その夜、エリアスは眠れなかった。
洞穴は静かで、風の気配もない。
昼間に塗られた薬草の匂いが、まだ薄く岩肌に残っている。
それだけのはずなのに、身体の奥が落ち着かなかった。
熱がある。
だが、火照りというほど単純ではない。
どこが熱いのか分からないまま、
内側からじわじわと集まってくる感覚だけがある。
(……おかしい)
横になっても、呼吸が浅い。
背を向けても、膝を抱えても、逃げ場がない。
王宮の夜を思い出す。
整えられた寝具、冷たい石、薬湯の匂い。
眠るためだけに用意された夜。
——だが、こんな感覚はなかった。
身体が、誰かの存在を前提にして反応する感覚。
触れられていないのに、触れられた記憶をなぞるように熱を持つこと。
(……誰も、教えてくれなかった)
エリアスは無意識に背を丸めた。
昼間、背に置かれた掌。
薬草を伸ばす、ゆっくりとした動き。
触れているのに、踏み込まない距離。
——あれは、教えだった。
(……慣らす、って……こういう……)
身体が勝手に続きを探してしまう。
恥ずかしいと思うのに、止め方が分からない。
喉が渇く。
息が、やけに浅い。
「……ガレン……」
名を呼んだ声は、かすれて闇に溶けた。
返事はない。
眠っているのか。
発情期の中我慢をして日中も気を張っているのだろう、仕方がなかった。
——それでも、言われた言葉が浮かぶ。
《何かあったら、すぐ俺を起こせ》
(…無視?……やっぱり、起こしたほうが……)
エリアスは、そっと身体を起こした。
だが、どう声をかけていいか分からず、また横になる。
胸が上下し、呼吸が乱れる。
(……どうして……こんな……)
落ち着こうとして、腹に手を当てた。
ただ、それだけのつもりだった。
指が、少しだけずれた。
頭をもたげている昂ぶりに、手が当たってしまった。
「……んぁ、っ」
喉の奥から、思いがけない音が漏れた。
自分でも信じられないほど、熱を含んだ、情けない声。
(……な……)
慌てて手を引こうとした、その瞬間。
「……エリ、」
低い声と同時に、ガレンが跳ね起きる。
洞穴の空気が、一気に張り詰める。
「……はっ、ぇ…ごめ…なさ……」
エリアスは慌てて身体を縮める。
顔が、どうしようもなく熱い。
「…ぁ…起こそうとして……言われたから…ん、…でも、起きなくて…」
言葉が、途切れ途切れになる。
ガレンは、すぐに近づかなかった。
だが、視線だけで状況を把握しているのが分かる。
浅い呼吸。
濡れた睫毛。
とろけた瞳と上気した頬。
まだ残る薬草の匂い。
「……これは、俺が悪い…量を誤った。
効きやすいお前に対して、」
低く、明確な自己判断。
ほぼ独り言のようなそれに、エリアスが目を見開く。
「……ふ、ぇ…?」
「……それとすまない。
さっきは、眠っているふりをしていた」
ガレンの正直な告白だった。
「……耐えていた、から」
その一言で、エリアスの胸がぎゅっと詰まる。
「…ガレン、…無視して…」
「ない」
即答。
「ただ、今は近づけない」
短い沈黙。
「……多分フェロモンが、強すぎる」
低く、噛みしめるように。
「お前の身体が反応しているのは、異常じゃない」
エリアスは、布の中で小さく頷く。
恥ずかしい。
だが、否定されなかった。
「……眠れるか」
「……ん、わか、ない……」
「なら、俺は起きている。また何かあったら、すぐに呼べ」
ガレンは背を向けたまま、動かない。
だが、完全に起きている気配があった。
(ガレンの背中、大きい…)
そのまま、いつの間にかエリアスは眠りに落ちた。
——そして、夢を見る。
触れられていないのに、
確かに包まれている感覚。
重さと熱。
逃げ場のない、守られる距離の中で。
名を呼ばれている気がして、返そうとして、喉が震える。
目を覚ましたとき、身体は汗で濡れていた。
胸が、どくどくと鳴っている。
隣で、ガレンはきっと起きていた。
背を向けたまま、じっと動かない。
——耐えているのだ。
洞穴の奥で、
二人とも眠らないまま、同じ熱を抱えて朝を待っていた。
王宮では、決して教えられなかったこと。
それを身体が先に理解してしまった夜だった。