗の羽根の力で、死んだことを忘れたのですね」

  「それで、自分を鴉天狗だと思い込んだ」

  鴉天狗の残り滓。

  終わらない幻燈。

  ご神体の夢の跡。

  俺は栫井教授のふりをしているだけなんだよ——。

  ふりをしているふりを、している。

  「儀式がうまくいかないのも当然か……奪った相手なんかいなかったんだから。鴉天狗の力だけ霊道に流れたわけだ。それで、死んだことを思い出さないために幻覚の応用で神域もどきまで作ったってことだね」

  まるで他人事のように、栫井は言う。

  自分は死んでいるのだと。

  生きていたことは間違いだったと。

  栫井は身体を上げる。自分の骨を抱いていた姿勢を解いて、篤と朽縄に正座で向き直った。それはとても整っていて、清らかな印象さえあった。

  そして頭を下げた。

  「申し訳ない——今回のことは俺の生き汚さが招いたことだ。思い出させてくれて、ありがとうございます」[newpage]

  七

  栫井は竜神にも謝罪したいということで、社に連れて行くと神域に招かれた。

  親密な薄闇の満ちた本殿で篤は大きく息をした。栫井はしきりにあたりを見回している。彼は着るものがないので、上半身裸のスラックスのままだ。朽縄は老竜を呼びに席を外している。

  「あの山とは全然違う」

  と漏らすと、奥からしわがれた不機嫌そうな老爺の声がした。

  「当然だ。お前の作った異界は記憶の再生だろう。空元気の白日夢と比べることもおこがましい」

  と、老竜が暗闇から現れる。

  暗闇を纏い、たてがみをたなびかせる老いた龍。彼はいつもと雰囲気が違う。好々爺じみた優しげな甘い空気はなりを潜めていた。瞳にはぎらりとした稲妻が走り、髭は薄い霧を揺らめかせている。厳かでさえあった。

  栫井が慌てて姿勢を正して、脚をそろえて頭を下げる。老竜の強い気配は、鴉天狗の格では太刀打ちできない。謝罪の声は震えていた。篤は呑まれて動けない。

  「あ、……、先日は失礼を……」

  「ふん、私は何も面倒をかけられていない。ただあの小僧の我儘を聞いてやっただけだ」

  不服そうに老竜が鼻先で篤を指し、じろりと栫井を睨んだ。

  「神域の鴉はみんな帰っちまったよ。おとがめはなし。灯火は問題なく巡っているしな。何もこちらだって消えかけの夢に責任を取らせたりしない」

  「消えかけ?」

  篤が反射的に声を上げる。

  そんな話は聞いていない。

  鴉は神域から帰って、栫井は竜神に謝罪をして、それで終わりではないのか。

  「竜神様、消えかけってどういう……」

  「何だ、聞いとらんのか。そいつの夢はお前が覚ましたんだ。夢が覚めた以上遠からずそいつはまた死ぬことになる。鴉天狗のなりそこない、本来なら生まれなかった幽霊もどき——鴉天狗の羽根で死体が無理やり見ている白日夢にすぎない。喜べよ、篤の引導でお前は死ぬことができるのだから」

  「死ぬって、僕は先生に死んでほしかったわけじゃ……」

  二度。

  栫井雅己は、一度は山で死に、二度目は篤の欲によって死ぬことになる。

  「篤、お前の仕事はこれで終わりだ」

  有無を言わせずに老竜は篤の言葉を断ち切る。

  「お前は鴉たちを守った。それでいいだろう。あの鴉たちは死者の見る夢は生者が見てはならない」

  篤が共感するのは人間ではない。鴉や蛇や蜥蜴といった動物たちだ。人ならぬものたちだ。カナヘビを助けたときからそうだ。青年が竜神に恋をし続けてきたことがその証左だった。そのくせ青年は欲深さゆえに人の技法に長けている。そして今も篤はその技法で立っている。人の技法で人ならぬものと渡り合う愚かしさを、篤は知らない。

