夜市の狸

  一

  栫井の黒い翼が広がると、神域の淡い月光を受けてきらめいた。それを見るたびに篤は羽毛の艶やかさに目を奪われる。膨らんだ肩や、盛り上がった胸はうっすらと光沢を帯びている。広げた翼がゆっくりと空気をあおぐと、篤のシャツに風を孕ませて通り過ぎていった。

  「だいぶ慣れてきた」

  と[[rb:栫井 > かこい]]が言う。

  明るさに乏しい神域では、栫井の顔はまさしく鴉そのものだ。上半身裸にグレーのスラックスという奇妙な出で立ちも、もうすっかり馴染んでいる。

  「みたいですね」

  「動かすだけなら何とかなるんだがなあ」

  言いながら、彼は羽ばたきに合わせて、爪先の力だけで飛ぶ。垂直飛びよりもはるかに高く、篤の身長ほどまで飛び上がる。数度ほど羽ばたくが、翼が上手く空気を捕えられず、均衡を失って栫井の大柄な体が落ちる。

  下手に傾いて落ちたせいで、栫井はうまく受身を取ることができない。うお、と栫井が声を漏らし、篤は反射的に目をつぶってしまう。

  瞼を開けると、尻餅をついた格好で、栫井は地面に手をついていた。

  「先生、大丈夫ですか」

  「手をひねった。……まだ飛べないな」

  「でも始めたときよりは、すごくよくなった気がします」

  篤は栫井の隣に腰を下ろした。草が薄く生えているので、衣服が汚れる心配はない。篤の言葉は一応本当だったが、栫井はバツが悪そうにため息をついた。

  つい最近鴉天狗になったばかりの栫井は、できたばかりの翼に振り回されていた。六十年以上なかった器官なのだ、まず動かすところから始めなくてはならない。古びて固定した身体の意識は、未経験の器官に混乱し続きで、翼を広げようとすれば足が開き、羽ばたこうとすれば両腕を広げるありさまだったのだ。

  この練習を指示したのは老竜だ。

  「飛べなくても問題はないでしょう。この年になって……」

  と、栫井は飛行訓練を拒んだが、老竜はがらがら笑って、

  「白日夢め、自分が人の因果にいないことを理解していないな?」

  「……と言いますと」

  「肉として生きていないだろう。最低限自分の身体を自分のものとして扱えるようになっておかないと、夢が覚めてしまう」

  栫井の実体はフィールドワーク中に鴉天狗の羽を拾ったために奈良の山中で死んでおり、遺体は神域で保管されている。今の栫井は鴉天狗というよりは、その形を借りた霊——竜神は白日夢と呼ぶが——に近い。翼に通る神経も生物的な神経ではなく、栫井自身のイメージする自分の肉体という意味合いが強い。

  「篤から力をもらっておいて、翼が自分の身体だと思えなかったから死にます、は認めんぞ。間男としての責務くらい全うしてもらいたいものだな」

  ということだった。

  飛べるかどうかはともかくとしても、翼が自身の感覚に溶け込んでいなければ、遅かれ早かれ夢は覚めて、栫井が消滅する。絶えず翼を意識すること、それがおそらく寛容だった。

  それ以来、栫井は仕事を終えてから、神域で飛行訓練を行っていた。鴉天狗と竜では飛行の仕組みが異なるからと、老竜には飛行の教導を断られたので、篤と栫井の二人で手探りの訓練である。篤にとっても、栫井の延命は自分が言い出しっぺであるし、定期的に神域の外を見て回ることができたので何か言うこともなかった。

  「まあ、……今日はこのくらいにしておくか」

  伸びをするようにはためいた翼が起こす微風に、篤は目を細める。梅雨が近くなって、蒸し暑さか気圧か、篤はいつも汗ばんでいたから、些細な風でも心地よかった。しかし、栫井が身体を反転させるようにして、篤にまたがった。瞳がぎらりとしたものを覗かせる。

  「さあ、俺の飯といこうか」

  確固とした肉の身体を持たない栫井は、別の手法で存在しなければならない。そしてそれは篤の体液によって行われていた。というか情事だった。老竜がたまに栫井を「間男」と呼ぶのはこれだ。ラノベに出てくるサキュバスみたいだ、と篤は思った。思うだけに留めた。

  硬くざらついた嘴に手を乗せて優しく撫でると、少しだけひんやりとしていて心地良い。鴉の丸い瞳がまばたきをする。

  「くすぐったいですか」

  「いいや」

  栫井が笑った。嘴だと表情に幅がないから、ただ見ているだけだとよく分からないが、彼の声にはいつも感情が読み取りやすいように乗せられていた。たぶん篤への気遣いだった。

  嘴が篤の頬に触れる。硬質で冷たい感じが、篤は好きだった。鋭角な先端は頬の滑らかな輪郭をなぞりながら、唇に触れる。

  ついばむような口づけを受ける。嘴の先を受け入れると、頬をくわえるように大きく開いて、奥の舌に粘膜を舐められた。

  「ん……」

  栫井の舌も、やはり冷たい。彼の粘膜の冷たさに触れる度に、篤は彼が死者であることを実感する。しかしそれは興奮の阻害にはならなかった。篤にとって生者の人間よりずっとうまく欲望が働いた。

  ズボンの下の勃起に、栫井が気付いて、膝でぐりぐりと刺激される。

  「っあ……!」

  「へへ、やっぱ若いよなあ……」

  言いながら、栫井は手際よく篤のベルトを外し、ズボンを下ろす。

  剥き出しになった勃起が神域の風にさらされて、ひくひくと震えた。

  興奮で赤らんだまま、篤はうなずく、栫井への了承だった。

  栫井は篤の額に、こつりと口づけをすると、自分のスラックスのジッパーを下ろした。

  指でくぱぁ……と羽毛をかき分けて秘孔を見せつけられる。肉色の柔らかそうな穴が湿り気を帯びてくにくにと蠢動している。

  雄溝で蒸れた羽毛の匂いが篤の鼻孔をくすぐる。篤は割れ目に口を付けたくなる。しかし栫井はにやりとした瞳でゆっくりと腰を下ろした。

  くにゅう……。

  柔らかな肉が、優しくまとわりつくようにして篤の雄を飲み込んでいく。

  「うううっ……」

  栫井の尻が、篤の下腹に触れる。スラックスの生地越しに、羽毛の柔らかな弾力があった。栫井が気持ちよさそうに目を細めて背中を震わせた。翼がゆらゆら揺れた。

  「ん……ほら、全部入ったぞ」

  ジッパーの隙間から見える雄膣に、篤の肉棒がぴったりと収まっている。まるで念入りな愛撫を済ませたみたいに、栫井の体内はねっとりと潤っていて、亀頭からカリの根元まで絡みついてくる。

  鱗に覆われ、黒雲母のような鉤爪が生えた、手の平が差し出された。握る。痛めているだろう方の手は、前腕を掴んだ。手首よりはましだろう。

  「爪、痛くないか?」

  「は……はい」

  「よしよし」

  立場が逆だ、と思いながら、篤は主導権を取れない。本来は挿れている側が聞くものではないのか? そもそも相手は還暦を越えているので、取り合いができるはずもないのだが。

  手の皮膚を破かないように優しく握り返されて、尻がグラインドされる。円を描くように揺さぶられて、栫井の胎内の雄棒が柔らかな肉をかき分ける。まとわりつくような柔らかさが、亀頭や雁首をくにくにとくすぐる。

  ずっちゅ、ずっちゅ、ずっちゅ……。

  「あっあっ……」

  予期しない刺激に声が漏れる。

  にちゃにちゃと淫液に濡れた肉の中で、篤の雄が震える。

  「ん……、ほら篤、俺の中でビクビクしてるぜ?」

  「うううっ」

  「好きな時に出していいからなあ……」

  からかうような、可愛がるような、熱っぽい栫井の声。

  彼は篤と握った両手を軸にして腰を振る。栫井の豊満な尻と、骨ばった篤の下腹が、淫らな餅つきのように相打って、粘った音が響く。

  ぱちゅん、ぱちゅん、ぱちゅん……。

  張り詰めた篤自身が、陰門にしごかれる。栫井が腰を上げると名残惜しそうに肉がくにゅくにゅと吸い付いて、腰を下ろすと柔らかく包み込む。歓喜に包まれているような快感だった。

  「お、腰が動いてるぞお?」

  「せ、先生……」

  「こら」

  栫井の嘴が篤の唇をつついた。

  「今は先生はやめなさい」

  「む……」

  栫井の表情が、読めない。声に乗せてくれていた感情が、今は控えられて欲情の睦言に聞こえる。

  「っか、栫井さん……」

  ちょっと照れた。

  照れた瞬間、張り詰めていた糸が緩んでしまう。まずい、と思ったが、もう手遅れだった。

  「やば……っ、す、すみません……!」

  腰が下ろされて、急速に奥に導かれる。栫井の胎内で篤は、ずっと早く絶頂に至ってしまう。肉に柔らかく包まれたまま篤の男根は脈動し、震える度に精液を吐き出す。

  雄膣に吐き出される精液の熱さか、男根の収縮か、射精の間隔に合わせて栫井が声を漏らす。

  「あ、ああ……っ、んん……っ!」

  その度に精を取り込もうと肉孔が貪欲に蠕動して、篤の肉棒を扱き上げる。

  栫井の翼が広がる。羽ばたく直前のように翼が高く張っている。栫井は篤の唇をついばんだ。篤は、自分の精が流れて、血液のように栫井の身体を巡っていくのが見えるような気がする。でも見えない。きっともう少し目を凝らせば見えた。

  きい。

  と高い鳴き声がした。

  そして栫井の肩越し、茂みの陰で一対の瞳が光っていた。[newpage]

  二

  「いやあ先ほどは失礼をいたしました。まさか竜神様の奥方様と……ええと? 使い魔の……」

  「ちょ、ちょっと待ってください」

  篤は大柄な狸の言葉を止めた。彼の前には酒が注がれた篤と栫井は、情事を見ていたらしい老年の狸に誘われるまま、神域に点在する社のうちの一つに通されたのだった。座敷で彼がぽんぽんと手を鳴らすだけで、着物を纏った狸がやってきて、栫井の手首を手当てしてしまったのだ。

  「あの、僕は竜神様とはまだ……」

  「いえいえ、謙遜はおよし下さい。つい先日、竜神様が喜んでいらっしゃったでしょう。それにあなた様からは竜神様の匂いがぷんぷんいたします」

  「う、それはそうなんですが……」

  「それに、奥方様は鴉天狗とも親しいとみえる。使い魔でしょうが、先程は不躾に覗いてしまって、申し訳ございません」

  しわがれてはいるが、気の良さそうな声。喋り仕事の好々爺という印象だ。座布団に深く座り、脇息にどっかりと身体を預けると、太い指で絡めるように持った煙管を吸って、煙を吐く。

  でっぷりとした身体もあって大名や商家の主のような貫禄があった。きらびやかな着物や、丁寧な彫刻の施された煙管をみると相当な権力者のようだ。

  「鴉天狗のような大きなものを従える人間は、今はなかなかおりません。竜神様も嬉しくお思いでしょう」

  しみじみと言う。

  栫井が、

  「話を合わせた方がいい。とりあえず礼を言って、社に戻ろう」

  と耳打ちする。篤はうなずく。本当は栫井に場を任せてしまいたかったが、狸は絶えず篤に視線を寄こすので、自分が話すしかなかった。

  「手当をして下さってありがとうございます。ええと……」

  「[[rb:刑部 > ぎょうぶ]]」

  名に詰まると、そう狸が名乗った。牙の隙間から紫煙が流れた。

  「この夜市の主はそう名乗る習わしなんです。些か名が勝ちすぎておりますがね」

  刑部。

  狸の群れを率いる大妖怪の名前だった。

  「ほら、色々怪しげなものを売っていますでしょう。[[rb:商人狸 > あきんどたぬき]]はね、色んな所で市をやるんです。行商や、狩りや、何やらで手に入れた品をこの夜市で売るんですよ」

  刑部が篤から視線を外し、開け放たれた扉に向ける。篤もそれにつられる。社の前では確かに市場の活気があった。

  彼らはそれぞれに店を営んでいるようで、様々なものを売っている。きらびやかな宝石類や装飾品を売っている店もあれば、干した果物や魚や動物の肉、それに視神経らしきものが付いたままの何かの眼球、歯肉のこびり付いた歯などおかしげなもの。篤たちに興味を見せる者はほとんどおらず、一瞥した程度ですぐに各々の商談に戻っていく。

  「他の神域にも市場はあります。行商する狸もいれば、ここで店をやって色んな相手に商売をする奴もおりますが、ここ一帯での商売は私が仕切らせてもらってます」

  「へえ、商売ってことは……通貨があるんですね」

  好奇心が勝って口が滑った。

  馬鹿野郎、という感じで咎めるように栫井は篤を睨んだ。知ってか知らずか、刑部はにこにこと答える。

  「ええ。何でもできますよ。物々交換でも、銭でも。店によっては人間向けにクレジットも使えます。たまに迷い込むものもいますからね。奥方様も気に入ったものがありましたら、お買い上げください」

