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朝焼けの海でキミと

  五年間付き合っていた……なんて、…思っていたのは俺だけらしい。

  そんなノンケの男が、先日別れを告げてきた。

  「すまん!嫁に子供が出来てしまって…」

  「……」

  夏空の下、待ち合わせ場所で待っていた俺に、軽く頭を下げて。

  言い訳を捲したてるように、一生懸命別れたい理由を話すその顔に、気まずさはあれど、罪悪感なんてこれっぽっちも無いことはすぐに理解出来てしまった。

  子供が出来たから、育児の手伝いをしないといけない。

  仕事もこれから頑張らないといけないので、会っている暇が無くなる。

  今まで楽しかったけど、お前も本気じゃなかったんだろ?だったらいいよな?……だとさ。

  「………」

  他人はみんな……自分勝手だ。

  俺がどんなに奉仕してやったって、俺がどんなに好きになっていたって、こうして簡単に信頼を壊し尽くしてくる。

  俺にだって感情はあるのだ。

  人に優しく、ずっと笑顔でニコニコニコニコ……媚びへつらうのは、それが処世術ってやつだからで、別に優しいからってわけじゃない。

  けど、そうして何でも許してやれば、なにか勘違いした奴はそれを簡単に踏みつけていく。

  こいつは優しいから、別れを切り出しても許してくれるだろう。

  どうせ男同士の軽いセフレ関係だったんだから、全く問題ない。

  …そんなのは、いつも薄っぺらく笑い続けた俺のせいだと、そんな事は痛い程分かっているのに。

  「よかったじゃん。」

  何を言ってるんだろうと俺は自問自答していた。

  そんな事は本心じゃないだろ?

  もっとめちゃくちゃに罵ってやれよ。

  俺の心を弄びやがってって、俺の気持ちを踏みにじりやがってって。

  ……そんな事言えたら、どんなにいいか。

  本当は初めから分かってた事だった。

  人との付き合いなんて、最初から上手くいくはずない。

  例えどんなに好きだって、例えどんなに愛してたって、相手は全く別の思考を持った生き物なんだ。

  心の内は、誰にだって理解できないし、理解しようとしても無意味。

  だからここで感情をぶちまけたって、どうにもならない。

  面倒臭いから、笑って誤魔化すしかない。

  ……そんな、思ったよりも理性的な思考に、自分でも本当に嫌気がさす。

  ニッコリと薄っぺらい笑みを顔に貼り付けて。

  最後まで素直になれず、感情を隠すなんて。

  「そうか!ありがとう!やっぱ分かってくれるよな!」

  何も分かってない。分かりたくもない。

  心の中ではふざけんなと悪態を付いているのに、俺という人間はいつまでも笑顔が顔に引っ付いて剥がれない。

  嘘笑いだって、気づいてほしい。

  本当は別れたくないって、わかってほしい。

  けれどそんな事、初めから無理だと知っていて。

  去っていく獅子の後ろ姿を見て思う。

  (あぁ…本当に…)

  ーー終わってしまったんだな。

  ーー朝焼けの海でキミとーー

  この五年間は、もちろん沢山楽しい事もあった。

  相手に奥さんが居ることを承知で付き合い始めたのも俺だ。

  彼はいつも、俺と会うと奥さんの愚痴を呟いて、俺は1人得意気になっていたけれど。

  ーーあーぁ、お前と結婚出来りゃいいのに。

  そんな言葉に浮かれて、勝手にだまされた気分になっている俺がいけないのだろう。

  けど、少しくらい期待してみたっていいじゃないか。

  5年も付き合ったんだから、こっちにも少しくらい情があると思うじゃないか。

  …そう思っていても…やっぱり他人の思考なんて理解できない。

  …人は5年付き合った相手をこんな簡単に切り捨てる事が出来る…。

  そんなの、理解出来るはずもない。

  (はぁ…俺って本当に馬鹿野郎だ…)

  得意でもない酒に酔いつぶれながら、小さなちゃぶ台に頬を打ち付けて目尻から涙が垂れた。

  ズルズルと鼻水が詰まって息苦しい。頭では理性的に整理がつけられていても、失恋には、いつまで経っても慣れはしない……

  (何で俺ってノンケばっか好きになってんだろ…)

  自分でも意識しているわけではないが、出会う男はノンケ寄りのバイとかそんな感じ。

  アプリなどで遊び慣れてる相手だからだろうか。それとも、育った環境のせい?

  そうやって見つけた相手から、最終的に別れを切り出される。

  その度に俺は、ただ笑って一言「仕方ない」と片付けて、一人で勝手に苦しんで泣き喚くのだ。

  人生なんて……恋愛なんてこんなもんだろう。

  最初からハッピーエンドなんてものは存在してなくて、結局最後には上手くいかずにバットエンド。

  人は喧嘩もするし、思考なんて覗けるわけじゃないから、実際何考えてるかなんて分かったもんじゃない。

  異なる生まれ、性格を持った二人のヒトが、気持ちや感情を互いに共有して付き合うなど、不可能である。

  それが真理。誰相手だって変わらない。この世の性質。

  女の子を好きになった人。

  何の相談もなく、出張で海外に行ってしまった人。

  奥さんとの間に子供が出来てしまった人。

  ちょっと前までは、嫁が子供の出来ない苛立ちをぶつけてきてウザイと話していたのに。

  子供が出来たと話す彼の顔は……今までに見せた事が無いほど緩んでて…凄く幸せそうだった。

  嫁がウザイんじゃなかったのかよ!子供出来たら結局また気持ちが戻る程度の感情だったのかよ!

  そう思うが、人は嘘つきなので、それも仕方の無い話だ。

  (あんな笑顔見せられたらさ…諦めるしかないじゃん。)

  それでもまだ、今も変わらず好きという気持ちは続いている。

  相手は女で…子供が出来て…

  勝てるはずがない…分かっているけれど…

  「納得出来るか…馬鹿野郎が…」

  小さく呟いて、また涙を一粒垂らした。

  ギュッと握りしめたグラス、身体が悔しさでカタカタと震えた。

  「あーぁ…ホント、俺の五年間何だったんだよ〜!」

  ドンとその場に仰向けになって大きく酒臭いため息を吐き出す。

  これまで掛けた時間を返して欲しい。本気でそう思った。

  もう今年で28歳。30になったら、何となくモテないような気がする。というか、生き遅れた気がして、個人的に嫌な感じと言った方がいいだろう。

  理性では、人との付き合いなんて無意味だとか、上手くいきっこないって声がいつも頭の中に響いている。

  もしかしたら、この声のせいで上手くいかないのか?なんて思ったりもするが、それでも人の温もりを求めずには居られない。とはいえ、一夜限りの付き合いは、何だかもっと苦手だし。

  もしかしたら、何万分の一の確率で、上手くいくかも知れないという希望的観測も捨てきれずに。

  勢いよくちゃぶ台に突っ伏してウゴウゴと蠢いた。酒のせいで頭が痛い。…ボーッとして、とにかくもう何も考えたくない。

  おもむろにスマホの電源を入れて、ふと、新着にメッセージが一つ届いているのを見つけた。

  もしかして?…なんて淡い期待を抱いてメールを開いたものの、そんな希望はすぐさま打ち破られ。

  液晶に映る差出人は、もう10年ほど会っていないたった一人の母親からだった。

  ーー今年で28歳じゃろ?。たまには帰ってきてみたら?ぶち心配しとるんよ。久しぶりに顔を見せんさい。返事待っとるで。母よりーー

  改行も何も無い、使い慣れてない感じが凄く伝わってくる母のメッセージ。

  きっと携帯もまだガラケーで、スマホなんて使ったことはないのだろう。

  そうだ、メールなんて古い手法、今どきの人間が使うはずなんてないもんな。と自嘲気味に笑う。

  けれど、その文脈を見つめるだけで、母の顔が今でも鮮明に脳裏へ過ぎった。

  太陽の光を受けて煌めく海。風にさざめく山の木々たち。

  笑う母の姿。たった一人の友人が、いつも走っては転ぶ俺へと手を差し伸べてくれた。

  思い出す。懐かしい日々。

  地元は南の方で、海と山に囲まれた漁村だった。

  18の時に、色々な気持ちの変化があって、それを振り払うように上京して、そのついでに、彼氏なんかも欲しいな、なんて、そんなやましい気持ちも持ちながら都会に来た。

  慣れない都会暮らしは本当に大変で、でも人が多いこの街では、すぐに彼氏を作る事が出来た。

  しかしそれも、1年くらいで破局。理由は女の子に惚れたから。なんて。

  まぁ、その時俺は本当に田舎臭さが抜けきってなくて、SEXも凄く下手くそだったし、良くも悪くも純粋だった。

  きっと彼は普通に遊びのつもりだったし、そこに本気という感情はなかったのだろう。

  次に出来た彼氏も、俺には何も言わず勝手に海外へ旅立ち、今度こそと思えた相手は子供を理由に別れて。

  ろくな思い出が無いな……としみじみ思った。

  確かに都会に出て、心が踊る恋愛経験は出来たけど……それだけだ。ただそれだけで、何一つ実を結んでいないから無意味だと言える…

  いや、実際はそういうわけでも無いのだろうが、しかし、確かに残ったものなど少ないだろう。

  ここに来て手にいれたものと言えば、傷付いた心だけ。

  と、思えば、何だか1度、気晴らしに地元へと戻ってみるのもいいかもしれない。

  失恋の気分転換と思えば、うちの地元も、自然が豊富で綺麗だし。

  ご飯は美味しく、空気も澄んでいる。

  都会の喧騒や、鬱陶しい人間関係なんか忘れて、ゆっくりするには丁度いい機会だ。

  昔は色々あって、まるで逃げ出すように出ていった故郷だけれど、今はこれだけ失恋して、人生の酸いも甘いも経験した。きっとあの時の感情も、吹っ切れていることだろう。

  ならば早速母への返事でも返そうか、そう思って、スマホのディスプレイに触れる。

  何だかすでにワクワクと心臓が高ぶって、少しだけ心が軽くなった気がした。久しぶりの故郷も、悪くは無い気分にさせてくれる。

  返信する文字を打ち込みながら、そこでふと、指を止めて静止すると、自分にとってたった一人しかいない幼馴染の男子を思い出して、母へと返答する手を止めた。

  小さな村だったから、学校の生徒数もずっと少なくて、けれどただ一人だけ、そんな状態でも同級生が居たのだ。

  「大我……」

  奴との思い出は……まぁ大抵嫌な思い出ばかりだ。

  いや、実際にはそんな事は無いけれど、嫌な思い出の方が、俺にとっては思い出しやすい。

  たった一人だけの幼馴染であったが、アイツは意地悪な奴で、いつも俺に嫌がらせしてきて。

  虫を服に入れられたり、掃除用具入れの狭いロッカーに閉じ込められたり。

  夏は無理やり村中を連れ出され、海や山に行きっぱなしで走り回され。

  時には熱中症で倒れかけたり、海で溺れてしまったり。

  昼も夜も関係なく、虎獣人であるアイツの、無尽蔵な体力に合わせるのは本当に大変だった。

  俺は元々気弱な性格だし、断れないからいつも付き合ってやっていたけど。

  高校は村には無くて、アイツは中学を卒業するとすぐ漁師である家の手伝いになった。

  俺はその時から既に村を出ようかなと薄々考えていたから、とりあえず、仕事を見つけるんじゃなくて、通信教育で高校の単位をとって、18までは普通に学生をしていた。

  卒業してからは、アイツも家の仕事を覚えるのに忙しかったようで、たまにしか会うことは無かったけど、会うたび会うたび無理難題に付き合わされたなぁ……

  15にもなって野山を駆け回り、16の時には、また溺れてしまって人工呼吸されたりもした。

  そういえばそれが、お互いのファーストキスかもしれない。他に女の子も男の子も居なかったし、大我は顔を真っ赤にして、その時ばかりはほんとに心配していたようだったな。

  何だかんだで、何かあったらいつも助けてくれたり、手を差し伸ばしてくるのは決まって大我だった気がする。

  そりゃ2人しかいないのだから、大我以外に俺を助ける事なんて出来なかっただろうけども、例えば誰かに怒られそうになった時も、アイツは俺の分まで罪を被ってくれたりした。

  牙を見せて軽快に笑う大我は、言うなれば俺の兄のような存在で、どんな時でもアイツは、常に俺の事を気にかけてくれていた。

  まぁ結局、そこに至る原因もまた大我のせいなのだから、感謝の心も薄れてしまいそうになるが。でも、悪い気はしないものだ。

  結局色々心境の変化や、気持ちの整理も落ち着かなくて、大我には全く何も言わずに、ただ都会へ来てしまったけれど。

  それって結局、俺はそれまでの大我への恩を、仇で返してしまったのではないかと思う。

  それを考えると、何だか気まずくて、今更帰ってアイツにどんな顔を見せればいいのかと、少しドキドキしてしまう…

  楽しみか?そう聞かれたら、まぁ楽しみではあるだろうけれど。

  (会った瞬間どつかれそうな気がする…)

  そう考えると、少し会いにくいのは事実で。

  少しの不安を感じつつも、とりあえず、1度地元に帰って休息を取るのは決定したようなもんで、俺はまた母への返答を手早く入力し、その日は早々に寝床へついた。

  村の様子はどうなっているだろうか。

  流石に10年も経っていれば、何かしら発展しているのだろうか。

  そんな事を思いながら…俺は故郷に想いを馳せた。

  [newpage]

