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俺の夫、いや、恋人、いや、伴侶、いや、旦那、は、白熊の獣人で、しかも男だ。
旦那は無口で基本無表情。何を考えているのかは、あまりよく分からないけれど……、まぁ、別に無口ってだけで、そんなに悪いやつじゃない。
身長は多分2mくらいあって、俺が目いっぱい抱き着いても、胴周りは俺の手が回りきらないくらい太くて、とにかくデカい奴だ。
俺がしっかり抱き付けるのは、首の辺りとか、足とか腕とか。それだけ抱き付ければ、普通に充分だけどさ。
俺がお喋りなタイプで、それに結構スキンシップが激しいタイプだから、よく座っている旦那の後ろから抱き着いて、頬を擦り寄せてしまう。
それは旦那と付き合う前からの話。
そうそう、旦那との出会いは大学生の頃で、俺なんか別に、男が好きとか、そういう訳じゃなかったんだけどな。
いつの間にか、同棲までし始めて、実は結婚とかはしてないんだけど、俺の中ではもうコイツは旦那って感じだから、勝手にそう位置づけてしまっている。
大地って名前がちゃんとあるんだけどさ。
つーか、こいつにピッタリの名前過ぎて、正直面白くね??
ここまで惚気けておいて何だが、俺達は奇妙な事に、出会ってから今まで一度も、実は性的な関係を持った事はない。
変だろ?…でも本当にそういう事はないんだ。
…あ!…そういえば1回だけあったかな。
といっても、軽いキスだけだけど。付き合い初めの頃の話だ。まぁ、同棲したての時だな。それもはっきり言って、キスというには拙すぎて、一瞬だったし、ちょっと触れたくらいだった。
俺の方からやってみたのだけど、恥ずかしすぎてすぐ旦那の胸元に顔を埋めて、そのまま動けなくなってしまった。
だってさぁ、相手が寝てるって分かってても、どうにも恥ずかしくて、胸のところがこそばゆくてさ…!
あ、旦那が寝てたってのはね、実はこれ、ベットに入ってからしばらくしてやってみた事であって、実は俺の独断なんだ。だから、実際の所、一方的だし、こりゃキスには入らないのかもしれない。
ーーそんなキスとも言えないキスが、本当に、最初で最後のキスだったと思う。
元々、俺はゲイじゃないし、俺達は別に、告白し合ったりしてこういう関係になった訳じゃないからさ。
それは旦那の方だってそうだ。そういう話は何となく避けてきたから、こいつがゲイかどうかってのもはっきり言って俺は知らなくて。
もしかしたら、コイツは単に、俺と友達同士のシェアハウスをしている感覚なのかも知れないし...。
だから、勇気を出しても、精々相手が寝たと分かってて、そうして隠れてキスするくらいだ。
それだって、たった1回でそれ以降は無いけれど…。
でも!こういう関係になったのは、元は旦那の方からアプローチしてきたからで…!!。
つーか、付き合ってなかったら、一緒のベットで眠ったりしないよな!?
抱き合ったりもしないしさ!手を繋いだり、一緒に山にキャンプしに行って、夜空を眺めたりもきっとしないだろ?
日頃から一緒にゲームで遊んで、飽きたら映画を見る。ソファーでは、いつも俺の方が旦那の太腿を枕代わりにして、一緒にそのまま寝落ちたり、旦那がベットに運んでくれたりする。
そんな事までしてるのに付き合ってなかったら、一体何だって言うんだろう。
でも、事実、これまで告白された事は一度だってないし……
やべ!そう考えたらちょっと、なんだか不安になってきたかも……くそ〜。
◆◆◆◆
...それは大学の頃の話だった。
俺達はボードゲームのサークルに入ってて(旦那はこう見えて結構ゲーム好きである。)ゲーム終わりに飲み会をし、各々帰ろうとしていた時の事である。
俺と旦那は元々帰る方向が被っていたので、途中まで一緒に帰る予定だった。
冬という事もあり、夜は結構寒くて…俺は自分の肩を抱きながら、冷たい夜風の突風に身をすくめた。
そしたら急に、旦那が俺の手を握ってきたんだ。
突然の事に、俺はビビったけど、旦那の手はめちゃくちゃ暖かくて、その温もりには抗えなくて。
何だか、妙にドキドキした。……コイツ、何やってんだって、普通にそう思ったけど、それを口に出すことは出来なくって。
だって俺は結構、旦那に抱き着いてたりとかしていたからな。特に冬は寒いからって、講義室に入ると後ろからガバッと。コイツは毛皮があってモフモフしてるから暖かいし、身体がでかいから無駄に抱き着きやすいというか。
そんなんだったから、実の所旦那が突然手を握ってきたのは、別に不思議でもなんでもないのかも知れないと考えた。
手って言うのがなんだか奇妙だけど、俺は身体に抱き着いてる訳だし、それに比べたら控えめな方なのか?...みたいな。てか、いつもの意趣返し?的な。
相変わらず旦那は無口で、何を考えてるかさっぱり分からないけれど。
カラッと乾いて澄んだ夜空には、大きな満月の光が光り輝いていて、吐いた息の白さが、目に見えて分かる。
俺は顔や耳を真っ赤にしていたけど、きっとそれは、冬の寒さのせいだと、そう誤魔化して…。
何だかいつもみたいに言葉が出なくなって、そのまま真っ直ぐ帰るつもりが、まるでデートでもしてるみたいに、誰もいない公園のベンチに二人座って、夜空を見上げた。
「...ここ…星が綺麗だな。」
旦那はただ一言そう言うだけで、俺達はそのあと、手を繋いだまま、静かに夜空を眺め続けたのだった。
その日から、俺は何だか、旦那に抱き着くのが恥ずかしくなって、というより、手を繋がれて、妙に意識するようになって、自分から過度なスキンシップを控えるようになった。
「あれ?今日は大地に抱き着かねぇの?」
「めーずらしー!」
「うるせー!」
周りからそんな風にからかわれて、俺は机に座る旦那の後ろ姿をチラリと見た。
やっぱり前の日の事が本当に恥ずかしくて、一体あれは何だったのだと考え過ぎて、でも、その答えは結局出る訳もなく...。
隣にストン…と腰を落とした。「よお…」と言ったら「...あぁ」とだけ、短く素っ気ない返事が帰ってきた。
あのさー、昨日の事なんだけどさー。……なんて、素直に聞ければ良かったけど、俺は机に頬杖をついて、少し唇を尖らせながらちょっと退屈そうに黙ってしまって。
そして、そんな風に周りの皆も席につき、講義が今にも始まるぞと、そんな静けさが場を包んだ頃。
(えっ!?)
突然机の下で、俺の空いた掌に、そっと大きな手が被されたかと思うと、その手はギュッと、俺の手を強く握り締めてきた。
俺はビクリと身体を震わせたけれど、相変わらずその温もりが心地よくて、というより、授業が始まる直前に突然そんな事してくるなんて、どういうつもりだ!なんて考えながら...、でも、その手を振り払うような事はしなかった。
というより出来なかったんだ、あまりにも唐突過ぎて。
俺は耳まで真っ赤になってさ、旦那の方を見る事が出来なくて。てか、見るなら手を握られた瞬間に見るべきだったんだけど、完全にタイミングを逃したわけ。
結局、そのまま授業が終わる頃まで、俺は旦那と手を繋いだままだった。
もちろん、授業中、ずっと意識が向いていたのは、その掌の温もり。
旦那の太い指が、俺の親指の付け根を撫でたり、関節の皺をカリカリと引っ掻いてみたり、ずっと同じ状態が窮屈になって少し手を動かしてみたら、今度は恋人繋ぎみたいに指を隙間に絡められたりして。
なんか、手だけでめっちゃ卑猥な事をしてるみたいでさ、俺はもう、恥ずかしくて恥ずかしくて。
相変わらず旦那は、そんな俺に対して何にも言わなかった。
まるでそれが当たり前の事のように、平然な顔をして、何にも気にしてないって感じの横顔が、凄く癪に触った。
なんというか、まるで弄ばれているような、そんな感じがして。
意趣返しのつもりで、次の授業では、俺の方から手を繋いでやった。
そしたらきっと、コイツも少しは焦るんじゃないか?とか、そんな事思って、フッと、したり顔でさ。
けど、そうはならなかった。まるで準備してたみたいに、ギュッと手を握りしめられて、逆に俺の方が逃げ出せなくさせられた。
俺が机の下で四苦八苦してるっているのに、旦那は平然な顔をして、ちゃんと目の前の授業に集中してるのが恨めしくて。
終始俺は弄ばれてるような感じだった。
それから毎日のように、人目が無い時、俺達は手を繋ぐのが当たり前になっていって......。
……そうして、次第に、いつの間にか手を繋ぐ緊張とかは無くなった。
自然と手の形を変えたり、動かしても平気になって、違和感とかも徐々に無くなっていく…。
でも、それまでずっと感じていた奇妙な感覚は相変わらず続いていた。
だから何となく、俺がちらりと旦那の方を見ると、旦那も頬杖を突きながら、俺の視線に気が付いたのか、ちらりとコチラを見て、けれどすぐまた前を見直し、少しだけその口角をクイと上げ不敵に笑う。
なんだよ。その顔。なんだかちょっといけ好かない顔だな。俺を子供扱いしてるみたいで、少しだけムッとする。
そもそもさ、こいつって、こんなに人を見下すような感じだったかな。
というより、いつも俺がからかうように抱き着いていたから、その仕返しかなんかで、こんな事をしたんだろうか?
そう思ったら、なんだかストンと、妙に落ち着いた。なんだ、そうか。そういう事か。なんて思って、俺もフンと鼻を鳴らしながら、口角を上げる。
そっちがそのつもりなら、もう俺はわかったぞ!遠慮とかもしないし!
いつも通り、抱き着いたりしてやるからな!
そう思って、次の日、俺は二日ぶりに、旦那を後ろから抱き締めてやった。うぇーい!とか言って、冬の寒さを誤魔化そうと、登校してすぐに。
そしたら今度は、抱き着いた俺の腕にそっと旦那は手を添えてきて、それだけじゃなく、俺の頬へと自分から、その頬をそっと、周りにはバレないように擦り寄せてきたじゃないか。
それは今まで微動だにしなかった旦那の、初めての反応であり、俺は思わずドキッとする。
まるでその行為は、俺の抱擁を迎え入れるみたいで。
……想像してた反応と全然違った。
旦那はいつも通り、無反応で、何もしてこないと思ってたのに。
俺はまたすぐに顔が真っ赤になった。頬に触れる柔らかい被毛の感触が、俺の敏感になったその赤い頬を撫でて、心地よかった。
でも、そんな事より、俺の心はまた浮き足立ってしまって。
自分から抱きついた癖に、焦ってそのまま固まってしまった。声とかも出なくなって、身体がとにかく暑かった。外の寒さなんて一気になくなり、むしろ部屋が暑すぎると思ってしまうくらいだ。
「お?今日は長いなぁ」とか茶化す声が聞こえて、そこでやっとハッとしながら、俺は旦那から離れる。
「授業が始まるぞ!」と誰かが言うと、俺は慌てて旦那の隣に座った。もう、何が起こってるのか分からなくて、頭には“?”が幾つも並んでいる。
そんな俺に旦那が一言。
「……満足したか?」
そんな低く小さな声が聞こえて、旦那の方を見れば、彼はまた、口角を上げながら、不敵な表情でこちらを見下ろしていて。
「っ!?」
そしてまた、机の下で当たり前のように手を握られた。
俺は思わずビクリと肩を揺らして、心臓の鼓動をうるさく聞いていた。
「今度の土曜、俺の家でゲームでもするか」
それは唐突なデートの誘い?だったと思う。
突然の申し出に、俺が言葉を失っていると、今度は……。
「それとも、どっかに飯食いにでも行くか」
なんて……。
その言葉は、まるで思考が垂れ流されてる独り言のようにも聞こえた。
おいおいそんなの、誘ってる本人に聞くか?…というか、聞いてるのかすらわからんけどさ。
「どうする?」
あ、やっぱり聞いてたのかよ。
旦那は、俺の方を向くと、穏やかな笑みを浮かべたまま、べったりと頭を、肘を斜めにした腕に寄りかからせた。頭を軽く寝かせて、だらけたようにこちらを見る。
その勝ち誇ったみたいな余裕綽々の顔はなんなんだよって思った。しかも手は尚更ギュッと握ってくるし、その握った手の甲で、俺の太ももさえもゆっくりと撫でてくる。
「……俺に…聞くなよ」
俺は精一杯の勇気を出して、そんな言葉を出した。
声を出すだけでも、かなりの勇気が必要だったって意味だ。出した言葉なんて考えてる余裕はなかったし、勿論、ゲームか食事かなんていうのも選べるはずがない。
「なら、夜景を見るのもいいな。」
旦那がそう言って小さく笑った。
結局どっちでもないのかよ!なんて思ったけど、多分初めから俺が戸惑う姿を見て楽しんでたんだろうと思う。
旦那は結構、悪い男だ。
というより、意外とヒトの心を操るのに長けてる気がする。他人とあまり関わってる所を見た事が無いから、勝手に人見知りだと勘違いしていたけれど、そんなのとんでもない。
旦那といると、俺の胸の内が丸裸にされてるみたいで、凄く落ち着かなくなるんだ。
だって、何の変哲もない小さな行動で、俺の心をこんなにも大きく揺さぶってきたりするんだから。
普段は無口で、一体何を考えてるか全然分からない奴だけど、これだけは言える。こいつ実は結構、プレイボーイだ。
結局旦那は、俺を夜景に連れていった。
まるで俺が子供の背丈に感じるくらいデカいバイクを持ってて、それに乗せられて、街を一望できる山の上のスポットまで連れていかれた。
旦那は頼んでもいないのに俺を家まで迎えに来てくれたし、暖かいコーヒーまで、タンブラーに入れて持ってきていた。準備はもう、茶化す隙もないくらい万全で、それがまた、俺の心を惑わせる。
山の頂上で、紙コップに注がれたコーヒーを飲みながら、寒くないようにと、自然な流れで肩を抱かれて、寒空の下に光り輝く街を見下ろすのは、すごく気分が良かったと思う。
その上に輝く大きな月も綺麗だったなぁ。
空は雲ひとつ無い快晴で、星が光り輝いていた。冷たい空気が心地よくて、旦那の身体は凄く暖かった。
《…気に入ったか?》
耳元でこっそりと呟かれて、俺は思わず咄嗟にバッと耳を隠しながら、今度こそ固まるまでもなく旦那を見た。
旦那は相変わらず、軽く口角を上げて、小さく微笑みながら、俺を不敵に見下ろしており、俺は一瞬の動揺のあと、ムスッと頬を膨らませる。
突然耳元に暖かい息が掛かって、低いバリトンボイスが鼓膜を震わせたら、そりゃ誰だって焦るだろ?
それにコイツの声って、たまにしか聞かないから、こんな声だっけ!?って毎回驚くんだよな。
見た目低い声って言うのはイメージで分かるけど、想像してた以上に優しくて、落ち着く声だ。
《突然近付くの禁止!》
思わず俺も小声になって、そう言った。別に周りに人なんて誰も居ないのに、なんか恥ずかしくて、小声になった。
そう言ったら旦那は、クックッと口元を拳で抑えるようにしながら笑いを堪えて、ギュッと肩を抱いてくる。
またそうやって、俺をからかう。そこで当時の俺はやっと、そう言えば肩、いつの間にか抱かれてたな…なんて気が付いて、それもなんだか面白くなくて俺は唇を尖らせながら、腕を組んだ。
前を向いてるから、旦那が今どんな顔をしてるか分からないけど、きっと俺を見下ろしてまだクスクス笑ってるに違いない。だって小刻みに動いてるのが密着してる身体から伝わってくるし。
だから俺は後頭部をゴツンゴツンと何度か旦那にぶつけて抗議した。そしたら旦那は、俺の頭を撫でてそれを牽制してくる。でも、そういうのが嫌だって言ってるのに、まぁ、ただ頭で抗議してるだけだから伝わってないんだろうな。
結局、俺達はしばらくそうやって夜景を堪能したあと、家に帰って……。
旦那は俺を、ちゃんと最後まで送り届けてくれた。
玄関の前までやってきて、「じゃあな」とか言って、俺のおでこをその太い人差し指で突っつき、俺がそこを掌で抑えてるうちに、小さく笑って踵を返す。
いちいちそんなドラマみたいな仕草するやついるか?
それも、しっかり似合ってるところが気に食わない。
ジーンズのポケットに手を突っ込んでさ、大きな黒いダウンジャケットを軽く靡かせながら、大型のバイクに向かって、慣れたように跨った旦那は、最後にこちらを軽く見ると、片手を上げてそのまま走り去っていく。
あのデカいバイクがずっしり旦那の体重に弾んでさ、アクセルを回すとブォンブォンブォォン!なんて派手な音を立てて、夜の街に消えていく姿は、それはそれはもう印象的で、思わずしばらく立ち尽くしちゃって。
なんて言うか、卑怯だよな。
そんなの見せられたらさ、同じ男としても悔しいって言うかなんていうか。
でも、圧倒的スペックの差を見せつけられると、もうそれに反抗しようなんて気持ちはなくなってしまって、なんていうか、深く考えるのはやめにした。
考えれば考えるほど深みにハマって行ってるような気がしてさ。
まぁ、夜景を見るのは楽しかったし、それでいいか!なんて、そんな事を考えて…。
それからは結構、デートに連れていかれたっけなぁ。
多分夜景を見に行ったことで、遠慮なんか無くなったんだろう。
旦那のバイクに乗せられて、海や山は勿論、夏祭りに行ったり、キャンプなんかもした。
旦那は白熊の獣人だから、身体が山のようにデカいのだけど、太ってるだけのように見えて、意外とアウトドアタイプで体力があるんだよな。
ただ単に太ってる訳じゃなくて、結構ガッチリした筋肉が毛皮越しでも分かるくらいにはある。
それが獣人特有のものなのか、それとも自分で鍛えているからなのかわからないけどさ。まぁ、休日はジムに言っていると言っていたから、鍛えてるのかな?
性的な関係は結んだ事がないけれど、海に行った時とか、キャンプで川に入った時、旦那が服を脱いだ事もあるので、上半身と足の膝から下くらいなら裸を見たことがある。
だから、その身体がガッシリしてる事は知ってるんだけどさ。
男の俺でも思わず見とれてしまうほどの筋肉だった。
中身がぎっしり詰まってるみたいな、そんな感じの筋肉で、肘とか、腕の筋とかも凄くてさ。胸のわさわさした毛は、人間に例えると胸毛って所だろうか。
俺の身体なんて、同じ男とは思えない程で、ちょっとショックだった記憶がある。
まぁ、獣人と比べること自体、間違ってるんだけどさ。
と、結局、そのまま自然な流れで、いつの間にか同棲するようになってた。
キャンプで二人きりになったりして、寝食を共にする事は頻繁にあったし、大抵どちらかの家に入り浸ってた(互いの家が遠いので、帰るのが面倒くさくて、どちらかと言えば俺が旦那の家に泊まりまくってた)ので、全然抵抗とかなく、本当に当たり前な雰囲気で一緒になった。
だって、そっちの方が家賃とかも折半できるから安くなるしな。住んでないのに金払うなんて馬鹿らしいだろ?そんな話を旦那にしたら「じゃあ一緒に住むか?」なんて言ってきて。
俺は別に、深く考えるわけでもなく「それ、いいかもなぁ」なんて答えてた。
それからは色々早くて、次の月からはもう同棲してたっけ。
旦那は公務員の資格をとって、俺は図書館の司書になった。こう見えても俺は読書家で、本を読むのが結構好きなんだ。だから、本に携わる仕事なら何でも良くて、でも、旦那の仕事に合わせるならと、司書になる事にした。
結果、大学卒業後はそのまま近場で働く事が出来て、まぁ、俺たちはなかなか上手くやっていると思う。
そうそう、一緒に寝るようになったのも、キャンプとかで二人並んで寝たりしたのがキッカケだったりするんじゃ無かろうか。 ……いや、ソファーで俺が旦那を枕にして寝落ちするのが多かったからとか?
ぶっちゃけた話、正確な理由は今でもいまいち理解してない。いつの間にか一緒に寝るようになってたし、同棲して結構すぐの話なので、もう詳しい事は覚えてなかった。……あ、ベットが一つしか無かったからかな? 旦那の家は広いけど、流石に俺のベットを持ってきて並べて置けるほどの広さはなく、まぁ結局、今じゃ旦那の温もり無しじゃ俺は寝られなくなってる。
ん?…もしかしたら、旦那がいつの間にかそう仕向けてたのかも…!なんて考えてみた…。だってさ、コイツは結構腹黒いから、十分そういう風に仕向けてたと思えるところが怖いのだ。
夏は暑いから、クーラーガンガンにかけて、でも旦那にくっつきながら寝る。それがまた気持ちいいんだよな。丁度いい暖かさでさ。
それに、冬はもちろん寒いからくっつく羽目になるだろ?
そういう刷り込みが積み重なったのかな。きっと。結局一年中くっついてるんだから、一緒に寝るのも普通だと考えるようになって当たり前なんだ。きっとさ。
そういえば、一度だけキスしたのも理由があって……。
もう手とか当たり前に握ったり、旦那の方からも俺に緩く抱き着いてきたりするようになって、少し関係に慣れた辺りだった。
言った通り、旦那とは同棲する以前から家に入り浸ってたからさ。そういうの結構、頓着しなくなってて。
俺もちょっと、試したかったんだと思う。何を試したかったのかなんて、言わなくても分かると思うけど、つまりは、俺達って結局、どういう関係なの?と思って。
部屋の電気を消して、真っ暗にした。目を開ければ、薄らと旦那の顔が正面に見えて、都合よく、少し顔を突き出せば唇がくっつくくらいの、息もかかるような近さにあった。
俺はドキドキしながら、結構葛藤した気がする。やっぱりやめようか?いや、でもしてみたいんだよな!......みたいな、そんな感じの事、延々と考えて…。。
そんで、しばらく経ってから、意を決して唇を突き出した。
言った通り、一瞬触れるか触れないかくらいの、拙いキスだ。
はっきり言って、かなり時間が経ってたと思うので、旦那が気付いていたかは微妙なとこ…というよりほぼほぼ寝てた率が高くて気付いてなかったと思うんだけどさ、俺はすぐに身体をズリズリとベットの上で動かして、旦那の胸の中に顔を埋めたから、結局どっちかは最終的にわかんなかった。
だってさぁ!何度も言うけど、もう恥ずかしくて恥ずかしくて!
旦那の心臓の鼓動が聞こえた。
ドクン…ドクン…ドクン…
それは結構速かったように思う。けど、俺の心臓の音の方が煩くて、きっとそれは俺の方の音だっただろうなって、今思えばそんな気がする。
この旦那が、たとえ仮に気付いていたとしても、あんな軽い、キスとも言えないキスくらいで、そんなドキドキしたりするはず無いもんな。
普段からこっそり俺の耳元に息を吹きかけながら話しかけてきたり、冷たい手を突然背中に入れてきたりして俺をからかう奴がさぁ。無い無い…。ありえないよ。
その日の朝は、珍しく旦那が寝坊した。
あんまり寝付けなかったらしいけど、理由は話してくれなかった。
旦那が目の下に隈を作って、眠そうにしてる姿なんて初めて見たから、もうおかしくておかしくて。
笑ってたら、ずいと顔を近付けてきた旦那が、俺のおでこをデコピンで小突いた。
「痛て〜」っておでこを撫でてたら、ちょっと清々したみたいに、旦那は少しだけ笑って。
あんまり腹が減ってないからと、いつもより少ない量の朝ご飯を用意したのに、いつの間にかペロッと食べてしまった。
結局、旦那がその日、少しいつもと違っていた理由は、分からずじまいだったなぁ。
あ、そうそう、朝ご飯で思い出したが、旦那の実家は東北の方で、米農家をやっている。
だから毎年のように大量の米が送られてきて、米に困らない生活は、一度体験すると結構便利で前みたいな生活には戻れないと思う。
旦那の食費は凄まじいからなぁ。だってさ、一度の飯で米3合を普通に食っちまうから。
別に凄く大食いしてるようには見えないし、食う速度も早いようには見えないんだけど。
その実、一口がデカいんだよ。器も、味噌汁とか、ボウルくらいのデカさがある茶碗を使ってるからさ。でもそれが五分後くらいにはもう空っぽになってる。
飯を作るのは大変だけど、旦那はそんな感じだから自炊を良くやってたみたいで、料理が得意だ。
俺も手伝うけど、旦那には正直叶わないな。味付けとかもやっぱり、大量に作れば作るだけ、分量が変わってくる訳だし、それはもう、旦那が自分の分で慣れてるから、手際がいい。
でも、そんだけ作っても、米は余るほどあるから、本当に旦那の実家には感謝している。
そんで、それを食事の席で何となく話してみたら、突然意を決したように、旦那が今度実家に一緒に行こうと誘ってきた。でも俺は正直言って、かなり迷ってる。
だって、どんな顔して旦那の家族に会えば良いのかわからないしさ。
恋人です!って感じで行けばいいのか、それとも、友達です…!って雰囲気で会えばいいのか。
仮に恋人です!って感じで行くと、色々複雑になるだろうし、心配はかなり多い。
旦那の家族が受け入れてくれるかどうかも不安だけど、実際のところは、俺達って結局、付き合ってるかどうか…曖昧だし。
逆に友達です…!って雰囲気で会いに行ったら、もしかしたら「え?わざわざ友達が来たの?しかも同棲してるって?なんだそりゃ」みたいな感じになったら、えーと、あの、そのーって、俺も困惑する。
だから俺はまだ、旦那の実家に行くことをOKしていない。答えは曖昧にして、まぁ機会があったらね!くらいのテキトーな返事で返してる。
でも、カレンダーを見たら、夏のお盆休みのところにきっかり旦那の字で『帰省』って書いてあるんだよな。
あ、これもうあれだな、俺を連れていく気満々だな。って感じ。旦那はその時、後ろでもくもくと飯を口に運んでいた。
そういう訳で、あっという間にお盆の季節になり、いつの間にか俺の荷物はトランクケースにまとめられていて、準備万端になってた。
あれ?おかしいな?俺、まったく準備した覚え無いんですけどって思いながら、床に置かれたそれを見ながら寝ぼけた顔で歯を磨いてたら「早くしないと道路が混むぞ」とか後ろから声を掛けられた。
いや、俺、返事を曖昧にしてたのに、やっぱり連れてかれる流れじゃんこれ。
別に行きたくないわけじゃないんだけどさ。やっぱりどういうスタンスで行けばいいか分からないし、もう一体俺はどうすりゃ良いんでしょうね。
歯を磨き終わって、顔を洗ったら、手を引かれて引っ張りだされた。
バイクじゃケースは持ち運べないので、旅行用に旦那が購入した大型車に荷物を詰め込み、ここから数時間のドライブだ。
朝の五時だよまだ。7時間も車に揺られるなんて、ただの苦行じゃないか…。やっぱり行かない方がいいんじゃね?そうじゃね?
そんな淡い期待も打ち砕かれ、無理やり車に詰め込まれた俺は、結局東北へと続く長旅へと駆り出された。
着く頃には昼の12時くらい?冗談じゃないよ寝るよう俺は。まぁ因みに、多分お察しの通り、俺は免許を持ってないので、運転は全て旦那任せである。旦那は俺が隣で眠っているのを見て羨ましいのか、ちょっと俺が眠り惚け始めた頃に、前を向いて運転しながら、ブニュ…と俺のほっぺたを定期的につついて来て、俺の眠りを妨げる。
全く寝れないというわけじゃない所がミソだ。俺が怒るに怒れないような、微妙なタイミングで頬をつついてくるので、憎むに憎めない。
実際の所、車で二人旅行に行くのは、結構旦那の趣味もあって頻繁にあるので、長旅の心得というのは会得している。
旦那がずっと運転しなきゃならないので、コイツにも息抜きが必要なんだろう。最初は凄く運転させるのが申し訳なかったけど、そんな気持ちは三回目の旅行くらいで吹っ飛んだ。
だって、旦那はそもそも車を運転するのがかなり好きな奴だから、多分俺が仮に免許を取ったとしても、運転は任せて貰えないと思う。
まるで自分の子供のように、丁寧丁寧ていねー(サカナクション)に車を手入れしてるしな。勿論バイクの方も。
ドライブデートはなんも無い日でも結構連れてかれる。宛もなくバイクで爆走したり、雨の日は車でのんびり走ったり。
でも、好きとは言え、流石に5時間以上運転するのは疲れるのだろう。だから俺にちょっかいを出して気分転換するのが必要なんだ。
旦那の腕は俺の胴体より少し細いくらいのデカい腕だから、抱き枕にするには丁度いい。あまりにも頬をつつくのがしつこいと、俺がもう旦那の腕にすがりついて動けなくするので、そうすると運転に支障がでるだろうし、そうならないよう、一応の節度は持ってるようだ。
片腕でも運転出来ないことはないだろうけれど、道を曲がったりする時には凄く危ないし不便だからな。でも最近は抱きつこうとすると上手く抜け出したりする技術を身に付けてきていて、ほんの少し悔しい気持ちになっているのは内緒だ。
もしかして、嫌われてる??ウザがられてたらショックだな。うう…
いくつかのドライブスルーに寄りながら、高速道路を活用して旦那の実家がある秋田へと向かう。
ここまで遠出すると、外の景色を眺めてるだけで結構暇潰しになるよな。
運転席の方に乗り出して、カメラを構えて旦那とのツーショットを撮ろうとすると、旦那は無表情な癖にちゃっかり俺の頭の先からピースの指を出して、俺のてっぺんから兎の耳が生えたようになってる。
コイツ…本当に…!
仕返しに旦那の頬に指を突き刺してツーショット撮ろうとしたら、シャッターを押す瞬間に旦那が俺の頬を逆に突いてきて、俺は盛大に変顔を晒してるのに、旦那は全く動じてないという写真になってしまった。
いや硬!ほっぺた硬すぎるやろ!!なんでそんなに硬いの!!力入れるなよ!!