  平然と言うものだから、冗談なのか本気なのかは分からなかった。しかし、着物の狸がクレジットカードの端末を差し出しているところを想像して篤は笑った。

  「もちろん魂でも使えますがね——ああ、鴉天狗殿の手当てのお代は結構です。私からのお近づきのしるしに」

  「恐れ入ります」

  篤は軽く頭を下げた。このような場の経験などない。もしかしたらここの振る舞いが悪ければなにか竜神に迷惑がかかるんじゃないか、という気さえしている。情事を見られているので好印象も何もあったものではないのだが。

  「しかし奥方様はきちんとしていらっしゃる。私にもね、息子が一人いるんですが、家出してしまいまして。片親だからか、なかなかうまくいかずお恥ずかしい……。ま、私のことはどうでもよろしい」

  話を切って、刑部は両手で酒を示した。黒い肉球がぷっくりとした手の平である。

  「袖すり合うも他生の縁と人間たちは仰います。ここで出会いましたのも、なにかの縁でしょう。さ、よろしければどうぞ」

  横に倒した三日月のような微笑で刑部は言う。

  示された酒はいい匂いをしていた。まるで花や桃のような、馥郁とした匂いだ。杯を覗き込むと、水面の自分と目が合う。

  栫井が、飲むな、という目で見る。それは確かにそうだ。しかしここまでよくしてもらって飲まないのも、失礼に当たるかもしれない。栫井の手当てだってしてもらったし、市場を開いているなら、竜神とも関わりがあるのだろうし。

  この先も竜神様と一緒にいたいなら、ここは、と篤は杯を持った。

  低い声が轟いた。

  「飲むな」

  老竜の声だった。

  途端に、激しい風が吹いた。

  座敷の三人が暴風に巻かれ、食器が揺れて軽い音を立てた。篤が眼鏡を押さえた。

  そして彼らが目を開けたとき、篤たち二人を囲むように、老竜が現れていた。苔色の蛇体越しに、市場を片付ける狸たちが見えた。

  「これはこれは竜神様」

  立ち上がった刑部は人好きのする笑みを鎧う。唇の端から煙が漏れている。

  「ちょうど、そこで奥方様にお会いしまして。酒を振る舞っておりました」

  老竜も、にやりと笑みを返した。彼の短い手には、篤の持っていた酒器があった。

  「おう。私の端と使いが世話になったようだな。だが、これは人間には強すぎる。私がいただこう」

  酒器はひとりでに浮かび、老竜の口元へ滑るように動いていく。そして唇の隙間からとろとろと酒が流れていった。

  「甘露」

  と、飲み干した老竜は赤く鮮やかな舌で唇を舐めた。ちろりちろりと熾火のように揺れる舌があまりにも艶めかしくて、篤は慌てて目を逸らした。

  「商人狸とはいえ、お前の強欲もここまで来れば愛しいものだなあ、刑部」

  「な、……何のことやら」

  「本当はお前も言い逃れなどできないことを分かっている。しかし自分では白状しないところが、私はたまらなく気に入っているんだ」

  老竜が笑う。篤の背筋が寒くなるほど獰猛な笑みだった。

  「さあ刑部、お前の流儀に乗ってやろう。商人狸のお前は、竜の宝に手を出した罪を何で贖うつもりかね」

  声は変わらず穏やかなままだが、老竜の瞳には蒼い稲妻が走っている。その厳しい閃光と相対しながら、刑部は視線を外さない。

  「治療を」

  「ふむ?」

  「奥方の使いの治療をいたしました」

  じろりと老竜が瞳を二人に向けた。奥方の使い——栫井の手首には包帯が巻かれている。彼の鼻孔が収縮する。

  「[[rb:山梔子 > くちなし]]か」

  「はい。見たところ外傷もありませんでしたので、水で冷やし、山梔子などを練った軟膏を塗布いたしました」

  「なるほどな。……なら背の君、お前はどうしたい?」

  「え、僕ですか?」

  「お前の使い魔の治療に免じて、この男を許す気はあるか。治療は適切なようだが」

  「それはもちろん……治療してもらいましたし、その、僕としては許すもなにも、という気持ちです」

  老竜は、怖ろしく呆れた目をした。睫毛が伏せられ、瞳の稲光が消え、夜空のように落ち着いた黒色に戻る。まったくこの馬鹿者は、と呟いた。

  「おい白日夢、お前こいつの師だろう。学び舎で何を教えているんだ? 今の人間はみんなこれか?」

  「いえ……彼はちょっと、浮世離れしています。一応、懐が広いのは美徳という教育はありますが」

  「あのう、僕ってそんなズレてますか……?」

  栫井が苦笑した。老竜は、お前はそれでいいんだ、と言って、柔らかな尾の先で篤の頭を撫でた。

  「おい刑部、お前はもういい。私の背の君によくよく感謝するんだな」

  刑部は慇懃に頭を下げた。

  「ありがとうございます、竜神様、奥方様。今後ともよしなに」

  そして煙管を一吸いして、紫煙を吐き出した。

  もうもうと立ちこめる紫の煙は、空気に溶けることなく、刑部の足元にわだかまっていく。濃い煙に、刑部は足を乗せると、煙は分厚い布団のように、彼の体重を受け止める。そのまま、気が変わってはたまらないという風に彼はするりと出入口に滑っていくが、

  「そんなに逃げるように行ってくれるな」

  「はっ?」

  かちん、と老竜が歯を鳴らすと、煙が動きを止める。硬直した紫煙の上で刑部がつんのめって膝をついた。豊かな腹が揺れた。

  「なっ……、竜神様?」

  「ちょうどいい。そのままでいろ」

  片膝をついて、こちらに尻を向けたまま、刑部の動きが止まる。身体を起こそうとしているようだが、かすかに身じろぎをするくらいだ。多分篤が老竜に乗るときの神通力の、より強い圧力が働いているのだろう。

  「りゅ、竜神様、いくら私が悪かったっていってもこれは……」

  「背の君」

  老竜が無視して篤を呼ぶ。

  「尾の先から、一本毛を抜いてくれるか」

  「? 分かりました」

  篤は、自分の頭に置かれていた老竜の尾を両手で持ち上げて、肩に乗せる。そして雨雲を縒ったような、しっとりとして水の匂いを纏った毛束から、一本だけ選り分けて摘まむ。

  「し、失礼します」

  「うむ」

  老竜に声をかけると、たてがみを指に巻き付けて、引く。強靭なのだろう、途中でちぎれることなく根元から抜けた。抵抗がなくなった瞬間、ざわりとたてがみが逆立つ。やはり多少は痛かったのかも、と篤は落ち着かせるように毛が生えていたところを撫でた。

  「それをあれの尾に巻いてやりなさい」

  「刑部さんですね」

  またぎやすいように、老竜は二人を囲む蛇体の塀を下げる。篤は彼の身体に手をかけて、足が当たらないようにそっと乗り越える。座敷を進んで、紫煙でほとんど四つん這いになっている刑部の下へ行くと、

  「刑部さん、すみません」

  と、声をかけて尻尾の根元にたてがみを結んだ。竜のたてがみはしなやかだが、篤の手には極めて従順になじんだ。

  結び終えて身体を離す直前、篤は刑部の耳にそっと唇を寄せた。

  「使い魔——鴉天狗と何をしてたか、言わないでくださってありがとうございます」

  刑部の三白眼が呆れたようにこちらを睨んだ。

  「別に、言わんでいいことだっただけです」

  「はい」

  篤はうなずいて、老竜のとぐろの中に戻る。老竜が、かちんと再び歯を鳴らすと、刑部はすぐに身体を起こした。

  「釣りだ。竜のたてがみはなんにでも使えるぞう」

  「寛大な御心遣い、感謝いたします!」

  よほど屈辱だったのだろう、叩きつけるように言うと、彼は紫煙に乗って飛び出してしまう。市場も締まって、静寂ばかりである。

  「おい篤」

  「は、はい」

  ぴりぴりとした調子で老竜が言う。

  「[[rb:黄泉戸喫 > よもつへぐい]]くらいは聞いたことあるだろう。知らない相手からものを食べてはならんと教わらなかったか?」

  「し、知ってましたけど……」

  「けど?」

  「刑部さんが竜神様を知ってるみたいだったから、僕が飲まなかったら泥を塗るような気がしたんです」

  「はぁ……馬鹿者め」

  言葉は嘲りだが、響きが不釣り合いなほどに甘い。老竜は柔らかな尾の先で篤の顔をわしゃわしゃとやる。額も鼻も口も豊かな穂先がかいぐった。

  「わぶっ」

  「お前はまだ人の因果にいるんだ。今から別の因果に乗ろうとするんじゃない」

  「……す、すみません」

  「白日夢も白日夢だ。こいつは渡されたものならなんでも食う赤子みたいなもんだろう。お前がちゃんと見てやれ」

  「……彼はもう成人で、……」

  じろり。

  「……申し訳ありません」

  いくら還暦を越えた男でも、老竜にとってもは篤と同じようなもののようで、若者と同じような流れで栫井は叱責されてしまう。彼は不服そうな眼をするが、老竜はどこ吹く風で鼻を鳴らす。

  「ああそうだ、あの酒だがな——篤、口を開けなさい」

  「え、はい……んぐっ!? 熱っつ!?」

  言われるまま口を開けると、間髪入れず老竜は篤の舌に唾液を落とした。清かな川と、ふくよかな花の匂いのする唾液が篤の粘膜に触れた途端、凄まじい熱を放った。そしてすぐに舌から消えた。火傷のようなものもなく、老竜の清浄な香りだけが舌に残っている。老竜がにやにや笑いながら言う。

  「商人狸の製法で作られた酒だ。私の唾液で薄められているからそれくらいで済むが、そのまま飲めばお前の魂ごと焼けてしまっただろうな」

  「な、なんで刑部さん、そんなこと……」

  「大方、生業の薬の材料か、式神にでも使うんだろう。人間は霊的に上質な生物だし、その中でも竜神の加護付きだからな。いくらでも使い道があるものさ、息子が家出したとか言っていたようだしな……」

  今度こそ針金のようなたてがみで篤は強めにかいぐられる。彼の顔に硬い体毛をじゃりじゃりとやりながら、老竜は栫井に目を向けた。

  「白日夢も飲んでみるか」

  「え? 私ですか? いや、けっこうです……」

  「そうか。まあお前は篤より弱いからな、飲まん方がいいだろう」

  老竜に乗って、篤たちは社に飛んでいく。社が見えてくると、珍しく[[rb:朽縄 > くちなわ]]が入り口で待っているのが見えた。狩衣に烏帽子のカナヘビの少年だ。いつもだと神域では別行動をとるのだが。

  くりくりとした黒い瞳が、篤をまっすぐに見ている。

  「ああそうだ、この話は朽縄も知っておるからな」

  「えっ」

  朽縄の前に、老竜がするりと止まる。朽縄が一礼する。

  蛇体から降りた篤に、朽縄はにっこりと笑いかけた。

  「篤様、私の仕事はあなたの護衛なのですが」

  「う……うん」

  「四六時中現世で一緒なのも息が詰まるだろうと、今までは主様が気を利かせてくださっていました。これでしたら、考えを変えないといけないかもしれませんね?」

  「えっと……ごめん」

  「謝るのは、私にじゃないでしょう」

  朽縄は、笑みをしまって言う。

  「あなたがここで死んだら、誰があなたのご両親に謝るんです?」

  「それは……」

  「神域で何かあっても、大抵のことなら大丈夫ですけど、でも、何があっても大丈夫ってことじゃないんです」

  何か次の言葉を続けようとして、朽縄は口を開いた。しかし口を閉じて俯いた。烏帽子が不安定に揺れる。

  狩衣の袖が震えている。いつもなら見えるはずの翡翠色の手が隠れている。きっと袖の中で握り締めているのだ。

  沈黙を埋めるように朽縄は言う。

  「す、……すみません、ちょっと言うだけのつもりだったんです。ほんとに」

  「ごめん、朽縄」

  「ああ……安心したら、もうよく分かんなくなっちゃいました」

  朽縄が俯いたまま、袖で瞳を拭った。背筋に寒気が走る。反射的に篤は背後の大人二人を見た。

  老竜は興味深そうな顔をしている。助言はなく、こちらをじっと眺めている。

  人間の履歴がある栫井は、こっちのことは気にしなくていいからなだめてやれ、という風に黒い手で篤を促すと、老竜に耳打ちして社に戻った。それで老竜も静かに社に戻った。

  「ごめん、朽縄。軽率だったよ」

  二人きりになって、慌てて篤は朽縄に駆け寄って肩を優しく掴んだ。朽縄の肩は小刻みに震えていて、狩衣の分厚い生地があるにも関わらず、年端もかない少年のように薄かった。抱き締めるのに躊躇するほど薄く骨ばっていた。