  「おーい!昴ー!」

  「た、大我!な、何?」

  「なぁ!今度の夏祭り、一緒に行かんね!」

  「な、夏祭りって、街の祭り?」

  「そうに決まってるじゃろうが!他に何があんね!」

  「え、えー!だってバスで1時間も掛かるじゃろ!俺母ちゃんに怒られとぉよ…」

  「そげな事心配しちょったらよう遊べんじゃろ!大丈夫やって!ワシらもう18じゃし!」

  「け、けど…」

  「いいからワシの言う事聞けっちゅうに!!行くじゃろ!!なぁ!!!??」

  「わぁぁあ!!わかったわかった!行くから離してぇぇ!!」

  「はっ…!」

  身体を揺らす振動に、うなされるよう目を覚ました。

  何だかとても嫌な夢をみていた気がする。具体的には思い出せないが、大我の事のような…

  地方に向かう電車は、全く人の気配がない。

  まるでこの車両を貸切にしてしまった、そんな気さえ起きるのは、都会だと電車は毎時間窮屈で、ぎゅうぎゅうとしているのを見慣れてしまったからだろうか。

  外を見れば、広大な自然が青々とした葉を輝かせ、その向こう側には太陽の光を受けてキラキラと光る海が見える。

  立っているのは電柱と、ボロボロの平屋がまばらに。

  あぁ、田舎だなと、そう思えるほど、景色も空気も澄んでいて、心が洗われるようだった。

  幼い頃は、こんな景色が当たり前で、それがたまらなくつまらないと思っていたけれど。

  あんなにテレビで見て憧れた都会も、長く住んでみれば案外飽きるものだ。

  (皆元気にしてるかなー)

  すっかり抜け落ちてしまった訛りも、今では聞くことは出来ても話すことは難しいだろう。

  都会に住み始めた時は、この田舎くさい訛りを鬱陶しく思ったものだったけれど。

  (早くつかないかなー…)

  過ぎ去っていく景色を眺めながら、俺はボーッと故郷に想いを馳せていた。

  ◆◆◆◆

  「ついたー!」

  長時間電車に揺られ、そこから更にバスで1時間の長旅を終えて、やっと村に到着すると、座りっぱなしで凝り固まった身体を解すように背伸びをして息を吐いた。

  周りを見渡してみれば、びっくりするくらい、この村を出ていったあの日と同じ景色が広がっており、なんだか一人過去にタイムスリップしてきたような感覚だ。

  古いあばら家、錆びたバス停、ひび割れて草に覆われたコンクリートの歩道。

  都会に住んでると想像も出来ないような、人の気配が感じられない寂れた村。

  深呼吸してみると、排気ガスに塗れた都会とは違って、澄んだ空気がとても美味しい。

  香ってくる潮の匂いが、とても懐かしくて、ずっと昔は嗅ぎ慣れていたはずのその匂いが、今や新鮮に思えた。

  蒼くどこまでも澄んだ空には、大きい大きい幾つもの入道雲。それから、照りつける太陽が全身を刺し、ただ突っ立っているだけでも額から汗が垂れてくる。風が背の高い草木をザワザワと揺らして、その音が少しだけ涼しい。

  蝉の鳴き声があちこちから聞こえてきて、都会では決して味わう事の出来ない、日本のあるべき夏が目の前には広がっていた。

  この辺りは、連なった低い山が幾つも並んだ、その山の斜面に作られている村なので必然的に坂が多く、少し上に登れば村全体が見渡せるような立地だ。

  港には沢山の船が並び、漁港がある。既に昼前だから市場は終わっていて、ただひたすら静かな時間だけが流れているように見えた。

  ここから実家はもう見えており、そう遠くもないので10分もあれば着くだろうか。俺はキャリーバッグをガラガラと鳴らして歩き出した。

  「ただいまー!母さんいるー?」

  バス停から坂を降り、村の景色を眺めながら歩いて、家に辿り着くと、そこで何だかやっと、本当に帰ってきたんだなと、胸に何かがこみ上げてくる気がした。

  何年経っても忘れる事は無い。この見馴れた自分の家。

  意を決して玄関の引き戸をガラガラと開け、中に入れば、もうずっと前に忘れてしまった実家の匂い。

  友人の家に初めて来た時のような、そんな独特な家の匂い。

  ーーあぁ…こんな香りだったんだ。

  懐かしさに思わず深呼吸して、久しぶりの我が家に胸を踊らせる。

  靴を脱ぎながら叫べば、遠くから返事を返す声が聴こえてくる。

  パタパタと歩いてくる音。居間から覗いた顔を見れば、俺は久しぶりに会った母親に少しだけはにかんで、また「ただいま」と呟いた。

  「よう帰ってきたね。待っとったよ。暑かったじゃろ〜ご飯食べようか?」

  「ん、食べる食べる。」

  久しぶりに見た母さんの姿は、なんだか少しだけ小さくなっていたような気がした。

  けれど、こちらを見て柔らかく笑うその笑顔は、この家で過ごした子供の時からずっと、全然変わっていなくて。

  昔使っていた自分の部屋に荷物を置いてくる、と一言声を掛けて、大きな黒いキャリーバッグを持ち上げながら2階へと上がっていく。

  ギシギシと軋む音を立てる古い階段を慎重に登りながら、上がってすぐ手前にある部屋に辿り着くと、ガチャリと扉を開けて中を見渡してみる。

  「うっわ…懐かし。」

  十年前まで過ごしていた部屋。

  沢山の思い出が詰まった部屋。

  母に誕生日のおねだりで買って貰った机や、少し硬くて眠りずらかったベット。

  夢中になって集めた昆虫の標本や、工作で作った少しだけ歪にゆがむ本棚。

  全部全部、昔と変わらない。懐かしい部屋。

  「あんたの部屋おさめるの大変じゃったのよ。埃被って。」

  「ありがと。」

  「ええよ別に。そんなんより、いつまでこっち居るんよ?」

  「んー、一応、有給全部使って来たから、1ヶ月は時間あるけど。」

  「なら好きなだけ居んさいな。あんたの家じゃけぇ。…やー、あんたもう訛りものうなって。」

  「ふふ、そりゃあね。10年もあっちで暮らしてんだから。」

  他愛のない話をしながら、運ばれてくる料理に舌鼓をうち、母の台所に立つ後ろ姿を眺めた。

  この椅子がずっと自分の定位置で、よくこうして母の姿を見つめていたっけ。

  「あんた大我君にはどうするんよ。」

  「え?…な、何?」

  「なんも言わずに出ていったけぇ、大我君ずっと元気無かったんよ?一時はなんや荒れとってねぇ。久しぶりに顔くらい見せたらどうやの。どうせ長くいるんやったらそのうち顔合わせるじゃろうし。」

  「そ、そっか…」

  あの大我が、少しでもショックを受けた姿なんて、正直想像も出来なかった。

  いつも笑ってて、とにかく騒がしくて、泣いたことなんて1度だってないし、荒れてる…というより怒ったりするのは結構あったと思ったが。

  とはいえ確かに、この村に居たら、いつかは絶対顔を合わせてしまいそうであるが、しかしどうしても気恥しさと気まずさがあって、今更顔を合わせるのも気が引けてしまうのは確かだ。

  俺は箸の先を歯で噛みながら、どうしようかと声を出す。

  「……別に…いいかな。なんか今更って感じもするしさ……もしかしたらアイツも、あんな事したんだから、俺ともう顔合わせたくないかもだし。」

  「……そがな事ないと思うけどねぇ。……あ、大我君1回結婚したんよ!子供も出来てね。でも、奥さんは出ていってしもうたみたいやけど。」

  「え…!まじで…」

  それは正直、今年になって1番驚いた事かも知れない。あの大我が結婚したというのも驚いたが、まさか子供までいるなんて。

  「なんで出てったの?」

  「んーそれがわからんのよ。大我君もよう教えてくれんし。でもまぁ、あんまりええ子や無かったけぇ。チャラチャラしとって。子供やって産まれたばかりの時でねぇ…八年前くらいじゃろうか。」

  「ふーん…結構前なんだね…」

  大我の好みはそんな女だっただろうか。記憶に探りをいれて思い出そうとするが、そういえば、女の子のいなかったこの村では女子の好みを知る方法もないなと、首を傾げた。

  全く女っけのない村である。いるのは年配の老人ばかりで、あの頃は俺も、性的な知識はまったくなく、小学校でよく分からないうちに子供の作り方という教材絵本を読み聞かされただけだった。

  だから大我がそういう性知識を知っていたのか?と言われれば、それは正直わからないし、そんな素振りも無かったかと思う。

  思春期、つまりは中学の時も、俺達は女という存在を知らなかったからムラムラしたりとかは無かったし、俺が男を好きになり始めたのもその頃だったけれど、まだその感情がどういうものなのか分からなくて、でも、自然と村の男衆達を目で追っていたのは今でも覚えている。

  焼ける肌や、弾ける汗。隆起する筋肉、勇ましい顔立ち。全部が全部憧れだと錯覚していて、中でも、漁場を仕切る大我の親父さんを、凄く尊敬していたように思う。

  大我の親父さんは、大我によく似ているが、アイツのように奔放な性格ではなく、リーダーとして村を支える英雄のような人だった。

  いつもニカッとからから笑い、俺の頭をガシガシと撫でてくれたり、抱っこや肩車をしてくれた。

  家族ではない俺に対して駄菓子なんかも買って与えてくれるくらい面倒見の良い人で、皆に慕われる本当に良い人だった。そのくせ、漁場に出ると顔付きが一気に変わって真面目になり、その顔が凄くかっこよくて、そこでも俺はずっと目が釘付けになっていたのを覚えている。

  父親が居ないから、そう思っていたけれど、それが恋心のようなものたと気付いたのは通信の高校に受かる直前。俺はその時からもう、ノンケに惹かれてしまう性癖だったのだろう。

  叶わない恋だと知って、絶望はしなかったが、ただ色々あって、村に居るのは自分の為にならないなと、俺はいつしか村を出る決意を固めた。

  アイツもアイツで、色々苦労しているのか。と思いながら、俺は食べ終わった食器を台所に持っていくと、ごちそうさまと母に声をかけた。

  「もうええんか?」

  「うん。美味しかった。ちょっと出てくるよ。久しぶりに村見てみたいし。」

  「よう変わっとらんけど、まぁ、あんまり遅くまで出歩いとったらいけんよ。」

  「子供じゃないんだから。」

  心配そうに呟いた母に、小さく笑って家を出た。

  特に宛もない散歩。久しぶりに村の海でも見て、気分転換するのも悪くないだろう。

  相変わらず、出歩いている人は居なくて、寂しい村だと思った。

  母に聞いた事だけれど、今でも子供はあんまり多くないらしい。

  たまにどこかから引越してくる物好きもいるとの事だが、特に村おこしのような事もやっていないらしく、そんな人は本当に稀だという。

  (ホント、何も変わってないなー。)

  よく大我と一緒に走り回った道、いたずら書きして怒られた近所のおじさんの家の壁、秋に美味しい柿を実らせる木。

  まるで昨日の事のように思い出せる。毎日のように遊び回った日々。

  (この道を行けば、学校なんだよな。)

  小さな平屋の小中学校。学生だった9年間は、ずっと俺と大我しか生徒がいなくて、それが当たり前だと思っていたけれど。

  あんな様子で、今もやっているのだろうか。子供は何人かいるらしいが、そこは母に聞いておらず、流石に少し距離があるので、今は興味よりも、面倒くささで足が遠のいた。

  「あ、この角曲がった所で、よく待ち合わせしたっけな。」

  そして、そこから暫く進むと、大我の家と、俺の家の丁度中間地点につく。

  海や山に行くのにも絶対通る道で、よくそこを待ち合わせ場所にして遊んだ。

  妖怪みたいなお婆ちゃんがやってる小さな駄菓子屋があって、そこでよく安い駄菓子を買った思い出が蘇る。

  ーー何だか、大我の事ばっか思い出してるな。

  当然と言えば当然なのだが、村を歩くと思い出すのは、大我と共に遊んだ日々。

  アイツに無理やり連れ出されて、いろんな場所にいって。

  クタクタになるまで走り回って、でも結局、最後には楽しかったって思ってたんだ。

  角を曲がれば、いつもアイツがすぐこっちに気付いて、手を振ってきて。

  「……あ。」

  思い出と重なるように角を曲がれば、そこは記憶の中にある駄菓子屋の前。

  子供には少し大きめの木造ベンチが置いてあって、大我はよくそこに座って俺が来るのを待っていた。

  「…大我?」

  そして今俺の目の前に広がる景色の中。そのベンチには一人、虎の子が座っていて。

  思わず名前を呟いていた。

  丁度思い出していた記憶にあるその景色と、全く同じ姿で、その子はそこに座っていたから。

  「…!」

  「あ!ま、待って!」

  幻ではない。その子は確かにそこに存在していて。

  俺の姿を見た彼は、驚いたように目を見開くと、サッとベンチから降りて走り出した。

  その方向は丁度大我の家がある方で、俺は慌てて、その子を呼び止めながら後を追う。

  角を曲がれば大我の家が見えてくる筈だ。

  少年が曲がったと同時に、俺は走るのを止めて。

  肩を上下に揺らしながら、ゆっくりと深呼吸するように角を曲がった。

  何でこんなに緊張してしまうんだろう。その理由は色々あるけれど、でも何かに誘われるように、俺は少年の消えた方へと視線を伸ばしていき。

  「ん?なんじゃ。おめぇダチと待ち合わせしとんじゃろ。」

  「…と、父ちゃん…あの人…」

  「あ゛?」

  「あ……」

  少年が、大きな虎の男の服を掴んで、その後ろに隠れた。

  それを見た俺の時間はまるで凍りついたように止まってしまって、その場から逃げることも出来ず、ヒュッと息を飲む。

  父親と思わしき虎は、子供が指差す先にいた俺へと視線を伸ばした。

  振り返ったその顔は……どこか見慣れた面影を残す、幼馴染の顔そのもので。

  「おめぇ……」

  「……え?…あ…」

  何を話せばいいか分からない。言葉が詰まって、息も止まる。

  久しぶりに会った大我の姿は、とても男らしく、子供の頃の記憶に残った、親父さんを彷彿とさせる見た目になっていて。

  それも当然だ。中学を卒業してから今までずっと、漁師という重労働を毎日のようにこなしてきたのだから。

  元々高かった背は尚更伸びていて、2mはあるだろう。俺にとっては見上げる程度には高い背丈だ。筋肉は鍛えて付いたというより、仕事柄自然と培ったと言わんばかりで。田舎の親父ばりに、往来にあってもタンクトップと短パン、サンダルというルックスから大胆に露出するのは、脂肪をうっすらと蓄えた丸太のような筋肉、四肢。