  厳格に、説教を優しく締める権力者のように和やかにさえ見える調子で、頭を下げ続ける栫井に老竜は続ける。

  「今すぐに死ね、とは言わん。幸いにもお前の元になった鴉天狗はかなりの信仰を持っていたようだし、準備をするくらいの時間はあるだろうさ」

  「竜神様……」

  「篤も今日はご苦労だったな。鴉が飛び立って行ったとき、朽縄の助力ありきとはいえ、私も嬉しかった。もうこいつを休ませてやれ。ずっと夢を見るのも意外に疲れるものなのだぞう?」

  「待って、竜神様。先生は、」

  「木田さん、もう……」

  頭を上げずに視線を向けて栫井が制する。しかし篤の語調は強くなる。

  「だって先生はまだやりたいことがあるから、死んでも夢を見たんじゃないですか」

  「篤」

  老竜が諦めたように首を振った。

  「この白日夢を助けたいなどと言ってくれるなよ。お前が一番損をするんだから」

  「僕が損をすれば、先生はまだ生きていられますか」

  「だめだ。そもそもお前、この白日夢にそこまで踏み込む意味がないだろう」

  「意味って……」

  竜神の瞳の雷光が爆ぜる。

  強烈な圧力。篤の骨がびりびりと震える。老竜が瞳を伏せて、稲妻をなだめる。そしてまるで春先の雨のように優しく言った。

  「言ってやろうか——、お前は自分が鴉を助けたいなどと言わなかったら、こいつの夢が覚めなかったと思っているんだろう。自分の欲でこの男を二度殺してしまうと思っているんだろう。だがそれは違う。的外れだ。いいかい篤、お前が夢を覚まさなくても、こいつはいずれ終わっていた。現に自我だってあやふやだったじゃないか。死んで生き返ったのではないんだ、こいつは死んでいる。死に続けている。それをお前は助けたんだよ。お前は恥じるな、誇ればいいんだ」

  「ですが……」

  「だからそんな顔をするな。他人のことで泣くな。お前は良いことをしたんだ。善なることをしたんだ。それでいいではないか。それで納得すればいいではないか」

  「……泣いていません」

  栫井が口を開く。

  「木田さん——てっきり俺はあなたが霊媒師か何かなんだと思っていた。でもお前は、ただの人間なんだな」

  「先生」

  「いいんだ。俺はもう死んでしまっているし、無理に仕事をしたいと思ってるわけじゃない」

  「…………」

  老竜が静かに渦を巻いて飛ぶ。ちろりとかすめ取るように篤の頬を舐めた。篤は驚いて飛び退く。

  「っ」

  「ふむ……これは味が違うな」

  と老竜は呟いた。

  深いため息が、黒い霧と一緒に流れた。呆れと諦めの響きだった。しかし篤の耳はその根底にあの甘い音が確かに響いていた。

  「おい、白日夢」

  「は……はい」

  「お前、延命できると聞いたらどうする。もちろんただじゃないが」

  「で、できるのでしたら、それは……」

  「そうか」

  老竜が深くうなずく。

  「篤」

  「……はい」

  「お前、こいつのためにまともな人生を捨てられるか?」

  「え?」

  「私はお前に選択肢を最後まで残すつもりだった。今更竜神に飼い殺される時代でもあるまい。言っただろう、人の因果に戻るならそれも許すつもりだったんだよ、私は。しかし、こいつを助けるなら、人の因果を踏み外すことになる。こちらの因果で生きてもらうことになる。一生私のものになる」