くっそー、コイツめぇ…いつか見返してやるからな!と心の中で悪態をつきつつ、写真をインスタに投稿したら、イイネが結構付いた。
一応言っておくと、SNSでは、旦那との関係を明確にはしていない。多分似たような写真や家の壁紙等も映り込んでいる影響から、色々察している奴らは居るかも知れないけれど、2人の関係については俺達ですら曖昧な訳で、プロフィールに書くような事でもないと思ったからだ。
そしたら、俺達の関係に興味を持ったっぽい知らん人達が結構俺らのアカウントをフォローし始めて、「ご馳走様です!!」「可愛い!!」「もっといちゃつけ!!」等のコメントが溢れるようになった。
「食べ物じゃない」「男に可愛いは厳禁」「いちゃついては居ない」と、いつも通りの返答を返せば、尚更コメントが浮ついてくる。
面倒なので、随分前から1回以上返答はしないようになった。いつまで経っても終わらないし、あんまりやると旦那が「見世物じゃないぞ」と言って少し不機嫌になるからだ。あまり怒らない旦那が、珍しく不機嫌になるのがこれである。あんまり沸点が分からないな、正直。
前もSNSで仲良くなった人とDMしてると言ったら凄い不機嫌になって、もうそいつと関わるなとか言われたっけ…。
なんでお前にそんな事言われないといけないんだよ!ってちょっと頬を膨らませたら、俺は騙されやすくてすぐ人を信用するから心配なんだって。
そのままスマホを没収されて、強制的に相手をブロックされた。流石の俺も怒ってすぐにそれを解除したんだけど、大地は尚更不機嫌になって、いつも以上に厳しい顔をしてたっけ。
結局数日後相手から何故か、もうメッセージやめます…って連絡が来て、正直ショック受けたんだよな。
なんでやめるの!?って聞いたら、理由は話せないけど、とにかくやめると言われた。
旦那も旦那で、喧嘩してから、普段あまり使いもしないスマホの画面をずっと拗ねたように弄り回しててさ。
この事を話したら慰めるように俺の肩に手を回してきて、頭を撫でてくれた。だからやめとけって忠告したのに、なんて言ってきて、不服だけど、それからネットの友達とはあまり深く仲良くなる事はやめている。
それと同時に、旦那もあれほど触っていたスマホを、弄らなくなった。
SNSを更新して、また寝て、頬をブニュってされて、また起きて。
そろそろ実家に着くと言われて、俺は背伸びした。そしたら旦那が腕を伸ばしてきて、服の上から腹をスリスリと摩ってくる。なんじゃその介護は。お前は孫を可愛がるじいちゃんか。なんつって、そんな事言ってるうちに、旦那の実家についたのだけど、そりゃもうデカい農家だった。
家もなんと言うのかな、武家屋敷みたいな感じで、こりゃあれだよ、ここら辺の地主だね。見えてる畑は全部旦那の家の土地らしいし、かなり金持ちなんだろうな、きっと。
「あらあらあら、おかえんなさい。運転疲れたでしょ!お父さん!大地が帰ってきたよぉ!」
車から出たら、こちらに気付いた人間のおばさんがこっちにやってきて、そう言った。
身体は細いけど、陽気さや逞しさがとてもよく伝わってくるおばさんだ。
発言からして旦那のお母さんなのだろうか。正直もっと大きな人を想像してたから意外だと思った。失礼だけど。
「あんらぁ!なぁに!この子が前に言ってた子?」
「……あ、どうも。お世話になります。空乃と言います。」
「いえいえこちらこそ、いつも大地の世話してくれてるみたいで悪いわねぇ!この子無口だから何考えてるか分からないでしょ?ウチの旦那もそうなのよ!本当に似てる親子なんだからさ〜あ!ほら、立ち話も何だから家に入って入って!お昼食べたの!?大地!」
「…食ってない。」
「そっか!じゃあすぐご飯作っちゃうから!はいはいはい!どうぞどうぞ!」
「お邪魔します。」
おばさんは手をパンパンパンと叩いて、まるで俺達を追い立てるように家の中へと連れていった。
旦那の世話をしてるというより、世話されてるのは殆ど俺の方だけど、そんな事を言うのは野暮なので黙っておこう。
それにしてもおばさん、凄くあれだな、ハキハキ喋る人だから、旦那の無口さを考えると結構驚いた。
多分お母さんがよく喋るから、自分達はあんまり話さなくても良い環境だったんだろう。まだ見ぬおじさんも無口だと言ってたから、親子揃ってそんな感じなのは、何だか面白いなと思った。
家の中は案の定広く、旦那は慣れた様子でさっさと入っていってしまうけれど、俺はいちいち物の大きさに驚きながら恐る恐る入っていく。
家具とかも凄いな。ウチでは旦那が頻繁に使う家具だけ大きいし、見慣れてるから不自然には思わないけど、身の回りにあるものほとんど全てが大きいと、まるで巨人の住む家に迷い込んだような、そんな気がしてしまう。
居間の入口で立ち竦んで居たら、おばさんがこっちを見て言った。
「お父さん!何そこでぼんやりしてんの!ほら、息子が帰ってきたのよ!お友達も居るんだからちゃんと挨拶して!」
え?と思って後ろを恐る恐る振り向いたら、どっしりとした、旦那よりも横幅が大きい巨大な影が俺の傍にいた。
「うわ!」
と声を上げて後退れば、のれんを掻き分けて、甚平姿の白熊のおっさんが、のっそりと現れる。
三白眼の目付き鋭く、身体は肥満体で、とにかくデカい人だ。少しくすんで黄ばんだ体毛と、禿げた場所がチラリと見える、歳を取ったらもしかしたら旦那がこうなるかもしれないな、という印象から察するに、この人が旦那のお父さん、つまりはおじさんなのだろう。
俺を少しの間無言で見下ろして、ふと視線を逸らしたあと、ノシノシと歩いて床にある座布団に腰をドスンと落としたおっさんは、煙草の先端に火をつけると、傍にあった新聞を広げて読み始めた。
「あっはっは!!うわ!だって!......お父さん、見てくれだけは本当、初めて会ったらビックリするもんねぇ!…皆最初は驚くのよ!アタシもね!初めて会った時はもう本当、見上げるくらいだったから、きゃ!って叫んじゃってね!!でもこんなの見たらそりゃ驚くわよねぇ!あっはっは!」
おばさんがそう言って笑うのを、俺は複雑な心境で聞いていた。
だって、親父さんに会った第一声が「うわ!」じゃ失礼だろう。
まぁ、たしかにこのヤクザみたいな見た目じゃ驚いても仕方ないけどさ。つーか、旦那よりデカい男なんて初めて見たしなぁ。身長は多分旦那の方が少しでかいんだけど、旦那より横幅が凄く大きいから親父さんの方が大きく見える。
テーブルの別の面とは言え、二人が座ってる姿は圧巻だ。言った通り俺とおばさんがまるで小人のようにも見える。獣人は基本的に身体の大きな者が多いけれど、この二人ほど大きい身体を持った獣人もそれなりに珍しいだろう。
俺はちょこちょこと歩いて、旦那の隣にちょこんと正座した。
ギロリと親父さんの瞳がこちらに向いて、ひっ!と息を飲む。いちいち怖いよこの人!!俺はなるべく親父さんを見ないように、ぎこちなくテレビへと集中する事にした。
「お兄ちゃん!もう帰ってきてたんだ!」
「桜。」
しばらくしてやってきた、桜と呼ばれたその人間の女性は、旦那から聞いた話によると、この街に住んでいるおじさんとおばさんの娘で、旦那の妹らしい。もう既に結婚済みであり、夫と揃って、この広大な土地を持つ農家の跡継ぎになる予定の人達らしく、元より跡継ぎになろうと大学でも勉強していて、普段は街の方の別邸で暮らしているけれど、大地が来るということで今日ばかりは帰ってきていたというわけだ。
妹さんの夫は犬獣人の男で、それなりに重労働な為身体は鍛えてあるらしく、旦那や親父さんには叶わないが、良い身体をした、しかし控えめな感じの大人しい人だった。
お盆なのでまだ人は来るらしく、次に来たのは親父さんの兄であり、地元の建築関係で働いている猪獣人の権蔵(62)さん、その息子で同じく猪獣人の源五郎(30)さん、その奥さんで人間の美月(29)さん。その息子のウリ坊、源太(8)くん。そしてその妹の千明(6)ちゃん。
こんなに大勢の親戚なんて、俺には全然関わりが無いものだから、凄くびっくりした。そもそも俺の家族は仕事ばかりで家に中々帰ってこず、約束した事も全て破って仕事に精を出す、そんな仕事人間だったから。
孤独な子供時代だったけれど、別にそれが普通だと思ってたし、親に甘える子供達を見ても別に何とも思わなかったなぁ。
その分、親と別れて暮らす事になった時には、全く何の未練も無かったし、今も連絡すらしていないんだけど。まぁ、あっちから連絡してくる事もないし、殆ど絶縁状態だが、それを気にした事は無かった。
でも、こうして旦那の家族や親戚を改めて見るとびっくりだ。
ウリ坊の源太くんは俺の所にやってきて、俺の股の間に座ってくれたんだけど、そのちっちゃい身体が可愛くて可愛くて…。
子供が出来たら、きっと凄く可愛いだろうなぁ…なんて、何となく思ってしまって。
旦那と俺の子供?…正直あんまり想像できないけどさ。
旦那に似て無口な子になる?それとも、俺に似てお喋りな感じになるだろうか。
女の子?男の子?
どっちも可愛いけど、旦那は男の子を期待しそうだ。まぁ、女の子なら女の子で、凄く可愛がると思うんだけど。
俺の隣に座る旦那が、少し猫背になって、俺と、俺の股に座る源太くんを見下ろす。その感じが、何だかまるで親子みたいで。
けど、源太くんが別の事に気を取られて、俺の傍から駆けていくと、俺は思わずあっ…と声を出して、少し手を伸ばしてしまった。
ちょっと残念に思いながら、手を戻して、何となくチラリと旦那の方を見上げたら、思ったよりも真面目な表情で俺を見下ろしている。
俺は少し気まずげに視線を逸らすと、何にも無い振りして前を向いた。別に、旦那との子供が出来ないからって気まずくなったわけじゃない。
そもそも俺達の関係は未だ定義しきれてないし、セックスだってしてるわけじゃないのに、お門違いだよな、そんなの。
けれど、座布団の横に置いた手に、こっそりと旦那の手が触れて、ギュッと強く握り締めて来ると、俺も無言で、その手を握り返した。
別に、自分を哀れんでる訳じゃないんだ。
男同士だし、子供は出来ないけど、旦那と一緒にいる時間は楽しいし、何より幸せだと思ってるから。
でもさ。まぁ、ちょっとは、考えちゃうのも仕方ないよな〜…って話で。
俺が子供欲しいって言ったら、旦那はどんな反応するんだろう。
喜ぶ?それとも、困ったように眉をひそめる?
いや、きっと無言で俺の頭を撫でて、抱き締めてくれるだろうな。
それは肯定とも取れるし、否定とも取れる曖昧な行動だけれども。
旦那なりの優しさなんじゃないかと思う。
ポンポンと背中を軽く叩いてくれて、俺が落ち着くまでゆらゆらと身体を揺らしながら一緒に居てくれる。
俺は、冗談だよ!って悪戯が成功したみたいに笑って、誤魔化すだろう。
そうした方が互いに都合がいいから。
そういう事言うのは、昔から俺の役目だし。
お盆は祭りがあるらしい。
死者を迎え入れ、また送り出す為の祭りが。
まぁ、軽い暇潰し程度にはなる。
でも、俺はそんな事を考えるよりも先に、この場所が旦那の生まれ故郷であり、高校を卒業するまで暮らしていた場所だって事、もっと良く考えなくっちゃいけなかったんだよな。
だって、そういう場所では往々にして、思ってもない質問が飛んでくるものだ。
そりゃ家族なんだからさ。普通の友人や知り合いじゃあ聞けないことも、ズカズカ聞いてくるわけで。
「それで?あんたいい子は見つけたのかい?」
おばさんのその一言に、俺はヒュ…と息を飲んだ。
ニコニコと、悪びれた様子もなく、その視線は明らかに旦那に注がれていて、訳もなく俺だけが気まずくなってるみたいだ。
大地は目を閉じ、少し眉をひそめて、ズズズ…と茶を啜っていた。
なんて答えるのだろう。そんな事を考えて、俺までビクビクとしてしまって。
「どうでも良いけど、もうそろそろいい歳なんだから、あんたも結婚して身を固めて、私達に孫を見せてほしいもんだわ。せっかく都会に出て暮らしてるんだからねぇ。いい子の1人や2人、居ないの?」
旦那は何も答えない。
そりゃそうだよな。俺の事をいきなり恋人だとか紹介するわけにもいかないし、そんな事したらこの場が騒然としてしまう。
俺は気まずげにチラリと旦那を見上げた。その表情はボンヤリと、虚空を見つめていて。
結局旦那が何かを答えることは無かった。
俺は少しだけ複雑な気持ちになって、同じように目を伏せる事しか出来なかった。
[newpage]
そんなこんなで、そろそろ辺りが真っ赤に染まる頃だろうと言うくらいの夕方、ピンポーンとチャイムが鳴って、誰もが手を離せないというから俺が出た。
ガラガラと引き戸を開けて外に出れば、そこには白いワンピースを着た、黒い髪の美しい女性が立っていて。
「こんにちは」
「…ぁ…こんちは」
思わず見とれて、少し言葉が遅れた。
まるで風の妖精みたいに、さらさらと全身の布が緩くはためいて、爽やかな透明感を纏ったその人は、真夏の白昼夢を見てるみたいに、不思議な雰囲気があって。
「…風夏…?」
「大地…っ!」
後ろで彼女の名前を呼ぶ声がして、振り返る間もなく女の子が駆け出した。
一瞬の事で全然理解が追い付かなくて、とにかくいつの間にか大地の胸に飛び込んでいたその女の子は、旦那を見上げると「久しぶりだね!」と笑って話し始めて。
俺はもう訳が分かんなくて、頭が真っ白になっちゃってさ。
旦那の視線は、驚いたようにその女の子へと注がれている。
そんな顔、今まで俺にだって見せたことがないのに、突然現れた女の子には見せちゃうんだなって、何故か真っ先にそんなことが頭に思い浮かんだ。
ハッとしたように俺を見た旦那。
視線が合うと、俺は気まずくなって、固まってしまって。
そりゃそうだよな。
地元に帰ってきたら、そりゃ幼馴染の1人や2人、居ないとおかしい話だ。
「あらぁ!風夏ちゃん!どうしたの!?いきなり!」
「大地くんが帰って来てるって聞いて…!」
「そう!そういえば貴方逹仲良かったもんねぇ!それならゆっくりしていくといいわ!スイカあるから、食べていきなさい!」
「はい!ありがとうございます!」
「いこ?」そう言って風夏と呼ばれたその女の子が、旦那の手を取ると、俺はビクリと身体が震えて、頭がもうごちゃごちゃになった。
慌てたように踵を返して、それを見ないようにしたけど、もう見てるのにそんな事、意味ないよな。
「昴っ…」
そんな旦那の声が聞こえたような気がしたけど、俺はもう心臓がバクバク言ってて、パニックに陥って、何の反応も出来なくて。
「お友達?」
彼女のそんな言葉が聞こえた瞬間、俺はその場から早歩きで歩き出していた。
彼女の声を聞くともう、変になりそうだったというのもあるけど、彼女が呟いた質問に、旦那がどう答えるのか、怖くて怖くて…。
宛もなく歩いた。玄関先からちょっと出て、塀の門を超えた辺りで、俺はいつしか勢いよく走り出していた。
パタパタとサンダルを鳴らして、蝉の声が五月蝿い夏空の下を、汗だくになりながら。
俯きながら走ってたせいで、自分の居場所が分からなくなってしまったけれど。
それでも走った。もうこれ以上無理だってなるくらい、とにかく走って走って…つまづいて転んだ。
短パンを履いてたから、膝に擦り傷が出来てしまって。
そこでやっと我に返った。喉も乾いて、熱中症になるんじゃないかってくらい、身体はフラフラのボロボロになっていた。
運良く、近場に水の流れる音が聞こえて、小さな川を見つけたのが良かった。
俺は生水だって事を気にもせず川の水をがぶがぶ飲んで、濡らしたハンカチで擦りむいた膝を抑える。
無理をしたため、それでもまだ頭はクラクラするし、足はジンジンと傷んでもう暫く動けない感じだったけど、でも、それに気を取られているうちは、あの風夏とかいう女の子の事を考えずに済んだのは良かったかもしれない。
でも、数十分もすればやっぱり、頭の中にはあの女の子と旦那の関係が浮かんでは消え、浮かんでは消え。
本当に、綺麗な人だった。
さらさらと揺らぎ、日光を鈍く照り返す黒檀の長髪。薄らと透けたワンピースに、麦わら帽子。
まるで漫画や映画の中から飛び出してきたみたいな、そんな綺麗な女の子は、なんの躊躇いもなく旦那に抱き着き、手まで握る始末だ。
あれがもし旦那に対して恋をしているなら、俺が勝てる道理なんてあるんだろうか。
はっきり言ってしまえば、そんなのありえない...よな。
ここで関係を曖昧にしてきたツケが回ってきたなぁと思った。ちゃんとしっかり恋人同士だって分かってたら、何なんだよあの女!って嫉妬するだけで、ここまで考えることも無かったのに。
いや、やっぱり同じくらい考えたな。焦りが単にイライラに変わって、旦那に八つ当たりしながら、頭をゴッツンゴッツン胸に打ち付けてたかもしれない。
イチャイチャしてんじゃねぇよぉ…なんて言いながらさ。そしたら多分、旦那は否定するだろうし、きっとそんな事気にならないくらい、キザなこと言ってきそうだけど……。
……つーか…、やめよ。何だか虚しい考えだな。こんなの。馬鹿らし。
そもそも俺って、アイツのこと旦那とか心の中で呼んでるけどさ。途端に変な感じがしてきた。というか、良く良く考えれば普通にキモイ奴である。頭がおかしいと言われても仕方ない。まぁ、所詮心の声なんだし?誰にも聞かれる事はないんだけどさ。
心が、目の前を流れる川のように冷たく冷えて、透明になっていった。
今まで舞い上がっていた気持ちが嘘のように、枯れた花のみたくしわくちゃになって。
周りが暗くなっても、俺は川のほとりに居た。
帰る方向が分からなかったし、スマホは圏外で、電話も繋がらなかった。
俺はそこにいて、ただ夜空を眺めてただけ。それしかする事が無かったし、身体は思ったよりも冷えてたのか、虫に刺されるようなことも無く、意外と居心地は良かった。
ただ、いつもと違って、隣にアイツがいないだけ。
ーーー…ぅーーー
遠くで、誰かが叫ぶ声がする。
ーーー…ばる…ーーー
それはきっと、俺の名前を呼んでいて。
「昴!!!」
「大地…?」
今どき見かけないタイプの、でかい懐中電灯を持って、大地はやってきた。
その顔は見たことも無いくらい、焦りに歪んでいて。
「あの…俺……、っ!?」
俺が適当な言い訳を言う前に、大地は俺の事を抱き締めた。
有無を言わさないくらい、強い力で。
「心配させるな…!」
大地は、未だ興奮を抑えきれない様子で、声を震わせながらそう言った。
俺はただ、大地の腕の隙間から、悲しげに目を伏せることしか出来なくて。
「帰るぞ…」
「あ、俺今汗臭いから…」
「………」
そう言った大地は、俺の拒否の言葉を無視して体を抱き上げると、その広い背中におぶった。足に怪我してるのを、こちらを見つけた一瞬で見破っていたらしい。
おぶわれて歩く内に、大地に聞いた。
どうやって見つけたかと言えば、俺の匂いを辿ってここまで来たらしい。それって結構、凄くね?
でも、結局あの風夏って女の子の事も、俺達の関係も、意気地がない俺は、聞くことが出来なくってさ。
大地の実家に帰ったあと、皆に心配された。
俺はちょっとランニングするつもりで走ってたら、いつの間にか道に迷って帰れなくなったと、素直に説明して、皆に謝った。まぁ、適当に走って迷子になったのは事実だし。ある意味真実なんだからなんの問題もない。よな?多分。
でも大地の方はどこか不機嫌そうにムスッとしていて、俺が1人で居なくなったのが相当おかんむりらしい。
でもさ、俺が飛び出した時、お前がすぐに探しに来なかったってことは、つまりあの女の子の方が、優先順位的には高かったんだろ?
結局俺達って、本当にどんな関係なの?
そんな言葉は、俺の心の中の闇へと消えていってしまって。
[newpage]
始めてのクリスマス、俺と昴は、一緒にケーキを作った。
昴が言い始めた事だ。突然ケーキが食いたいと言ってきて、でも、その時点ではもう店のケーキはとっくに売り切れだろうし、どうするんだと思ったら、ふっくらと膨れていた服の下から突然チョコレートを出し、次にはもったいぶったようにイチゴ、次には得意げな様子で生クリームの素と…一体何を隠しているのかと思っていたら、俺を見てドヤ顔をしながら、ケーキの材料を取り出してきた。
「これで作ろうぜ!」
多分初めから計画してたのだろう。俺はわざわざ準備してまで、そんな下らない事をする昴を見て、なんだか思わずクスリと心の中で笑ってしまった。
こんなに面白い奴、こいつ以外、他には居ないだろうなんて思って。いや、多分いるにはいるだろうが、けれど、昴だからこそ、何故かそんな事しても許せてしまうし、俺は多分笑えるんだろうな。と思った。
明るくて、馬鹿みたいな事を真剣にやる。人を笑わせるのが得意だ。それでいて、とても純粋だから、その愛嬌の良さもあって自然と受け入れてしまう。そんな魅力が、こいつにはある。
そう言えば初めて会った時も、コイツは俺の無表情が気に入らないと、そんな感じの事を言っていたように思う。
「お前…笑えよ」
何も楽しい事が無いのに、笑う訳がない。
「楽しいか?生きてて?」
余計なお世話だ。なんでいきなり、授業で隣になっただけの奴にそんな事を心配される筋合いがあるのか。
「よし!分かった!俺が絶対笑わせてやる。」
そして突然の笑わせる宣言。大学生にもなって、まるで子供のようだと呆れると同時に、変な奴に絡まれたな…と思った俺は、そんな脳天気な昴の様子に不快になりながらも、しかしその時はまだ昴について深くは考えるような事はしなかった。
どちらにしろ、いつも通り、どうせ全部無視していたら勝手に離れていくんだ。そんな風にタカをくくって、自分からは決して関わらないようにしよう。そう考えたら別段難しいことではない。と、俺は昴を無視する事に決めたのだ。
今思えば、それがその時の自分にとって最大の失敗であり、結果的に、俺と昴がこういう関係になる、その成功の一つでもあったんだろうな。
「鬼瓦〜!」
そして昴は、俺に会う度、そんな事を叫びながら当たり前のように変顔を披露してきた。
俺がどんなに無表情で、無反応でも、昴は何一つ堪えていないみたいで「今回もダメだったかぁ」と本気で悔しがる。
ダメも何も、相手にしていないということをいい加減理解しないものだろうか。そんな事を考えていた俺は、相変わらず昴を無視し続ける、そんな日々。
「あ〜寒い寒い!北野〜!あっためてくれぇ!」
けれどそんな関係もそろそろ一年が経過するというところで、昴はそんな事を言いながら、座っている俺の首元に遠慮なく抱き着いてくるようになった。
季節はもちろん冬に差し掛かるところで、外は寒い。
俺は元来北の雪深い地域の出身だったし、白熊という事もあって、寒さには強く、大して影響など無かったのだけれど、人間にとってはやはり、この程度でもかなり寒いという事になるらしい。
「あったけぇ〜!まじ天然の暖房だわ!」
そして、俺を暖房呼ばわりだ。
周りには獣人なんて腐るほど居るのに、なんでわざわざ冷たく接する俺にここまで構う?と、最初は戸惑いと同時に、不思議に思っていたけれど。
そのうち、とことん気安い奴だな…とイラついて居たのが……。
「北野は文句言わずに抱き着かせてくれるから助かる〜〜!」
「………」
別に文句を言わないからって受け入れているわけじゃない。
…………とはいえ、まぁ、別に抱き着かれるのも害があるわけじゃないし、別に良いか…と思うようになっていった。
相変わらず無視は続けていたし、流石にここまでされて無反応を貫けば、俺に対する評価も変わるだろうと踏んだのである。
それよりも、今更声を荒らげて反応するほうが負けた気になって、あえてそのような事はしたくなかった。
そして、来る日も来る日も、抱き着かれる日々。
俺は鼻がとても良いから、ここまで密着すると、昴の匂いも当然鼻につくのだけれど。
昴からはなんというか、太陽のような匂いがすると思った。
爽やかな春の、とても良く晴れた、清々しい昼間の匂い。
いつしかその匂いは俺の中で、昴の匂いとして定着し始め、不思議と俺は、そんな昴の匂いを、心地好いと、そう感じるようになっていったのだった。
実は昴とは、ボードゲームに興味がある者達が集まるサークルでも一緒になっていた。
意外と思われるかもしれないが、俺はゲーム全般が好きである。親が子供の頃から何故かボードゲームばかり与えるような性格だったから、自然と好きになった。
色々考えた結果、一年目は様子見で遠慮していたから、俺は二年から参加することになったのだが、まさかそこに昴も所属しているとは思わなくて驚いた。勿論昴も俺を見て驚いていたし。
「き、北野!?ボドゲするタイプか??」
「そんなに意外か?」と思わず聞いたら、こいつ「喋ったあああああ!!」とか何とか、子供並みにわざとらしく驚いていて、やっぱり失礼な奴だと、俺は顔を渋くする。
けれど…。
「話せるなら話せばいいじゃん。低くて良い声なんだな北野。でも、低すぎず高すぎず、優しい声じゃん。へへへ。」
そんな風に当たり前に笑う昴に大して、俺は思わず目を見張り、なんだかとても居心地の悪い気分になった。それまで声を褒められた事なんかなくて、そんな事をさも当たり前のように言われると、どう反応していいか。少しだけ迷ってしまったのだ。元より別に、今まで通り反応しなければ良いのだとすぐに気が付けば良かったけれど、なんだかとても心が乱れてしまって……。
それに俺は決して、昴に対して好意的な反応をしてこなかった。それにも関わらず、相変わらずそんな友人のような態度をとってくるのである。こいつは一体何を考えてるんだとか、訳が分からんとか、心の中の声がどんどん増えていって、収集がつかなくなった。普段は冷静だし、こんなの馬鹿らしいと無視してしまえばそれで済むのに、そんな体験は初めての事で、俺は落ち着かない気持ちを抑えることが出来なかった。
昴に限らず、今まで俺は、色々あってあまり人と関わろうとしなくなっていた。過去のトラウマがいくつかあって、他人を信用出来なくなっていた俺は、人と関わるくらいなら、無視して最初から嫌われた方が気が楽だと、そんな事ばかりを考えていた。
けれどそんな俺も、何故か昴の前になると、調子が崩れて自分を見失ってしまうような気分になる。胸の中でグルグルと、言葉にできない感情が暴れ回るのだ。それは今まで感じたことのある、気分の悪いものではなくて、どちらかというと、擽ったいような、無意識に顔をふっと背けたくなるような。
しかし俺は、そんな感情に負けないよう、一層気合いを入れて、無表情を維持するのに躍起になった。
そうでもしないと、いつか絶対に俺は、こいつの思い通り、表情を緩めてしまう。そう思ってしまったから。
「ふっふっふ。では、先輩である俺がしっかり現実の厳しさって奴を教えてやるか。」
「………」
そんな事を言う昴に、既に俺は嫌な予感を感じていた。
フラグというかなんというか、………案の定、昴はとてもゲームの腕が悪くて、俺は簡単に勝ってしまう。
「ぐぬぬぬぬぬ!もう一戦だこの野郎!」
「………」
何度も何度も、俺にボコボコに負ける昴は、その反応がいちいち大袈裟で。
「ぎゃああ!」とか「ぬうううん!」とか悲痛な顔で、騒ぎ立てるものだから、その様子があんまりにも奇っ怪で、俺はその時初めて、思わず我慢していた口元が緩んでしまった。
「あっ!?今笑った?…確かに笑ったよな!な!」
周りの奴らは見ていなかったようだが、よりにもよって一番見られたくない相手にその僅かな表情の変化を見られてしまっていたようだ。とはいえ、誰も俺の顔なんか見ていないから、同意してくれる奴は一人もおらず、俺は笑ってないという分かりやすい主張として、呆れた様子で首を静かに横に振るけれど「ぬうううう!!笑ったし!絶対笑ったしぃ!!」とコイツは煩く騒ぐ。
流石に鬱陶しかったので、俺の心もすぐに落ち着いた。
でも、人生でこんなに面白いと感じたのは、ハッキリ言って初めてだったかもしれない。
「うぁぁぁ!!疲れたぁぁ!マジ無理!もう無理!無理キュアMAXハートって感じだわ。大地!変わって!!」
「もうか?」
「もう?五分くらい回しただろ!十分じゃん!」
(一分も経ってないが……)
渡されたボウルに詰められた生クリームに成り立ての中途半端なものを渡されて、仕方なくそれをグルグルと回す。
料理は、自分が自炊をするということもあって手馴れており、昴より力も比べ物にならないので、彼の倍以上の速さでかき混ぜていく。
昴は、そんな俺の手さばきを見ると、本気で驚いた顔をしながら、ボウルを覗き込んできて……。
「やべー!プロじゃん!パティストリーじゃん!あ、タペストリーか!!」
「……パティシエだろ。」
そんな見当違いの事を当たり前のように言う昴に、俺は呆れたような声を出して作業を続けた。
あっという間に生クリームを作り上げて、それに溶かしたチョコを入れていく。
みるみるうちに茶色へ染まるクリームを見ながら、スポンジを焼いているオーブンの調子を見てくれと昴に頼むと、あろう事か昴は、焼きあがったスポンジを見て感激のあまり、それに手を触れてしまい、その熱さに飛び跳ねたでは無いか。
その勢いのまま、昴が俺の方に後ろ向きで勢いよく跳ねてきて、もちろん俺がボウルを掻き混ぜている途中に、派手にぶつかり合ったのである。
当たり前だが、ボウルの中身はぶちまけられて、俺達の全身がチョコクリームだらけになった。
俺の方が身長的に高いので、自然とその高さ的に昴は上からボウルを被り、俺は胸から下が汚れただけである。
そんな昴はべっとりと張り付いたボウルを頭から抜き取ると、乾いた笑い声を上げて。
「お、俺をお食べ〜…なんちゃって?」
「ぶっ…!っごほ!ごほごほごほ!」
「お、おい!なんだ!?大丈夫か!?」
突然言われた言葉に、俺は驚いてしまって派手に噎せた。
うっかり勘違いしてしまう言葉であり、一瞬想像してしまって、冷静の仮面が崩れてしまったのだ。
こんな無防備な状態で、俺を食べろなんて言われたら、そりゃあ勘違いしてもおかしくない話なのである。
とはいえ、結局ケーキはお預けになって、クリスマスなのにそれらの要素は全く無し。
まぁ、それでも今は、昴と一緒に居られるだけで、なんだか楽しいと思ってしまう自分が居た。
ソファーで映画を見ているうちに、俺の太ももを枕替わりにして、ウトウトと、そのまま寝落ちしてしまった昴の横顔を見下ろすと、俺はその頬を、思わず撫でてしまっていて……。
最初はただただ失礼な奴だと思っていた。空気は読まないし、頭は悪いし、子供っぽい。俺の大嫌いな要素がふんだんに詰まっていて、見えてる地雷そのもの。それが空乃昴という男に対する感情だった。
けれど関わっていくうちに、いや、昴の方から俺に関わってくる内に、こいつはまるで目が離せない子供のような、そんな無邪気な愛らしさを持つ、不思議な奴だな…という印象を受けるようになっていった。
俺と違って感情がいちいち豊かで、歯を見せながら無邪気にニカッと笑う。怒る時だって不機嫌さを全く隠さないし、恥ずかしがってる時は分かりやすく俯いて、耳まで赤くなるもんだから、隠してもバレバレだ。
いつしか、単なる日常の些細な様子にさえ目が向いてしまって、彼が少し大きめの服の袖で手を隠すのが常だったり、真剣になってる時は耳を触る癖があったり…。
そんな小さな事に気が付けるだけで、その仕草が愛しいと思う。
しかしそんな気持ちを俺は気のせいだと、頭を振って誤魔化す日々。
バレンタインには、二人でクリスマスのリベンジをしようと、チョコを作った。
モテない男子のモテない友チョコ。とか言ってたけど、実は女子から幾つかチョコを貰ったのは内緒にしている。多分聞いたら怒ってポコポコ殴ってくるからな。……どうせ効かないし、その様子が愛らしいのでそうされるのも悪くないけれど、それ以降しばらく拗ねて無視されたりするのはちょっと勘弁なのでやめておいた。
結局全部溶かして、改めてチョコを作り直すのに、それらは全て使ったしな。
その時のチョコは上手く作れて、殆ど昴が美味い美味いと喜んで食べてしまった。
口の周りをチョコで軽く汚しながら笑う昴に、俺も何だか自分の事のように嬉しくなって、つい手を伸ばす。
「ほら…口…」
「ん?」
口についたチョコを指で掬って、自らの口に運んだ。
そしたら昴は一瞬の沈黙のあと、ボフリと顔を真っ赤にして……。
「どうした?」
と聞いたら。
「な、なんでもない!!じ、自分で拭けるし!余計なことすんな!」
とプンプン怒った。
その顔がまた、可愛らしくて………。
昴が風邪を引いて、俺がわざわざ昴の家に寄り、看病した事もある。
風邪がうつるから近寄るなと言う昴だったが、俺はそんな事構わずに付き合ってやった。
その頃になると、もう昴を疎ましく思うような事はなくて、むしろもっと、コイツのそばに居たい。なんて、そんな事を不意に考えるような日々が続いていた。
なにしろ、風邪引いたから家に来るなよ!なんて連絡を見て、わざわざ自分から出張っていってしまったのだ。
俺は相当、こいつを気に入ってしまっているらしい。
そして結局、昴の風邪が治る頃になると、俺もそんな昴をずっと世話していたからか、彼の言う通り風邪にかかってしまって……。
その時は昴が、逆に俺の世話をしてくれる事になり、俺は何だか妙に胸が熱くなったのを覚えている。
「だから言っただろ!うつるって!!」
そうプンプン怒りながら、スポーツドリンクや冷えた手ぬぐい、お粥まで作ってくれる昴は、いつだって俺に対して素直で、真摯に接してくれる。
胸の熱さは、風邪のせいかとも思ったが、介抱するのに疲れて、ベットに上半身を投げ出しながら眠りについた昴の横顔を見た時、俺はそれが決して風邪のせいではないと悟ったのだ。
他人なんか、どうでも良かった。
俺は過去色々あって独りでいるのが好きだったし、いつしか人間関係は面倒くさく感じて、ヒトと付き合う度に疲弊するようになった。
両親と話すのですら苦痛だった時期があるくらいだ。
顔を合わせれば仲良く話す友人同士でも、腹の中では何を考えているか分からない。もしかしたらこちらに対して不幸が起こるように願ってるかも知れないし、そもそも最初から友情なんて上辺だけ取り繕ってるだけかもしれない。そうして簡単に壊れてしまうそんな人間関係を、いつしか俺は信用出来なくなってしまっていた。
そうやって、心の中で何を考えているか分からない他人の存在は、俺にとって不穏分子でしかなく、いつしかまるで全く別の生き物に見えたものだった。
だから、昴が現れた時も、初めはそんな感情しか持ち合わせてなくて。
「あの北野って奴、無口で何考えてるか分かんなくね?」
そんな言葉を聞いたのは、図書室で調べ物をしていた時だっただろうか。
その時の俺は知りもしなかったが、偶然にも図書室は、昴がよく利用している場所だったようで、そんな声が聞こえた時、その声の主に話しかけられているのは他でもない、昴だった。
俺は物陰でその様子を見てしまい、やっぱり人間関係はこういうことがあるから面倒だと、眉をひそめたのだけど。
「そうか?でも別にそれがなんだって感じだけど。」
昴が当たり前のようにそんな事を言って、俺は少しばかり驚いた。
特に昴は、俺が無視したり、関わって欲しくないと思っていた奴の筆頭だ。
抱き着いてきたり、無理に笑わせてきたり、それをあからさまに無視してるにも関わらず、懲りずに何度も関わってきて。
「えー?つーか空気読めてないじゃん。リアルで無口キャラとか傍から見たら痛々しくね?アニメじゃねぇんだからさw」
昴の前にいる学生は、ゲラゲラ笑いながらそう言って容赦なく俺をこき下ろした。そいつは普段昴とよく絡んでいる、俺とは違ってかなり昴と親しい奴で、無視こそしたものの、こちらにもたまに絡んできていた。
俺にあれだけ絡んで、何度も無視されてる本人からしたら、その話題に乗ってくるとでも思ったのだろう。
しかし男の予想に反して、昴は少し眉をひそめ、不機嫌そうにその男を見ると、なんだかイラついたように声を出す。
「知らんけど、本人が居ないとこで悪口言ってる奴の方が俺は性格悪いと思うけどな。アイツは無口な分、そういう事が無くて安心だわ。」
「…っ…な、なんだよ!…お前ムカつかないのか!せっかく味方してやろうと思ったのに!」
「誰も味方してほしいなんて頼んでないんだけど?…つーか、他人馬鹿にして笑うやつってマジで無理だわ。そういう事、誰の前でもやるんだろうなって思うし、そんな奴信用出来んし友達にもなれないじゃん。」
「…ちっ!…そうかよ!!」
男はそう吐き捨てると、不機嫌そうに椅子から立ち上がって、その場から去っていった。
昴も呆れたように溜息を吐くと、ゆっくり立ち上がり、何故かこちらにやってきて。
俺はいつも彼等を無視して、元から好かれようとしていない為、陰口を言われたところで別に何も気まずく思う必要はないのに、その時は何故か、慌てて隠れようと通路の奥まで逃げた。
あまり距離が無かったので、そう遠くまで逃げる事は出来なかったけれど、俺はなるべく自然な様子を演じて、適当な本を手に取り少し身を縮めて隠れるように本を読む。
出来れば俺に気付かず通り過ぎていってくれ!と思いながら、落ち着かない様子で過ごしていると、しかし、通路の方から「あ!」と昴の声が聞こえて、ビクリと肩を揺らしてしまった。
「北野じゃん!何読んでんの?」
俺はそんな昴の言葉に観念して、なるべくいつもの無表情を装いながら振り向く。手にした本を持って、そのまま昴を無視してその横を通り過ぎようとしたのだが、しかし俺の持っていた本を目敏く見つけた昴が、それを許すことはなくて…。
「お!その本借りんの!?いい本だよなそれ!あ!あとさ!あとさ!え〜と……あった!これとかも面白いからオススメだぜ!」
そう言って昴は、屈託のない笑みを浮かべながら、傍にあった本棚から一冊の本を手に取り、それを俺に差し出してきた。
はっきり言って、今手にしている分だって、全く借りる気の無かった本だし、差し出された本は全然興味のそそられるものじゃなかったけれど、俺はその場から一刻でも早く離れる為、思わず昴の差し出してきたその少し薄っぺらい、短編だろう本を受け取ってしまったのだ。
「じゃあな〜!」
そしてそのまま、いつもの様に何も言わずに踵を返して去ったと言うのに、昴は相変わらず笑いながら、俺にそう言って手を振ってくる。
その笑顔が、なんだか俺には、どうにも気まずく感じてしまって。胸の奥の方で何かがズキリと痛むのを、俺は確かに感じていた。
罪悪感なんて、今までこれっぽっちも覚えた事など無いのに、思わず心臓のある場所を押さえてしまうほど、その感情はジクジクと、俺の心を侵食していく。
結局、逃げるようにそのまま家へと帰って、しばらく気分転換したのち、ふと、昴に勧められた本が目に入り。
何となくそれを手に取って、パラパラと読んでみれば、全く興味のなかったジャンルだったのが、意外にもそれがまた面白くて驚く。
1枚、また1枚と夢中になってページを捲り、短編だったそれは特に億劫になったり、飽きたりすることも無く、数時間で読み終わってしまう。
普通ならそこで、充実感や満足感に身を委ねるところだけれど……。
しかし、それを読み終わった後、何故か考えていたのは昴の事だった。
あれだけ冷たい対応を取った自分に対して、何故あんなにも屈託のない笑顔で接する事が出来るんだろう。
何故、俺よりよっぽど仲の良い友人から告げられた悪口に便乗しようともしなかったのだろう。
そんな事を考えながら、俺はただぼんやりと、ベットの上に浅く寝そべる。
腕を枕にして、仰向けになって。
小説に夢中になってたから、電気を付ける間もなく、薄らと暗い部屋の中、見えるのはカーテンの隙間から夕日が照らす、橙色の天井だけ。
ヒトはとにかく信用出来ない生き物だと、そう思っていた。
それは今日のあの学生の話を聞いていても、間違いではないと思う。他人は何を考えているか分からないし、裏で色々と悪態をついてる奴なんて、それこそ腐るほど見たことがあるから、俺は基本的に他人と関わる事をしなくなった。
その考えはきっとこれからも変わらないし、今更変えられるものでもない。
けれど昴は…。昴だけは……。
そうして徐々に、俺は昴の行為に嫌悪感を抱く事はなくなっていった。
むしろ、昴の事が気になって、言った通りその様子をいつしか観察するようになってしまって…。
二年目も半年が経過し、秋、冬…そんな風に日を追う毎に俺の気持ちは段々と強くなっていく。
男とか、女とか、…そんな事もはや俺にはどうでもよく、いつの間にかそう…俺は昴に惹かれていたのだ。
……昴が好きだった。
気持ちを自覚してから半年、大学二年目も終わりを迎える冬の時期、ぎこちなくもこちらから関わるようになって。
からかうと、いつもの調子が無くなって、すぐ耳まで真っ赤になるのは意外だった。
素直な奴だから、どんな反応するかと思ったら、意外とそういうところはウブだったんだよな。
笑って誤魔化してくるとか、素直にやめろと不審がられると思ったが、そんな事もなく。
けれど、そこからまた、1ヶ月、半年、一年と、時間が経ち、同棲もし始めると、俺だって昴にドキリとさせられる事が沢山あった。
例えば、俺のバイク用のヘルメットを被って、それがブカブカだと、頭の大きさの違いに興奮する昴。
何やってるんだと傍に行って、シールドを上に上げると、つい、昴とガッチリ視線が交差した。
同時に、昴はニヘラと子供のように笑って…。
俺はその笑顔を見た時、なんというか、今すぐにでもそのヘルメットを取り去って、激しくキスしたい気持ちに駆られた。
いちいち仕草が可愛らしくて、その笑顔はいつだって、俺の心を締め付けて…。
けれどそんな事など知る由もない昴は、俺が行動する前に立ち上がり、怒られると思ったのか、ヘルメットを戻す為に立ち去ってしまった。
その去っていく後ろ姿を見ると、少しだけ惜しい事をした気持ちになるのは何故なのか…。
でもそれはきっと、満たされない感情の行き場を、失ってしまったからで…。
もし、あのまま俺達が見つめ合っていたら……。
そしてもしあのまま、昴がその場から立ち上がらなかったら……。
きっと俺は堪えきれず、昴にキスしてしまっていただろうな。
しかもそれは、キスとは到底形容する事が出来ない、猟奇的な“捕食”。
たとえば、そう……。
ヘルメットを乱雑に投げ飛ばし、驚き目を見張る昴を無視して、その柔らかく白い頬に両手を添える。
数秒視線を絡み合わせるように見つめ合ったのち、そのまま噛み付くように引き寄せて、その熟れた果実のような甘い唇に舌を這わせる。
互いが息をする時間も惜しいままに、舌と舌をもみくちゃに、そして淫らに重ね合わせて…。
その欲望のままに、いつしか昴をソファーに押し倒すのだ…。
それからはもう、俺達の間に壁を隔てる、その邪魔な服を、俺は力のまま、引きちぎってしまうのだろう。
布が派手に弾け飛び、その反動で白い絹のような肌に赤い筋の浮かぶ爪痕をつけてしまっても、そんなのは関係ない。
きっと…昴はそんな俺を見て、恐怖に駆られる筈だ。
その儚い瞳から大粒の涙を流し、嫌だ嫌だと泣き叫んでしまうかもしれない。
けれど俺は、そんな昴を見下ろして舌なめずりしながらこう思うのだ……。
ーー嗚呼………“美味そうだ”…、と……。
俺は……俺の中に眠る黒い感情を知っている。
昴を好きになり、その気持ちがどんどんと強くなっていく内から、湧き上がるこの人格を、恐れている。
それはとても残忍で、恐ろしく残酷で……。
昴の泣き顔…叫ぶ声を…見せろ、聞かせろと、そう慟哭しながら、俺にずっと、訴えかけるのだ。
(それは……ダメだ…)
頭の中の冷静な俺が、ゴクリと唾を飲み込みながら、そう自身に言い聞かせる。
(こんな恐ろしい感情、昴に向けてはならない。)
胸を押さえて、ジンジンと今にも吹き上がりそうなマグマの如く感情を、なんとか奥へ奥へと抑え込む。
(俺は……ケダモノだ…)
昴の泣き叫ぶ顔…それを想像して、こんなにも熱く、硬く…下半身を隆起させてしまうなんて…。
ありえない…と自分自身に幻滅しつつも…。
いつかその感情に身を委ねてしまうことを、俺はずっと…恐れている。
だからこうして……
「どうかしたか?」
「……なんでもない。」
戻ってきて、隣に座る昴を抱き寄せながら、小さく微笑む。
(こうして……傍に入れるだけで俺は……)
……満足なのだ。
……そう、思わなければならないのだ。
そうやって、自分を誤魔化した。
この獣欲を解消する為に、昴の下着を鼻に押し付け、その臭いを嗅ぎながら自らを慰めた事が、一体何度あっただろう。
寝ている昴の横顔を見ながら、バレないように声を押さえて、自らの愚息から精を吐き出した事は、一体どれだけある?
