5

  目を覚ましてから、しばらくして。

  エリアスは、寒さより先に渇きを自覚した。

  喉がひりつく。

  息を吸うたび、内側が乾いた音を立てる気がする。

  「……水……」

  声は、思ったより小さかった。

  それでも、すぐに影が動く。

  ガレンは洞穴の奥から水袋を持ってきた。

  口を付けさせる前に、鼻先を近づけ、短く息を吸う。

  水の匂い。

  皮袋の匂い。

  そして、人間の弱い呼吸。

  問題はないと判断したのか、ようやく口元に寄せる。

  「……少しずつだ」

  水袋を傾ける角度は、妙に慎重だった。

  一気に飲ませない。喉が驚くからだ。

  エリアスは言われた通りに、ゆっくり喉を鳴らす。

  冷たい水が、少しずつ舌に落ちてくる。

  「……生き返る……」

  無意識に零れた言葉に、ガレンの手が一瞬だけ止まった。

  「死にかけは、だいたいそう言う」

  淡々とした返事。

  だが、水を引く角度は、さらに慎重になる。

  次は食事だった。

  干し肉を、火で軽く炙っただけのもの。

  香りが立ち、脂がわずかに滲む。

  エリアスはそれを見て、戸惑った。

  「……これを……?」

  「噛めるか」

  聞かれたのは、それだけ。

  恐る恐る口に入れる。

  硬い。だが、歯が立つ。

  噛んでいるうちに、獣臭さの奥から脂の甘みが広がった。

  「……思ったより……」

  言葉を探し、

  「……食べられる」

  ガレンは短く頷く。

  「“食える”なら問題ない」

  腹に入るにつれ、身体の奥で、じわじわと熱が戻ってくるのが分かった。

  問題は、そのあとだった。

  ガレンは、エリアスの様子を一瞥すると、何の前触れもなく距離を詰めた。

  近い。

  声を出す前に、顔が寄せられる。

  鼻先が、頬に触れるほど。

  エリアスは完全に固まった。

  ガレンは匂いを嗅いでいる。

  首元。髪。吐く息。

  生きている匂い。

  冷えと恐怖が混じった、弱い匂い。

  そのまま、舌が頬に触れた。

  「……っ!?」

  濡れた感触。

  思った以上に、はっきりとした温度。

  「……な、なにを……!」

  ガレンは少しだけ首を傾げる。

  「塩」

  短く言う。

  「汗の跡だ。放っておくと、冷える」

  説明は、それで終わりだった。

  一度だけで終わらない。

  頬の端、顎の下、首筋へと、短く、確かめるように舌が触れる。

  拭う、というより、整える動き。

  エリアスの耳まで、じわりと熱が上る。

  「そ、そういう……っ」

  抗議しようとして、言葉が続かない。

  触れられているのは、顔と首だけだ。

  だが、距離が近すぎる。

  息がかかる。

  視界が、ガレンで埋まる。

  「嫌なら言え」

  低い声。

  「……い、いや……」

  即答できなかったことに、エリアス自身が一番驚いた。

  ガレンは、それ以上気にしない。

  毛皮をかけ直し、ずれた端を整える。

  だが、その手は離れない。

  指先が、エリアスの手に触れる。

  そのまま包み、ゆっくり擦る。

  強くない。

  逃げられない程度の圧。

  「冷えてる」

  「だ、大丈夫だ……」

  言い切る前に、手首を取られる。

  親指が脈を探し、押さえる。

  少し間を置いて、もう一度。

  「……弱い」

  評価だった。

  次に、首元。

  毛皮をずらし、鎖骨の下に指が滑る。

  今度は舐めない。

  指でなぞり、温度を確かめる。

  「……っ、な……」

  抗議にならない声。

  ガレンは気にしない。

  首に顔を寄せ、深く息を吸う。

  エリアスの身体が、びくりと跳ねる。

  近い。

  近すぎる。

  「……冷えてるな」

  そう言って、再び舌が触れた。

  今度は、首筋。

  一度。

  二度。

  短く、確かめるように。

  「……ひ……!」

  思わず肩がすくむ。

  濡れた感触が残り、冷たい空気の中で、そこだけが熱を持つ。

  「水分と塩分」

  淡々と。

  「人間は、すぐ乾く」

  納得は、求められていない。

  次は肩。

  衣の上から掌で押さえ、ゆっくりと動かす。

  揉む、というより、毛並みを整えるような手つき。

  「……痛くないか」

  「……だい、じょうぶ……」

  声が震える。

  背に回った手が、肩甲骨の間を押す。

  親指が、骨の際を辿る。

  「……っ、ぁ……」

  小さな声。

  動きが止まる。

  「……痛いか」

  「……ちが……」

  少しだけ力が抜かれる。

  「……ここ、硬い」

  診断。

  そのまま、額が肩に触れる。

  体重はかからない。だが、距離は消える。

  呼吸が、近い。

  吐く息が、首にかかる。

  「……温める」

  短く言って、そのまま動かない。

  じっと、そこにいる。

  エリアスは何もできなかった。

  逃げる力も、拒む理由も、見つからない。

  ただ、身体の奥に、ゆっくりと熱が戻ってくる。

  しばらくして、ガレンは顔を上げる。

  額に触れ、鼻先で軽く、二度。

  匂いを確認する仕草。

  「……少し、マシだ」

  満足したように言い、何事もなかったように毛皮をかけ直す。

  「寝ろ」

  命令ではない。

  判断だった。

  エリアスは、自分の心臓が早く打っていることに、今さら気づく。

  触れられた場所が、まだ熱を持っている。

  怖い。

  近い。

  理解できない。

  それでも。

  ——ガレンは、私を“生かす”気だ。

  そう思った瞬間、意識がふっと落ちた。

  洞穴の中で、火は静かに燃え続けている。

  長い冬の夜は、まだ始まったばかりだった。