  「恐れ入りますが——」

  「黙れ白日夢。私はこいつと話しているんだ」

  栫井は視線で篤を止める。しかし彼は見ない。篤の眼は竜神の瞳だけに注がれている。生理的な恐れをやり過ごしながら、彼は稲妻と目を合わせている。

  「竜神様、僕がいつかあなたを嫌いになると思っていたんですか」

  「は——?」

  「お、……仰ってたじゃないですか、僕はずっと昔から捧げてたんです。あなたが、受け取ったんです。それを、ちゃんと、受け取ってください」

  恋を、と言うのを憚ったのは栫井がいたからだった。ぱちくりと老竜がまばたきする。絶句している。かみしめるように、数秒ほどの沈黙がやってくる。

  「はは」

  老竜の唇の端から笑いが漏れた。

  それはすぐに哄笑になる。

  ぐるりぐるりと板の間いっぱいに蛇体が旋回する。苔色の竜巻のごとく、蛇体が躍る。

  稲妻が轟いて弾ける。

  豪雨が天井を篠突く。

  老竜の激情が溢れる。

  「はは——ははは! はははは! ははははは——言ってくれる! 言ってくれるじゃないか欲深坊主、なんだ、ちゃあんと腹決めて立っているじゃないか! ははは! なあ篤、可愛い篤、いじらしい篤、いいんだな? お前の恋も心も魂も身体も言葉も、全部私がもらっていいんだな? ああいいだろう、教えてやろうじゃないか私の背の君よ——、そいつを助けたいなら、そいつを犯せばいいのさ」

  そいつを犯せばいいのさ。

  今度は篤が絶句する番だった。[newpage]

  八

  「昔には人が泊まることもあったからな。まさか間男が使うとは思っていなかったが」

  と老竜はからかうように言って、荒天と共に神域の空を飛びに行ってしまって、朽縄に本殿の奥へ案内してもらうことになる。本殿はおそらく栫井の部屋に作られた異界と同じように、何らかの仕組みがあるのか、広すぎるし、入り組みすぎていた。

  右や左に複雑に曲がりながら、朽縄はよどみなく進んでいく。案内されている二人は、これからのことを考えて沈黙を破らないので、老竜が起こす歓喜の嵐の音がよく聞こえた。

  「あのう、篤様」

  「あえっ! あ、うん、どうしたんだい、朽縄」

  「竜神様は篤様が自分の人生をちゃんと考えたときに、改めてこちらに来られるように留保をして下さっていたのです。あまり、これまで信頼していなかったとは思わないでいただけたら嬉しいです」

  「う、うん。それは、もちろんだよ」

  「あと、ちゃんと竜神様に謝ってあげてくださいね。今回のことは魂と引き換えの反則技みたいなものですし……、今はあの通りですけれど、やっぱりお辛いでしょうし」

  「……そうだね。今回、僕はちょっと我儘がすぎたな」

  「魂と引き換えなら、どんな我儘でも通りますよ。……それに」

  朽縄はある襖の前で立ち止まって、振り返る。翠玉色の爪が覗く袖で口元を隠して、控えめに笑った。

  「そういうところに私も助けられたんですから、胸を張ってくださいね」

  そして朽縄は一礼して去った。

  一礼した直後に、篤は、水をあげたことか、と思い至った。元気づけようとしてくれているのかもしれない。大学教授とこれから性交をしようというのだから。愛情でもなく、快楽でもなく、生存のために。

  案内された間に入ると、六畳ほどの和室だった。明かり障子からはぼんやりとした月光が滲んでいる。部屋の隅には行燈が穏やかに灯っている。そして中心には清潔な白い布団が敷かれている。

  「う……」

  部屋に入ると、畳がぎしりと軋み、その生々しさに篤は呻いた。顔が熱くなっているのが自分でも分かった。

  老竜との情事はあるものの、こういったことは経験がないのだ。

  「……や、やめないか? 今からでも遅くないだろう」

  敷居を跨がずに、栫井が言う。声が硬い。

  「俺はこれでも教師で、君は学生だし……。そもそも俺のために君がこんなことをする必要なんかないだろう。俺のことなんか気にしちゃだめだ」

  「で、でももうこうなっちゃいましたし……。それに、俺は人間じゃなくなっちゃうみたいですし……」

  「ずいぶん軽く言うんだな」

  「だって、ずっと昔からそういう気がしていたんです」

  「なに?」

  「普通じゃないですか、好きな相手と一緒に過ごしたいって」

  「…………」

  「普通だったらほら、喫茶店に行ってみたり、買い物をしてみたりするでしょう。一緒に暮らしてみたり、子供を作ったり。でも僕はそういうことができないから。竜神様と一緒に雨雲の中を泳いでみたり、どこまで早く飛べるか競争したり。そういうことができるのかもしれない」