「昴…っ!…昴っ…ぅ゛っ!?」
彼の名を呼んで、熱を吐き出す度、俺はただただ、そんな自分に嫌気がさした。
そして、穏やかに眠るその横顔を毎日見つめて思うのだ……。
本当は、好きだと言いたい。
ーー言えよ…言ってしまえ…!
しかし、その言葉を呟いた時から、きっと俺達の関係は終わりを迎える。
ーーなんで言わないんだ! 言えば欲望のまま、昴を犯せるぞ!??
この心の悪魔が、そう闇の中で叫ぶ限り。
ーー泣き叫ぶ顔が見たいんだろ? 自分の思い通りに躾たいんだ!
(俺に…昴を愛する資格はない…)
ーーそんなもん関係ねぇ! ぐちゃぐちゃに犯して、俺に依存させろ! 身体中その手で開発して、淫らな奴隷を作り上げんだよ!!
(そもそも昴は奴隷なんかじゃないんだ!!)
頭の中に反響する悪魔の声を、そうやってかき消した。
俺の感情の吐露がキッカケとなって、この悪魔が表面に姿を現したら、俺はきっと自分で自分を抑えきれる自信がない。
だから言葉に出さずとも、この愛情は伝わるんだと、そう思いたくて……。
そして結果、昴もそれに応えてくれていると思った。
一緒に手を繋いでも拒否しないし、俺が肩を抱き寄せても気味悪がらない。
その調子のままデートにも沢山誘って、野外でのキャンプから、数日かけたの長期の旅行。
そのうち、ただ家に入り浸っていただけだった昴も、いつの間にか、同じ屋根の下で暮らすようになっていて。
嬉しかった。
きっとお互いに同じ気持ちなんだと、言葉に出さずとも自覚する事が出来た。
昴は、俺の気持ちを理解してくれている。
そんな風に思うと、胸の奥で何か暖かい感情が込み上げて来たけれど……。
しかし、それと同時に、一緒に暮らし始めるようになってから、俺の黒い欲望もどんどん強くなっていった。
風呂上がり、半裸で部屋を彷徨く昴を見たり、その状態で当たり前のように、ソファーに座る俺の後ろから抱き着いてきたり、横に並んで座ったり。
良くも悪くも、そういった事に頓着しないし、俺を心の底から信用しているから出来ることなのだろうけれど、俺はいつだって、欲望を抑え込むのに必死で、しかし、そんな忍耐などすぐに昴の行動が打ち消そうとしてくる。
まるで誘うように四つん這いになって、尻を向けながらスマホを探し始める昴。
疲れたと言いながら大きく伸びをし、薄いシャツ1枚捲れた、チラリと見える臍の周辺。
着心地が良いからと、俺のダボダボのTシャツをパジャマ代わりに着ていた時は、すんでの所まで手が出かけた。
昴はどこまでも無防備で、警戒心が薄くて、俺の心を掻き乱してくる。
そんな様子に、俺がどれだけ自分を失わないよう努力しているか知らずに、無邪気に笑う。
それでも俺は、相変わらず何も言わなかった。……いや、言えなかった。
この気持ちを少しでも吐露してしまったら、俺の中にある心のダムは一瞬で崩れ落ちて、昴に害を成してしまうだろう。
昴を一生部屋に閉じ込めて、世にもおぞましい方法を使い、彼をどこまでも陵辱し尽くしてしまうだろう。
実際、夢の中では、いつだって泣きじゃくる昴を、興奮した面持ちで犯す俺の心の闇が垣間見える。
そして、そんな恐ろしくも、淫靡な夢を見た後で、俺は同じくベットを共にする、昴の寝顔を見つめながら、ゆっくりと目を覚ますのだった。
そういえば、一度、たった一度だけ、昴の方から、キスをしてきた事があって、驚いた記憶がある。
相変わらず、心の闇を押さえつけるのに必死になって、なかなか眠れない日々を送る俺の前で、唐突に、ほんの一瞬だけ。
とはいえ昴はスグに恥ずかしくなったんだろう。
すぐさまゴソゴソと、俺の胸元にすっかりと収まって、照れ隠しをするように、そのまま隠れてしまったけれど……。
………あの時は、本当に危なかった。
ただでさえ、この湧き上がる邪悪に身を委ねまいと神経を張り巡らして、感情を押さえ込んでいるというのに。
(もしかして…今………キス…されたのか?)
そう思った瞬間、ゾワリと全身の毛が逆立つような感覚が身を襲い、全身の筋肉が強ばってしまった。
ふー…ふー…と浅く息を繰り返して、今にも、この胸の中に収まって、隠れた気になっている脆弱な獲物を食い尽くしたい…などと、そんな事を考えた。
根拠の無い信頼を寄せ、俺の懐が最も安全だと思い込んでる昴に、俺は、一体誰が一番危険で、恐ろしい存在なのか、その身体に教えこんでやりたくて……。
あまりにも興奮しすぎたもんだから、俺のこの早い心臓の音もきっと伝わっていたんじゃなかろうか。
俺が起きている事も、本当は気付いていたんじゃないだろうか。
俺は自身の黒い欲望が暴走するのを抑えながら、なんとか朝まで粘ったけれど……。
結局その日の夜は、言った通り眠れなくて、朝までギンギンに覚醒してしまっていた。
朝食を作ってくれた昴が、俺を見てとぼけたので、俺はちょっと仕返しにデコピンをする。
そして、弾かれたデコをすりすりと撫でながら、意味が分からないとプンプン口を膨らませる昴を見て、ほんの少しだけ、溜飲を下げるのだ。
俺の気持ち、気付いてくれてるよな?
口に出さなくても、俺のこの好きという感情は、きっと昴に伝わっている。
昨日のキスは…そういう事だよな?
俺があえて口に出さなくても、あんな事をしたのは、俺の気持ちが、きっと昴に伝わってるからだ。
いつ俺のせいで壊れるとも知らない、不安定で、とても脆弱な関係に見えるけれど…。
(大丈夫だ…俺達は…)
根拠もなく俺は、そうして二人の関係を、上手く誤魔化し続けたのだ。
[newpage]
大地に会うのが気まずくて気まずくて、思わず一時間くらいの長風呂から上がった俺は、悶々とした気持ちを抱えながらも、もう今日の事はさっぱり忘れようと、頭を振って、二階にある元大地の部屋、その畳の上に敷かれた布団へと既に眠っている大地を起こさないよう這いずって入っていった。
時刻は既に23時。見つかるのが結構遅くて、大地が俺を助けに来てくれたのが九時くらいだから、飯を食い終わって長風呂したらもうこんな時間だ。
まぁ、そのお陰で、大地はこうして先に寝ててくれたから、顔を合わせずに済んだのだけど。
と、思っていた時期が私にもありました…。
「ん……?」
そんな声と共に身動ぎをする音が聞こえて、大地がこっちを振り向いた。
寝ぼけたように薄らと目を開けて、俺を見る。
視界をチラリと時計に向けた大地は、何度か緩く瞬きをすると、大きく息を吸って「ずいぶん長風呂だったな…」なんて、俺をドキリとさせるような事を言う。
「え?あ?…そ、そうか?…あんま自覚なかったな。あんなに広い風呂は久しぶりだったから…」
俺は適当な理由をでっち上げて、そう誤魔化した。
そりゃ言えないだろ?お前と顔合わせるのが凄く気まずかったとかなんとか。
言ったところで「なんで?」と質問されたら俺には答えようがないし、逆に反応が無かったらそれはそれで傷付くしさ。
大地が片眉を怪訝そうに上げて、しかし気にする必要も無いと思ったのか、いつものようにそっとこちらに手を伸ばしてくる。
俺は普段ならその手に自分から飛び込んで行くけれど、夕方に顔を見せた女の子の事が頭にチラついて、咄嗟にそっと、その手から逃げるように身体を引いてしまった。
そんな風に冷たくするつもりは無かったんだけどな。でも、身体が自然に動いたのは、今は大地の腕の中に収まりたくないと、そう俺自身が無意識に思ったからであって。
きっと大地は、俺がわざわざ時間を掛けて部屋に戻ったのは、自分に会いたくなかったからと、実は勘づいてるんじゃないかな。
俺って、自分で言うのもなんだけど、結構隠し事するのが下手くそだし。
「………」
「………」
沈黙が、二人を襲った。
大地は布団の上にパタリと腕を下ろすと、意を決したように身体を起こして、その場に胡座を掻く。
ボリボリと後頭部を掻いて、少し気まずそうにしたあと、俺の顔をチラリと見て、言った。
「……俺がすぐに迎えにいかなかったの…怒ってるのか?」
「……べ、べつに?」
嘘だ。本当は、怒ってるとまでは言わないにしても、嫌だなって思った。
でも、そんな言葉、言ったところで何になるんだ。
お互い相思相愛だと、俺が勘違いしてるだけなら、それを肯定したら、ただのキモい奴になるのは、俺の方で。
「……なら、風夏のこ「っ…どうでもいい。」」
俺は女の子の名前が大地の口から出てきた瞬間、言葉を遮るようにそう言って、そのまま布団に身体を横たわらせ、大地に背を向けた。
どうでもよくなんて無いだろ。こんなあからさまな態度とったらさ、馬鹿でも気付くって、俺の馬鹿!
でも、これも身体が勝手に動いたんだ。
大地の口からあの子の名前が出るだけで、胸の奥がモヤモヤして、歯をギリギリと噛みたくなってしまう。
でも、仕方ないだろ?あんなモデルみたいに可愛い幼馴染が居るなんてさ、俺に勝ち目なんか最初っからないじゃん!
いやいや、所詮男同士なんだし、そもそもこんなの考えてる方が馬鹿であって………て、俺は何を考えるんだ…もう。
どちらにせよ、どうでもいいって言うのは、半分くらい本心だったりするかも知れない。
だって本当に、あの子の事なんか聞きたくないんだ。
もう名前は知ってしまったけれど、それ以上の情報は本当に知りたくない。
だから俺は無理矢理会話を終わらせた。疲れてたし、すぐにでも眠ってしまいたかったってのもある。
大地はその後、何を言うでもなくざっと胡座のまま、床を擦って近付いてきて。
「うわ!ちょ!ちょっと!」
俺の足を掴んで、いきなり引き寄せた。突然の事に抗議の声を出す俺を、大地は真剣な顔で見下ろして。
「…アイツとは、何でもない。」
「………」
低い声で呟いた。俺は視線を横に逸らして少し困ったように口を尖らせる。
いくら騙されやすい俺でも、それが嘘の言葉だっていうのはよく分かる。
だってあんなに親しげだったのに、何でもないだなんて。ありえないだろ。仮に大地が何を思ってなくたって、あの様子じゃあっちの方がガチ惚れっぽいし。
だからあえて俺は、そんな大地の言葉を肯定も否定もしない、何も思ってない風を装って、できるだけ冷たく返答を返した。
「……はぁ…マジでとうでもいい。…別に、あの子がどうとか、そういうのさ。」
「………」
「幼馴染なんだろ?だったら親しくて当然なんじゃないの?…てか、なんで男の俺が女に嫉妬するみたいな感じになってるわけ?…それってさ……なんか、………変だろ。」
本心でもないことを……。最後の方は思わず俯いて、少し小声になってしまった。言ってて虚しくなったというか、それが現実だと認めちゃうみたいで。
でも、結局どこまで行ったって俺達は、相変わらずずっと曖昧な、友達以上恋人未満みたいな関係なんだし、俺が言えるのはそういうことだけ。
ここで間違っても嫉妬とかいう言葉を入れたら、まるで俺がコイツの事好きなんじゃん!みたいな感じになって、そういうつもりが大地に無かったら、俺が墓穴を掘る。お前俺の事が好きだったのか!?なんて言われたら、もうそりゃあ逃げ道が無くなって、俺と大地の関係は壊れてしまうし。
あ、いや、もう殆ど壊れちゃってんのかな、実際はさ。
でも、そんな言葉を言った瞬間、今まで見た事ないくらい、大地の眉間に皺が寄って、視線が途端に強くなり始めた。
「…本気か?」
「………ぇ」
俺は何も答えなかった。というか、答えられなかった。
だってさ、なんというか、そんな大地の顔見たことがなくて、少し…ほんの少しだけ怖くなったってのもある。
まるで肉食獣みたいな目。ちょっとでも逆らったら、なんだか食われてしまいそうな、そんな気がしてしまったから、思わず言葉が喉につっかえて。
大地は、俺が今日擦りむいた方の足を見ると、おもむろにそれを持ち上げて、軽く猫背になる。
何をするかと思えば、いきなり、瘡蓋になっていた俺の膝小僧に牙を突き立て始めて、その痛みと行動に意味が分からず、俺は慌てて身体を持ち上げた。
「ぃっ…て!!何すんだよ!いきなり!」
「………」
大地の白い口周りの毛に、俺の赤い血液が付着して、真っ赤になっていた。
瘡蓋を無理矢理牙で捲ったのだ。そのせいで口の周りに血がついたんだと思う。
でも、それだけじゃなく、何だかその様子は、どこか恐ろしく見えて……。
ペロリと、マズルをその太い舌が舐める。
窓から差し込む月明かりに照らされて、大地の仄暗い瞳にコントラストが差した。
まるで獰猛な怪物のような、そんな恐ろしくも美しい顔が、俺をジッと射抜くように見つめて。
動けない俺を嘲笑うかのように、大地は血が出る俺の膝をもう一度持ち上げると、猫背になってベロリと大きくその場所を舐めた。
傷を癒すようにも、肉を貪るようにも、どこか異常者のようにも。
……そう見えて、ゾクリと背筋に何かが駆け巡った。痛みで軽く目尻を痙攣させながらも、しばらく、ねっとりとした舌に、俺の膝は舐められ続けた。
大地は何をしたかったんだろう。
何を伝えたかったんだろうか。
俺に対する戒め?それとも、独占欲の主張?
そんな複雑な意図なんか全く存在しなくて、実はいつもみたいに、からかうような意味で、そんな事をしたのかもしれない。
本当の理由は全く分からないけれど、大地は俺の膝から血の流れが止まるまで、その場所を味わうように、クチャクチャと舐め続けられて……。
「…っも…いいよ…」
俺が恥ずかしくなって顔を真っ赤にしながらそう言えば、ピタリと大地の舌が止まった。
視線がゆっくりと上を向いて、こちらを見る。
相変わらずの恐ろしい視線に、ゴクリと唾を飲み込めば、ゆっくりと、布団に腕を突いた大地が、のしのし四つん這いでこっちにやってきて、俺の身体を覆うように見下ろした。
俺はなんだかもう怖くなって、ギュッと大地の胸の辺りのたゆんだシャツを震える手で掴む。
少し押し出すように力を入れるけれど、大地の巨体はそんなんじゃ動く訳もなくて。
(こ、怖…)
大地は無言のまま、いつもと変わらない無表情で、俺を上から見下ろしていた。
(お、俺…喰われ…?)
その顔が相変わらず、思考を読ませなくて。
「だ、大地……?」
「………」
ただ視線だけで訴えかけてくる。そんな目をしたって、俺にはお前の意図なんか1ミリだって伝わってこないのに。全く理解できないのに、それでも、言わなくても分かるだろ?みたいな。
(全然……分かんないよ。お前の伝えたいことなんて…)
その視線から逃れたくて、俺は目を伏せながら、何とかやっと動くようになった身体をぎこちなく横にして、大地からそっぽを向いた。
怖くて、恐ろしくて、でも、抵抗なんて出来ないし、震える体を守るようにして丸まる。
いつもだったら笑って誤魔化すような事も、今この状況じゃ、全然そんな気持ち湧かなくてさ。
大地は、そんな気まずげな俺の横顔を見ると、そのまま俺を抱き締めるように、ゆっくりと横になって。
結局いつもみたいに、抱き合いながら寝た。
大地の太い腕を拒否する事も出来なくて、引き寄せられるままに、俺は彼の身体にすっぽりと収まる。
1つ違ってたのは、いつもの様に、お互い向き合って寝てるわけじゃないってこと。
普段は心地よい大地の体温も、今は俺の冷たい心の温度が、お互いに打ち消し合ってるように感じた。
心も、身体もグチャグチャで……。
結局俺はしばらく眠る事が出来ずに、スースーと寝息を立てて眠った大地の腕から離れるようにわざわざ位置を変えた。
暖かい体温はなくなったけれど、夏の夜半にはむしろ丁度いい。
エアコンが効いて肌寒い部屋の中、俺は自分の身体を抱くようにして、やっと眠りについた。
大地は朝起きた時、どう思ったんだろう。
いつもは俺の方からくっついていくのに、朝起きたら、その俺がずっと遠くに居たんだからさ。少しはやっぱり、気にしてくれるだろうか。
こんな、子供みたいな方法でしか、感情を表せれない馬鹿な俺……。
…大地はもしかしたら……
傷…付いたりしたんだろうか…
俺の事…
嫌いになったりしたのかな…?
……分からない。……知りたくない。
朝起きた時、結局そばに大地は居なかったから。
[newpage]
朝食を食べに居間へと降りたら、おばさんからもうお昼の時間だと言われて笑われた。
大地は父親の手伝いで朝早くから出たらしい。
夕方には戻ってくるけれど、とりあえずお昼を食べたら、おばさんも出かけないといけないので、彼等の為に作ったお弁当を届けて欲しいと言われた。
自転車はあるし、地図も書いてくれたので、行けはするけど、正直大地と顔を合わせるのがちょっと気まずい。
まぁ、そんな事おばさんには言えるわけもないんだけどさ。
暇だし結局受けることになった。何もせずただ家でダラダラしてたら、流石に息子の友達でも鬱陶しいと思われるというか、普通に迷惑だろ。
おばさんは早々に出かけて、俺はすぐ一人になった。飯をさっさとかき込んで、用意された巨大な弁当二つを自転車の籠と後ろに巻き付けて乗る。
娘夫婦に親父さんと大地の分だから、重箱一つじゃ足りないんだろう。はっきりいってめちゃくちゃ重たいし、これ俺、自転車、ちゃんとバランス取れるかな…と思った。
おばさん俺が男だから平気だと思ってるようだけど、この腕を見てわかる通り、俺はあんまり肉体労働が得意ではないのだが……?
そりゃ、人並み程度には力もあるけど、最近は大抵重いもん全部大地が持ってくれてたからな〜。
それに俺の膝下くらいまである弁当二つは、俺じゃなくてもそれなりに辛いだろ。
そんな事を考えながらも、俺はさっさと家を出ることにした。
どうやら家の鍵は掛けなくていいらしい。大丈夫なんですか!?と驚いて聞いたら、全然平気だと言われた。田舎だと結構普通の事なんだとさ。
自転車なんて久しぶりに乗るし、重量もあって上手く乗れるか不安だったけど、操作自体は意外と身体が覚えているようで、バランスも地味に問題はなく、俺は順調に漕ぎ出す事が出来た。
地図によれば、そんなに遠い場所では無いようで、家から2キロくらいの位置にある物置小屋が目的地らしい。この時期は稲作物の雑草を刈ったり、様々な重機や器具のメンテナンスをしないといけないようで、多分今頃小屋で作業してるだろうと言われた。
それくらいの距離なら皆帰って来た方が良いのではと思ったが、おばさんは今日の夜行われる祭りの手伝いが朝からあったらしく、昼間に一度帰って来れるか怪しい感じで、最悪実家組は皆昼食抜きで作業する予定でいたようだ。……ドタバタしていて、朝弁当も作る暇すら無かったらしい。
でも、作業の合間におばさんはスキマ時間が貰えて帰ってこれたので、急いで作って急いで届けようと思っていたところに、丁度俺が現れ、こういう状況になったというワケだ。
(田舎じゃ、コンビニも全然無いしな〜)
畑しかない殺風景な景色を見ながら、そんな事を考える。俺が居なかったら少し遅刻するところだったと言っていたおばさんは、弁当を預けてさっさとまた出ていってしまった。
この広大な農地が、全部大地の家の土地だと言うのだから驚きだし、だからこそおばさんもあんな忙しく祭りの準備に駆り出されたんだろうな。
辺り一帯を仕切ってるっぽいから、町内の付き合いなど色々あるのだろう。
武家屋敷っぽい家なのはまだしも、田舎の割に各部屋に1台ずつエアコンまであって、テレビや風呂なんかも、銭湯かよ!って思わず突っ込んじゃうくらいデカかったし、相当稼いでる豪農であることは間違いないと思った。
本当はもっと親戚もいるらしいけれど、お盆に集まるのは近場の人達だけなんだってさ。
それこそ正月になると、色んな地方にいる沢山の親戚が集まるので、あの大きな家でも狭く感じてしまうらしい。
言った通り、家族の絆というものが薄い俺には、その凄さがあんまり想像出来ないんだけどな。
…それに多分、大地の実家に来るのはこれが最初で最後だし…な…。
そんなこんなでしばらく自転車を漕ぎ、徐々に見えてきたその物置小屋も、普通の家より大きいくらいの屋敷だった。
多分車庫のようなものなんだろう。重機はデカいので、それなりの広さがいるんだと思う。
俺はやっとの事自転車を止めると、とりあえず小屋の扉を開けて中を見てみた。
玄関から見える範囲には誰もいなくて、自転車を入口まで押してくると、中身を揺らさないように両手で重箱を持ち上げ、ひとまず玄関先に置く。
「とりあえず、皆探すか?」
俺は家の中に入って見たが、家は簡素な平屋で、併設された車庫がメインであり、居間と、多分ずっと水を汲むくらいにしか使われていないキッチン、それにデカいテーブルと椅子が幾つかあるくらいだった。
車庫には居なかったし、田んぼで雑草取りでもしているんだろうか。
来た方の道には居なかったけれど、この小屋の向こう側か?