  「使い魔って泣けるんですね」

  と朽縄は驚いたように言って、顔を上げた。瞳が濡れている。瞬膜がぱちりと瞳を流れて、涙を落とした。

  「私、篤様に情が沸いたみたいです」

  「情?」

  「ええ。主様が助けに行ったとき、すごく心配でした。それで、もし何かあったらって考えたら、すごく怖くていてもたってもいられなくて……」

  大きな瞳から、また滴が落ちた。朽縄はため息をついた。

  「篤様」

  朽縄は玩具のように小さな手を伸ばして、篤の指を柔らかく掴んだ。指を口元に引き寄せる。

  ちゅ。

  であった。

  口付けの直後に、指がくわえられる。牙列の向こうにある冷たい粘膜に包まれた瞬間、かりっとした感じがあった。そして朽縄の舌が指に絡みつき、扱くようにして指が抜かれる。

  根元には、噛み痕がしっかりと残っている。

  「血を頂きました」

  朽縄の瞳に、うっすらと熱いものがよぎった。

  それは多分欲情だった。

  「これで、私には篤様の場所が分かります。何かあったら、きっと呼んでくださいね。篤様が呼んでくれたら、すぐに助けに向かいますから」

  主と似て、炎を思わせる舌で、朽縄は恥ずかしそうに唇の端の唾液を舐めた。

  それはとてつもなく愛らしくて艶めかしくて、篤の頬が赤くなった。篤は、朽縄の混じりに溜まった涙の滴を、濡れていない方の指でそっと拭った。[newpage]

  三

  篤の大学生活にはおよそ色彩と呼べるものはない。

  学問に打ち込まなくても単位には困らなかった。アルバイトは最低限の日雇いで、ゲームのデバッグだとかの募集と、行きたいタイミングが重なったときに行けばよかった。だから友人だって作らずに困ることはなかった。

  本当に孤立をすると面倒なことが起きるから、篤は数人の知人を作って生活をやり過ごしていた。篤は無害だったし、会話ができたから知人が一人もできずに苦境に立たされるということはなかった。

  この人間関係の組み方は篤が老竜に面倒を見てもらっていた時期から変わっていない。

  小学校に入る前に、篤の心には秘密の部屋ができた。老竜の語る物語や、雨の匂い、稲妻の閃きのような神秘や怪異を運び込む秘密の部屋だった。それらだけが篤にとって真実であって、それ以外は目の前の生活をやり過ごすための嘘だった。

  だからあらゆる彼の教育課程において、篤に友人はいない。当然ながら恋人もいない。ただ知人だけが多い。しかしクラス替えや卒業で離れれば、翌日には顔を忘れてしまう知人ばかりだ。篤の通う大学に、高校の頃の遊び相手がいても、篤は気付かないだろう。

  それでいい。

  篤は竜神に恋をしていて、秘密の部屋はこれまでにないほど満ち足りていた。これから先、就職活動が始まって、篤は社会人になるだろう。栫井がいる限りは篤は人間のままだから一応はこれが順当な予想だ。でもそれだってこれまでと変わらない。篤は自身の秘密の部屋で息継ぎをしながら、嘘を浮き輪のように抱えて泳ぎ切るのだ。

  そしていつか竜神が自分の魂を受け取ってくれればいい。

  ◇

  栫井の担当する民俗学の講義が、シラバスにない講義内容になった。十五回の講義の予定であるシラバスは、篤の大学ではほとんど形骸化して、あってないようなものだったが、栫井の講義では珍しかった。

  教室は疎らに席が埋まっている。友人を作らない篤は真ん中ほどの席が定位置だった。梅雨が近くなってきて、気圧のせいか季節の変わり目だからか、少し気怠くて、篤は頬杖をついてぼんやりと講義を聞いている。隣の朽縄は篤を見上げている。

  「篤様、少し調子が悪そうですが……」

  「疲れかなあ。最近ちょっと怠いんだよね」

  「梅雨も近いですからね。人の手に余る病もありますし、あまりひどいようでしたら、竜神様に相談してみます」

  「うん、ありがとう」

  朽縄はにっこりと笑う。

  講義が始まると、狩衣の袖を机に広げて、教員然とした栫井の様子を面白そうに眺めて始めた。いつもの印象と異なっていて面白いのだろう。

  教壇の鴉天狗、栫井はいつものスラックスに水色のYシャツという服装だ。シャツには背中の翼を通すための穴が開いている。篤以外の学生には、生前の、長髪をくくって髭を蓄えた大柄の男に見えているはずだ。

  終了時間まで三十分を切ったあたりで、栫井は講義を終わらせて、

  「すみませんが、来週は発表になります。席の近くで四、五人組を作ってください」

  と言った。

  講義室が騒めくが、栫井は数秒ほど沈黙を保って、彼らが静かになるのを待った。

  「……学校祭もありますし、皆さんこの先出席率が下がります。なので、復習を兼ねて、これまでの講義で扱った内容について、皆さんで調べ直して、来週の講義で発表をしてください。テーマ被りは問題ありません。渡したレジュメを軸にしてもいいですし、批判的に捉え直すとかでも構いません」

  周囲の喧騒に反して、篤は別に気にしなかった。座っている席からちらちらを視線を巡らして、たまたま目のあった学生に軽く会釈をする。三人組の一人だ。会釈を返されたので、篤の方から声をかける。

  やや高く、柔らかく、人好きのする感じで。

  「えっと……なんかグループワークになっちゃいましたね」

  「ですねー。そういうのない講義だったのに。よかったら入ります?」

  「え、いいんですか? 助かります~」

  「俺たちも三人だったから、こっちも助かります」

  学生はグループの二人に振り返って、

  「なあ、この人入れていいー? ソロだったんだって」

  二人は特に講義に興味がないのか、スマホをいじりながら口々に、いいよー、と緩く答える。

  「うわー、お邪魔しちゃってすみません。その分僕の方で発表頑張るんで……」

  「そう? 助かるよー。ほら、俺たちサークルとかバイトで忙しくって」

  「はは、ですよねえ。じゃあ基本的に僕の方で勝手に進めちゃう感じでいいですか? 作業時間けっこう取られそうだし」

  「だねー。じゃあさ、来週の発表前にチラッとだけ見せてくれる?」

  「了解です~」

  一丁上がり。

  それぞれに自己紹介を交わすが、篤はよく覚えていない。どうせ名前を呼ぶことなどないのだ。

  とくにすることもなくなるので、三人は帰り支度を始める。連絡先の交換もない。

  サボりたいグループを引いたから、かなり篤の作業の比重が多くなったが、発表の調べ直しと原稿とスライドの準備なら、別に問題はない。調べ直しならほとんど不要だろうし、さっさと班決めを終わらせたかった。

  「いいんですか? 篤さんだけ大変なことやるみたいに……」

  遠慮がちに囁く朽縄に、篤は周りから見えないようにちょっとだけ笑みを浮かべてうなずく。

  どうせ組は作らなくてはならない。四人以上で受けるグループはそうそうないので、端数的に一人の篤が潜り込むことは簡単だ。踏み込みさえすれば、よほどでない限りそれなりに友好的に接してもらえる。入れてもらった礼に、こちらがある程度重めの作業をやるくらいは当然の報酬だった。

  「…………」

  何気なく教壇に目を向けると、栫井がこちらに目を向けて、ため息をついた。

  なんだなんだ。

  波風立てなかったし、スムーズな班決めだったではないか。不満げにされる覚えなどないのだが。

  と。

  「すみませ~ん、あぶれちゃって。五人目って入れられますか?」

  どこか緩い喋り方の学生が篤たちに声をかけた。

  短い髪に、太い眉、垂れ気味の三白眼。肉付きのいい身体を、白いシャツに赤いサルエルパンツのゆったりとした服でバランスよくまとめている。ゆるっとした喋り方から連想される通りの曲線的な見た目だ。

  後ろの三人に目を向けるが、彼らの知り合いでもないようである。

  篤の反応を受けてか、学生はにこやかに名乗った。

  「あ、二年生の歴史学専攻で、[[rb:蘆屋純一 > あしやじゅんいち]]と言います」

  同じ学年のようだ。

  「五人目? うーん、入れても別にいいよね?」

  と先ほどの学生が二人に許可を取るが、変わらず緩い許可が出る。

  純一は破顔した。

  「ありがとうございます。困っていたので」

  言いながら、純一は篤の方に向かってくる。こちらに座るのだろうと朽縄が席を立ったたとき、純一と朽縄の目が合ったように篤には見えた。しかし純一は気に留めずに、一つ開けて、純一は腰を下ろした。篤、朽縄、純一の並びだ。

  「ええと、木田篤さんだ」

  「あ、はい……」

  「自己紹介が聞こえたから……。それで三人は、樋口さん、加山さん、坂本さん、でいいですか?」

  三人はうなずく。

  「この班ってやることってもう決まって……?」

  純一が誰にともなく聞くと、樋口たち三人の視線が篤に向く。

  全部任す、ということだった。

  「ああ、そういう感じ」

  と純一はにっこりと笑う。

  「篤さんがメインで動くってことね。りょーかい。じゃあよろしく」

  分厚い手の平を差し出され、数秒ほどそれを眺めてから握手だ、と思い至った篤は、純一の手を握った。肉の詰まった、皮膚の硬い手だった。[newpage]

  四

  純一は聡明な男だった。図書館の使い方も熟知していたし、話し合いの運び方も理解していた。だからスムーズに発表準備が進んだ。講義の初期に離された地方出土品について、二人は調べ直すことになった。

  とはいうものの、どうせ数分ほどの発表なのだ。実際は復習ではなくコミュニケーション能力の涵養が目的の発表なのだろうし、準備するべきこともほとんどない。

  のはずだったが。

  「ってか俺たちどっちも二年じゃね? 敬語やめない?」

  「敬語ですか?」

  「だってよー、二人で作業してんのに敬語はきついぜ」

  これだ。

  篤の触れたことのないタイプの人種である。もっと遠巻きにされることに慣れすぎていて、速攻で詰めてくる純一に篤は距離を取りかねている。悪意や見下しがないから、むしろやりづらい。

  「にしてもさ、あの三人もどうかと思うぜ。普通あんな堂々とサボるかよ」

  太く丸い指で、かちゃかちゃとパソコンに発表原稿を書きながら、純一が言う。

  大学近くの喫茶店だ。純一の席にはノートパソコンが広げられ、隣には特大サイズのバニラシェイクが汗をかきながら鎮座している。クリーム増量、チョコソース追加、バニラシロップ追加の激甘カスタムを施したそれを、器用に吸いながら純一はぼやいている。

  対面する席に座った篤は、普通サイズのカフェラテを脇に置いて、参考図書と講義の資料を照らし合わせていた。朽縄がいたらバニラシェイクを買ってやったのだが、準備をすることになると距離を取って姿を消している。近くにはいるのだろうけれど。

  「篤も篤だぜ。ああいう奴を放置してると、便利に使われちゃうぞ」

  「便利にって?」

  「こういう課題を押し付けられたりさ」

  「いいよ別に……。困ることじゃないし」

  便利に使ったというなら、むしろそれは篤の方である。

  篤はこれまでの講義で配られた資料にいくつかのチェックを付け、補足事項をかき込んだものを純一に見せる。

  「出典のリスト。これで一応発表は形になると思う」

  「お、助かる! これ借りていい?」

  「来週返してくれるなら」

  「さんきゅー!」

  言って、純一は鞄からファイルを取り出して資料を大事そうにしまうと、パソコンも閉じてしまう。

  「あれ、やめるの?」

  「おいおい、篤くんよ、せっかくの学生生活なんだ、課題に終わりが見えたらやることは一つだろ」

  「次の課題?」

  「馬鹿がよお! 遊びに行くんだよ今から! まず服を買いに行こうぜ、その何でもいいですって感じの服をどうにかしてえ」

  意気揚々と立ち上がって、じょごごご、と純一はバニラシェイクを飲み干した。

  篤が止める間もなく、純一眉を曲げて椅子に戻る。

  そこから五分ほど彼は頭を抱えていた。

  馬鹿だ。

  結局、篤は純一に連れられる形で、学生街の古着屋を巡り、書店に行き、雑貨屋を冷かした。古着屋で純一は何着かを篤に当てて遊び、民族調の服装を好むらしい純一の趣味は篤には合わなかったので何も買わなかった。書店では互いの好きな作家を教えあった。篤は純文学を、純一はサブカル系のマンガを紹介した。純一は、泉鏡花の怪奇幻想の短編に「リアリズムだなこれは」といい加減な感想を真面目な顔で漏らした。雑貨屋の冷やかす頃には、すでに篤は疲れていた。

  「体力がないな」

  と、純一は興味深そうに眺めていた線香立てを棚に戻した。三白眼が篤に向けられるが、威厳とか人相の悪さとかの印象はほとんどない。馴れ馴れしい知人、という感じだ。

  「普段こんなに遊ばないんだよ」

  「わはは、せっかくの大学生活なんだから、遊ぶ体力がないのはもったいないぜ?」

  挑発的に口の端を釣り上げて笑う純一だが、篤の顔色を見て、そろそろ帰るか、と言った。外の蒸し暑さと店のエアコンの冷気を交互に浴びて、篤の顔に疲れが表れている。

  別れ際、純一は、次は和装の店に行くか、と言った。

  まだ遊び足りないらしい。

  だから口約束をした。守られないことを二人とも分かっている、また今度、の約束だった。

  でも気楽な約束を口の中で転がしてみると、悪くなかった。

  「篤様、お疲れのところすみません」

  家までの道を歩いていると、朽縄がふわりと現れる。日暮れの浅い影が朽縄の鱗に紫色を重ねている。

  さりげなく手を寄せると、小さな手が自然に篤の指を握った。

  「ごめん、今日はずっと退屈させちゃったね」

  「いえ、それは構わないのですが……」

  朽縄は何かを思い出すみたいに目を閉じて、空気をちろりと舐めた。

  「あの方、私が見えていますね」

  「やっぱりそう思う?」

  うなずく。

  「それと、狸の匂いがしました」

  きい。

  という狸の甲高い鳴き声を篤は思い出した。[newpage]

