23

  勅令が届いたのは、昼下がりだった。

  村長の家の前に人だかりができ、

  乾いた紙片が、無造作に掲げられる。

  読み上げられる言葉は、短い。

  飾りも、理由もない。

  獣人は、獣である。

  それだけだった。

  最初に湧いたのは、怒号ではない。

  誰かが、息を呑む音。

  誰かが、唾を飲み込む音。

  ざわめきは、遅れて広がった。

  「……冗談だろ」

  「今さら……何を……」

  声は、まだ個々だった。

  怒りも恐怖も、向かう先を探している。

  だが、勅令という“外側の言葉”は、

  群れにとって、都合がよかった。

  「……やっぱり、人間だ」

  「信じるから、こうなる」

  誰かが言った瞬間、別の誰かが、続きを引き取る。

  「忌々しい」

  「人間の血が混じったせいだ」

  言葉は、連なり始める。

  怒りは、理由を得ると増殖する。

  「獣人に、人間の血が流れてると思うと虫唾が走る」

  「最初から、信用しちゃいけなかったんだ」

  それは、誰か一人を殴るための言葉ではない。

  “こちら側”を守るために、

  “あちら側”を作る言葉だった。

  ガレンは、輪の外に立っていた。

  怒りが生まれる理由も、恐怖が拡がる理屈も、分かる。

  だが――その刃先が、まだ定まっていないことも。

  (……まだだ)

  この時点では、

  誰も、彼を見ていない。

  ――

  「……なあ」

  ひそひそと、声が落とされた。

  狐の獣人だった。

  いつも噂話を運び、

  話を盛り、

  半分は嘘で、半分は面白がっている存在。

  誰もが、真顔では聞かない。

  「聞いたか? ガレンの話」

  その名が出た瞬間、ざわめきが、ほんの一拍だけ止まった。

  「また始まった」

  「どうせ、作り話だろ」

  すぐに否定が返る。

  狐は、鼻で笑った。

  「いや、マジだって」

  「あいつ、人間と一緒にいる」

  今度は、笑い声が起きた。

  軽蔑と、安心が混じった笑いだ。

  「ガレンが?」

  「ありえねえ」

  「熊だぞ?」

  「女も寄せ付けなかったあいつが?」

  「村を守ってる」

  狐の表情が、歪む。

  「……見たんだよ、俺は。

  洞穴の方で……」

  「はいはい」

  「もういい」

  誰も、真面目に聞かない。

  狐の言葉だからだ。

  だが、それが――

  狐の腹を、決めさせた。

  (……証拠を持ってくればいい)

