朝の洞穴は静かだった。
夏でも涼しい風が吹き込む。
ガレンは洞穴の入口近くで、薬草を選り分けている。
乾いた葉を折り、香りを確かめ、使えないものを脇に避ける。
その手つきが、妙に慣れて見えた。
エリアスは、それを見ていた。
(準備が…慣れている)
その事実が、胸の奥で小さく刺さる。
(…これが…当たり前、なのか……)
出会ってまだ日は浅いが、エリアスは人として、ガレンは獣人として生きてきた時間がある。
理屈では分かっているのに、感情が追いつかない。
「……ガレン」
呼ぶと、彼は手を止めずに答えた。
「どうした」
「……獣人は……」
一度、言葉を切る。
「……どうやって、生まれるんだ」
ガレンの手が、今度ははっきり止まった。
振り返り、エリアスを見る。
「…人と獣が交わって、いつしか生まれた。それだけだ」
簡潔な答え。
エリアスの胸が、きゅっと縮む。
「……じゃあ……」
視線が落ちる。
「……ガレンは……」
喉が鳴る。
「……誰かと……こ…」
最後まで言えなかった。
ガレンは、数秒だけ黙ったあと、はっきりと言った。
「ない」
即答だった。
エリアスが顔を上げる。
「……え……?」
「獣人も人間も抱いたことは、ない」
エリアスの思考が、完全に止まる。
ガレンは、少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
「力が強すぎるから。制御を誤れば、壊す」
淡々としているが、言葉は重い。
「だから、最初から選ばなかった。
…見てわかるだろうが、欲がなかったわけじゃない」
更に続ける。
「……壊すくらいなら、触れないほうがいい」
その判断が、どれほど孤独だったか。
エリアスは、そこでようやく理解する。
「……じゃあ……」
声が小さくなる。
「……私が……初めて……?」
ガレンは、はっきり頷いた。
少し照れているのか、目は合わせてくれない。
「ああ。お前が、最初だ」
その一言で、エリアスの中にあった杞憂が、音を立てて崩れた。
——嫉妬。
——不安。
——比べられる恐れ。
全部、最初から存在しなかった。
「……私……」
思わず、顔を覆う。
「……勝手に……妬いていた……?」
ガレンは、少しだけ目を細めた。
「……そうか」
否定しない。
笑いもしない。
「それも悪くない」
ぽつりと。
「選ばれるのを、望んでいる証拠だな」
エリアスの耳まで赤くなる。
「……そんな……」
ガレンは、距離を詰める。
「安心しろ」
低く、確かに。
「俺は、誰とも比べられない。比べる経験が、ない」
今度は目を合わせる。
「……全部、初めてだ。誰かを巣穴に招くことも、関わるのも、口付けも、」
その言葉は、優しさでもあり、覚悟でもあった。
エリアスは、胸に手を当てる。
嫉妬は、恥ずかしい。
だが、否定されなかった。
小さく、正直に言う。
「……少し……嬉しい……」
ガレンは、短く息を吐いた。
「そうか。エリが嬉しいなら、俺も嬉しい」
薬草を差し出す。
「今日は、これを使う。
触れるのは、手と背中だけだ」
淡々とした声に戻るが、空気は確実に変わっていた。
――
薬草を差し出したままのガレンは一瞬、言葉を探すように黙った。
「……だから、俺は知らない」
低く、慎重な声。
エリアスが顔を上げる。
「……何を……?」
ガレンは、薬草を掌で軽く潰しながら答える。
「人間がどこまで弱いのか、どこで壊れるのか」
指の間から、青い香りが立ちのぼる。
「獣人同士なら、多少乱れても戻せるはずだが。
人間は違うのだろう」
視線が、エリアスの背へ落ちる。
「……だから、俺は知らない。エリの“限界”を」
その言葉は、無知の告白だった。
だが同時に、最大限の警戒でもあった。
「……だから、一緒に確かめる」
そう言って、ガレンはエリアスの背後へ回る。
「触れるぞ」
短い確認。
「……うん」
返事を待ってから、掌が背に触れた。
ゆっくり、長く。
薬草が、肌に伸ばされる。
指ではなく、掌全体で。
肩甲骨の縁。
背骨の脇。
腰へ向かって、円を描くように塗り、馴染ませる。
「……熱のまわりが、早い」
ガレンが呟く。
「……ぁ、これ…効いてる……?」
「いや、《《効きやすい》》のかもしれない」
淡々とした言葉なのに、意味が深すぎた。
エリアスは、無意識に肩を強張らせる。
すると、すぐに掌が止まる。
「力を抜け」
低い声。
「……壊れやすいところほど、解す必要がある」
まるで教えるように。
だが、触れ方は変わらない。
薬草の匂いと、体温。
背中だけなのに、身体が疼き始めてしまう。
「……ガレン、」
思わず、名を呼ぶ。
「……私は…やはり、弱い……?」
ガレンは、一瞬だけ動きを止めた。
「……弱い、とは違うな」
すぐに、掌が動きを再開する。
「柔らかく、壊れやすい……だから、扱いを誤れない」
言葉が、慎重に選ばれていた。
「それを知らずに触るのは、……逆に人間を、舐めることになる」
昨日の言葉が、ここで重なる。
エリアスの喉が、鳴る。
「……ガレンは、舐めてない……」
小さく、だがはっきり。
ガレンは、低く息を吐いた。
「そうありたい」
最後にもう一度、ゆっくりと背中を撫でる。
「今日は、ここまでだ」
名残惜しそうな声。
「だが、身体は覚える。きっと今夜は、もっと分かる。何かあったらすぐ俺を起こせ」
ガレンは、掌を離した。
薬草の熱だけが、背に残る。
エリアスは、しばらく動けずにいた。
嫉妬はもう、形を変えている。
——知らなかった。
——触れたことがなかった。
それでも、選び、待ち、確かめる獣人。
凶暴で理性がないのは人間のほうではないか。
(……全部、初めて……)
その事実が、胸の奥で静かに熱を持つ。
二日目の心と身体はもう、嘘をつけなくなっていた。