  五

  発表は悪くない出来だった。しかし、教授からのレスポンスになると、栫井が厳しい目をした。

  「よく纏まっています。とくに講義で省略した論考を抑さえているのは見事ですね。よく調べていると思います。それで質問ですが、役割分担はどのようにされましたか?」

  「役割分担?」

  スライドの映像が照射されているスクリーンの脇に、篤、純一、三人の順で並んで発表をしていた。役割分担、と聞き返すとき、三人は篤と純一を見た。

  嘘が走る。眉一つ動かさず、表情は欠片も揺れずに篤はマイクを右手に持ち換えて、教壇ではなく教室の最前列に座る栫井に向き直った。

  「基本的な資料集めは三人——」

  純一が名前を耳打ちする。ありがとう、との意味で笑いかける。

  「樋口さん、加山さん、坂本さんにやっていただきました。図書館の使い方はもう純一さんは慣れていたので、集めてもらった資料からスライドと原稿を作ってもらいました。それで、発表のメインは僕ですね」

  もちろんすべて出まかせだ。資料集めも発表準備も、篤と純一だけで終わらせている。原稿を直前に見せてはいたものの、三人に踏み込んだ質問が来たらボロが出るだろう。だが栫井は三人の顔を舐めるように見て、うなずいた。

  「……分かりました。発表、お疲れ様でした」

  五人が壇上から降りて、発表が流れていく。

  含みのある調子の栫井だったが、乗り切ったらしい。

  講義後、三人のうちの一人が篤に声をかけた。

  「質疑のとき、ありがとな」

  「いや、そんな大したことじゃないですよー。深く突っ込まれたら終わってましたけど……」

  「はは、違いないや。でも助かったよ」

  残りの二人も軽く礼を言って、教室から出ていく。それを見送ると、篤の隣に座っている純一は、仏頂面で聞いた。

  「お前さあ、あれはどういう気持ちなわけ?」

  「気持ちって?」

  純一は硬い髪をがしがしやって、呆れた顔をする。

  「あいつらを守ってやらなくたっていいだろ」

  「でも班に入れてくれたし……」

  「そんなの別に感謝する話じゃない。先生だって、みんなの前で言うわけにもいかないから収めてただけだぜ」

  「収めてくれたならいいだろ」

  篤が抗弁していると、上から影がかかった。

  栫井だ。

  「やっぱり作業は二人だけでやったんだな」

  「せ、……先生」

  「こんちわーっす」

  純一の馴れ馴れしい挨拶に、栫井は、はいこんにちは、と生真面目に返す。軽い会釈をすると、背中の黒い翼が揺れた。

  「釘を刺す程度のつもりだったんだけど。木田さんがあれだけ庇うとは意外だった。友達だったのかな」

  「いえ……」

  特に理由はない。

  鴉を助けるだとか、老竜の面子を潰さないように酒を飲むとか、そういう動機は今回はない。

  先ほどまでの抗弁の、班に入れてくれたから、というのが実情だ。

  強いて言えば、あのような場で人に恥をかかせると、あとあと面倒なことになることが多いというのもある。

  まとめてしまうと、面倒だからだ。

  だから嘘をついた。

  栫井が夢を見ているように、篤は嘘をつき続けている。口を開けば嘘ばかりだ。それで生活は成り立っている。

  「でも木田さん、蘆屋さんの言う通り、班に入れてくれたということで、そこまで感謝しなくてもいいんじゃないか? フェアじゃないだろう」

  「それはそうなんですけど……」

  篤は歯切れ悪く返す。

  フェアじゃないのはこっちなのだ。

  こっちはあの三人の顔も覚えていないのだ。

  純一が篤の脇腹を小突いた。

  「ほら言ったろ、便利に使われるぞーって」

  栫井がおそらく表情を緩めた。

  「お、蘆屋さんが先に言ってくれていたのかな」

  「いやあ、仲良くしてくれまして……」

  混ぜっ返して、雰囲気が切り替わった。純一の気遣いだろう。

  栫井が思い出したように話題を変える。

  「そうだ。釘刺しがメインになったけど、調べ物はうまくできていた。発表は文句なしだったよ。課題が簡単すぎたかな」

  そう言って、栫井は軽く手を振って教室を出た。

  ◇

  がん、と純一は空のジョッキを叩きつけるように机に置いた。店内は喧騒が満ちていて、激しい音はまぎれて目立たない。

  体質のせいか、もう彼の顔は赤くなっている。

  「ほん……っとにあり得ねえからな、あいつら! 馬鹿にしやがって——馬鹿にしやがって! 質疑のとき助かったよ、じゃねーっつーの! クソガキどもが調子に乗りやがって! すみません、ビールお願いします! 篤は?」

  「……ビール、二つで」

  通り過ぎる店員が、はいよっ、と威勢よく返し、すぐになみなみと注がれたジョッキが置かれた。

  居酒屋の片隅である。

  あの後、二人とも講義がないので、発表の打ち上げということになったのだ。

  大学近くの、酒の飲み方を覚える前の学生が主な客層なので、店はいつも騒がしい。だから純一が管を巻いていても誰も気にも留めない。

  というか自分と同年代の相手をクソガキ呼ばわりはいいのか? 設定がブレていないか?

  朽縄は純一について、

  ——「狸の匂いがします」

  と言った。

  ——「商人狸なのか、他の群れなのかは分かりません。よほど丁寧に気配を消しているので、もしかしたら群れに居づらいのかも……。ただ、悪意みたいなものは感じられません」

  警戒対象ではあるが、とりあえずは様子見、ということになったのだ。

  だから今も、朽縄は篤の隣に座っている。純一は朽縄がいない、という体を守っているが、酔いが深まってくると、ちらちらと視線が向くようになっている。それをごまかすためか酒量は増えて、声も大きくなる。朽縄は朽縄でつまみを食べるわけにもいかないので、終始落ち着かなさそうにしている。メニューの黒蜜きな粉アイスに視線が釘づけだ。もしかしたらただ食べたいだけかもしれない。

  奇妙な感じに耐えられず、篤は全部言いたくなってくる。もう諦めてアイスを注文してしまおうか。どうせ見えているのだろう。トリックの割れた手品を続けるマジシャンの気分はきっとこういう気持ちだ。

  「あームカつくぜ、だいたい栫井先生も栫井先生だ。優しくしやがって! ガツンと言ってくれよ先生ならよう。ってか辛いのいける? たこわさ頼んでいい?」

  「もう好きにしろよ……」

  たこわさ、唐揚げ、ポテトフライと立て続けに純一は頼む。

  「なんでそんなに怒ってんの?」

  「当然だろ、あいつらはもらいすぎだし、お前は払いすぎだ。こんなのまともな取引じゃねえよ」

  純一はジョッキを干す。

  ペースが速い。

  感情豊かな三白眼は、酔いで重たくなっている。しかし篤もそれなりに酔いが回っているので、気にならない。

  「一応聞くんだけど、あの三人のうち誰かに惚れてるってわけじゃないんだよな?」

  「なんでそういう方向にいくかなあ……」

  興味がない。

  ジョッキを傾ける。

  同年代の相手——本当にそうかはともかくとしても——と飲む機会は篤にはほとんどない。父親の晩酌に付き合うこともあるが、他は老竜しかいない。砕けた調子で酒を飲むのは、篤としても、楽しくないわけではなかった。だからまだ不快にならなかった。

  「あんまりそういうの、興味がないんだよ」

  「ふうん……、じゃあ栫井先生は?」

  「っぐっ」

  むせた。

  激しく咳き込みながら、ジョッキをテーブルに置く。

  「な、なにを」

  「だって妙に親しいっぽいし……。ああいうのがタイプなのか?」

  朽縄がジト目で篤を見ている。

  視線が痛い……!

  純一は栫井をどっちで見ているのだろう、生前はどうとも思っていなかったが、鴉天狗の姿がタイプかどうかと言えば、欲望は確かに今のほうがうまく働く。しかしタイプと言うなら、何よりも誰よりも老竜だ。苔色の鱗のくすんだ質感、古木の匂いに稲光と激しい雨に、篤は強く心を動かされる。

  「まあ、かっこいいよな、栫井先生。うん。でもなんでそんなこと聞きたいわけ?」

  違うと言えばじゃあ誰、になるし、そうだよ、と答えるわけにもいかない。結局、分かりやすく話を逸らすことにした。

  「なんでって、いいだろ自由恋愛。恋は近代的人間の魂だろ」

  「……ま、そうかもしれないね」

  やってきた唐揚げをつまむ。歯が硬い衣を破り、熱い肉汁が舌を伝った。咀嚼で沈黙を埋めた。

  今でこそ老竜との恋が本物になっているものの、実際は虚構として成長の過程で捨てるべきものだったのだ。

  朽縄が隣にいて、老竜と会えることがどれほど歪であるか、篤はよく分かっている。篤は、これまで老竜に恋をしたかもしれない多くの幼児と同じように忘れるべきだった。でも忘れなかった。それがまず最初の歪だ。それでも篤は老竜に再会せず、したがって誰にも恋をせず、セックスせず、稲妻で自慰をして暮らすべきだった。稲妻で自慰をすることだって歪だ。一人で生きて一人で死ぬべきだった。

  でもそうならなかったし、篤は恋をしている。

  恋愛ほど不自由なものはない。恋は人間の魂というのは嘘だ。篤がついてきた嘘と同じだ。恋は魂の檻だ。精神も身体も恋は強力に統制を敷く。その引力から逃れることは困難だ。誰かを好きになるよりも、誰も好きにならない方がずっと自由だったに違いない。

  でもそれを話したところで、純一が理解できるかどうかの判断はできなかった。この秘密の部屋をもし誰かに踏み荒らされたら立ち直れないということくらいは、篤の酩酊した頭でも想像がついた。

  同じように、篤が純一に何か言えば、もしかしたら純一の秘密の部屋のような場所に踏み入れかねない気がした。それも怖ろしかった。

  篤は話を流した。純一も踏み込みすぎたと思ったのか、すぐに別の話に変えた。[newpage]

  六

  酔った純一の身体は重かった。

  自分の限界も分かっていないのか、篤が酒をやめても時間の限り飲み続け、結局一人で歩けなくなったのだ。

  家は大学の近くだと言うので、肩を貸して歩く。

  純一の太い腕が首にかけられ、胸の肉が胴に当たる。酒で上がっている体温。朽縄が反対側の肩を持とうとしたが、体格が合わなかったので、彼は心配そうに歩いている。

  「飲んだ、飲みすぎた、気持ち悪い……。俺は馬鹿だ、愚か者だ……」

  「はいはい、あんたは馬鹿で愚か者だよ。吐くなよ」

  「……フリ?」

  「置いて帰る」

  「あ~、ごめんごめん、無理無理無理」

  純一の千鳥足を矯正するように歩く。

  言葉の滑舌はむにゃむにゃとして曖昧で、今にも眠ってしまいそうだ。

  「んああ……、そこ右」

  「右ね……」

  彼の家は近く、と言うが下宿や学生向けの賃貸がある区画を通り過ぎて、人通りが少なくなる。

  住宅街からも離れてきている。もともと賃貸に住んでいるとも思っていなかったが、道案内はあっているのだろうか。そもそも家に住んでいるのか?