  年をとって貫禄が出た顔は厳つく、その目付きが悪い三白眼がこちらを鋭く射抜けば、俺は慌てて顔を逸らし、やっと動いた身体で踵を返そうとした。

  「おい!われ待て!」

  「っ…!」

  ヤバイ!そう思っても、もう遅い。なんとか走り出したけれど、子供の頃からずっとかけっこで大我に勝てた試しが無いのだ。今は歳をとって体力も落ちた上に、相手は現役の肉体労働者である。

  叶うはずも無く、舌を巻きながら威圧的に低く叫んだ大我は、ほんの数秒で俺に追いつき、こちらの肩を後ろから掴むと、無理矢理力強く俺の身体を反転させた。

  「…おめぇ…昴…っ!昴じゃろ!!?」

  「え…えっと……はは…だ、誰ですかそれは…俺はえと…」

  「何を言いよるんじゃこのアホんだら!!昴じゃろうが!わしが忘れてるとでも思とったんかこのボケナスがァ!」

  視線を逸らしながら、無駄と分かりつつもとぼけて見るものの、そんな事などやはり通用する訳もなく。

  俺の肩をガクガクと揺さぶって、これでもかと牙を見せた大我は、こめかみに青筋をたて、眉をグッと眉間に寄せて勢い良く怒鳴った。

  俺は身を竦めながら目を閉じて怯えた表情をするが、しかし状況は悪くなる一方である。

  「い、痛い痛いっ!やめっ!」

  「てめぇ…わしになんも言わんとっ…!」

  なんとか落ち着いて貰おうと言葉を掛けるが、大我はそこからグチグチと、今までの鬱憤を吐き出すように牙を剥いて。

  食われると思った瞬間、しかし途端にグッと鼻から息を吸いこんで大我は言葉を切った。

  瞬間、俺の身体は否応無く軽々と持ち上げられ、気持ちの悪い浮遊感と共に肩に担がれてしまって。

  かと思えば、大我は何を言うでもなく、しかし今にも怒りを爆発させそうな勢いで、そのまま俺をどこかへと連れ去ろうとする。

  「な、何するんだよぉ!」

  「黙っちょれ!」

  揺れる俺の視線の先には、こちらを不安げに見つめている虎の子の姿。

  その顔は大我そっくりであり、もしや噂の子供と言うのは彼の事だろうか。そんな風に思考を巡らす内に、思ったよりも早く大我の足が止まった。

  ガラガラガラと乱暴に引き戸の開く音がして、不安定な態勢のまま後ろを振り返れば、そこは大我の家。

  大我は乱雑にサンダルを脱ぎ去ると、俺の靴も力づくで脱がせ、ポイと玄関に投げ捨てて、どしどしとがに股で歩きながら居間の座布団へと俺を放り投げた。

  「いだっ!」

  「いいか!そこに黙って座っちょれ!」

  腰を盛大に打ちつけて、俺は目尻に涙を浮かべながらそこをさすった。大我はただ一言そう言うと、またしてもドシドシと足を鳴らしてどこかに行ってしまい、彼の去った扉の陰、半身を出してこちらを見つめる少年と目が合う。

  少年はこちらと視線を合わせると、慌てたように全身を隠して、その後またそーっとこちらを覗き見てくる。俺は少しだけ苦笑いして、おいで、とジェスチャーして見るものの、しかしやはり恥ずかしいようで、また慌てたように身体を隠した少年が、改めてこちらを覗き見てくる事は無かった。

  ドシドシという重低音がまた聞こえ始め、少しだけ家が揺れているような気がする。

  少年が消えた扉の陰から、入れ替わるように現れたのは、その少年を大きくして幾らかふてぶてしくしたような瓜二つの大我。

  やはりコイツの子供であることは間違いなさそうである。両手に持った一升瓶を目の前のテーブルにドンと置くと、彼は、ふんと鼻から大量の息を出しながら俺の隣へ胡座を掻いた。

  「飲むぞ!」

  「はぁ?な、何言ってるんだよ。まだ昼間っーー」

  「うっせぇんじゃ!飲まねぇとどつき回すぞ!」

  「ひぃ!」

  どういうつもりなのだろうか。大我の唐突な行動は昔も今も変わっていないようで、やると言ったら誰もそれを止めることなど出来やしないのだ。

  テーブルに置かれたグラスにトプトプと酒が注がれ、中身が飛び散るほど乱雑に手渡されたそれに慌てる間もなく、大我はグッと自分の分を一気飲みしては、もう二杯目を注ぎ込んでいる。

  しかもそれをまたしても一気飲みしてぷはぁと息を吐くものだから、俺は驚いて目を見開いた。

  「お、おい!そんな飲み方したらっ」

  「うっせぇ!こんくらい普通じゃ普通!そもそも誰のせいじゃと思っとるんじゃこのバカチンが!わしになんも言わんと勝手に出ていきおってからに!ふざけんのも大概にせぇよ!」

  「大我…お前…泣いてるのか?」

  「泣いてなんかおらんわ!このっど阿呆ぉ!」

  「うわぁ!いででで!痛い痛い!やめぇ!」

  大我の見事なヘッドロックが決まり、俺の頭のてっぺんをグリグリと拳で擦り付けられる。もふもふの毛皮に覆われた、鋼鉄のような太い腕は、日々漁師という仕事で鍛えられた男らしいもので。

  けれど確かに、こうして誤魔化した大我の目尻には、ほんの少し何かが光っていたような気がした。

  想像を絶する痛みで気付きもしなかったが、その上で大我が鼻を啜っている音が聞こえる。

  それが風邪か何かによるものなのか、それとも泣いていたからかは定かではないけれど。

  「われ今までどこ行っとんたんじゃ!」

  「…と、東京だけど。」

  「ふん!どうりでひよっこい言葉なんか使っちょるわけじゃな!」

  やっとの事グリグリ攻撃からは解放されたものの、俺は今大我に相変わらず首を抱き締められ、動けない状態のまま、小さく呟いた。彼の筋が立った前腕にグッと締め付けられ、密着するような形で逃げられないよう拘束されており、大我は空いた片手でもはやグラスではなく一升瓶をそのまま煽る。どうやらもう相当酔っ払ってるようだ。

  「地元捨てて東京とか言う軟弱な街に行っただけじゃのうて、まさかなんも言わんと出てくとはな。 おらぁ!おめぇも飲みね!」

  「うぐ…っ!ぐ、う、…ぷは…やめ…」

  「げにそう思っとんかわれぇ!誠意が足りんのじゃ誠意が!」

  「く、苦しいっ!やめへ!」

  大我はまるで今までの鬱憤を晴らす様に、俺の首をその逞しい腕で抱きしめ、俺は息が出来なくなって掠れた声を出しながらモフモフとその前腕を叩いた。解放されるや否や、無理矢理大我が一升瓶の口をまたしても俺の口に押し付けてきて、グッと煽るものだから、嫌でも中身を胃に押し込むしかない。何度目かの強制的な一気飲みのせいで、俺の身体も流石に火照り始めてくる。もともと酒に弱いのは言った通りで、このままでは早々に意識が無くなるのは明らかであった。

  「大我っ…も…マジ無理…吐く…!」

  「うるせぇ!わしの酒が飲めんのか!」

  「う、俺酒に弱いんだよっ…!」

  「東京なんて軟派な場所に黙って行っちょるからそうなるんじゃ!自業自得じゃろうが!」

  薄々分かっていたつもりだったが、大我はどうやっても俺を許してくれるつもりは無いらしい。既に視界は揺れていて、今日はおそらく気絶するまで解放してはもらえないだろう。既に胃袋は悲鳴をあげていて、頬は赤く染まり、瞼が重くなってくる。

  「おめぇが居なくなってから…わしゃあ…なんも上手く行かねぇ…」

  「ぐふ…!」

  「親父は倒れて入院するわ、仕事は上手くいかねぇわ、遊びでたった1回寝た女が妊娠するわ…もう散々じゃ!」

  「こ、後半はお前が悪いんじゃーー」

  「うるせぇ!全部おめぇのせいじゃ!責任取りやがれ!」

  「…な、なんでだよぉ…うぷ…」

  よく分からないこじつけのような理屈を押し付けられ、もはや反論する気も失せてきてしまう。元々強くない酒が、これでもかと身体中に回っているせいで思考もままならず、視界が歪んで身体に力が入らない。

  もはやめんどくさくなったと言っても過言ではないだろうか。

  俺は酒を飲んでも普段と別段変わったりしないのだが、その代わり単純に具合が悪くなる為、大我の腕から抜け出すどころか、その胸に後頭部を預けてぐったりとするしか出来なかった。

  鍛え上げられた胸板は、筋肉の上に脂肪が乗っており、まるでクッションのように俺の頭を支えてくれる。

  その上逞しい腕に抱きしめられていると、何だかその暖かさが恋しくて、そっと目を閉じながら身を任せてしまった。

  こんなぶっきらぼうな相手なのに、妙に安心してしまうのは、大我の肉体から醸し出される包容力のおかげか、それとも気心が知れた兄弟のような存在だからか。

  子供の頃からたった一人だけの幼馴染だったのだ。こんな事を思うのは当たり前なのかもしれないが、10年という長い時間離れ離れになっていたとしても、身体は、心は覚えているようである。

  大我の匂いも、その毛皮の感触も。

  「寝るな!!」

  「…う…」

  大我の大声が頭の中で反響する。身体を揺すられて尚更吐き気が強くなった。

  流石にもう限界のようである。遠くで大我の怒声を浴びながら、俺は意識を失ってしまって。

  「昴!!」

  「………」

  やり過ぎたか?と思った時には遅かった。

  昴は大我の腕の中でぐったりとしてしまい、声を掛けても反応しない。またしても勢いに任せて取り返しのつかない事をしてしまったと、大我は少しだけ罪悪感に苛まれた。

  とはいえ、そこにいるのは、妄想でも幻覚でもない、本物の昴。それは、大我がこの10年間、どんなに恋焦がれても手に入れる事が出来なかった存在であり、そして恨み続けた相手でもあった。

  そんな相手が突然目の前に現れたのだ、どうしたってこうなってしまうのは当たり前の話である。

  「…なんで今更帰ってきたんじゃ…」

  けれど大我は俯き、昴の顔を悲痛の眼差しで見下ろしながら、誰にともなくボソリと呟いた。

  ずっとずっと、恋焦がれていた。焦がれていたけれど、もう二度と手に入れられないものだと思って、半ば諦めがついていたものでもあった。

  折角この10年間、昴無しで生きていく為、気持ちの整理をつけながら過ごしてきたのに。

  今になって帰ってくるなんて、嬉しいという気持ち以前に、何故?という気持ちが先に来る、とても複雑な気分だった。

  昴はきっと、戯れに帰ってきたに過ぎない。どうせまた自分の手の届かない、遠い所に行ってしまうのだ。そうなったら、折角押さえ付けていた感情がまた心を傷付けて、これから先どうしようもなくなってしまう気がする。だから、それを考えると、素直に喜べるようなものじゃない。

  さらりとした黒髪を撫でて、顔を見る。少し大人びた雰囲気を持っているが、その面影は確かにあの頃のままの昴で。

  ずっとずっと、好きだった。ただ傍に居れたら良かった。突然姿を消してしまって、俺がどんなに傷付いたかお前に分かるか?そう問い掛けたかった。

  けれど、そんな言葉は言えるはずもなく。

  そっと昴を引き寄せて、胡座の上に横向きにした。そのまま頭を下げて、恐る恐る、震えながら、ゆっくりとその唇に軽いキスをする。

  本当は今にも乱暴に犯してしまいたい。

  もうどこにも行かないでほしいと、素直に囁きながらその身体を貪りたい。

  どうせなら、その勢いのままに、自分なしではいられない身体にしてしまえたらどんなに良いか。

  そんな想いを、このたった数秒のキスで堪えて。

  [newpage]

