8

  村へ下りる道は、雪解けの泥で重かった。

  ガレンは、その泥をあえて腕や首に塗りつける。

  人間の匂いを消すためだ。

  洞穴に残した弱い体温を、外へ持ち出さないための癖。

  鼻が利く者ほど、そうする。

  村に近づくと、獣人たちの気配が増えた。

  見知った匂い。

  見慣れた歩き方。

  「ガレンじゃねえか。久しぶりだな」

  声をかけられる。

  狼の血を引く男だ。

  「相変わらず一人か」

  「ああ」

  短く返すと、向こうは笑った。

  「でも助かってる。あんたが境を見てくれてるからな」

  「いつもありがとうな」

  それは、いつものやり取りだった。

  ガレンは、軽く頷くだけで返す。

  用件を済ませようと歩き出した、そのとき。

  「そういや聞いたか?」

  狐の獣人が、ひそひそと声を落とす。

  「王様の話」

  ガレンの足が、ほんの一瞬だけ止まった。

  「追い出されたんだとよ。人間の国から」

  「護衛もなしで、冬に放り出されたらしい」

  「……そこらで野垂れ死んでても、おかしくねえよな」

  笑い混じりの声。

  ガレンは、黙って聞いていた。

  否定もしない。

  肯定もしない。

  (……追われていない)

  匂いは、村に来ていない。

  探す者の匂いも、怒りも、焦りもない。

  本当に、捨てられたのだ。

  「ま、王なんて言ってもな」

  「食えなきゃ獣以下だ」

  その言葉に、ガレンの胸の奥で、鈍いものが動いた。

  獣以下、か。

  (……じゃあ、今洞穴にいるあれは、何だ)

  ガレンは、話題を切るように歩き出す。

  干し肉、穀物、塩。

  必要なものを、いつも通り揃える。

  そして——

  果物の籠の前で、足が止まった。

  赤い実。

  柔らかそうな皮。

  (……あれなら)

  指先で一つ持ち上げる。

  「おい、ガレン」

  声がかかる。

  「珍しいな。あんた、甘いもん食わないだろ」

  「……気まぐれだ」

  短く答え、籠に入れる。

  理由を説明する気はなかった。

  説明する言葉を、まだ持っていない。

  買い物を終え、村外れの川で泥を落とす。

  腕。首。頬。

  水は冷たいが、慣れている。

  人間の匂いを消すために塗った泥を、

  人間のところへ帰る前に、洗い落とす。

  その行為自体が、少し奇妙だと気づいても、

  もうやめる理由がなかった。

  ――

  ガレンが洞穴へ戻ったのは、空が薄く暮れ始めた頃だった。

  入口に近づくと、すぐに分かる。

  エリアスの気配が落ち着いていない。

  (……出るなとは言ったが)

  洞穴に足を踏み入れた瞬間、ガレンは音を聞いた。

  小さく、布が擦れる音。

  不規則な呼吸。

  視線を向けると、エリアスが入口付近で立ち尽くしている。

  毛皮の中で、膝がわずかに揺れていた。

  「……っ…」

  脚を閉じ、また開く。

  視線は落ち着かず、外と中を行き来している。

  (……なるほど)

  ガレンは、すぐに状況を理解した。

  「……我慢してたか」

  声をかけると、エリアスの肩がびくりと跳ねる。

  「……っ、ガレン……!」

  安心と焦りが同時に混じった声。

  それだけで、ガレンの胸の奥に、妙な熱が生まれた。

  (……弱い。ほんとうに)

  ただ、それは軽蔑ではない。

  庇護の感情が、別の方向に引っ張られる違和感だった。

  エリアスは何か言い訳を探すように口を開き、閉じる。

  毛皮の端を、きゅっと握りしめている。

  「……動くな、と言われていたから……」

  声が小さい。

  脚に力を入れているのが、遠目にも分かる。

  ガレンは、ため息をひとつ吐いた。

  「……排泄くらい、好きにしろ」

  責める調子ではなかった。

  むしろ、当然だと言う声。

  エリアスが一瞬、固まる。

  「……だ、だが……」

  「遠くに行くなと言う意味だ、あれは」

  そう言って、ガレンは視線を逸らした。

  逃げ道を作るために。

  「行け。戻ったら火のそばだ。身体が冷えるから、」

  短い指示。

  それだけ。

  エリアスは一拍遅れて、外へと急いだ。

  溶けかけた雪を踏む音が、少し慌てている。

  その背を見送ったあと、ガレンは自分の手を見下ろした。

  ——落ち着かない。

  理由は分かっている。

  弱いものを囲う感覚。

  身体を小さく縮め、必死に耐える姿。

  助けを乞うでもなく、ただ我慢する選択。

  (……妙だな)

  守るだけでいいはずなのに、視界に入った瞬間、身体が先に反応した。

  喉が渇くような、腹の奥が重くなるような。

  ふと目をやると下腹部に熱が溜まっていた。

  ガレンは、火に薪を足し、深く息を吐く。

  (……考えるな)

  そう思うほど、残像が離れない。

  しばらくして、足音が戻ってきた。

  今度はゆっくりだ。

  エリアスは、毛皮を抱え直し、火のそばに座り込む。

  頬が、少し赤い。

  「……ありがとう、」

  ぽつりと、そう言う。

  ガレンは答えない。

  代わりに、外套を外し、荷を下ろす。

  袋の中から、果物をいくつか取り出した。

  赤く、小ぶりで、皮の薄いもの。人間でも食べやすい小さな実。

  エリアスが、目を瞬かせる。

  「……それは……?」

  「人間向け…いや、子供向けか?」

  短く言う。

  果物はまだ咀嚼力が弱い獣人の子が食べるもの。

  とはいえ、そういう基準で物を選ぶのは、初めてだった。

  「……ガレン、果物は……」

  「好きじゃない」

  被せるように言って、投げるように差し出す。

  エリアスは、両手で受け取り、少し困ったように笑った。

  その仕草が、また胸に引っかかる。

  (……本当に、どうやって生きてきた)

  守られて、触れられず、判断を奪われたまま。

  それでも、誰かを巻き込むまいとする。

  可哀想だ、と思うには、近すぎる。

  ガレンは、火の向こうからエリアスを見て、知らず、見つめる時間が長くなっていることに気づき、目を逸らした。

  (……まずいな)

  少しだけ感情が崩れ始めて垣間見える、欲望。

  だが、それを言語化する前に、ガレンはいつもの結論に戻る。

  (いや、弱いものは、守るだけだ)

  それだけだ。

  それだけのはずなのに。

  火の揺らぎの向こうで、エリアスが果物を口に運ぶ仕草を、ガレンはもう一度だけ、見てしまった。