そう思って、玄関とは反対側にある小さな窓へと向かった時、ガラリ…と後ろで引き戸の開く音がした。
弾かれるようにフッと振り向く。
そこには、腰まである長く艶やかなストレートの黒髪をなびかせた、白いワンピース姿の、どこかの富豪のお嬢様のような女性が、儚げに立っていて、俺は思わず、ヒュ…と息を飲んだのだ。
「あら?貴方たしか、大地のお友達の…」
「……え?…あ、お、俺…っ」
「昴くん…だよね?…間違ってたらごめんなさい。」
「あ、や、あ、合ってます…それで…」
「そっか…、えっとぉ……あ、お弁当!」
少女がそう、華やいだ声を上げると、俺は思わず肩をビクリと震わせて額から汗を垂らした。
まるで天使のようにはしゃいだ少女が、両手を合わせて無邪気に声をあげる様を見れば、こんな子にそもそも嫉妬する時点で間違っているのだと、そんな風にさえ思ってしまう自分がいる。
彼女は女性というだけで、世間一般的な常識から見ても不都合が一切無いというのに、その上可憐で、品が良く、下手な有名人より美しい見た目をしている。
東北美人とは良く言ったものだ。笑顔だけでなく、その動作一つとっても、世の男性が求めているのは、こういう女性なのだろうと、そう感じてしまうくらい完璧な有様に見えた。
彼女は俺の運んできた弁当を見ると、華やかに笑って、玄関先に駆け寄ってきた。
俺を見つめて「貴方が持ってきてくれたの?」と無邪気に微笑みながら呟く。
俺はただ、必死に取り繕うような笑顔を顔に貼り付けて、なんとか不自然に見えないよう、愛想良くそれに言葉を返すことしか出来ない。
「お、おばさんに頼まれて…」
「そう…!おばさん、お昼に戻ってこれたのね!…大地達、きっと喜ぶわ!」
お昼が無いかも知れないとおばさんが言うと、おじさんは明らかにしょげた様子で笑ってしまったし、大地も少し残念そうだったので、そうならなくて良かったと少女は言った。
どうやら彼女もまた手伝いをする為に朝から家に居たらしく、その上基本的に無表情で、表情の変化が乏しい父子の、そんな些細な部分まで見抜いたというのだから驚く話だ。
大地ならまだしも、俺は親父さんを見たって、常に不機嫌そう…くらいの感想しか抱けない。その時点で彼女は、家族ぐるみでも俺と大差があるのだという風に感じられて、それがまた俺の心を酷く傷付けた。
「貴方もここで食べていくの?」
「俺は、もう先に食べてきたので…」
やんわり少女の言葉を否定すると、彼女は話題を振ってきたにも関わらず「そう」と短く大して興味も無さそうに呟いた。
当たり前だが、俺の事なんて眼中にも無いのだろう事が決定的で、一方的にライバル視していた自分がとことん情けなくなる。
相変わらず彼女の存在は不快ではあるけれど、なんというか、俺なんかじゃそもそも初めから勝負にすらならなっていなかったんだと、そう思えて、なんか、もう全部どうでも良くなってきた。
自分でもこれほどまでの感情の変化には驚いているが、こんな風に外見から差を見せつけられてしまってわ、ぶっちゃけしょうがないだろう。
(初めから俺は…大地と釣り合いが取れなかったんだな……。)
男で、子供も産めない。別に可愛らしくもなければ、俺は大地の実家の事すらよく知らず、手伝いなんてせいぜい、この弁当を運んできたくらい。
それだって力が足りず怪しい所だった。農業関係の手伝いなどもってのほかである。俺がこの少女に勝てる要素など、ひとつも無いのだ。
「大地、あっちではどう?」
「……へ?」
唐突に、そう少女に問われて、俺は深い思考の最中から勢いよく引き戻された気分になった。
思わず素っ頓狂な声を上げて、質問の意味が理解出来なくなる。
彼女はパチクリと目を瞬かせると、今の伝わらなかったの?という風な様子で、もう一度問いかけてきた。
「大地…今は東京でしょ?…昴くんは彼と一緒に住んでるんだよね?…大地、上手くやってる?ほら、彼って凄く口数が少ないでしょ?人付き合いもあんまり好きじゃないし。」
「え?あ、そ、そうっすね…えと、まぁ多分普通じゃないっすか?仕事で苦労してるとか…聞かないし。」
「普通?」と少女が訝しげに首を傾げて俺を見た。あまり詳しく話せない俺に対して、どうやら不思議がっている様子で、いちいち心臓に突き刺さるような、悪気はないんだろうけれど、そんな言葉で俺を質問攻めにする。
「お仕事の話とかしないの?一緒に住んでるんだよね?」
「…ぇ…っ…一応…そうだけど…アイツはあんまり自分の事は話さないし、いつも俺ばっか話してるから…」
「へぇ…そうなんだ?…じゃあそんなに仲良い感じじゃなくて、都合がいいから一緒に住んでる感じ?……東京は色々高いらしいもんね?…ちょっと羨ましいな〜なんて思ってたけど、それならこっちでアタシと一緒に居た時とあまり変わらないね。」
「………」
少女にニッコリと笑って言われるまで、俺は全く気が付かなかった。
大地が仕事で上手くやってるかどうかとか、人間関係はどうなのかとか、そういう当たり前のこと…。
よくよく考えると大地は、同居し始めてからも相変わらず無口で、一緒に居ても別に、自分の話をしたりする事は殆どなかった。
だからってそれを別に不便に思った事はないんだ。大地ってのはそういう性格の奴なんだろうし、俺が話してると、アイツはうんうんと相槌をうって、いつも優しく微笑みながら話を聞いてくれているから。
でもそれって別に、お互いにちゃんと会話してるってわけじゃないんだよな……。
こっちが一方的に話して会話してる気になってただけで、俺は結局、アイツの事なんか全然理解してなくて………。
大地がアウトドアを好きだということも、言ってしまえば勘だった。
頻繁に外に連れ出されるし、キャンプや山登り、景色が有名な場所へと旅行に行く事が多いから、俺が勝手に、そういうの好きなんだろうなと決めつけてるだけ。実を言うと、大地の口からアウトドアが好きだという話は一度も聞いたことがない。
料理だっていつもしてくれるけれど、それはアイツが、料理を得意だとか、好きだからしてるってわけじゃなくて、例えば俺の料理を嫌いだからしてるだけかも知れないし……。
その料理の評価だって、直接大地から聞いたことが無いから、アイツがそもそも料理するのが好きなのか、それとも俺の料理が嫌いなのか、そんな事すら知らず、俺達は同居してたんだな。
好きな色、料理、よく聴く曲、映画…等。
普通の恋人なら知ってそうなこと、俺は何も知らない……。聞いたこともない……。
「今日はね、お祭りがあるの。」
「………ぇ?」
少女の言葉に、生返事を返す俺を、彼女は気にした様子もなく、上機嫌な笑顔で続けた。
「大地を誘ってね、一緒に色々見て回るんだ。」
「………そっ…すか…」
「それでそのまま故郷が懐かしくなって、大地が帰って来てくれたら良いんだけどな。……お友達の貴方には悪いけど、大地の奥さんになれるのは、幼馴染のアタシくらいしか居ないと思うの。…無口で、無表情な大地の事、見てて理解できるのって、アタシくらいしか居ないし、東京じゃきっと、色々勘違いされて苦労してる筈だわ。」
確かに、そうかもしれない。
結局俺は、アイツの事、知った気になって、でも全然知らなくて。
恋人…、いやいや、俺は友達以前の関係だった…。
結局、アイツが幸せになるには、こういう田舎で、のんびり暮らすのが良いんだろうな。
もしかしたら大地にとっては、東京は人も多くて、生きづらい環境だったりするのかもしれない。
田舎と比べて積極的に仕事仲間とも関わらないといけないし、無口で無愛想で、他人と関わる事を嫌がる大地は、今の仕事も普通に、気に入ってないかもしれないし。
だから頻繁に、田舎の空気を感じられる。そんな場所に旅行へ出かけて、故郷を懐かしんでるのかもしれない。
「だからね!貴方も協力してくれる?」
「……へ?」
「お友達なんでしょ?貴方からも大地に言ってくれれば、彼、こっちに帰ってこようと思えるかもしれないじゃない?」
「…………まぁ…」
「貴方が一人でしっかり暮らせるなら、別に大地と一緒に居なくてもいいハズでしょ?……だから、ね?」
「………」
まぁ、そうだよな。
彼女の言う通りだ。
今思うと俺、結構アイツに頼りきってて、元々は一人で暮らしてたけど、その暮らしっぷりも結構適当で。
俺が風邪を引いて寝込んだ時、アイツ俺ん家に来て言ってたんだよな。
食料の備蓄もないし、洗い物も溜まってるし、服は脱ぎ散らかしてるし…ほんとに一人で暮らせてるのか?って……。
勿論全部この通り言われたわけじゃないけど、アイツが言った発言を総じてまとめると、似たような感じの事を言っていた。……途切れ途切れ、事ある毎に呆れたように……。
だから、一緒に暮らす事になったのも、アイツが俺の暮らしぶりを見て、お節介を焼いただけかもしれない。
俺がしっかり、まともに一人暮らし出来てたら、そもそも俺なんか、別に一緒に暮らす予定じゃなくて……。
アイツにとって俺は、少し目が離せないくらいの、子供みたいな感覚だったんじゃないか?
だとすれば、俺がちゃんと独り立ち出来るとアピールする事で、この関係も終わりを迎えて、いちいちこんな常識から外れた、変な事で悩むこともない。そんな昔の日常に戻る事が出来る。
手を繋いだり、一緒に寝たり…
肩を抱かれたり、頭を撫でてくれたり…
そういえば全部、俺が初めにアイツにちょっかい掛けたから……
だからアイツも面白がって、俺にちょっかいを掛けてきた、最初はそういう流れだった筈だ。
「わかりました。」
「ほんと?言ってくれるの?嬉しい!」
「まぁ、それがアイツにとっても、一番良いでしょうから…。」
「良かった!ありがとう!」
少女の笑顔に、俺も貼り付けたような笑顔を返して、その申し出を受け入れた。
学生気分で浮かれたり、ちょっかいを掛け合ったり……。
そういうのはもう、そろそろおしまいの時期に差し掛かってるんだ。
アイツも、遠からず自分の人生ってもんを流石に築かなきゃダメだろうし…。
俺だってもう、誰かに世話をされるような、そんな時期はとっくに過ぎ去った。
いつまでも、こうしては居られない。
楽しかった時間も、いつかは終わりが来るものだから……。
作業を終えて、小屋に戻ると、ちょうど自転車に乗って、どこかへ行こうとする昴の姿が見えた。
声を掛けようとして、少しばかり駆け足になり、小屋の前まで行くけれど、その時にはもう、こちらに気が付かず昴は、そのまま自転車を漕いで遠く遠ざかっていく。
その事を残念に思いながらも、ただ、どうせ今夜は祭りがあるし……。昨日のいつもと違った様子も気になったけれど、祭りに誘えば機嫌も良くなるだろうと、そう簡単に考えて…。
くるりと踵を返して玄関先を見れば、そこには風夏の姿があった。
彼女は何故か少し機嫌が良さそうに、そこに座ってこちらに手を振ってくる。
そんな様子に、少しだけ胸騒ぎがした。
「………何してる。」
「別に何もしてないよ?…ほら、お友達がお弁当持ってきてくれたの!一緒に食べよ!」
風夏は当たり前にそう言うが、そもそも何故小屋に来ているのか、その時点で嫌な予感を拭い去る事が出来ない。
彼女は見た目だけで言うと、そこらに居る一般人よりも遥かに美しく、可憐な姿をしているけれど。
俺は……俺だけは知っている。
彼女の計算し尽くされた、どこまでも腹黒い、棘のある性格を……。
「……親父…呼んでくる…」
俺はそう言って、彼女には近寄る事はせず、その場から逃げるように踵を返した。
あの笑顔の裏に、どれだけ悪どい計画をたてているのか、わかったものじゃない。
夏の日差しが、じんわりと俺の全身を蝕んでいく。
この心の中に広がる嫌な予感も、その熱で溶かしてくれれば良かったのに…。そう思いながら……。
[newpage]
風夏と俺は、所謂幼馴染と言う奴で……。
子供の頃から家が近所だったという事もあり、家族同士の交流はあまり無かったが、それなりに頻繁に遊んだりする仲だった。
こんな田舎の、しかも土地持ちの家だ。
周りは広大な畑や田んぼに囲まれていて、近くに家は無い。
そんな中にあるもんだから、それでも、最も近くに住んでいた相手と仲良くなるのに、そう時間は掛からなかったように思う。
まだ俺達が幼く、無邪気で、素直だった頃……。
男とか女とか、性別の垣根なんて気にした事もなく、俺達は日が暮れるまで、よく一緒に遊んでいた。
少し先にある裏山を駆け回ったり、一緒に駄菓子屋でお菓子を分け合ったり……。
その思い出は勿論、俺にとって大変素晴らしいものであり、それはそれは大切にしていた記憶の一つでもあったんだ。
………ある、一時までは……。
風夏は幼い時から、周りと比較しても美しい子供だった。
小学校に入りたての時は、そんな風夏と友人であり、一緒に遊べる俺は、周りから羨望の目で見られ、よく嫉妬の混じった言葉で、男子だけでなく、女子からも、やいややいやとからかわれたものである。
風夏は人に注目される事に慣れておらず、人見知りで、そんな様子の彼女が、たった1人だけ心を許している存在がいるのだから当然だろう。
それでも別に、そんな嫉妬や羨望の混じった言葉も、大して俺の負担にはなる事はなかったのだ。
最初のうちはな……。
学生になって、周りに同学年の子供も増えてくると、俺は女子である風夏よりも、どちらかというと同じ男子の中に混じって遊ぶ事が多くなっていった。
やはり、性別は気にしないと言っても、人間の女子と、獣人の男子では、早い内から体力的にも差が顕著に生まれてきてしまうものである。
一日中走り回っても平気な俺と、それとなく限界が近くなってきた風夏。
俺が他人と遊ぶようになったのは、もはや必然とも言える行動だったのかもしれない。
たった10分の休憩時間でも、走り回って遊ぶ俺と友人達。勿論休み時間には毎回グラウンドに出たり、体育館まで行っては、野球やサッカー、鬼ごっこや缶蹴り、体力を使う遊びばかりして活発に動く。
放課後は公園で日が暮れるまで行動し、2年生に進学して本格的に部活動が始まると、俺は野球部に入部して、キャッチャーという重要な役職にもついた。
体格が周りに比べて大きかった事もあり、部員の少ない柔道や、タッチフットでは助っ人も頼まれたりして、そうして俺が周りから認められていくにつれて、逆に風夏との関係はどんどんと希薄になっていったような気がする。
言った通り、人見知りの激しかった風夏は、周りから浮く程ではないにしろ、しかし活発な男子達の中に混じって遊べる訳もなく、またその美しい容姿から、彼女に好意を持った男子にからかわれる等、様々な問題があって、女子に庇われる事が多くなっていったのだ。
それでも、俺の部活が休みだったりする時は、風夏はわざわざこちらの家に来て遊んでいたし、俺も別に彼女を遠ざける事はせず、関係は細々と続いていた、そんな日々。
とはいえそれも、中学に上がる程の年齢になると、状況が変わっていった。
部活動等は小学校とは比べ物にならない程忙しくなるし、その頃になると行動範囲も広がって、別に近所で遊ばなければいけない程手が掛かるとも言えなくなった。
自転車等も買い与えられて、遠くに行けるし、そうなると町の外れにあって、周囲が畑や田んぼだらけの俺の家の周りより、友人の住む中心部まで自転車を漕いで、彼等と一緒に遊ぶ事の方が多くなる。
そしてここまで育つと、やはり話す内容にだって、男子と女子では偏りが出るものだ。
次第に俺は風夏と話題も合わなくなったし、同い年の男子達と話す事の方が多くなっていった。
それが、彼女にとって、とても気に入らない事だったらしい………。
中学二年のとある日、突然風夏に呼び出された俺は、人気の少ない、町の河川敷の橋の下まで、腕を引かれて連れていかれる事となった…。
別に断っても良かったのだが、久しぶりの誘いだったし、それ以前のは全て色々言い訳をする事で断っていた為、これほど会いたがってるなら、たまには会ってやらないと駄目だよなと、半ば義務感のようなものもあって顔を合わせたというのもある。
風夏は、橋の下に着くと、俺の手を握って…。
どこか言いにくそうな、照れたような、そんな曖昧な様子で、もじもじとしながら、必死に言葉を探しているような仕草をした。
「…あ、あのね…?」
「……あ、あぁ」
俺はなんだか、とても嫌な予感がしていた。
風夏のその様子を見れば、明らかに何を言われるのかというのが何となく察せれたけれど、俺は不思議と、胸の高揚とか、気分が高まるとか、そういう感じは全くと言って良いほど無くて……。
ただただ冷静に、言葉を返した。
風夏は案の定俺に対して「大地が…好きなの…」と顔を赤らめながら呟く。
「だからね…あの…アタシと、付き合って…くれる?」
「………」
風夏はそんな風に、かなり勇気を出して告白してくれたのだろうけれど、正直俺は、彼女に告白されても全然乗り気にはなれなかった。
俺にとってその時期は、一年の時と同様、全国大会のレギュラーに選ばれた年だったし、恋愛に現を抜かしている暇など無く、むしろもっと練習しなければならないと、熱くなっていた時期だったという事もある。
一年の時、惜しくも準決勝で負けた俺達は、今年こそ全員で優勝しようと躍起になっていて、練習に熱が入っていた。去年惜しいところまでいって負けた、元三年生の先輩達の悔し涙もあって、今年こそ負けられない。絶対に一位を取るんだと、全員が全員、互いに高めあっていて、恋愛どころの話じゃなかったのである。
それにこれは余談だが、風夏が同じ中学の野球部員や先輩達に人気だというのも遠慮した要因のひとつだ。
ただでさえ、俺は元々風夏と仲が良いという事で、それなりの嫉妬を向けられていたわけだけれど、俺が彼女に興味が無いという事を吹聴する事で、なんとか彼等のやる気を削がないよう配慮してきた。
それが、もし少しでも俺達が付き合ってるなどと言う噂が流れでもしてみろ。部内の空気は最悪になるし、全員で団結しようとしている所に余計な水を差す恐れがある。
俺はそういったことも懸念して、風夏の申し出を断った。
「……悪いが…」
「………ぇ?」
俺が目を伏せて、そう小さく呟くと、風夏は絶望したとでも言うように、目を大きく見開いて唖然としていた。
断られると思っていなかったのだろう。
幼い頃から見知った顔の幼馴染であるし、風夏は周りから自分がどう見られているか自覚している。
散々容姿を褒められてきたのだ、俺ももしその時、大会という目前に迫った目標がなければ、その申し出を考えてみたかもしれない。
けれど……。
「…ぇ?…ど、どうして?…大地…嘘…だよね?」
「…………」
「嘘だって言って…!…ねぇ!」
「……すまん」
目尻から大粒の涙を垂らし、俺の腕を掴む風夏に、俺は顔を逸らしながら、ただ簡潔にそう答えることしか出来ない。
ここでしっかりと、風夏が納得出来るように理由を述べた方がいいのだろうか。
そんな事を考えているうちに、彼女は目元を拭いながら、逃げるように去っていってしまい、結果、俺の言葉は喉から吐き出されることも無く、胸の内に沈んでいった。
俺は結局、そんな彼女を引き止めることも出来ないまま、その場に立ち尽くしてしまって……。
次の日、俺がいつも通りに学校へ登校すると、心無しか、周りの視線が冷たいような気がして不審に思った。
どこの誰もが俺を見つめる視線に棘があり、まるで学校全体で俺を軽蔑しているような、そんな視線を感じたのである。
俺は足早に靴を着替えて、教室へと逃げるように向かった。周りの目がどんどんと厳しいものになっていき、それは同学年になるにつれて強くなっていたように思う。
そしてその予感は案の定、的中したのだ。
「……このレイプ魔」
「……?」
教室に入り、自分の席に着こうとした所で、俺に向かってボソリと、そんな言葉が吐き捨てられ、思わず声のした方へ振り返る。
そこには、まるで肉親でも殺されたかのように、憎しみの篭った瞳で俺を見つめる女子の姿があり、俺は困惑したようにその女子生徒の姿に目が釘付けになってしまった。
「…変態」
「…よく顔出せたもんね」
「…信用してたのに」
「…こんな人だったなんてね」
そして、それと同時に、そんなコソコソとした話が、周囲で話され始めた事に驚き、辺りを見渡す。
(なんだ…何が起こってる…)
俺は、まったく身に覚えのないそんな悪意ある言葉に、嫌な汗を止めることが出来ず、そして逃げるように自分の席につき、落ち着かないまま時間が過ぎるのをただ待つ事しか出来なかった。
すると、登校してきた同じ部活の友人の一人が、俺を見つけるなり、勢いよく近付いてきて、突然胸倉を強く掴み上げてきたのだ。
「お前!最低だな!」
「…っ!?」
言ってる意味が分からず、俺はただ唖然とした表情で相手を見つめる。
なぜそのように詰め寄られているのか理解出来ず、周りに視線を向ければ、誰も彼もが俺を睨むように見つめていて、どこにも、俺の味方は居ないのだと瞬時に悟った。
「笹木をレイプしようとしたんだってな!?お前がそんな事する奴だったなんて、信じらんねぇよ!!」
「…!?」
笹木とは…風夏の苗字だ。
俺はどうやら、風夏をレイプしようと襲った、最低な人物として周囲から見られているらしい。
視線の意味が分かっても、何故そのような話が出回っているのか全くと言っていいほど訳が分からず、言葉を探す。
「…な、なんの話だ…!」
「しらばっくれんなよ!!笹木本人がお前に襲われそうになったって、佐藤に泣き付いてきたの、もう皆知ってんだぞ!?」
「……なに…?」
どうやら風夏は、俺が告白を断ったあと、その足で友人の家に向かい、まるで俺に襲われかけたかのように振舞って、泣きついたらしい。
まさか、告白を断っただけでそのような事をするなんて…。俺は風夏を視線だけで探すが、しかし彼女は登校してきていないのか、クラスを見渡してもどこにも見当たらない。
泣きつかれた友人がその日のうちにメッセージアプリでその話を広げ、そしてそれが彼等の弟や妹、更にその友人と…伝播していき、たった一日でこのような状況になってしまった。
俺は野球部に所属しているし、様々な特徴があって目立つので、名前は知られている。その上で写真まで出回ったとあれば、例え顔が一致しなくても、それが誰かというのはすぐに理解出来るだろう。
だから、一見見知らぬ相手でも、俺の事を一方的に知っていて、悪意ある視線でこちらを見てきたのだ。
そしてそれを理解した瞬間、周りの生徒達が、堰を切ったように罵声を浴びせ始める。
「変態!!」
「女の敵!!」
「恥ずかしくないの!?」
「近寄るな!!」
「死ね!!」
身に覚えの無い悪意に晒され、俺の視界は一瞬で真っ黒に染まった。
訳が分からなくて、心臓がギュッと縮こまり、全身の毛がゾワゾワと逆立つ。
消しゴムや鉛筆、紙の屑が投げられて、痛みは無いけれど、ただただ、この収拾のつきそうにない周囲の反応が恐ろしかった。
「お、俺は…そんな事…」
「うるせぇ!!クズが!!」
「ぐっ…!」
言葉を言い終わる前に、つい昨日まで一緒に笑い合い、共に全国大会の優勝を目指していた相手が、俺に罵声を浴びせかけながら、拳を振るう。
突然の出来事に反応が出来ず、その場に思わず項垂れるよう膝をついた。
口の中が自身の牙で僅かに切れて、鉄の味が広がっていく。
俺はその瞬間、何を言ったところで信用されることは無いのだと、そう瞬時に悟ってしまったのだ……。
そしてその後も、目まぐるしく状況は変わっていく。
教師に呼び出され、親は呼ばれなかったが、事実確認を迫られる。
俺は一応、風夏をレイプしようとしたという、そんな馬鹿馬鹿しい噂を否定したが、どんなに言葉を尽くしたって、教師は渋い顔をするばかり。
俺の言葉を信じている様子でもなく、先方が内密にしたいと言うので、親には話さないが、失望したと、そんな事を落胆したように、まっすぐ目を見て言われた。
勿論、あれだけ熱意を持って取り組んできた野球部も、当たり前のように退部である。
合宿で同じ釜の飯を食い、互いに切磋琢磨し、何度も苦楽を分かちあった友人達も、誰一人俺の主張を信じる事はなく、全員が俺に酷く蔑んだ目を向けて、遠巻きにした。
学校に行けば、勿論クラスの奴らにも軽蔑の目で見られる。
下駄箱には“レイプ魔!!”と書かれた紙が貼られ、靴にはゴミが詰められ、机には思いつく限りの酷い罵詈雑言が、消えない油性ペンでデカデカと書かれていた。
廊下ですれ違う度に、変態だとか、スケベ野郎だとか、見知らぬ相手にさえそんな事をハッキリと言われる。
そして肝心の風夏自身は、時折俺を遠目から見つめては、ざまあみろと言わんばかりに、妖しく微笑むのだった。
それに、どんなに隠したって、ここまで大きな騒動になると、親には話が行くものだ。
噂が更に広がりを見せた数日後、家に帰り、居間で強ばった顔をこちらに向ける母の顔を見て、俺はすぐに悟った。
ーー嗚呼…ここにも味方は居ないのだ……と。
俺は親の責める言葉を無視して、部屋に篭った。
親父だけは何故か我関せずと言った風で、相変わらず無言を貫いていたが、それでもその顔には、どこか失望の色が見えていたように思う。
とはいえ、そんな日々も、風夏が突然、また家にやってきた事で、事態が急変していくのだが……。
「こんにちは〜!大地くん居ますか?」
「風夏ちゃん!?」
「おばさん、こんばんは!」
風夏はそう言って、いつものように、変わらない笑顔を浮かべたまま、家にやってきた。
彼女はまるで、何事もなかったかのように母と接し、その上で、あれだけ騒がせた事件を有り得ない噂だとわざわざ自分から説明し始めたのだ。
「そんな、大地くんがそんな事する筈ありません。……ここだけの話、アタシの事を好きな男子が、アタシと大地くんの仲に嫉妬して、噂を流したんです。」
「そうだったのかい!…はぁ…あの子ったら、皆がそう話してるから、あたしゃてっきり本当に…。でも、風夏ちゃん本人が言ってくれてるんだから間違いないね!」
「はい!」
俺は絶句した。
こいつは一体、何を言っているのかと耳を疑う。
俺は風夏のせいで、仲間からの信頼を失い、クラスでの立場を失い、今まさに人生のどん底に居るというのに、何をどう狂ったら、そんな事を平気で言えるのかと、頭がカッとなった。
俺の部屋は玄関の真上にある部屋だ。窓を開ければ誰が来ているのかすぐに分かるし、声も聞こえる。
風夏の話を聞いて、部屋を飛び出した俺は、すぐさま彼女の腕を乱暴に掴み、家から遠ざけた。
そして問い詰めた。一体、どういうつもりなのかと。
「決まってるでしょ?」
風夏はそう言って、いつものように屈託の無い笑顔で微笑んだ。
「大地が悪いんだよ。アタシに酷いことするから。」
告白を断っただけだ。ここまでされる覚えはない。
「でも、これで分かったでしょ?」
俺がその言葉に、唖然としたように視線を向けると、彼女はニィ…とまるで魔女のように微笑み…。
「アタシに逆らうと、大地が酷い目にあうの。だから、ね?付き合ってくれるでしょ?…そしたら全部、嘘だったって、お友達にも話してあげる。悪くない取引じゃない?」
ふざけるな!と俺は思わず大きな声で叫んだ。
今すぐ目の前にいる悪魔のような女を殴り殺したい気分だったが、それをすんでの所で、拳を握って我慢する。
仮にその話が本当だとして、上手くいっても、今更失った信頼は戻らない。同時に、俺がこれまで熱心に取り組んできた部活動での地位も、もう取り戻すことは出来ない。一度広まった評判は覆せず、誰も彼もが汚点として面白おかしく俺の話を吹聴し続けるだろう。
そもそも、例え本人からだとして、あれは実は嘘でした。なんて言ったところで、すぐに周囲が信用するわけ無いだろう。逆に俺が風夏を脅して言わせてるに違いないと、尚更色々な疑いの嫌疑が掛けられて、更に酷い状況になるのは目に見えている。
事態はもはや、誰かの手でどうにかなる範囲を越えているのだ。
そう訴えかけても、風夏はただ、キョトンと、その丸い瞳を不思議そうに見開くだけだった。
「どうせアタシを無視して手に入れた関係なんて、そもそも必要無いでしょ? アタシと大地の間を邪魔するものは、全部ぜーんぶ必要ないの。 アタシは大地の事が好きだし、大地もアタシを好きになってくれれば、それで全部解決じゃない。 それに、アタシのモノにならない大地なんて、そんなの要らないわ。 何がそんなにいけない事なの?」
俺はそんな風夏の言葉を聞いて、空いた口が塞がらなくなった。
彼女はもう、常識というものを理解出来ていない。というより、狂ってると言った方が正しい。
その目を見れば、彼女が本気でこのような事を話しているのだと言うことは嫌でも伝わってくるし、その思想に疑問すら抱いていないのは明白だ。
俺はこちらにそっと伸ばされる手を弾くようにして退け、彼女から距離を取るように一歩下がった。
こんな女には、もう付き合ってられない。キッと眉間に皺を寄せて彼女を睨みつけ、ただただ冷たく、冷淡に、簡潔な言葉のみを呟いた。
「……二度と俺の前に顔を出すな。」
「……大地」
俺はそれだけ言うと、その場から逃げるように駆け出す。
昔の当たり前に笑っていた風夏の姿は、もはやどこにもない。
あの記憶も、あの記憶も、あの記憶だって、全て霞み、大事にしていたものが、全部崩れていってしまうような、そんな感覚がした。
俺が人を信用出来なくなったのは、この頃からだったかもしれない。
人は外見でコロッと騙されてしまう生き物なのだ。
言葉の根拠があろうとなかろうと、風夏ほど人目につくような人間であれば、その容姿と涙で、簡単に他人を嘘で染め上げ、人生を台無しに出来てしまう。
そして、そんな彼女が狂っていると知っているのは、世界でたった一人、俺だけだ。
きっと誰に何を言ったところで、結局前回のように信じてもらう事は出来ないだろう。
だから俺は、風夏が来ることが出来ない、そんな場所を目指して、六つも離れた町にある高校へと進学する事にした。
とにかく、あの町から離れたかった。
誰も俺を信じてくれない。そんな場所にいるより、余程精神的にも安定する。そう思った。
本当は家を飛び出して一人暮らしすることを願ったけれど、流石に高校生であっても、親がそのような事は許してくれなくて……。
それでも、誰も俺の事を知らない高校にいけるのは、俺にとってとても有意義な事だった。
改めて友人を作ったり、部活動に取り組みたいという意欲はとっくに無くなってしまっていたけれど、それでも、周囲に軽蔑の篭った瞳で常時睨みつけられる事が無いと考えれば、それだけで心が落ち着いた。
俺はそんな事を考えながら、新天地となりうる高校を見上げて、息を吐いたのだ。
「大地♪」
「…っ!?」
しかし、それもたった一瞬の出来事で、ガラスのように打ち砕かれてしまった。
突然、俺の腕に抱き着き、声を掛けてきた女子生徒を見て、ゾッと背筋に悪寒が走ったのである。
俺は咄嗟にその腕を振り払い、2歩3歩と後ろに距離を取った。
そこには、同じ高校の制服に身を包む、風夏の姿があって。
「…お、お前…」
「驚いた? サプライズ!嬉しいでしょ?」
俺はそんな事を言う風夏よりも先に、周囲を見回して、二人でいる所を他人に見られていないか、そんな事を気にしていた。
俺はもう二度と風夏と関わり合いたくないし、知り合いなどと勘づかれたりもしたくない。せっかく俺の事を誰も知らない場所まで遥々来たというのに、それをまた風夏に壊されるなど、たまったものでは無いと思った。
俺が距離を取ったことに不思議そうにする風夏が、こちらへ近づいてこようとする。
「来るな!」
俺はそう叫んで、距離を取った。
そのままジリジリと後ろに下がり、そして、風夏から逃げるように、玄関口に向かって駆け出す。
チラリと1度だけ後ろを振り返ったが、風夏は俺を見つめるだけで、後を追ってくるような事は無かった。
それを安堵すると共に、ただただ、嫌な予感だけが、じんわりと胸の中に広がっていくのを、俺は感じていたのだった。
そして案の定、その予感は、的中してしまったのである。
「ねぇ、お昼一緒に食べよ!」
「………」
進学初日から、風夏は全く悪びれる様子もなく、そんな風に積極的に俺へと関わりを持とうとしてきた。
風夏は相変わらずその美しさだけは一級品で、既に沢山の生徒達の視線を一身に受けていたから、そんな彼女が俺という存在に笑顔で話しかけているのが誰から見ても気になるのだろう。
俺はそんな視線が嫌になって、何も言わずに席を立つ。風夏が入ってこられない場所ならばどこでも良いと、男子トイレに逃げ込む事が多くなった。
そして勿論、そんな風夏と仲良くなりたいと考える男子は多く、彼等は俺に接触する事で、少しでも情報を得たり、彼女と交流を持とうとした。
しかし俺は、そんな上辺だけの関係や、利己的な感情を嫌い、そうして近付いてくる男子達とも距離を置いた事で、結局俺のクラスでの地位は浮いたものとなっていった。
風夏に構われてるから良い気になってるだとか、すました嫌な奴だとか、そんな評価がにわかに噂されるようになっても、俺は既に風夏という存在が同じ学校に居るというだけで諦めた気分になっており、もう本気で何もかもどうでも良くなってしまっていた。
どうせ、彼等は俺と風夏の間にある確執を知ろうともしないし、知っても結局信用しない。
あんな可憐で美しい完璧な女子が、たった一つままならない事の為に他人の人生を壊し、破滅に導いたなどと、知っても理解は出来ないだろう。
俺だってそうだ。風夏のあの感情が、どうしてそこまで激しく狂ってしまったのか、未だに理解できないし、したくもない。
結局俺の高校三年間は、誰と交流する事もなく、陰鬱で、くだらない。
ただ風夏によって、糞のような時間を過ごした、無駄な日々となってしまったのだった。
しかし俺もまた、反撃の機を狙っていなかった訳では無い。
友情や部活動という行為に現を抜かさなかったお陰で、俺の学力はぐんぐんと上がり、どこの大学を目指しても良いような成績になった。
その時は親を避けていたので、放課後の暇な時間も、運送業のアルバイトに注力し、金を貯め続ける。
全ては、風夏を撹乱させる為だけの作戦だ。
俺は進学したい大学を、教師や親にまで内緒にし、幾つもの候補を設ける事で、風夏が万が一にでも後を着いてこられないよう、とにかく必死で隠し通した。
最終的には、誰に頼る事もなく、俺は東京の大学に進学する事になり……。
何も言わずに一人暮らしを決定した事や、東京の大学に行くという事を知った母は怒ったけれど、……それだけだ。貯めた金で中古のバイクを買い、東京への移動もそれを使った。
本当は家賃だってアルバイトで稼ぐつもりだったのだ。とにかく親や地元との関係を断ち切りたくて、全部一人で済ませようとした。
しかし流石にそれは親が許してくれず、マンションの家賃や仕送りはすると言った。わざわざ東京の良い大学に入るのに、時間を無駄にするなと、そう言って。
そこまでしてやっと、俺は風夏という呪縛から解き放たれ、新たな人生を歩める。
そんな事を考えながら、ただ一つ、惜しむという感情すらなく、長年その身を置いてきた、この憎むべき故郷を、俺は無言で後にしたのだった。
[newpage]
「昴、今日から母さん出張だから、ご飯は適当に買って食べてね。」
「父さんは?」
「分からないわ。多分仕事でしょ。」
「……ふーん。」
俺の両親は、自他ともに認める、所謂仕事人間という奴で。
とにかく仕事をするのが、彼等の人生にとって最も重要な事であり、それが全てだった。
だから、広いだけの家に両親が揃って居たことなど片手で数える程度しかなく、俺は物心ついた時からずっと、そんな寂しい家の中、ほとんど1人で暮らすのが常だった。
本当に幼い頃は勿論、両親が自分に構ってくれない事に関してそりゃあ、いじけてみたりした事もあるけどさ。
けど、別に寂しいと思うことは無かった。
俺には沢山の友人が居たし、両親が置いていくお金もあったから、ある程度好き勝手出来ると気付いた後は、むしろ、親に色々言われて生きづらそうにしている。そんな周囲の子供達を見ると、そのしがらみの方が鬱陶しく思えてさ。
でも、授業参観や運動会に両親が来れない時だけは、流石に俺も、普通の家が良かったな、なんて、そんな事を思ったんだ。
俺が両親の為に書いた親に向ける作文は、彼等の耳に入る事は絶対にないし。
運動会でも、友人の家族と一緒に飯を食う時には、1人だけコンビニ弁当である事を驚かれたりもした。
周りの奴らはそんな俺を見て、同情だったり、憐れみだったり、そんな感情の篭った眼差しで、見つめてきたりもしたけれど……。
その感情を子供ながらに、上手く利用したのも事実だ。
おちゃらけた雰囲気を出して、馬鹿になれば、勝手に周りが解釈して、優しくしてくれる。
家庭に問題があっても、両親に愛されていなくても、健気に頑張って生きている。そんな風に都合よく考えてくれる。
夕食を恵んでくれたり、何かを奢ってくれたり。
泊まりに誘ってくれたり、家族のちょっとした遠出に連れ出されたり。
俺は、他人に寄生して生きてきた。
俺にとって人との関わりは、生き抜く為の知恵だった。
両親から与えられたことの無い愛情を、まるで別の何かで代用するみたいに。
無限に増え続ける、この心の孤独を、何かで埋め合わせするみたいに…。
そうして俺はいつしか上辺ばっかり取り繕った。
とにかく馬鹿になって、他人を笑わせた。
そうやって、自分自身を傷付けている事にも気が付かない振りをして、心に出来た幾つもの小さい擦り傷を、ただ、がむしゃらな笑顔で誤魔化した。
心の底じゃ本当のところ、そんな状況にうんざりしていたと思う。
馬鹿なフリして、おちゃらけて……。
実際の自分はこんなんじゃないのに、けれどそれがまるで本当の俺のように、周りには作り笑いで振舞った。
ほんとのとこ俺は、勉強が嫌いじゃなかったし、本を読むのも好きだった。静かで広い家の中じゃ、時間が過ぎるのも遅く感じられる。けれどそんな時間も、多分父が趣味で集めていたのだろう、そんな大量の本を適当に見繕って読む事で、時が経つのも速く感じた。
そんなんだから本当の俺は根が真面目で、大人しかったりする。周りが思ってる程馬鹿じゃないし、周囲の状況を咄嗟に判断して、その場にあった言葉を使うのは、俺がしっかり冷静に物事を判別しているからに過ぎない。
でも、実は本を読むのが好きで、頭が良くて、勉強大好きです〜!なんて……そんな陰キャじゃ、友達は出来ないし、他人の同情を誘えないだろ?