  子供の頃から、たった一人の友達だった。

  小さな小さなこの港町で、二人しかいない子供。常に二人一緒に居て、けれど、決して良好な関係とは言えなかったかもしれない。

  大我は嫌がる昴を連れ回し、山の中を駆け回ったり、海を泳いだり、村全体をわけも無く走り回ったり…とにかく振り回した。

  時には戯れで、学校のロッカーに閉じ込めたり、山の中で一人にして陰から観察してみたり、虫を背中に入れたり、後ろからそっと近付いて驚かせたりもした。今思えばこれらはやり過ぎだったと思うけれど、とにかく昴の事が気になって、とりあえず構いたかったんだと思う。

  笑う顔も、困った顔も、泣いた顔も、怒る顔も……。

  全部全部、好きだった。

  それが幼い頃から大我にとっての全てだった。

  茜色に染まる空。海の向こうに沈む太陽。波が揺れる海面。生暖かい風が昴の髪を揺らして、聞こえてくる波の音に耳を傾ける。

  小さく頼りない手を、砂の上で握り締めて…辺りが暗くなるまで、ずっとそこに座って夕日を眺めていた。

  しばらくしてふと、隣に視線を向ければ、少し眠たげに瞼を動かす昴が、こちらの肩へと倒れてこようとしている。

  わけも無くギュッと、手を握り締める力を強くして、昴の身体を受け止めた。

  全てが上手くいくと思っていたあの日。

  これからも何も変わらないと思っていたあの頃。

  ただ昴と一緒にいる幸せを、噛み締めていた日々……。

  肩に寄りかかった昴の身体を抱き寄せて、そっと顔を近付けながら、キスをした。

  拙いキスだった。ただ、唇と唇が軽く触れ合っただけの、本当に臆病な、キスとも言えないキス。

  ふと、口を離せば、寝惚け眼の昴と目が合って……。

  心臓がドクンと震えた。もしかして今、キスした事がバレたかもしれない。

  そんな考えが頭の中を巡って、時が止まったかのように思えた一瞬。

  昴は何も言わず、また目を閉じた。

  大我は、止まっていた呼吸を吐き出すように深く息をして。

  それがファーストキスだった。

  14歳の頃、まだ昴が出ていくずっと前。

  昴はきっと、16歳の頃に溺れた時の人工呼吸がファーストキスだと思っているだろう。

  だが実際には、このキスが初めてであり、そしてそれ以降、こっそりとする機会には恵まれなかった。

  「昴が…出てった…?」

  「あぁ……も、もしかして大我君にゃ言っとらんかったんかい?」

  「…全然…聞いとらん…っ!」

  「あ…」

  「聞いとらんし!!アイツ!!」

  昴の母に、昴が居なくなったと聞いた時、大我は言葉に出来ない怒りに身を震わせた。

  18歳の夏の日の事。街で行われた大きな夏祭りが終わり、しばらくぶりに遊びに向かった昴の家で、彼の母親から聞いたのが初めてだった。

  大我が向かった時には既に家を出てから何日も経過していた所で、今更追い掛けても追いつく事は出来ず、別れの挨拶どころか、少しの話し合いさえないまま、大我は昴と別れることになったのだ。

  知っていたら全力で引き止めただろう。

  最後に会った昴は、微塵も家を出ていくという素振りさえなく、それが尚更大我の怒りを増長させた。

  何も言われなかった事への怒り、昴の気持ちを察することすら出来なかった自分への怒り、その他諸々、何に対しての気持ちなのかすら分からない、やり場のない怒り。

  大我は昴の家を飛び出すと、村で唯一ある小高い丘向こうの古びたバス停まで走った。

  直近のバスはもう出ていて、行ったところで何にもならない事は分かっているけれど、それでもとにかく、身体が無意識にそこへと向かった。

  息を切らして目的地へと辿り着けば、遠く遠く、ただ一直線に続く道が宛もなく続いている。

  ぐっと拳を握り締めて、唇を噛みながら身体を震わせた。

  なんで…!

  なんで…!!

  なんでじゃ昴!!

  喉が枯れるほど叫んでも、ひぐらしの声がそれをかき消し、反響すらしない言葉は、夏の綺麗すぎる青空に消えていった。

  ボロボロと、溢れるように大粒の涙が零れる。

  今まで泣いた事なんて一度も無かったのに、目から飛び出した悲しみの雫が、いつまで経っても止まらない。

  凪いだ風が、雫を飛ばした。そんな大我を慰めるように、背の高い草木がザワザワと揺れて。

  自分は、そんなに昴に疎まれていたのだろうか?

  これまでずっと一緒に居たけれど、昴にとってそれはそれほど苦痛以外の何物でもなかったのだろうか?

  今となっては答えの出ない問いが、幾つも頭の中を過ぎっては消えていく。

  楽しかった思い出も、笑いあった日々も、これまで培ってきた過去が全部。

  灰色になった。

  色を失ったみたいに、モノクロの映像へと変わってしまって……。

  家に帰って、それまで昴が居た日々を思う。

  思い出せば思い出すたび、何とも言えない虚しさだけが胸の中に残り、生きる意味でも希望さえ無くなった気分だった。

  悲しくて悲しくて、悲し過ぎて…体重は10キロ以上減り、暫くは食事も喉を通らなくて、父親とも殆ど言葉を交わすことなく過ごす毎日。

  どんなに憂鬱でも、どんなに辛くても、昴が居なくなっても続いていく時間が、どこまでも残酷だった。

  やっとの事立ち直り始めた頃に、今度は父親が病で倒れて、親の代わりに大量の仕事に埋もれた。

  父親が倒れた事は戸惑ったけれど、ずっと見てきた仕事を代わるのは特に問題が無くて、それがまた心を抉る。

  大事にしていたもの……

  無いと困るもの……

  それが当たり前だと思うこと……

  大きく生活が変わったり、何かを失ったり…

  それまであった価値観が消え去って、全てが変わってしまったと感じても…

  それでも世界は回っていくのだ。

  そんな悲しい真理、気づきたくなかったけれど…。

  所用で街に言った時、一人の商売女に声を掛けられて1度だけ寝た。

  はっきり言って興味自体はそれほど強く無かったが、いつまでも童貞で居るのはかっこ悪いという男の自尊心と、色々あったせいか人肌の温もりに飢えていて、ついついその誘いを受けてしまった。

  避妊薬を飲んでるから生でしてもいいよ…?

  女はそう言って、大我はそれを疑問にすら思わなかった。

  今思えば女は、ただ金欠で今すぐにでも客が必要という理由から、生という付加価値を付けただけだったのだ。

  避妊薬なんか飲んで無かったし、一度くらいなら妊娠するはずが無いと舐めてかかったのもある。

  外に出してもらえば大丈夫とタカをくくって、結果的にはその数ヶ月後、妊娠が発覚したのだった。

  大我の子だと分かったのは、生でしたのがその1回だけだったのと、丁度性行為をした日と妊娠した時期が被ったからだった。

  女は最初堕ろそうと考えていたが、それをする金が無かったので、一度大我を誘った場所で彼を待ち、堕ろす為の金をせびろうとした。

  勿論大我と女は口論になったが、大我も堕胎する為の金を用意する余裕は持っていなかった。

  何せ父親の入院費用だけでも中々の出費なのだ、他の事に構ってる余裕はない。

  女と話し合った結果、二人は結婚した事にして、村中から祝い金を集める方が良いのではないかという結論に至った。

  はっきり言って詐欺のような行為だし、道徳的に見ても最低の行為だが、妊娠に戸惑っていた大我は、女の口車にいとも容易く乗せられてしまったのだ。

  出産する場合にも金は掛かるが、国から補助金が出ているので殆ど無料のようなものだ、だからそっちの方がお金は掛からない。

  無知な大我は、結局そんな女の言葉に従うしかなかった。

  そしてその結果子供が産まれると、村の皆は跡取りが出来たと大喜びしたが、母親となった筈の女は数日後、あっさりと金だけ持って赤ん坊を置いていき、そのまま姿を消した。

  勿論突然の出来事にまた動揺したのは言うまでもないが、赤ん坊を捨てる訳にもいかないし、女とは喧嘩別れで離婚した事にし、大我は極力平然を装った。

  そして入院中の父親も、強がっていたが症状は悪くなる一方で、あんなに大きかった背中は、ガリガリに痩せて今や自分の方が勝ってしまっている。

  子供は朝も夜も泣きわめき、仕事があるのに世話もしなければいかず、寝不足で苛立って、正直殺してしまいたいなんて、そんな物騒な事さえも思った。

  けれどそんな時は、記憶の欠片を繋ぎ合わせて、昴との思い出をなんとか心の拠り所にし、平静を保った。

  泣きじゃくる赤ん坊をあやす度、もしコイツが昴との子だったらと、妄想して耐える。自分でもヤバい奴だと思ったが、それが一番赤ん坊を愛せる口実になっていたのは事実だ。

  孤独な夜は、そうして居るうちに過ぎ去っていく。でも、時にはそんな日常に嫌気が刺してしまうのも確かで。

  そもそも自分は短気で、自分勝手で、子育てになんか最初から向いていない性格なのだ。

  首根っこを掴んで赤ん坊を持ち上げたり、とりあえず同じ部屋で放置していればいいと思っている節があったり、ガサツで面倒くさがりである。

  自分は自分のやりたい事をやれればいいし、いつまで経っても子供みたいに、自分の思い通りにならないと、不平不満を垂れ流したり……。

  自分ばかりが被害者みたいな面をして、男のくせになよなよと…いつまでもいつまでも…大人になり切れず…

  ふと途中からそんな自己嫌悪が混じった思考が頭をよぎった時、それまで昴へしてきた仕打ちを思い出して手が止まる。

  自分が自己中で、アイツを振り回してばかりだから、愛想を尽かされた。

  もっと優しく、昴の事を考えて行動していたら、今頃こんな思いもせずに、まだ2人、この村でのんびりと暮らしていけただろうか。

  辛い事も、昴が一緒だったなら、乗り越えられた気がする。いや、必ず乗り越えられただろう。

  何だかんだ世話を焼く性格だから、子供に困っている現状を見れば、結局手を貸してくれるだろうし…。

  過ぎたことにまたしても空想を重ねて、大我は首を横に振りそれを振り払った。今更変わろうったって遅いのに、何だか悔しい気持ちになって、これくらい一人で出来るんだと、ヤケになりながらも子供の世話をした。

  立派とは到底言えないかも知れないが、それなりに自分でもしっかり育ててやっている自信はある。

  けれどそれに、意味なんてない。

  分かっている。こんな事をしたって、もう昴は帰ってこないのだと。

  どんなに過去を振り返って後悔したって、今更それを悔やんで変えたところで、何も変わらない事は知っているけれど……。

  けれどとにかく悔しかったのだ。

  本当の俺は……、お前が簡単に切り捨てた俺は……、こんなにも出来る奴なんだと、誰にともなく胸を張りたくて。

  お前なんか居なくても俺は、いつもと変わらない。

  傷付いてもいない。悲しんでもいない。

  そんな風に思い込んで、ずっとずっと、悲しみを誤魔化し続けた。

  けれど、ふと気が付けば、昴の笑顔を探してしまっている。

  良くやってるな、そう褒めてくれる昴の言葉を頭の中で反芻する。

  そんな自分を、認める事も出来ずに。

  赤ん坊を家に一人で置いておく事は出来ないので、おんぶ紐で背中に結んでやりながら仕事を続けた。

  村の奴らは皆揃って赤ん坊を可愛がるもんだから、実際の所はそこまで苦労したという覚えはない。

  程なくして父親が亡くなり、不謹慎だが入院費用も掛からなくなって、親父は村の顔役で、誰よりも尊敬を集めていたから、葬式代なんかも皆がカンパしてくれた。

  1歳を越えた頃から、誰に似たのか思ったよりも利口な子で、子供は手が掛からなくなり、育児にも慣れ、余裕が出てきて、あれだけの事があったのに、またいつもの日常に戻った。

  それからは特に問題も起きず、一つあったのは、村に医者の夫婦が引っ越してきて、診療所を開いた事だろうか。

  今やその医者の夫婦の息子が、大我の息子の唯一の友人となり……。

  ようやく人生にひと段落着いたような安堵があった。

  もうこれ以上問題も起こらず、穏やかな日々が続くだろう。

  昴の事も、これまでの忙しさで朦朧としていき、今では遠い過去のように思える。いや、そう思い込みたいだけなのかもしれないけれど、とにかく前よりは断然、折り合いもつけれるようになってきた。

  そんな夏の日。

  「ん?なんじゃ。おめぇダチと待ち合わせしとんじゃろ。」

  「…と、父ちゃん…あの人…」

  「あ゛?」

  「あ……」

  目が合った瞬間…思い出した。

  ずっとずっと変わっていない、最愛の者の姿を。

  声を聞いた瞬間…思い出した。

  毎日が煌めいていた、あの懐かしくも楽しい日々を。

  全部全部、心の奥にしまい込んだと思っていた感情が、突然弾けた花火のように内側から溢れ出して…。

  「おめぇ……」

  「……え?…あ…」

  灰色だった思い出に…夜空へ煌めく夏の色がついたのだ…。

  [newpage]

