16

  洞穴の奥に残っていた緊張が、ゆっくりとほどけていった。

  重さが、変わる。

  獣化がゆっくり解け、人の姿へ戻ると、ガレンはしばらくそのまま動かなかった。

  離れない。が、喉は少し鳴ったまま。

  息を整えることに、すべての意識を使っているのが分かる。

  肩の上下が、少しずつ落ち着いていく。

  「……は、」

  言葉にならない音が、喉の奥で消えた。

  それは衝動の名残ではなく、無事に終えられたことを確かめるための沈黙だった。

  エリアスは、胸に残る鼓動を数えるように、ゆっくりと呼吸をする。

  「ん、ぅ…」

  痛みは、ない。

  恐怖も、ない。

  ただ、確かな疲労と、身体の奥に残る「受け止めた」という感覚だけがある。

  ——恐れはない。

  ——壊れていない。

  ——最後までできた。

  そのすべてを、エリアスの身体が物語る。

  ガレンが、低く息を吐く。

  「……、できたな」

  独り言のような声だった。

  誇るでもなく、確かめるでもなく、

  ただ事実を置くように。

  「……壊さずに」

  その一言に、重みがあった。

  エリアスは、少し間を置いてから、頷いた。

  「……うん、できた…」

  声は小さい。

  だが、揺れていない。

  ガレンの体から、ふうっとようやく力が抜ける。

  肩の緊張が解け、額が、そっとエリアスの肩に預けられた。

  重い。

  けれど、それはもう危うい重さではなかった。

  「……俺達、交われた」

  ガレンが、噛みしめるように言う。

  「ちゃんと、選んで、受け入れて」

  言葉の端が、わずかに震えた。

  エリアスは、その震えを感じ取り、

  ためらいなく腕を伸ばす。

  抱きしめるというより、

  離れなくていいと伝える仕草だった。

  「……ガレン、平気?」

  名を呼ぶと、返事はない。

  だが、呼吸が、確かに近づく。

  「……あぁ、無事だ」

  低く、確信に満ちた声。

  「お前も」

  「俺も」

  それだけで、十分だった。

  ――

  夕方の気配が、洞穴の奥に滲み始める。

  昼ほど鋭くなく、夜ほど冷たくもない、落ち着いた橙色。

  二人は、身を寄せ合ったまま、まだ離れていない。

  しばらくして、耐えきれなくなったように、ガレンがぽつりと口を開いた。

  「……その、よかったか?」

  一瞬、空気が止まる。

  エリアスは瞬きをして、少し考えたあと、正直に答えた。

  「……うん、あったかかった」

  間髪入れずに。

  「……それと、痛くなかったよ」

  その言葉に、ガレンの肩が目に見えて落ちる。

  「……そうか」

  低く、深い息。

  「……それなら、よかった」

  本気の安堵だった。

  エリアスは、その様子を見て、少しだけ笑う。

  そして、悪気なく続きを足した。

  「……あの、途中からは…………だんだん、気持ちよくて……」

  ——そこまでだった。

  次の瞬間、ガレンの手が伸びる。

  乱暴ではないが、迷いもない。

  口を塞がれる。

  「っ、ん」

  「……そこまでだ」

  低い声。

  だが、怒ってはいない。

  「……それ以上は、言うな」

  「……?」

  ガレンは、少しだけ視線を逸らした。

  「……また、したくなる」

  率直すぎる理由。

  「……今は、己の理性を褒めてやりたいところだ」

  エリアスはきょとんとしてから理解し、頬がじわじわ赤くなる。

  「……あ……」

  小さく息を吐いて、ぽつり。

  「……ごめ、」

  「謝るな…それは、喜ばしい感想だから」

  そう言ってから、少し間を置く。

  「……だが、今日はここまで、だ」

  エリアスは、少し考えてから言った。

  「……私、もしかして……頑丈……?」

  ガレンは、一瞬だけ固まり、

  次いで、わずかに口元を緩める。

  「……過信するな」

  即答だが、声は硬くない。

  「だが…弱いエリではないな」

  その言い方が、すべてだった。

  エリアスが小さく笑う。

  「……ふふ」

  ガレンは天井を仰ぎ、短く息を吐く。

  「……エリ」

  苦笑混じりに。

  「……熊を、舐めるなよ」

  「舐めてないよ」

  即答。真顔。

  その様子に、ガレンはとうとう小さく笑った。

  「……まぁいい」

  そっと距離を詰める。

  「今日は、無事に終えられた。

  お前を壊さず、交尾できた。それで、十分だ」

  エリアスは静かに頷いてまた目を閉じた。

  「愛してるよ、ガレン」

  ――

  夜の洞穴は、静かだった。

  だが、その静けさの中には、以前と違い、孤独はなかった。

  洞穴の入り口に、月光が差し込む。

  青白い光は岩肌をなぞる。

  熱を含んだ空気はまだ残っているが、張りつめた気配はない。

  エリアスは、壁に背を預けるように座っていた。

  身体を動かすたび、内側に鈍い余韻が返ってくる。

  痛みや違和感でもない。

  ——確かに“中に残った”身体の感覚。

  「……んっ、」

  小さく声が漏れて、エリアスは口元を押さえた。

  (……わ、声、出やすくなってる……)

  それに気づいて、ひとりで赤くなる。

  少し離れた場所で、ガレンが火を起こしていた。

  といっても、燃え上がらせるわけではない。

  少し冷えるらしい夜中に備えて、最低限の火種を整えているだけだ。

  その背中は、もう完全に人のものだった。

  肩の線。腕の動き。

  だが、近づけばまだ、熊の名残のような険しさがある。

  「……エリ、動いていいのか」

  不意に、ガレンが言った。

  振り返らないままの声だった。

  「無理はするな。今は、回復の途中だ」

  エリアスは、一瞬きょとんとしてから、苦笑する。

  「……そんなに、壊れそうに見える?」

  ガレンは、少しだけ黙った。

  「……見えるというより」

  言葉を選ぶ間。

  「……これは触った側の責任で、ただお前が心配なんだ」

  その答えに、エリアスは目を瞬かせたあと、静かに笑った。

  「……じゃあ、ちゃんと見て」

  ゆっくりと、立ち上がる。

  壁に手をつきながら、一歩。

  身体は、ちゃんと動く。

  重さも、熱も、受け止められている。

  「……ほら」

  少しだけ、胸を張る。

  「……私は、ちゃんとここにいるよ」

  ガレンが、ようやく振り返った。

  その目は、抱かれた余韻を纏いながらも今朝よりずっと落ち着いている。

  だが、油断はしていない。想像力の欠如も補われていた。

  ガレンはゆっくりと近づき、エリアスの前で止まる。

  「……無茶はするな」

  もう一度、低く。

  「お前は、きっと強いが……無理を“できてしまう”タイプなのだろう」

  エリアスは、少しだけ考えてから、頷いた。

  「……そうなのかも?」

  それから、ぽつりと。

  「……でも、ガレンといれば無理しないよ」

  ガレンの喉が、わずかに鳴った。

  「……それは、……いい判断だ」

  エリアスは、迷わず頷く。

  「ね、いい判断」

  月光は二人の間を照らす。

  そこにもう、境界も、選別も、緊張もない。

  あるのは、同じ時間を過ごした身体と、離れないと決めた距離だけだった。