22

  エリアスが目を覚ましたのは、匂いでも痛みでもなかった。

  ただ、身体が重い。

  意識が水底から浮かび上がるように、ゆっくり戻ってくる。

  まぶたを開けるまでに時間がかかり、指先はまだ言うことを聞かない。

  (……あ……)

  最初に分かったのは、抱かれているということだった。

  硬い腕。

  逃げないように、壊さないように、慎重に回された力。

  胸に額が触れ、すぐそばで、聞き慣れた鼓動が鳴っている。

  「……エリ」

  低く、掠れた声。

  それだけで、胸の奥がほどけた。

  「……ガレン……」

  自分でも驚くほど、掠れた声だった。

  ガレンの腕が、わずかに震える。

  「……すまない…、」

  短い言葉。

  だが、隠しきれない安堵が滲んでいる。

  エリアスは、もう一度、ゆっくり瞬きをした。

  「…私が離さなかったから、ガレンは…謝らないで、」

  視界が定まる。

  洞穴の奥、岩肌、薄い光、いつもの場所。

  そして――

  少し離れた場所に、立っている男。

  息が、わずかに詰まる。

  初めて見る相手ではない。

  だが、安心できるほど近しくもない。

  前に一度だけ。

  洞穴の入口で、踏み込まずに立ち去った金色の気配。

  ガレンと言い合いになっていた記憶があった。

  その男が、静かに口を開いた。

  「目が覚めたな、エリアス」

  名を呼ばれて、心臓が跳ねる。

  確認ではない。

  知っていて呼んだ声だった。

  「……ギル、バート……」

  小さく呟くと、男は頷いた。

  「覚えていてくれて助かる」

  低く、落ち着いた声。

  「二度目だ。

  言った通り、今度は医師として来た」

  エリアスは、ガレンの胸に額を預けたまま、ほっと息を吐く。

  「……そう、だった……」

  記憶が、ゆっくり繋がる。

  あの夜、立ち止まった獅子。

  ガレンの声が、すぐ近くで落ちた。

  「……味方だ。俺の旧友だ」

  短く、だが迷いなく。

  エリアスは、もう一度だけギルバートを見る。

  距離を詰めない。

  圧もない。必要だから、そこに立っている。

  「……よかった……」

  その声は、ほとんど吐息だった。

  だが――

  ガレンとエリアスの認識をよそに、ギルバートの視線が、ほんのわずかに鋭くなる。

  細められる、獅子の目。

  「…確認させてくれ」

  空気が、張る。

  「人間が、なぜここにいる」

  淡々とした問い。

  「追放され、行き場を失って縋ったのか…それとも――追放自体が虚偽で、獣を探りに来たか?」

  一拍呼吸を置いて続けた。

  「あるいは、我々を排除する意図があるのか」

  エリアスの指先が、きゅっとガレンの服を掴む。

  ガレンは例外だ。獣人にとって、人間は本来そういう存在だった。

  人間が獣人に抱く違和感を、人間の血を引くとはいえ、獣人も持っている。

  人間のせいで。

  胸の奥が、冷える。

  だが、視線は逸らさなかった。

  「……そんなこと、……」

  「おい、ギルバート。その質問は俺が許可しない。

  疑うなら俺ごと疑え、」

  ガレンも噛み付くように反論した。

  エリアスは一瞬、言葉を探す。

  次に出てきた声は、少しだけ硬かった。

  「……それを、虚偽だと言うなら…

  私に対して……無礼、だ……」

  言い切ったあと、わずかに眉が迷う。

  (……こう、だった…?)

  洞穴の奥に、短い沈黙。

  それから――

  ギルバートが、ふっと息を漏らした。

  「……はは」

  小さな笑い。

  嘲りではない。思わず、という声音。

  エリアスは、むっとする。

  「……笑っ…」

  完全に、素の調子だ。

  ガレンの腕が、少しだけ締まる。

  「……エリ」

  低い声。止めるように。

  だが、ギルバートは肩をすくめた。

  「悪い。似合わなかった」

  はっきり言う。

  エリアスは、言い返そうとして――やめた。

  「……今は……王じゃないから」

  距離感ゼロの言い方。

  ギルバートは、意外そうに一瞬目を細め、それから頷いた。

  「そうらしい」

  そして、視線をガレンへ移す。

  「すまない、疑ってはいない。

  ガレンが選んだ存在なら、それで十分だ」

  ガレンの返事は短い。

  「……ああ」

  それで、話は終わった。

  エリアスは、ようやく息を吐く。

  「……ありがとう」

  誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。

  ギルバートは、医師の声に戻る。

  「とにかく今は休め。話は、身体が戻ってからだ」

  洞穴の中は、ようやく落ち着きを取り戻していた。

  ――

  エリアスは、再び浅い眠りに落ちている。

  先ほどより呼吸は安定し、胸の上下も穏やかだ。

  ガレンは、ほとんど動かず、その温もりを抱いたまま座っていた。

  離すことが、もう怖い。

  ギルバートは、洞穴の入口で外を見張っている。

  村の方角に、異変はない。

  今はまだ――

  誰も、ここで起きたことを知らない。

  (……今夜は、越えたな)

  越えたのは、一線ではない。

  ひとつ先の戻れない段階だ。

  抑えられなくなった力。

  受け止めてしまった人間の身体。

  そして、守ると決めた獣。

  すべては、もう元には戻らない。

  ギルバートは、ゆっくりと息を吐いた。

  「……今日は、休め」

  ガレンにだけ聞こえる声で言う。

  「夜明け前には戻る。

  数日前から噂が絶えない。

  村で、少し……話を聞いてくる」

  ガレンは、短く頷いた。

  「……頼む」

  それだけだった。

  ギルバートは、それ以上何も言わず、洞穴を出る。

  足音は、森に溶ける。

  洞穴の奥で、エリアスが小さく寝返りを打った。

  眉を寄せ、何かを夢見ているような顔。

  ガレンは、その額に触れる。

  「……まだだ」

  誰に言うでもなく。

  「……今は、まだ」

  夏は、祝福の季節だ。

  だが祝福は、猶予をくれるだけで、免罪はしない。

  数日後――

  村の中心で、ギルバートは村長から一枚の文書を受け取ることになる。

  そこに書かれているのは、獣人を“獣”と定義する、新たな勅令。

  洞穴にはまだ、何も届かない。

  だが世界は、すでに――

  静かに、二人を切り離す準備を始めていた。