  深夜に目を覚ます。

  頭がガンガンと内側から叩かれているような、そんな感覚がして、うっ…と額に手を添える。

  ここはどこだろうか?全くの暗闇で視界は覆われており、ただ傍に温もりを感じた。

  手を動かしてみれば、もふもふとした感触があって。

  「……何しとんじゃおめぇ。」

  「…っ大我!?」

  「誘っとんのか?なら、そう言やいいんじゃ」

  「ばっ…何言って…つか…何…俺…どうなったんだ?」

  横で聞こえた声に驚いて身体を思いっきり起こす。目が慣れてきても、薄らとしか空間の把握が出来ず、俺は突然起き上がった反動で頭の痛みが増し、顔を顰めた。

  息も絶え絶えに言葉を出せば、大我がのっそりと立ち上がってカチリと電灯の紐を引く。

  そうすれば、辺りが一気に明るくなって、俺はその明るさに目を細め、手で傘を作りながら大我を見上げた。

  大我は上半身裸で、下にはトランクス1枚だけの姿だった。思わず驚いてサッと目を逸らす。先程の感触を思い出せば、大我がそんな薄着状態で隣に密着しながら寝そべっていたのは紛れもない事実だ。

  まさかそんな事をされるとは思っていなくて、俺は何だか恥ずかしくなった。

  「ちょっと待っとれ。」

  そう言って、クワッと大きくマズルを開けて欠伸をした大我が、その薄らと割れた腹筋と尻を掻きながら、足を使って襖を開け、部屋を出ていく。

  そうして程なくして戻ってきた大我は、コップに水を入れて持ってくると、俺の前へと投げやりにそれを差し出してくる。

  礼を言ってそれを受け取ると、俺はゆっくりと水を飲み始めた。

  大我はその場に胡座を掻くと、そんな俺をジト目で睨みつけている。

  「……な、何?」

  「……ほんとにおめぇなんじゃな。」

  「…どういう事だよ…」

  「ホンモンかどうか、まだ信じられんかっただけじゃ」

  「…隣で寝てた癖に疑ってたのか?」

  「……ふん。うるせぇ。この裏切りもんが…」

  裏切りもんとは、きっと俺が何も言わずにこの村を出ていった事を言っているのだろう。

  俺はその言葉に気まずくなって、そっと視線を外した。

  あの頃は色々抱えたものがあって、とにかくこの村から出なければいけないと、脅迫概念のようなものに襲われていたのだ。

  特に、大我とは顔を合わせたくなくて、何も言わずに出ていった。

  あの時はそれが最善だと思っていたけれど、確かに大我にはとても酷いことをしたと、そういう自覚はある。

  「あの…ここ、お前の部屋?」

  「それ以外にどこがあんじゃ…」

  「いや…なんか、変わったな。昔と違って、全然物が無いからさ。」

  気まずさを誤魔化すように、そう言って辺りを見回した。部屋には敷布団が1つと、箪笥、それから小さなテレビと扇風機があるだけで、他には何もない。何とも寂しい感じの部屋に思えた。

  昔は村一番の金持ちの家ということもあって、壁にはバイクのポスターが貼ってあったり、大きな机もあった。玩具やゲームで遊べるのは、大我のお陰だったのである。けれど、そんな面影は今はもう無い。

  「全部ウチのガキに譲ったわ、そがなもん。もうワシには必要ねぇもんじゃけぇ。」

  「子供…そういえば、凄いお前に似てたなあの子。」

  「ふん。当たりめぇじゃろうが。ワシの子なんじゃから」

  「そう、それが信じらんないんだけど。…名前は?」

  「……太陽。」

  「太陽?…へぇ…凄くいい名前だな。」

  今でも、この大我が一児の父親だとは到底信じられないが、この様子を見ると真実なのだろう。

  何だか微笑ましく思って小さく笑えば、ギロリと睨まれて、スンとそれを止める。昔とは格段に人相が悪くなっている気がして、何だか少し関わり辛い。

  罰が悪くなって、少し視線を逸らしたり、チラチラと見ては、俯いてしまう。

  「…あ…あの…俺…」

  「いつまでこっちに居るつもりなんじゃ。」

  「え?」

  「じゃから、いつまで居るつもりなんじゃと聞いとるんじゃ。」

  「あ、えと…い、一応1ヶ月くらい…かな。」

  「ふん…やっぱげに帰ってきたわけじゃねえんじゃの。」

  「………」

  そう言った大我の表情は、どこか傷付いたような、それでいて、期待を裏切られたかのような、そんな悲しげな顔に見えた。

  俺はただ、何も言えなくて、言葉を無くす。

  「……そろそろ漁に出る時間じゃけぇ。ワシも出んといかん。おめぇはどうする?飯食ってくか?」

  「え、や、迷惑だろうし、俺は…」

  「別に迷惑なんかじゃねぇ。…食ってけ。用意しちゃるから。」

  そうぶっきらぼうに言った大我は、立ち上がると部屋を出ていって、そのまま暗い家の中に光が灯った。

  居間にほど近いこの部屋からなら、向こう側で電気を灯した様子が分かるのである。

  俺は少しだけ俯いて、複雑な心境を心の中に押さえつけるように深呼吸すると、ゆっくりと立ち上がり、部屋の電気を消して居間に向かった。

  きっと太陽君はまだ寝ているだろうから、あまり物音を立てないように、そっと。

  「面倒じゃから、納豆卵かけご飯でええじゃろ。」

  「…え?」

  冷蔵庫を開いて、中を見ている大我が、こちらに振り向くこともなくそう呟いた。

  けれどまさか、そんな懐かしくも恐ろしい簡易飯を勧められるとは思わず、俺は顔を引き攣らせた。

  「……なんじゃ、うめぇじゃろ。納豆卵かけご飯…」

  「…俺が東京行って貧乏だった時に、数回食べたっきりだよ。そんなの。」

  「文句言いさんなや!何が悪いんじゃ納豆卵かけご飯!!」

  「別に悪くはないけど……大我、料理とかはちゃんとしてるのか?太陽君は普段何食べてるんだ?」

  「…何って、刺身とか、それから…あー…目玉焼き…鮭のふりかけ…タラコ混ぜご飯…」

  「…………」

  まぁ、正直予想していた通りだが、やっぱり大我は料理などしていないようだ。

  俺はそんな大我の言葉を聞いて、呆れたように大きく溜息を吐く。大我はそんな俺の様子を見てビクリと肩を震わせたが、そんな飯ばかりじゃ太陽君が可哀想になってくるのも仕方がない話である。

  「どいてくれ。…何があるんだ?」

  「な、何するつもりじゃ!」

  「何って、料理だよ。…一人暮らししてたら嫌でもそういう技術が上がっていくし。…て、かなり色々あるじゃん!!」

  「よ、余計な事すんじゃねぇ!ここぁワシの家じゃぞ!」

  「別に料理くらい作ったっていいだろ?減るもんじゃないし。…しかも二日酔いの頭に納豆卵かけご飯はぶっちゃけキツいよ。」

  俺は何故か動揺する大我を他所に、テキパキと料理の準備を始めた。

  正直に言えば、料理はどちらかと言うと得意な分野なのである。東京に向かって1人暮らしをする中で、日々のストレスから俺を救ってくれたのは美味い料理だった。

  それに、胃袋を掴めば恋人も出来やすくなるという雑誌の特集を信じていたのも懐かしい。

  「お、おい!昴!」

  「何?…」

  「……な、何でもねぇ…!もう勝手にせぇ!」

  「…なんなんだよ。」

  大我は何か言いたい事を堪えるように、そう言って、ふんと顔を逸らした。

  ノシノシと居間へと向かい、その場にドスンと腰を下ろして不貞腐れたようにテレビを見始める。まるで亭主関白のようだな…と何となく思った。

  俺はまず味噌汁を作ろうと材料を用意し始める。

  流石は港町という事もあって、材料は豊富で、東京では中々お目にかかれない物も多いのは嬉しい話だ。

  生のワカメや昆布なんて、都会じゃ簡単には手に入らないし、石鯛やカサゴなんかの魚も冷蔵庫には目白押し。これが漁師の家の特権というものだろう。まさかこんな材料がある中で、納豆卵かけご飯なんて、ご冗談でしょう??

  昆布とワカメで出汁をとり、味噌で味付けした魚の切り身の味噌汁。

  石鯛の塩焼きと炊き込みご飯に、カサゴの煮付け。

  出汁をとったワカメは千切りのようにして、これもまた煮付けた。これは酒の肴にもなるし、箸が止まらない最高の一品でもある。ついでに余った昆布で、切り身を巻いた昆布巻きも作ってしまった。

  はっきり言って作りすぎてしまったが、一戸建て特有の大きな台所と、新鮮な魚を見て、興奮のあまり自制出来なかったのは否めない。

  「な、なんじゃこりゃあ!」

  「…ちょっと作り過ぎたけど、まぁ、お前ならこれくらいサクッと食べちゃうだろ?」

  テーブルに置かれた料理を見て、大我が絶句する。作り過ぎてしまったとはいえ、大我は子供も居るのだから、どうせ1日か2日で全部食い終わってしまう量だろう。余しておくと魚は痛むのが早いし、そこまで驚くような事でもないと思う。

  土鍋で炊いた炊き込みご飯を、大きめのどんぶりによそってやり、大我の前に置く。

  東京でも元彼にこうやって料理を出していたから、半ば癖のようなものだ。

  相変わらず驚きのあまり固まっている大我に、召し上がれと微笑めば、大我はハッとしたように自我を取り戻して、料理へと箸を進めた。

  「う、うめぇ!!」

  「……そうか?よかった。魚料理なんて久しぶりだったから、上手くいってるか心配だったんだよな。…一応味見もしたけど、お前の舌には合わないかもしれなかったし。」

  「はふ…はむはむっ…は…んぐ…ん…がつがつ…がふ…」

  「いや…慌てすぎだから。」

  どうやら、そんな心配は杞憂だったらしい。大我はまるで今まで飯を食わせてもらって無かったかのように、がつがつと料理をかき込んでいる。

  正直、元彼達には、そこまで夢中になって食べてくれるヒトはいなかったから、こうもあからさまだと、何だか嬉しいと思った。

  「…いい匂い…父ちゃん…」

  そんな風に大我を見ていると、不意に居間の引き戸が開いて、そこから目を擦った太陽君がそっと顔を出し、こっちを覗いてきた。

  見知らぬ人である俺の姿をみれば、直ぐに身体を隠してしまうけれど、クンクンと鼻を鳴らして、すぐにまたそっとこちらを覗くように見てくる。

  その様子が可愛らしくて、おいでと手を動かすが、どうやら人見知りの激しい子のようで、中々こちらに来ようとしない。

  「大我。…あの子。」

  「…ん?…あ?…太陽、おめぇ起きてきたんか!…食いてぇならこっちゃ来い!じゃねぇとワシが全部食っちまうぞ!」

  「……え…え…」

  「おいで。ご飯よそってあげるから。」

  大我はそれだけ言うと、さっさと飯を食うことに専念してしまい、太陽君は戸惑ったように、扉から半身を出してこちらを見ていた。

  もう身体の半分は入っていたので、手招きしてから小さい茶碗に炊きたてのご飯をよそってやれば、恐る恐る、彼はテーブルの方へとやってきて、そっと椅子に座った。

  太陽君も父親と同じように半裸だ。柄のついた青いブリーフパンツが可愛らしい。

  お皿と箸、それにコップへと麦茶を注いで出してやれば、彼もまた目の前に置かれた料理へと、箸を進め始める。

  最初は恐る恐るといった風だったが、しかしそれもすぐ勢いが増して、美味しそうに頬張る姿は癒しそのものだった。

  こんな可愛い息子を自分も欲しいなと思いながら、叶わない願いを振り払い、ニッコリと微笑んで太陽君を見る。

  「美味しい?これ、お兄さんの手作りなんだ。おかわりはいっぱいあるから、沢山食べていいんだよ。」

  太陽君は何も言わない代わりに、コクコクと何度も頷いて、煮付けへと箸を進める。「あっ」と声を出して、魚の骨が混ざらないように箸で切り分けてやれば、太陽君は目を輝かせて、切り分けられたそれをパクリと口に運んだ。

  なんて可愛らしい子なんだろうか。容姿は大我そっくりだが、性格は素直で大人しく、臆病な感じで、正反対に思える。思わず抱き締めて撫でてやりたいくらい可愛い子だ。

  俺は何度かそうやって太陽君へと魚を切り分けてやりながら、親交を深めることにしたのだった。

  「おかわり!!」

  「……自分でよそえるだろ…」

  「むぅぅ!!」

  「わ、分かった分かった!」

  そんな至福の時を邪魔したのは大我だ。自分で好きなだけよそえば良いのに、わざわざ声を上げて俺にどんぶりを突き出してくるのは、どこのガキ大将だという感じだ。

  拒否しようとしたが、唸り声で威嚇され、睨まれれば従わない訳にはいかない。俺はどんぶりを取ると、山盛りか並盛りか確認しながら米をよそってやる。

  「山盛りじゃ!」

  「はいはい」

  「お、おかわり!」

  「お?いい食いっぷりだねぇ」

  「おい、ワシの時とは反応が違うんじゃねぇか?」

  「太陽君は可愛いからいいの。」

  「なっ!わ、ワシも負けとらんじゃろうが!」

  「何を張り合ってるんだ、何を。」

  そんなやり取りに笑いながら、騒がしい朝は過ぎていく。

  こんなにも笑ったのはいつぶりだろうか。前の彼氏と付き合ってた頃は、自分を偽って、いつだって彼に気に入られようと、素の自分を吐き出せずにいた。

  だから、大きな口を開けて笑う事なんて一度も無かったような気がする。常に清楚な感じを心掛けていて、ただの付き合いだけで、色々と疲弊していって。

  「じゃ、行ってくるぞ!」

  「うん。行ってらっしゃい。」

  「行ってらっしゃい!」

  飯を食い終わって、しばらくすると、大我が早朝の漁へと出掛けていく。食器洗いを途中で止めて、太陽君と一緒に玄関から見送ってやれば、大我はニッと、昔のように牙を見せて笑った。

