洞穴の奥にこもる空気は、昼を越えてもまだ重かった。
肌に触れなくても、互いの体温が分かる距離。
近すぎて、離れすぎていない、危うい間合い。
ガレンは、距離を保ったまま黙っていた。
選ばせると決めた以上、押さない。
——だが、逃げもしない。
沈黙を破ったのは、エリアスだった。
「……ガレン」
声は、先ほどより落ち着いている。
震えは、ない。
ガレンが視線を向ける。
エリアスは一度、深く息を吸った。
「きちんと言えずにごめん…
私も、ガレンを愛している」
はっきりと。
逃げない声で。
「拾われたからでも、守られたからでもない」
一歩、近づく。
今度は、止められても退かない。
「強さに……惹かれた。力じゃない。美しく強い心に、だ」
ガレンの喉が、わずかに鳴った。
その瞬間、エリアスの中で、ひとつの記憶が形を結ぶ。
——子どもの頃、城の寝台で読まされた絵本。
——美しい挿絵と、静かな語り口。
人の形をした存在が、ある日「獣」と呼ばれるようになり、
名を失い、声を奪われていく話。
ただ、少し見た目が違い、呼び方が変わるだけで、世界から切り離されていく。
城を追われる前日にも見た夢。
あの夢は、絵本の内容だったのか。
——怖い話だと思っていた。
——悪夢だと、信じていた。
だが、今なら分かる。
あれは恐怖ではなく、哀しみだった。
声を上げることも許されず、それでも誰かを守ろうとして、最後には獣と呼ばれるしかなくなる存在の話。
(……知らなかった、じゃ、足りない)
視線が、ガレンへ戻る。
力を抑え、選び、待つことができる獣人。
獣であることを理由に、奪う側にも、壊す側にもならなかった存在。
「私は……」
エリアスは、拳を握った。
「知らないまま、線を引いた」
視線を上げる。
「だから——」
息を整え、言葉を紡ぐ。
「いいと言った。……ガレンと交尾する。したい」
言葉にした瞬間、頬が熱くなる。
それでも、逸らさない。
「ガレンを、受け入れたい。
知らなかったことを、知りたい……逃げないで」
沈黙が落ちる。
長く、深い沈黙。
やがて、ガレンは一歩、近づいた。
額と額が触れる。息が混じる距離。
低い声。
「あまり、お前の口から“交尾”という言葉は…」
正直な声音。
だが、すぐに小さく笑う。
「……いや、俺が言わせたな」
そして、はっきりと告げる。
「なら、最後まで責任を取る」
空気が、張りつめる。
「選べ、エリアス」
穏やかで、逃げ場を残した声。
「できるだけ、優しく努める」
「人の姿か——」
一拍。
「獣の姿か」
エリアスは唇を噛む。
「……獣の、」
声が、自然と小さくなる。
「……いや獣じゃなくて、くまの…方……」
ガレンの目が、わずかに見開かれた。
(この期に及んで獣という言い方まで気を遣うのかこいつは…)
「……本気か」
エリアスは、静かに頷く。
「私は…どんな現実もこの目で身体で…受け止めたい」
ガレンは、短く息を吐いた。
「……厄介な王だ」
だが、その腕は、迷いなく伸びる。
「離さない。前も言ったが…熊は、執念深い」
夏の熱が、二人を包んだ。
逃げ場は、もうなかった。