  「なんか、警戒してたけど、普通の飲み会って感じだったな」

  「そうですね……。何か狙いがあると思っていたのですが」

  「飲み会だよお、これ。お前と飲んでみたかったんだ」

  朽縄に話しかけたのだが、純一もゆらゆらしながら答えてくれる。どちらでも支障はないが、朽縄が手で会話の主導権を渡してくれる。

  「僕と? なんか話があったのか?」

  雑談しかしていない。

  「恋だよ。恋の話をしたかったんだ」

  「…………」

  「大学でお前を見たとき、もうビビっと来たんだぜ。竜の匂いがして、カナヘビくんの使い魔も連れている。鴉天狗——栫井先生の匂いだって濃い。だから話を聞きたかったんだあ」

  「あ、そこまで分かってたんだ……」

  としか言えなかった。

  「まどろっこしいことやってごめんな。カナヘビくんはすげえ警戒してたから、俺もどう明かしたもんか分からなくて……」

  「朽縄」

  「え?」

  「朽縄という名前なんだ。僕の護衛をしてくれている」

  水を向けられた朽縄は、慌てた顔で頭を下げた。

  「あ、えっと、すみません、ずっと警戒してて……。朽縄と申します」

  「うん、こちらこそ騒がして悪かった。聞いてると思うけど、蘆屋純一です。よろしく」

  握手でもするかと思ったが、純一はそれどころではないようだ。

  そのまま、右に左に曲がりながら、川沿いの道に着く。川下からはうっすらと潮の匂いが流れてくる。ビジネス街と住宅街の中間で、篤側は住宅街、対岸にはビジネス街のビル群が見える。

  きい。

  高い声が聞こえた。

  「狸だ」

  と純一が呟いた。

  きい。

  きい。

  きい。

  狸の群れが道の先から走ってきて、鳴きながら通り過ぎる。

  彼は篤から腕を離し、川に沿って建てられた柵に寄りかかった。空を仰ぐみたいに背を反らして、純一は大きく息をついた。金属製の柵が危うく軋んだ。

  「ここまででいい……今日はありがとう」

  「本当に大丈夫? きつそうだけど」

  「うん。すぐ動けるようになるから」

  しかし酔っ払いを置いて帰るというのも気が引けた。

  「なんか水とか買ってこようか?」

  聞くと、純一は首を振った。

  よほど気持ち悪いのかもしれない。

  「いい。もう来たから」

  「来たって?」

  聞き返すと、

  「探したぞ、[[rb:青猯 > あおまみ]]」

  しわがれた老爺の声だ。

  川沿いの道に、着物姿の狸が立っている。

  煙がもうもうと地を這っている。

  狸は地面に広がる煙の上に立っている。

  刑部。

  商人狸の元締めだ。

  「おや、奥方様ではないですか。先日はどうも」

  朽縄が、篤の前に出る。警戒を気にした風もなく、刑部は煙管から唇を離し、にっこりと笑って頭を下げた。

  「うちのドラ息子の面倒を見てもらったようで、どうも。何か失礼などありませんでしたか?」

  「いえ、……仲良くしていただいております」

  「これはこれは。人の真似事にかまけた愚息ではありますが、今後とも仲良くしてやってください」

  純一は酩酊した身体を塀にひっかけるように立ったままだ。

  「お、親父……どうしてここに」

  「どうして? こっちは毎日毎日探し回っていたんだぞ。商人だけじゃない、狸たちまで総動員したんだ。まったく、皆に迷惑をかけて……」

  「た、狸たちに頼んだのは親父じゃないか」

  「お前が、家出なんかするからだろう。いい加減諦めたらどうだね」

  「俺は帰らない」

  純一が叫んだ。

  右手が複雑な形に組まれ、煙が弾ける。

  きい。

  「っくそ——やっぱ人間より、こっちの方が酒に強いな」

  煙が晴れる。

  そこには白いシャツに民族調のサルエルパンツを穿いた狸が立っている。

  言葉にはもう酩酊の気配はない。突き出た腹も、太い腕も、三白眼も変わらない。ただ口吻が伸びて、焦げ茶の獣毛が全身を覆っている。

  若者の狸だ。

  老いた狸——刑部が嘲笑する。

  「ふん、困ったら狸に戻るか。それがお前の本質だな」

  「うるさい!」

  だん、だん、だん、と彼は足を踏み鳴らす。

  サルエルのかくしから、数枚の木の葉が舞う。

  「お前は因果を抜けられんよ」

  刑部が煙を吐く。

  紐状の細い紫煙が純一の足に滑っていく。

  しかし純一の方が早い。

  木の葉が、濃密な煙に変じる。

  目くらましの煙幕の中で、純一に手を掴まれる。

  肉球のかさついた、毛に覆われた手だ。

  「悪い、ちょっと付き合ってくれ」

  掴まれた手を、引かれる。

  抱き上げられる。

  疾走。

  「因果からも、父からも逃げられると思うなよ」

  凄まじい速度で離れているにも関わらず、刑部の落ち着いた声が、鮮明に聞こえた。

  煙が濃くて、篤の目では周囲を把握できない。抱えられながら、朽縄の名を呼ぶ。

  「朽縄!」

  「はい」

  ついてきているようだ。平時と変わらない声で、彼は純一に話を向ける。

  「純一様、逃げる先はどこかお決まりですか?」

  「おお、任しとけ! ……や、俺が言えることじゃないんだけど」

  純一に抱えられたまま、振り落とされないように肉厚な身体にしがみついた。首の後ろの毛皮に腕が埋もれる。シャツ越しに胸や腹の肉が当たる。

  走る。

  煙幕の範囲をすぐに抜ける。

  ビジネス街の外れだ。

  帰宅ラッシュの時間も過ぎて、電気のついているビルもない。

  「すまん、いざこざに巻き込んじまって」

  その中、複数のビルに挟まれた裏路地で下ろされる。

  月光も届かない、濃い暗闇が覆っている。

  篤の目ではほとんど何も見えない。

  「篤様、少しいいですか」

  朽縄が手を引くので、篤は腰を落とす。耳打ちかと思ったが、朽縄は背伸びをして唇を篤の額に落とした。

  「な、なに……?」

  「暗視のまじないです」

  直後、ゆっくりと篤の目が闇に順応していく。

  昼間と同じほどはっきりと見えるわけではないが、動くのには不自由がない。

  「ありがとう」

  「効いたみたいでよかったです」

  朽縄がふわりと笑った。

  純一が先頭になって、路地を進む。管理も放棄されているらしく、ほとんど整備されていない。奥には、鎖と南京錠で閉じられたドアがあった。

  太く頑強な南京錠は純一の爪が差し込まれると、容易く開錠する。ピッキングなのか、何らかの術なのかは篤には分からなかった。鎖を解いて、一行はドアをくぐる。

  古びたオフィスビルだ。受付はなく、扉、階段、電源の通っていないエレベーターがある。

  「こっちだ」

  引き続き、先導する純一についていく。

  埃と黴の古い臭いの満ちた階段を登る。

  最上階まで登り、開けっ放しのドアをくぐる。

  例によって、朽縄はもちろん、純一もかなりの健脚なのか息一つ切らしていない。

  肩で息をするのは篤だけだ。

  だだっ広い空間だ。床のタイルは剥き出しで、いくつかの机がそのままに打ち捨てられている。青みのかかった月光が、部屋全体を淡く濡らしている。

  「ここは俺の住処の一つなんだ。隠蔽の結界をかけているから、そうそう見つからないはず」

  部屋の隅に、ランプや小物入れなど、ものがもやもやと置かれている。そのあたりに純一は腰を下ろす。

  篤と朽縄もその近くに腰を下ろした。

  純一が口を開く。

  言いづらそうに目を伏せている。

  「まず……俺は商人狸——刑部の跡取りなんだ。親父が言ってたろ」

  「青猯って呼ばれていたのは?」

  「あれは狸のときの俺の名前だ。蘆屋純一は人間のときに使ってる。狸の名前を人間のときに名乗ると呪術的にまずいんだ」

  朽縄が補足する。

  「名前は因果に縛られています。青猯ではなく、別の名前でなくては変化術の強度が落ちるのです」

  「そういうこと」

  言いながら、小物入れから数枚の木の葉を取り出す。

  「それで、家出の理由なんだけど……」

  一枚ずつ取り出しては、とん、と指で突いて、懐に入れる。

  目を落としながら、

  「何て言おうかな……。なあ篤、何を言っても驚かないでくれるか。いや、驚いてもいいんだけど、笑わないでほしい。今からすげえ馬鹿なことを言うけど、笑われたらその場で死ねるから」

  と硬質な調子で言う。

  物騒な単語に、篤は微笑した。

  「笑わないよ」

  微笑には嘲りの色がなかったからか、純一もにやりとした。しかし純一はすぐに笑みを収めて、硬い、緊張した顔で言った。

  「俺は人間になりたいんだ」

  「…………」

  篤は、反射的に、どうして、と聞きそうになったのを寸前でこらえた。

  どうして?

  どうしてもこうしてもない。

  それは篤が最も投げられたくない問いだった。

  この身体への違和感に論理はない。ただ違う、という強い間違いの感覚だけがある。

  指が、目が、唇が、歯が、首が、胸が、脚が、皮膚が、全部違うのだ。爪がない、闇が見えない、粘膜じゃない、牙がない、短すぎる、扁平すぎる、飛べない、鱗がない。篤の身体には何もない。間違いだけがある。

  なにもかも全部間違っている。

  生まれてからずっと間違い続けている。

  嘘をついて、間違い続けて、ただ恋だけをしている。

  それが老竜への恋慕から始まったのか、あるいは、この感覚が根底にあるから老竜への恋を忘れなかったのか、篤にはもう分からない。この二つは篤が飲み込み続けなくてはならなかったから、分かちがたく結びついている。

  だから、篤は、

  「笑わない」

  とだけ言った。

  笑わない。

  今自分は、純一の秘密の部屋に足を踏み入れているのだと、篤は思った。

  同じ部屋を持つ者として、篤は笑うことも、質問もできなかった。

  ただ笑わないことを宣言するだけ。

  それ以外に篤が差し出せる真実はなかった。

  篤は軽薄な嘘をいくらでも吐く。それもほとんど無意識のレベルで。でも彼の真実はいつもたどたどしく、飾り気のない、裸のままの単語だった。

  老竜と見たあの冷たい天体への感想のように、朴訥な、不愛想な、乏しい言葉しか、篤の真実はなかった。

  純一が顔を上げた。

  めちゃくちゃに引きつった顔は、色んな表情に見えた。

  笑っているようにも、怯えているようにも見えた。

  怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。

  そして口を開いた。

  しかし彼の丸い口吻は、細かく痙攣するだけだった。

  恐怖を乗り越えて言葉を編むための時間が必要だった。

  篤は純一の顎が、言葉を編み上げる躊躇いをただ見ていた。

  「笑わないのか」

  とだけ純一が聞いた。

  声は震えていた。

  「笑わない」

  「どうして」

  「笑わない」

  篤の言葉は会話を拒んでしまう。

  論理ではないのだ。

  だってこれは問答では答えられない。

  なぜ、と聞かれて言葉になるような話ではない。

  言葉にすればそれは嘘になる。篤が何か文脈を意識すれば、篤の秘密の部屋にある真実ではなく、真実の模造品の嘘がまろびでるだろう。

  目の前にいる相手が人間だったならば、篤は躊躇いなくそのような嘘をついた。相手の混乱を鎮め、共感できるような自身の悩みを急造して打ち明けたはずだ。

  しかしそれはやはり嘘だ。

  純一が差し出した真実に釣り合うだけの何かを出さなくてはならなかった。

  だから純一を笑わない。

  篤にはそれしかない。

  純一は唇を噛んで、

  「お前が笑わなくても、俺は——俺を笑ってる」

  と呟いた。

  「変化も暗示も、俺は群れで一番上手かった。だから、家出をしたんだ」

  そして純一は、細切れに話し始めた。

  人の姿になって歩く街は楽しかった。毛や口吻や鋭い爪みたいなものもない身体は快適だったし、狸の身体よりもずっと好きだった。

  そして日雇いのアルバイトをして金を溜めた。探せば現金をすぐにもらえる肉体労働があったから銀行口座がなくても困らなかった。仕事場では、人間の常識がなくて、なにかボロが出るたびに暗示でうまく収めた。

  生活に慣れると、相手の振る舞いの意味や意図が分かるようになった。少しだけのつもりが、ずるずると人間の生活が板についてきた。

  アルバイトをしているうちに、大学なるものを知った。そこにはいろいろな人間が集まるらしいそこは、純一にはひどく面白そうな場所に見えた。

  純一は暗示で様々な事項をごまかして大学に入った。大学生活は楽しかった。歴史や古典文学については、商人狸の群れにいたときにも学んでいたから困らなかった。分からなければ周りの人間に聞けばすぐに分かった。

  友達は多くできた。高度な記号的コミュニケーションを読み込み、適切な出力を行えば友達はすぐにできた。狸でいたときは次代の刑部としてそれなりに尊重されていたけれど、対等な友人は人間だけだった。だから純一も彼らのことが好きだった。

  しかし、純一がどれだけ人間として友人を作っても、なにか満たされないものがあった。人間の真似の精度を上げるごとに、それは真似でしかないと純一は突きつけられていたからだ。

