3

  最初に戻ってきた感覚は、冷たさだった。

  指先が、じんと痺れている。

  何か硬いものの上に寝かされていると分かるまで、少し時間がかかった。

  次に、匂い。

  土と、煙と、

  ――獣。

  (……どこだ、ここは)

  エリアスは、息を吸い損ねた。

  肺に冷たい空気が入り、

  反射的に咳き込もうとして、身体が動かないことに気づく。

  重い。

  身体が、鉛のように重い。

  「……っ」

  喉から、かすれた音が漏れた。

  その瞬間、低い息遣いが、すぐ近くで聞こえた。

  近すぎる。

  エリアスは、恐る恐る目を開けた。

  視界の端を、黒いものが塞いでいる。

  密集した、黒い毛。

  視線を上げる。

  そこにいたのは、

  洞穴の半分を占めるほどの大熊だった。

  思考が、止まった。

  (く、ま…?)

  王宮の絵巻で見た熊とは違う。

  誇張も装飾もない、現実の質量が、そこにある。

  前脚は太く、爪は石を抉れるほど長い。

  息を吐くたび、鼻先から白い蒸気が立つ。

  目が、合った。

  その瞬間、心臓が跳ね上がった。

  逃げなければならない。

  そう思った。だが、身体が動かない。

  腕に力を入れても、指先がわずかに震えるだけだ。

  脚も、声も、何も言うことを聞かない。

  ――死

  その考えは、不思議なほど静かに浮かんだ。

  叫ぶこともできない。涙も出ない。

  ただ、ここで終わると理解しただけだった。

  大熊が、一歩、前に出た。

  その重さで、地面がわずかに鳴る。

  エリアスの喉が鳴った。

  ――

  ガレンは、その顔を見て、はっきり分かった。

  ――これは、逃げようとしている顔じゃない。

  ――死ぬと思っている顔だ。

  まずい。

  このままでは、

  この人間は恐怖で潰れる。

  獣―とりわけ大熊の姿は、守るには向いているが、安心させるには致命的だった。

  ガレンは、すぐに後ずさる。

  だが、それでも人間の呼吸は浅いままだ。

  「……」

  声を出そうとして、やめる。

  この姿では、意味がない。唸り声しか出せないからだ。

  ガレンは、力を引いた。

  身体の奥に沈めていた重さを、ゆっくりと手放す。

  骨が軋み、視界が下がり、毛が引いていく感覚。

  何度も経験した変化だが、このときだけは、急がなければならなかった。

  ――

  エリアスは、目の前で起きていることを理解できなかった。

  熊が、揺らいだ。

  輪郭が崩れ、黒い影が、人の形に引き伸ばされていく。

  逃げたい。

  だが、やはり身体は動かない。

  (きっと、幻を見ている。最期の、)

  そう思った次の瞬間。

  洞穴に立っていたのは、

  人間だった。

  ――

  背が高い。

  肩幅が広く、身体の線に、獣の名残のような重さが残っている。

  髪は黒く、無造作で、火の明かりに照らされた顔は、鋭いが疲れていた。

  衣は簡素で、狩りに出る者のものだと分かる。

  エリアスは、瞬きを忘れた。

  「……ひと……?」

  声は、ほとんど息だった。

  男は、ゆっくりと両手を上げた。

  武器を持っていないことを示す仕草。

  距離を詰めない。

  逃げ道を塞がない。

  「動くな…と言っても、動けないか?」

  低い声だった。

  怒鳴り声ではない。

  「まだ、力が戻ってない」

  意味を理解するより先に、熊だったという事実が、遅れて追いつく。

  「……獣……人……?」

  エリアスの喉が、震えた。

  王国で聞かされてきた言葉が、頭をよぎる。

  危険。

  獰猛。

  理性がない。

  だが、目の前の男は、自分を食べていない。

  「……ここは……?」

  問いは、弱かった。

  「洞穴だ」

  それだけ答える。

  それ以上は、言わない。

  エリアスは、改めて周囲を見た。

  火。

  水袋。

  毛皮。

  生き延びるためのものが、揃っている。

  ――生かされている。

  その事実が、遅れて、胸に落ちてきた。

  恐怖は、消えない。だが、形が変わる。

  「……助けたのか、私を」

  半分、独り言のように言う。

  男は、少し考えてから答えた。

  「放っておけば、死んでた」

  それだけだった。

  外では、風が唸っている。

  長い冬が、続いている。

  二人は、同じ火を挟んで向き合っていた。

  互いに、何者か分からないまま。

  だが、この瞬間、エリアスは初めて理解する。

  自分は、王としてではなく、生き物として扱われているのだと。