最初に戻ってきた感覚は、冷たさだった。
指先が、じんと痺れている。
何か硬いものの上に寝かされていると分かるまで、少し時間がかかった。
次に、匂い。
土と、煙と、
――獣。
(……どこだ、ここは)
エリアスは、息を吸い損ねた。
肺に冷たい空気が入り、
反射的に咳き込もうとして、身体が動かないことに気づく。
重い。
身体が、鉛のように重い。
「……っ」
喉から、かすれた音が漏れた。
その瞬間、低い息遣いが、すぐ近くで聞こえた。
近すぎる。
エリアスは、恐る恐る目を開けた。
視界の端を、黒いものが塞いでいる。
密集した、黒い毛。
視線を上げる。
そこにいたのは、
洞穴の半分を占めるほどの大熊だった。
思考が、止まった。
(く、ま…?)
王宮の絵巻で見た熊とは違う。
誇張も装飾もない、現実の質量が、そこにある。
前脚は太く、爪は石を抉れるほど長い。
息を吐くたび、鼻先から白い蒸気が立つ。
目が、合った。
その瞬間、心臓が跳ね上がった。
逃げなければならない。
そう思った。だが、身体が動かない。
腕に力を入れても、指先がわずかに震えるだけだ。
脚も、声も、何も言うことを聞かない。
――死
その考えは、不思議なほど静かに浮かんだ。
叫ぶこともできない。涙も出ない。
ただ、ここで終わると理解しただけだった。
大熊が、一歩、前に出た。
その重さで、地面がわずかに鳴る。
エリアスの喉が鳴った。
――
ガレンは、その顔を見て、はっきり分かった。
――これは、逃げようとしている顔じゃない。
――死ぬと思っている顔だ。
まずい。
このままでは、
この人間は恐怖で潰れる。
獣―とりわけ大熊の姿は、守るには向いているが、安心させるには致命的だった。
ガレンは、すぐに後ずさる。
だが、それでも人間の呼吸は浅いままだ。
「……」
声を出そうとして、やめる。
この姿では、意味がない。唸り声しか出せないからだ。
ガレンは、力を引いた。
身体の奥に沈めていた重さを、ゆっくりと手放す。
骨が軋み、視界が下がり、毛が引いていく感覚。
何度も経験した変化だが、このときだけは、急がなければならなかった。
――
エリアスは、目の前で起きていることを理解できなかった。
熊が、揺らいだ。
輪郭が崩れ、黒い影が、人の形に引き伸ばされていく。
逃げたい。
だが、やはり身体は動かない。
(きっと、幻を見ている。最期の、)
そう思った次の瞬間。
洞穴に立っていたのは、
人間だった。
――
背が高い。
肩幅が広く、身体の線に、獣の名残のような重さが残っている。
髪は黒く、無造作で、火の明かりに照らされた顔は、鋭いが疲れていた。
衣は簡素で、狩りに出る者のものだと分かる。
エリアスは、瞬きを忘れた。
「……ひと……?」
声は、ほとんど息だった。
男は、ゆっくりと両手を上げた。
武器を持っていないことを示す仕草。
距離を詰めない。
逃げ道を塞がない。
「動くな…と言っても、動けないか?」
低い声だった。
怒鳴り声ではない。
「まだ、力が戻ってない」
意味を理解するより先に、熊だったという事実が、遅れて追いつく。
「……獣……人……?」
エリアスの喉が、震えた。
王国で聞かされてきた言葉が、頭をよぎる。
危険。
獰猛。
理性がない。
だが、目の前の男は、自分を食べていない。
「……ここは……?」
問いは、弱かった。
「洞穴だ」
それだけ答える。
それ以上は、言わない。
エリアスは、改めて周囲を見た。
火。
水袋。
毛皮。
生き延びるためのものが、揃っている。
――生かされている。
その事実が、遅れて、胸に落ちてきた。
恐怖は、消えない。だが、形が変わる。
「……助けたのか、私を」
半分、独り言のように言う。
男は、少し考えてから答えた。
「放っておけば、死んでた」
それだけだった。
外では、風が唸っている。
長い冬が、続いている。
二人は、同じ火を挟んで向き合っていた。
互いに、何者か分からないまま。
だが、この瞬間、エリアスは初めて理解する。
自分は、王としてではなく、生き物として扱われているのだと。