  その顔が、何だかまるで昔に戻ったみたいで、俺は思わず微笑み返して。

  そこでハッとする。

  大我の背を見送りながら、頭が急激に冷えていく。

  ーー駄目だ。こんなのは。

  ーー間違ってる。いけないことだ。

  そんな言葉が頭の中で響いて、ぶらりと見送る為に持ち上げていた手を落とした。

  「…お兄ちゃん?」

  「…ん?…あ…どした?太陽君!」

  「…ん、な、何でもないです!」

  太陽君に声を掛けられて、そこでやっと我に帰った。意識が覚醒して、取り繕ったような笑顔を何とか浮かべて下を見下ろせば、太陽君はそのまま顔を真っ赤にして、タタタと駆けて行ってしまった。

  俺は、そんな彼を、目で追いながら。

  [newpage]

  違和感は、ずっと前から感じていた。

  「おーい!昴ー!」

  「た、大我!な、何?」

  「なぁ!今度の夏祭り、一緒に行かんね!」

  「な、夏祭りって、街の祭り?」

  「そうに決まってるじゃろうが!他に何があんね!」

  「え、えー!だってバスで1時間も掛かるじゃろ!俺母ちゃんに怒られとぉよ…」

  「そげな事心配しちょったらよう遊べんじゃろ!大丈夫やって!ワシらもう18じゃし!」

  「け、けど…」

  「いいからワシの言う事聞けっちゅうに!!行くじゃろ!!なぁ!!!??」

  「わぁぁあ!!わかったわかった!行くから離してぇぇ!!」

  高校を卒業して、まだ俺がこの村に居た時の事。

  大我が街の夏祭りに俺を誘いにきて、俺は最初それを断ろうと思った。

  でも、相変わらず強引な大我は、諦めるという事を知らず、俺を力づくで祭りに行こうと誘ってきて。

  こちらがその熱意に折れるような形で了承する羽目になった。

  俺は何故か、不安な心を抑えきれなくて。

  祭りの日当日。

  浴衣姿に身を包んだ大我。打ち上がる夜空の花火。参道を彩る色とりどりの提灯の明かりと、騒がしい人々の姿。

  俺の心は、その時からもう、結末を予期していて。

  振り返って笑う大我と、浮かんでは消えていく花火の光。

  はぐれないようにと繋いだ手は、お互いにじっとりと汗ばんでいて。

  村で俺が体験した、その夏最後で最高の記憶。

  その次の日、俺はまるで何かに追い立てられるよう、大我に何も言わず村を出る事にしたのだ。

  ◆◆◆◆

  「太陽くーん?」

  玄関先でそう声を掛けると、しばらくして、チラリと階段から太陽君が顔を出した。

  相変わらず顔の半分だけを出して、こちらを恐る恐る見ているような感じに、俺は少しだけ笑う。

  「俺、帰るけど、また飯作って冷蔵庫に入れといたから、お腹減ったら食べてね?……ていうか、一人で大丈夫?」

  太陽君は無言のまま、ただ頭を縦に振って、俺の言葉を肯定した。

  心配はしてみたものの、どうやら余計なお世話だったようだ。というより、大我の息子だとは思えないくらいしっかりしている子だから、一人で留守番するのも慣れたもんなのだろう。

  とは言いつつ、太陽君を1人にしていいのかという頭の中の声に後ろ髪を引っ張られるような気持ちでいながら、けれど、逃げるように2階へと駆け上がっていく太陽君を見て、俺はそっと溜息を吐くと、大我の家から出る事にした。

  少しは収まったが、まだ頭が痛いのは続いていた。家に帰ったら、もう一眠りしようか、と考えながら、まだほの暗い、地平線から浮き上がってくる日の出の光を見つめながら、俺は家路へとつく。

  けれど、海の上に幾つもの漁船が並んでるのを見れば、あの中に大我が居るんだなと、すこし感慨深くなって無意識に足を止めてしまう。

  きっと先頭を走っている船だろう。目を凝らせば、大我の姿が見えないかなと思って、俺はいつの間にか、すぐ側の浜辺へと足を運んでいた。

  とはいえ当たり前だが、ここからじゃどんなに目を凝らしたって大我の姿は見えない。

  海のさざ波の音だけが、辺りに虚しく響き渡っている。…そして、そんな風にぼんやりとしているうちに波が迫って、慌てて後ろへと後退すれば、俺の足跡はまるで初めからそこに存在しなかったかのように、泡沫へと消え去っていた。

  それを悲しげに見つめれば、何もかも儚いと思っていた、あの幼い頃の記憶が、鮮明に脳裏へと蘇ってくる。

  苦くて……甘い……辛くて……蒼い……

  そんな記憶が。

  生温い風が俺の頬を撫でて、髪が横に大きくなびく。

  やっぱり、帰ってくるべきじゃなかったのかも知れない、と、俺は茜色に染まりつつある空を見つめて思う。

  東京に出ていって、都会の荒波に揉まれた今なら、心の整理もついているだろうと思っていたけれど…。

  この村には、色々な意味で、思い出が多すぎるのだ。

  幾らでも思い出せる。辛かった事……苦しかった事……嬉しかった事……楽しかった事。

  その全てが、今でも俺の心を締め付けて、離さない。それはずっと、今まできっと、忘れたと思い込んでいただけで、俺の心の奥深くに、もう手遅れなほど根深く食い込んでいる。

  踵を返して帰路に戻ると、俺はさっさと家に帰って荷物を纏める事にした。

  駄目だった。やっぱり。今になってもまだ、俺の心は強くない。

  何度も傷付いて、何度も諦めて、何度も挫けて、何度泣いても……

  それでもまだ、この場所で過ごす余裕が、俺には無かったのだと、そう思った。

  さよなら故郷。

  もう二度と戻ってくる事は無いだろうけれど…。

  それでもここは、ずっと俺の愛しの故郷だった。

  ◆◆◆◆

  「けど、いきなりそう慌てんでも、どうしたんよ、突然に。」

  「いや、そういえばやり残した仕事あったと思ってさ。」

  「1ヶ月有休取ったって言ってたんはどうなってんね。まだ1日しか経っとらんじゃろ?……大我君となんやあったんか?」

  「…何も無いって、マジで、バス遅れるからさ、後は電話で!」

  「ちいと待ちんさいよあんた…!」

  帰ってきた母に、別れの挨拶を手早く済ませて、俺は玄関先にいた。

  あまりにも突然の事に、母も困惑しているようで、訳が分からないと言った風に俺を引き止めてくる。

  とはいえ、時刻は昼をちょっと過ぎた所だ。ここでバスを逃せば、明日まで足止めを食らう。そうはなりたくなくて、少しばかり強引に話を切り上げ、俺は靴紐を結んでいた。

  「おーい!昴!われ居るんじゃろうが!出て来いやこの!!」

  「ゲ…!」

  「大我君か?」

  ところが、家中に響き渡る声で、突然そんな大我の怒声が聞こえた。

  俺はしまったと顔を歪めるが、母はおそらく、俺を引き止める事が出来るだろう相手が来たと思って、サンダルを履き玄関の戸口を開けてしまう。

  「まっ…」と静止する声も聞かずに扉が開けられれば、そこには大我が、鼻息荒く、こちらを恐ろしい形相で睨みつけている姿があって。

  「われ!また居んようになっちまった思うて、焦っちまったじゃねぇかコラ!…何も言わんと、勝手に帰るんじゃねぇ!!」

  「大我君、丁度良かったわぁ。昴ったら、もう東京戻るっちゅうて、話聞いてくれんのよ。」

  「なにぃっ!?」

  「えっ、あ、あの…!て、てか、バス遅れるから!また今度!」

  「待てやコラ!!われぇ!そげな事許されると思っとるんかお゛ぉ!??また今度っていつじゃ!!なんでワシから逃げようとすんじゃゴル゛ァ!」

  「ひぃ!!ち、近い近い!顔近い!」

  大我が詰め寄ってきて、俺の手を掴み、引き寄せながらそう怒鳴る。

  息が触れるほど顔が近付いてきて、俺は思わず顔を背けて逃げようとするが、がっちりと掴まれた腕を捻りあげられたらそんな事は不可能だ。

  大我からは汗の臭いだけじゃなく、魚の臭いや磯の臭いがして、きっと職場から帰ってきて俺がいない事に気が付き、シャワーすら浴びる間もなく一直線にやってきたんだろうという事がわかった。

  「来い!こっちにいる間、おめぇはワシの家に寝泊まりせぇ!!!」

  「な、何でだよ!お、俺、帰らないとっ…!」

  「おめぇの故郷はここじゃろうが!!!東京じゃねぇ!!おめぇが帰るのはこの場所じゃ!!」

  「…っ」

  大我のそんな真理とも言える言葉に、俺の心がすくみ上がって、もう何も言うことが出来なくなった。

  最後の頼みで母を振り返るが、母はただ困ったように自らの頬に手を添えるだけで、何もしようとはしてくれない。

  「こっちに居る間は、ワシがおめぇの監視役じゃ!!ええな!!」

  「か、母さん!なんとか言って…!」

  「そう言うたって、母さんもやっと昴の顔見れたんよ?ずっと帰ってこんと、心配したし。もうちいと居てくれたって罰は当たらんじゃろ?大我くん家やったら、いつでもあんたの顔見れようし。」

  「そんな…」

  「来い!このあほんだら!!!」

  「うあ…っ!」

  「顔見せにきんしゃいよ〜!」

  そう言って、俺は無理やり大我に腕を引かれて、そのまま連行された。

  母はどこか楽しそうに手を振っている。大我はのしのしと不機嫌さを隠さない大股で歩き、俺の手はコイツの怪力でただただ痛かった。

  早歩きでさっさと家まで連れていかれ、そこでやっと手を離されると、俺は玄関先へと乱暴に放り出されて、ペタリと床に手をつく。掴まれた所には、赤い手形がつき、大我の力強さがよく分かる。

  「おら!来い!」

  「うっ…」

  どうやら太陽君は友達の家にでも出かけているらしい。俺はまたしても大我に腕を掴まれると、奥の部屋へと連れ込まれ、朝から床に敷かれたままの布団へと投げ出される。

  ピシャリと引き戸を乱暴に閉めた大我は、そんな俺の前に来ると、まるで覆い被さるように倒れ込んできて、俺は思わず恐ろしさに顔を逸らして、布団の上へとへたりこんでしまった。

  「た、大我…何…っ」

  「またワシになんも言わんと…っ!われぇ…東京に戻ろうとするなんざ!どういう了見じゃ!お゛お゛!!?」

  「ひっ…」

  「人の気持ち、試しとるんかおら!!じゃったら!もう加減はせんからな!!!覚悟せぇや!!!」

  「ひああ!!」

  大我は怒りのまま、凄まじい形相で俺を睨む。その威圧感が恐ろしくて、身体が自然と震えた。ガタガタと身体を丸め込み、目尻から涙を流して手で顔を守るようにする。

  そんな手も、大我が乱暴に掴んで布団へと押し付けてしまえば、俺を守るものは何も無くなってしまって。

  ビリィ!と勢いよくシャツが引きちぎられて、俺は抵抗しようと暴れるが、首を掴まれて布団へと押し倒されると、何も出来なくなる。そのままズボンも乱暴に脱がされて、下着まで下ろされれば、俺は産まれたままの姿を大我に晒す事になった。

  まるでレイプされているかのような状況だ。大我は泣きじゃくる俺を見て、どこか興奮しているようにも思えた。

  「やだ…っやめ…っ…大我やめて…っ」

  「うるせぇ!!!黙っちょれ!!!てめぇが悪いんじゃ!!!何もかも、てめぇのせいじゃ!!!!」

  大我はそう、まるで八つ当たりするように言うと、俺の足の間に身体を差し入れて、そのまま身体を倒し、キスをしてきた。

  後頭部を無理やり押さえつけられて、顎を正面を向けられ、そのまま噛み付くように、マズルが俺の唇を覆い隠す。

  太く野太い舌が唇の表面を舐めて、顔を逸らそうにも、力強く固定されていてはそんな事も出来なかった。

  力無く大我の背中を叩いて抵抗するが、それも無意味で。

  大我の舌が、俺の口をこじ開けて中へ侵入する。熱く火傷しそうな程激しい動きで、俺の口の中を蹂躙する。大量の唾液が流し込まれ、無理やりそれを喉奥へと押し込まれ、俺の中に大我のDNAが混ざっていく。

  「んっ…ふむ…じゅ…んんん♥」

  情緒もへったくれもない、乱暴なキスだ。まるでこちらを征服してやらんとでも言うような、そんな制圧的なキス。

  けれど俺の身体からは徐々に力が抜けていき、背中を叩いていた手は、そのままそこに収まるようしがみついた。大我のふとましい足に引っ掛けるよう、俺の足も引っ付いて、荒々しく抵抗していた舌も、まるで自ら絡めるように動いてしまう。

