洞穴の奥に残っていた緊張が、ゆっくりとほどけていった。
重さが、変わる。
獣化がゆっくり解け、人の姿へ戻ると、ガレンはしばらくそのまま動かなかった。
離れない。が、喉は少し鳴ったまま。
息を整えることに、すべての意識を使っているのが分かる。
肩の上下が、少しずつ落ち着いていく。
「……は、」
言葉にならない音が、喉の奥で消えた。
それは衝動の名残ではなく、無事に終えられたことを確かめるための沈黙だった。
エリアスは、胸に残る鼓動を数えるように、ゆっくりと呼吸をする。
「ん、ぅ…」
痛みは、ない。
恐怖も、ない。
ただ、確かな疲労と、身体の奥に残る「受け止めた」という感覚だけがある。
——恐れはない。
——壊れていない。
——最後までできた。
そのすべてを、エリアスの身体が物語る。
ガレンが、低く息を吐く。
「……、できたな」
独り言のような声だった。
誇るでもなく、確かめるでもなく、
ただ事実を置くように。
「……壊さずに」
その一言に、重みがあった。
エリアスは、少し間を置いてから、頷いた。
「……うん、できた…」
声は小さい。
だが、揺れていない。
ガレンの体から、ふうっとようやく力が抜ける。
肩の緊張が解け、額が、そっとエリアスの肩に預けられた。
重い。
けれど、それはもう危うい重さではなかった。
「……俺達、交われた」
ガレンが、噛みしめるように言う。
「ちゃんと、選んで、受け入れて」
言葉の端が、わずかに震えた。
エリアスは、その震えを感じ取り、
ためらいなく腕を伸ばす。
抱きしめるというより、
離れなくていいと伝える仕草だった。
「……ガレン、平気?」
名を呼ぶと、返事はない。
だが、呼吸が、確かに近づく。
「……あぁ、無事だ」
低く、確信に満ちた声。
「お前も」
「俺も」
それだけで、十分だった。
――
夕方の気配が、洞穴の奥に滲み始める。
昼ほど鋭くなく、夜ほど冷たくもない、落ち着いた橙色。
二人は、身を寄せ合ったまま、まだ離れていない。
しばらくして、耐えきれなくなったように、ガレンがぽつりと口を開いた。
「……その、よかったか?」
一瞬、空気が止まる。
エリアスは瞬きをして、少し考えたあと、正直に答えた。
「……うん、あったかかった」
間髪入れずに。
「……それと、痛くなかったよ」
その言葉に、ガレンの肩が目に見えて落ちる。
「……そうか」
低く、深い息。
「……それなら、よかった」
本気の安堵だった。
エリアスは、その様子を見て、少しだけ笑う。
そして、悪気なく続きを足した。
「……あの、途中からは…………だんだん、気持ちよくて……」
——そこまでだった。
次の瞬間、ガレンの手が伸びる。
乱暴ではないが、迷いもない。
口を塞がれる。
「っ、ん」
「……そこまでだ」
低い声。
だが、怒ってはいない。
「……それ以上は、言うな」
「……?」
ガレンは、少しだけ視線を逸らした。
「……また、したくなる」
率直すぎる理由。
「……今は、己の理性を褒めてやりたいところだ」
エリアスはきょとんとしてから理解し、頬がじわじわ赤くなる。
「……あ……」
小さく息を吐いて、ぽつり。
「……ごめ、」
「謝るな…それは、喜ばしい感想だから」
そう言ってから、少し間を置く。
「……だが、今日はここまで、だ」
エリアスは、少し考えてから言った。
「……私、もしかして……頑丈……?」
ガレンは、一瞬だけ固まり、
次いで、わずかに口元を緩める。
「……過信するな」
即答だが、声は硬くない。
「だが…弱いエリではないな」
その言い方が、すべてだった。
エリアスが小さく笑う。
「……ふふ」
ガレンは天井を仰ぎ、短く息を吐く。
「……エリ」
苦笑混じりに。
「……熊を、舐めるなよ」
「舐めてないよ」
即答。真顔。
その様子に、ガレンはとうとう小さく笑った。
「……まぁいい」
そっと距離を詰める。
「今日は、無事に終えられた。
お前を壊さず、交尾できた。それで、十分だ」
エリアスは静かに頷いてまた目を閉じた。
「愛してるよ、ガレン」
――
夜の洞穴は、静かだった。
だが、その静けさの中には、以前と違い、孤独はなかった。
洞穴の入り口に、月光が差し込む。
青白い光は岩肌をなぞる。
熱を含んだ空気はまだ残っているが、張りつめた気配はない。
エリアスは、壁に背を預けるように座っていた。
身体を動かすたび、内側に鈍い余韻が返ってくる。
痛みや違和感でもない。
——確かに“中に残った”身体の感覚。
「……んっ、」
小さく声が漏れて、エリアスは口元を押さえた。
(……わ、声、出やすくなってる……)
それに気づいて、ひとりで赤くなる。
少し離れた場所で、ガレンが火を起こしていた。
といっても、燃え上がらせるわけではない。
少し冷えるらしい夜中に備えて、最低限の火種を整えているだけだ。
その背中は、もう完全に人のものだった。
肩の線。腕の動き。
だが、近づけばまだ、熊の名残のような険しさがある。
「……エリ、動いていいのか」
不意に、ガレンが言った。
振り返らないままの声だった。
「無理はするな。今は、回復の途中だ」
エリアスは、一瞬きょとんとしてから、苦笑する。
「……そんなに、壊れそうに見える?」
ガレンは、少しだけ黙った。
「……見えるというより」
言葉を選ぶ間。
「……これは触った側の責任で、ただお前が心配なんだ」
その答えに、エリアスは目を瞬かせたあと、静かに笑った。
「……じゃあ、ちゃんと見て」
ゆっくりと、立ち上がる。
壁に手をつきながら、一歩。
身体は、ちゃんと動く。
重さも、熱も、受け止められている。
「……ほら」
少しだけ、胸を張る。
「……私は、ちゃんとここにいるよ」
ガレンが、ようやく振り返った。
その目は、抱かれた余韻を纏いながらも今朝よりずっと落ち着いている。
だが、油断はしていない。想像力の欠如も補われていた。
ガレンはゆっくりと近づき、エリアスの前で止まる。
「……無茶はするな」
もう一度、低く。
「お前は、きっと強いが……無理を“できてしまう”タイプなのだろう」
エリアスは、少しだけ考えてから、頷いた。
「……そうなのかも?」
それから、ぽつりと。
「……でも、ガレンといれば無理しないよ」
ガレンの喉が、わずかに鳴った。
「……それは、……いい判断だ」
エリアスは、迷わず頷く。
「ね、いい判断」
月光は二人の間を照らす。
そこにもう、境界も、選別も、緊張もない。
あるのは、同じ時間を過ごした身体と、離れないと決めた距離だけだった。