勅令が届いたのは、昼下がりだった。
村長の家の前に人だかりができ、
乾いた紙片が、無造作に掲げられる。
読み上げられる言葉は、短い。
飾りも、理由もない。
獣人は、獣である。
それだけだった。
最初に湧いたのは、怒号ではない。
誰かが、息を呑む音。
誰かが、唾を飲み込む音。
ざわめきは、遅れて広がった。
「……冗談だろ」
「今さら……何を……」
声は、まだ個々だった。
怒りも恐怖も、向かう先を探している。
だが、勅令という“外側の言葉”は、
群れにとって、都合がよかった。
「……やっぱり、人間だ」
「信じるから、こうなる」
誰かが言った瞬間、別の誰かが、続きを引き取る。
「忌々しい」
「人間の血が混じったせいだ」
言葉は、連なり始める。
怒りは、理由を得ると増殖する。
「獣人に、人間の血が流れてると思うと虫唾が走る」
「最初から、信用しちゃいけなかったんだ」
それは、誰か一人を殴るための言葉ではない。
“こちら側”を守るために、
“あちら側”を作る言葉だった。
ガレンは、輪の外に立っていた。
怒りが生まれる理由も、恐怖が拡がる理屈も、分かる。
だが――その刃先が、まだ定まっていないことも。
(……まだだ)
この時点では、
誰も、彼を見ていない。
――
「……なあ」
ひそひそと、声が落とされた。
狐の獣人だった。
いつも噂話を運び、
話を盛り、
半分は嘘で、半分は面白がっている存在。
誰もが、真顔では聞かない。
「聞いたか? ガレンの話」
その名が出た瞬間、ざわめきが、ほんの一拍だけ止まった。
「また始まった」
「どうせ、作り話だろ」
すぐに否定が返る。
狐は、鼻で笑った。
「いや、マジだって」
「あいつ、人間と一緒にいる」
今度は、笑い声が起きた。
軽蔑と、安心が混じった笑いだ。
「ガレンが?」
「ありえねえ」
「熊だぞ?」
「女も寄せ付けなかったあいつが?」
「村を守ってる」
狐の表情が、歪む。
「……見たんだよ、俺は。
洞穴の方で……」
「はいはい」
「もういい」
誰も、真面目に聞かない。
狐の言葉だからだ。
だが、それが――
狐の腹を、決めさせた。
(……証拠を持ってくればいい)
夜。
狐は、ひとりで森に入った。
ガレンの洞穴は、すぐに分かった。
匂いが、違う。
獣のものだけではない。
微かで、だが確かな、人間の残り香。
忍び込むのは、容易だった。
この時間は留守だ。
奥まで入って、狐は足を止める。
そこにあったのは、丁寧に畳まれた、人間の服。
古く、擦り切れている。
だが、清潔で、大切に扱われている痕跡がある。
そして――
ガレンの匂いが、深く染みついていた。
触れた瞬間、狐の背筋を、確信が走る。
「これだよ……」
これは、偶然じゃない。
一時的な同情でもない。
――共にいた痕だ。
狐は、布を掴んだ。
――
翌朝。
狐は、村の中心に立っていた。
「これだ」
放り出された布切れが、地面に落ちる。
音は、小さい。
だが――空気が、はっきり変わった。
誰かが、匂いを嗅ぐ。
誰かが、顔をしかめる。
誰かが、言葉を失う。
否定の声は、もう出なかった。
「……人間、だな」
ぽつりと、誰かが言った。
狐は、勝ち誇らなかった。
ただ、荒く息をつく。
「ほらな。
嘘じゃなかったろ」
その瞬間、噂は“事実”に変わった。
物証が、憎悪に、形を与えた。
「誑かされたんだ」
「いや、違う。人間が最初から利用してる」
「村を乗っ取る気だ」
言葉は、勝手に転がり始める。
止める者はいない。
誰かが言った。
「ガレンが、人間の味方についた」
ガレンの名前が、初めて、明確な敵意を帯びて呼ばれた。
――ここから先は、もう戻らない。
誰かが、決めたわけじゃない。
だが、村は選んでしまった。
人間と交わった獣を、
“こちら側”から切り離すことを。
静かに。
確実に。
――
狐が投げ出した布切れは、まだ地面の上にあった。
誰も踏まない。だが、誰も拾わない。
それだけで十分だった。
「……誑かされたんだ」
「人間に弱みを握られたんだろ」
声が、少しずつ太くなる。
正義を帯び始める。
そのときだった。
「――下がれ」
低く、だが腹に響く声が、場を裂いた。
ざわめきが、強制的に止まる。
人垣を割って現れたのは、
金色の髪をなびかせた獅子の獣人――ギルバートだった。
立っているだけで、圧が違う。
医師としての顔ではない。
村長の息子でもない。
獣人の上位捕食者としての“声”だった。
「そこまでだ」
怒鳴ってはいない。
だが、誰も口を挟めない。
「その布は、誰の許可で持ち出した」
狐が、喉を鳴らす。
「……ガレンの洞穴にあった。
つまり――」
「つまり、何だ」
ギルバートが一歩踏み出す。
地面が、きしむ。
「洞穴にあったから罪か?
匂いが混じっているから、断罪か?」
獅子の眼が、群れを見渡す。
「お前たちは、いつから裁定者になった」
沈黙。
「勅令が出たからか。王都がそう言ったからか――
それで、考えるのをやめたのか」
誰かが、反発しかけた。
だが、声にならない。
ギルバートは、狐を見る。
「お前の話は、証言ではない。…煽動だ」
驚きのあまり、狐の姿が滲んだその耳が、ぴくりと動く。
「……じゃあ、これは何だよ」
「人間の服だぞ」
他の獣人が食い下がる。
ギルバートは、視線を落とした。
一瞬だけ。
それが、致命的だった。
狐は、その沈黙を“勝ち”と勘違いした。
人間の姿に戻ると得意げにまた口を挟んた。
「な?
否定できねえだろ」
空気が、再びざわつく。
「ガレンは、人間と交わった」
「それだけで十分だ」
「獣人を獣だって言われてる時に――」
「人間を庇う獣なんて、仲間じゃねえ」
言葉が、再び増殖を始める。
ギルバートは、歯を食いしばった。
(抑えきれない…)
ここで力を振るうのは簡単だ。
それこそ“獣”になる。
ガレンを想いを踏み躙ることになる。
獅子の怒号で黙らせることはできる。
だが、それは一時だ。
勅令がある限り、この憎悪は、必ず戻る。
「……今日は、解散しろ」
ギルバートは、声を落とした。
命令も懇願でもない、限界の妥協だった。
「これ以上の私刑は、許さない
――今日は、だ」
その“今日は”が、全員に伝わった。
渋々、人は散り始める。
だが、視線は消えない。
憎悪は、しまわれただけだ。
狐は、最後にもう一度だけ、
布切れを見た。
(……逃がさねえ)
――
そのころ――
森の奥。
ガレンは、妙な気配を感じていた。
風が、違う。
獣たちの匂いが、落ち着かない。
「……エリ」
呼ぶと、エリアスが顔を上げる。
「なに?」
「……村が、騒がしい」
それだけで、十分だった。
エリアスは、すぐに理解した。
あの勅令。
噂。
そして――人間の自分。
「……逃げよう、ガレン」
即答だった。
もう城にいた頃の何も知らない自分ではなかった。
「今なら、まだ」
ガレンは、頷いた。
この先がどうなるかを分かっていたから。