「お疲れ様でした~」
仕事終わりの更衣室。
充実感はあるが、仕事上の人間関係。割りきり。
社交辞令。ふとした時に感じる人肌の冷たい一面。
それは自分もだろうと振り返ったときの開き直り。
割り切れなかったときの進退極まるつらさ。
「はぁ…つらくね?」
みんなどうやって割りきれてる?、と自分に問いかける。いや、ひょっとしたら自分と同じなのかもしれない。でもそうおもったら、割りきれないことが多い「人生」ってなんなんだって問いにいきつく。
「でも、人生は人生だろ。」
そこに人間がいるだけ。繁殖した人間の延長線に自分がいるだけ。
「はあ…ほんとに」
割りきるしかない。あー割りきるってなんだよ。
もうわかんね。
「はぁ…とりあえず家帰ってなんかするか。」
更衣室を出て、玄関で靴を履いている同僚に挨拶をして、逃げるように退勤。
■■■■■■■
路上裏を通ると、家への近道だ。
人はあまり通らない。
不審者みたいだけど、どうせ近道したいやつは通るんだから、どうでもいいじゃない?
野良猫はよく通る。
室外機の風が吹き、少し暖かくもある。
雨水トンネルの上のコンクリートのブロックでできたような道の路地裏を通って、家の近くへでる前に野良猫をみた。
白黒の牛柄のような猫だ。
スリムでふさふさ。
ピンと立ったふさみみ。
こちらを振りかえりながら、猫は「ねずみさん、おいで…」としゃべった。
………
いや、聞き間違いだろう。
あんまり俺のことを見つめるものだから。
いつものくせで空想をしてしゃべったらいいなあと思っただけだ。
そうだろ?俺。
でも、猫はさらに近づいてきて、「ほらほら、来て来て…」と言い、猫も地面も室外機も大きくなって、離れていく。
「俺、つかれすぎて、感覚がおかしくなったのかねえ。」
「おいおいちがうだろう?君が小さくなったんだよ。ねずみさん。」
巨大な猫は俺をぐるりと囲み、思わず俺はそのふさふさの体の中に身を横たえ甘える。
「おいしそうなねずみさん。かわいそうにねえ。今から丸のみにしてどろどろにお腹のなかで溶かしてあげようね。」
なんだこの夢みたいな幻聴は。
べちょ…ずるん…
顔を猫のざらざらした舌で舐められ、ほんとうに食べられるかのようなスキンシップだなと思った。
唾液で濡れた肌を表面張力で留まれずにが肌をゆっくりと滑り落ちていく。
うまく開けない目蓋を開けるために、顔を両手で拭うと、自分の手はピンク色で五本指の指さしに三角形の細い爪が生えていて、まるでネズミの手であった。
「あれ…?」
「ふふ…きみはねずみなんだ。おいしそうなねずみ。舌でつぶれそうな、一噛みで絶命してしまいそうな、肉がやわらかそうで、ひとのみにできそうなほど小さくて、かわいくてかわいくて、食欲をそそる、夕ごはん前のおやつにしてしまいたいねずみ。そうだろ?なにを現実逃避しているんだい?食べられるのが怖いかい?かわいいなあ、かわいいなあ…
」
なんだこの猫…めっちゃしゃべる…
と思って、猫の口元やひげや細目を見つめていると、はぐう、と近づいてきた牙に、ぶちっと。
「へ?」
食いちぎられる左手。
プッ
吐き出される爪のところ。
「いてえぇぇ!!!」
ぐしゃぐしゃと咀嚼される肉の音。
「もぐもぐもぐ、ごくっ、やっぱりおいしかったよ。君の左手。きみはおやつなんだから、そんなにびっくりしないで、ほら、右手くれよ、あぐっ」
「や、やめっ痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!や、やめてくれえぇ…食べないでビリビリビリ…ぎゃああああああああああ!!!
みしっぐちゅっぐちゅっもぎゅっもぎゅっごきゅん…また、猫の口先から唾液にまみれた爪と付け根がどろりと吐き出され、びちゃん、と俺の足元に落ちた。
「い、いやだ!」
「なんでさ、君たちの手はピンクなのかな?体は、灰色のなのにね。まるで食べてくださいと言わんばかりのアピールだ。食べやすいおやつだよ。ねずみの手はさ、少し筋張ってるけどカルパスみたいで、かみごたえがあってねえ。カルパスはわかるだろ?きみは人間だったんだから。あわれだねえ。ぼくに出会っちゃったばっかりにきみはぼくのおやつになっちゃうんだ。口の中で、咀嚼して舐め回して愛して、お腹のなかでゆっくりとかして一つになろう。愛しているよ、ねずみちゃん。」
ああ、俺は、猫に食べられたいなんて思ったけど、
怖くて、逃げられなくて、これから、どんな痛みが待っているだろと。両手のなくなった痛みに苦しむままに思っていると、怖くて、ふるえて、近づいてくる猫の口を見つめているしかなくて、
ばくん、
あぁ暗い…くさい…猫の口の中
「ひぎいぃ…あああァ!」「いでえ…いでええっ」「ああ…いやだ…」
猫の牙のギロチンにざくっりと穿たれるいくつもの刺し傷。
ざりざりとした表面の巨大な舌に唾液を刷り込まれる赤い血にまみれた傷口。
重力と疲労感と圧倒的力の前に、噛まれ、舐め転がされ、めちゃくちゃにぼろぼろにされていく体。
俺の右足どこにいった。
右の方にうつるしっぽの細切れだけが、舌を滑り落ち、喉の奥に吸い込まれ、ごくんと飲み込まれていった。
そして次に俺の体ごと呑み込まれて、暖かい肉のトンネルの中に押し込まれていく。
止まったのか…感覚がなく石のような左足につっかえた肉壁で滑らない背中とお腹。ああ、ああ、ああ。
ぬちゅ…くちゅ…ねちょ…ぽよん。
息が苦しい。どろりととろける意識。
熱い寝袋。出られない肉洞。肉を溶かすのに最適な猫の胃袋の中で溶かされるおれの体。
あれ…これは現実なのか。絶えず聞こえる肉壁と体液のすりつくぎゅうぎゅう詰めの水音。
あまりに暑くて、湿度たっぷりの胃液くさいサウナの中。傷口が痛くて、肉壁に触れているところがくっつきはじめて細胞が破壊されているかのような、熱いやすりでじっくり焼かれているような痛み。
「きゅうううぅぅ…っ」
人間の悲鳴じゃない、ねずみであるおれの悲鳴。
目頭が熱い。わずかに水を浴びているような感覚。
たらたらと流れる涙が目の周りを濡らしている感覚。これでさえ涼しい。
「きゅう…」
猫に消化されて終わる人生ってなんだろう。
でも、いいかも、怖くて、痛くて、どうしようもなく悲しいけど、ねこさんはおれの体を溶かして愛してくれるんだ。
悲しい…悲しいなぁ。
おれを食べた猫、いけめんだったなぁ…
途切れる意識。