次にエリアスが目を覚ましたとき、最初に感じたのは、重さだった。
身体の上ではない。
背と腹のあいだ、逃げ場のない位置に確かな圧がある。
「……?」
息を吸うと、すぐ耳元で低い呼吸が重なった。
——近い。
一瞬、何が起きているのか分からず、身体が強張る。
背中に、硬い胸。
腰に、回された腕。
抱きすくめられている。
(……な、に……)
声を出そうとして、喉で止まる。
動こうとして、動けない。
締めつけられているわけではない。
だが、逃がすつもりもない抱き方だ。
「……起きたか」
低い声が、すぐ後ろから落ちた。
「……ガレン……?」
確かめるように呼ぶと、短く返事がある。
「ああ」
それだけ。
腕は、ほどかれない。
記憶が、遅れて追いつく。
水。食事。
触れられたこと。
“寝ろ”と言われたこと。
(……いつから……)
問いかけようとして、やめる。
本来なら、即座に抗議していた。
距離を詰めるな、と。
離せ、と。
——無礼だ。
そう思う理性は、まだ残っている。
だが。
助けられている。
守られている。
この腕がなければ、たぶん今も凍えている。
それに。
嘘をついている。
名も、身分も、すべて隠したまま、
“弱い人間”として、ここにいる。
「……離れ……」
言いかけた声は、情けないほど弱かった。
ガレンは、それを拒絶とも抗議とも取らなかったらしい。
ただ、腕の位置をわずかに調整する。
より安定する位置へ抱き直し、後ろからエリアスの首筋に唇を落とした。
「……弱いエリ」
吐息がかかる、静かな声。
その呼び方に、胸が跳ねる。
「なっ……」
反射的に言い返しかけて、言葉が途切れる。
弱い。
そう判断されている。
——否定できない。
「……本当に、弱い」
続いた声は、呆れではなかった。
庇う前提の、落ち着いた響き。
エリアスの指先が、毛皮をきゅっと掴む。
無礼だ。
分かっている。
それでも、この腕の中から抜け出す理由が見つからない。
ガレンは、しばらくそうしてから、ゆっくりと身体を離した。
完全に距離を取るわけではなく、すぐそばに膝をつく。
「……見回りに行く」
ようやく、そう告げる。
エリアスは、思わず問い返していた。
「……ひとりで……?」
ガレンは、当然だというように頷く。
「あぁ、いつものことだ。すぐ戻る」
立ち上がりかけて、ふと足を止める。
「……動くなよ」
振り返らずに言う。
「一歩も、だ」
選択肢は、与えない。
「ここは俺の巣穴。弱いものは、守るだけだ」
低く、揺るがない声。
「俺が戻るまで、ここにいろ」
言い含めるように言って、今度こそ背を向ける。
エリアスは、返事をするまで一瞬、間があった。
——無礼だ。
——勝手だ。
それでも。
「……わかった……」
声は小さく、震えていた。
ガレンはそれで十分だと判断したらしい。
洞穴の入口で一度だけ振り返る。
「弱いエリ」
柔らかく、呼ぶ。
微笑んでいるように見えたが暗がりでよく見えなかった。
「待ってろよ、」
その背が、闇に溶けていく。
洞穴に残されたエリアスは、しばらく身動きが取れなかった。
抱きすくめられていた感覚が、まだ体に残っている。
無礼だと分かっている。
言うべきだったとも思う。
それなのに。
恩と、後ろめたさと、初めて向けられる庇護が、すべてを包み込む。
「……よわ……」
小さく呟いて、毛皮の中で身を縮める。
囲われている。
完全に。
その事実に、エリアスは静かに、わなわなと震えた。
――
ガレンが見回りに出てから、しばらくが過ぎた。
洞穴は静かで、火は安定している。
その静けさが、かえってエリアスの喉の渇きを際立たせた。
(……少しだけ……)
動くな、と言われた言葉は覚えている。
だが、呼ぶ勇気が出なかった。
毛皮からそっと抜け出し、足音を殺して歩いた——つもりだった。
床に散らばる石は、思ったよりも意地が悪い。
「……っ」
足先が何かに触れ、体勢を崩す。
咄嗟に伸ばした手が、積んであった道具に当たった。
がらり
倒れた拍子に、薪が崩れ、
肘が水袋を弾く。
どん
がしゃん
音が洞穴に反響し、
エリアスは、その場で固まった。
(……やって、しまった……)
言い訳を組み立てる前に、
入口の光が、ゆっくりと遮られた。
空気が、変わる。
低く、重い気配。
次の瞬間、洞穴に満ちる圧。
熊だった。
突進はしないが、歩幅が大きく距離は必然と一気に詰まる。
熊はエリアスの目の前で止まり、低く唸る。
鼻先が動く。
忙しなく、執拗に。
首筋。
肩。
腹。
脚。
順番がある。
それは獲物を見る動きではなかった。
(ならず者の仕業か…?)
熊の思考が、匂いに現れる。
しかし、人間の匂いは一つ。
慌てた匂い。血はどうだ。
それでも、確認は終わらない。
前脚が、ゆっくりと伸びる。
爪は立てない。
重い肉球が、エリアスの肩に触れ、逃げ道を塞ぐ位置に留まる。
エリアスは熊に組み敷かれたまま動けなかった。
次に、胸元。
衣の上から、圧をかけるように確かめる。
近い。息が、かかる。
熊は、舐める。
短く、確かめるように。
首筋。
鎖骨の下。
少し擦り傷があった。
冷えた皮膚に、温かい感触が残る。
「……ぁ、っ」
思わず漏れた声に、
熊の動きが一瞬止まる。
だが、やめない。
もう一度。
今度は、少し長く。
治療の仕草。
同時に、完全な庇護の距離。
やがて、熊の唸りが喉の奥に引っ込み、
圧が引く。
質量が削がれ、
輪郭が、人の形に戻っていく。
ガレンだった。
彼は膝をついたまま、深く息を吐く。
「……おい、ならず者が来たのかと思ったぞ」
低く、独り言のように。
視線は、散らかった洞穴を一巡し、
すぐにエリアスへ戻る。
「……擦りむいてるな?」
問いながら、もう見ている。
首。
腕。
脚。
念入りに。
「……あ、えっと…少し…?」
エリアスがそう答えると、
ガレンはもう一度、長い息を吐いた。
「……ならいい」
それだけ言って、立ち上がる。
片付けを始める手つきは早い。
倒れた薪を起こし、水袋を拾い、元に戻す。
エリアスは、居心地悪そうに視線を逸らし、
ぽつぽつと言い訳を落とす。
「……喉が、渇いて……水がほしくて……でも…足を……引っかけて……」
ガレンは、黙って聞く。
時折、短く息を吐く。
「……動くなと言ったが」
責める声ではないことはわかった。
「……すまない……」
本来なら、王なら、もっと強く言い返せるのかもしれない。
だが、言葉は弱くほどける。
助けられている。
守られている。
そして、何より嘘をついたままだ。
ガレンは片付けを終えると、少し離れた位置に腰を下ろした。
「だから、俺が見る」
宣言のように。
エリアスは、何も言えなかった。
身体が、まだガレンの体温を覚えている。
囲われている。
完全に。
「わかった…」
毛皮の中で、小さく呟く。
火は静かに燃え続け、洞穴は再び整った。
しかしエリアスの心の内だけが、まだ、ざわついたままだった。