  人が人の因果から逃れられないように、獣は獣の因果から逃れられない。

  人に近づくほど、自身が獣であることを純一は強く意識した。

  そしてあるとき、奇妙な人間がいた。

  竜の匂いを振りまいて、カナヘビの護衛を従える、鴉天狗の主。

  木田篤。

  人の因果を踏み外していく危うい気配があった。

  そこまで聞いて、純一は理解者を求めていたのだと篤は思った。

  「俺はきっと人間が好きなんだ。だから刑部じゃなくて、人間になりたい。それに、俺のことを知ってくれる相手も欲しかった——お前と友達になりたかったんだ」

  純一、僕はひどい男なんだよ、と篤は危うく口にしかけた。

  篤は人間の顔にほとんど興味がないので、純一の顔も印象以上のことはよく把握していないし、声をかけられる前は認識さえしていなかった。

  冷たくて淡白で、嘘で塗り固めた歪な人間なのだ。

  でも彼の中で構築された像に、冷や水を浴びせるほど残酷な気質も持っていなかった。

  もしかしたら、それこそがもっと残酷なのかもしれないけれど。

  何かが割れる音がした。

  きい。

  きいきい。

  ぱっと純一は立ち上がって言う。

  「隠蔽が破られた」

  朽縄がちろりと舌で空気を舐めた。

  「刑部様がいらっしゃいます。私は席を外しますが……お二人はどうされますか」

  「ど——どうして」

  純一が狼狽する。

  しかし篤を見た。

  繊細そうな眼鏡のレンズ、暗視のまじないがなければ暗闇を見通せない瞳、細く小さな身体を見た。竜と鴉天狗の気配を見た。

  「ごめん」

  純一はそれだけ言って、篤の唇に自分の口吻を置いた。

  「あ……もうっ!」

  朽縄が短く叫んで、すぐに姿を消した。

  篤は目を見開く。

  「んん……んくっ」

  舌が柔らかな唇を割り開いた。狸の分厚い舌が、篤の舌に絡みついた。肉を伝って流れてくる唾液を、篤は抵抗する間もなく飲み込んでしまう。

  口吻が離される。

  二人の唇に、唾液の糸が一瞬だけ繋がれる。そしてどちらからともなく流れた滴が中心に滑り、その重みで橋が落ちた。

  「一番強い隠蔽をかける。お前は竜の気が強すぎるから、馴染ませないといけないんだ。——朽縄が隠れてくれてよかった、俺じゃあいつを隠せない」

  手の甲で唇を拭い、純一が言う。

  木の葉を取り出し、それを篤に握らせると、純一は篤の唇に指を当てた。

  「いいか? 何があっても声を出すなよ」

  頷く。

  篤たちは入り口から死角になる机の影にかがみこむ。

  うずくまった篤を隠すように、純一が覆いかぶさる。

  「よほどじゃなければ破られないはずだ」

  耳元で純一が囁いた。

  しばらく、沈黙があったが、やがて紫煙に乗った刑部が現れる。

  机の影から、二人はそっと顔を出して様子をうかがう。

  「ふん、術もずいぶんうまくなったものだな」

  ぐるりと彼は視線を巡らす。明らかに視線がかち合ったが、こちらが見えている様子はない。

  あとは声を出さずに待てばいい……と篤は思ったが、彼は愕きで目を見開いた。刑部は懐から長い糸を取り出したのだ。

  老竜のたてがみである。

  刑部は、岩色の繊維を指でつまみ、ふうっと息を吹き付ける。

  「しかし近くにいるな……。奥方様もおられますね?」

  篤は黙っている。

  数秒ほど刑部は黙り込み、そして、分かりました、と言った。

  「こちらから見つけるといたしましょう——」

  刑部は、大きく口を開けて、つるりとたてがみを飲み込んでしまった。

  すると、先ほどまで素通りしていた視線が、正確に篤を捉えた。

  「そこですね——」

  「篤! 立て!」

  純一に肩を叩かれる。

  手を引かれながら立ち上がる。

  窓際に走る。

  「青猯、まだ逃げる気か」

  純一は答えない。

  「捕まってろ、よっ!」

  言われて、篤がしがみつくが早いか、純一の拳が緊急脱出用の窓を叩き割った。

  「っ……!」

  篤が息を呑んだ。

  最上階から、ビル街へ飛び込む。

  月は煌々と冷たくて、星が静かに光っている。

  住宅街の明りが点々と見えた。

  風が篤の肌を通り抜ける。

  まず、篤は恐怖に塗り潰される。

  怖い。

  老竜の柔らかな神通力で絶対に落ちないという安心感があったが、今はそんなものはない。手を離せば篤はそのまま落ちてしまうだろう。

  「ぎゃあああ、いてえいてえいてえ! 毛! 毛まで掴んでる! シャツだけにしろ!」

  「無理無理無理、調整できないって!」

  ぱん、と、篤の頭上で木の葉が広がった。

  純一が持った木の葉が成長し、傘のように風を捉えたのだ。

  落下の速度が緩やかになる。

  滑空。

  純一が叫ぶ。

  「篤! マジでいてえって! 今なら調整できるだろ、抜けちまう! べりって! 毛皮がべりっていっちまう!」

  「うわわ、ごめん!」

  慌てて、篤は手の平じゃなく、腕を絡めるようにして体勢を立て直す。

  「いってえ……、馬鹿力すぎだろ」

  「だ、だってとっさのことだったし……」

  純一に捕まりながら、篤は周りを眺める。

  落下の速度も緩やかで、先ほどよりはずっと落ち着いている。

  「逃げ切れる、かな……?」

  ため息。

  「無理だろうな。お前も竜と関わったなら知ってるだろ。竜のたてがみってのは最高級の薬なんだ。竜ってのはたてがみを誰かに渡したりなんかしない、超ド級に貴重な代物なんだよ。あんなの出されたら太刀打ちできねえ」

  「そ、そうなんだ……」

  そんなに強力なものとは知らなかった。

  歯切れの悪い篤に、純一が聞く。

  「ん? お前なんか知ってんの?」

  「……あれ、僕が渡したんだよね、竜神様に言われて……」

  「はぁ!?」

  どこから話したものか、と迷って、ざっくりまとめることにした。

  「刑部さんと会ったとき、栫井先生が怪我してて……。治療のお礼に、竜神様のたてがみを一本渡したんだよ」

  「いや……何言ってんのか分かんねえけど、もしかして抜かせたとか?」

  「え? うん……」

  純一は叫んだ。

  「お前ガチつがいじゃねーかよ!!」

  「は……? つがいって」

  「竜がなんでたてがみを誰にも渡さないか分かるか? 番に渡すからなんだよ」

  竜は限られた相手にしかたてがみを抜かせない。

  たてがみそのものには興味がなく、抜かせることそのものが重要なのだという。

  「そ……そんなこと言われてない!」

  ちょっとしたお使い程度の認識だった。

  そのつもりでさせたのか?

  渡さなくてもいいはずの「お釣り」を渡した理由って、もしかしてただ愛情表現のためなのか?

  純一は苦虫をかみつぶしたような顔で言う。

  「竜神と交流があるとか契約したとか、そういうもんだと思ってた……。たてがみ抜かせるとか文献でしか知らねえよ。え、キスとかしちゃったけど、これって浮気になるかな……」

  「さ、さあ……」

  「このタイミングで照れられると俺が一番きついんだが! それに竜神様からも逃げなくちゃならなくなるのとか勘弁なんだが!」

  「だ、大丈夫だと思う……。本気でアウトだったら、朽縄も黙っていないし、そもそも雷に打たれてるかもしれないし……」

  「あてにならねえ~!」

  ◇

  純一は散々不安がったあと、篤の家の近くに着地した。

  某世界的アニメよろしく、傘のように広がった葉でゆらゆらと揺れながら、篤たち二人はアスファルトに足を置いた。

  そこにはすでに朽縄が待っている。

  「…………雷が落ちなくてよかったですね?」

  「うっ」

  じっとりした目の朽縄の言葉に純一が胸を押さえる。

  「主様から純一様に言伝が二つあります」

  「こ、言伝……」

  戦々恐々という風に、純一が聞き返す。

  「『たてがみの話は私がしたかった』『住処の門を開けておけ』、だそうです」

  「……俺、自分の住処で殺されるやつですか?」

  「殺すつもりでしたら飛行中にいくらでもできたかと。空は主様の領分ですので」

  朽縄は何がおかしいのかちょっと笑った。

  そしてすぐに笑みを閉じて、頭を下げた。

  「申し訳ありません純一様、私からは助力を出せず……」

  「いや、とんでもない。朽縄は純一の護衛なんだろ。俺を助けるなんてしなくていい」

  「ありがとうございます。そう言っていただけると助かります」

  朽縄が顔を上げて、今度こそ笑った。

  「では篤様、純一様、おやすみなさい」

  そしてふっと消えた。

  数秒ほどの気まずい沈黙があって、篤は隣の社を手の平で示した。

  「隣、竜神様の家だけど……挨拶してく?」

  純一は数秒ほど迷ってから、首を振った。

  「いや……やめとく。怖いし……。それに、今行くと親父の件もあって迷惑かけそうだ」

  「そっか」

  「篤も、親子喧嘩に巻き込んで悪かった」

  「そんなことないよ」

  これは本心だった。

  篤は意識せずに本心がこぼれたことに驚いた。

  だから口を滑らせる。

  「今度、本当に和装の店行かない?」

  「和装? ……ああ、あの約束か」

  あの口約束である。

  「落ち着いたらな。親父、しつこいから。今日はまだ逃げねえと」

  純一が手を出した。

  握手だ。

  今度は篤もすぐに理解して、手を握った。

  肉球の弾力がしっかりある、毛の硬い手だった。

  篤はその夜、寝込んだ。[newpage]

  八

  「夏風邪引いた」

  朝方、台所で水を飲みながら母親の夏江に言うと、呆れたようにため息をついた。彼女はゆったりしたブラウスに深いグレーのパンツスーツだ。太くなってきた体型に合うように、全体的に丸く柔らかなシルエットをしている。

  「最近遊びすぎだからじゃない。疲れたんでしょ」

  「そうだと思う……。最近調子変だったし」

  「何をするのも体力いるの。友達ができて嬉しいのは分かるけど、めちゃくちゃな遊び方しないでよ。子供じゃないんだから」

  野菜ジュースを冷蔵庫から取り出すと、グラスに注ぐ。

  「熱は測った?」

  「五度六分。寒気がひどくて、下痢もある」

  篤は帰宅後、すぐにベッドにもぐりこんだが、日付が変わったあたりで頭痛と寒気が強まったのだ。そして朝には腹も下していた。二度目のトイレの帰りが今だ。

  水を飲んでいると、夏江がいたから、夏風邪の報告をしたのである。

  夏江はグラスを干す。

  「熱じゃなくて下がってるんだ? それに下痢も? 食中毒かなあ。あんた変な居酒屋で生焼けの唐揚げとか食べてないでしょうね」

  「それはない、はず……」

  「ふうん。まあそんな雑な店、今はないだろうけど……。帰りに何か買ってくるよ。それまで寝てな」

  学業で転んだことのない篤は、親から単位の心配をされない。それどころか、ちょっとくらい休んでも別に平気だろう、くらいの認識だ。

  ジャケットを羽織って、夏江は出勤準備を整える。

  「じゃ、行ってくるけど、ほんとにきつくなったら連絡ちょうだい。保険証は戸棚の中にあるから」

  「分かった。……あ、ねえ母さん」

  茶の間を出ようとする彼女を篤は呼び止めた。

  「なに?」

  「いや、僕、別に友達できたとか言ってないけど」

  「はあ? そんなの言われなくても分かるよ」

  何を馬鹿なことを、という風に夏江はまばたきする。

  「ずっと家にいた子供が急に帰りが遅くなってんのよ。友達ができたとしか思えないでしょ」

  そう言って、夏江は、茶の間を出ていく。ほどなくして、玄関の扉が開閉する音が響く。

  父親は、夏江よりも遥かに早く出勤するので、朝に出会うことはほぼない。父は、仕事量のためか家の立地のためか、ほとんど夜明けと同時に家を出るのだ。

  友達……。

  篤は老竜、朽縄、栫井、純一の順に顔を思いうかべた。誰もがこれまでの知人たちよりもずっと親しい相手だった。しかし友人と胸を張って言えるのは、きっと純一だけだろう。彼にしたって、青猯としての面を知らせることはない。竜神、カナヘビの使い魔、鴉天狗の白日夢に至っては、いることさえ知らせられない。だから篤の両親は、おそらく孫を見ることもないし、篤の恋の先を見ることもなく儚くなる。

  これが秘密か、と篤は思った。

  真実は何でもかんでも秘密の部屋に投げ込んで嘘ばかりついてきたけれど、一生言うことのない秘密があるってこういう気持ちなんだ、と篤はそのとき初めて思った。そしてきっと、人として暮らす純一は、狸の群れでも人の中でも、同じような気持ちでいたのだろうと思った。その類推は人の技法だった。

  普段ならば母親を見送ったら篤は自分の朝食に取りかかる。しかし今の篤には食欲がないので、鍋の味噌汁だけを飲んだ。

  夏も近いというのに、寒気がひどいので、熱い味噌汁を飲み終えると、冬の寝間着に着替える。毛布も押し入れから引っ張り出して、また眠った。

  窓ガラスを打つ激しい雨音で、篤は目を覚ます。気だるさと悪寒がずっと深くなっている。

  誰かが温かい布を篤の額に乗せている。湯に通したのか、じんわりとした熱が心地いい。

  「朽縄……?」

  「はい。朽縄です」

  聞くと、いつもの少年の声が答えた。

  ベッドの傍ら、床に膝をついている。

  「お加減はいかがですか」

  「だいぶひどい……」

  「恐らく、梅雨の障りだと思います」

  「梅雨の障り?」

  聞き返すと、朽縄はうなずいた。

  「篤様は竜神様と結びつきが強いのです。雨と雷の主の加護ですから、その分、天気の影響を受けやすくて。雨と雷が強くなる梅雨時期には、なんと言いますか……ううん……霊的な均衡が崩れるんです」