  栫井は口を閉じた。月光に濡れながら竜神との遊びを語る学生が、自分の知っている学生とは思えなかったからだ。短い黒い髪や、鼻筋、薄い唇が、月の光で透明さを増していた。それはなにか、水晶でできた不思議な生き物のように見えた。穢れを知らない何か美しいものに見えた。

  「だから人間じゃなくなることについてはいいんです、僕は。でも、先生はどうですか」

  「俺?」

  「生きていたいですか。なんと言いますか……せっかく生き返ったのに、終わっちゃうなんて悲しいとは思うんです。自分の目的の話しておいて、とってつけたような話みたいですけど。でも、本当に終わりにしたくてたまらないなら、二人で竜神様に謝りましょう」

  篤はとうに覚悟を決めていた。しかし栫井はまだ決めかねていた。彼の頭の中では倫理と人生でがんじがらめだった。

  「……レポート」

  と、と彼は呟いた。

  「レポートのレスポンスがまだ書けていない」

  何とかそれで納得しようという苦し紛れの言葉だった。そこには様々な響きがあった。でも稲妻の轟きがそれをうやむやにしてしまった。

  「分かった——やろう」

  彼は緊張からか唾を飲み込んで、敷居を踏み越えた。

  ◇

  二人は襖を締めて、手早く服を脱いだ。少しでもためらえば、それが覚悟に傷を付けて恥が染みてきそうだった。篤は汗ばんだ服を脱ぎ、簡単に畳むと隅に置いた。

  「先生のも畳みますか」

  「あ……ああ、頼む」

  栫井が恥を隠そうとあえて乱雑に渡してくるズボンと下着を受け取り、それも畳んで自分の衣類の隣に置く。

  これで二人は裸だ。篤の日に当たらないせいで白い肌や、薄い胴、細い手足には、静かに揺れる淡い行燈の光で細かな影が浮いている。対して、栫井はかなり大柄だ。黒い鴉の羽毛は光を吸い込んで艶々として、豊かな胸板の丘陵や、太腿の筋肉が強調されている。そして特筆すべきは前腕の鴉の腕や、臑から先の硬い鱗に覆われた趾だ。甲殻にも似たそれは丸みを帯びて、黒曜石のように冷たく灯りを反射している。二人の身体で最も異なるのは、篤の胴は呼吸で絶えず影が変わっているが、栫井の胴は決して形が変わらないことだった。

