村へ下りる道は、雪解けの泥で重かった。
ガレンは、その泥をあえて腕や首に塗りつける。
人間の匂いを消すためだ。
洞穴に残した弱い体温を、外へ持ち出さないための癖。
鼻が利く者ほど、そうする。
村に近づくと、獣人たちの気配が増えた。
見知った匂い。
見慣れた歩き方。
「ガレンじゃねえか。久しぶりだな」
声をかけられる。
狼の血を引く男だ。
「相変わらず一人か」
「ああ」
短く返すと、向こうは笑った。
「でも助かってる。あんたが境を見てくれてるからな」
「いつもありがとうな」
それは、いつものやり取りだった。
ガレンは、軽く頷くだけで返す。
用件を済ませようと歩き出した、そのとき。
「そういや聞いたか?」
狐の獣人が、ひそひそと声を落とす。
「王様の話」
ガレンの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「追い出されたんだとよ。人間の国から」
「護衛もなしで、冬に放り出されたらしい」
「……そこらで野垂れ死んでても、おかしくねえよな」
笑い混じりの声。
ガレンは、黙って聞いていた。
否定もしない。
肯定もしない。
(……追われていない)
匂いは、村に来ていない。
探す者の匂いも、怒りも、焦りもない。
本当に、捨てられたのだ。
「ま、王なんて言ってもな」
「食えなきゃ獣以下だ」
その言葉に、ガレンの胸の奥で、鈍いものが動いた。
獣以下、か。
(……じゃあ、今洞穴にいるあれは、何だ)
ガレンは、話題を切るように歩き出す。
干し肉、穀物、塩。
必要なものを、いつも通り揃える。
そして——
果物の籠の前で、足が止まった。
赤い実。
柔らかそうな皮。
(……あれなら)
指先で一つ持ち上げる。
「おい、ガレン」
声がかかる。
「珍しいな。あんた、甘いもん食わないだろ」
「……気まぐれだ」
短く答え、籠に入れる。
理由を説明する気はなかった。
説明する言葉を、まだ持っていない。
買い物を終え、村外れの川で泥を落とす。
腕。首。頬。
水は冷たいが、慣れている。
人間の匂いを消すために塗った泥を、
人間のところへ帰る前に、洗い落とす。
その行為自体が、少し奇妙だと気づいても、
もうやめる理由がなかった。
――
ガレンが洞穴へ戻ったのは、空が薄く暮れ始めた頃だった。
入口に近づくと、すぐに分かる。
エリアスの気配が落ち着いていない。
(……出るなとは言ったが)
洞穴に足を踏み入れた瞬間、ガレンは音を聞いた。
小さく、布が擦れる音。
不規則な呼吸。
視線を向けると、エリアスが入口付近で立ち尽くしている。
毛皮の中で、膝がわずかに揺れていた。
「……っ…」
脚を閉じ、また開く。
視線は落ち着かず、外と中を行き来している。
(……なるほど)
ガレンは、すぐに状況を理解した。
「……我慢してたか」
声をかけると、エリアスの肩がびくりと跳ねる。
「……っ、ガレン……!」
安心と焦りが同時に混じった声。
それだけで、ガレンの胸の奥に、妙な熱が生まれた。
(……弱い。ほんとうに)
ただ、それは軽蔑ではない。
庇護の感情が、別の方向に引っ張られる違和感だった。
エリアスは何か言い訳を探すように口を開き、閉じる。
毛皮の端を、きゅっと握りしめている。
「……動くな、と言われていたから……」
声が小さい。
脚に力を入れているのが、遠目にも分かる。
ガレンは、ため息をひとつ吐いた。
「……排泄くらい、好きにしろ」
責める調子ではなかった。
むしろ、当然だと言う声。
エリアスが一瞬、固まる。
「……だ、だが……」
「遠くに行くなと言う意味だ、あれは」
そう言って、ガレンは視線を逸らした。
逃げ道を作るために。
「行け。戻ったら火のそばだ。身体が冷えるから、」
短い指示。
それだけ。
エリアスは一拍遅れて、外へと急いだ。
溶けかけた雪を踏む音が、少し慌てている。
その背を見送ったあと、ガレンは自分の手を見下ろした。
——落ち着かない。
理由は分かっている。
弱いものを囲う感覚。
身体を小さく縮め、必死に耐える姿。
助けを乞うでもなく、ただ我慢する選択。
(……妙だな)
守るだけでいいはずなのに、視界に入った瞬間、身体が先に反応した。
喉が渇くような、腹の奥が重くなるような。
ふと目をやると下腹部に熱が溜まっていた。
ガレンは、火に薪を足し、深く息を吐く。
(……考えるな)
そう思うほど、残像が離れない。
しばらくして、足音が戻ってきた。
今度はゆっくりだ。
エリアスは、毛皮を抱え直し、火のそばに座り込む。
頬が、少し赤い。
「……ありがとう、」
ぽつりと、そう言う。
ガレンは答えない。
代わりに、外套を外し、荷を下ろす。
袋の中から、果物をいくつか取り出した。
赤く、小ぶりで、皮の薄いもの。人間でも食べやすい小さな実。
エリアスが、目を瞬かせる。
「……それは……?」
「人間向け…いや、子供向けか?」
短く言う。
果物はまだ咀嚼力が弱い獣人の子が食べるもの。
とはいえ、そういう基準で物を選ぶのは、初めてだった。
「……ガレン、果物は……」
「好きじゃない」
被せるように言って、投げるように差し出す。
エリアスは、両手で受け取り、少し困ったように笑った。
その仕草が、また胸に引っかかる。
(……本当に、どうやって生きてきた)
守られて、触れられず、判断を奪われたまま。
それでも、誰かを巻き込むまいとする。
可哀想だ、と思うには、近すぎる。
ガレンは、火の向こうからエリアスを見て、知らず、見つめる時間が長くなっていることに気づき、目を逸らした。
(……まずいな)
少しだけ感情が崩れ始めて垣間見える、欲望。
だが、それを言語化する前に、ガレンはいつもの結論に戻る。
(いや、弱いものは、守るだけだ)
それだけだ。
それだけのはずなのに。
火の揺らぎの向こうで、エリアスが果物を口に運ぶ仕草を、ガレンはもう一度だけ、見てしまった。