追われる獣と人間にとって、森はありがたい半面、険しい道のりが時に仇となる。
ガレンは、熊の姿で走り抜ける。
少しでも遠くへ、走る。
今は言葉を紡ぐことはできない。
人間なのか、獣なのか、境界が曖昧になる感覚。
巨大な前脚が地面を踏みしめる。
大きな背にはエリアスがしがみついている。
「……大丈夫、ガレン……後ろからは来ていない、」
エリアスの声は震えていたが、離れなかった。
その重さと鼓動を背に感じながら、ガレンは森を進む。
だが――
前方の木立が、わずかに揺れた。
ガレンは、止まった。
鼻先に届く匂い。
複数。
しかも、逃げ道を塞ぐように。
次の瞬間、正面から衝撃が来た。
熊の肩に、重たい一撃。サイの角か。
骨が鈍く鳴る。
ガレンは踏みとどまり、吠えた。
腹の底から絞り出す咆哮。
傷つけたい訳じゃない、威嚇をする。
だが、相手は引かない。
唸り声と地面を踏み鳴らす音。
横から、さらに衝撃。
今度は脚。
関節を狙った打撃に、ガレンの巨体がよろめく。
エリアスが、背で息を呑むのが分かった。
「……っ」
ガレンは前脚を振るった。
爪が唸りを上げ、獣人の一人が吹き飛ばされる。
だが、すぐに別の影が前に出る。
数が多い。
囲まれている。
殴りかかってくる獣人たちは、最初は獣の姿だった。
だが、攻撃を重ねるたびに、その輪郭が崩れていく。
ガレンの力に敵わず、見た目が削がれ、骨格が縮み、荒い息とともに、人の姿に戻っていく。
それでも、殴るのをやめない。
「……くそ、力の差が、」
人の声。
「ガレン、裏切りやがった!」
拳が、熊の腹に叩き込まれる。
「人間に誑かされた間抜けが」
次は、顔。
「村を守ってた?
笑わせんな」
殴る。
殴る。
言葉と一緒に、殴る。
ガレンは吠えた。
だが、喉から出る音は、次第に掠れていく。
それでも、倒れない。
背にいる存在を、地面に落とさないために。
だが――
「――やめて……
やめろ!!」
エリアスの声が、はっきりと響いた。
ガレンの動きが、一瞬、止まる。
その一瞬で、獣化が揺らいだ。
骨が軋み、身体の質量が減る。
(今はまだ、戻れない)
その瞬間を、追手は逃さなかった。
拳が、一斉に叩き込まれる。
「手玉にとられてるのか?」
「今だ、人の姿のうちに動きを止めろ!」
殴られながら、ガレンは呻いた。
(誤解だ、こんなものは、)
「……っ、違う……」
声を振り絞る。
「……誑かされてなど……いない……」
だが、誰も聞かない。
その間に、エリアスが前に出た。
「やめろと言っている!!」
次の瞬間、誰かがエリアスを突き飛ばした。
「うるせぇ!」
地面に倒れ、息が詰まる。
「……っ!」
別の獣人が覆いかぶさる。
服が引き裂かれ、肩口が露わになる。
「見ろよ」
「よく見りゃ、可愛いじゃねえか」
「元王様、権力がまだあるのか?」
「こりゃ骨抜きにもなるわな」
その光景が、ガレンの視界に焼き付いた。
父と母の背中が、重なる。
守るために、人に戻らなかった二人。
――今なら、分かる。
(こういうことか、)
ガレンは、吠えた。
再び、獣化が進む。
理性は、もう必要ないのかもしれない。
守れるなら、もう戻れなくてもいい。
熊の輪郭が、完全に戻る。
前脚が振るわれ、追手が弾き飛ぶ。
威嚇だけで、十分だった。
エリアスの前に、巨大な熊が立ちはだかろうと動く。
自分を守るその姿と、ともに過ごしてきた人間の姿のガレンが重なる。
(ガレンとなら、大丈夫…)
だが――
ガレンの足元の地面が、崩れた。
それは霧に隠れた、脆い斜面のせい。
踏み込んだ瞬間、土が崩れる。
ガレンの巨体が、よろめいた。
一瞬だけ、エリアスと視線が合う。
言葉はない。
だが、確かに伝わった。
――生きろ
次の瞬間、熊の身体が滑り落ちる。
土と石が崩れ、谷へと消えていく。
「……ガレン!!」
エリアスが叫ぶ。
「いやだ!いやだ!!!離せ!
ガレン!!」
だが、背後から腕が伸びる。
今度は、確実に捕えられる。
地面に引き倒され、動きを封じられる。
そのとき、森の奥から獅子の咆哮が響いた。
だが、遅い。
ギルバートが辿り着いたとき、そこにあったのは――
崖へ続く深い滑落の跡と、引きずられていった人間の痕跡だけだった。
「くそ、」
ガレンは、谷の底へ。
エリアスは、村へ。
二人は、引き裂かれた。