  互いに向き合って立っている二人は、奇妙なおかしさに囚われて少しだけ吹き出した。

  「なんか……照れるな」

  「全然身体が違うんですね」

  「そうみたいだ。俺も自分の身体がよく分からないんだが」

  光に透かすようにしげしげと腕や指を動かしたり、足の裏を眺める栫井。

  「すまん……本当は俺からリードすべきなんだろうが、ちょっと、これだと、怖いだろう」

  彼は自分の手の平をこちらにかざす。指先には、黒雲母のような爪が生えている。それは鋭利にきらめいている。幻想の山で篤の肌に食い込んだことを気にしているのだ。

  自分の身体と変わりすぎていて意識が追い付いていない。その差分から、恐怖が生まれている。篤は栫井の鱗に覆われた腕をそっと触れた。

  「気を付ければ大丈夫ですよ。あの時はとっさのことだったから、うまく力加減ができなかったのでしょう」

  太い指を軽くつかんでみる。硬い手の感触は好ましかった。朽縄の鱗よりも硬い。獲物を掴むための頑強な手の平。

  「少し……力を入れる。痛かったら教えてくれ」

  「はい」

  栫井の手がゆっくりと握られる。

  「お前の手はすごく温かいんだな。熱いくらいだ」

  「先生のは冷たいですね」

  「死んでるからな」

  反応しづらい……。

  二人で指を絡めるように触り合っていると、力加減に自信が出たのか、栫井は篤の手を軽く、先ほどよりも強く掴んだ。

  「こっちに行かないか」

  あれ、と篤は思った。

  「先生、気持ち悪くないですか」

  「何がだ?」

  「その……女性としか経験がないんでしょう」

  問われた栫井は、生真面目な調子で、

  「平気みたいだ」

  と言った。

  布団に向かい合って座る。柔らかな布団が、膝を受け止める。栫井も爪で破かないようにゆっくりと腰を下ろした。鴉天狗の身体で体格まで大きくなっているのか、篤の頭が栫井の胸ほどの高さになっている。

  栫井が身を乗り出す。表情は硬く、体格差もあって、それなりの威圧感がある。

  「さ、触るぞ……」

  硬い手ができる限りの優しさで篤の後頭部を支えながら、抱えるように押し倒す。篤は抵抗しない。そっと布団に身体を下ろされて、腹を撫でられる。

  「ん……」

  「っすまん、痛かったか?」

  「や、こういうのって初めてなので、なんだか緊張しちゃって」

  「そ、そうか……」

  手の平を細心の注意で腹に置かれる。爪の先がこそばゆくて、篤は息を呑んだ。

  そして栫井は頭を胸に置いた。心臓の鼓動や血流を聞きたいのか、彼は瞼を閉じた。それは極めて静謐で、荘厳ささえ帯びていた。嘴の憂鬱な傾斜、頭の柔らかな羽毛の丸み、膨らんで萎む腹に置かれた手の平の優しさが、切実な祈りのように篤には見えた。篤は彼の頭に手を重ねた。優しい気持ちを返したくなったのだ。

  彼の背中に生えた一対の翼が震えた。栫井が目を開けた。彼は手を床につくと、体を起こして篤の耳元で囁いた。

  「できそうだ」

  言葉にはどっしりとした重たいものが横たわっていた。篤にはそれが何かよく分からなかった。栫井はきょとんとした彼に微笑を投げかけて、身体を下半身へずらす。

  鴉天狗の手が、やや膨らみ始めた篤の男根を、柔らかく握った。

  「悪いな。したことがないからうまくないかもしれないが、許してくれよ」

  栫井が篤のペニスを口に含んだ。歯のない嘴の中のひやりとした粘膜が、ねっとりと篤の男根に触れる。密閉性のない嘴は、締め付けたり吸い付いたりはできないが、その分緩やかで甘い快楽を与えてくれる。

  口蓋にあたる上の嘴の粘膜と、湿り気をたっぷり含んだ舌肉に挟まれ、亀頭はこりこりとした硬質な刺激、敏感な裏筋はにゅるにゅるとした柔らかな刺激を与えられる。

  「あ、気持ちいい……」

  声を漏らす。篤の控えめな嬌声に、栫井は少しずつ愛撫に熱を込めていく。カリを舐め上げ、裏筋を舌先でくるくると舐め回し、先端の最も敏感なところをくにくにといじり回す。その度に篤は身体を震わせて、声を漏らした。いつもは老竜に全身を拘束されているので、快楽に対して反応が従順になってしまっている。

  肉棒は完全に勃起している。張り詰めた男根にまぶされた唾液は、だらだらと伝い落ちて、玉袋や蟻の門渡りを濡らした。栫井の舌や唾液はひやりとしていたが、それが雨を思わせて逆に篤を興奮させた。

  栫井が嘴を離す頃には、篤の下半身は唾液でぐちょぐちょに湿っている。太腿にまたがって膝立ちになった栫井は、嘴の端からこぼれる唾液を腕で拭った。

  「痛くないようでよかった」

  赤らんだ顔の篤が身体を起こす。栫井が怪訝そうに首をかしげる。

  「木田さん?」

  「先生も」

  彼は怪訝そうな栫井の表情を見ずに、豊満な太腿に挟まれた股間に顔を埋めた。そこは夏の山の草いきれと獣の気配の立ちのぼる香りが満ちている。羽毛は絹のように柔らかく、下腹の肉はむっちりとした弾力があった。舌で羽毛をかき分けるが、あると思われた性器はどこにもない。

