森は、逃げる者に優しくない。
それでも、夜明け前の空気だけは、まだ味方だった。
湿り気を含んだ土の匂い。踏み荒らされていない草。
人の足跡は薄く、獣の気配のほうが濃い。
「……こっち」
エリアスが息を切らしながら言う。
無理をしているのは明らかだが、足は止めない。
ガレンは、その半歩後ろを覆うように進んでいた。
視線は前に、意識は背後に張りついている。
――見られている。
まだ姿はない。だが、いる。
「……来ている」
低く呟くと、エリアスは振り返らずに頷いた。
「……1人かな…」
その頃、狐の獣人は、風下の影に身を潜めていた。
(……人間、か)
初めて、はっきりと見る。
背は高くない。
細い。
骨格も、獣人基準では脆そうだ。
だが、ただの弱者ではない。
逃げながら、振り返らない。
足取りは重いのに、判断が早い。
何より――
熊のすぐそばにいることを、当然の顔で受け入れている。
(……なるほど)
狐は、心の中で笑った。
(よく見ると、可愛らしいな)
人間にしては、表情が柔らかい。
怯えよりも、覚悟が先に出る顔だ。
(あっちも、お盛んってことか)
下卑た考えが、自然に浮かぶ。
ガレンの濃い匂いが絡みついている理由も、容易に想像がついた。
(誑かされるわけだ)
だが、それだけではない。
守られているという前提で、そこにいる。
自分の立ち位置を、最初から理解している。
(……人間のくせに、位置取りがうまい)
弱さを武器にする人間は、何人も見てきた。
だが、これは違う。
(ガレンが選ぶはずだ。守りたいよな)
狐の口元が、歪む。
(だからこそ、危ない)
――逃がせば、物語になる。
追う側は、慎重だった。
狐は単独で動く。
集団は呼ばない。
必要なのは、確信だけだ。
森の奥、風下へ回る。
足取りは軽い。
(……やっぱりだ)
ふと、狐は立ち止まった。
「……はは」
思わず、笑いが漏れる。
「逃げたな。やっぱり」
その瞬間、確信は完成した。
――地面が、鳴った。
低く、腹に響く音。
木々がざわめく。
狐が身を翻すより早く、影が前に落ちた。
「……それ以上、近づくな」
声は、もう半ば人のものではない。
半身が熊。
爪が地面を抉る。
だが、目には理性が残っている。
ガレンだった。
狐は、一瞬だけ息を呑む。
(……早い)
だが視線は、すぐにその背後へ滑る。
――人間。
青い顔。
だが、逃げ腰ではない。
狐は、にやりと笑った。
(……用は、済んだ)
「なあ、ガレン」
わざと軽く言う。
「逃げるってことはさ――
やっぱり、そいつ、特別なんだろ?」
次の瞬間、地面が爆ぜた。
熊の腕が振り抜かれ、
狐の身体は木へと叩きつけられる。
殺しではない。
だが、容赦もない。
「……それ以上、言うな」
唸り声が混じる。
「これは、俺の問題だ」
狐は、咳き込みながらも笑った。
血の混じる息が、地面に落ちる。
「はは……そう言うと思った」
歪んだ顔で、続ける。
「でもな、もう遅い。
村は……止まらねえ」
その言葉が、ガレンの背中に、決定的な重さを落とした。
――守るためなら、獣になる。
そう決めたのは、自分だ。
振り返る。
「……エリ」
エリアスが、そこにいた。
なれない道を長く歩いて顔色は悪い。呼吸も荒い。
それでも、逃げていない。
「……大丈夫」
息を整えながら、そう言う。
「……行こう」
その一言で、
ガレンの中の“線”が、はっきりと切れた。
骨が鳴る。
肉が軋む。
重さが、戻ってくる。
人の形が、剥がれ落ちていく。
熊の輪郭が、完全になる。
狐は、地面を這いながら後退った。
だが同時に、確信していた。
(……後からでも、追える)
守るものを得た獣は、必ず、戻ってくる。
熊の姿のガレンは、エリアスの前に膝をついた。
低く、短く、鳴く。
乗れという仕草だった。
エリアスは、一瞬だけ迷い、それから、ガレンの背にしがみついた。
毛は温かく、心臓の音が、はっきりと伝わる。
次の瞬間、ガレンは地を蹴った。
森が、後ろへ流れていく。
枝が裂け、土が跳ねる。
背後で、狐は笑った。
「……逃げろ、逃げ続けろよ、ガレン」
森は広い。
そして憎悪は、しつこい。
こうして、守るために獣になった熊と、その背にしがみつく人間の逃避行が始まった。
――
狐は、わざと足を引きずって村へ戻った。
夜明け前、見張りの獣人がそれに気づく。
「……おい、どうした」
狐はすぐには答えず、地面に膝をついた。
肩で息をし、腕を押さえる。
血は――少量だ。だが、十分だった。
「ガレンに……やられた……」
その一言で、周囲の空気が変わる。
「……は?」
「あのガレンに、か?」
狐は顔を歪め、苦笑する。
「信じねえよな。俺も、最初は信じられなかった」
ゆっくりと顔を上げる。
そこにあるのは、恐怖と、諦めと、少しの憐れみ。
「やっぱり、人間がいた」
ざわり、と波が立つ。
「ガレンの巣穴に。
しかも……親しげだった」
狐は言葉を選ばない。
選ばないことが、真実らしさを生むと知っている。
「誑かされてたよ。あれは骨抜きだ」
誰かが唸る。
「……ガレンは俺達を守っていたのでは?」
狐は、頷いた。
「あぁ、だが同時に人間を庇って、俺に牙を剥いた。
村を捨てて、逃げた」
少しだけ、声を落とす。
「……もう、戻れねえな」
その言葉は、断罪だった。
噂は、瞬く間に形を変える。
「やっぱりな」
「人間だ」
「獣を堕とす」
「熊の力ですら、人間に抗えないなら
…俺たちは、どうなる」
狐の“値踏み”は、完全に歪められた形で流通する。
「間抜けな熊だ」
「村を守ってきたくせに」
「人間側に寝返った」
笑いが混じる。
怒りが混じる。
軽蔑が、正義の顔をする。
そのときだった。
「――黙れ」
低い声がその場を切り裂き、人垣を割る。
ギルバートだった。
腕を組み鋭い目線で大衆を見回す。
それだけで、彼がどれほど怒っているか分かる。
「誰が、誰を裁いている」
一歩、前に出る。
「お前たちは、見たのか」
「現場を」
「意図を」
「本人の言葉を」
狐が、肩をすくめる。
「俺は、やられた。それが、事実だろ」
その瞬間――
ギルバートの喉が鳴った。
低く、獣の音。
足が、地面に食い込む。
獣化する前の緊迫感に、空気が張り詰める。
(……今、力を使えば、)
獅子の怒号一つで、黙らせられる。
力で、ねじ伏せられる。
だが――
「ギルバート」
静かな声が、背後から届いた。
村長だった。
「……ここで、それをすれば、お前も同じ側に立つ」
ギルバートが、ぴたりと止まる。
「……だが」
「分かっている」
村長は、目を伏せる。
「分かっているからこそだ。今は……耐えろ」
ギルバートの拳が、震える。
(……ガレン)
助けると言った。
だが、村はもう、理屈で止まらない。
狐は、それを見て内心で笑った。
人間に誑かされ、骨抜きにされ、村を捨てた、間抜けな熊。
それが、今日からのガレンとなった。