  篤は竜神の寵愛を受けている。唾液を交換し、精液を捧げている。

  それは言い換えれば、雨に——すなわち、水に愛されていることに近い。

  だから、雨の多い梅雨時期は、体内で水の要素が溢れてしまうのだという。

  「竜神様の使い魔の私も、篤様の近くにいるとよくありません。ですので、しばらくは社にいることにします」

  「う、うん……」

  「水抜きの手筈を竜神様が見繕ってくださっています。それまでは申し訳ありませんが、辛抱を」

  朽縄は、毛布に手を入れて篤の指を握った。

  噛み痕のついた指だ。

  「…………」

  小さく、彼はなにごとかを呟くと、身体を離した。

  すると、吐き気や悪寒が楽になる。篤が目を開くと、朽縄の顔色が悪くなっているのが見えた。

  「何をしたの?」

  「悪寒を分けていただきました。少しは楽になるかと」

  「そんなこと……!」

  少しどころではない。

  かなり楽になっている。

  「では篤様、ゆっくりお休みくださいね」

  朽縄は答えずに、ぺろりと舌を出して笑った。

  多分何かのまじないもあるのだろう、篤はまた強い眠気に襲われて眠った。[newpage]

  九

  夢を見た。

  篤の身体には手も足もなかった。その代わり、美しくきらめく銀色の鱗と、透き通るような薄い鰭があった。

  尾鰭で水を叩き、身体をくねらせて、篤は水の中を泳いでいる。まるで昔からこれが自分の身体だったように、自由に進むことができる。水は冷たすぎもせず温かすぎもしない。息だってずっと楽にできた。

  流れている川だ。水面を通して降り注ぐ月の光がまるで絹を透かしたように揺らめいている。水底の丸い石がゆらゆらと転がっている。流れる音が篤の耳を打つのも楽しい。

  清く整った川だ。濁りもごみもない。

  ほかに水の生物は見当たらない。篤だけだ。

  篤は尾鰭を跳ね上げて、泳ぐスピードを上げる。

  軽快。

  二本の足がどれだけ不自由であったか、篤は思い出す。

  川の流れに乗った遊泳は篤の心をほどいていく。

  もしかしたら空を泳ぐのもこういう気持ちだったのかもしれない、と思う。

  川を下っていく。

  やがて、水に塩気が混じってくる。

  淡い川の景色に、重く深い青色が混じる。

  海である。

  篤は泳ぐ。

  陸よりもはるかに篤は自らの身体を自在に操ることができる。息切れもしないのだ。

  竜ではないが、魚も悪くない。

  そう思った。

  鱗も鰭も、牙だってある。空を飛べはしないが、水が身体を満たしているのは心地よかった。

  海に出ても、他の生物はいない。

  宙返りをしてみたり、思うまま速度を出してみたり、一人で遊泳を続ける。

  そして、今なら海の底まで行けるかもしれないと思った。

  好奇心である。

  篤はくるりと魚体を回すと、青の濃い底に向かった。

  空気も疲れもない身体は、抵抗なく海底にたどり着く。

  月光も潮騒も届かない中で、うっすらと巨大な影があった。

  丸く、なだらかな流線形をしている。

  目が慣れてくる。

  それは鯨だった。

  「人か」

  と、聞こえた。

  深く低い、地響きのような声だった。

  「ここはお前のような者が来るところではないよ」

  くぼんだ瞳がこちらを見た。光の乏しい環境だからか、瞳は暗い。しかし優しげな丸みのある瞳だ。口元には、髭を思わせる体毛が並んでいる。

  こちらに波が当たらないように、彼はゆっくりと身体を起こして、浮き上がるように泳ぐ。

  「迷わないように送ってやろう」

  「でもしばらく帰りたくないんです」

  「ずいぶん水に好かれているな。だがそうもいかない」

  「…………」

  「そら、ついておいで」

  ゆるう、と老鯨が身体を躍らせる。

  巨体が海をかき分ける。

  篤は目を奪われた。

  あまりにも美しかったからだ。

  波に巻き込まれないように、篤は老鯨にぴったりと寄り添って泳ぐ。

  老鯨は泳ぎながら、緩やかな調子で言う。

  「人の因果は嫌いかね」

  「人が嫌いなわけじゃないんです」

  「ふむう」

  「好きな相手が竜なんです」

  口にしてしまってから、篤は口を閉じた。

  老鯨に海に夢、非現実的な状況が重なりすぎて、普段なら絶対に言わないことも、容易く口にしてしまう。

  「では相手を人に変えてみなさい」

  「えっ……?」

  「人は神話を語り、星を編んだ。想像力と叙述の動物なんだ。竜を人にしてしまうことくらい、君たちには簡単なんだよ」

  「それは……」

  人間の技法。

  あらゆるものを征服する欲望の技術。

  篤は泳ぎながら答える。

  「それは、嫌です」

  「どうして? 対等に恋をしたいという風に聞こえたが」

  「空を飛ぶ竜神様がきれいだったから」

  老鯨の瞳がこちらを見た。

  それは笑っているように見えた。

  篤が何か言おうとした。

  しかしそれに被せて、老鯨が、「着いた」と言った。

  瞬間、泡の弾ける音が聞こえて、篤はつるりとした木製の桶に捕らえられた。

  「あ……っぶねえ! 大丈夫か篤!」

  純一の声である。

  桶からは冷たいアスファルトと思しき天井が見える。そして篤を、純一と老竜が覗き込んでいる。

  川沿いの小さな橋の下である。

  「うむ。よく捕らえたな。青猯……今は純一かね」

  「あ、す、好きなように、お呼びください」

  「そうか。では純一と」

  老竜は純一——狸の状態の彼に笑いかけた。

  「よくやった。すまないが、後を頼むぞ」

  「はい、恐れ入ります」

  彼は頷くと、桶の中に口吻を入れて、篤の背に口づけをした。

  「背の君や」

  竜神様、と篤は言おうとした。でも篤の口はぱくりと開いて、気泡を吐いただけだった。

  「ふふ、可愛い篤。梅雨の障りで魚になってしまったか。そこまで水に溶けるとは思わなんだ。鯨に会ったろう? 古い友人なんだ。今度はしっかりと挨拶に行かなくてはならないな」

  甘い声だ。

  篤の小さな口を、竜神の舌が割り開く。

  つるりと流れ込んでくる唾液を嚥下する。

  冷たくて清らかな唾液。

  「魚でも愛してやれるが……、今のお前は魂だけだからね。このままだと色んな相手に迷惑がかかる。朽縄が泣くなど思いもしておらんかったし、お前のご両親もおられるんだからね」

  言って、老竜は身体を引いた。

  顔を赤らめている純一に、「ではな」と言って、空に飛んだ。

  それを見送った純一は大きく息をついて、脱力したように大の字になった。

  「篤よお……梅雨の障りがあったら教えてくれよ……。あんな大立ち回りしたら、そりゃ持ってかれるって」

  ごめん、梅雨の障りなんか知らなかったんだよ。季節の変わり目だからだと思ってたんだ。

  しかし篤の声は純一には届かない。

  彼は丸っこい身体を起こして、また篤の入った水を覗き込んだ。

  「ここは俺の住処。人除けの結界を張っているから、普通の人間は入れない」

  言いながら、純一は水に手を付けて冷やす。

  「まず水抜きが必要だ。魂の水の気を収めないと、戻るもんも戻らない。一応、竜神様からお許しをもらっているが……ごめんな、篤」

  そして純一は篤の身体に触れた。

  ◇

  やがて、純一の住処に煙に乗った刑部が現れる。

  見るからに不機嫌そうな顔をしている。

  「家出も終わりと思って呼ばれてみれば、奥方様の治療かね」

  「親父……」

  「ま、いいだろう。竜神様にしっかり恩を売ってやりなさい」

  刑部は懐から、巾着袋を取り出す。

  「これって……?」

  「反魂丹さ。——もちろんただの名前だ。本物の反魂丹など家出小僧に出すわけないだろう」

  死者を蘇らせる秘薬である。

  「これは気付け薬みたいなものだ。身体から抜けた魂に飲ませれば、身体に戻る道を見せることができる」

  「あ、ありがとう……」

  純一が受け取ろうとするが、刑部は巾着を渡すそぶりを見せない。

  「誰がただで渡すと言ったね」

  硬い表情で刑部が続ける。

  「うちに帰りなさい」

  「親父!」

  「人間の真似事はもう十分だろう。奥方……人間の友もできただろう。それでもう満足しなさい。奥方様も人の因果から逃れられていないだろう? こうやって人に戻されてしまう。お前だって獣の因果から逃れられないんだ。大人になりなさい」

  「そんなの……」

  「青猯、竜神様は見逃してくださったようだが、私から逃げるためにお前はどれだけの術を使った? 煙幕、隠蔽、飛行……。梅雨の障りでただでさえ不安定な魂がどれだけ揺さぶられたか。抜けた責任は、お前にあることを忘れちゃいけない」

  純一は黙る。

  親子の相対は終わったかに見えた。

  「わ、分かった——。もう帰るから、薬をくれ。俺のせいでいいから、もう、これで満足するから……」

  篤は言う。

  違う、純一。

  言葉は気泡になる。

  それでも篤は激昂する。

  僕の身体のあり方は僕が決める。

  勝手に責任を取ってくれるなよ。

  お前にだって触らせない。

  僕の身体は僕のものだ。

  海の泳ぎの要領。

  宙返りの応用だ。

  鰭で水を叩く。

  「篤?」

  魚体が水から飛び上がった。

  軽やかに、銀色の鱗が光った。

  篤の魚体には決まった種類はない。

  竜のイメージが混ざっている。

  竜と魚のあいの子に近い。

  だから牙がある。

  「つ……っ!」

  噛みついた。

  刑部の手に。

  魚類にも牙はある。

  しかし、篤の魂に限っては、獰猛な、老竜の牙があるのだ。

  「お、奥方様……!」

  反射的に、刑部の手の平が振るわれて、巾着から丸薬が床に散らばる。

  やっちゃった、と篤は素面に戻った。

  すさまじい速さで表皮が乾いていく引きつりや、口元の刑部の皮膚から伝わってくる熱で、篤は後悔する。

  人を殴ることなどしたことがない。ましてや噛みつくなんてこれが初めてなのだ。

  とにかく離さなければ。

  口を開き、身体をうねらせて、牙を離す。

  床に落ちる。

  純一が篤を拾った。どさくさにまぎれて拾った彼の手には反魂丹があった。

  「口を開けろ!」

  反魂丹が篤の口に転がり込んだ。

  嚥下。

  篤の意識は消失した。

  刑部が手の甲を押さえ、じろりと純一を睨みつける。

  「青猯、それは商人狸としてやっちゃあならんだろう」

  「お……俺は」

  「代価はなにを出すつもりだ? 家には帰らない、でも反魂丹は使っちまった、お前はどうするつもりだね」

  黙り込んだ純一の手の中で、篤の魚体が薄く発光し始めた。

  頭からはどこかに続いていく淡い糸が伸びている。

  牙を持つ魚はふっと浮き上がり、糸に沿って空中を泳ぎ、見えなくなった。

  その超然とした振る舞いで、純一はちょっとおかしくなった。

  刑部の手に篤が食らいついたのを思い返した。

  「帰るよ。反魂丹の代価なんだろ」

  「ようやく素直になってくれたか……」

  「でも俺、やっぱ人間好きだわ」

  純一はそれだけ言って、住処の荷物をまとめ始める。小さな薬棚、術を込めた木の葉の巾着、食料。

  「…………」

  かちかちと純一は牙を口の中で噛みしめてみた。

  そういえば自分にも牙があったのだった、と純一はにんまりと笑った。[newpage]

  十

  目が覚めると、同じ布団に朽縄が眠っている。

  烏帽子は外していて、丸く小作りな頭がよく見えた。一糸乱れずに整列した翡翠色の鱗が、カーテンから漏れる薄明を受けて艶めいている。

  魂が抜けていた間の、空の肉体を守っていたらしい。しかも、おそらくは梅雨の障りの悪寒を引き受けたままで。

  社に戻ったり、家に来させたり、また朽縄を振り回してしまった。

  「すぅ……」

  使い魔って寝るのだろうか。

  しかしものを食べることもあり、泣くこともあるのだから、寝てもおかしくはないだろう。

  鱗に覆われた頭を撫でると、

  「ん……」

  寝惚け眼という感じで、朽縄は身体を絡めてくる。

  狩衣の、麻の感触ではない。つるりとした鱗だ。

  全裸である。

  「っ!?」

  篤の驚愕をよそに、朽縄はぐりぐりと甘えるように——甘えているのだろう——朽縄は額を擦りつけてくる。太ももに長い尻尾や太腿が乗せられる。篤の人肌を受けているからか、冷たくも温かくもない。同じくらいの温度だ。

  多分股間も押し付けられているのだが、男根の膨らみがない。ふっくりとした柔らかさだけがある。

  素!?

  素でやってる!?

  「えへへ……あったかい……」

  朽縄が抱きつくみたいに身体を寄せてくる。

  う——嬉しがれない! 嬉しいんだが、罪悪感の方が強い! これ嬉しがっちゃだめなやつだ!