  篤の思惑を察した栫井は嘴を舐めた。口の端には欲情の引きつりがあった。彼は篤のこめかみを両手で挟むように離す。

  「あ、先生……」

  「ほれ、よく見てろよ……たぶんここら辺に」

  二本指が股間の茂みをかき分ける。勃起を示す性器はそこにはなくて、ぬらりと湿った割れ目が雄の匂いを立ちのぼらせていた。黒に囲まれた艶めかしい割れ目の肉色が、ひくひくと蠢いていた。

  「な、舐めてみるか……?」

  欲情が空回りして、栫井の声は上ずっている。しかし篤もそれに気づく余裕はなかった。彼は頷いて、そっと縦割れに舌を近づけた。

  蒸された汗と太陽の香りが篤の鼻孔を塞ぐ。土と獣の匂いが混じっている。人の匂いはまったくしない。それが篤の背中を押した。ゆっくりと割れ目の表面に舌を這わせる。

  「う……」

  栫井が低く唸る。瞳だけで彼の顔をうかがうと、嘴を上下させた。続行。篤は唾液を塗り込めるように、割れ目の周囲から舌の先で撫でる。どれだけの力を込めればいいか分からないし、喘ぎに含まれる了承と痛みの響きの聞き分けは彼にはまだできなかった。だからきわめてゆっくり優しく、彼の割れ目を舐ることになる。

  「あぁ……っ、ぅ、ん……っ」

  一度口内に舌を戻し、たっぷりの唾液をかき集めてから、再度男陰に舌を触れさせる。力がかかりすぎないように、顔を近づけて舌先ではなく、面積の広い面で愛撫する。

  老竜や栫井のフェラチオを思い起こす。しかし肉棒への愛撫と、肉谷の愛撫では違いすぎる。とにかく痛まないようにしなくてはならない。

  女性器も肛門も舐めたことはないが、かなり繊細なはずだ。唾液を纏わせた舌を、引きつりが起きないように慎重に上下に往復させる。

  「んんん……っ!」

  顔を挟む太腿が震える。

  「い、痛みますか」

  栫井は首を振って、布団に腰を下ろした。

  目をそらして、股を広げる。下腹部の割れ目にを隠す羽毛を指でよけて、

  「いや、……もどかしい。……周りだけじゃなくて、中も……」

  と、とぎれとぎれに言った。

  篤は四つん這いになって、栫井の再びさらけ出された肉谷に舌を伸ばす。唾液を含ませた舌をすぼめて、恐る恐る谷を割り開いた。

  「ひぃ……あ……っ」

  肉壁は何とも言えない味がする。塩っぽくて、太陽が香って、かすかに老竜の唾液に似た甘さの気配があった。篤は少しずつ肉孔を広げるように、緩やかに差し込む。

  「だ、大丈夫、気持ちいいから、そのまま……あぁっ!」

  甘い喘ぎを受けて愛撫は少しずつ激しくなっていく。栫井の嬌声は可愛かったし、雄割れの匂いも素敵だった。栫井の肉孔は徐々に湿り気を増していき、浅い部分の肉の崖が膨らんでいく。

  「あっ、んぁっ! すまん、なんか……あんっ! ああああっ!」

  ぎゅっと割れ目が締まった。同時に栫井の丸々とした太腿が篤の頭部を挟み込んだ。

  「んぐっ……!?」

  「すま……っ! お、収まるまで、あぁっ、くそぉっ……っ!」

  万力のような強度で、栫井の脚が篤の頭を捕らえて離さない。股間の茂みに染み付いた汗や脂、肉孔から漏れ出した愛液、栫井の匂いが鼻に押し付けられる。割れ目の中に取り残された舌を、肉壁がうにうにと絡みつく。