  口を離されれば、一本の糸が、妖しく輝き、いやらしさを助長させて。

  大我の蒼い蒼い、夏の空のような澄み切った瞳が俺を射抜く。俺は無意識に、そこから目をそらす事が出来なくなって………。

  「好きじゃ……昴…」

  「…っ!?」

  ーー…嗚呼……っ…そんな……っ。

  涙が溢れる瞳を、両の手で強く覆う……。

  ーー……駄目だ…っ…そんなの…っ。

  喉から引きつるような声が漏れて…雫が頬を伝っていく……。

  「おめぇを…愛しとる…」

  ーーそんな男らしい低い声で………

  ーーそんなかっこいい真剣な表情で………

  「どうしようもなく…好きなんじゃ…」

  ーー俺に語りかけないでくれ………

  ーー俺を…見つめないでくれ………

  「好きだったんじゃ…!おめぇの事が…!」

  ーーこんなのは間違ってる…

  ーーこんなのは…あってはならない…

  「ひぐ…ぐす……たい……ん♥」

  声を出す前に、また唇を奪われた。

  まるでその後に続く言葉を、聞きたくないと拒否されるように…

  知らなくて良いと初めから諦めるように…

  キスで全てを誤魔化すように…。

  「好きじゃ…昴…!」

  「あ…っ♥…や…♥」

  「愛しとる……ずっとずっと……!」

  「らめ…っ…♥…やら…っ♥」

  「うるせぇ!!……返事なんか…っ聞いちょらん…っ!……このまま……このままワシ無しじゃ、居られん身体にしちゃる!」

  「ひぃぃ…!♥やぁぁあ!♥」

  そんな俺の叫び声は、夏の暑さに溶けてしまって…。

  ーー初めから……分かってたんだ…。

  《行くじゃろぉぉ?昴ぅぅ?》

  《い、行くってばぁぁ》

  《ガッハッハ!そうかそうか!》

  ーーあの夏の日……。

  ーーあの夏祭りの最中から…ずっと……。

  《すげぇ人だかりじゃなぁ…》

  《そ…そうじゃね…》

  《ほれ…!》

  《え?な、何?》

  《はぐれんように…手…握っといてやる!》

  《……っ!?》

  ーー次、もしも俺が大我と出逢ったら…………

  《すげかったなぁ!祭りがこげに楽しいもんだって、今まで全然知らんかったわ!》

  《そ、そうじゃね…(手が…まだ…)》

  《お!次は花火じゃって!!走んぞ!昴!!》

  《わ、わわ!!待って!!ひ、引っ張んないでぇ》

  ーーその時、きっと俺達はもう…………

  《花火…派手じゃったなぁ…》

  《す、すごかった…ね…》

  《……そうじゃな!楽しかったのぉ!!…それに…おめぇと一緒に、こげな花火見れてよかったわ…!一生モンの思い出じゃ!》

  《……ぁ…》

  ーーただの友達じゃあ…居られなくなる…………。

  《また…来年も一緒に見るぞ!》

  《……っ》

  《いや!来年だけじゃねぇ!これからは毎年見んぞ!それがええわ!がっはっは!》

  《…そ…だね…》

  ーー分かってた……。

  ーー分かってたんだ……。

  《ん?…どうしたんじゃ?…昴?いきなり手ぇ離して…》

  《…な…んでも……ない…ちょっと…あ、暑くて…》

  《んん゛~?》

  《ひっ…っか、顔近い…からっ!》

  ーーだって俺は……

  ーー俺の心は……。

  《なんでものうないじゃろ?顔赤ぇぞ?熱でもあるんか?》

  《……き、気の所為じゃよ…!》

  《ウソつけ!具合悪いんじゃろ!?なんじゃ!?救急車呼ぶか!?》

  《え、ええよ!そんなんせんでも!!》

  ーー大我の事を、どうしようもなく愛してしまっていたから…。

  《…そうかぁ??…ニヒヒ…!》

  《……っ!》

  《ただの冗談じゃ…!いつものおめぇに戻ったならええわ!!せっかくの祭りじゃったのに、途中から暗うなりおって》

  《……ぁ…ごめ》

  《ふん!ま、今日だけは許しといてやるわ!今は機嫌ええからな!ワシ!》

  ーーその時……その笑顔を見てしまった時から…俺は…

  ーーしてはいけない…最悪な恋に落ちてしまったんだと…そう確信したんだ…

  《あの……よ…?》

  《ん?…何?》

  《…………》

  《…………?》

  《……やっぱ、なんでもねぇわ!ガハハ!》

  《……な、何?》

  《……ほれ!さっさと帰んぞ!》

  《あ、わ、ひ、引っ張んないでよぉ》

  《うるせぇ!行くぞぉ!》

  《わあああ!》

  ーーあの時大我は……最後、なんて言おうとしていたんだろうか…

  ーー今になっては……わからないまま……。

  「たいが…ぁっ♥」

  「昴…っ♥昴…っ♥」

  大我のペニスが、俺の中を抉る。

  正常位で、一番良い所を擦りながら、何度も何度も往復する。

  腕で顔を隠せば、すぐさまそれを取り払われて、恥ずかしい顔を見つめられながら責められる。

  今まで誰も到達出来なかった場所まで、ゴツゴツと掘り進み、身体中に赤い痕を残されて、所有物の烙印をこれでもかと押された。

  もう何も考えられなくて、訳が分からなくなって。

  何度も何度も絶頂した。

  俺のペニスからも、まるで小便のように潮が吹き出して止まらなかった。

  大我もまた、俺の中に幾度となく種を仕込んで…。

  「イッ…ッ…っ♥」

  「グッ…あ゛…締まる…っ」

  ーー怖かった………。

  ーー恐ろしかった………。

  この感情が淡く……儚いものだったら…?

  この感情が脆く……壊れやすいものだったら…?

  きっと結末は最悪だ……。

  俺の中の大事なもの全て、跡形もなく消え去ってしまうじゃないか。

  そう思った。

  だから、もし大我に拒否されたらと、わけも無く怯えて……

  だから、もし大我と付き合えても、上手くいかないと最初から決めつけて……

  だから、こんな村じゃ、生きていけないと現実逃避して……

  何も言わずに村を出た。

  それがもっとも良い方法だと思ったからだ…。

  結果的にそれが大我を傷付けてしまうと、心のどこかでは、分かっていたけれど。

  自分が傷付くよりは良いんじゃないかと思って、行動した。

  俺はただの弱虫で、臆病な愚か者でしかなかったんだ。

  そしてそれは今も、全然昔から変わっていなくて……。

  「ひぃ…♥も…無理ぃ…♥」

  「まだじゃ……まだこんなんじゃ、満足できん…!」

  後ろから俺を抱き締めた大我が、グッと腰を前に突き出す。瞬間、俺の最奥の、もうこれ以上は入らないと思っていた場所に、大我の亀頭がめり込んで、俺は顔をしゃくりあげながら、また絶頂に達した。

  ダラダラとペニスからカウパーが漏れる。大我が尻で文字を書くように、腰を動かせば、俺はその度に頭が真っ白になって、バチバチと脳に電流が走る。

  一気に先端まで引き抜かれたペニスが、次の瞬間には奥まで挿入され、またしても腰が淫らに動かされた。

  脳細胞がプチプチとちぎれるような音がして、俺は軽く目を上向きにしながら、惚けた顔で絶頂を味わう。

  顔を横向きにされて、後ろからキスをされた。

  パンッパンッ!と1回1回がとても力強いピストンに押し出されるよう、俺のペニスから精子が漏れて止まらなかった。

  大我の大きくて立派な陰嚢が、俺の尻を打ち、キュッと収縮する。ビクビクとペニス全体が震えて、ああ、射精するんだ、と体全体で理解出来た。

  「射精すぞっ!孕めぇ!!」

  「んあああああ♥」

  もう何度目か分からない射精がまた行われる。ぽっこりと腹が突き出してしまうくらいに大量に出された精子が、俺の卵子を探して体内を泳ぐ。

  身体を逸らされるようにして、何度も何度も、射精しながら俺の中を突く大我は、尻尾を俺の足に括りつけていて。

  いくつもの噛み跡が残った。

  耳にも、首筋にも、肩にも、手首にまで、至る所に。

  身体を離されると、そのまま倒れるように布団へと、尻を高くしたままうつ伏せになった。

  大我がゆっくりとペニスを引き抜けば、どぷっ…と溢れた精子がアナルから漏れて足を伝う。

  俺はピクピクと痙攣しながら、ぐったりとして、徐々に意識を失っていき……。

  [newpage]

  初めは…ただの予感でしか無かった。

  大我が仕事をし始めて、親父さんと同じようにがっちりとした体型になりつつあると、俺は視線に困って、少しだけ居心地が悪くなった。

  唯一の親友を、そんな目で見る自分が許せなくて、嫌な気分になって。

  それでも、気持ちはどんどん強くなっていった。

  大我の、時に強引な様子さえ、俺の心を昂らせた程だった。

  最後の夏祭りの日…

  じっとりと汗ばんだ大我に手を握られ、人混みで賑わう神社の境内を走り回った時、俺は感じた。

  幸せだな…

  ずっとこのままで居たいな…

  この楽しい時間が、いつまでも永久に止まってしまえばいいのに…

  打ち上がる花火を指差して振り向いた大我の笑顔が、輝いて見えた。

  全身に花火の光を反射する七色の汗を迸しらせ、男らしく立派な牙を見せて笑う大我に、俺の心は完全に奪われてしまっていた。

  はだける浴衣。見える分厚い胸元。隠されることなくさらけ出された太ましい足と、逞しく筋肉質な腕。

  その全てが俺の視線を奪って、離さない。

  けれど、夜空に消える花火を見て思った。

  この苦く儚い恋が…

  叶う事は決してないだろうと…。

  いつまでもずっと…

  こんな毎日が続けばいいなんて…

  そんな考えは、ただの幻想でしかないと…。

  男同士の恋愛なんて、上手くいきっこない。

  そもそも大我が俺を好きになるとは限らない。

  もし好きになった所で、性格柄俺達はきっと仲違いしてしまう。

  それはとても辛い現実で……。

  パンと鳴っては消えていく花火の光。

  終わった後はもう、何も残っていなくて…。

  そこあるのは、夏の美しい夜の闇だけ。

  楽しかったなぁ!と笑う大我に、俺はただ曖昧に微笑む。

  繋がれた手を見てれば恥ずかしくなって、焦ったようにそれを離した。

  大我はどうした?なんて表情で振り返るけれど。

  周りの目もある。

  この狭い村の中では、子供のうちはただ仲が良いと思われるだけでも、歳を取ればその様子は奇異に映る。

  だから無理だ。初めから。

  どうしようも無いんだ。この気持ちは。

  俺は、そんな現実から逃げるように、村を後にした。

  それがこの村から逃げ出した俺の、本当の心境。

  [newpage]

