村の広場。
集団は、すでに一度、結論を出していた。
『人に狂った守り手は排除するしかない』
『人間は見せしめにする』
だがこういう時、集団は納得するために何度も同じ話を繰り返す。
エリアスは、柱の前に立たされたまま、動かない。
縛られてはいない。
だが、逃げるという選択肢は、最初から与えられていなかった。
村長が、咳払いをひとつして口を開く。
「……残念なことになった」
その言葉は、あまりにも形式的だった。
「だが、聞くところによれば…
かの王――エリアスは、今回の勅令には署名していない」
一瞬、空気が揺れる。
それは、事実だった。
少なくとも、村長の手にある情報では。
「この勅令は、王の知らぬところで出された可能性が高い。それを、この者に背負わせるのは――」
そこまで言って、村長は言葉を切った。
視線が、広場を見渡す。
獣人たちの顔には、納得ではなく、苛立ちが浮かんでいた。
誰かが、鼻で笑う。
「だから何だ」
低い声。
「王が知らなかった? 署名してない?」
「人間の内情なんて、知ったことじゃない」
別の声が、すぐに重なる。
「人間がしたことは、人間に責任を取らせる」
「それが筋だろ」
空気が、再び一方向へ流れ始める。
「守り手を狂わせた」
「村を守ってたガレンが、どうなった?」
「人間がいたからだ」
「いいように使われたんだ」
エリアスの前で、
“エリアスの話ではない言葉”が積み上がっていく。
目を伏せた獣人が一人だけいた。
だが、その沈黙はすぐに群れに呑まれた。
「最初から、奪う気だったのかもしれない」
「村を乗っ取るために」
「獣の力を利用するために」
推測が、断定に変わる。
誰も、エリアスを見ていない。
そのとき。
「……違う」
低い声が、割り込んだ。
ギルバートだった。
獅子の獣人は、広場の端から一歩踏み出している。
声は、怒鳴っていない。
だが、耐えきれなかった音だった。
(守れないなら…せめて、事実を歪めるべきではない、)
ざわめきが、彼に向く。
「……何だ、今さら」
「お前は医師だろ、村長の息子だろ、人間を庇うのか」
ギルバートは、歯を食いしばった。
「村長の息子で、医師だから言う。
俺は、ガレンとエリアスを知っている」
そして――
視線を、エリアスに向けた。
「……話せ」
突然の指名に、広場が静まる。
エリアスは、目を伏せたまま、動かなかった。
ギルバートは、続ける。
「誑かしたというなら、利用したというなら、その根拠が出てくるはずだ」
声が、少しだけ低くなる。
「……俺は、獅子の血を引いている。
嘘をついていない。
そして、お前たちも事実を聞いていない」
獣人たちの間に、わずかな揺らぎが走る。
だが――
すぐに、押し返される。
「聞く必要があるか?」
「結果がすべてだ」
「ガレンは、いなくなった」
「人間は、ここにいる」
論点は、すでに固定されている。
ギルバートは、拳を握った。
ここで声を荒げれば、また“獣”になる。
それでも――
彼は、もう一歩だけ前に出た。
「……エリアス」
名を呼ぶ。
「お前が、どう生きてきたかを話せ」
広場の中央で、見せしめとして立たされていた人間が、
ゆっくりと、顔を上げた。
誰の目も見ない。
だが、確かに、そこに届く位置で息を吸った。
(ガレン、)
森では熊が低く唸る。
まだ、距離はある。
だが、
“名前を呼ばれた気配”だけは、
確かに、届いていた。
――
弁明の場は、あまりにも整っていた。
杭が立てられ、縄が用意され、人が集まる。
誰もが「これは裁きだ」と理解している。
だからこそ、声は荒れなかった。
怒号ではなく、確認と同意だけが交わされる。
エリアスは、中央に立たされていた。
どこにも行けない。
逃げても黙っても、認めたことになる。
どちらを選んでも、結論は同じだった。
「……私は」
声は、思ったよりも静かだった。
「私は、王だった。血筋は今も変わらない」
ざわめきが起こる。
だがそれは驚きではなく、計算の音だった。
「王だった、か」
「だから何だ」
エリアスはまっすぐと前を見た。
「その勅令には、署名していない。できなかったから、拒んだ。
その結果、追放された。」
事実を並べただけだ。
弁解ではない。
だが、その言葉は――
群れにとって、都合が悪すぎた。
「拒んだ? それで?」
「今まで、獣人を守ったのか」