  夜。

  狐は、ひとりで森に入った。

  ガレンの洞穴は、すぐに分かった。

  匂いが、違う。

  獣のものだけではない。

  微かで、だが確かな、人間の残り香。

  忍び込むのは、容易だった。

  この時間は留守だ。

  奥まで入って、狐は足を止める。

  そこにあったのは、丁寧に畳まれた、人間の服。

  古く、擦り切れている。

  だが、清潔で、大切に扱われている痕跡がある。

  そして――

  ガレンの匂いが、深く染みついていた。

  触れた瞬間、狐の背筋を、確信が走る。

  「これだよ……」

  これは、偶然じゃない。

  一時的な同情でもない。

  ――共にいた痕だ。

  狐は、布を掴んだ。

  ――

  翌朝。

  狐は、村の中心に立っていた。

  「これだ」

  放り出された布切れが、地面に落ちる。

  音は、小さい。

  だが――空気が、はっきり変わった。

  誰かが、匂いを嗅ぐ。

  誰かが、顔をしかめる。

  誰かが、言葉を失う。

  否定の声は、もう出なかった。

  「……人間、だな」

  ぽつりと、誰かが言った。

  狐は、勝ち誇らなかった。

  ただ、荒く息をつく。

  「ほらな。

  嘘じゃなかったろ」

  その瞬間、噂は“事実”に変わった。

  物証が、憎悪に、形を与えた。

  「誑かされたんだ」

  「いや、違う。人間が最初から利用してる」

  「村を乗っ取る気だ」

  言葉は、勝手に転がり始める。

  止める者はいない。

  誰かが言った。

  「ガレンが、人間の味方についた」

  ガレンの名前が、初めて、明確な敵意を帯びて呼ばれた。

  ――ここから先は、もう戻らない。

  誰かが、決めたわけじゃない。

  だが、村は選んでしまった。

  人間と交わった獣を、

  “こちら側”から切り離すことを。

  静かに。

  確実に。

  ――

  狐が投げ出した布切れは、まだ地面の上にあった。

  誰も踏まない。だが、誰も拾わない。

  それだけで十分だった。

  「……誑かされたんだ」

  「人間に弱みを握られたんだろ」

  声が、少しずつ太くなる。

  正義を帯び始める。

  そのときだった。

  「――下がれ」

  低く、だが腹に響く声が、場を裂いた。

  ざわめきが、強制的に止まる。

  人垣を割って現れたのは、

  金色の髪をなびかせた獅子の獣人――ギルバートだった。

  立っているだけで、圧が違う。

  医師としての顔ではない。

  村長の息子でもない。

  獣人の上位捕食者としての“声”だった。

  「そこまでだ」

  怒鳴ってはいない。

  だが、誰も口を挟めない。

  「その布は、誰の許可で持ち出した」

  狐が、喉を鳴らす。

  「……ガレンの洞穴にあった。

  つまり――」

  「つまり、何だ」

  ギルバートが一歩踏み出す。

  地面が、きしむ。

  「洞穴にあったから罪か?

  匂いが混じっているから、断罪か?」

  獅子の眼が、群れを見渡す。

  「お前たちは、いつから裁定者になった」

  沈黙。

  「勅令が出たからか。王都がそう言ったからか――

  それで、考えるのをやめたのか」

  誰かが、反発しかけた。

  だが、声にならない。

  ギルバートは、狐を見る。

  「お前の話は、証言ではない。…煽動だ」

  驚きのあまり、狐の姿が滲んだその耳が、ぴくりと動く。

  「……じゃあ、これは何だよ」

  「人間の服だぞ」

  他の獣人が食い下がる。

  ギルバートは、視線を落とした。

  一瞬だけ。

  それが、致命的だった。

  狐は、その沈黙を“勝ち”と勘違いした。

  人間の姿に戻ると得意げにまた口を挟んた。

  「な?

  否定できねえだろ」

  空気が、再びざわつく。

  「ガレンは、人間と交わった」

  「それだけで十分だ」

  「獣人を獣だって言われてる時に――」

  「人間を庇う獣なんて、仲間じゃねえ」

  言葉が、再び増殖を始める。

  ギルバートは、歯を食いしばった。

  (抑えきれない…)

  ここで力を振るうのは簡単だ。

  それこそ“獣”になる。

  ガレンを想いを踏み躙ることになる。

  獅子の怒号で黙らせることはできる。

  だが、それは一時だ。

  勅令がある限り、この憎悪は、必ず戻る。

  「……今日は、解散しろ」

  ギルバートは、声を落とした。

  命令も懇願でもない、限界の妥協だった。

  「これ以上の私刑は、許さない

  ――今日は、だ」

  その“今日は”が、全員に伝わった。

  渋々、人は散り始める。

  だが、視線は消えない。

  憎悪は、しまわれただけだ。

  狐は、最後にもう一度だけ、

  布切れを見た。

  (……逃がさねえ)

  ――

  そのころ――

  森の奥。

  ガレンは、妙な気配を感じていた。

  風が、違う。

  獣たちの匂いが、落ち着かない。

  「……エリ」

  呼ぶと、エリアスが顔を上げる。

  「なに?」

  「……村が、騒がしい」

  それだけで、十分だった。

  エリアスは、すぐに理解した。

  あの勅令。

  噂。

  そして――人間の自分。

  「……逃げよう、ガレン」

  即答だった。

  もう城にいた頃の何も知らない自分ではなかった。

  「今なら、まだ」

  ガレンは、頷いた。

  この先がどうなるかを分かっていたから。