  「ああっ、また……っ!」

  栫井はまたきつく篤を脚で股間に押し付けて、やがて脱力した。篤が舌を引き抜くと、愛液と唾液の混ざった橋が割れ目と唇とで生まれ、すぐに滴になって落ちた。

  「ああ……悪い、二回もイッちまった……」

  だらりとした声で栫井は言い、気だるげに息をつくと、彼は立ち上がる。

  「先生?」

  「よいせっと」

  栫井は篤の肩を持ち上げ、ひっくり返すように彼を布団に転がす。

  「よしよし、勃ってるな」

  愉快そうに、彼は嘴の端を舐める。黒曜石の瞳は熱情に浮かされていた。その視線の先には勃起の治まらない篤自身があった。のしかかるようにして彼はとろけ切った入り口に先端を当てた。

  開かれた雄膣はしとどになって、粘液が糸を引いていた。

  「アンアン喘いでんのは性に合わねえ……っ!」

  栫井は腰を落とした。

  ぷっくりと膨らんだ亀頭を、肉の割れ目が飲み込む。

  「ううぅぅぅ……っ!」

  念入りなクンニリングスに二度の絶頂を経て、栫井の雄女陰は唾液と愛液でぐちょぐちょに濡れていた。十分に湿った総排泄口は篤の肉棒に絡みついてくる。貪欲な締め付けとなよやかなぬめりが、亀頭をくすぐる。

  「あぁ……」

  艶っぽい声を栫井が漏らす。

  まだ亀頭だ。

  脚を大きく開いているので、肉が雄を犯していく様が篤にはよく見えた。

  「ほら、さっきまでお前が舐めてたところに入ってくぞ……? んん……っ、こら、ひくつかせるなって」

  「だ、だって……」

  にゅくにゅくと蠕動する肉の快楽は初めてなのだ。きついはずの処女の雄女陰は貪欲に篤の肉棒が収めていく。その視覚的興奮。

  肉棒が全て呑み込まれると、臑は畳んだ翼の先に柔らかくくすぐられ、栫井の豊かな尻が足の付け根に座る格好になる。しかし重くない。

  脚で支えているのだ。篤は両手を伸ばす。それに気づいた栫井は、爪が当たらないように指を絡めて、篤の手の平を支えにする。ずしりとした重みが肩にかかる。

  「はあぁ……っ! 木田さん、君のちんぽ、気持ちいいぞぉ……!」

  口調が、教員のものと荒々しいものとが混ざり合っている。二つの境が快感の中で融解しているのだ。

  栫井が、篤の両手を柱にしてゆっくりとピストンを始める。尻を持ち上げ、下ろす。その淫らな上下運動の度に、栫井の肉壺はにちゃにちゃと篤自身に絡みつき、きつく扱き上げる。

  「うあ、ああぁ……」

  ひんやりと雨や清流を思わせる胎内は、しかしとろとろに蕩けている。脱力すれば緩く、力を込めればきつく、変幻自在に篤の肉棒を絶頂に手を引いていく。肉壺の内部はどんどん圧力を強め、ピストンが早まっていく。

  篤はもう限界が近い。太腿の付け根に、甘い痺れがわだかまっている。

  「せ、先生……イきそう……」

  「ああ……っ! 俺も、また……! くそっ、うぐぐ……っ!」

  翼が広がって、天蓋のように篤を囲む。翼の中には栫井の匂いが満ちている。

  暗闇と獣の匂いの中で、栫井が無茶苦茶に腰を振りたくる。肉壺の中で篤の男根が乱暴に弄ばれる。

  「ああああぁぁぁっ!!」

  先に栫井が絶頂を迎える。

  身体全ての筋肉が占めるような凶悪な締め付けが篤のペニスを絞る。

  「あ、イく、イくうぅぅっ!」

  何か大きな流れが自分たちを押し流すような幻覚の中で、二人は強く手を握った。そして絶頂が収まるまでずっとそうしていた。[newpage]

  九

  篤と朽縄、そして栫井の三人は、奈良から帰宅の列車にいた。夏の日差しは梢でさえぎられてはいるものの、きつかったことには変わりない。無人列車に座る篤の登山用の衣服はまんべんなく汗みずくだった。

