26

  エリアスは、地面に引き倒されたまま、息ができずにいた。

  背中に押し付けられた土の冷たさと、

  肩を押さえつける重たい腕。

  「……動くなよ」

  低い声が、すぐ耳元で落ちる。

  抵抗しようとしても、身体が言うことを聞かない。

  さっきまで走っていた脚は震え、指先は冷えていた。

  「っ…」

  (ガレン、)

  名前を呼ぼうとして、喉が詰まる。

  崖の下へ落ちていった、あのすがた。

  最後に合った、視線。

  (……生きろ、って……)

  その意味が、今になって分かる。

  「ほら、縛れ」

  縄がかけられる。

  手首が引き寄せられ、荒っぽく結ばれる。

  痛みより先に、屈辱が来た。

  「……やめろ……」

  声は、思ったよりも弱かった。

  誰かが、鼻で笑う。

  「まだ王様のつもりか?」

  「今はただの人間だろ」

  服の端を掴まれ、乱暴に引き上げられる。

  裂けた布が、冷たい風に晒される。

  視線が、集まる。

  値踏みする目。

  敵意と好奇心が混じった目。

  「……よく見ると、可愛らしいな」

  誰かが言った。

  「そりゃ、熊も骨抜きになるわけだ」

  「おい、盛りがついてたのは、どっちだ?」

  笑い声。

  エリアスは、歯を食いしばった。

  「……黙れ」

  声は震えていたが、目は逸らさない。

  「私は……誰のものでもない」

  一瞬、空気が止まる。

  だが、すぐに誰かが肩を掴んだ。

  「まだ言うか」

  「人間のくせに」

  「獣人を侮辱してる」

  地面に、再び押し倒される。

  その瞬間、エリアスの頭に浮かんだのは、

  城で聞いた、追放の宣告だった。

  ――お前は、ここにはいられない。

  あのときと、同じだ。

  理由は違う。

  だが、結論は同じ。

  「……人間は……」

  誰かが吐き捨てる。

  「どこに行っても、厄介だ」

  縄がきつく締め直される。

  「村へ連れていく」

  「ガレンが戻ってきたら、見せてやれ。生きていたらだけどな」

  その言葉で、エリアスの胸が凍った。

  生きていたら。

  (……来ないで、)

  心の中で、必死に願う。

  もう、十分だった。

  ガレンは、最後まで守った。

  これ以上、傷つかなくていい。

  引き起こされ、歩かされる。

  足がもつれ、何度も転びそうになるが、

  そのたびに乱暴に引き上げられる。

  森を抜ける途中、エリアスは一度だけ、振り返った。

  霧の向こう。

  もう見えない崖。

  『ガレン』

  その名を、声に出さずに呼んだ。

  村へ続く道は、追放されたときよりもずっと遠く感じられた。

  そしてエリアスは、理解していた。

  これは、見せしめだ。

  獣人の村が出した答えを、自分の身体に刻むための。

  だが――

  誰もまだ知らない。

  谷の底で、熊が生きていることを。

  執念だけで、呼吸を続けていることを。

  ――

  熊は、執念深く生きる。

  一度「獲物」と定めたものを、誰にも渡さない。

  そして――

  手負いの熊は、もはや制御できない。

  それは、理性や感情の話ではない。

  生き残るために、そうできているという話だ。

  谷底に落ちた熊は、すぐには動かなかった。

  土と石が崩れ、衝撃が全身を打った。

  骨が折れた感触がある。

  だが、どこかは分からない。

  痛みは、あとから来る。

  最初に感じたのは、重さだった。

  身体が、言うことを聞かないほどの重さ。

  それでも、熊は息をした。

  胸が上下する。

  喉の奥で、空気が鳴る。

  (――生きている)

  それだけで、十分だった。

  視界は暗い。

  霧と土埃が、まだ舞っている。

  熊は、伏せたまま、しばらく動かない。

  無駄な力を使わない。

  それが、本来の獣のやり方だ。

  だが――

  傷を負った熊は、そのやり方すら、選ばなくなる。

  頭の奥に、ひとつだけ、残っているものがあった。

  ――エリアス。

  名前ではない。

  匂いでもない。

  奪われた、という事実。

  それだけで、身体の奥に、熱が残った。

  熊は、前脚を、ゆっくりと動かす。

  爪が、石を引っかく。

  音が、谷に響く。

  痛みが、はっきり形を持って現れた。

  肩。

  脇腹。

  後脚。

  踏ん張ると、骨が軋む。

  それでも、熊は止まらない。

  理性で止まる獣は、ここにはいない。

  あるのは、奪われたものを取り戻すための衝動だけだった。

  立ち上がる必要はない。

  今は、動ければいい。

  這う。

  腹を地面に擦りつけながら、熊は、わずかに身体を引きずった。

  その動きは、遅い。

  だが、確実だ。

  途中で、低い唸り声が漏れる。

  警告ではない。

  威嚇でもない。

  制御を失ったことを、世界に知らせる音だった。

  自分の生き方は慎重に選んできたつもりだった。

  傷付けないよう、誤解がないようやってきた。

  守り手を自ら引き受け、関わりも最小限にしていた。

  それを奪われた。

  人間にも獣人にも生き方がある。

  どちらか一方に憎しみを押し付けても進まないのに、半分流れた人間の血を呪う。

  人間は、獣を恐れる。

  ――まだ、いける。

  熊は、谷壁を見上げた。

  高い。

  霧で、上は見えない。

  だが、匂いは、残っている。

  獣人たちの匂い。

  血。

  恐怖。

  そして、その奥に、微かに――

  一瞬、熊の喉が鳴った。

  吠えない。

  今は、吠える時ではない。

  時間を、味方につける。

  血は、止まり始めている。

  呼吸も、少しずつ落ち着いてきた。

  ――

  夜が来て谷は、暗くなる。

  (……待っていろ)

  言葉はない。

  だが、確かに、そう思った。

  たとえ、二度と人に戻れなくなったとしても。

  守ると決めたものを、最後まで、離さない。

  絶壁の途中に空いた穴の中で、熊は、目を閉じた。