  迷惑をかけたからゆっくり寝かせてあげたい、ができるラインを越えている。

  篤が朽縄の薄い肩を掴んだとき、膝が篤の股間に触れた。

  そこは熱くなっている。

  「…………篤様?」

  朽縄の動きが止まる。

  「こ、これは生理現象っていうか……」

  篤の弁解を聞いているのかいないのか、茫然とぱちぱちと瞬膜が開閉する。

  その度に瞳は焦点を篤に合わせていく。

  途端、ぼうっと音が聞こえてきそうなほど激しく朽縄が赤面した。

  ぱくぱく口が開閉して、

  「う——」

  「う?」

  叫んだ。

  「うわあああ! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」

  ばったん、と朽縄がベッドから飛び出す。

  全裸のままで。

  「出るな出るな、隠せ隠せ隠せ!」

  ベッドに出た朽縄に、あわてて毛布をかける。

  そして姿勢を反転。朽縄をベッドに乗せて、自分は椅子に腰を下ろした。

  毛布からぴょっこりと頭を出す朽縄。額まで赤くなっている。よほど恥ずかしかったのだろう、瞳から涙がこぼれそうだ。

  「その、……何か失礼とか、私……」

  「し、……してないよ」

  抱きついて股間を押し付けてたよ、とは口が裂けても答えられない。こちらだって人のことは言えないのだし。

  「申し訳ありません篤様、ちょっと、向こうを見ていていただいても……」

  「も、もちろん!」

  目を逸らして数秒。

  毛布を置く音がして、すぐに、

  「ありがとうございます。もう大丈夫です」

  と朽縄が声をかけた。

  どんな仕掛けなのか、この数秒でいつもの狩衣と烏帽子の姿である。だが、まだ頬に朱がさしている。

  「……すみません、見苦しいところを」

  「いや、そんなことは……。寝惚けるくらいはみんなやるよ」

  「うう……」

  照れを吹き飛ばすように、朽縄は咳をする。

  「だ、だいぶ良くなられたみたいですね」

  「うん……竜神様と純一と、刑部さんが治療をしてくれて」

  「水抜きと、……刑部様でしたら反魂丹ですか」

  「そう言ってた」

  篤は立ち上がる。

  「ねえ、刑部さんのいるところって分かるかな」

  「え? それは……まあ、分かりますが」

  「謝りに行きたくて。反魂丹、勝手に使っちゃったし、噛んじゃったから」

  朽縄は、

  「あんまり、お勧めできません」

  と首を振った。

  「私は刑部様が篤様にしようとしたことを許していません。ですので、篤様はあの方に何をなさってもいいと思っています。謝る必要なんかありません」

  「……朽縄」

  不満げに、仕方なさそうに、呆れたように、「でも」と朽縄は続ける。

  「でもいいです。薬のおかげで帰ることができたのは事実ですし。行きましょう」

  ただし、と朽縄は言う。

  商人狸たちに会う前に、竜神様に一声かけておきましょう。

  ◇

  神社の鳥居をくぐると、蒸し暑い現世ではなく、神域のぬらりとした空気が篤の腕に絡みつく。

  社の扉は開いていて、老竜はとぐろを巻いている。苔色の鱗、岩色のたてがみ、雨の匂い。好々爺然とした機嫌のよさそうな声。魚から戻ってきたことがよほど安心したのか、声が数割増しで甘い。

  「おはよう背の君。どうかね、梅雨の障りはもう治ったかい」

  「はい。ありがとうございました。あの……お世話をかけまして」

  「いい、いい。お前が人の因果にある限りついて回る。よく頑張ったな、辛かったろう」

  柔らかな尾の先、筆のようなたてがみの房に頭を撫でられて、篤は破顔する。

  老竜に撫でられるのは好きだ。穂先は柔らかくて、雨の気配がして、涼やかな温度が心地いい。

  頭に穂先を乗せたまま、老竜は言う。

  「商人狸に礼を言いに行くんだろう?」

  「あ——はい」

  「純一にもよろしく伝えておくれ。刑部はまあ、前ほど強硬なことはしないだろうが、不用意に酒に口を付けるなよ、強欲坊主め」

  「う、すみません……」

  「ふふ、朽縄がついていくんだろう? なら大抵のことは大丈夫だろう。そうだな、朽縄」

  「はい」

  朽縄がうなずく。

  「じゃ、私は社で休んでいようかね。梅雨になるとどうもな……」

  「竜神様も梅雨の障りがあるんですか?」

  「いや、逆だ」

  老竜がまばたきする。そのとき、ばちっと睫毛に稲妻が走った。怒っているわけではないのに、雷が瞳に走っている。

  「お前の障りはな、お前が雨を抱えきれんから溢れただけだ。私は雨の主だから、調子を崩すことはない——ただ攻撃的になるのよ。私の宝に何かあれば商人狸なんぞ皆殺しにしてしまう」

  物騒な言葉と一緒に、に老竜が凄惨に笑う。

  多分本気だった。

  「分かるな篤? 私に狸どもを殺させてくれるなよ、鴉を守ったように、お前はちゃんと狸たちを私から守ってやりなさい」

  「わ、……分かりました」

  「頼んだぞう」

  老竜は分厚い唇で、篤の額に口づけをした。

  冷たくて硬い唇だ。それが親密で優しいことを篤はよく知っている。

  ゼロ距離で、老竜が囁く。

  「たてがみを抜いていくか?」

  「う……」

  「はは、種明かしはまだ先にしておきたかったが。仕方がないな」

  唇を離して、老竜は朽縄に向かった。

  「そら、お前も」

  「えっ?」

  とん、と朽縄の額にも老竜の唇が置かれた。

  信じられない、という顔で額を押さえる朽縄。

  また顔が赤くなっている。

  「ではな。何もないとは思うが、手に負えないことがあればすぐに呼ぶように」

  と言って、老竜は社に戻る。

  残された二人は顔を見合わせた。

  「い、行きましょうか」

  朽縄は舌で風を舐める。

  「こちらですね」

  先導されるままに、篤は進んでいく。

  定期的に何かを確かめるようにちろちろと朽縄は舌を出した。

  概ね真っ直ぐ進み、先日とは違う広場、やや規模の大きい社に出る。そこには商人狸の市場があった。

  奥の社は、やはり扉が開け放たれている。

  辺りには奇妙な匂いが流れている。魚や獣の肉の焼ける匂いだ。食事を売っている店が多い。何かを包んだ団子、ぐつぐつ煮える鍋、串を通した何かの肉。奇妙な匂いが香辛料だろう。慣れてくるとうまそうな匂いにも思える。まるで異国の市場だ。

  あれだけ食べ物に興味津々なのだから、狸たちの売る食べ物も食べたがるだろうか、と朽縄に目を向けるが、彼は一瞥しただけで視線を戻してしまう。

  「こっちの食べ物はあんまり気にならない?」

  聞いてみると、朽縄は苦笑する。

  「神域での暮らしが長いですから。どれも食べたことがあるんです」

  「そっか。だから人間の食べ物のほうがいいんだ」

  「ん……まあ、その、食べられるなら、ではありますが……」

  「戻ったら、黒蜜きな粉アイス食べに行こうね」

  朽縄の目が輝いた。

  ごほんごほん。

  表情を慌てて取り繕って、朽縄は、

  「お、……お手間じゃなければ……」

  あれこれの話をするうちに、社に着く。

  中には、二人の狸が並んでいる。

  老いたものと、若いものだ。

  刑部と、純一である。

  「これはこれは、奥方様に……竜神様の使い魔ですか」

  「……篤」

  二人がこちらに気付いた。[newpage]

  十

  以前のように、あれよあれよと座敷に上げられてしまう。

  靴を脱いで、靴下で正座をした隣で、朽縄も腰を下ろしている。朽縄も沓を脱いでいて、体躯に不釣り合いな逞しい足が露わになっていた。

  二人に対面するように、二人の狸が並んでいる。脇息にもたれかかったきらびやかな着物の刑部と、その隣の地味ではあるが仕立てのよい着物を着た純一。

  彼がここにいる理由は、篤はよく分かっていない。だが、刑部の死角でこちらに「しー」のジェスチャーとウインクをもらったので、何かあったのだろう、くらいで止まっている。

  刑部は、ふう、と煙を吐く。紫煙はまゆっくりと扉に向かって、座敷の襖を閉じた。

  密室である。

  朽縄の瞳が鋭くなる。しかし刑部はそれに気づいていながら表情一つ変えることはない。

  「——さて、どこから話したものですかね……。とりあえず、奥方様が快癒なされたようで安心いたしました」

  「その節はありがとうございました」

  「いえ、おかげさまで息子も戻ってきましたから」

  「あ、そのことで」

  「……何か」

  警戒した刑部に、篤は頭を下げた。

  座布団から降りるとか、指の重ね方とか、そういう礼儀作法を知らないまま、ただ頭を下げた。

  「あの時は、手を噛んでしまって申し訳ありませんでした。それに、薬まで無理に使わせてしまって……。今日はそれを謝りたくて伺ったんです」

  「は——はぁ?」

  刑部が声をあげる。

  「何です? ただ謝りに来たってんですか? その、私はけっこう吹っかけたんですよ、あなたに。そこの朽縄さんは今でもピリピリしてらっしゃいますがね、それだけのことはしたんです。結局息子だって、あなたをダシに連れ帰ったようなものです」

  それだけではない、酒を飲ませて殺そうとしたのである。

  「もうね、こちらは全面戦争がいつ始まってもおかしくないつもりなんですよ。竜神様は私たちを殺そうと思えばいつでも殺せるでしょう?」

  そうだ。

  竜神は今は攻撃性が高まっているし、篤を殺しかけたことを完全には許していないように見える。

  刑部は言う。

  「それに、私がやったことは、その、ええ——竜神様をお家騒動のいざこざに利用したというか——朽縄さん、これ竜神様聞いてらっしゃいますか?」

  「いえ、聞かれたくないお話と思いましたので、耳を塞いでいただいております」

  朽縄が答えると、刑部は息をついた。

  「ああ……助かります。や、そうじゃなくて……。それで、言うことが『噛んじゃってすみません』、ですって? ——反魂丹だって名前は大仰ですが強い気付け薬なだけなんです、ありふれたものなんですよ。謝らなくったって、それどころか、誤れば足元を見られるとか思わなかったんです? 毒気が抜かれます。奥方様はずいぶん人がよろしい。はぁ……」

  刑部は頭を抱える。

  「頭を上げてください。土地の竜神の奥方様にこんなことで謝らせたと知られたら、うちはどこでも商売できなくなります。お家騒動に神を巻き込んで、あまつさえ情けをかけられたなど、そんな——宣戦布告よりひどいことをなさらないでくださいますか」

  「で、ですが、」

  「ですが、何です?」

  「血……血が、流れたでしょう。あのときは、頭がかっとなって——、それで」

  「ああもう結構! 血などどうでもよろしい!」

  焦ったような怒鳴り声が響いた。

  直後、怒鳴ったことを恥じるように、刑部は煙管に口を付けた。

  「後継ぎを連れ帰ろうとして商売ができなくなっちゃあ、商人狸として失格です。頼みます、謝らんでください。このことは、水に流していただけますか」

  「も、申し訳ありません……」

  篤が顔を上げると、純一が耐えきれないように笑いをかみ殺している。

  慌てて彼は懐から出した扇子を広げるが、笑い声は収まらない。

  「っく、……くく、くくく……」

  「青猯! お前は黙っていなさい」

  「親父よお、その感じはもう無理だって」

  「何だって?」

  「俺に任せろよ。だってこの話は俺のせいだもん」

  言って、純一は立ち上がった。

  すり足で篤の下に膝をついて、顔を包み込むようにして上げさせた。

  「純一」

  「昨日ぶりだな。梅雨の障りはもういいみたいで安心したよ」

  「えっと……」

  「はは、サルエルにシャツもいいんだが、こっちもなかなか様になってるだろ?」

  「大学はどうするの? それに……」

  人間になりたいんじゃなかったの? と言外に聞いた。

  「俺はもういいんだ」

  「いいって……」

  「もともと大学もバイトも暗示で捻じ込んでたからな。お前と一緒に卒業はできないよ」

  純一はにっこり笑って、耳打ちする。

  「ありがとな。俺にも牙があるんだって思い出した」

  にっこり笑うと、純一の口吻から、鋭い肉食獣の牙がぎらりとした。

  肉や果実を食らい、肉としていく獣の牙だった。

  「俺は俺のやり方で人になるよ」

  純一は篤に腕を回した。

  篤も抱擁を返す。

  着物を通して、毛皮と肉の柔らかさ、体温が伝わってくる。親密な熱だった。老竜とも、栫井とも違う親密さだった。篤は自分の体温や骨ばった身体からも、そういった親密な体温が伝わればいいと思った。

  「俺は刑部を継ぐまでは商人狸の群れにいる」

  「うん」

  「休みの日は和装を買いに行こう」

  「うん」

  「遊びの体力鍛えとけよ」

  「もちろん」

  そのまま二人は数瞬ほど沈黙して、身体を離した。

  「じゃあ、竜神様によろしく。……たてがみのネタバレって怒ってた?」

  「怒ってなかったよ。竜神様も純一によろしくってさ」

  そして篤は夜市を後にしたのだった。