13

  朝の洞穴は静かだった。

  夏でも涼しい風が吹き込む。

  ガレンは洞穴の入口近くで、薬草を選り分けている。

  乾いた葉を折り、香りを確かめ、使えないものを脇に避ける。

  その手つきが、妙に慣れて見えた。

  エリアスは、それを見ていた。

  (準備が…慣れている)

  その事実が、胸の奥で小さく刺さる。

  (…これが…当たり前、なのか……)

  出会ってまだ日は浅いが、エリアスは人として、ガレンは獣人として生きてきた時間がある。

  理屈では分かっているのに、感情が追いつかない。

  「……ガレン」

  呼ぶと、彼は手を止めずに答えた。

  「どうした」

  「……獣人は……」

  一度、言葉を切る。

  「……どうやって、生まれるんだ」

  ガレンの手が、今度ははっきり止まった。

  振り返り、エリアスを見る。

  「…人と獣が交わって、いつしか生まれた。それだけだ」

  簡潔な答え。

  エリアスの胸が、きゅっと縮む。

  「……じゃあ……」

  視線が落ちる。

  「……ガレンは……」

  喉が鳴る。

  「……誰かと……こ…」

  最後まで言えなかった。

  ガレンは、数秒だけ黙ったあと、はっきりと言った。

  「ない」

  即答だった。

  エリアスが顔を上げる。

  「……え……?」

  「獣人も人間も抱いたことは、ない」

  エリアスの思考が、完全に止まる。

  ガレンは、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。

  「力が強すぎるから。制御を誤れば、壊す」

  淡々としているが、言葉は重い。

  「だから、最初から選ばなかった。

  …見てわかるだろうが、欲がなかったわけじゃない」

  更に続ける。

  「……壊すくらいなら、触れないほうがいい」

  その判断が、どれほど孤独だったか。

  エリアスは、そこでようやく理解する。

  「……じゃあ……」

  声が小さくなる。

  「……私が……初めて……?」

  ガレンは、はっきり頷いた。

  少し照れているのか、目は合わせてくれない。

  「ああ。お前が、最初だ」

  その一言で、エリアスの中にあった杞憂が、音を立てて崩れた。

  ——嫉妬。

  ——不安。

  ——比べられる恐れ。

  全部、最初から存在しなかった。

  「……私……」

  思わず、顔を覆う。

  「……勝手に……妬いていた……?」

  ガレンは、少しだけ目を細めた。

  「……そうか」

  否定しない。

  笑いもしない。

  「それも悪くない」

  ぽつりと。

  「選ばれるのを、望んでいる証拠だな」

  エリアスの耳まで赤くなる。

  「……そんな……」

  ガレンは、距離を詰める。

  「安心しろ」

  低く、確かに。

  「俺は、誰とも比べられない。比べる経験が、ない」

  今度は目を合わせる。

  「……全部、初めてだ。誰かを巣穴に招くことも、関わるのも、口付けも、」

  その言葉は、優しさでもあり、覚悟でもあった。

  エリアスは、胸に手を当てる。

  嫉妬は、恥ずかしい。

  だが、否定されなかった。

  小さく、正直に言う。

  「……少し……嬉しい……」

  ガレンは、短く息を吐いた。

  「そうか。エリが嬉しいなら、俺も嬉しい」

  薬草を差し出す。

  「今日は、これを使う。

  触れるのは、手と背中だけだ」

  淡々とした声に戻るが、空気は確実に変わっていた。

  ――

  薬草を差し出したままのガレンは一瞬、言葉を探すように黙った。

  「……だから、俺は知らない」

  低く、慎重な声。

  エリアスが顔を上げる。

  「……何を……?」

  ガレンは、薬草を掌で軽く潰しながら答える。

  「人間がどこまで弱いのか、どこで壊れるのか」

  指の間から、青い香りが立ちのぼる。

  「獣人同士なら、多少乱れても戻せるはずだが。

  人間は違うのだろう」

  視線が、エリアスの背へ落ちる。

  「……だから、俺は知らない。エリの“限界”を」

  その言葉は、無知の告白だった。

  だが同時に、最大限の警戒でもあった。

  「……だから、一緒に確かめる」

  そう言って、ガレンはエリアスの背後へ回る。

  「触れるぞ」

  短い確認。

  「……うん」

  返事を待ってから、掌が背に触れた。

  ゆっくり、長く。

  薬草が、肌に伸ばされる。

  指ではなく、掌全体で。

  肩甲骨の縁。

  背骨の脇。

  腰へ向かって、円を描くように塗り、馴染ませる。

  「……熱のまわりが、早い」

  ガレンが呟く。

  「……ぁ、これ…効いてる……?」

  「いや、《《効きやすい》》のかもしれない」

  淡々とした言葉なのに、意味が深すぎた。

  エリアスは、無意識に肩を強張らせる。

  すると、すぐに掌が止まる。

  「力を抜け」

  低い声。

  「……壊れやすいところほど、解す必要がある」

  まるで教えるように。

  だが、触れ方は変わらない。

  薬草の匂いと、体温。

  背中だけなのに、身体が疼き始めてしまう。

  「……ガレン、」

  思わず、名を呼ぶ。

  「……私は…やはり、弱い……?」

  ガレンは、一瞬だけ動きを止めた。

  「……弱い、とは違うな」

  すぐに、掌が動きを再開する。

  「柔らかく、壊れやすい……だから、扱いを誤れない」

  言葉が、慎重に選ばれていた。

  「それを知らずに触るのは、……逆に人間を、舐めることになる」

  昨日の言葉が、ここで重なる。

  エリアスの喉が、鳴る。

  「……ガレンは、舐めてない……」

  小さく、だがはっきり。

  ガレンは、低く息を吐いた。

  「そうありたい」

  最後にもう一度、ゆっくりと背中を撫でる。

  「今日は、ここまでだ」

  名残惜しそうな声。

  「だが、身体は覚える。きっと今夜は、もっと分かる。何かあったらすぐ俺を起こせ」

  ガレンは、掌を離した。

  薬草の熱だけが、背に残る。

  エリアスは、しばらく動けずにいた。

  嫉妬はもう、形を変えている。

  ——知らなかった。

  ——触れたことがなかった。

  それでも、選び、待ち、確かめる獣人。

  凶暴で理性がないのは人間のほうではないか。

  (……全部、初めて……)

  その事実が、胸の奥で静かに熱を持つ。

  二日目の心と身体はもう、嘘をつけなくなっていた。