問いは、疑問ではない。
責任の所在を押しつけるための刃だ。
エリアスは、答えられなかった。
守っていない。
知らなかった。
見てこなかった。
沈黙が、そのすべてを肯定した。
「結局、保身ばかりだ」
誰かが言い、別の誰かが頷く。
エリアスは言葉を紡ぐ。
「ガレンは人間の私を…
まだ死んでいないと助けてくれた」
ガレン。
その名と姿を集団はそれぞれ思い描いた。
――あの熊は、どうだった。
誰もが、心のどこかで知っている。
自ら境界を越えなかったこと。
必要以上の力を振るわなかったこと。
守ってくれたこと。
常に献身があったこと。
だが今、それを思い出すことは、危険だった。
勅令が出て、獣人は獣だと定義された。
後ろ盾はない。
法は、自分たちを守らない。
次に切り捨てられるのは、自分たちかもしれない。
恐怖は、理由を欲しがる。
そして理由は、すぐに見つかった。
「……やはりこの人間が、原因だ」
誰かが言った。
「守り手を狂わせた」
「獣人を、ただの獣に堕とした」
「だから、見せしめが要る」
その言葉に、否定は返らなかった。
エリアスは、息を吸った。
「……ガレンは優しかった。何も、強要しなかった。
…いつも、一緒に考えてくれた」
それは、彼にとっては事実だった。
だが――
「そんなのは、完全に誑かされてるからだ」
言葉が、歪められる。
意図も、意味も、すり替えられる。
ギルバートが、耐えきれず前に出た。
「違う。彼は、最初からそういう男だ。
誰かを利用するような存在じゃない。
エリアスだって追放されて、もう人間側で処分を受けている!」
声は、真剣だった。
だが、村長が静かに首を振る。
「ギルバート、それ以上は、」
それだけで、十分だった。
秩序が優先される。
事実よりも、ここでは安心が選ばれる。
――
エリアスの弁明は、途中で終わらされた。
「もういい」
誰かが言った。
それは制止でも判断でもなく、打ち切りの合図だった。
「言葉はいらない」
「どうせ、もうすべて戻らない」
視線が、エリアスの身体へと集まる。
王だったときと同じ。
最初にその視線を向けられたとき、彼は意図を理解できなかった。
今は、分かる。
「……その身体だ」
低い声が、はっきりと言った。
「守り手を誑かした身体を晒せ」
「獣を貶めた、その証を見せろ」
正義の顔をした欲望だった。
恐怖と嫌悪。
そして――自分たちが安全な側にいることを確認したいという衝動。
「ガレン狂わせたのは、そいつの身体だ」
「受け入れたんだろう?夜毎に、」
言葉が、じわじわと下卑ていく。
「なら、隠す理由はない」
「見せしめにちょうどいい」
服を掴まれる。
(私の声は、もう届かない…?)
エリアスは、抵抗しなかった。
抵抗しても、意味がないと分かっていたからだ。
布が引き剥がされ、風が、直接肌を撫でる。
「……ああ、人間だ」
誰かが、失望したように言う。
別の誰かは、納得したように頷く。
「弱い、人間」
その言葉が、刃よりも深く刺さった。
背中に、冷たい感触。
「すぐ死ぬだろう」
「死んだら王都に贈りつけてやる」
「獣人を獣とする勅令をやめさせる」
刃が走る。
縦に。
容赦なく。
皮膚が裂け、血が溢れる。
痛みは、遅れてきた。
それより先に、匂いが立ち上る。
鉄と生の混じった、はっきりとした匂い。
「これでいい」
縄が掛けられ、引かれる。
エリアスの足が、地面を離れる。
そのとき、ようやくざわめきが変わった。
「……本当に、これは王だったのか」
戸惑いは、ほんの一瞬だ。
村長は、視線を逸らした。
ギルバートも、唇を噛み、何も言わなかった。
見てしまえば、自分たちが今何をしているのかを
理解してしまうからだ。
エリアスは、揺れる視界の中で、思った。
(……人間の罪は人間が償う。もっと早くこうするべきだったか…甘えてしまった、ガレンに、私は…)
自分は、最初から最後まで弱い存在だ。
王としても。
人間としても。
血が、背中を伝い、土に落ちる。
匂いが、森へ流れていく。
エリアスは、目を閉じた。
声にはならない。
だが、祈りは、確かにそこにあった。
(ガレンには生きてほしい。
だからこのまま、来ないで。私に償わせてほしい)
その願いが、皮肉にも最も届いてほしくない相手に
届いてしまうことを――
彼は、まだ知らない。