逃げ場はない。
だからガレンは、すぐには何もしなかった。
少し冷えた夜の空気が肌にまとわりつき、呼吸のたびに体温が伝わる距離で、ガレンは立ち止まったまま、エリアスを見下ろしていた。
「……今日は、本番はしない」
唐突に、だが迷いのない声だった。
エリアスが瞬きをする。
「……え?」
「順番がある」
ガレンはそう言って、ゆっくり近づく。
触れはしない。ただ、距離だけを詰める。
「エリは、人間だ。身体も、そうだ」
淡々と、事実を並べる声音。
「俺は熊だ。力も、重さも、大きさも違う」
一拍。
ガレンは、エリアスの腹の前で手を止めた。
指先で位置を示す。
へそから、指四本分ほど上。
とん、と軽く押す。
「俺のは、ここまで入るだろう」
脅しでも、煽りでもない、並べられた事実のひとつ。
エリアスは、一瞬で理解した。
血が一気に顔に集まり、喉が鳴る。
恐怖ではない。羞恥だった。
「……っ」
声にならない息が漏れ、膝がわずかに震える。
ガレンは、それを見逃さない。
一度、短く息を吐いた。
「……熊を、舐めるな」
低く、抑えた声。
エリアスが、反射的に言い返す。
「なっ……舐めてなど…ない…!」
珍しく、はっきりした否定だった。
顔は赤いまま、言葉だけが先に出る。
「私は……軽く考えてなど……!」
ガレンは、ほんの一瞬だけ目を細める。
「……多分、」
歩み寄るが、触れない。
「お前の言う“舐める”と、俺の言う“舐める”は、違う」
エリアスが言葉に詰まる。
「……?」
ガレンは肩をすくめた。
「怖がらずに選ぶことと、想像が追いついていないことは、別だ」
淡々と。
「エリは真剣だ。だが――身体の現実を、まだ知らない」
一拍。
「だから言わせてもらう」
声が、さらに低くなる。
「裂けるぞ」
その一言が、洞穴の空気に落ちた。
エリアスは思わず息を呑む。
それでも、逃げない。
「……それでも……私は……」
「分かってる」
遮るように、しかし強くはない声。
「選択を変えないことも、覚悟があることも」
ガレンは視線を逸らし、低く付け足す。
「……だからこそ、順番だ」
短く、諭すように。
ガレンは一歩引き、距離を戻す。
「……だから、準備をする」
静かに続ける。
「三日は欲しい。薬草も使わせてもらう。
触れるのも、段階を踏む」
説明は淡々としているが、言葉の端に慎重さが滲む。
「慣らす」
「身体に、俺の重さと熱を覚えさせる」
「痛みが出ないように」
一瞬、言葉が切れた。
「……傷つけないよう、壊さないように」
その一言だけ、感情が滲んだ。
エリアスは、胸の前で拳を握りしめる。
「……私は……傷ついたって、いい……獣人たちの苦しみに比べれば、」
ガレンは、すぐには頷かなかった。
「“いい”じゃ足りない」
きっぱりと。
「分からないまま、流されるな。そんな自己犠牲は望まない、誰も」
そう言ってから、少しだけ表情を緩める。
「だから、今日は明日使う薬草を用意する。
触れるのは、手と背中だけだ」
念押しするように。
「……俺は優しくできるが、この優しさは無限じゃない」
エリアスの頬が、さらに赤くなる。
「……すまない……」
「謝るな」
短く。
「選んだのは、俺とお前だ」
その言葉に、エリアスの背筋が伸びる。
ガレンは踵を返し、洞穴の外へ向かう。
去り際、振り返らずに落とす。
「……三日。それまでは、教える。その先は――エリの望んだ姿で、抱く」
夏の空気が、静かに揺れた。
エリアスはその場に立ち尽くし、腹のあたりにそっと手を当てる。
(ここまで…入る、)
その言葉が、身体の奥で、何度も反響していた。
――怖くはない。
ただ、現実が、確かな重みを持った1日目だった。