25

  追われる獣と人間にとって、森はありがたい半面、険しい道のりが時に仇となる。

  ガレンは、熊の姿で走り抜ける。

  少しでも遠くへ、走る。

  今は言葉を紡ぐことはできない。

  人間なのか、獣なのか、境界が曖昧になる感覚。

  巨大な前脚が地面を踏みしめる。

  大きな背にはエリアスがしがみついている。

  「……大丈夫、ガレン……後ろからは来ていない、」

  エリアスの声は震えていたが、離れなかった。

  その重さと鼓動を背に感じながら、ガレンは森を進む。

  だが――

  前方の木立が、わずかに揺れた。

  ガレンは、止まった。

  鼻先に届く匂い。

  複数。

  しかも、逃げ道を塞ぐように。

  次の瞬間、正面から衝撃が来た。

  熊の肩に、重たい一撃。サイの角か。

  骨が鈍く鳴る。

  ガレンは踏みとどまり、吠えた。

  腹の底から絞り出す咆哮。

  傷つけたい訳じゃない、威嚇をする。

  だが、相手は引かない。

  唸り声と地面を踏み鳴らす音。

  横から、さらに衝撃。

  今度は脚。

  関節を狙った打撃に、ガレンの巨体がよろめく。

  エリアスが、背で息を呑むのが分かった。

  「……っ」

  ガレンは前脚を振るった。

  爪が唸りを上げ、獣人の一人が吹き飛ばされる。

  だが、すぐに別の影が前に出る。

  数が多い。

  囲まれている。

  殴りかかってくる獣人たちは、最初は獣の姿だった。

  だが、攻撃を重ねるたびに、その輪郭が崩れていく。

  ガレンの力に敵わず、見た目が削がれ、骨格が縮み、荒い息とともに、人の姿に戻っていく。

  それでも、殴るのをやめない。

  「……くそ、力の差が、」

  人の声。

  「ガレン、裏切りやがった!」

  拳が、熊の腹に叩き込まれる。

  「人間に誑かされた間抜けが」

  次は、顔。

  「村を守ってた?

  笑わせんな」

  殴る。

  殴る。

  言葉と一緒に、殴る。

  ガレンは吠えた。

  だが、喉から出る音は、次第に掠れていく。

  それでも、倒れない。

  背にいる存在を、地面に落とさないために。

  だが――

  「――やめて……

  やめろ!!」

  エリアスの声が、はっきりと響いた。

  ガレンの動きが、一瞬、止まる。

  その一瞬で、獣化が揺らいだ。

  骨が軋み、身体の質量が減る。

  (今はまだ、戻れない)

  その瞬間を、追手は逃さなかった。

  拳が、一斉に叩き込まれる。

  「手玉にとられてるのか?」

  「今だ、人の姿のうちに動きを止めろ!」

  殴られながら、ガレンは呻いた。

  (誤解だ、こんなものは、)

  「……っ、違う……」

  声を振り絞る。

  「……誑かされてなど……いない……」

  だが、誰も聞かない。

  その間に、エリアスが前に出た。

  「やめろと言っている!!」

  次の瞬間、誰かがエリアスを突き飛ばした。

  「うるせぇ!」

  地面に倒れ、息が詰まる。

  「……っ!」

  別の獣人が覆いかぶさる。

  服が引き裂かれ、肩口が露わになる。

  「見ろよ」

  「よく見りゃ、可愛いじゃねえか」

  「元王様、権力がまだあるのか?」

  「こりゃ骨抜きにもなるわな」

  その光景が、ガレンの視界に焼き付いた。

  父と母の背中が、重なる。

  守るために、人に戻らなかった二人。

  ――今なら、分かる。

  (こういうことか、)

  ガレンは、吠えた。

  再び、獣化が進む。

  理性は、もう必要ないのかもしれない。

  守れるなら、もう戻れなくてもいい。

  熊の輪郭が、完全に戻る。

  前脚が振るわれ、追手が弾き飛ぶ。

  威嚇だけで、十分だった。

  エリアスの前に、巨大な熊が立ちはだかろうと動く。

  自分を守るその姿と、ともに過ごしてきた人間の姿のガレンが重なる。

  (ガレンとなら、大丈夫…)

  だが――

  ガレンの足元の地面が、崩れた。

  それは霧に隠れた、脆い斜面のせい。

  踏み込んだ瞬間、土が崩れる。

  ガレンの巨体が、よろめいた。

  一瞬だけ、エリアスと視線が合う。

  言葉はない。

  だが、確かに伝わった。

  ――生きろ

  次の瞬間、熊の身体が滑り落ちる。

  土と石が崩れ、谷へと消えていく。

  「……ガレン!!」

  エリアスが叫ぶ。

  「いやだ!いやだ!!!離せ!

  ガレン!!」

  だが、背後から腕が伸びる。

  今度は、確実に捕えられる。

  地面に引き倒され、動きを封じられる。

  そのとき、森の奥から獅子の咆哮が響いた。

  だが、遅い。

  ギルバートが辿り着いたとき、そこにあったのは――

  崖へ続く深い滑落の跡と、引きずられていった人間の痕跡だけだった。

  「くそ、」

  ガレンは、谷の底へ。

  エリアスは、村へ。

  二人は、引き裂かれた。