12

  逃げ場はない。

  だからガレンは、すぐには何もしなかった。

  少し冷えた夜の空気が肌にまとわりつき、呼吸のたびに体温が伝わる距離で、ガレンは立ち止まったまま、エリアスを見下ろしていた。

  「……今日は、本番はしない」

  唐突に、だが迷いのない声だった。

  エリアスが瞬きをする。

  「……え?」

  「順番がある」

  ガレンはそう言って、ゆっくり近づく。

  触れはしない。ただ、距離だけを詰める。

  「エリは、人間だ。身体も、そうだ」

  淡々と、事実を並べる声音。

  「俺は熊だ。力も、重さも、大きさも違う」

  一拍。

  ガレンは、エリアスの腹の前で手を止めた。

  指先で位置を示す。

  へそから、指四本分ほど上。

  とん、と軽く押す。

  「俺のは、ここまで入るだろう」

  脅しでも、煽りでもない、並べられた事実のひとつ。

  エリアスは、一瞬で理解した。

  血が一気に顔に集まり、喉が鳴る。

  恐怖ではない。羞恥だった。

  「……っ」

  声にならない息が漏れ、膝がわずかに震える。

  ガレンは、それを見逃さない。

  一度、短く息を吐いた。

  「……熊を、舐めるな」

  低く、抑えた声。

  エリアスが、反射的に言い返す。

  「なっ……舐めてなど…ない…!」

  珍しく、はっきりした否定だった。

  顔は赤いまま、言葉だけが先に出る。

  「私は……軽く考えてなど……!」

  ガレンは、ほんの一瞬だけ目を細める。

  「……多分、」

  歩み寄るが、触れない。

  「お前の言う“舐める”と、俺の言う“舐める”は、違う」

  エリアスが言葉に詰まる。

  「……?」

  ガレンは肩をすくめた。

  「怖がらずに選ぶことと、想像が追いついていないことは、別だ」

  淡々と。

  「エリは真剣だ。だが――身体の現実を、まだ知らない」

  一拍。

  「だから言わせてもらう」

  声が、さらに低くなる。

  「裂けるぞ」

  その一言が、洞穴の空気に落ちた。

  エリアスは思わず息を呑む。

  それでも、逃げない。

  「……それでも……私は……」

  「分かってる」

  遮るように、しかし強くはない声。

  「選択を変えないことも、覚悟があることも」

  ガレンは視線を逸らし、低く付け足す。

  「……だからこそ、順番だ」

  短く、諭すように。

  ガレンは一歩引き、距離を戻す。

  「……だから、準備をする」

  静かに続ける。

  「三日は欲しい。薬草も使わせてもらう。

  触れるのも、段階を踏む」

  説明は淡々としているが、言葉の端に慎重さが滲む。

  「慣らす」

  「身体に、俺の重さと熱を覚えさせる」

  「痛みが出ないように」

  一瞬、言葉が切れた。

  「……傷つけないよう、壊さないように」

  その一言だけ、感情が滲んだ。

  エリアスは、胸の前で拳を握りしめる。

  「……私は……傷ついたって、いい……獣人たちの苦しみに比べれば、」

  ガレンは、すぐには頷かなかった。

  「“いい”じゃ足りない」

  きっぱりと。

  「分からないまま、流されるな。そんな自己犠牲は望まない、誰も」

  そう言ってから、少しだけ表情を緩める。

  「だから、今日は明日使う薬草を用意する。

  触れるのは、手と背中だけだ」

  念押しするように。

  「……俺は優しくできるが、この優しさは無限じゃない」

  エリアスの頬が、さらに赤くなる。

  「……すまない……」

  「謝るな」

  短く。

  「選んだのは、俺とお前だ」

  その言葉に、エリアスの背筋が伸びる。

  ガレンは踵を返し、洞穴の外へ向かう。

  去り際、振り返らずに落とす。

  「……三日。それまでは、教える。その先は――エリの望んだ姿で、抱く」

  夏の空気が、静かに揺れた。

  エリアスはその場に立ち尽くし、腹のあたりにそっと手を当てる。

  (ここまで…入る、)

  その言葉が、身体の奥で、何度も反響していた。

  ――怖くはない。

  ただ、現実が、確かな重みを持った1日目だった。