火は、静かに燃えていた。
洞穴の中は外よりは幾分ましだが、それでも寒い。
焚き木がはぜる音だけが、二人の間を満たしている。
エリアスは、毛皮に包まれたまま、じっと男を見ていた。
熊だったもの。
今は、人の姿をしている獣人。
近くで見ると、やはり普通の人間とは違う。
身体が大きく、骨格が厚い。
無駄な動きがなく、立ち姿に緊張がない。
——逃げ場を、最初から計算している。
そんな印象だった。
男の視線が、ふとこちらを向く。
「名は」
短い問いだった。
エリアスの喉が鳴る。
名乗る、という行為が、これほど重く感じたことはない。
王としての名。
追われる理由そのもの。
ここで言えば守られてきた過去ごと、引きずり出される。
「……エリ」
咄嗟に、短く切った。
自分でも、下手な嘘だと思った。
「旅の……途中だ」
言葉が、続かない。
生きる術を知らない舌が、うまく回らない。
男――ガレンは、表情を変えなかった。
ただ、少しだけ、視線が下がる。
エリアスの首元。
手首。
吐く息。
――
ガレンは、最初から分かっていた。
この人間が、何かを隠していることを。
鼻が、利く。
恐怖の匂い。
寒さの匂い。
死にかけの匂い。
それとは別に、守られて育った匂いが、はっきりと残っている。
これは身分の匂いだ。
狩人でも、商人でもない。
逃亡者にしては、恐怖が整いすぎている。
そして何より、嘘をついたときの匂いが、薄い。
言い慣れていない。
——初めて、嘘をついた人間だ。
ガレンは、それ以上追及しなかった。
嘘かどうかは、重要ではない。
生き延びられるかどうかのほうが、よほど大事だ。
「……エリ、か」
確認するように繰り返す。
否定も肯定もしない。
名を呼ぶこと自体が、
相手を囲いに入れる行為だからだ。
――
エリアスは、胸の奥がざわつくのを感じた。
疑われていない。
だが、信じられてもいない。
それが、なぜか分かった。
この獣人は、自分を値踏みしているのではない。
ただ生き物として、見ている。
「……あなたは」
今度は、エリアスが問う。
「……ガレン」
一拍置いて、答えが返る。
短く、重い名。
「獣人……なのか」
確認のように言うと、ガレンは一度だけ、頷いた。
「見ただろう、熊の血だ」
それ以上、説明しない。
エリアスは、無意識に喉を撫でた。
王国で教えられてきた獣人像と、
目の前の男が、まったく一致しない。
怖い。
だが、怖がり方が分からない。
殺される恐怖ではない。
いや、そもそも怖いのか。
理解できないものと向き合っている不安だ。
「……助けてくれたことは」
礼を言おうとして、言葉に詰まる。
どう言えばいいのか、分からない。
ガレンは、それを待たなかった。
「礼はいらない」
淡々とした声。
「ここで死なれると、後味が悪い」
エリアスは、思わず目を瞬いた。
それは、
王として聞いたことのない理由だった。
慈悲でも、義務でも、忠誠でもない。
ただの、事実。
――
ガレンは、火に薪を足す。
その動きは慣れていて、余計な音を立てない。
「しばらく、動けない」
エリアスの身体を一瞥して言う。
「……追い出さないのか」
エリアスは思わず、訊ねる。
ガレンは、少しだけ考えた。
形のいい眉をひそめ、んーと首をひねる。
「…出せば、死ぬ」
それだけだ。
エリアスは、返す言葉を失った。
(考えてその返事とは、)
王国では、生かす理由には、必ず理屈が必要だった。
ここでは、死ぬか、生きるか。
それだけで決まる。
ガレンは、エリアスから視線を外し、洞穴の入口へ向かう。
外の様子を確かめるためだ。
背中を見ながら、エリアスは、初めて思う。
——この人は、私の嘘を知っている。
それでも、問わない。
それが、この獣人のやり方なのだと、
まだ言葉にならないまま理解した。
火は、静かに燃え続けていた。