9

  雪解けは、ある日ふいに始まった。

  洞穴の外で、水の音が増えた。

  硬かった地面が、ゆっくりと緩み、土の匂いが立ち上る。

  エリアスは、その変化を毎朝確かめるように洞穴の外へ出た。

  もう、いちいち許可を求めることはしない。

  だが、行き先は必ず視界の届く範囲だった。

  ガレンは、それを止めなかった。

  二人の間に、言葉が増えた。

  天気のこと。

  獣の足跡のこと。

  果物の甘さの違い。

  他愛もない会話だったが、エリアスは少しずつ心を開いていった。

  ——それでも、名前だけは言わなかった。

  ――

  ガレンは優しい。

  必要以上に触れない。

  しかし、火を整える背中の隙。

  視線が合うと、すぐ逸らされる瞳。

  以前より、近づいた距離。

  自分がここにいるせいで、ガレンの“いつも”が崩れているのではないか。

  (……私が、原因なのでは)

  そんな思いが、春の芽吹きと共に膨らんでいった。

  もっと早く話したほうがよかったのか。

  巻き込まないために。

  その日、エリアスは決めた。

  「……ガレン」

  呼びかける声が、少し震える。

  「話が、ある」

  ガレンは火から目を離し、静かにこちらを見た。

  「改まってるな、」

  「……名前を」

  喰い気味に発した言葉を一度のみ込み、エリアスは呼吸を整えた。

  「……エリアスだ」

  言った瞬間、胸の奥がひやりとした。

  「……私は……追放された王、だ」

  沈黙が落ちる。

  しかし、ガレンは驚かない。

  眉一つ動かさず、ただ頷いた。

  「知ってる」

  あまりにも自然な声だった。

  「……え……?」

  「最初からな」

  エリアスの思考が、止まる。

  「……な、ぜ……」

  ガレンは立ち上がり、洞穴の外へ歩き出した。

  「背に乗れ」

  拒否の余地のない声。

  エリアスが戸惑いながら外へ出ると、

  そこには——熊がいた。

  冬に見たときより、毛並みが艶やかだ。

  春の光を受けて、黒が深く光る。

  ガレンは、低く鳴いた。

  エリアスの問いは、胸の奥に溜まったまま、一頭と一人は森を抜け、傾斜を登る。

  やがて視界が開け、狩場が見渡せる高台に出た。

  獣の姿のガレンは、そこで立ち止まった。

  しばらくして、質量が削がれるように輪郭が揺れ、ガレンは人の姿へと戻る。

  何度も見た光景だった。

  息を整えながら、ガレンは腰を下ろした。

  「……ここなら、話せる」

  エリアスも、少し距離を置いて座る。

  春の光は柔らかく、それでも空気はまだ冷たい。

  「……最初から知ってた、途中から確信した」

  ガレンは、改めて言った。

  「お前の名も、立場も。俺だって王の名くらい、知ってる」

  エリアスの肩が、わずかに揺れる。

  「……立場…」

  「あぁ、匂いでわかる」

  それだけ言って、続ける。

  「王の匂いは、消えない。

  飾られて、守られて、血を流したことのない匂いだ」

  責める響きはなかった。

  ただの事実が並べられていく。

  「……でも、あの日、捨てられたお前を放っておけなかった」

  その言葉が、胸に落ちる。

  エリアスは、何も言えなかった。

  ガレンは、視線を遠くに向けたまま、ぽつぽつと語り始める。

  獣人の力のこと。

  かつて力が暴走し、守ろうとした仲間を傷つけたこと。

  それで、一人で生きることを選んだこと。

  この力は使えば使うほど、人に戻りにくくなること。

  父と母のこと。

  守るために獣になり、戻れなくなり、最期は人間に“獣として”仕留められたこと。

  淡々とした語り口だった。

  だが、その一つ一つが、重い。

  エリアスの中で、何かが崩れた。

  会議室。

  整った言葉。

  〈開拓〉

  〈治安維持〉

  〈境界の整理〉

  ——その裏に、何があったのか。

  (……私は……)

  自分が、無知のまま署名してきたもの。

  獣人を“獣”と定義する言葉。それだけを拒否したからといって今までのことがなかったことにはならない。

  その果てに、どれだけの命が切り捨てられていたのか。

  雷に打たれたような感覚だった。

  「……私は……」

  声が、震える。

  「……知らなかった……、知らされなかった……それでいいと思っていた……」

  言い訳だと、自分でも分かっている。

  エリアスは、俯いた。

  「……ひどいことに、加担していた……」

  その瞬間、影が落ちる。

  ガレンが、距離を詰めていた。

  何も言わず腕を伸ばし、エリアスを抱きしめる。

  強くはない。

  だが、逃がさない力だった。

  「……いい。人間にも獣人にも、物事には理由がある」

  低い声。

  「知らなかったことは、罪じゃない。

  …知って、どうするかだろう」

  エリアスは、息を詰めた。

  ただ抱かれているだけなのに、胸がいっぱいで、息が苦しい。

  顔を上げた、そのとき。

  ガレンが、ゆっくりと顔を寄せた。

  躊躇なく唇が、そっと触れる。

  一度だけ。

  確かめるように。

  意味を持った口付けは、初めてだった。

  治療で舐められたことはある。

  体温を確かめるために、触れられたこともある。

  だが、これは違う。

  愛情を伴う行為だった。

  エリアスの視界が、滲む。

  ガレンは、すぐに離れなかった。

  額を寄せ、低く言う。

  「……エリ…、

  エリアス…いつからか俺は、お前を愛してしまった」

  春の風が、二人の間を抜けていく。

  「俺とずっと生きてほしい」

  芽吹きは、もう始まっている。

  「ガレン…私は……いや、私でいいのだろうか、私が獣人たちにしたことは許されない、」

  それは、過去を知ったあとでも、なお共にいると選ぶこと。

  「俺がそうしたい、お前を離したくない。

  …熊は執念深い、一度とらえた獲物は誰にも渡さないんだ」

  返事を待たず畳み掛けるようにガレンは続けて、微笑んだ。

  「……そんなふうに言われると、困る……」

  エリアスは、視線を逸らしたまま、息を整える。

  「私は……まだ、自分を許せないし、きっと、簡単には償えない」

  それでも、と続けようとして、言葉が詰まる。

  ガレンの衣を、指先で掴む。

  「…ただ…離れたいとは、思えない……」

  獣と王ではなく、ガレンとエリアスとして生きることが許されるのならば。

  春は、確かに、巡ってきていた。