だから俺はいつだって笑っていたし、自分を愚かに見せて、ひたすら友達を作ろうと躍起になった。
親は居ないけれど、それでも、俺に同情して、気を使ってくれる奴等が沢山いる。
そう考える事で、自分を守れるように……。
自分は決して、恵まれていない子供なんだと…愛されていない子供なんだと、そう思わないように……。
ひたすら本当の自分を隠し続けたんだ。
それでどれだけ、心に傷が出来ようとも、気付かない振りをした。
他人に“依存”する事で…その友情を……。
ーー愛を……。
手に入れようと、もがいていた……。
でも、それがいつしか癖になっていて……。
気付いた時にはもう手遅れになっていて……。
上辺だけ取り繕っていたつもりだったのに、それはもはや、いつか俺の素顔に張り付いてしまって……。
どんなに外そうとしても……
どんなに息苦しくてもがいても……
その仮面をまた取り外す事は、出来なくなってしまったのだ。
結局この歳になっても、未だに子供のような幼い振る舞いが、当たり前になってしまっている。
もう、とっくに独り立ちして…
家族との縁もいつの間にかちぎれて…
いちいちこんな風に、取り繕う必要など無いにも関わらず。
結局俺は、大地という男に、無意識のまま“依存”してただけだったんだな。
そんな事も気が付かないまま、この感情に、愛を錯覚していただけだったんだ。
全部はただ、依存する対象として大地が優れていただけのこと。
そこに好意や愛という感情はなく、俺がただ無意識に都合の良い相手として、彼を選んだだけのこと。
だからもう……
終わりにしなきゃ……
だからもう……
終わらせなきゃ……
俺という足枷を解いて……。
アイツの事…自由にしてやらなきゃ……いけないんだ……。
もう、充分…。
俺は大地に、依存し尽くしたのだから…。
[newpage]
俺が親父との畑仕事を終えて家に帰ってくる頃には、辺りはすっかり夕暮れに染まっていた。
未だに蝉のミンミンという鳴き声が辺りには響き渡り、空は夕焼けの赤と、夜の紺色がくっきりと境界線を作っていて、星が点々と輝いている。
既に街の方からは祭囃子の音が聞こえていて、色鮮やかな出店の明かりが、ここからでも微かに見える程だ。
親父の運転していた軽トラからのっそりと降車すると、荷台に詰め込まれた諸々の道具を下ろすために踵を返した。
そこには何故か、小屋までやってきて図々しくも昼飯を食いつつ、その後手伝いもしなかった風夏が乗っていて、結局ここまで着いてきたか…と俺は顔を顰めながら、極力視線を合わせないように、道具類を小脇に抱えて倉庫まで歩き出したのだった。
親父は後片付けを俺に任せた為、煙草を吹かしながらさっさと家の中へと入っていった。
なので、ここにいるのは風夏と俺だけになり、やっとの事他人の視線を意識することなく発言出来ると思って、俺は乱雑に道具を倉庫に放り投げると、踵を返してすぐ側まで着いてきていた風夏を睨みつける。
そして、感情を排したかのような自分でも恐ろしく低い声で、呟いたのだ。
「……なんのつもりだ?」
「……なんのつもりって、何が?アタシはいつも、大地と一緒にいること、考えてるよ。」
ニコリと笑って、後ろで手を組み、微笑む風夏は、そんな俺の怒りなどまるで意にも介してないように、そう言った。
相変わらず、空気を読もうともせず、自分勝手で、薄気味悪い女だ。
俺はチラリと、家の玄関口を見ると、ここでは万が一にも人目がつくと考えて、家を取り囲む塀の外まで歩いた。
もちろん、何を言わなくても風夏は着いてくる。まるで扇いでも扇いでも執拗に周囲を飛び回る蝿のような有様で、嫌悪感が否応にも増した。
俺は再度踵を返して風夏に視線を向けると、眉間に皺を寄せ、怒りの篭った瞳で彼女を見下ろした。
「ねぇ、お祭り行こ?一緒に出店回ろうよ!昔はよく一緒に行ったでしょ?」
風夏が話している昔など、もう小学生という程過去の事である。
言った通り中学は部活動や、風夏の策略にまんまとハマった為、ろくな交流などしておらず、一体どれだけ過去の状況を引きづっているのかと嫌気がさした。
もう、あの頃の俺は存在しないし、俺の中でそれらの記憶はもはや汚点だ。思い出したくもないし、昴との生活でとっくに上書きしていた。何をとっても、彼女と昴では、根底から比較になどならない。
「……行かん。……二度と俺の前に顔を出すなと言った筈だ。」
「え〜?そんな事言った?……でも、覚えてないし、どっちにしても、アタシ、それに了承してないよね? そんなの約束したうちにも入らないよ。うふふ。」
風夏はそんな風にとぼけた様子でのたまった。
彼女が言葉を発する度、耳障りな高い声が鼓膜を揺らし、その身から香る甘ったるい匂いに吐き気さえ覚える。
俺は普段押さえつけられている心の闇が、ジワジワと器から滲み出るように漏れ出すのを感じながら、ギュッと怒りに拳を握りしめていた。
「……いい加減、お前の願望が絶対に叶わないという事を理解したらどうだ?…俺は絶対にお前のモノにはならん。お前自身がそうしたんだ。忘れたとは言わせんぞ。」
「……アタシの願望って、なぁに?…うふふ。もしかして、アタシが今もまだ大地の事、想ってるって本気で考えてるの?」
「………」
風夏がそのように、揺さぶりを掛けてくるが、俺はそんな、分かりきった事を今更確認するまでもない。
コイツが俺を孤立させ、自分にしか頼れる者が居ないという状況をわざわざ作り出し、それでも尚、手に入らないと焦れているのは、他の誰よりも、俺が理解している事である。
自分の手でそんな未来を壊してしまった癖に、未だに手に入れることが出来ると本気で信じている。
彼女は、もうとっくの昔に壊れていて、それは多分、俺が彼女の告白を断った時から…ずっと。
最初はそれを憐れだと思っていた時期もあったが、そんな優しさはただの毒にしかならないのだと理解した。
言葉で言っても分からないならば、俺は後顧の憂いを断つためにも手を出すことさえ躊躇わない。
そう決意して、今ここにいるのだから。
「勘違いしてるみたいだけど、アタシはもう貴方に興味なんかないの。」
(嘘だ。)
「今は貴方がアタシの嫌がらせを受けて、不快になってるところを見るのがとっても好き…」
(これは……本当だな。)
「だから、今更貴方を手に入れようなんて思ってないわ。……これからずっと、貴方の前に現れて、貴方の苦痛に歪んだ顔をいつまでも眺めていてあげる。……だから覚悟してね。」
「………」
俺はそう言う風夏の言葉を聞いた瞬間、ポケットからおもむろにスマホを取り出して、アプリでの録音を終了させた。
それを見ていた風夏は、初めて張り付いたような笑顔を消し、怪訝な様子でこちらを見つめる。
録音したての音声を聞かせれば、それだけで、何が起こったのか理解したのだろう。その美しい顔が、密かに歪められているのが分かった。
「……ペラペラと、口が軽くて助かった。」
「……それが何?そんなの誰かに聞かれたって、痛くも痒くもないわ。」
「そうか?…まぁ、お前が俺に近付けなくなるだけで充分だ。」
「……関係ないわ。そんなの状況証拠だし。」
「………」
風夏は状況証拠と言うが、確かにこの録音自体、確かな証拠になるとは言えない。許可なく録音されたものに関しては、証拠に扱えないというような話もある。
しかし、それでも、こうした発言が録音されているというだけで、証拠にはならなくても動機があるという印象を植え付ける事が出来れば、後はどうとでもなるものだ。
所詮この町を離れて帰ったところには、風夏は着いて来れないだろうが、それでも、万が一という事がある。親は俺達の家の住所を知っているので、母親の口の軽さを考えると、彼女がその気になれば来れないことはないのだ。何かあった時のために準備するのは大事な事である。
「……そう。……貴方がその気なら、アタシも手段は選んでられないわね。ふふ。」
「……何をするつもりだ。」
風夏がそう言って妖艶に微笑むと、俺は目を細めてその様子を睨みつけた。
反撃する手段を思いついたと言わんばかりに、余裕綽々な顔をする風夏に、眉間の皺がより一層の深くなっていく。
ろくでもない事ばかり考える頭を、今すぐにでも捻り潰したい気分だったが、まだ手を出すような事はしない。
俺は風夏の言葉を静かに待った。
「……あの人…昴って言ったかな?…あの人にこれまでの…っげぁ!?」
そして、昴の名前が出た瞬間、俺は何の躊躇いもなく風夏の首を掴みあげて、片手でやすやすとその身体を宙に浮かせた。
風夏は何が起こったのか理解出来ていないようで、俺の腕を掴みながら、じたばたと空中でもがいている。
顔は真っ赤で、やっとその瞳に恐怖の感情が宿り、俺を見つめていた。
昴に手を出すという事。それは俺にとって、唯一、人を殺しても良いと思える事の一つであり、その相手がこの女であるならば、尚更躊躇などしない。
「かっ…ぁ゛…っ!?」
「……アイツに手を出したら……お前を殺す。」
苦しみ、目尻から涙を垂らして、その美しい顔を真っ赤に染めながら不細工に歪める風夏を見つめながら、ただ低く、地鳴りのような声で呟いた。
「……俺にちょっかいを掛けるくらいなら、まだ目を瞑ってやろうと思っていたが。……しかしアイツに手を出すというのならば、俺はお前を容赦なく殺す。」
これは脅しではない。純粋な事実である。
俺は、昴に身の危険が及んだり、アイツを俺から遠ざけるような者がいるというのなら、何の容赦もなく……。至極当たり前のように、犯罪さえ犯す事を厭わない。そう心に決めている。
「……脅しじゃないぞ。俺は本気だ。」
「あ゛っ…ご…っ」
純粋な殺意の塊、それを向けられた事で、風夏の身体が震えていた。充血する目を見開いて、真っ直ぐに俺を見つめ、徐々に酸欠になっているのだろう。口からは泡が漏れ、瞳が中央に寄り、上に上がっていく。
「……ふん」
「…がはっ…!あ゛…っ!…ごほっ!ごほごほ…っ」
そこで俺は、風夏を突き飛ばすよにして手を離し、その場にへたり込む彼女を、冷たく見下ろした。
ひとしきり咳き込んだ後、震えながら怯えた表情でこちらを見上げる風夏を、ただただ冷酷に、虫けらでも見るように見つめる。
彼女は、慌てたように立ち上がると、よれよれと左右にもたれながら、逃げるように立ち去った。
俺の色のない瞳と、これまで向けられたことの無いような本気の殺意に、流石の彼女も命の危険を感じたのだろう。
実際、俺にとって風夏は、ただの邪魔者でしかない。
道端に生えている雑草や、いつの間にか踏み潰されている小さな虫よりもどうでもいい存在だ。
いつだって、その気になれば殺せるぞ……。
そんな意思が確かに伝わったのだろう。
そして彼女がそれ以降、俺に手出しをする事は無かった。
[newpage]
大地の実家に戻って、座布団の敷かれた居間でずっと考え込んでいると、いつの間にか俺は居眠りしてしまったらしい。
ゆっくりと身体が抱き起こされて、そのままのっそりと暖かいものが身体を包んだ。
薄らと目を開けると、そこには白い何かがあって、見覚えのあるそれは多分大地だろうと。そんな事を寝ぼけた頭で考えながら、その身体に擦り寄るように身を寄せた。
嗚呼……幸せだ。
暖かくて、ふわふわして、気持ちいい。
いつもとは違って、少しツンとする汗の匂いと、嗅いだことの無い、煙草のような匂いもする。
あれ……?こんな匂い…初めてだな…。
なんて思いながらも、慣れてしまえば意外と、その匂いも癖になるようだ。
頭を撫でてくれる大きな手。
柔らかい肉球が、頬を撫でる感触。
そんな心地良さの中に、微睡みながら意識を持っていかれるところで、声が響いた。
「親父!何してるんだ!」
(……親父?)
それは確かに大地の声であり、しかしその声はどこか、焦ってるようにも、気に食わないようにも聞こえて不思議に思う。
何より、すぐ側に居るはずの大地の声なら、真上から聞こえてもおかしくないのに、それはちょっと遠くから聞こえた。
「……おいの座布団の上さ居だんだもん。」
「……だったら起こせばいいだろ。何で抱く必要があるんだよ。」
「……かわいそうだべや。そったらごどしたら」
「……うぅん……大地?」
「…おら、おめのせいで起ぎだでねぇが。」
俺がそう寝ぼけながら呟き、ゆっくりと目を開けると、上から俺を見下ろす白い影があった。
霞む視界を拳で擦って、よくよく見てみればそこには、大地によく似た無表情の、しかし少しだけ老けた白熊の顔があって、「ん?」と訳が分からなくなった。
大地が老けた?
少しだけ白に黄ばみが混じり、口には煙草を咥えている。
顎には大地と同じように黒い髭があるが、鼻の下にもワサワサとした同様の黒髭がマズルの先端を隠すように生えていて、たった数時間しか経ってないにしては老けすぎだ。
しかし、横から割り込むように差し出された野太い腕が、俺の体を持ち上げて、そこでふと、あれ?と思う。
なにせ、移動した先にこれまた見慣れた姿の大地が合ったからだ。
大地が二人に増えた?なんて、俺は未だに寝ぼけた頭でそんなことを考えていた。
「昴。起きろ。」
「ん…んぅ…」
ゆさゆさと赤ん坊のように揺さぶられて、やっと意識がハッキリしてきた。
先程まで居た筈の場所に目を向ければ、そこには胡座を掻いて、いつの間にか分厚い老眼鏡を掛けた、大地の親父さんが新聞に目を通しており、あれ?俺、親父さんに介抱されてた?と今更ながらに思った。
そして、それを理解した瞬間、俺はなんて失礼な事をしてしまったんだろうと、徐々に顔を青くしていく。
それと同時に、何故か心配そうにこちらを覗き込んでくるのは本物の大地だ。
「…起きたか?」
「……俺、親父さんに介抱されてた?」
「…気にするな。一瞬だけだ。」
「す、すいません…!親父さん!」
「…ん゛ー」
大地に抱かれたまま急いで謝ると、親父さんはただ素っ気なくそう言って、新聞をペラリと捲るだけであった。
大して気にしていないようでホッとする反面、俺はふと、ずっと大地に抱えられている事に気がついて、唐突に恥ずかしくなり、慌ててその腕の中でもがく。
「それでお前は!いつまで!抱っこしてるんだよ!」
「…親父の臭いが付いてる…。」
しかし当の大地は、俺の言葉など聞こえていないかのように振舞って、スンスンと鼻を鳴らしながら俺の腹にマズルを埋めてきた。……どうやら臭いが気になるらしい。
俺は尚更恥ずかしくなって、ポコポコと大地のその頭を叩いて抵抗するけれど、こいつは全く気にしていないようで、親父さんの臭いがするとか言って顔を顰めている。
俺にはそんな臭いしないけれど、大地には明確にその違いが分かるのだろう。まるで汗を擦り付けるようにグリグリと身体を密着させてきて、俺は親父さんの前で何をやっているのかと顔を真っ赤にした。
すぐに俺の身体からは大地の汗の臭いがするようになってしまって、嗅ぎ慣れたそれを、俺自身は不快に思わないけれど、しかし親父さんのとは違って、俺の鼻でも分かるくらいに汗の臭いを擦り付けられたのだ、何故そんなに事するのかとちょっと不機嫌にもなる。
とはいえ、当の本人は満足気に頷くと、俺の腹から頭を離した。
「……よし」
「よし…!じゃねぇよ!汗臭くなっただろ!!何してるんだよお前は!」
「……いつもしてるだろ?」
「してないから!」
「………………」
「……え!? し、してないよな!?」
大地が俺の否定の言葉に対して、怪訝な様子で片眉を上げるもんだから、その何とも言えない表情に不安になって、確認するつもりで再度問いかけた。
けれど大地は特に何を言うわけでもなく、本当に覚えてないのか?とでも言うような真顔で、こちらをじっと見つめてきて、俺は慌てて記憶を探るように、こめかみを押さえながらギュッと目を閉じると、日々の生活に想いを馳せてみる。
職場の距離の関係で、基本的に俺はいつも大地より先に帰宅するから、玄関で仕事終わりのコイツを出迎えるのは大体いつも俺の習慣だ。
大地は公務員なので、勿論ムッチムチのスーツを着用していて、獣人は体毛がある分、汗も掻きやすく、確かに仕事終わりには汗だくになっている事が多いが、それを別段気にした事はなかった気がする。
家に帰ってきた大地が、スーツの上着を片付けて欲しいと、わざわざ俺の身体をポールハンガー代わりにするのはよくある事だ。特に上着は汗こそ滲みてこないものの、その分臭いはがっつり籠るので、脱いだ瞬間、頭に引っ掛けられるとウッとするような臭いが鼻腔をくすぐり、すぐに消臭剤で臭いを消さないと大変な事になってしまう。
それだけじゃない。帰ってきた大地は上着を預けるとすぐさまソファーに腰を下ろしてまず靴下を脱ぎさり、次にYシャツを脱いで、上着を干し終わって戻ってきた俺に渡してくるだろ…?
どうせスラックスも洗濯しないといけないのだからと、結果的に臭いの染み付いたそれらの服を手に持ちながら待ちぼうけになって、大地がズボンを脱いでる間は勿論、汗の臭いがどんどん染み付いてくるし、特に靴下は流石の俺でも顔を顰める程臭い……。
それらを洗濯機に入れてソファーまで戻れば、シャツとパンツ姿になった大地が俺の肩を抱きながらテレビを見始める。いつもの事なので俺も別に気にしていなかったが、よくよく考えると俺は、常に大地の臭いに晒されていた訳で、あまりにも当たり前になっていたから、自分がどれだけ臭いを擦り付けられていたか、あまり自覚してこなかった。
それに、大地の汗の臭いを別段臭いと思っていないどころか、嗅ぎ慣れたいい匂いだ、なんて思っている時点で、かなり無意識に刷り込みされていると言える。
臭いを常日頃から擦り付けられてると、咄嗟にそうとは気付かないくらい、無意識に鼻を慣れさせられていたのだ。
俺はそのように考えると何だか複雑な心境になってしまった。
やっぱこいつ、腹黒い……。
俺は大きな溜息を吐きながら、もう何だかどうでもよくなって、ぱたぱたと手を扇ぐようにしながら呟く。
「はぁ…まぁいいや。とりあえず下ろしてくれよ。」
大地は俺の言葉を聞くと無言のまま、その場にそっと下ろしてくれた。地に足をつけた瞬間、自分の腕を持ち上げて、クンと臭いを嗅ぐと、ツンとした刺激臭の中に、まるで男性用コロンのような、キツい蒸留酒にも似た香りを感じられて、どっちにしろそんなに臭くないな…なんて改めて思ったりもする。……いや、多分他の奴からしたら充分臭いんだけど、俺が慣れすぎて鼻が麻痺してるんだろうな。実際最初の頃は気になってたような気がしないでもないし…。
とはいえ、流石の俺でも直に大地の汗の臭いを嗅ぐと眉間に皺が寄るし、特に腋とか足とかはもう……形容できない臭いになるのは知っている。
腋は肩に寄り掛かると香ってくる時があるし、足は太腿を枕替わりにしてると臭う事がある。
と言っても、俺だって男なのだから当然汗は搔くし、臭いが籠ることもあるだろう?そう考えると面と向かって大地に臭いとは言えないし、そもそも男同士で臭いを気にするのもどうかと思うし、大抵は帰宅して1時間もしないうちに風呂に入るのだから、こちらが少し我慢さえすれば、実際のところは大して問題にならない。
と、そんな事を考えていたんだけれど…。
「…風呂入る」
流石にこれだけあからさまに汗の臭いを付けられてしまっては、気にもなってしまうものである。
特に大地とは、この帰郷を最後に別れるつもりでいるのに、あの風夏という女の子へ要らぬ不安を与えたくない。
本当は、これが最後だと思うと、大地には目いっぱい甘えて、それで未練を断ち切りたいという気持ちもなくはない。
でも、それって結局、俺一人の我儘だし、それのせいで逆に大地から離れがたくなるのは問題なので、これ以上大地と深く関わり合いたくないな…と思った。
「風呂入り終わったら、祭り行くか。」
「……俺はいいよ。大地一人で行ってくれば?」
「お前が行かないなら行かん。」
「……〜〜」
そんな事言って、すぐ俺をその気にさせる。
その言葉に特別な意味なんて無いのは分かってるのに、どうして俺はこんなにも、嬉しく思ってしまうのだろう。
「……分かったよ!行くから!行けばいいんだろ!」
あっちに行ったら、はぐれた振りしてちゃっかり帰ってしまえばいい。
そしたら多分大地は風夏ちゃんと偶然出会って、そのまま祭りを楽しむ筈だ。
そうして、大地が心置き無くこの故郷に帰って来れるように、俺も気を使ってやらなきゃな。
そう考えて、俺は自嘲気味に苦笑をし、さっさと風呂にはいる。
身体に染み付いた大地の臭い。それがお湯で流されていくと、何だか妙な喪失感があるのは何故だろう。
この感覚にも慣れていかないとな。
一人で暮らし始めれば、きっと服に染み付いた彼の匂いや、面影が、こうして日々を追うごとに消えていく。
悲しいと思ったり、苦しいと思っても、自分以外に自分を慰めれる者はいない。
だから、早く慣れなきゃ…。
そう思いながら、俺はシャワーを浴び終わり、風呂から出た。
脱衣所には、いつの間にか俺用にサイズが合わされた浴衣が用意してある。一体いつ準備したのだろう。いや、ここに持ち込んでる以前に、浴衣を買っていたタイミングが謎だ。
俺がその浴衣を着て脱衣所から出ると、居間で俺が出るのを待っていた大地がこちらを振り向き、ふわりと優しい笑みを浮かべて笑った。
「あぁ…やっぱり似合ってるな。」
「…いつ買ったんだよこんなの。」
「今日、昼飯食った後、車で街まで行って買ってきたんだ。必要になるかと思ってな。」
風夏と一緒に居るのが苦痛だったから、逃げるついでに……なんて心の声は決して顔にすら出さない。
大地は昴の頭を撫でると、そのまま風呂に向かった。
「たく…ちゃっかりしやがって…」
俺は撫でられた頭を押さえながら、唇を尖らせて大地の後ろ姿を見送る。
そして、居間に入って、先程まで大地の座っていた場所に腰を下ろした。
まだそこには大地の温もりと、匂いが残っていて、またすぐに複雑な気持ちになる。
さっきの笑顔も、意識すると、すごくかっこよく見えてしまって仕方ない。
普段は全然笑わないくせに、タイミングを見計らったかのようにあんな顔するから、アイツは凄くずるいんだよな。
昔はあんなに笑わそうとしても、表情筋の一つも動かさなかった癖に、随分と柔らかくなったものだ。
「……おめ、大地どどいだげの付ぎ合いだ?」
「え?」
そんな事を考えていると、大地の親父さんが突然そんな風に話しかけてきた。
相変わらず新聞に目を通しているけど、そんなに長く読むものがあるのか?
そんな風に思いながら、戸惑ったように視線を向けていると、親父さんは新聞をバサリと畳んで置いて、老眼鏡を外し、真剣な瞳でこちらを見てくる。
その顔は昔の大地そっくりだ。特に目の辺りがそう。
髭が生えているし、大地よりも贅肉があって、太っているように見えるけれど、実際には多分、日々の作業で培った筋肉が膨張し、そのように見えているだけだろう。
その証拠に、テーブルへと乗せた腕は逞しく、毛皮越しにもその筋が分かるほどだ。
俺はゴクリと息を飲んだ。
「……付ぎ合ってんのが?」
「え゛!?い、いや、そんなわけないじゃないですか!?お、俺達男同士ですよ!?」
親父さんの言葉に、俺は思わず両手を振りながら顔を真っ赤にしてそれを否定した。
しかし親父さんは眉を顰めて怪訝な顔をし、そんな俺の言葉を一蹴する。
「別におがしぇ事じゃねぁべや?今の時代。男好ぎだの女好ぎだの、皆好ぎに生ぎでらでねぇが。」
「え?や?…そ、そういうわけでも……」
そう言われて俺は、途端に言葉を無くし、徐々に声を落としながら俯いてしまう。
確かに、昔と比べれば、今の時代はとても、性の多様性に寛容だ。
でも、それでもまだ、やっぱり普通の奴らから見れば、男同士とか、女同士とか、そんなのは理解できない人種である。
言葉ではどんな綺麗事だって言えるだろう。けど、理解しているつもりで、本当の所は多分、理解している訳じゃない。
俺が大地と仮に付き合っていたとしても、結婚は絶対に出来ないし。
俺が大地と仮に愛し合っていたとしても、子供は絶対出来ないし。
周りから見れば俺達は、いつまで経っても同じ屋根の下、一緒に暮らしてる痛い奴。
よぼよぼの爺さんになっても、互いに互いを世話するようになっても。
病院に入院すれば、家族じゃない者に見舞いは出来ないと看護師に追い出されるし。
死ねば葬式に出ることは出来ても、仏壇を置く事も出来なければ、同じ墓に入る事も出来ない。
そんな悲しい未来が、俺達の前には待っている。
そんなの、アイツが……
大地みたいな立派な奴がさ……
体験していい未来な筈はないんだ。
アイツには、心の底から幸せになってほしい。
まともに結婚して、まともに子供作って、まともに孫を抱いて、まともに家族と……
自分の愛した人々と……同じ墓に入って欲しい。
そこに俺みたいな……
ただアイツの優しさに寄生してるだけの、俺みたいな奴が……。
ーー…一緒に居ていいわけないんだ。
ーー多分俺はアイツの幸せの邪魔をしてるんだ。
ーーだから……
「……まさか。本当に付き合ってません。……大地とはその…ルームシェアする仲ですけど……。けど、ただの友達です。」
「…………」
「大地とはそのうち、ルームシェアも解消するつもりなんです。……アイツにはまだ話してませんけどね。……明日…東京に帰ったら…近いうち、そう話します。」
「……それでえぇのが?」
「もちろん。……こっちに来て見て分かりました。……大地に都会は似合いません。」
「………」
「アイツには、故郷で幸せになってほしい。……こっちにはあの…風夏さんも居るし。アイツにとっては住み慣れた土地でしょう?……きっとその方が良いんです…アイツには。」
「……んだが。」
俺は無理に笑顔を作って、親父さんにそう話した。
いつもやってる事だ。笑顔を取り繕うのには慣れている。
親父さんはそれだけ聞くと、少し気まずそうに視線を逸らす。
一応ごまかせたようだ。俺はほっと、胸を撫で下ろす。
けど、俺はそうして、必死に笑顔を取り繕うばっかで、重大な事を見逃していたんだ。
まだ、浴室の扉が開かれる、特徴的なガラガラという音が、聞こえてきてなかった事を。
そして、廊下の陰で、スマホを忘れ、取りに戻ってきていた大地が、そんな俺の言葉を聞いていた事を。
目の前の状況を回避するのに精一杯で……。
気づかなかった。
[newpage]
「……行くぞ。」
「結構長風呂だったな。まだ祭りやってるのか?」
「……問題ない。」
「…そ、そうか。」
風呂から戻ってきた大地は、何故かとても大人しかった。
というより、何か怒ってるような感じだ。
いつも以上に無表情で、長く付き合ってきた俺でも、表情が読み取れないくらいの、完璧な無表情。
大地はいつも怒ると無口になる。
普段も無口だけれど、それ以上に、とにかく口数が少なくなって、まるで機械みたいになってしまうのだ。
それでも、怒っているという意思は伝わってくるし、無表情の中にもちょっとした表情の変化がある。
でも今回は……
玄関から外に出た所で、俺はこっそりと大地に小声で話しかけた。
親父さんの居る手前、なんとなく聞きづらかったけど、ここなら声を抑えれば聞けるだろう。
俺が「なんかあったか?」と聞くと、大地はただ無言で遠くを見るばかりである。
俺を無視して歩いていく大地に駆け足で近付いて、その隣を歩いた。
こういう時は、大抵大地の機嫌が治るまでほっとくのが一番である。
聞いてもどうせ聞かせてくれないし、一日経過するとケロッとしてるので、あまり大事になった事はない。
でも、これから祭りに行くっていうのに、こんな空気の悪い状態で居ていいのだろうか。
そんな事を思いながら、チラチラと大地を横目で何度か見上げ、俺はサンダルをズリズリ鳴らしながら、ひとまず彼の傍を歩き続けた。
「涼しいなーー」
「………」
その言葉は、別に気を使って出た言葉ではない。
ただ本当に、夏の夜らしからぬ涼しさがあって、風呂上がりの俺は、その心地良さに声を出したのだ。
けれどやっぱり、大地は無言のまま歩き、俺を無視している。
本当に、一体あの短い時間になにがあって怒っているのか、俺は訳が分からなくて足を止めた。
祭りに行くって言ったのはこいつなのに、このまま変な空気で行った所で、ただ気分が悪くなるだけである。
「あーあ、つまんねぇなー。祭りに行くって誘ったの誰だったっけ?…浴衣まで用意して気合い入れてる癖に、ちょっとは反応しろよな。」
そう言うと、流石の大地もスッと足を止めた。
こちらを振り向くこともなく、ただ拳を握って立ち尽くしている。
よっぽど嫌な事があったのだろうか。風呂場に虫が出たとか?