  彼以外はもう生物ではないので、涼やかなものだ。朽縄に至っては登山の全ての工程を狩衣でこなしてしまった。大事そうに鞄を抱えている栫井が着ているのは、鴉天狗の正式な山伏装束だ。

  朽縄は人からは見えないし、栫井はあの長髪の大柄な男に見えるはずだが、二人と一緒にいると、不思議なことに列車もほとんど人が乗らない。だから夕暮れに濡らされながら三人は並んで席に座っていた。

  スポーツドリンクのボトルを両手で持ち、朽縄は飲み干す。ぺろりと細い舌で唇を舐めとり、

  「しかし、無事に回収できてよかったですね。栫井様の骨」

  と言った。

  栫井が抱えている鞄には、回収した彼自身の白骨があった。

  「山とはいっても、あれだけ目立つ場所にあって、なんで誰も気づかなかったのか不思議だな。事件にもなってないし、持ち去りもなかったな」

  「骨にもしっかりと幻がかかっていましたから」

  「何にしてもよかったよ——よかったかどうかは分からんが、これで一応俺は延命できたってわけか」

  あれから一週間経って、三人は栫井の遺体を回収しに来たのである。栫井雅己は現在も民族学の教授として働き続けている。鴉天狗であることを看破したものは今のところいないので、生前とほぼ変わらない生活を送っている。

  そしてこれからもそうであるためには、栫井の遺体はこちらで管理しなくてはならない。雨ざらしにしておくわけにもいかないし、白骨遺体が見つかって、それが栫井のものと仮に判明した場合、面倒なことになるからだ。まさか老竜にお願いするわけにもいかない。

  篤と栫井の交わりによって、栫井は延命された。老竜と篤の縁の応用だ。鴉天狗の力が時間とともに目減りしていくなら、篤の精液——つまり生命の源の力を注げば、当座の処置にはなる。

  なので定期的に栫井と性交をしなくてはならなくなった。

  「いいか間男、お前の命は背の君が握っていると心得ておけよ。あいつの強欲で助けられたにすぎないのだから。いつでもお前の夢は覚めるんだぞ」

  老竜は我に返ってから、苛々とした調子で栫井に強く言い含めていた。

  「篤もだ。こいつの主だときちんと自覚をもって動くように」

  「はい……」

  まるで父親のように、老竜は篤にも説教をした。

  篤は魂を渡すのを待っている。しかし老竜はため息をついた。

  「お前が竜になったら、今度は誰の精液で白日夢を生かすつもりだ?」

  「え……?」

  「言ったろう、系譜が違うんだ。お前がまだ人で、あれが人の見た白日夢だったからこんなふざけた方法がまかり通ったんだぞ。お前が私に今魂を渡せば、あの白日夢はまた覚めることになる。自分から拾ったものの面倒くらい最後まで自分でみるんだな。少なくともあの男が寿命になるまで、当分は人間のままだ」

  「う、はい……」

  「ま、その間にその未熟な魂を磨くことだ。なあ、愛しい背の君、私は永遠だって待てる男だぞう?」

  お気に入りのお宝を眺める竜、という感じで心底から楽しそうに老竜は、針金のようにちくちくとした尾の先で彼の顔をかいぐった。

  そういうわけで、老竜からの好感度が奇妙に上がり、篤の生活が爛れただけでこの一件は終わりである。しかし老竜の好感度が上がったならそれでいい。

  日が暮れて、篤たちは自身の最寄り駅に帰りつく。流石にもう人波の中だ。朽縄はふっと姿を消し、栫井もまた駅で別れて一人になる。

  そのとき、雨が降った。

  一日中晴れの予報だったが、念のため折り畳み傘は持ってきている。

  しかしその雨は温かく柔らかかった。

  遠くで稲妻が光った。

  見上げると、踊る竜の影が見えた。

  遅れて轟音が聞こえた。

  篤はにっこりと笑うと、傘を差さず降りしきる雨の中に足を踏み入れて両手を空に伸ばした。