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  ガレンは、エリアスをじっと見ていた。

  と言っても、顔を覗き込むようなことはしない。

  洞穴の奥で火を整えながら、水袋の位置を変えながら、狩り道具を点検しながら。

  視界の端に、常に入れているだけだ。

  エリアスは、落ち着きがない。

  動くなと言われているから、動かない。

  だが、視線が忙しい。

  火。

  壁。

  毛皮。

  洞穴の入口。

  ——獣に囲われた人間の反応ではない。

  恐怖はある。

  だが、それよりも、戸惑いのほうが勝っている。

  (……慣れてないな)

  ガレンは、内心でそう判断する。

  狩人でも、旅人でもない。

  追われる者にしては、緊張の質が違う。

  エリアスは、何かを「知らない」。

  それも、生きる上で必要なことを。

  たとえば。

  水を飲むとき、必ずこちらを気にする。

  許可を求める目をする。

  「飲め」

  そう言われてから、ようやく口をつける。

  食事も同じだ。

  干し肉を前にして、

  噛めるかどうかを先に気にする。

  「……これ、残したら……」

  そんなことを、真顔で言う。

  「残すなら残せ」

  そう返すと、ほっとしたように、少しだけ肩の力が抜ける。

  (今まで、どんな場所にいた?)

  ガレンは、考える。

  命令がないと動けないわけではない。

  だが、判断を委ねる癖が、深く染みついている。

  「……名前、だが」

  不意に、ガレンが言う。

  エリアスは、ぴくりと反応する。

  「……っ、エリ、だ」

  変わらぬ答え。

  だが、ほんの一瞬、間があった。

  (嘘だな)

  鼻が利く。

  名前を出したときの匂いが、薄い。

  言い慣れていない。

  (本当は?)

  そう聞いても、答えないだろう。

  ガレンは、追及しなかった。

  理由は簡単だ。

  ——話せない事情がある。

  それも、自分を守るためじゃない。

  エリアスは、こちらを見ている。

  探るように。

  試すように。

  「……名を、言えば……」

  ぽつりと、エリアスが言う。

  「……ガレンに、迷惑がかかるかもしれない」

  ガレンは、一瞬、理解できなかった。

  (迷惑?俺に?それは…ほぼ言っているようなものでは…)

  「……誰も、追ってない」

  そう言うと、エリアスは目を瞬かせた。

  「……え……?」

  「追われてる匂いは、ない」

  事実だ。

  兵の匂いも、血の匂いも、

  狩人の執念も、何も残っていない。

  エリアスは、その場で固まった。

  「……そう、なのか……」

  声が、弱い。

  (……本当に知らないのか)

  ガレンは、思わず、ため息を吐きそうになった。

  ——追放された人間が、追われるかどうかの判断もできない。

  身分を明かせば相手が危険になると、本気で思っている。

  その発想が、あまりにも、守られた側のものだった。

  「……エリ」

  呼ぶと、すぐに顔を上げる。

  「……ここでは」

  ガレンは、言葉を選ぶ。

  「名を言ったからって、何も起きない」

  「……だが、言いたくないなら、言わなくていい」

  エリアスは、少し考えてから、首を振った。

  「……今は……まだ……」

  ガレンの中で、何かが静かに決まった。

  (こいつは、放っておけない)

  弱いからじゃない。

  嘘をつくからでもない。

  世界の仕組みを、知らなすぎる。

  「……今まで、どうやって生きてきた」

  独り言のように呟く。

  エリアスは、聞こえたのか、聞こえなかったのか分からない顔をした。

  「それは、」

  毛皮の中で、少しだけ身を縮める。

  ガレンは、視線を逸らし、洞穴の入口を見る。

  外は、雪深い。

  ましてや獣人の地区は、弱い人間が一人で生きられる場所じゃない。

  (……守るしかない)

  誰に頼まれたわけでもない。

  義務でも、契約でもない。

  自分が村を離れたときと同じ、ただの判断だった。

  ガレンはいつも通り見回りの準備をしながら、エリアスが視界から消えないように目で追う。

  庇護は、いつの間にか理由を必要としなくなっていた。

  ——弱いエリ。

  その呼び名が、もう、当たり前のものになりつつあること、慈しみを抱き合わせていることに、ガレン自身はまだ気づいていなかった。

  ――

  一方のエリアスは、追放という言葉の重さを、正確には掴めていなかった。

  城を出された。

  ほとぼりが冷めれば迎えが来る、そう思っていた。

  しかし、ガレンの言葉がゆっくりと胸に沈んでいく。

  ——追われていない。

  それは、探されていないということだ。

  呼び戻されることもない。

  裁かれることすら、ない。

  (……必要なかった……)

  王であった自分は、いなくなっても、何も変わらない。

  その事実が、静かに、確実に、心を削った。

  エリアスは思う。

  せめて、ここでは余計な存在にならないように。

  巻き込まない。迷惑をかけない。

  ——それが、自分にできる唯一の役割だ。

  洞穴の中を見回す。

  火はある。

  道具も、鍋もある。

  ガレンは、黙ってやっている。

  当たり前のように。

  (……私だって、)

  役に立ちたい、というより、何もしないで守られている自分に耐えられなかった。

  形は違えど守られているばかりだった。

  鍋に水を入れ、火にかける。

  干し肉を割ろうとして、ナイフを持つ。

  思ったより、肉は硬い。

  力を入れた瞬間、指が滑った。

  「……っ」

  鋭い痛みが走り、指先に血が滲む。

  大した傷ではない。

  そう判断したのは、すぐだった。

  (この程度で、また世話になるわけにはいかないから)

  そう思って続けようとした、そのとき。

  「……エリ、何してる」

  ガレンの声が上から降ってきた。

  エリアスの肩が、びくりと揺れる。

  振り向くより早く、手首を取られた。

  逃げる隙もない。

  ガレンは、黙って指先を見る。

  「……切ったな」

  それだけ言って、

  次の瞬間、躊躇なく口を寄せた。

  ガレンの厚い舌が、触れる。

  エリアスの身体が、固まった。

  「あ…」

  ガレンは、淡々と血を拭い取り、

  もう一度、確かめるように触れる。

  動作は、手慣れている。

  必要だから、やっている。

  分かっている、それでも。

  今まで理由があっても、こんなふうに触れられたことはなかった。

  指先だけなのに、そこから、体の奥まで温度が広がる。

  ガレンは、包帯を巻きながら、鍋を見る。

  「……火が強い、もう少し弱火のほうがいいな」

  それだけ言って、エリアスの頭を撫でた。

  (弱火…)

  エリアスは、包帯の巻かれた指を見つめた。

  小さな傷はすぐに治る。

  でも、この心の熱はどうだろう。

  (…勘違い、してはいけない)

  治療で必要だから、触れただけ。

  追放された王。

  忘れられる存在。

  ここにいる理由は、必要がなくて弱いから。

  抱き上げられ毛皮の上に戻される。

  エリアスは火の音を聞きながら、目を伏せた。

  指先に残る感触が、なかなか消えなかった。

  (何か、できることを見つけなければ)

  どれだけ遠回りで空回りする努力だとしても、今のエリアスにはガレンと共にある理由が必要だった。