夏の空気は、重かった。
洞穴の中にいても、熱が残る。
涼しいのは最初だけだが、外の焦げ付くような陽射しよりはよかった。
ガレンは、エリアスと距離を取っていた。
それは意図的で、必死な選択だった。
近づけば、触れれば、抑えが利かなくなると分かっていたからだ。
それなのに。
「……ガレン」
エリアスは、まるで分かっていない顔で呼ぶ。
「最近、あまり……話してくれない」
責める調子ではない。
不安そうな声。
いつしか王のような話し方も抜けてきて少し幼ささえ覚える。
ガレンは、奥歯を噛んだ。
(……だからだ)
「話している」
短く返す。
「必要なことは、全部」
「……でも」
エリアスは言葉を探す。
その間が、無防備すぎる。
「……愛してると言ってくれたのに…私が、何か……」
自分が原因だと、本気で思っているらしい。
ガレンは、思わず息を吐いた。
「……違う」
低く言う。
「お前のせいじゃない」
(いや、半分はお前のせいか?)
「……じゃあ……」
そこで止まらないのが、エリアスだった。
一歩、近づく。
距離感を、まったく理解していない。
「……じゃあ、どうして避ける……?」
その問いは、刃だった。
ガレンの喉が、鳴る。
「……エリ」
警告の声音。
「今は、近づくな」
「……?」
首を傾げる。
本当に、この恋人は意味が分かっていない。
「……怒ってる?」
その一言で、ガレンの理性が一段削れた。
(……違う、そうじゃない)
怒ってなどいない。
むしろ逆だ。
「……力が、強くなる時期だ」
抑えた声。
「いつも強いよ、ガレンは…」
「…違う…発情期だ」
言葉は理解しているはずなのに、エリアスの反応は、期待したものと違った。
「……ああ…発情…」
納得したようで、していない。
「……それで、離れてる……?」
「そうだ」
「……それなら…習ったことがある…」
エリアスは、頬が赤いまま少し考えてから言った。
「……ガレンは、我慢しているのか?」
ガレンの呼吸が、明らかに変わった。
「……している」
正直に答えたのが、間違いだった。
エリアスは、なぜか安心したように息を吐く。
また一歩、近づく。
「……なら、嫌われたわけじゃないんだね……」
その瞬間。
ガレンの中で、何かが切れた。
次の瞬間、世界がひっくり返る。
エリアスの背中が、敷いた毛皮の上に押し倒される。
強引だが、怪我をさせない力加減。
「……っ!?」
声を上げる間もない。
ガレンは、覆いかぶさったまま、フー、フーと荒く息を吐いている。
低く、獣のような呼吸。
「……エリ」
名前を呼ばれて、エリアスの喉が鳴る。
「……お前は……」
言葉が続かない。
それ自体が、限界を示していた。
「……多分、何も分かっていない」
責める声ではない。
だが、甘くもない。
「はっきり言わない」
「でも、拒まない」
「こうやって無防備に近づく」
ひとつずつ、指折り数えながら言う。
「……それで、俺が手を出さないと、本気で思ってるのか」
エリアスの顔が、更に赤くなる。
「……え……?」
遅い。
すべてが、遅い。
ガレンは、額をエリアスの肩に押し付けたまま、低く唸った。ぼそりと。
「これ以上、無自覚で煽るな」
力は込めているが、奪うつもりはない。
逃げ道は、残してある。
だが、エリアスは離れない。
「……ガレン、私は、」
震える声を遮る、低く、真剣な声。
「エリが、ちゃんと『いい』と言うまで…俺は、これ以上しない」
その言葉が、逆に重かった。
エリアスは、ようやく理解し始める。
——自分が、どれほど無防備だったか。
——どれほど、危うい場所に立っていたか。
(でも…恋人なら…愛してるなら次は…)
胸が、どくどくと鳴る。
「……いい、……」
うわ言のような声だった。
肯定の形をしているのに、意味を選べていない。
その一音を聞いた瞬間、ガレンの動きが止まった。
呼吸が、詰まる。
喉の奥で、低い音が鳴りかけて——飲み込まれる。
「……エリ」
名を呼ぶ声が、先ほどよりも低い。
荒さは消え、代わりに緊張が張りつめている。
ガレンは、ゆっくりと距離を取った。
押し倒していた身体を離し、膝をつき、視線の高さを落とす。
逃がすためじゃない。
確かめるためだった。
短く息を吐く。
一度、目を伏せてから、はっきりと。
「話は聞いていたか?
…俺と《《交尾》》ができるのか?」
問いは、それだけ。
エリアスは、胸が早鐘を打ったまま、言葉を探す。
頷くことも、否定することもできない。
口をついて出たのは小さなオウム返し。
「こうび…」
ガレンは、しばらく黙っていた。
その沈黙の間、空気が変わる。
洞穴に満ちていた熱が、別の重さを帯びる。
「……発情期だ、二度言わせたな」
小さく、困ったように息を吐く。
「今の俺は、選択を誤る。お前の『いい』は肯定か?」
そう言って、苦く笑った。
「……獣のままなら、聞き返せない」
その言葉が、はっきりとした境界線だった。
エリアスの喉が、ひくりと鳴る。
「ガレン…私は、」
「……肯定なら、」
ガレンは、視線を逸らし拳を握る。
「ちゃんと選べ」
低く、確かに。
「人の姿と獣の姿、どちらの俺に抱かれたいか」
一拍。
「……それとも、今じゃないか、急かさないから考えろ」
問いは、突き放すものではなかった。
待つための問いだった。
ガレンは立ち上がり、少し距離を取る。
背中越しに、ぽつりと落とす。
「……もっと発情が強ければ、今の“いい”で、踏み込めた。大切にしたい、お前のことは」
夏の空気が、二人の間に戻る。
熱は消えない。形を変えただけだ。
エリアスは、ようやく理解する。
(きちんと私の言葉で選ばなければ、ガレンを苦しめてしまう…)
軽率に言ったつもりはない。
この気持ちはもう、元には、戻れないと知ったから。