「何怒ってるんだよ、お前。」
「………」
「風呂場に虫でも出たのか?…それとも滑って頭打って前後の記憶飛んだ?…あ、分かった!俺がプリン食ってたの、あれお前のだったんだろ!」
「………」
「………な、何?」
俺がそんな冗談を言いながら、いつもみたいに笑って誤魔化して、大地の前にポンと飛んで顔を出すと、大地は今まで見たことが無いほど、眉間に皺を寄せて、牙を噛み締めながら俺を睨んでいた。
その瞳は赤く輝き、ちょっと前の夜を思い出す。
あの時とは違って、明確な怒りを感じ、俺は少しだけ怯んだ。
獣のように、細い瞳孔が、月の光を照らしながら赤く煌めく。
俺は思わずその威圧感に、腰が抜けて、ポスンと尻餅をついてしまった。
本当に訳が分からず、無意識に力が抜けていたという感じだ。
目を見開き、口をぽかんと開けて、こめかみから大粒の汗を垂らす。
大地はギュッと目を瞑ると、拳を更に強く握り締めて、唇を噛んだ。
そしてゆっくりとまた目を開き、深く深呼吸する。そして俺に手を差し伸べると、小さく、掠れたような声で呟いた。
「……何でもない。祭り…行くぞ。」
「……お、おう…。」
明らかに何でもない訳ないのに、大地は結局、俺に不機嫌な理由を教えてはくれなかった。
結局その後も無言のまま、祭りの会場までは歩いて。
上辺だけは何とか取り繕った。
無難な内容の話題を振って、適当に相槌を打って、かき氷を食ったり、たこ焼きが熱いと文句言ったり、それで小さく笑いあったり……。
いつもと同じように振舞っていた事が、いつもと違っていた。
本当なら、互いに不快だったり、不安だったり、気になってる事、俺達は今まで、話そうとすれば話せてたのにさ。
その日はなんていうか、そういうのは一切無くて……。
どっちも、素直な自分じゃなかった。
どっちも、心に布を被せていた。
俺はずっと、他人に媚びを売る為に被り続けてきた仮面を隠そうともしなかったし。
大地も大地で、不自然に地元の話題を振ってきたり、俺の話題にとことん相槌を打っていた。
結局、トイレに行くと言って離れ、しばらく迷った振りをして大地から身を隠してみたけど。
戻った石垣には大地が相変わらず、俯きながら、何かを考え込むように座っていて、とうとう約束していたはずの風夏さんが現れる事は無かった。
大地は、俺が迷ったと嘘をついても「そうか。それは災難だったな」なんて、小さく笑い。
俺もそれに笑い返したけれど、心の中は、正反対の気持ちだった。
祭りに来る前、街灯も無いあの細いあぜ道で…
見せたあの顔は、一体なんだったんだろう。
何で大地は、怒っているのに、怒っていないなんて取り繕うのだろう。
怖くて…
不安で…
心細くて…
でも、それを隠すように笑顔を見せた。
せめて最後は、楽しく過ごそうと、そう決めていたのだから……。
この祭りが、俺達の最後の思い出になってしまうのだから……。
「よし、荷物はこんなもんか。」
「……ああ。」
「……それにしても、よくこんだけ米やら何やらくれるもんだなぁ。お前ん家が羨ましいよ。」
「……そうだな。」
「………」
次の日、相変わらず大地は素っ気ない態度で、俺はそれに気付かない振りを続けていた。
大地の実家からお土産として持たされた、米俵や野菜等を、車の後ろに詰め込んで一息つく。
家に帰ったら、俺は大地に、あの事を話すつもりだ。
わだかまりは勿論あるけれど、それ以上に、俺は大地と別れる事を、不安に思っている。
「先に乗っててくれ。親と話してくる。」
「おっけーーー。」
大地がそう言って踵を返すと、俺は車に乗り込んでスマホを弄り出す。
そういえば、何だかんだでSNSの更新もしていなかったな。
今まで三日も更新していない事が無かったので、少しばかりコメントが増えている。
更新されなくて寂しいだとか、まさか何か事故が!?とか。
俺はちらりと車の窓から大地の実家の方に目を向けて、居間に繋がる縁側の硝子の引き戸を見た。
大地が珍しく正座して、両親の前に姿勢よく座っている。
なんの話しをしているのだろう。俺は気になったけれど、ひとまずSNSの更新をする為に、写真を撮ったのだった。
一方、大地は……
「……俺は昴が好きだ。」
「………」
「は、はぁ?あんた、何言ってるのさ?あの子男だろう?変な冗談言うんじゃないよ。」
俺の言葉に、親父は無言で眉間に皺を寄せ、お袋は目に見えて狼狽し、俺と親父の顔をチラチラと交互に見る。
俺はそんなお袋の言葉に、深く息を吐いて、しっかりと今度こそその言葉を否定した。
「冗談じゃない。俺は昴を愛してるし、アイツと一生添い遂げるつもりだ。」
「……あ、あんた一体…」
お袋はそう言って、力無くその場に座り込む。俺の真剣な表情と声色を聞いて、それが本気だという事を悟ったのだろう。
失望したような顔をして、目尻に涙を溜めていた。
その顔は、あの日…あの時…俺が風夏をレイプしたと、噂を立てられた時と、同じような顔だ。
俺を人間不信にし、家族すら信用出来ないと思わせた顔。
他でもなく、俺を……俺の心を追い詰めた…あの時と一緒の顔。
「じょ、冗談じゃないよ!あんた子供はどうすんのさ!男同士じゃ子供だって生まれないよ!…それに、どれだけあんたらが付き合ってるだとかそういうつもりでもねぇ、結婚なんか出来ないんだから!一緒になれないのよ!“普通”じゃないんだから!?」
「………」
俺はお袋の言葉に、ただ悲しげに視線を伏せるだけで、反論はしなかった。
失望される事も、反対されることだって、初めから分かっていた事だ。
けれど、実の親から普通じゃないと面と向かって言われるのは、実際の所結構キツい。
どれだけ心の準備が出来ていたとしても…
どれだけ身構えていたとしても……
親に認められないというのは、とても辛くて、悲しいものだ。
「どうすんのよアンタ!周りから噂されるんだよ!?男同士でずっと一緒に暮らしてたら、嫌でも目立つんだから!!それによく考えてみなよ!ニュースでね、やってたわ!!男同士じゃ結婚出来ないから、例え入院したとしても面会すら出来ないんだって!それだけじゃないよ!何かあって命を落としたってねぇ、同じ墓にも入れないんだから!あんたら誰にも認められないで、独り者みたいに扱われるのよ!?どうするのそれで!!」
「……覚悟の上だ。」
「覚悟なんてしたところでね!世間様はあまくないのよ!……悪い事は言わないから、こっちに帰ってきな!そんで幼馴染の、風夏ちゃんとでも結婚してね!一緒に暮らしましょう!あんたが望めば畑なんか幾らでもあるんだから!子供も産んで、普通に暮らせるのよ!あんた、孫の顔も見せないつもりかい!」
普通…。確かに、普通に暮らそうと思えば、俺は地元に帰ってきて、そして親の畑を受け継ぎ、農家としてのんびり暮らすことも出来るだろう。
たとえ風夏じゃなくても、親がどこからか勝手に決めた見合い相手と、普通に結婚して、子供を作って。
そうしてそのまま、親と一緒の墓に入る。
そこには妻も、子供も、その子供もそのまた子供も、代々その場所に埋められていき……。
ーーそしてそこには昴だけ居ない。
昴だけが……
俺の傍で眠ることは無い……。
アイツは、家族とも絶縁状態で、連絡の一つも取っていない。
家庭の事情だと、ケラケラ笑って話していたけれど、その時昴は、ふと、全てを諦めたかのような…。
悲しさも無い。怒りも無い。
ただ、それが当然なんだと、
そんな顔を最後に見せた。
どんなに笑顔で取り繕ったって…
どんなにおどけて見せたって…
ずっと、昴に惚れた時からそっと…
彼の表情を見続けてきた……、
そんな俺には、なんとか理解出来た。
そして同時に、
その顔に気付いた時、俺は…俺の心は…
なんて、もの悲しい顔なんだと……そう思った。
今まで見た、どんな表情より、比較にならないくらい…
悲しくて……
寂しくて……
それでいてとても可哀想な……
そんな昴の顔だった。
だから俺は心の中で誓ったのだ。
俺は…俺だけは……。
せめて昴のそばに居よう。ずっと一緒に居てやろう。
どんなに世間が認めようとしなくても…
どんなに世界が認めようとしなくても…
俺は最後まで、意識を手放すほんの一瞬の時間さえも…
昴と共に、そこに在る。
例え互いが死んでしまって、それでも認められず、結果その後は別々に埋葬されようとも…。
俺の心は、そして魂は……。
ずっと昴と共にある。
その為には、生きている間中ずっと…
せめてこの短い人生の中だけは永遠に…
昴と共に在り続けよう。続けてみせる。
そう自分の心に誓ったのだ。
「……悪いがお袋、俺は何を言われても、自分の意見を変えるつもりは無い。……もし、この決断が気に入らないなら、俺とは家族の縁を切ってくれてもいい。」
「あ、あんた…一体何言って…!」
「……俺は、昴を愛してる。……風夏も、いや、彼女だけじゃない、それ以外の別の誰かにだって、この気持ちを変えることは絶対に出来ない。……この時期にわざわざこっちに帰ってきたのは、元々この決断を2人に伝える為だ。……もう二度と、ここに戻ってくることはないだろう。」
「……あんたって男は…っ…どうしてそう…!身勝手なのさ!…東京に行く時だってあんた!勝手に進学先も、家も決めて…!どうして少しも親に従おうとしないの!!…どうしてそう親不孝者なんだい!」
「やめねぇが!!光子!!」
ドン!…と突然、テーブルが力一杯叩かれ、大きな音が部屋の中に響き渡った。
見ればそれは親父が力一杯机を殴った音だと分かり、一瞬にして辺りの空気が親父に呑まれる。
「あ、あんた……!あんたからもなんか言ってやってちょうだいよ!!あたしゃあこの子を心配して!」
「こいづが自分で決めだごどだべや!息子んだども、もう立派な大人だべ!一人の雄だど!!わぁんどが口出して良い問題じゃねぇべや!!こいづの人生は、こいづのもんだべや!雄さ一度ごうど決めだ事ば、雌が口出すんじゃねぇべ!!」
「あ、あんた……!」
親父が初めて見る程恐ろしい剣幕で、お袋を怒鳴った。
そのあまりの形相に、流石のお袋も腰を抜かしたようにして、力無く呟く。
親父はその眼光のまま俺を見つめると、静かに、そして問い掛けるように、低い声で囁いた。
「……後悔はしねぇんだべな?」
「……しない。」
「……ぜってぇが?」
「……しない。」
「……迷ってばねぇみでぇだな。」
「……当たり前だ。」
そこまで言うと、親父は一度大きく息を吐いて、もう一度こちらを見る。
「……おどごだら、自分の決断させぎにんもで。ぜってぇあの子ば悲しませるようなごどすんなよ。そいで、無様に帰ってぐるごどだげはみどめねぇ。ただでさえ周りさうげ入れられでねぇんだからや。ぜってぇ自分のモンさしろよ。んで、最後まんで守っでやれ。おめぇのぎもぢばしっかりつだえろ。……そんだら、いづでも帰っでごい。……こごはおめぇの家だ。家族は同じはが(墓)さ入るもんだ。おめぇも、あの子も、わぁんどの家族だ。だべ?」
「……親父…」
親父がそこまで言うと、柔らかく微笑んだ。
生まれてこの方、1度も見たことが無いくらい、優しい父親の笑顔だった。
俺はそんな親父に頭を下げると、立ち上がって居間を出ようとする。
そこで思い出したようにそっと振り返って、2人を見た。
「……じゃあ“また”」
「おう。きぃづげろよ。」
「………仕方ない人だよ。……あんたもね…親子揃って…本当に頑固なんだから。」
それだけ言って家を出る。
お袋は最後まで納得出来ないような表情だったけれど、その顔がただ心配そうにしている事だけは分かった。
やっと、自分を嘘偽りなく、親に伝える事が出来て、スッキリとしつつも、しかし、問題はそれだけで全て消えた訳じゃない。
車の運転席に乗り込むと、スマホを弄りながら、深く腰を落としてだらけたように座っていた昴が「おっ?やっときた。何話してたん?」と聞いてくる。
俺はただ「何でもない。世間話だ。」と誤魔化してエンジンをいれた。
ーー大地とはその…ルームシェアする仲ですけど……。けど、ただの友達です。
ーーそのうち、ルームシェアも解消するつもりなんです
ーーアイツにはまだ話してませんけどね
ーー明日…東京に帰ったら…近いうち、そう話します
ーーアイツには、故郷で幸せになってほしい
ーーアイツにとっては住み慣れた土地でしょう?
ーーきっとその方が良いんです…アイツには
そんな昨夜の昴の言葉が、俺の頭の中で木霊する。
昴にとって俺は、ただの友達だったのか?
昴にとって俺は、ルームシェアしてるだけの仲だったのか?
今まで、伝わってると思っていたはずの気持ち。
それが全然伝わってなくて、昴にとって俺は、ただのルームシェアをしている友達でしかなかった。
全ては、俺の勘違いだった訳だ。
俺は確かに、言葉ではなく、気持ちさえあれば、それが伝わってくれる思っていた。
日常のちょっとした仕草や、愛情表現。
ここまであからさまなのであれば、きっと昴にも、俺の気持ちは分かるはずだと…そう考えた。そしてそれは上手くいっていると思っていたのだ。
けれどその結果……
気持ちを伝えなかった、そのせいで……
俺の愛情は、昴には届いていなかったのだ。
(……まさか、ただ勘違いし続けてただけだったなんてな。)
少し自嘲気味に苦笑する。
俺の中に眠る黒い獣欲。それを押さえ付ける為、確かに俺は昴へ素直な気持ちを伝える事はせず、ただ行動で示す事に拘っていたけれど。
仕方なかったなんて……そんな言い訳、今更通用する訳が無い。
でもどうすれば良かったのか、その答えは今になってもまだ出ないままだ。
俺が素直に気持ちを伝えて、昴がそれに応えてくれなかったら、多分俺はそんな昴を部屋に閉じ込めて、一生監禁し続けてしまっていただろう。
逆に俺の気持ちに昴が応えてくれたとしても、俺は己の獣欲を押さえつける事が出来ず、昴の身体をめちゃくちゃに、犯し尽くしてしまっていたと思う。
だからとにかく、言葉にせずに、色々な行為で愛を伝える事に苦心していた。
性的な行為には及ぶ事が出来なかったけれど、手を出して昴を壊してしまうよりかはよっぽどマシで、とにかく真摯な関係を心掛けていた。
それが悪かったのだろうか。
酷い事になると分かりきっていても、昴に手を出してしまった方が良かったのか?
結果的に俺の望まない状況へ、どんどんどんどん追い込まれているように感じて苛立ちが募った。
自分が不甲斐なくて…
その臆病さに、ついつい怒りが抑えきれなくて…
結局、祭りに向かう道中で、昴を怖がらせた。
そんな事するつもりは無かったけれど、昴が俺を友達だとか、ルームシェアを解消するつもりだとか、そんな事を言った時から、心の中に湧き出る獣欲が抑えきれなくて、自然とそれが顔に漏れた。
ーー友達なんかじゃない…っ
叫びたかった。
ーー絶対にそんな事させない…っ
同居が叶わなくなるくらいなら、いっその事…
東京に帰ったら、昴を監禁しよう。
そしてその身体に、俺がどれだけ劣情を抱いているか、理解するまで容赦なく教えこんでやろう。
ーーそう思った。
けれど、怯える昴の顔を見ると、俺はハッとして、何とかいつもの様に、その心の獣欲を押さえ込む。
駄目だ。出来ない…。
そんな事、許されない。
俺の理性がそう叫び、何とかその場は、それを抑える事が出来たけれど。
祭りの間中ずっと、その欲望は見え隠れした。
今まで何とか押さえつけていた感情が、昴の言葉をキッカケに溢れ出るようになった。
表情だけは取り繕えても、いつもと同じようになんて、全く振る舞えなくて。
無理に話題を振ってみたり、笑顔で感情を隠してみたり。
本当は、その場ですぐにでも、昴に襲い掛かりたいという欲望を抑えるのに必死だったのだ。
浴衣から見てるしっとりと汗に濡れたうなじ。
祭りの赤に照らされて、艶めかしく火照るように見える頬。
人混みの中でも気にせず、暑いと言いながら笑って浴衣の前を軽くはだける昴を、俺はすぐにでも傍の林に連れて行って犯してやりたいと思った。
無防備過ぎる、と…
俺以外にそんな姿を見せるな、と…
そんな風に責め立てて、泣いて許しを乞うても、その身体に嫌という程教え込んでやる。
そんな妄想をしては、適当な感情で取り繕って、それを誤魔化した。
しかし東京に帰れば、昴の口から、その理性を決壊させるような言葉を聞いてしまうかもしれない。
ルームシェアをやめよう、と
俺達は友達なんだから、と
そんな言葉を聞いてしまったら、俺はそれを抑える自信が無い。
ーーだから、そんな事…言わないでくれ…
ーーいつまでもこうやって、ただそばに居るだけで俺は満足だから…
ーーだから俺の醜いこの欲望を、お前の前に晒させないでくれ…
ーーお願いだから…
ーーお願いだから…
「はぁ…やっと帰れるなぁ…!」
「……田舎は……嫌だったか?」
「いや…楽しかったけどさ…やっぱ俺には馴染みのない土地だから…ちょっと疲れただけ。」
「……そうか。」
昴が大きく伸びをして、窓の外をぼんやり見つめながら呟く。
その横顔すら、今の俺には獣欲を刺激する地雷になりかけて、俺はゴクリと唾を飲んだ。
「……なぁ?」
「……なんだ?」
「………」
そして、どこか物憂げに…
そっと、どこか悲しげに…
そう問い掛けた昴に、俺の心臓が高鳴る。
まさかもう…
そんな事が一瞬頭に過ぎって、グッと眉間に皺を寄せて…。
俺がチラリと視線を向ければ、少し経ってから、おどけたように振り返った昴が、ニッと笑って俺を見る。
「何でもない。つーかさ、途中マッグ寄ろうぜ〜!ダブルマッグバーガー食いたいからさー」
「………わかった。」
俺も、言いたい言葉を飲み込むようにして呟いた。
昴が何か言いたかったのは、その貼り付けたような笑顔を見れば明らかだ。
その証拠に、また外に顔を向けた昴の表情は、どこか悲しげで、困ったように眉を顰めていて……。
会話もほどほどに、車を運転し続けた。
ただでさえ長い長い帰路の時間が、まるで永遠のように、俺達を縛り付けていた……。
[newpage]
実家から帰ってきて、数日が経った。
あれから相変わらず、俺達には微妙な空気が漂っていて、しかし何とかまだ、昴の口から例の言葉は出ずにいる。
昴は、たまに俺へと声を掛けてくるけれど、その度言葉に詰まっては「やっぱ何でもない」と苦笑いをして…。
けれど、もう何度もそうやって誤魔化しているせいで、その顔に余裕がどんどんと無くなっていった。
こう何度も途中で言葉を中断されれば、俺もとぼけるのは難しくなってくる。
出来れば、俺の方から、何か行動を起こせればいいのだけれど。
相変わらず俺は、胸の内に宿る欲望が暴走する事を恐れて、何も言う事は出来ずにいた。
けれど、いつまでもこんな状況に居るのは、俺だって望まない。
少しでも気分転換出来れば良いと、俺は仕事終わりに昴を誘って、外に出る事にした。
「……なぁ、久しぶりにドライブでもしないか?」
「…え?…ま、まぁ…良いけど…」
俺の提案に、昴が驚いたようにギクシャクと答えた。
最近ろくに会話もしていない。ずっとお互い無言で、テレビを見たり、本を読んだり、そうでなくてもスマホを弄っていたりと、意外と会話が無くても何とかなってしまうのが恨めしい時代だ。
話す事と言ったら必要最低限な事ばかりで、飯が出来たとか、風呂が沸いたとか、寝る、起きろ、いってきます、おかえり。
お互いに気を使いあっていた環境もなくなり、頼み事もし辛くなって、ふざけ合いながらちょっかい掛けあったり、服の片付けを頼むふりして臭いを擦り付けたり、そういうことも出来なくなってしまって、視線も合わせない。
そんなんだから、俺から突然話しかけた事に驚いたのだろう。
久しぶりに昴の声を聞いた気がする。それくらい、俺達の溝は深まっていた。
「……どこ行くんだ?」
「……懐かしの場所だ。」
それだけ言って、俺はバイクの後ろに昴を乗せる。
これに乗るのも久しぶりだった。車を買ってからは普段使いも、旅行に出る時も、車ばかり使うようになって、初めて自分で金を貯めて買った思い出深いこのバイクも、手入れだけに留まっている。
俺は久し振りに跨るバイクの感触を懐かしいと感じつつも、アクセルを回して派手なエンジン音を吹かした。
煙を立てて、全身に風を感じながら、バイクが動き出す。
向かう先はそう。
初めてのデートで昴を連れていったあの場所。
思い出深い、あの夜景が見える山の上のスポットだった。
運転していると、背中に昴の熱を感じる。
夏の生暖かい、少し湿気の篭った風が全身を撫でて、俺達を包んでいた。
最近は大体いつも少しだけ距離を取って座っていたので、こうして互いの身体が触れ合うのさえ酷く懐かしいと感じる。
俺が避けている訳じゃなく、昴が必要以上に触れ合いを拒むのだ。遠巻きにして、近付くと離れていく。
それは初めて昴と出会ったあの時。
俺が距離を取ろうと苦心し、昴がそれに構わずちょっかいを掛けてくる。
あの愛しくも楽しい日々とは、正反対の立場だった。
今ではどちらかというと、俺の方が昴に自らちょっかいを掛けたり、近づいて行く事が殆どだ。
ちょっと前までの昴なら、それを快く受け入れてくれていたし、何なら笑って、いつも楽しそうにしていた程だったのに。今では近付くと、わざとトイレに立ったり、水を汲みに台所へと向かって、遠い場所に腰を下ろす。
いつから俺は……俺達は……
こんなにもすれ違いをしてしまっていたのだろう。
バイクを走らせ、風を切って……
人気の無い山道を走り、目的地まで着く。
昴はようやく、この場所が一体どこなのか、思い出したようで。
懐かしそうに目を細め、悲しげに眉を顰める。そしてきっと、記憶に想いを馳せて、立ち尽くす。
俺はそんな昴の手を、そっと握ろうとした。
けれど……。
「っ…!?」
俺の手が触れた瞬間、まるで弾かれたように、昴が身を引いた。
驚いたように目を見開き、俺と視線が合うと、気まずそうに視線を伏せる。
「っ…ごめ…俺…」
苦しそうに喉から声を振り絞って、言い訳をしようとする昴を見て、俺は構わず、もう一度手を取った。
今度こそ、逃げる隙を与えないように、しっかりと、力強く。夏の夜に漂う熱など、お構い無しに。
「っ…」
昴は、そんな俺の行動に驚いたような、戸惑ったような顔をして、その手を見た。
俺が手を引くと、昴も慌てたように少し駆け足になって、以前、二人で夜景を見るために立った場所と、全く同じ場所に並んで立つ。
あの時と変わらない、美しい街の景色。
七色に輝く宝石のように、いくつもの光の粒が重なり合って、煌めいている。
初デートの時は冬だったので、ここで一緒に温かいコーヒーを飲んだっけな。それで、夜景の上には大きく丸い月があり、空気はどこまでも澄んでいた。
今は夏だから、静かな夜に、虫の声が長閑に響き渡っている。これも中々風流だなと思った。
「……覚えてるか?初デート、ここだっただろ?」
自然とそんな言葉が口をつく。本当に何も意識せず、ただただいつもの調子で、問いかけるように。
「で…デートって…男同士なのに…っ…」
昴は、小さく戸惑った声でそう呟きながら、俯いていた。声はどんどんと小さくなっていき、最後には全く聞こえなくなる。
俺は昔講義でからかってやったみたいに、昴の親指の付け根を撫でたり、指先を撫でた。
じんわりと汗が滲むのが分かって、一瞬手を離すけれど、そのまま逃がす訳でもなく、恋人繋ぎで尚更強固に手を繋ぎ直した。
けれど……
「っ!!」
勢い良く手を下に振りほどかれて、繋がれた手が解ける。
突然の出来事に驚く間もなく、昴は踵を返すと、逃げるように俺から距離を取った。
半袖の裾で顔を拭って、ただ一言「帰るっ!」と怒ったように呟く。
「昴…?」
「かぇる!!」
まるで駄々を捏ねる子供のように、一度地団駄を踏んでそう言った。
その声はどこか震えているようにも、掠れているようにも聞こえて、こちらに一切、視線を向けようとしない。
俺はその後ろ姿に驚いて目を見開き、そしてすぐにその目を悲しげに伏せた。
嗚呼…俺は……
多分、
とても酷い失敗を犯してしまったのだ。
そう……悟った。
俺が歩き出すと、昴もその動きを察知して歩き出し、最後まで俺に顔を見せることはせず、そのまますっぽりとヘルメットを被ってしまった。
もう、顔を見るのさえ嫌だというのだろうか。
そんな昴の行動に傷付きながらも、俺はまたバイクを駆って、帰路についた。
今回のドライブは、完全に失敗だったな。
機嫌を直そうとして、逆に怒らせてしまった。
昔の関係を取り戻そうと躍起になって、少し焦りすぎてしまったのかもしれない。
けれど、ギュッと俺の背中に縋り付く、昴の力は来た時よりも増しているように思えて、さっきよりも強く、むしろ縋るように抱きついたその手は、彼のどういった心境を表しているのか。分からずに…。
家に帰ると、昴はヘルメットを被ったまま、さっさと玄関まで行ってしまって……。
バイクを手早く片付けて、俺も重い足取りで家の中に入った。
昴は居間でソファーに一人腰掛けており、俺は手を洗おうと、洗面所に向かう。
その時……
「大地。」
名前を呼ばれて、足を止めた。
何故か、その一瞬だけは酷く凪いだ心持ちで、昴の後ろ姿へと視線を向ける。
「……俺達、ルームシェアやめよう。」
そして、その言葉を聞いてから、心がやっと追いついたみたいに、ドクンと強く高鳴った。
まるで感情を排したかのような、淡々とした口調。
俺はその言葉を聞くと、ギュッと目を閉じて……。
「……本気か?」
一応…確認してみる。
全身の血の気が引いて、足が石のように動かない。
それなのに胸の奥にある欲望がメラメラと焚きついて、そこだけが異常に熱かった。
「……本気だよ。俺達もう……子供じゃないんだからさ……。」
とても、喉が渇く。
苦しくて、真っ暗闇に一人立たされてるみたいだ。
頭が回らないし、そんな言葉聞きたくない。
「もうさ、お互い、いい大人なんだから、いつまでも学生気分じゃ……ダメだろ。……お前だって分かってただろ?…いつまでもこうして、一緒に暮らしていける訳ないってさ。」
嫌だ。やめてくれ。
そんな言葉、お前の口から聞きたくなんかない。
よりにもよって、お袋みたいな。
俺を深く傷付けた……その言葉を。
「もういい歳だよ。……周りからも不審に思われるだろ?…変な目で見られてさ。……そんなの嫌じゃん。お互いに。」
冷めた身体に、獣欲の黒が、熱として巡っていく。
俺が俺として居るための理性が、どんどんと食われていく。
ざまぁみろと、
これで欲望を発散できると、
そんな声が頭の片隅で聞こえる。
「お前は……凄く良い奴だよ。俺も出来るなら、一緒に居たいけどさ。」
なら、一緒に居ればいい。
周りの目なんか気にせずに、
いつまでも、二人、こうして…。
「でも…俺にお前の人生縛る権利ないよ。……お前みたいな奴は、いい嫁さん貰って、子供作って、そんで、孫の顔まで見てさ。幸せに生きるべきなんだ。」
ーー俺の幸せはお前だ昴…っ
既に閉じ込められた理性が、心の奥で叫んでいた。
子供も、孫も、そんなのどうだっていい。
俺の幸せにはお前が必要で、それ以外は俺が本当に欲しいものなんかじゃないんだ。
「実家、いい所だったな。……帰った方がいいよ。あの風夏って子とさ。結婚して、幸せに暮らしな。……俺の事は、忘れて良いからさ。」
ーーあんな田舎、好きじゃない…
ーーあんな女、思い出すのも苦痛だ…
世間で当たり前と言われる幸せなんて、俺には必要ない。
俺に必要なのは、昴…お前だけなのに……。
お前の口から、そんな言葉…
よりにもよって、縁を切った家族の話をする時みたいな…。
そんな悲しい声色で、言わないでくれよ…
「だから…な?…もうやめよ。ルームシェア。俺は1人でも……大丈夫だから……。」
その言葉を聞いた瞬間、弾かれたように一歩、ゆっくりと歩みを進める。
どうしたら俺の気持ち、分かってくれるんだ?
どうしたら俺の気持ち、理解してくれるんだ?
俺が愛してるのは昴、お前だけだ。
お前が俺の、幸せなんだ。
「なぁ?聞いてるのか?」
「………」
また一歩ゆっくりと歩みを進める。
昴が膝を抱えて、俯きながらそんな風に叫ぶ。
俺はただ、そんな昴に、徐々に近づいていって…。
「……大地?」
「………」
お前を忘れるなんて、出来るはず無い。
あんな田舎に帰って、畑を耕して…
あんな女に付きまとわれて、それでも自分を偽って…
好きでもない女と子供を作り、好きでもない女に似た子供の孫を可愛がり…
ただ虚ろで、上辺だけ取り繕った笑顔で、生き続けるくらいなら。
昴、俺はお前を、無理矢理にでも手に入れる。
俺の幸せを願っていると言うのなら、お前自身が、俺の幸せの為に人生を差し出してくれる。
そういう事でいいんだろ?
「大地、どうかし…た…」
俺は一体、その時どんな顔をしていたんだろう。
俺は一体、どんな顔で昴を見下ろしていたのだろう。
長年抑えてきた欲望を、ついに発散出来ると、笑みを浮かべていたのだろうか。
それとも、これから昴を蹂躙する、その悲しみに、涙を流していたのだろうか。
いや、もしかしたら…怒っているか?
俺の気持ちを分かってくれない怒り。
俺に最後の手段を取らざるを得なくさせた怒り。
それとも、そんな感情、その全てか…。
振り返った昴が俺を見上げて、放心したように言葉を失う。
俺はそんな昴の方へと、腕を伸ばして。
[newpage]
俺は大地が好きだ。
性別がどうだとか、子供が産めないからだとか、そんな世間の常識なんてどうでもよくて、とにかく大地を……
……大地という一人の男を、愛してる。
でも、その想いが叶うこと、無いのは、本当に胸が痛くなる程、分かっていて……。
大地の実家から帰ってきて数日。
俺達の間に会話は殆ど無かった。
言いたい事も、聞きたいことも、沢山ある。
例えば、祭りの日、風呂場から戻った大地は、何故かとても怒っていた。
真っ赤な瞳に、月の光を照らして。
まるで俺を、食い殺してしまいそうな程、憎しみの篭った目で見ていた。
けど、大地はそれを誤魔化すように、なんでもない、…と、それだけ言って。
ーー悲しかった。
ーー恐ろしかった。
俺は大地に、信用されていないんだと、そう思えるくらいには、その言葉が酷く心に突き刺さった。
それだけじゃない。風夏という女の子の事も、大地は結局話さなかった。
俺は確かに、弁当を届けに行った時、あの子に会ったし、昼飯は多分、彼女と共に食べた筈だ。
それなのに、大地からそんな話は1つもなくて……。
別にそれならそれで、良いんだけどさ。
だって、そんなの別に、話すかどうかはコイツの自由だから。俺が怒ってるのはただの嫉妬で。
付き合ってもいない俺達の関係で、そんな事気にする方が間違ってる。……それは分かってるんだけど……。
あっちに帰ってる間、今まで以上に、大地は何も話さなくなったような気がする。というより、話すのを避けているようだ。そんな風にモヤモヤとした気持ちが俺の心を支配していて。
最後に両親と話してくると言って家に戻った後もそうだ。
車の窓と、家の縁側のガラス窓。そこから見えた光景は異常なもので。
おばさんは何かを捲し立てるように、すごい剣幕で大地に向かって罵声を浴びせているようだった。
大地はただ顔を伏せて、言われるがまま、それを聞いてるだけで。
最後なんか、親父さんまで、勢いよくテーブルを叩きながら、恐ろしい表情で大地を睨んでいたのだ。
俺は思わず怖くなって、自分が何か言われている訳でもないのに、顔を逸らしてしまって。
でも大地は、その事も俺に秘密にした。
何を話したのかは教えてくれず、ただの世間話だと、そう言って……。
瞬間、それが嘘だと知っていた俺は、一気に嫌な気分になってしまった。
なぁ?…と、そんな風に声をだし……。
何で嘘つくんだ?……。と、そう聞いてしまう一歩手前だった。
あんな風にすごい剣幕で叱られて、それを俺に話さないのは、それって友達だとしてもどうなの?…そう聞きたかった。
もしかしたらコイツの両親は、大地が俺みたいな奴と同棲してる事に腹を立てていて、早く同居を止めろとか、さっさと帰ってきて家を継げとか、風夏さんと結婚して子供を作れとか、そんな事を大地に言ったのではないだろうか。
でも、大地は優しいからさ。
俺の事考えて、それを断るしかなくて……。
それでもしかしたら、更に強い反感を親父さんから買ったのかもしれない。
そんで、俺には、その事隠してさ……。
俺に気を使って……。
俺が責められないように……。
全部勝手に引き受けて……。
そう考えると、やっぱり俺は、大地の足を引っ張ってるだけじゃないかと、そう思えて……。
帰ってくる車の中でも、もうかなり嫌な気分になってた。
別にさ、全部しっかり、話して欲しいとは思わないよ?
でも少しは、俺の事、信用してくれたって、いいんじゃないか?……そう思って。
………本当は、もう自分の心なんて訳が分からなかった。
大地を好きな自分と、大地を嫌いになりつつある自分。両方ごちゃまぜになって、感情を取り繕うどころじゃなくなっていた。
嫌いになるって言うのはさ、なんて言うか、本当の意味で嫌いになってる訳じゃなくて……。
分かりやすく言えば、理不尽な怒りって奴だ。
これはもう、自己中な怒りだし、俺は大地が無口な事知ってる訳だから、それに今更怒るなんて、凄く格好悪いんだけどさ……。
なんであの時怒っていたのかも、結局話してくれないし
風夏さんの事を、どこか隠そうとしてる節もあるし
とにかく信用してくれてないって感じるし
そんな、大地に対しての……
自分勝手で、自己中な、馬鹿みたいな怒り。
相変わらず、大地は帰ってきてからも何も話さなくてさ。
俺が無言なの、気付いてるだろ?
俺がどう見てもいつもと違うの、気付いてるだろ?
それなのに…
気付いてる癖に…
それでも俺に何も言わないのは……なんでだよ。
それともやっぱり、大地にとって俺なんて、ただのルームシェアしてる同居人…くらいの認識しかないんかな。
こんなに長く一緒に暮らしてきてさ、それでも俺って、そんな信用無いのか?
