【新春けもケット11】岸間夜行「千望橋下の鼠達」【B-07】

  

  男が鼠になったのは梅雨が明けてむせ返るようになった日々の時期である。

  鼠になったときのことを深くは覚えていない。一夜明ければもう鼠だった。

  目を開けたら鉄の骨組みが空に掛かっていて、どこかの橋の下で寝ていたのだと分かった。昨日は仕事で疲れて飲んで寝ただけのはずだったので、至極唐突な状況だった。不可解な状況に頭を抱えこんだ、そのときの、ぬるり、ざわり、とした感触に、総毛立てて大きく後ろに跳ね転げた。それで己に起きた事態を知った。

  「なんだ、これは。私は、人間だったはずだ」

  そう言っておののく自分の声に、ちゅうちゅうと鼠の鳴き声が混ざって聞こえるのに、ひどく動揺し、しばらく口を閉ざして目をひんむいたまま、日が傾くまでうなだれた。その間、男は様々なことを考えた。

  まずこれは、きっと何らかの罰を受けたものだろう。それだけの所業を行ってきた自覚はある。人から金をだまし取って、綺麗にしてから納めるようなことを請け負いでやっていた。私はただの末端だったから、上の方で何がどう動いているのかさっぱり知らなかったが、一歩間違えれば簡単に命を消される世界に居たのだけは確信が持てた。足を洗うほどの度胸もないので、惰性で続けていたら多少であっても人を従える位の立場に上がってきてしまった。矢面に立ち、何かあれば真っ先に切り離されて後のことは知らぬと突き出される位置に居た。そうだ、きっとそうに違いなかった。私が詐欺を働いてきた人達と同じように、どうせ私自身も人間とは見なされていなかったのだ。上の連中もそうだ。奴らもすがすがしいほど私を人間扱いしなかったが、他方で、さらに上層のきっとやくざの腹心だとかなんだかにも、虫けらのようにあしらわれていたのに間違いないのだ。私が鼠なら、あの畜生どもはそれこそ虫けらなどになってくれてやしないだろうか。食えるものなら食ってやりたい。この体で舌の旨い不味いも分からないし、腹を壊すのかも知らないが、どうでもよい。ひとまずそこらの害虫でも食ってやろうか。腹は……減っていない。腹が減っていなくては、食う気力もない。腹が減るまで待たなくてはならない。もう何も、することが無い。

  そうして男は考えるのを止め、日が落ちるまでまたうなだれた。

  川の音がする。時々水音が跳ねて、それなりに魚なり他の生き物も居る川だと分かる。足元からも時おり水音が響く。川とは別に水路か何かあるのだろう。男は視界の端に対岸を入れた。向こう岸とは島と島の間ほど離れているように感じる、これも身体が小さくなったせいなのかと男は思った。反対側を見ると、小屋があった。小屋とすら呼べないほどのぼろで、木材と段ボールとビニールシートと欠けた石材と、他に良く分からない色々がくっついて、人ひとりが入るかどうか位の極めて小さい建物だった。

  男は小屋が気になって、よたよたとそこへ向かっていった。鼠の身体ではじめて距離を移動して分かったのが、草木も石も全て邪魔だということだった。河川敷のコンクリートの舗装はどうしてこうも規則的に凹凸しているのだろうか。全てが邪魔で、進みづらかった。それでも夜目が利いているのか、道どりを捕らえることはできたのでどうにか四つ足で登り下っていった。梅雨明けの夜風は腹が痛くなりそうな心地の冷たさがあった。自転車の車輪の音と学生の会話の声と、車の音と、また人の声と。人の営みのざわめきは男の使命感をかき立て、とにかく小屋へ逃げ隠れねば、と無心にさせた。小屋にホームレスがいるかもしれないことは、この際どうでも良かった。

  ビニールシートをくぐって小屋に入ると、誰もいなかった。運動して腹も減ったので、虫がいないかと鼻を利かすが、生き物の気配もなかった。しかし食えそうな物の甘い匂いはする。鼠が甘い物を好むかどうか男には分からないが、匂いを辿った先をとにかく食うのだという頭になったら途端に腹がぐうぐう鳴り始めた。食いたくて食いたくて仕方がない。匂いを辿り、止まって匂いを確かめて、また匂いを辿ってを繰り返して動くと、小さな卓の下に詰め込まれた何かの中だと分かった。コンビニのレジ袋とか透明なポリ袋とかが、ゴミ袋もそうでないのも乱雑に詰め込まれているようだった。その中のひとつから、甘い匂いが漂い、男は迷わずそれを探り当てた。

  パンの耳だ。一目散にがぶり付く。この身体での物の食い方を男は知らないはずだったが、二、三回口をもごもごさせたら後はひたすら前歯で削り取っていくだけだった。カビも苔も生えていたが、関係なかった。

  男がそのときに感じた幸福感は、久々のものだった。最後にいつ幸せだったか思い出せすらしないが、これは鼠になったならないに関わらず人間だったときも変わらなかった。物を食うだけで人はこんなにも幸せになれるものかと男は思った。しかしすぐにそれは誤りだと気付く。物を食うだけで人が幸せになれるとは限らない。だが、物を食うだけで鼠は幸せになれるのだ。その甘美が脳裏を掠めた瞬間、男はパンの耳を囓り取る速度を急激に速めた。囓って頬張って飲み込んで腹を膨らませて快楽を得た。それだけで、男の心はむせび泣き、胃が満ち満ちて転げ倒れる頃には、男の心には鼠の心が出来ていた。

  すがすがしい気分だった。躊躇なくげっぷができるし後ろ脚で丸い腹を掻ける。細い尾がビニールをこするように動いてガサガサ音が鳴った。男が良い心地で寝転がっていると、その横を通り過ぎるものがあった。頭上の方で立ち止まった気配がするので、のそりと起き上がって男がそちらを見ると、別の鼠がこちらを見ていた。警戒して男も見つめ返すが、すぐにその鼠は向こうの方へ駆け出して、おそらくパンの耳があった方でがさごそとやり出したので、男はまた仰向けになって浸り直し、そのまま朝まで眠ってしまった。

  その晩は男は夢を見ずに眠った。人だった頃、毎夜何者かに追われる悪夢ばかりにうなされていた男にしてみれば、そのような夜も久方ぶりのことだったのだが、その事実すら忘却するほどに、まことに安らかな夜であった。ごみ溜まりの上に居て、男は無意識に後ろ脚で腹をさするばかりだった。