10

  夏の空気は、重かった。

  洞穴の中にいても、熱が残る。

  涼しいのは最初だけだが、外の焦げ付くような陽射しよりはよかった。

  ガレンは、エリアスと距離を取っていた。

  それは意図的で、必死な選択だった。

  近づけば、触れれば、抑えが利かなくなると分かっていたからだ。

  それなのに。

  「……ガレン」

  エリアスは、まるで分かっていない顔で呼ぶ。

  「最近、あまり……話してくれない」

  責める調子ではない。

  不安そうな声。

  いつしか王のような話し方も抜けてきて少し幼ささえ覚える。

  ガレンは、奥歯を噛んだ。

  (……だからだ)

  「話している」

  短く返す。

  「必要なことは、全部」

  「……でも」

  エリアスは言葉を探す。

  その間が、無防備すぎる。

  「……愛してると言ってくれたのに…私が、何か……」

  自分が原因だと、本気で思っているらしい。

  ガレンは、思わず息を吐いた。

  「……違う」

  低く言う。

  「お前のせいじゃない」

  (いや、半分はお前のせいか?)

  「……じゃあ……」

  そこで止まらないのが、エリアスだった。

  一歩、近づく。

  距離感を、まったく理解していない。

  「……じゃあ、どうして避ける……?」

  その問いは、刃だった。

  ガレンの喉が、鳴る。

  「……エリ」

  警告の声音。

  「今は、近づくな」

  「……?」

  首を傾げる。

  本当に、この恋人は意味が分かっていない。

  「……怒ってる?」

  その一言で、ガレンの理性が一段削れた。

  (……違う、そうじゃない)

  怒ってなどいない。

  むしろ逆だ。

  「……力が、強くなる時期だ」

  抑えた声。

  「いつも強いよ、ガレンは…」

  「…違う…発情期だ」

  言葉は理解しているはずなのに、エリアスの反応は、期待したものと違った。

  「……ああ…発情…」

  納得したようで、していない。

  「……それで、離れてる……?」

  「そうだ」

  「……それなら…習ったことがある…」

  エリアスは、頬が赤いまま少し考えてから言った。

  「……ガレンは、我慢しているのか?」

  ガレンの呼吸が、明らかに変わった。

  「……している」

  正直に答えたのが、間違いだった。

  エリアスは、なぜか安心したように息を吐く。

  また一歩、近づく。

  「……なら、嫌われたわけじゃないんだね……」

  その瞬間。

  ガレンの中で、何かが切れた。

  次の瞬間、世界がひっくり返る。

  エリアスの背中が、敷いた毛皮の上に押し倒される。

  強引だが、怪我をさせない力加減。

  「……っ!?」

  声を上げる間もない。

  ガレンは、覆いかぶさったまま、フー、フーと荒く息を吐いている。

  低く、獣のような呼吸。

  「……エリ」

  名前を呼ばれて、エリアスの喉が鳴る。

  「……お前は……」

  言葉が続かない。

  それ自体が、限界を示していた。

  「……多分、何も分かっていない」

  責める声ではない。

  だが、甘くもない。

  「はっきり言わない」

  「でも、拒まない」

  「こうやって無防備に近づく」

  ひとつずつ、指折り数えながら言う。

  「……それで、俺が手を出さないと、本気で思ってるのか」

  エリアスの顔が、更に赤くなる。

  「……え……?」

  遅い。

  すべてが、遅い。

  ガレンは、額をエリアスの肩に押し付けたまま、低く唸った。ぼそりと。

  「これ以上、無自覚で煽るな」

  力は込めているが、奪うつもりはない。

  逃げ道は、残してある。

  だが、エリアスは離れない。

  「……ガレン、私は、」

  震える声を遮る、低く、真剣な声。

  「エリが、ちゃんと『いい』と言うまで…俺は、これ以上しない」

  その言葉が、逆に重かった。

  エリアスは、ようやく理解し始める。

  ——自分が、どれほど無防備だったか。

  ——どれほど、危うい場所に立っていたか。

  (でも…恋人なら…愛してるなら次は…)

  胸が、どくどくと鳴る。

  「……いい、……」

  うわ言のような声だった。

  肯定の形をしているのに、意味を選べていない。

  その一音を聞いた瞬間、ガレンの動きが止まった。

  呼吸が、詰まる。

  喉の奥で、低い音が鳴りかけて——飲み込まれる。

  「……エリ」

  名を呼ぶ声が、先ほどよりも低い。

  荒さは消え、代わりに緊張が張りつめている。

  ガレンは、ゆっくりと距離を取った。

  押し倒していた身体を離し、膝をつき、視線の高さを落とす。

  逃がすためじゃない。

  確かめるためだった。

  短く息を吐く。

  一度、目を伏せてから、はっきりと。

  「話は聞いていたか?

  …俺と《《交尾》》ができるのか?」

  問いは、それだけ。

  エリアスは、胸が早鐘を打ったまま、言葉を探す。

  頷くことも、否定することもできない。

  口をついて出たのは小さなオウム返し。

  「こうび…」

  ガレンは、しばらく黙っていた。

  その沈黙の間、空気が変わる。

  洞穴に満ちていた熱が、別の重さを帯びる。

  「……発情期だ、二度言わせたな」

  小さく、困ったように息を吐く。

  「今の俺は、選択を誤る。お前の『いい』は肯定か?」

  そう言って、苦く笑った。

  「……獣のままなら、聞き返せない」

  その言葉が、はっきりとした境界線だった。

  エリアスの喉が、ひくりと鳴る。

  「ガレン…私は、」

  「……肯定なら、」

  ガレンは、視線を逸らし拳を握る。

  「ちゃんと選べ」

  低く、確かに。

  「人の姿と獣の姿、どちらの俺に抱かれたいか」

  一拍。

  「……それとも、今じゃないか、急かさないから考えろ」

  問いは、突き放すものではなかった。

  待つための問いだった。

  ガレンは立ち上がり、少し距離を取る。

  背中越しに、ぽつりと落とす。

  「……もっと発情が強ければ、今の“いい”で、踏み込めた。大切にしたい、お前のことは」

  夏の空気が、二人の間に戻る。

  熱は消えない。形を変えただけだ。

  エリアスは、ようやく理解する。

  (きちんと私の言葉で選ばなければ、ガレンを苦しめてしまう…)

  軽率に言ったつもりはない。

  この気持ちはもう、元には、戻れないと知ったから。