言葉にしてくれないから…分からない
分からないから…もどかしい。
大地は俺が無口でも構わないし、むしろ静かだから助かってるとまで思ってるかもしれない。
それとも、気付いてはいるけど、ただ無視してるだけかも。
こうやってある事ない事頭に浮かんでは、俺の心は昔みたいに……。
愛を知らなかった頃の俺みたいに…乾いていく…。
そうなってくると、本当にもう、脈なんて全然無いな……なんて思うし。
俺が大地を好きだと思う気持ち。それだけは決して変わらないけれど。
その好きが、俺の心を、傷付ける。
大地には絶対、この気持ちは伝わらないんだと、そう、嫌でも自覚してしまう……。
だから俺は、俺の為にも、早く大地に言ってやらないとダメなんだ。
ルームシェアやめよう…って
お前は田舎に帰ってもいいよ…って
本当は大地も、家に帰りたい筈だ。
あんな綺麗な子がいて、大きな家も土地も継げる。
俺みたいな奴と一緒にいるより…さ。
だから………
「大地、あのさ……」
「……ん?」
「………」
でも、その言葉を言おうとする度、胸が張り裂けそうになる。
大地と離れる事になる。そう思えば思うほど、痛くても、いいから、傷付いても、いいから…大地に側にいて欲しいと、思う。
なんて自分勝手な気持ちだろう。
そう思っても、大地と離れる決断をする事は、どうしても出来なくて……。
「や、やっぱ、なんでもない……あはは…」
「……あぁ」
何度も同じ言葉で誤魔化すから、もうそろそろ限界が近い。
でも、それすら、気付いてる癖に、なんでお前はそれに突っ込んでくれないんだと、心の中ではそんな風に悪態をつく自分もいる。
気づいて欲しくないと言う気持ちと
もっとこの変化に気づいて、関わって欲しいという気持ち……
まるでSNSでよく見る、恋人と別れたばかりのメンヘラみたいだ。
そんな風に自分自身を責め立てて、とても嫌な気分になる。
自己嫌悪の嵐……。
でも多分、誰にも分からないんだろうな。俺のこの気持ちは。
複雑過ぎて、難しすぎて、俺自身理解できない感情。考えれば考える程ドツボに嵌って、帰って来れなくなりそうになる。
これもまた、メンヘラっぽい思考で嫌になった。
好きなのに、嫌い。
嫌いなのに、好き。
好きだよ、……お前が……
好きだ、……狂おしいほど……
(だけど……)
痛いほど…、辛いほど…、お前の事が好きだから……
だから逆に、めちゃくちゃ嫌いにもなるんだ……
そう……、大っ嫌いだよ……、お前なんか……
大っ嫌いな……
愛しい奴……
「……なぁ、久しぶりにドライブでもしないか?」
大地が突然そんな事を言って、久しぶりに話しかけて来た。
あまりにも突然過ぎる提案に、俺は思わず驚いて、予想だにもしていなかったから、ギクシャクと、気まずい感じで返事を返してしまう。
ドライブなんて、本当は嫌だったんだけどさ…。
でも動揺して、何も考えずに咄嗟に返したから、別にいいけど、って…素っ気なく返しちゃって。
久し振りに大地はバイクを出した。
俺は実はバイクに大地と一緒に乗るのが好きでさ。
……理由は単純、大地に後ろからギュッと抱きつけるから、昔からそれが凄く好きだったんだ。
それに、大地がバイクに乗るとさ、とにかくサマになってて、カッコイイんだ。
映画のワンシーンみたいでさ、豪快で、男らしくて、キラキラ輝いて見える。
ヘルメットを持つだけでも、その横顔が精巧で、俺に見られてるとも知らない、無防備な無表情が、一枚の絵みたいに完璧で……。
その顔が、ゆっくりと俺の方に向いてくると、瞬間、まるでふんわりと花が蕾を開くように、優しく穏やかに微笑む。
そんな大地の笑顔が、俺は好きだ……。
「……どこ行くんだ?」
そう聞く俺に、大地は悪戯っぽく笑い「……懐かしの場所だ。」なんて呟く。
その表情がまた、俺の心を刺激してしまって……。
俺では揺るぎもしなかったバイクは、大地が跨ぐとギッと音を立てて深く沈み込む。
そりゃそうだよな。俺と大地の体重なんて、倍近いどころか、それ以上違いがある。
身長だって俺の頭は大地の胸の下辺りにあって、いちいち何をするにも見上げてやらないといけないし。
横幅も、俺が二人と半分くらい居ないとダメなくらいだ。俺だって別に、人間にしては身長とか、平均的な方だと思うのだけれど……。
俺は、そんな大地の背中に強く張り付いて、ヘルメット越しに静かにその香りを嗅いだ。
バイザーを持ち上げて、微かに篭ってくる大地の香りを楽しむ。
久しぶりの大地の匂いだ。
凄く安心する、その優しい匂いは、相変わらずどんな香料よりも、落ち着くような感じがして、理由も無いのに、ポロポロと涙が出そうになってしまう。
うだるような、湿った梅雨の夏の暑さなのに、その背中から伝わってくる熱が、何故かとても心地よくて……。
ただただずっと、そこに縋りついて居たい、…と、心の底からそう思った。でも、それが出来たら、どんなに良かったか、…と、ほんと馬鹿みたいに悲しくもなる。
派手な音を吹かしてバイクが車道に出ると、その勢いで尚更強く密着しなければ、俺なんか簡単に振り落とされてしまいそうになる。……そう自分に言い訳すると、俺は大地の広いその背中に、ギュッと赤子のように抱き着き……。
でも、そうやって甘えた考えが頭を過ぎる度に、同じくらい、何とか忘れようとしている、そんな言葉も思い浮かんでしまって。
いつか訪れるだろう、もはや避ける事の出来ない永遠の別れを前に、俺はただ悲しげに目を伏せた…。
涙が出ても、今は、今だけは、バレる事、無いから。
だから、こうしてお前の体温、感じてる間だけでも、泣かせてくれよ。
いつもなら慰めてくれるだろう、とても優しくて大きな手は、俺の髪にも、頬にも伸びてくる事は無くて……。
激しい風の音と、バイクのエンジン音。
ポロポロと零れた涙は、夜空の星々のように輝いて、開いたバイザーから、空に向かって煌めいたいった。
嫌だよ…大地……
俺、お前と別れたくないよ……
ずっと一緒に…、お前と一緒に…
居たいよ…大地……
居させてくれよ…大地…
全身に大地の匂いと、体温、そして風を感じながら景色が流れるのを、潤んだ瞳で見つめ続ける。
早く乾け!!泣いた事バレるな!!そんな事考えながら、見える景色に想いを馳せる。
それだけて俺は、コイツがどこに向かっているのかすぐに分かってしまって、我ながら女々しい奴だな…なんて、そんな事を思って。
でも、そんなの忘れるはずなんてない。
初デート……俺がそう思ってるだけだけど、その時大地に連れられて行った、夜景の綺麗な山の上のスポット。
思い出の場所。
今でもたまに思い出す。
そんな美しい、大地との記憶の場所。
一足先にバイクから降りて、ぼんやりと空を眺めた。
あの時、あの冬の日から、今まで色んな事があってさ。
最初はこんな風に、大地を好きになる事も、ましてや同居する事なんてのも、想像すらしていなくて。
ただあったのは、妙に意識してしまう変な緊張感。
男同士なのに手を繋いだり、肩を抱かれて引き寄せられたり。おかしいと思いつつも居心地がよくて、からかわれてると思いながらもそれを甘んじて受け入れた。
変な気分だったけど、なんだかすごく、落ち着くなぁなんて、そんな事を思ってたんだよな。
あの時間が、今では俺の大切な大切な宝物になって、たまに思い出しては、とてもあったかい気持ちになる。
それなのにまさか、今になってこんなにも、気持ちを落ち込ませる原因になってしまうなんて、思いもよらなくて……。
ふと、そんな事を思いながら遠くを見つめていると、そっと俺の手に触れる、懐かしい感覚。
「っ…!?」
それが何かと理解するまでもなく、俺は反射的に、まるで大地を避けるように、驚いて手を引いてしまった。
大地も少し驚いたように俺を見て、手を伸ばしたまま固まってしまっている。
俺は思わず、とても気まずい気持ちになって、引いた手の手首を擦りながら、顔を逸らして言葉を探し…
「っ…ごめ…俺…」
でも、そんな風に俺が言葉を探してる最中にも、大地は再度手を伸ばして、今度こそ強く…力強く、俺の手を握り締めた。
戸惑う俺の事なんか無視して、そのまま手を繋ぎながら当たり前のように歩き出す。
そんな大地の心情が分からなくて、ただ俺は、伝わってくる馴染みの熱い体温に、今にも泣きそうになってしまって……。
ーーどうしてお前はそんな風に、俺を期待させるんだ。
ーーどうしてお前はそんな風に、俺の欲望を見透かしてしまうんだ。
無理をして、距離を取ろうとして。
本当は近付きたいのに、そんな気持ちに蓋をして、気付かないよう振舞った。
本当は沢山甘えたいし
本当は沢山手を繋ぎたい……。
本当は沢山抱き着きたいし
本当は沢山頬を撫でてほしい……。
でも、それをすると、何とか継ぎ接ぎだらけで取り繕った決意が、そのままボロボロと、崩れるように壊れてしまうから……。
既に破けていた紙片を拾い集めても、もう二度とその形には戻らないから……。
破かないように……
壊れないように……
大切でもない…むしろ自分の中から無くなれと思っているくらいのそれを、俺はギュッと胸に抱いて、守り通そうとした。
それなのに、大地のたったこれだけの……
たったこれだけの行動で……
もう絶対に元に戻せないくらい、酷く簡単にボロボロと崩れ落ちた。
それはまるで初めから、そこには存在していなかったかのように。
まるで初めから、そんな物は持っていなかったとでも言うように…。
そうやって、結局最後に残ったのは、俺の剥き出しの心ばかりで…。
以前と全く同じ場所、同じ景色を眺める所で、俺達は並んで立ち尽くした。
あの時と同じ、箱一杯に敷き詰められた様々な色の宝石のように、街の光がキラキラと輝いて。
夜空に浮かぶ大きな月は、まるでその中でも一際大きく光り輝く、大粒のダイヤモンドのよう。
でも、あの日、あの時見た美しい景色からは、随分色褪せたようにも見えてしまって……。
綺麗なのに、綺麗と思えない。
綺麗なのに、綺麗と思いたくない。
ここにある思い出は、今となってはただの辛い記憶になってしまっていて。
こんな…気持ち…
こんな悲しくて、苦しい気持ちになるくらいだったなら…。
俺は初めから、大地と出会いたくなかった。
俺は初めから、大地を知りたくなかった。
そんな、すごく罰当たりな事…
思って、しまうんだ。…心から。
そして、この美しく幻想的な思い出の景色は…
そんな大地との出会いを彷彿とさせて
酷く自分が嫌いになる…。
今まであんな、楽しい日々を過ごしてきた癖に
今まであんな、充実した日々を過ごしてきた癖に
まるでそれがあるから悪いんだと言わんばかりに
自己中な感情で、思い出をダメにしてしまう。
馬鹿で、愚かな俺……。
だから結局、俺みたいな人間が、大地のそばに居るのは…さ。
良くないことなんだよ。
初めから釣り合ってなかったんだよ。
そんなの初めから、分かってた筈なのに…
そんなの初めから、気付いてた筈なのに。
分かってて、蝋の翼で太陽に近付いた。
そんな事したら、熱で翼が溶けてしまうと…
そう知っていたのに……
そう感じていたのに……
結局愚かにもそのまま堕ちた…。
そしてそうなってから初めて気付いたんだ。
俺は本当に、悲しくて、幸せな夢を見ていただけに過ぎないんだと…。
「……覚えてるか?初デート、ここだっただろ?」
大地のそんな、弾んだような声に、俺は思わずビクリと身体を震わせて、俯いた。
俺の気持ちも知らないで……
俺の気持ちも知ろうとしないで…
またそうやって、俺の心を無意識に傷付ける。
「で…デートって…男同士なのに…っ…」
もう、からかわないで欲しい。
こいつの言葉一つで、心が落ち着かなくなるの、本当にしんどいんだ。
コイツにとっての冗談が
俺にとっての死刑宣告
それくらいの認識の違いがあって
俺の心は何度も、何度も死んでいく。
だからもう…これ以上は…
これ以上は、もう……
「………っ!!」
そう思った矢先、俺の手を握る大地の手が、ゆっくりと絡み付くように、俺の指の間にスルリと滑り込んできて。
肉球が俺の肌をなぞる度に、ゾクゾクとした熱が、そこから沸き起こる様全身に走った。
駄目だ…こんなの…
ーー擽るように指先を撫でて…
耐えられない…こんな…
ーー愛しく撫でるように関節を擦る。
「っ!!!」
気付いたら俺は、そんな大地の手から、逃げるように自分の手を振り払って。
「昴…?」
大地のそんな戸惑った声も聞かずに、ただ心の底から、駄々をこねるように叫んだ。
「帰るっ!」
「昴…?」
「かぇる!!」
涙が溢れて、掠れた声。
それを誤魔化すように、地団駄を踏んで子供のように叫んだ。
目から流れる涙が止まらなくて、その時点で既に俺の顔はもうドロドロで。
それがバレないよう、懸命に大地の方を見ないようにして、何とか誤魔化そうとする。
だって仕方ないだろう?
俺にはもう、こんなの耐えられない。…無理なんだ。
確かに始め、出会った時は、俺もからかう気持ちで、後ろから大地に抱き着いたりしたけどさ。
あの頃とは根本的に、俺の気持ちは変わってしまっていて。
それなのに、こいつだけはあの頃と変わらないまま。
あの頃と同じように俺をからかって。
平気で手を繋ぎ、指を絡ませてくる。そんな大地と、これから上手くやっていける自信が、俺には無かった…。
俺の気も知らないで…。知ろうともしないで…。
黙って居たかと思えば、突然デートとか言って。
重要な事は何も話してくれない癖に、突然人が変わったように、甘く、恋人のように接してくる。
大地の行動はどれも、どこか俺に気があるんじゃないかと勘違いしてしまう事ばかりだ。
それが俺をからかっているだけという事は、普段何も話してくれない、話そうともしない。俺が普段より無口になって、露骨に避けてるって言うのに、それにも気が付かない。
そんなコイツの様子を見れば明らかだけれど。
だからこそ、俺にはもう、そんな行動耐えられないし、耐えたくもない。
ただでさえ酷く悩んで悩んで、文字通り必死の想いで関係を絶とうと苦心しているというのに。
これ以上の心労を引き受ける心の余裕もなければ、俺はそこまで精神的に大人になり切れない。
だけど、だからこそ、俺はそんな大地の行動によって、改めてコイツを遠ざける。その決心がついたのも事実で。
ボロボロに崩れ落ちて、もう直らないと思っていた決心。
それがまた、俺の心に分厚い壁を作り始めた。
もう二度と壊れないくらい、頑丈な壁。
俺は涙を大地にバレないよう拭うと、泣き腫らした顔は隠したままでヘルメットを被り、バイクへと跨って……。
家に帰ると俺は早速、決心が鈍らないうちに、この決意を言葉にしようと心に決めた。
でもやっぱり辛い事には変わりないから、ソファーに座って、大地の方を見ないようにして、ただただ、帰り道、頭の中で予め決めておいた言葉をつらつらと述べる。
「大地……俺達、ルームシェアやめよう。」
本当は言いたくなかった言葉だけれど、まだ何とか取り繕う事は出来たようで、俺は一言目を呟けた。
けれど、手が震えて、声も少し上擦る。
しかし、ここで全て言ってしまわないと、また延々と苦しむ羽目になって、毎日毎日後悔することになる。
だから頑張って、思い描いた言葉以外、なるべく考えないように、機械的に言葉を出す。
するとやっぱり、大地の声は、いつもと変わらない調子で……。
別に期待してた訳じゃないけどさ、もう少し取り乱してくれるとか、反対してくれるとか、そういう事もなく、大地はただ無言で、俺の言葉を聞いているようだった。
大地の顔は見ていなかったけど、少しづつこちらに歩み寄ってくる彼の気配を感じる。
今、大地に近付かれると困るので、なるべく彼の方を見ないようにして問いただすように大きな声を出すけれど。
「なぁ?聞いてるのか?」
「………」
大地からの返答は無いまま、その気配はすぐ後ろまでやってきていた。
それでも俺は、コイツの顔をなるべく見ないように名前を呼んで。
「……大地?」
「………」
そこでようやく、何だか少し様子がおかしいと思い始めた。
俺も俺で、切羽詰まっていたから、大地の様子がおかしい事に気が付く事も出来ず、膝を抱えて蹲ってばかりだった。
けれど、流石に名前を呼んでも反応しないのは不思議だったから、俺はすぐ側にある気配に振り返って、見上げるように声を出して…。
「大地、どうかし…た…」
けれど、その声は、途中で遮られてしまった。
見上げた大地の顔、それは、彼の実家に帰って一日目の夜。
あの時見たような、無機質で冷たい。
まるで獣のような恐ろしさを持つ、恐ろしい顔だったから……。
「……ぇぁ…っ?」
そして、それに気が付いた時にはもう遅かった。
何故なら、大地のその大きな手が俺に伸びてきて、腕を強引に引き寄せたから。
俺はその瞬間、何が起こったのか、理解出来ずに…。
[newpage]
腕を掴んで強く引き寄せた。
昴の身体は軽くて、簡単に持ち上がる。
一拍遅れて、抵抗された。
でも、そんなの俺には関係無かった…。
「な、何すんだ!!おい!」
昴の声が聞こえた気がした。
焦ってるような、驚いているような、怖がっているような声で。
覆い隠された俺の理性に、何かを訴えかけてきている気がする。
けれど今はもう、そんな事、俺には全く通用しなくて……。
「うわ…っ!!」
ベットに勢いよく昴を放り投げて、そのまま上から覆い被さる。
暗い暗い寝室の中、俺の下にいる昴の姿は、更に黒くすっぽりと染まっていて。
………怯えた顔が見えた。
キラリと目尻に一筋の光が浮かび上がっている。
けれど、そんな表情が尚更、俺の理性を更に奥深く、心の底へと隠してしまうから……。
「やっ…やめっ…」
結果的に強くなった欲望は、そんな言葉を無視して、そのままベットへと体重を掛けていった。
俺の大きな身体に覆い隠された昴は、逃げる事も出来ず、弱々しい手つきで俺の胸元の服をギュッと震えながら掴んでくる。
そして、まるでこちらから目をそらすように彼が俯くと……。
「………」
「うあ…っ♥」
俺はそんな風に、昴の怯えた艶かしい表情を隠してもらいたくなくて、彼の後頭部を乱暴にグイと掴んだ。
「ふむ…っ♥…ん♥…じゅる…♥」
そのまま、舌なめずりすると、軽くマズルを開いて、その小さな唇をパックリと包み込むように喰らった。
比較すればするだけ違いすぎる大きさだ。
俺がほんの少し開いたマズルは、昴の顔、下半分を覆い隠してしまう程の大きさで、そんなんだから簡単に、舌の質量の力で唇をこじ開けられる。
そして、そうやって難なく侵入した口内には、甘く狂おしい程甘美な蜜が、たっぷりと詰まっていて。
………余すことなく全て啜った。
………一滴も残さないように隅々まで舌を差し込んだ。
それはまるで蜂蜜を舐める獣のように。
もっともっとと、奥まで食指を伸ばしていく。
そしてその代わりに、こちらの唾液もたっぷりと流し込んでやった。
その熱が…遺伝子が、溶け逢って…混ざり…全て一緒になる。
心も、体も、その全身に巡る血の一滴に至るまで全部。
ーー俺の物だ。俺だけの物だ。
そう欲望が叫びながら、昴の中を蹂躙し続けた。
そして、何分経ったのだろう。
永遠とも言える、刹那の時間の中で…
口を離すと、名残惜しくてマズルを舐めた。
繋がった銀糸さえも巻きとって、惚けた顔をする昴を見下ろせば、もう我慢する必要は無いのだと、タガが外れたように、欲望が押し寄せてくる。
ずっとずっと…
今まであんなに…
恋焦がれていた、昴の身体。
いつだって味わいたくて…
いつだって貪りたくて…
ただ、それだけは駄目だと、理性がそれを邪魔していたけれど。
失いたくないから…理性も結局、欲望に負けた。
失うくらいなら…理性も結局、欲望を認めた。
だからもう、後には戻れない。
だからもう、後には戻りたくない。
「あう…っ!?♥」
首筋に噛み付いて、昴の服を腕力のままに引きちぎった。
尖った爪が白い肌に傷を付けて、赤い鮮血が迸る。
情緒も遠慮も無い。
欲望にかまけた、野獣のような行動。
「やだ…っ…だぃ…ち…っ!♥」
俺と昴の間にある、全てのものが煩わしい。
常識も、服も、骨や肉すら全て…肉体という物理的な概念さえも、今はもう全部退けたくて。
精神と、魂と、心だけ剥き出しになって、昴と共になりたかった。
思考も、感情も、全部全部溶け逢って…一つになってしまいたかった。
俺たち以外に、何も要らない。
二人だけの世界で、ずっと一緒に…。
「あ゛…っ…♥ひぁ…っ♥」
だから今ここで、お前を噛み砕き、全て取り込んだなら。
永遠に一緒に…
魂まで共に…
くだらない常識も、世の中の価値観も…
全部全部放り投げて、一つになれるだろうか。
血も、肉も、骨も余すことなく。
喰らって、喰らって、喰らい尽くして…
そしたらもう、何にも縛られる事も無い。
二人だけの世界に…行けるのだろうか………。
けれど……
「だい…ち…」
震える手で、俺の頭をなんとか抱き締める。
昴の表情は、何だかどこか、諦めたような、何かを悟ったような、そんな表情で…
俺の名を呼ぶその声は…なぜかとても優しく…どこまでも透き通っている。
「だぃ…ち…っ」
ーーその声を聞くと……
ーーその顔を見ると……
どこまでも独りよがりで、自己中な俺の欲望が、とても汚いものに思えて……。
「ふー…っ…ふー…っ」
その瞬間、俺の中に押し込められた、理性という名の感情がまた、欲望を抑えようと息を吹き返す。
まるでケダモノのように、全身の筋肉が膨れ上がり、こめかみに血管が浮き出始めて…。
ーー荒く息をした。
噛み付く力が強くなりそうなのをなんとか堪えて、けれど昴の首筋からは、一筋の血液が垂れ落ちる。
「グゥゥゥ…っ…ゥゥゥゥ!!」
「ぅ…ぁ…っ…!」
理性が必死に、欲望を押さえ込もうとする。
ここまで来て、昴に手を出すなと無駄な正義感を主張してくる。
ここで昴を喰らってしまえば。
ここで昴を取り込んでしまえば。
俺達はずっと…ずっと一緒に…
誰にも邪魔されず、二人だけの世界を創る事が出来るのに。
そんなせめぎ合いの中で、これまで培ってきた様々な想い出が、俺の脳裏へと唐突に蘇ってきた。
バレンタインのチョコ被り事件。
風邪を引いた時の、病気の移し合い。
大学のサークルでやったボードゲームとか
山登りや、景色が綺麗な旅館に泊まりに行ったり、寺や神社を観光しに行った日々の記憶。
くるりとこちらに振り返って、花のように笑ったり、
歩き疲れて、もう動くのがしんどいと愚痴を零したり、
初めて見る景色に一喜一憂し、
俺の事を信頼して、無防備な寝顔を見せる昴の表情。
全部全部…俺にとっては幸せな、全く替えのきかない、宝石のような宝物ばかりで……。
ぼろぼろと涙が溢れ、ゆっくりと口を離した。
「だい…ち…?」
そして理性が、また心の中で叫んでる…。
ーー嫌いにならないでくれ…っ
ーー俺を見捨てないでくれ昴……っ
昴の胸元に縋り付くよう、額を擦り付ける。
大の男がぼろぼろと、子供のように涙を流して、全身を震わせながら、ただ溢れ出る感情を押さえ込んだ。
何よりも昴に嫌われるのが恐ろしくて…。
何よりも昴を傷付けた事が恥ずかしくて…。
目を合わすことも出来なかった。
欲望に囚われた自分を嫌悪していた。
それでもまだ俺は…
浅ましく昴の愛に縋りつこうとしている。
ーーどうしようもなく昴の愛を求めている。
「…ぉ…まぇ……ないて…?」
「………」
そっと昴の手が俺の頬に触れて、俺は思わずその手から逃れるように、それを掴んだ。
途端にビクリと震える身体。感じて、強ばった腕の力を抜く。
そして、しばらくの硬直の後、昴の手はまた、俺の頬へと伸びてきて………。
「だいち……」
頬を撫でながら、彼の名を呼べば、野獣のような鋭い眼光が、ゆっくり、ゆっくりと俺を射抜くように睨みつけた。
もう…大丈夫なのか?
本当にこれはいつもの大地なのか?
不安になって、問いかけようとしても、言葉は出ずに、ただ視線を交わし続けた。
しかしそれも束の間の事。
「ひっ…♥」
一瞬、いつもの大地に戻った気がしたのに、その面影はまた、何故か分からないけれど、どこか遠くに消え去ってしまった感覚が伝わってきて。
ギュッと、頬を撫でた腕を力強く掴まれた。その痛みに顔を顰める。
「ひゃあぁぁ♥♥」
そして、ベロリと野太い舌が、俺の腹をべっとり舐め上げてしまえば…。
爪痕から僅かに滲み出た血を摂取するように、何度も何度も、そこを味わい尽くしてくる。
俺はその感覚に身震いしてしまって。
「やっ…♥やだ…だいち…っ♥」
恐ろしくて、声を上げても、大地は何も答えない。
それどころか、まるでそんな俺の様子を楽しむかのように、邪悪な雰囲気を纏いながら、俺を見下ろしてくる。
そこに居るのは、明らかにいつもの大地ではない。まるで別人格とでも言うような、凶悪な一人の獣であり。
「やぁぁぁ…っ♥♥」
足を広げられ、俺の恥ずかしい部分が大っぴらに晒されてしまう。
大地の手に掛かったら、俺の足首なんてすっかり掴めてしまうくらいであり、それと同時にどんなに力を入れても、足を閉じる事すら出来なくなる。
大地は、そんな俺の股の間の、萎えたチンポへと鼻先を近付けて、何度も何度も、臭いを味わうようにスンスンと鼻を鳴らし始めて…。
「や、やだ…恥ずかし…っいぁぁ♥♥」
そんな事を言ってられるのも束の間だ。あろう事か大地は、当たり前のようにその大きなマズルを開くと、俺のチンポを、金玉ごとねっとり舐め上げてしまった。
俺は目を見開きながら、顎をしゃくりあげて甲高い悲鳴を上げる。
大地の頭に手を伸ばし、必死に力を込めるけれど、そんなのは対した抵抗にもならなくて。
何度も何度も、ベロリベロリと味わうように舐められた挙句、じゅっぽりと、そのマズルの中に俺のチンポと金玉、丸ごと包まれて吸われれば、俺はビクンと身体を大きく震わせて、自然とそこは硬度を持ち始めてしまう。
「ふぃ♥…ぎっ♥…あっ♥…いっ♥」
ジュポッ…ジュポッ…ジュポッ…ジュポッ…と、くぐもった粘液の混ざるような音が部屋に響き渡り、俺のチンポが大地によって吸われ続ける。
初めてフェラをされる感覚に、俺はただ頭の中が快楽で真っ白に染まって、いつしか足首から手を離されても、ろくな抵抗は出来ず、大地の肩にそれを預けるばかりであった。
大地の手が、俺の胸元に伸びてきて、陥没した乳首へとその爪先が伸びてくる。
クリクリと、中をほじくるように、鋭い爪先が優しく隠れた乳頭を刺激すれば、ピリピリとした感覚が俺のペニスへと伝わって、快楽は尚更強く、強烈なものへと変化していくのだ。
「あ゛っ♥だ…っ〜〜〜♥♥」
言葉になる前に、限界はすぐさま訪れた。
元々ここ数日は色々あって、自分で抜く事もなく、そんな余裕も無かったから、溜まっていたのも原因だと思う。
俺は片方の手を大地の頭に、もう片方を自分の口元に当てながら、腰を僅かに持ち上げて、ビクンと大きく震えると、そのまま無様にも、大地の口の中へと精液を放ってしまっていた。
足先をピンと尖らせて、身体は硬直して…。
「あ゛っ♥あ゛〜〜っ♥♥」
何度も何度も、射精するたび全身が震え、熱に浮かされたような瞳で虚空を眺めた。
大地の分厚い舌が包み込むように、俺の射精中のペニスを包み込み、ねっとりと舐め上げるものだから、それに釣られるよう精子の方も、あれよあれよと吸い尽くされていく。
射精後も、残り汁さえ味わい尽くすように、しばらく股間を愛撫され続ければ、俺は、快楽のあまり頭がぼんやりとして、口を半開きにしながら荒く息を吐くことしか出来なくなった。
口を離した大地は、腕で自らのマズルを豪快に拭うと、そんな俺の身体を四つん這いにし、そしてそのまま、俺の尻をグッと、その指で分け開いてくる。
「はぁ…はぁ…はうう♥♥」
そして、下半身を持ち上げられたかと思えば、大地の舌が俺のアナルへと伸び、そこをひと舐め。
それは次第に荒々しいものとなり、狭く、開発されていない俺のそこを開いてやろうと躍起になって、そんな間抜けな力の抜けた声が、暗い部屋に響き渡っていった。
身体が持ち上げられているので、姿勢を維持しようと思えば、大地の身体も自ずと視界に入ってくる。
胡座を掻いたその下半身には、ズボンを突き破らんとするほど豪快に勃ちあがった逸物の姿が見えて、まさかこんな巨大なものを俺の中に挿れようとしているのかと、思わずゾッとしてしまった。
僅かな抵抗で、シーツを掴み、上半身だけで前に進もうとするけれど、それもグッと軽く引き寄せられるだけで、簡単に防がれてしまう。
「ふー…ふー…」
大地の荒い息遣いと、激しい水音が聞こえた。
ビクビクと股間の逸物が、ズボン越しに何度もしゃくりあげ、その興奮の度合いがかなり激しい事を、如実に伝えてくる。
次第に俺の思考も朦朧としてきて、その場に漂う淫気な空気や、快楽によってぼんやりとし始め…。
「あっ…う…ぁ…♥…だ…め…っ…だいち…っ♥」
クチュクチュと、萎えたペニスも同時に弄られると、先程絶頂したばかりだというのに、俺の身体はまた反応を示していた。
何より、口では拒否しつつも、俺は大地に身体を蹂躙されている、そんな状況に興奮しているのも確かで…。
アナルだけでなく、蟻の門渡りから陰嚢裏へと舌が動き、そして先端を尖らせ、徐々に柔らかくなる菊門へと侵入してくる。
それはまるで別の生き物のように、複雑な動きで中へ中へと分け入ってくると、確実にその場所を、柔軟な性器へと変貌させつつあった。
そうしてどれくらい経ったのだろう。ある程度舌で解された後は、大地のふとましい指が侵入してきて……。
「ふぅ…っぐぁっ…♥」
内側から腹を圧迫されるような異物感。
大地の指は、それだけで人間の成人のペニスと大差ない大きさだ。
普通それだけでもかなりキツいだろうに、けれど入念に解され、柔らかくなった俺のアナルは、それを難なく受け入れて、同時に大地は寝そべる俺の傍に横たわると、頭を支えながらキスをする。
それだけで、痛みの殆どは快楽に変わっていった。
それほど、大地のキスは気持ちよくて……。
ずるりと、大地がズボンを乱雑に脱ぎ去る様子が、身体越しに伝わってくる。
熱く滾った、鉄の棒のように硬くふとましい逸物が俺の腰に触れると、それだけで火傷してしまいそうな程の熱で……。
大地が俺の手を取り、自らのペニスへとそれを誘導する。
ドクドクと脈動し、ねっとりとした我慢汁で塗れたそれは、常時熱を放ち、恐ろしく硬い。
その上で、ペットボトル並の大きさと太さを持つそれは、俺の逸物などとは比べるべくもない。
本物の雄のペニスだった。
長い長いディープキスが終わると同時に、俺の尻を解していた指もまた離された。
代わりにその割れ目に向かって擦り付けられるのは、大地の魔羅で……。
俺は恐ろしくなって、思わず大地に縋り付きながら怯えたような声を出す。
「あ…っ…や…こ、…こんな…大きいもの…♥」
「ふー…ふー…♥」
しかし、大地の目は血走り、荒く息を吐く様を見ても、こちらの言い分など通じているようには思えなかった。
それどころか、何度も何度もそれを俺のアナルへと擦り付ける様子を見れば、今にも挿入するのだと、逃がすわけ無いのだと、そう言っているようにも思えて。
「あ゛…っ♥…ぁ゛ぁ゛ぁ゛…が…ぁ゛♥」
そして結局、その先端がアナルへと宛てがわれた瞬間、無慈悲にもそれは、ゆっくりと、俺の中へと侵入してくる。
メリメリと、肉を押し広げて、あれほど散々解されたにも関わらず、それでも何とか、裂ける事は無かったけれど。
「お゛…ご…♥あ゛…っ♥」
膝を掴まれて、寝そべる赤ん坊のような格好で、ゆっくりゆっくりと、ペニスが挿入される。
内側から伝わるのは、激しい圧迫感とそれから……。
「ぎ…っぃぃ…っ♥♥」
確かな快楽もあった。
丁度ペニスの裏側、尿道の奥の方が、ゴリゴリと圧迫されると、確かに脳から全身が痺れるような、そんな快楽が…。
同時に、ジョロジョロと自らの腹に向かって失禁してしまった。
恥ずかしいとか、漏らしたとか、そんな事を考える余裕は一切無く、ただ頭が真っ白になるような圧倒的快楽によって、身体の力が抜けると同時に自然と漏れだしてしまったのだ。
大地の大きな身体が迫ってきて、それと同時に圧迫感は強くなる。
腹を下から突き上げるペニスの形が浮き出て、俺はただ目を見開きながら、声にならない声を、開きっぱなしの口から出すことしか出来ない。
「ほ…ぐ…ぉぉ…っ♥♥」
そして、鼻水と涙、それに唾液を垂らしながら、意識も朦朧としていると、いつしか大地の腰が俺の尻に密着し、それが全て俺の中に収まったことを嫌でも理解させられた。
奥は特に、S字を無理やり真っ直ぐにする勢いで、ゴリゴリと圧迫されて……。
俺から見える景色は、大地の厚い胸元だけだった。
少し見上げれば、なんとか彼の顔も見えたような気がする。
野獣のような眼光を漂わせていたその表情も、今や快楽によって、苦しげに歪められていて……。
大地の方も、強い快楽に堪えるのが精一杯なのだ。
今少しでも動けば、恐らく彼の野球ボール程もある大きな大きな金玉から、生成された大量の精子が俺の中に注ぎ込まれてしまうだろう。
最も、俺の方だって、中を圧迫する大地のペニスを感じるだけでいっぱいいっぱいなのだから、何も言えないし、言うほどの余裕も無い。
しかし、牙を噛んで苦しげな表情をしていた大地が、いつの間にか俺の顎をクイと持ち上げると、背中を丸めて深い深いディープキスをしてきて、瞬間、俺の意識はそっちに持っていかれた。
それと同時に強ばった身体から力が抜けると、俺も圧迫感だけでなく、身体が宙に浮いてしまうような、そんな不思議な浮遊感を感じ始めて、徐々に違和感が消えていった。
野獣のような乱暴さと眼光で、てっきりどこまでもこちらの意志を無視して犯されると思ったが、やはりこんな状態でも、彼の中にはちゃんと、いつもの優しさがあったのだ。
それに安堵すると同時に、しかし、彼にとってこのSEXは、まだ始まりにすら立っていなかったのだと、この後散々思い知らされるのを、俺は知るよしもない。
「あ゛〜〜〜♥♥♥」
ズルゥ〜〜…とペニスが引き抜かれ、それと同時に内蔵が尻から掻き出されるのではないかと思った。
間延びした声を上げながら、ブルブルと震えて、赤ん坊のように丸めた身体をグッと強ばらせる。
うっすらと視界の端に入った俺の下半身には、確かに大地の長大な逸物が挿入されているだろう角度でそこにあって、未だにあんなにも大きな物体が自分の中にあったのだと信じることは出来なかった。
息をつく間もないままに、また大地の大きな身体が迫ってくる感覚がする。
それと同時に、限界まで引き抜かれた彼のペニスが、またしても俺の中をズルズルと掻き分けるように侵入してきて、チンポの裏側のとある一部分が、ゴリゴリ擦れる感覚に、俺は歯を食いしばって、これまで出したこともない無様な声を上げることしか出来なかった。
「ぃ…がぁぁ…っ♥♥」
限界まで引き絞られたような、掠れた何かの引っ掻き音のような声だ。
全身の抑制が効かずに、とにかく震えと、筋肉の硬直が抑えられない。
大地の大きな掌が、俺の後頭部を掴んで、まるで挿入している所を見せつけるようにするもんだから、俺は実際に自身が体験している事を視界からも理解して感覚が倍になる。
何か巨大なワームが、下っ腹から這い上がってくるようだ。皮膚が丁度股間の上あたりから盛り上がり、それが臍を通り越して少しその上の辺りまで盛り土のように動いてくる。
ここまで入ってしまっているんだ。そんな事を頭の片隅で考える余裕がある内は、まだ良かったかもしれない。
先程漏らしたばかりなのに、萎えたペニスからジョロジョロとまた失禁した俺の身体は、多分何らかの機能がエラーを起こしてしまっている。
ハッハッハッハッ…と浅い呼吸を性急に繰り返して、俺はグズグズと無意識に泣き出してしまっていた。
もう、何が問題でこんな事になってしまったのか、そんな根本的な事すら考えられなくなってしまっている。
「……見ろ」
そこで初めて、大地がまともに言葉を出した気がした。
その声はいつもの大地の声よりも、何万倍も冷徹にしたような、荒々しくしたような、そんな恐ろしく低い声に聞こえて、そのあまりの恐怖心に、ついつい心が勝手にひれ伏してしまう。
見ろと言われて、その手で圧迫されたのは俺の腹だ。
丁度大地のペニスによって内側から盛り上がってる部分をゴリッ…と外から押されて、俺は「ィ゛ィっ!」とまた金切り声のようなものを出しながら、歯をガチガチ鳴らして顔をしゃくりあげた。
けれど、すぐに後頭部を押されて、視線をそこに誘導されれば、俺は朦朧とする意識で、精一杯その部分へと集中してみる。
「ここまで挿入ったんだ……。分かるか?」
「…は…っぎ……♥…ぃ…ぁ…っ♥」
俺はヒックヒックと嗚咽を漏らしながら、懸命に頭を縦に振った。これ以上大地を怒らせたらもっと酷い目に会いそうで、出来るだけ機嫌を損ねないように振舞ったのだ。
息をする度苦しいのに、涙を流せば流す度、横隔膜が痙攣して呼吸するのを余儀なくされる。
そして大地は、そんな俺の顔を見る度に満足気な表情をしていて……。
「……やっと1つになれたな。昴。」
「ひっ…ぅ…♥…く…ぅ…♥…な、…なんれ…こんな…っ♥」
理性を振り絞って、何とか紡いだ言葉。
涙で視界も曇り、熱に浮かされたように眉を顰めて見上げた大地は、そんな俺の言葉を聞くと、ほんの少し、ほんの少しだけ、ピクリと耳を動かしたかと思えば…。
「……お前が…」
ボソリ…ぶっきらぼうに呟いた。
そして、そのまま俺を冷たく見下ろすと、グイと顔を近づけてきて。
「お前が悪いんだろ…」
「……ぇ…?」
大地の言っている言葉が、俺の思考をグルグルと巡る。
俺のせい……?…何が?…なんで?…どういう事だ?