  頭がガンガンと痛む。尻もじんわりと腫れていて、全身の骨や筋肉が悲鳴をあげていた。身体中に付けられた痕がジンジンと疼く。

  傍には大我が居て、俺を離さないとばかりに抱き寄せながら、ぎゅっと捕まえるから、逃げる事なんて出来ず。

  恐れていた事が現実になった気分だった。

  両思いだとか、そんな事は元から関係なかった。

  このままではいずれ、後悔することになる。

  誰からも辛く当たられて、生きるのが辛くなって。

  喧嘩が増えれば、愛も冷めていく。元より性格が反対過ぎて、いつか絶対仲違いする。

  大我には子供がいて、それも懸念のひとつだ。

  だからそんな辛い結末は、どうしても避けたかった。

  「大我……」

  「…………」

  「…起きてるんだろ…」

  「………なんじゃ」

  「……なぁ、目を閉じてないで」

  そう語りかければゆっくりと、暗闇の中で大我の瞼が開いていく。

  この闇の中でも輝くような、大我の美しい蒼い瞳が俺を見る。

  何時までだって見ていたい目だ。大我の目はいつだって、夏の昼間の澄んだ青空を彷彿とさせるような、自由な色の目だった。

  俺は少しだけ目を伏せて、小さく呟く。

  「……俺…」

  「……寝ろ。」

  言葉を言う前に、そう言って大我は目を閉じた。

  きっとこれから俺の言う言葉が分かって、聞きたくないのだろう。

  けれど、それでも言わなきゃならない事がある。

  誤魔化したって、もう手遅れだから。

  「俺…無理だ…大我」

  「…………」

  「…俺、お前の気持ちには…答えられないよ…」

  今までは、いつも自分が言われる立場だった。

  けれど言わなくて良かったと思う。

  こんなにも辛い言葉、こんなにも心が砕ける言葉、初めから俺には言える筈なんて無かったんだ。

  だからこれで最後…。

  これで全て終わらせる。

  もう二度と、こんな気持ちになるのはごめんだから…。

  「……大我」

  「……うるせぇ。関係ねぇ。」

  「……大我…!」

  「……寝ろっちゅうとろうが…!わしはもう、何を言われたって、おめぇを離すつもりはねぇ…!」

  そう言って強く身体を抱き締められれば、俺はただただ心が苦しくなって、辛かった。

  大我からの愛が重ければ重いほど…

  大我への愛が強ければ強いほど…

  辛くなる…。

  苦しくなる…。

  虚しくなる…。

  嫌になる…。

  俺は、そんな大我の胸元に、顔を埋めて、声を殺しながらシクシクと泣いた。

  そんな俺を尚も強く抱き締める。そんな大我の優しさが、ただひらすら痛くて……。

  ◆◆◆◆

  明け方目が覚めても、お互い無言だった。

  二人で布団に寄り添い、夏の暑さが身体を包み込む。

  二人とも、起きていることは分かっていたけど、言葉が出なかった。

  俺はただ大我の胸元に顔を埋めて、大我もただ、どことなく部屋の壁を見つめ続けていた。

  汗ばんだ大我の身体からは、男らしい匂いがする。

  そろそろ起きなくては、この匂いにこのままずっと包まれていたいと、そう考えてしまう前に……。

  立ち上がろうと身体を動かせば、大我の手がぎゅっと身体を包んで、それを阻止した。

  見上げれば、じっとこちらを見つめる大我の蒼い目。

  その目は苦手だ。好きだから、嫌いだ。

  そんな目で見ないで欲しい。俺はただ、逃避するように目を逸らして。

  「起きなきゃ。…暑いし…身体ドロドロだ…」

  「おい…」

  「ん?…んっ…」

  「……はっ…。」

  身体を起こせば、そう大我に呼ばれて顔をあげた。瞬間、唇に軽く、大我のマズルが密着する。

  「好きだ……昴。愛しとる。」

  「………」

  そしてすぐに口を離され、真っ直ぐ見つめられて、情欲の篭った瞳で愛を囁かれる。俺は何も言う事が出来ずに、ただ泣きそうなくらい顔を歪めて…。

  ーーまだ鳴り止まないひぐらしの声が、いつまでも耳に響いていた。

  俺は逃げるようにその場から立ち上がって扉へと向かう…。

  「おい!待てや!」

  茹だるような暑さが身体を包み込んだ。

  部屋から出ていく昴の後ろ姿を見れば、その背中は今にも消えてしまいそうで。

  ずっと、この10年、見続けた幻影が重なる。

  ここで逃せば、きっともう二度と、この手に昴は収まらない。

  そう思って大我も慌てて立ち上がった。少し遅れて昴の後を追い、一緒に風呂場へと向かう。

  10年だ。10年、片時も忘れたことはなかった。

  忘れようと思っても無理だったのだ。

  いつだって大我は、ふとした瞬間、昴の姿を探していた。

  あの夏の日…夏祭りの夜…。

  痛い程鮮明に覚えている……。

  何度願っても、もう戻る事の出来ない過去……。

  あの時、あと一歩踏み出すことが出来ていたら。

  あの時、自分が昴へ気持ちを告白していたら。

  そう何度も悔やんで、苦しかった。

  意気地無しだと自分を責めた。

  昴の手が離れた、あの時、もしその手を握り返して、好きだと伝えていたならば……。

  何度もその情景を思い出し、最後にキスをする。

  そんな夢を幾度となく見た。

  あの時の後悔は、もう二度と侵さないと、その夢を見る度に誓って。

  「来るな…っ」

  「嫌じゃ…」

  「来ないでくれよ…っ」

  「今更聞かん…!」

  脱衣所で振り向いた昴が、そう言って浴室へと入り扉を閉めた。

  けれどすぐさまそこを開けて、大我も中に入る。

  悲痛な顔で後ずさり、壁に背を預けた昴へと寄り添って、大我はその身体を抱き締める。

  もう二度と離さない。離れたくない。

  捻った蛇口から溢れたお湯が、二人の身体を濡らし始めた。

  ふと大我が昴を見下ろせば、その身体には昨日の情欲の痕。

  欲望のままに求め過ぎたせいか、身体中に傷跡を残した昴は、お湯が染みるのか、少し顔を顰めている。

  噛み跡だけではない、思わず爪をたててしまって、肩や腰には切り傷もある。

  けれど、その身体に自らの証を刻み込んだと思えば、大我は自然と、胸の内に蠢く独占欲を満たせたような気持ちになれた。

  「悪かったな…」

  「………」

  「傷…痛むじゃろうが。」

  昴は何も言わず、大我から背を向けて、壁際に俯いて、自らの肩を抱いていた。そっと手を肩に這わせてみれば、ビクリとそのか細い身体が震える。

  そんな様子すら、愛おしく思えて。

  先に大我が配慮するよう浴室から出て、昴はもう少し経ってから脱衣所に戻った。

  居間では大我がドライヤーで全身を乾かしている姿が目に入り、昴はそんな大我の前へと向かって服を貸してほしいと言う。

  下着とズボンは破かれなかったが、シャツは無惨な姿となって部屋に撒き散らされている。

  大我から貸してもらったTシャツは、ダボダボで、股の下まで隠れてしまいそうなほど大きく、肩がズルズルとしていた。

  大我は自らの匂いとシャツを纏った昴を見て、どこか興奮した面持ちでその身体を抱き締めようとする。

  けれど、身を翻した昴は、そこではっきりと、拒絶の言葉を出して。

  「やめろ…!」

  「あ?」

  「…言っただろ…俺は…俺はお前の気持ちには答えられないって…!人の話聞けよ!」

  「………」

  けれど、真顔の大我は、昴の言葉などお構い無しに、ずいと前に出た。

  「おめぇこそ人の話聞きやがれ!わしゃあもう何言ったっておめぇを離すつもりはねぇっつったじゃろうが!」

  「何言ってんだよ!それじゃあ俺の気持ちはどうなるんだ!」

  「おめぇこそ何言ってんじゃ!!ワシの気持ちこそどうなる!!10年間!いや、その前からずっと!!ずっとおめぇを好きだった!ワシの気持ちは!!!」

  台所のシンクへと手を付いて、向かい合う昴へと覆い被さるようにそう宣った大我は、牙を剥いて怒りを顕にしていた。

  顔が真っ青になる。大我も俺をずっと好きだった?俺が大我を好きになるより前から。

  けれど、そんな事、今更困る。そんなの、おかしい。俺だって…俺だって…ずっと…!

  「いい加減!ワシの気持ちに向き合えやワレ!!何が問題なんじゃ!おお!?言うてみい!んなもん全部、ワシが片付けちゃる!!そんでおめぇと、必ず幸せになっちゃる!!それでいいじゃろうが!?」

  「…〜〜っっ良くないよ!そんなの!!!上手くいきっこないだろ!馬鹿野郎!!!考えてもみろよ!!お前と俺!どこに幸せになれる要素があるっていうんだ!男同士でどうやって暮らしていけばいいんだ!!合わないだろ!何もかも!辛いだけだろ!!一緒にいたって!どう思われると思ってんだ!!周りにさ!!」

  「おい!!!どこ行くんじゃ昴!!」

  「帰る!!!東京帰る!!」

  「待てや!!させるか!!」

  大我の腋の下を潜り抜けて走り去った。

  突然の事に唖然とする大我を置いて、さっさと玄関を越えて、外に出る。

  逃げたかった。大我から。

  直視出来なかった。現実が。

  10年間、いや、それよりずっと前から俺を好きだった?そんな事信じられるハズない。

  だって俺は、酷いやつだ。大我を裏切った。傷付けた。愚かな男だ。そんな奴を好きでいられる奴なんているはずないだろ。

  そもそも人は嘘をつく。人の気持ちなんて理解出来るはずがない。

  大我だって嘘をついてる。幼なじみとか関係ない!信じられるのは自分だけだ。だから……。

  そんな風に俺を期待させないでくれ……。

  そんな風に俺へ迫らないでくれ……。

  そんな風に俺を見つめないでくれ……。

  大我と上手くいかなかったら、きっと俺はもう…二度と立ち直れない。

  今まで付き合った奴らなんかじゃ、比べ物にならないくらい、酷い心の傷を抱えてしまうかもしれない。

  そこで出来た傷は永遠に、俺の心を永久に、そして無限に…どこまでも蝕んでいくだろう。

  だから…………だから……っ…。

  頼むから、放っておいてくれ…!

  頼むから、俺を愛さないでくれ…!

  頼むから、このまま行かせてくれ…!

  頼むから……っ…頼むから……っ!

  ーー俺に幻想を抱かせないでくれ…っ…

  大我の制止を振り切って、一心不乱に玄関へと走る。

  振り返ればそこには、慌てたように俺を見つめる大我の姿があって……。

  そんな綺麗な蒼い瞳で…

  そんな愛情の篭った縋るような表情で…

  そんな男らしく頼りがいのある腕で…

  俺を見つめるな…っ!

  俺を惑わせるな…っ!

  俺を抱きしめるな…っ!

  大我と一緒にいるだけで、俺の頭はどうにかなってしまいそうになる。

  大我と一緒にいるだけで、俺の心は今にも弾けてしまいそうだ。

  こんなの耐えられない。

  こんなのどうかしている。

  こんなのあるわけないんだ。

  ーーこんな、夢みたいなこと……あるわけないんだ…。

  慌てたように飛び出してきた大我から、とにかく一心不乱に逃げるよう走って、行き場もなくそのまま砂浜まで向かった。

  けれど、相変わらず、脚の歩幅さえ大きく違う、そんな大我の足の速さに、俺が叶う訳も無くて。

  「止まれや!!」

  「わぁぁ!!」

  飛び掛かられるように、大我が突進してきた。そのまま抱き寄せてられて、砂の上を大我の大きな体に包み込まれながら激しく転がる。

  まだ藍色の空深く、辺りに響くのは波の音だけ。

  「もう絶対離さん!!」

  「離せ!!どけろ!!」

  「嫌じゃ!!離さん!!」

  「離せよ!この!離せ…っ…離せよぉ…!」

  「離さん!!二度と離さんと誓ったんじゃ!!絶対に離してやるもんか!!」

  「うう…っ!うぁぁあ!!…!!」

  大我が夜空に叫び、俺はその胸の中で暴れた。

  けれどどんなにもがいても、どんなに抵抗しても、拘束は解けるばかりか、尚更強くなっていき……。

  俺は泣いた。

  無意識に涙が出た。

  ボロボロと子供のように泣きじゃくり、大我の胸に顔を埋めた。

  優しすぎる大我の言葉が……。

  楽観的で子供の夢みたいなこの虎の言葉が……。

  俺をズタズタに切りつける。俺をバラバラに砕いてしまう。

  無理だ。

  出来ない。

  そんなの非現実的だ。

  そんな言葉で誤魔化して、何もかも投げ出して…。

  全てから逃げた。何も考えず逃げるのが楽だった。

  そうすれば、傷つくことも無い。傷つくはずなんてない。そう考えて…。

  今まで付き合ってきた奴らと決して結ばれなかったのもそうだ。

  初めから結ばれないと分かってて、言い訳のように付き合っていた。

  現実なんてこんなもんだと、恋愛なんて上手くいかないものなんだと、そう自分に言い聞かせる為に、付き合った。

  全ては、大我とも上手く行くはずなかったんだと、自分を慰める為に。

  もし付き合っていたとしても、無理だったんだと、諦めがつくように。

  そんな惨めで、愚かで、ろくでなしな自分を、嫌いにならない為に…。

  全ては、幼馴染の親友を好きになってしまった自分に対する言い訳だった。

  叶いっこない。上手くいきっこない。そもそも恋愛自体、最終的には意味の無いものなんだ。

  そう考える事で、自分を守った。

  ーー弱い弱い、俺の心。

  大我は仰向けのまま、泣きじゃくる俺をぎゅっと抱き締めると、まるで俺を慰めるように優しく空に叫んだ。

  「もしおめぇと喧嘩しても、ワシが最初に謝ってやる!!!」

  喧嘩したなら、こっちから謝ればいい。もしそれが上手くいかなくても、また謝ってやる。それも上手くいかなきゃ、更に謝る。

  昴の機嫌が治るまで、何度も何度も…。

  「もしおめぇとの仲を批判されても、そんなもん知ったこっちゃねぇ!!!」

  周りの奴らにどう思われようと、どう見られようと、そんなものは関係ない。

  自分が好きになった奴と、好きに暮らして何が悪い。

  文句を言うやつはぶっ飛ばしてやる。世界中敵に回しても、ワシは昴を愛している。

  「周りの目なんか気にすんな!上手くいかなきゃ、ワシが上手くいくように全力をつくしちゃる!ワシの気持ちを馬鹿にすんな!おめぇを10年以上!好きで居続けたワシを信じろ!昴!!!」

  伊達に10年…いや、その前からずっと、昴を好きでいた訳じゃない。

  一度こうと決めたら諦めないのが大我という男だ。

  何があろうと、なかろうと、昴を愛し続ける。その気持ちが変わる事は永遠にない。

  そして、最後には囁くように…

  俺を見下ろして、慈しむように…

  「好きじゃ昴。」

  愛してる。世界で一番。

  「愛しとる…。」

  好きだ。この世の中で誰よりも。

  「たいが…っ…」

  泣きじゃくる昴を抱き締めて誓う。

  永遠に愛し続けると…。

  太陽が登り、空が茜色に染まる。

  水面がまるで鏡のように光を反射して、二人を祝福するように煌めく。

  不揃いな二人の足跡は、今度こそ波に消えずに残っていた。

  もう、昴の心に迷いは無く…。

  地平線から浮かび上がる逆光の光に、二人の影が重なった。

  マズルと唇、隙間が消えて…。

  一陣の風が、二人の頬を暖かく撫でる…。

  朝焼けの海で、キミと…

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