エリアスが目を覚ましたのは、匂いでも痛みでもなかった。
ただ、身体が重い。
意識が水底から浮かび上がるように、ゆっくり戻ってくる。
まぶたを開けるまでに時間がかかり、指先はまだ言うことを聞かない。
(……あ……)
最初に分かったのは、抱かれているということだった。
硬い腕。
逃げないように、壊さないように、慎重に回された力。
胸に額が触れ、すぐそばで、聞き慣れた鼓動が鳴っている。
「……エリ」
低く、掠れた声。
それだけで、胸の奥がほどけた。
「……ガレン……」
自分でも驚くほど、掠れた声だった。
ガレンの腕が、わずかに震える。
「……すまない…、」
短い言葉。
だが、隠しきれない安堵が滲んでいる。
エリアスは、もう一度、ゆっくり瞬きをした。
「…私が離さなかったから、ガレンは…謝らないで、」
視界が定まる。
洞穴の奥、岩肌、薄い光、いつもの場所。
そして――
少し離れた場所に、立っている男。
息が、わずかに詰まる。
初めて見る相手ではない。
だが、安心できるほど近しくもない。
前に一度だけ。
洞穴の入口で、踏み込まずに立ち去った金色の気配。
ガレンと言い合いになっていた記憶があった。
その男が、静かに口を開いた。
「目が覚めたな、エリアス」
名を呼ばれて、心臓が跳ねる。
確認ではない。
知っていて呼んだ声だった。
「……ギル、バート……」
小さく呟くと、男は頷いた。
「覚えていてくれて助かる」
低く、落ち着いた声。
「二度目だ。
言った通り、今度は医師として来た」
エリアスは、ガレンの胸に額を預けたまま、ほっと息を吐く。
「……そう、だった……」
記憶が、ゆっくり繋がる。
あの夜、立ち止まった獅子。
ガレンの声が、すぐ近くで落ちた。
「……味方だ。俺の旧友だ」
短く、だが迷いなく。
エリアスは、もう一度だけギルバートを見る。
距離を詰めない。
圧もない。必要だから、そこに立っている。
「……よかった……」
その声は、ほとんど吐息だった。
だが――
ガレンとエリアスの認識をよそに、ギルバートの視線が、ほんのわずかに鋭くなる。
細められる、獅子の目。
「…確認させてくれ」
空気が、張る。
「人間が、なぜここにいる」
淡々とした問い。
「追放され、行き場を失って縋ったのか…それとも――追放自体が虚偽で、獣を探りに来たか?」
一拍呼吸を置いて続けた。
「あるいは、我々を排除する意図があるのか」
エリアスの指先が、きゅっとガレンの服を掴む。
ガレンは例外だ。獣人にとって、人間は本来そういう存在だった。
人間が獣人に抱く違和感を、人間の血を引くとはいえ、獣人も持っている。
人間のせいで。
胸の奥が、冷える。
だが、視線は逸らさなかった。
「……そんなこと、……」
「おい、ギルバート。その質問は俺が許可しない。
疑うなら俺ごと疑え、」
ガレンも噛み付くように反論した。
エリアスは一瞬、言葉を探す。
次に出てきた声は、少しだけ硬かった。
「……それを、虚偽だと言うなら…
私に対して……無礼、だ……」
言い切ったあと、わずかに眉が迷う。
(……こう、だった…?)
洞穴の奥に、短い沈黙。
それから――
ギルバートが、ふっと息を漏らした。
「……はは」
小さな笑い。
嘲りではない。思わず、という声音。
エリアスは、むっとする。
「……笑っ…」
完全に、素の調子だ。
ガレンの腕が、少しだけ締まる。
「……エリ」
低い声。止めるように。
だが、ギルバートは肩をすくめた。
「悪い。似合わなかった」
はっきり言う。
エリアスは、言い返そうとして――やめた。
「……今は……王じゃないから」
距離感ゼロの言い方。
ギルバートは、意外そうに一瞬目を細め、それから頷いた。
「そうらしい」
そして、視線をガレンへ移す。
「すまない、疑ってはいない。
ガレンが選んだ存在なら、それで十分だ」
ガレンの返事は短い。
「……ああ」
それで、話は終わった。
エリアスは、ようやく息を吐く。
「……ありがとう」
誰に向けた言葉かは、自分でも分からない。
ギルバートは、医師の声に戻る。
「とにかく今は休め。話は、身体が戻ってからだ」
洞穴の中は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
――
エリアスは、再び浅い眠りに落ちている。
先ほどより呼吸は安定し、胸の上下も穏やかだ。
ガレンは、ほとんど動かず、その温もりを抱いたまま座っていた。
離すことが、もう怖い。
ギルバートは、洞穴の入口で外を見張っている。
村の方角に、異変はない。
今はまだ――
誰も、ここで起きたことを知らない。
(……今夜は、越えたな)
越えたのは、一線ではない。
ひとつ先の戻れない段階だ。
抑えられなくなった力。
受け止めてしまった人間の身体。
そして、守ると決めた獣。
すべては、もう元には戻らない。
ギルバートは、ゆっくりと息を吐いた。
「……今日は、休め」
ガレンにだけ聞こえる声で言う。
「夜明け前には戻る。
数日前から噂が絶えない。
村で、少し……話を聞いてくる」
ガレンは、短く頷いた。
「……頼む」
それだけだった。
ギルバートは、それ以上何も言わず、洞穴を出る。
足音は、森に溶ける。
洞穴の奥で、エリアスが小さく寝返りを打った。
眉を寄せ、何かを夢見ているような顔。
ガレンは、その額に触れる。
「……まだだ」
誰に言うでもなく。
「……今は、まだ」
夏は、祝福の季節だ。
だが祝福は、猶予をくれるだけで、免罪はしない。
数日後――
村の中心で、ギルバートは村長から一枚の文書を受け取ることになる。
そこに書かれているのは、獣人を“獣”と定義する、新たな勅令。
洞穴にはまだ、何も届かない。
だが世界は、すでに――
静かに、二人を切り離す準備を始めていた。