ここ数日の不機嫌な態度に、大地がとうとう怒ってしまったとでも言うのだろうか。
けれどそんなの、それこそ大地の方にだって悪い所は沢山あったし。
俺は理由無くあんなにも不機嫌だった訳じゃない。
それに、結局のところその態度を放置していたのは他の誰でもなく大地の方だった筈だ。
仮に何か文句があるとしても、こんな、こんなにも乱暴な方法で……。
そう考えると、俺の頭の中には、ふつふつとこれまで我慢してきた色々な不満がマグマのように煮え立ってくるのを感じた。
先程までの殊勝な態度は也を潜め、相変わらず震える手で大地の胸元を力無く掴むと、精一杯の威圧感を込めて彼を睨み上げる。
俺のせい?俺が悪い?
………冗談じゃないっ。
俺に対して沢山隠し事ばっかりして、いつだって無口で、何考えてるかわからないお前の事で悩みまくって…!
色んな事を我慢して、それでも、それが大地なんだって、お前の性格なんだって、そう自分を納得させて…!
結果、それでも俺の方が悪いと、こんな風に乱暴な事をしてくるお前なんか……。
「……っ大っ嫌いだ…!」
「……っ!?」
「お前なんか…っ…大っ嫌いだ…!!」
無意識に、そう叫んでいた。
相変わらず力が入らない身体に、精一杯の怒りを込めて。
泣きながら、なんで分かってくれないんだと、そんな気持ちを言葉に乗せながら。
大地はそう言う俺の言葉を聞くと、ほんの少し、ほんの少しだけ、動揺したように、その赤い瞳を軽く震わせ、俺を見下ろした。
俺はそんな大地の胸元を、何度も何度も、力無く緩慢に叩き続けて……。
しかしそれも、すぐに手首を掴まれて阻止された。
いつの間にか大地は、一瞬の動揺をまたその無表情の仮面に隠してしまって、しかしその視線はいつもの大地より明らかに厳しく、俺を見つめている。
グッと、痕が残りそうな程強く手首に力を込められると、俺はその痛みに顔を顰めた。
泣き腫らした瞳で大地を見上げれば、彼は眉間に皺を寄せ、険しい表情のまま、俺を見下ろしており……。
「……嫌いでいい。」
そう言った。
確かにこいつは、そう言って、俺は思わず目を見開き、信じられないと大地を見つめて…。
「……それでも、お前が傍にいてくれるなら…」
「……っな、…何言って…」
大地の言っていることが、また理解出来なかった。
思わず身体が硬直してしまって、そのまま大地の瞳をジッと怯えたように見つめれば、彼はそっと瞳を閉じ。
ーーそして……。
「……ーー憎みたければ憎めばいい。…嫌いならとことん嫌ってくれても構わない。……きっとそうしたなら、その感情が俺に向けられる間は、お前の心は他の誰でもない、俺の……俺だけのものになる。」
「……っ、な、何…」
どこか、決意のようなものが篭った瞳で俺を見下ろしながら、大地はそんな事を呟いた。
俺はもう本当に訳が分からなくて、当たり前に思考が回らない。
大地は何を考えてる?何を思ってこんな事をしてるんだ?
懸命にそんな事を頭の中で考えるけれど、熱に浮かされたように思考が霞みがかって、口からは荒い息しか出てこなかった。
大地がそんな俺の腕をベットに押し付け、固定した状態で押し倒し、俺はウッと顔を顰めながら、ろくな抵抗も出来ずに仰向けになってしまう。
「……お前をここに閉じ込める。」
「……ぇ…?」
「……仕事に行く事も、家から出る事も許さない。……お前は一生ここで…俺と共に生きるんだ。」
大地がそう言うと、俺は思わず絶句して、言葉にならない言葉を叫ぶしかなかった。
どういう事だ?そんな事をして大地にどんな利点があると言うんだ?
分からないけれど、とにかくその言葉を聞いた瞬間から、今まで以上に、身体が……、身体が熱くて…。
「……悪いようにはしない。…………だが、もう二度と…外には出さないし、俺以外と関わる事も許さない。」
「…な…に…言って……」
「……お前は俺のモノだ…!…俺だけのモノだ…。お前がこれから、俺以外と関わり、俺以外と親しくなるくらいなら……」
大地の声が震えている。
紅い瞳が尚更紅く輝いているように見えた。
一瞬言葉を飲んだ大地、意を決したように、俺を強く睨みつけて……。
「……お前をここに監禁してでも、それを阻止する。」
そう、強く決意するように宣言した。
まるでその言葉は、俺と離れたくないような…。
俺と共にずっと居たいとでも言うような…。
そんな…冗談にしては趣味が悪い……。
「………っ好きだ…昴。」
ーーえ?
「愛してる…お前を…」
ーーは?
「…な、何…っ…ぇ?…何言って…??」
俺は、そんな大地の言葉を飲み込めず、こんな状態だと言うのに顔を真っ赤にして、しどろもどろにそんな事を呟いていた。
大地が俺を好き?
大地が俺を愛してる??
聞き間違いじゃないかと、何度も今言われた言葉を頭の中で噛み砕くように反芻するけれど、だからと言って事態が急変する訳もなく、ただ目の前には、俺の事を真剣に…熱の篭った瞳で見つめる、大地の視線がそこにあって。
ぼふり…っ…と頭から湯気が出たような気がした。
まさか、大地がこんな行動に及んだのは…もしかして。
その可能性を考えては、いやいや、無駄な期待をするもんじゃないと、内気な性格の俺が頭の片隅でそんな事を叫ぶ。
でも大地の言葉はとにかく、ここ数日俺が心の中でひっそりと想い続けていたような……。
もし…そうなら良いのに…なんて……。
そんな事を思っていた。その言葉そのもので…。
「う…っ…く…っ…ふ…っ…ぅぅ…っ!」
無意識に、涙が出ていた。
ボロボロと、まるで満杯のグラスから零れ落ちるように、上から上から絶え間なく液体を供給され続けて、止まらなかった。
だってこんなの……
だってそんなの……
ズルいよ……そんな……
俺はずっと、今までそんなの…
知らなくて。……ただそうであったら良かったのにと、そんな叶わない夢に恋焦がれて……。
いつだって、待っていた……。
いつだって、不安だった……。
それをこんな…、こんな、ただでさえ訳が分からなくなってる時に…言ってくるなんて。
ズルい…。ズルいよ…お前…。
「そんな…っ…言葉…っ」
嗚咽が混じって、上手く言葉に出来ない。
こんな状態で言うなよって、声を荒らげたい。
でも、俺は今、本当にただ、嬉しくて……。
「……好きになってほしいとは思わない。」
ーー馬鹿!好きに決まってるだろ!
そんな俺の心の叫びは、絶え間なく溢れ出る涙と嗚咽に隠されて……。
「……ずっと、死ぬまで俺を、恨み続けてもいいから…
」
ーーそんな事するわけないだろ!俺をなんだと思ってるんだよ!
悲しそうに俯く大地に、ただただそう伝えてやりたくて…。
「……すまない」
そんな謝罪の言葉は、今更もう、必要ないけれど。
そうやって悔やんで悔やんで、俺に謝るくらいなら、今すぐに……。
「ふざ…けんな…っ」
「…っ」
「そんなの…っ」
涙ぐみながら、一生懸命身体を持ち上げた。
すぐ側で項垂れる、大地の大きな頬に手を当てて、そのままそこに顔を近付けた。
目を閉じて、縋り付くように唇を合わせて…
「…ちゃんと…、最後まで…っ」
相変わらず、ボロボロ涙ぐんで、全然カッコつけれなかったけれど…。
一瞬の口付け。そして俺は、大地をそうやって泣きながら睨み付けて…。
こんな風に無理やり手まで出して、俺をここに監禁するとまで言い放った癖に…。
まるでそれを全部、無かった事にして謝るくらいなら。
「責任…、とれよ…っ…」
ーー死が……。
ーー二人を分かつまで…。
「ひっ…っあ゛〜〜〜っ♥♥♥」
瞬間、大地は俺をベッドへと乱暴に押し倒すと、ずっと動かず拡張を続けていた。ペニスを動かし始めて、俺はその感覚に間延びした声を上げながら叫んだ。
どうやら、俺の言葉の意図を察したらしい。
察した上で、多分辛抱堪らなくなって、すぐさま行動を起こした。
その証拠に、彼は鼻息荒く、まるで血走ったかのような目で俺を見下ろしていて、でも、今はそんな大地の顔も愛おしくて……。
最初、こんな事をされた意味も分からず、ただ恐怖心と困惑だけが頭をめぐり、どうすることも出来なかったけど。
「大地…っ♥…大地っ…あっ…ぐぅっ♥」
「昴…!…好きだ昴…っ!」
愛しげに、彼の名前を呼んだ。
そこに愛があると分かれば、不思議と身体を襲う僅かな異物感も心地よく感じた。
好きだったんだお互い……。
愛し合ってたんだ…俺たち…。
すれ違いが、いくつもの傷を心に付けて、それはもう二度と、治ることは無いと思っていたけれど。
「ひゃあぁぁ…っらめっ…♥♥そこらめぇっ…♥♥」
「…ここが…っ…良いのか…っ!」
頭を激しく左右に振って、伸ばした腕を股の間に突き出した。
大地の少し脂肪を伴った、熊獣人特有の少し突き出した筋肉質な腹が何度も何度も掌に当たり、その度、中を突き上げる心地よい質量の感触を感じた。
俺の言葉を目敏く聞きつけ、弱点を見つけ出した大地は、そこを絶妙な腰付きで刺激する。
それが堪らなく、全身にイナズマが走るようで。
「あ゛…っ!あ゛〜〜〜っ♥♥」
何か、下半身の奥から徐々にかけ登ってきているような感覚がした。
得体の知れない感覚に、俺はただただ、母親を探す赤子のように手を伸ばしていて……。
大地がその手を掴んだ。
引き寄せて、大事に胸にしまい込むようギュッと握り締めた。
全身の力が抜けて、その隙間を埋めるように、真っ白な感覚が身体を支配していく。
くる…、
くる…、
クル…!!!
そう思ったのも束の間、俺の身体は激しく、弓なりにしなっていて……。
「〜〜〜〜っぁ゛!?♥♥」
声にならない声が、喉の奥から掠れ出た。
目をいっぱいに見開いて、しゃくりあげた視線はベットボードの方を向く。
大地の脇からはみ出した足先が、ピンとあらぬ方向を向いて突き出され、硬直した。
一泊遅れて全身の筋肉が弛緩と硬直を繰り返し、まな板の上の鯉のように、俺の身体は激しく痙攣し続けたのだった。
「グッ…昴…っ!?」
大地も大地で、そんな俺の腰を掴みながら、少し前屈みになって牙を噛み締めていた。
ギュッと眉間に皺を寄せ、目を強く瞑り、激しく痙攣して何度もペニスを締め付ける恐ろしい程の快楽に、確かな限界を身近に感じる。
キュッと…静かにその大きな大きな陰嚢が持ち上がって、中の精子が今にも種付けさせろと叫んでいるようだ。
実際、何度目かの痙攣で、大地の身体も強く硬直する。
「射精る…っ!?…〜っ!!」
そしてそのまま、堪えに堪えた精子が、もう我慢ならぬと弾けるように飛び出した。
全身の筋肉が弛緩し、余りの心地良さに腰が無意識に跳ねて、ガクン、ガクンと何度もそれを突き出しながら射精の心地良さに男らしく大地の顔から力が抜ける。
今俺は、種付けをしているのだと。子作りしているのだと。まるでそんな事を主張するように、その顔は当然、いつもの大地とはまた別の男らしい顔で……。
鼻穴が広がり、深いため息が自然と口から溢れ出していた。
ドクンドクンと何度も腸内でペニスがしゃくりあげ、その度に雌なら確実に孕んでいるだろう、ただでさえ濃いザーメンが、無遠慮に中へと注がれていく。
俺のペニスからもまた、最初の勢い程ではないにしろ、透明な液体がチョロチョロと自らの腹に向かって流れ込む。
ぽっこりと、中に出されたザーメンの量に比例して腹が膨れていた。
一体どれだけの精子が俺の中を泳いでいるのだろう。
そのまま、ありえない事だが、卵子でも見つけて着床してくれたなら更に良い。
俺はいつしか、ぐったりとその場に力無く項垂れて、そんな俺を大地がゆっくりと覆い隠していく。
「昴……」
愛おしげに俺の名を呼ぶ低い声。
そうやって呼ばれる度、何度俺はお前に惚れたんだろう。
何度俺はお前を好きになったんだろう。
叶わない想いだと決め付けて、だから、そんな風に名を呼ぶ声を、出来るだけ意識しないようにして。
「だい…ち…」
そっと、その頬に力無く触れながら、彼の名を呼んだ。
俺の手を取り、心地良さげに目を閉じながら、その掌に頬を寄せる。
俺の意識は朦朧で、今にも気を失ってしまいそうだ。
だからせめて…その前に…
「キス…し……んっ♥」
言って、条件反射のように、そのまま深いディープキスをされた。
大地のキスは、甘くて、蕩けるようで、凄く気持ちいい。
優しいその口付けに、見送られるよう、とうとう俺の意識もまたそこで途絶えてしまって。
[newpage]
目を覚ますと、当たり前だが、ベッドの上は大変な有様になってしまっていた。
全裸で眠り惚けていたのはまだ良い。しかし、後始末されていないベッドのシーツは、大地のザーメンだったり、俺の失禁した液体だったりで濡れそぼり、噎せ返るような臭いに包まれていて最悪な状況だった。
俺は裸の大地に抱き締められるよう眠っていて、勿論俺も裸だ。
大地の体毛が汗と何かの汁でカピカピに乾いて、今すぐにでも処理しないと、後で大変な思いをするのは目に見えていた。
「…大地」
ひとまず、昨夜の事は置いておいて、この状況を一刻も早く改善しよう。
そう思って何度も大地の名を呼び、揺すってやれば、コイツは薄らと目を開け、そして全裸で傍に寝そべる俺と、辺りに充満する臭いを嗅げば、何かを思い出したかのようにガバリと起き上がり…。
「昴…っ!?大丈夫か!?」
俺の方へと心配するように振り返って、そのまま辺りの惨状を確認し、後悔したように眉間へと皺を寄せた。
片手で両のこめかみを押さえるように、目元を掌で隠し、項垂れて深いため息を吐く。
どうやら、昨夜のように突然襲いかかってくることも、何かに取り憑かれたような様子のおかしさも無いようだ。
ひとまず安心して、俺はそんな大地の背中へと声を掛けた。
「大地…とりあえず…風呂入らないか?…シーツも洗濯しなきゃ…大変だ…。俺、腹も何か調子悪いし…」
多分、大地のザーメンがまだ腸内に異物として残っているのだろう。大地は、そんな風につぶやく俺の方を振り返ると、足先から頭のてっぺんまでを驚いたように見つめて、顔を真っ赤にしていた。
僅かに見える股間の逸物が、明らかに朝立ちの範疇を越えてビキビキに何度もしゃくりあげている。
俺も何だか恥ずかしくなって「さ、先に行くから…」とそそくさその場から立ち去った。
俺だって、大地の裸を見るのは恥ずかしいし、言ってしまえば興奮だってする。
自らの股間の逸物が元気になりきってしまう前に、俺はトイレに篭って、まずは中に残留した大地の精子を、出来るだけ処理することにした。
ある程度スッキリした所で風呂場に向かうと、丁度大地が浴室の扉を開けて中に入る所だった。
俺の気配に気付いた大地が肩越しに振り返り、また顔を真っ赤にして慌てて前を向く。
こんな大地は初めて見た。耳まで真っ赤になってるのがその後ろ姿からでも理解出来る。
そして改めて見ると、とても大きな身体だった。
普段は服を着てる分、もう少し小さくなると思っていた筋肉は、むしろそれを脱いだあとの方が恐ろしく巨大に見えて、浴室の扉がすっぽり隠れてしまうくらいの幅がある。
毛皮の上からでもその鍛え上げられた無骨な筋肉が分かって凄まじい。筋の切れ目のようなものが全身に走り、硬そうな尻にはエクボが出来ていた。ぴょこんとついてる短い尻尾も、服を着てる時と着てない時では、こんなにも違うのかと思うほど、ギャップがあって可愛らしく見えた。
大地がシャワーの蛇口を捻ると同時に、俺も慌てて中に入った。
いつもなら二人一緒に風呂へ入る事なんて無い。何だか自然とこうするべきだと思ったけれど、昨夜の行為が突然、二人の距離を縮めたかと言えば、多分そうであって。
思い出せば、また身体が熱くなる。
俺は昨夜、大地と身体を合わせ…そして…。
(こ、告白…されたんだよな…?)
間違いないはずだ。
俺は確かに大地に告白されて、それを受け入れて…。
朦朧とした意識が見せた夢だったと言われれば、そんな気もしてしまうし。
でも、あの寝室の惨状を見れば、確実に昨夜SEXしたのは間違いないし。
不安になって、シャワーを浴びる大地を見上げれば、彼はそのふとましい両腕を壁に付いて、まるで赤い顔を隠すように温水を顔面に受けながら、ギュッと恥ずかしそうに目をつぶっていた。
耳が丸まって、少し伏せてる。
いつもは俺の事を逆にからかう程、余裕綽々としてる癖に、いざ裸で、しかもSEXまでし終わった後となれば、彼も少しは恥ずかしいと思ってしまうものなのだろうか。
そっとその腰に手を伸ばして、名前を呼んでみた。
「大地…?」
「…っ!?」
「わ…!」
瞬間、大地の身体がビクンと大きく跳ねて、俺も思わず驚いて手を離した。
大地は目を見開き、少し鼻息荒く、俺の方を見下ろしていて…。
隠しきれない逸物が、未だにビクビクと、彼のふとましい腰と太ももの陰から見えていた。
嗚呼…結局収める事が出来なかったんだ。そんな事を思いながら、俺は言葉を探すように視線をさ迷わせる。
「えと…き、昨日の事だけど…っ」
結局、話題が見つからなくて、昨夜の事を口にした。
というより、それ以外今はもう考える事が出来なくて、他のことなんか全く思い浮かばなかったんだ。
すると彼は、ハッとしたようにピクリと瞼を痙攣させて、焦ったように俺に向き直り肩をがっしりと掴んでくる。
「……すまなかった…っ!!」
「……え?」
「あ、あんな事をして…その…っ…こ、怖がらせてしまって…っ!……お、俺は最低なクズ野郎だ!ずっと…ずっとああならないように…注意してきたんだが…っ…!」
大地にしてはとても珍しく、いつもの無表情を、今にも泣きそうな顔で歪めて、そんな事を言った。
正直、確かに動揺したし、恐ろしかったけれど、結果的に多分、あんな風にでもならないと、俺、俺達ははずっと、一生互いの気持ちになんか気付けなかったわけで。
それよりも、後の言葉の方が俺とって興味深い言葉となった。
ずっと、ああならないように注意してきた??
つまり、大地は俺の事、かなり前から犯したいと思ってたという事だろうか…?
それって一体いつからだ??だって、俺たち殆ど同棲したての時から一緒に寝たり、無防備な姿を見せてたわけで。
それってつまり、大地は一体どれだけ我慢してたのだろうかと、素直に驚く。
そもそも、そんなに我慢するくらいなら、いっその事俺に告白だってしてくれれば良かったのに。
なんて思って、俺が大地にそんな事をとやかく言えないのはすぐに理解出来た。
俺だって、大地程ではないにしろ、長い間片思いし続けてる癖に、結局大地に告白することもなく、ただありえない事なんだと最初から諦めていて。
「……いや…っ…俺も…その……。……ゴメン。お前の気持ちに全然気付かなくて…一人で勝手に…ありえない事だって、そう決め付けてて…。」
大地は俺の言葉に一瞬だけ頭を下げると、すぐに顔を上げて首を横に振る。
「いや…何もかも…俺が悪い。…お前に負担を掛けまいと、何も言わないまま、ただ、……一緒にいるだけで幸せだと言い訳してしてたんだ…」
「……そんな」
「……お前に告白する事で、その気持ちが暴走するのを恐れた……。昨夜のように、俺が俺を制御出来なくなると分かってたんだ。…だから…お前に嫌われたくなくて…今の生活が……幸せすぎて…。」
確かに、俺もそれは感じていた。
恋人とか、勿論夫婦って訳ではないけれど……。
一緒に暮らして、仕事して、料理を作ったり、映画を見たり……。
二人で旅行を計画して、ただ一緒にいるだけでも、何だか凄く幸せで……。
この関係を壊したくないと、ずっと思っていた。
そう考える度に、自分の気持ちが受け入れられなかったらと、そんなリスクを避け続けて……。
結果的に、ほんの少し外野から突つかれただけで、すぐダメになった。
自己嫌悪と、好きと嫌いの混じった訳の分からない感情が俺の心を内側から突き破ってきて。
全部全部、大地のせいだと八つ当たりしてた。
大地が曖昧な行動を取るから。
大地が信用出来ないことをするから。
そんな風に大地を心の中で責め立てて、まるで俺は悪くないんだと、俺は被害者なんだと、ただ耳も目も暗闇の影で覆い隠していた。
「結局…昴に手を出して、その挙句、卑怯な告白をした。……どうせ手を出してしまったのなら…せめてお前に嫌われてもいいから、昴の気持ちを独占したかった。……お前が俺のものにならないなら…いっその事…」
「……監禁…する…?」
俺の言葉に、大地は一瞬驚いた後、少し自嘲気味に小さく笑って、微かに頷いた。
「………そうだ。……そうやって…あの部屋に閉じ込めてしまえば、誰もお前を攫わない。誰もお前を気にしない。……それくらい俺は……」
ゆっくりと、顔を上げた大地が、どこか困ったように眉をひそめて……。
けれど真剣に、俺の目を見つめながら……。
「お前が好きなんだ……昴。」
「……っ」
「お前からもたらされる、負の感情さえ、独占してしまいたいほど…。」
…嫌われてもいい。
それでも自分だけを想ってくれるなら。
…恨まれてもいい。
それでも自分だけを見てくれるなら。
そう考えると、途端に気持ちが軽くなっていた。
あれ程昴には嫌われたくないと思っていたのに、あれ程昴には愛されたいと思っていたのに…。
もしその負の感情が、昴の心にずっと残り続けるというのであれば…。
それは愛と何が違うというのだろうか…?
それは愛と何が変わるというのだろうか…?
どちらも表裏一体の感情そのもので……。
その方向性が、陰か陽…ただそれだけの……
小さな違い……。
そこでやっと俺は、風夏の気持ちが理解できた気がした。
結局のところ、俺もアイツと全く同じ気持ちで…
とにかく好きな相手に振り向いてほしくて…
どんな感情でも、全部独占してしまいたくて…
アイツを嫌っている間、俺の中には確かにずっと、風夏の影がちらついていた。
忘れたと思っても、ふとした瞬間に現れたその影が、俺を背後から包み込んだ。
もし俺が、昴に心から嫌われたなら…
もし俺が、昴の心の影として存在できたなら…
そんな風に、昴の中に、居続けられるだろうか。
それはきっと……
とても幸せな事なんだろうなと…
そう考えていたんだ……
「……実は…俺も…」
ずっとずっと…好きだった。
好きで好きでたまらなかった。
心の中でこっそり、大地の事を旦那なんて、そんな風に呼んでしまうほど。
大好きで大好きで、ずっと愛おしくて……。
「俺も……お前が…好き…」
好き…好き…大好き…
たまに見せる笑顔も、少し俺をからかったようにする仕草も…。
「…好きだよ」
全部全部……。
「好きだ…昴」
ずっとずっと……
「「好きだ…」」
声が重なって、見つめあった。
なんだかそれがおかしくて、俺たちは吹き出したようにクスクス笑ってしまって。
あんまりにもおかしいから、涙が出た。
その涙はそのまま、シャワーの水に流されて、互いに気付かぬまま、消えていってしまったけれど。
ひとしきり笑い終わると、途端にまた、なんだか少し恥ずかしくなる。
俺達は今全裸で、二人揃ってシャワーを浴び、そして互いに気持ちはもう分かっている。
すると、むくむく…大地のペニスが、またもう一度、ゆっくり鎌首をもたげるのが見えてしまって。
「…うっ…」
「大地…」
名前を呼べば、更に速度は上がってく。
恥ずかしそうに顔を真っ赤にした大地を見上げれば、俺はゆっくりとそのふとましい腕に手先を伸ばして。
「俺も…丁度興奮してきた…」
言って、背伸びをし、キスをせがんだ。
少しの沈黙のあと、その場に腰を下ろした、大地と俺は、優しいキスをして……。
[newpage]
「最っ低だな…!そいつら!!!!」
昴が珍しくそんな風に声を荒らげて、自分の事でもないのに顔を真っ赤にして怒っているのが何だかおかしかった。
勿論嬉しいという気持ちもあるのだけれど、俺にとってその記憶は、もうずっと、過去にあるもので。
他でもない、昴に出会った事で、全部精算する事が出来た記憶だ。
だから、今更俺の代わりに怒りを顕にした昴を見ると、何だかとても嬉しい反面、俺の頭は逆に冷えていくような気がする。
「あの風夏って奴も!!結局全部俺に嫌がらせしてただけじゃん!!!根暗!!陰湿!!!」
風夏に関しては俺も驚いた。
何せ、俺の知らない所で既に昴へと色々ちょっかいを出していて、結果的にそれは上手くいかなかったようだけれど、少し違えばもっと悲惨な結果になっていただろう。それくらいには、昴の心を掻き乱していたようで……。
風呂場での事後、俺達は互いにシャツとパンツだけの姿でソファーに座り、俺は、俺の中で今まで隠してきた事。考えていた想い、話さなくていいと決め込んだ事を洗いざらい話せとせがまれて、結局全部昴に話す事にした。
正直、またほんの少し、昴に嫌な感情を与えるかもしれない。そう思って。
でも、それじゃあ今までと変わらない。昴を信用していないような、不誠実な態度にも思えて、話した。
結果的に俺が危惧しているような状況にはならなかったけれど、昴は自分の事のように怒ってくれて、それがとても嬉しい。
風夏との関係と、過去のトラウマ。
両親との関係。帰り際に話した内容。
今まで昴をどれくらい想っていたか。
どれだけ昴を好きだったか。
堪えていた自分の中にある黒い欲望の事や、昴を好きになった時期。好きな色、料理、趣味…。
何でも話した。
何でも共有した。
そうすると、今までどれだけ、俺が昴へと真摯に向き合っていなかったのか。それが露呈するような感じがして……。
欲望を隠す事ばかりに気を取られて、俺はやっぱり、昴に好きという気持ちを表現しきれていなかったようだ。
それなのに俺は、何で俺の気持ち分かってくれないんだと、昴に無理難題を押し付けて、駄々を捏ねてただけだったんだ。
そりゃ…すれ違っても仕方ないよな…。
ふと、自嘲気味に視線を伏せると、俺を心配そうに見上げた昴が突然、立ち上がって俺の顔をギュッと抱き締めてきた。
大き過ぎてスカートのようになっている俺のシャツが、ふわりと舞い上がり、その様子にドキリとする。
俺は突然の出来事に目を見開いて、けれど、そんな風によしよしと…俺の頭を撫でる昴に、いつしかそっと、縋り付くよう頬を擦り寄せて……。
「今までよく頑張ったな…」
「………」
「……俺も…無理させて…ごめんな。」
今までの自分の行動を思うと、俺は随分、大地に酷い事をしてきたのだと、そう思って、謝った。
人間不信だった大地に、無理矢理笑えと迫ったり。
嫌がってるの、本当は分かってて、からかうつもりで抱き着いていた。
辛い過去がある筈の田舎に帰れって言ったり。
心があるとは思えないような所業を繰り返した風夏と、結婚して子供作って…なんて。
知らなかったとは言え、大地が怒ってもそれは、仕方の無いことだ。
そう言うと大地は「謝る必要はない」と俺の身体を持ち上げて、正面に戻し、まっすぐ俺を見つめてくれる。
「…あの日…あの大学の講義の時間…」
そう、まさにあの時…あの場所で……。
「昴が俺に関わってくれなかったら、俺の一生はそれこそ、暗く、深い闇の中に囚われていた筈だった。」
親に結婚を急かされて、無理な縁談を組まされて。
それがまだ俺の知らない赤の他人なら良いけれど、あの親の事だ、きっと風夏が適任だと、俺の相手に選んだかもしれない。
「そうなっていたら、どんなに惨めな人生を送る事になってたんだろうか。……想像するだけで、身の毛もよだつ。」
俺を、ありもしない噂で責め立て、孤立させた故郷。
そこに戻って、義務の為だけに家業を継いで…。
ずっとずっと、過去のトラウマに苦しむしかないのに、俺を助け、理解してくれる者は…誰もいない。
「昴が居たから……」
俺はそんな過去を、価値のないものだと捨て去る事が出来て…
「昴を好きになれたから…」
俺はこれから先の人生、ずっとずっと心豊かに、幸せな日々を送ることが出来る。
「……大地…」
子供が出来なくたって構わない。
周りが何を噂したって構わない。
俺達はもう、何も迷わないから…。
ーー二人、笑って額を擦りあった。
いつ…いかなる時も…
二人…傍に寄り添って……
死が…二人を分かつまで…
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