28

  熊は、執念深く生きる。

  一度、己のものと定めた存在を、奪われたまま終わらせない。

  絶壁に空いた洞穴の中で、熊は再び立ち上がった。

  右脚に力が入らない。

  胸の奥で、呼吸のたびに焼けるような痛みが走る。

  だが、倒れなかった。

  血の匂いが、風に乗って流れてきた。

  恐怖と、懐かしい匂い。

  熊は、顔を上げた。

  身体は向かう先を知っている。

  熊は吠えた。

  谷に反響する低い音が、森を揺らす。

  返せ。

  それだけだった。

  熊は谷を這い上がり、森を抜けた。

  枝を折り、獣道を壊し、前に出てくる影を叩き伏せながら進む。

  しかし、噛みつかない。引き裂かない。

  邪魔なものを、動けなくするだけだ。

  村が見えたとき、熊の視界に最初に入ったのは、広場の柱だった。

  エリアスが吊るされている。

  背中から血が流れ、身体がかすかに揺れている。

  熊の喉が鳴った。

  ――見つけた

  その瞬間、エリアスは顔を上げた。

  視界は滲み、呼吸をするたびに背中が焼けるように痛む。

  だが、あの足音だけは分かった。

  「……ガレン……」

  かすれた声だったが、確かに音になった。

  村人たちが振り返る。

  熊は正面から入ってきた。

  隠れる様子も、躊躇もない。

  力役の獣人が前に出る。

  槍が突き出される。

  熊は止まらない。

  槍を叩き落とし、振り下ろされた棍棒を弾き、身体ごと相手を地面に転がした。

  悲鳴が上がる。

  だが、血は流れない。誰も殺されない。

  熊は、その他を見ていない。

  見ているのは、エリアスだけだった。

  「やはり人間を庇うのか!」

  「排除だ!」

  誰かが叫ぶ。

  エリアスは、その声を聞いて、息を吸った。

  「……やめて」

  声は小さいが、はっきりしていた。

  「やめて、もう……」

  熊が、止まった。

  一瞬だけ。

  柱へ向かっていた足が、わずかに止まる。

  エリアスは、必死に声を続けた。

  「……逃げて」

  熊の背中が、わずかに上下する。

  荒い呼吸。

  ――助け、守ると決めた。

  だが、止まらない。

  熊は柱に手をかけた。

  一撃。

  木が裂け、柱が傾き、縄が切れる。

  エリアスの身体が落ちる。

  熊は、両腕で受け止めた。

  爪を立てない。

  強く締めすぎない。

  「……ガレン……」

  エリアスは、熊の胸に顔を押しつけた。

  声が震える。

  一瞬、言葉に詰まってから、続ける。

  「……生きてた、」

  熊の抱く腕が、わずかに強くなる。

  エリアスは、顔を上げた。

  熊の黒い毛と、優しい瞳。

  一緒に選んできた。

  でも、今回の選択だけは、聞いてくれない。

  背後で、衝撃が走る。

  殴打。

  刃。

  火。

  熊は振り返らない。

  低く吠えた。

  近づくな。

  誰も動けなかった。

  熊は身体を反転させ、崖の方角へ走る。

  逃げるのではない。

  帰るのだ。

  揺れる視界の中で、

  エリアスは、熊の首元に腕を回した。

  力は弱い。

  だが、離れない。

  「……ねえ、ガレン

  生きててくれて、ありがとう。私を許してくれる?」

  熊は、何も言わない。言えない。

  だが、喉の奥で、低く音が鳴った。

  それだけで、十分だった。

  熊はエリアスを背に乗せて、崖へ跳んだ。

  地面が崩れ、村が遠ざかる。

  血と怒号と恐怖を背後に残して、熊は森へ消えた。

  獲物は、取り返した。

  そして――

  もう、二度と渡さない。

  ――

  洞穴─新たな巣穴に辿り着いたとき、ガレンはようやく足を止めた。

  走ることも、振り返ることも、もう必要がなかった。

  洞穴の奥は暗く、冷えている。

  血の匂いが、まだ自分の身体から立ち上っているのが分かる。

  だがそれ以上に、背中のぬくもりが、はっきりとした現実だった。

  ――奪い返した

  その事実だけが、胸の奥で鈍く鳴っている。

  ガレンは、ゆっくりと身を屈めた。

  熊のままでは、細い身体を傷つけかねない。

  しかし、今はまだ人間に戻れない。確実に守らなければならないからだ。

  慎重に、巣穴の奥へ進む。

  石肌に敷いた草の上へ、エリアスを横たえた。

  血に濡れた背中が目に入る。

  縦に裂かれた傷。

  それがどれほど痛んだか、想像するだけで、喉の奥が詰まる。

  ガレンは鼻先を近づけ、呼吸を確かめる。

  浅い呼吸、胸がほんのわずかに上下している。

  それだけで、身体の奥に溜まっていた何かが、少しだけ緩んだ。

  そのとき――

  「……ガレン……」

  声がした。

  最初は、幻かと思った。

  自分の願望が聞かせた音だと。

  だが、次に続く呼吸の揺れで、それが現実だと分かる。

  エリアスの瞼が、ゆっくりと動いた。

  「……ここ……」

  痛々しい、掠れた声。

  ガレンは動けなかった。

  声を出したくても、出せない。

  答えたくても、唸り声しか返せない。

  それでも、視線だけは逸らさなかった。

  エリアスはぼんやりと周囲を見回し、熊の姿のままのガレンと目を合わせた。

  ただ、ゆっくりと息を吸い、吐く。

  「新しい住処…?

  …熊のまま、なの……」

  それは、確認じゃない。

  責めでもない。

  事実を受け取る声だった。

  ガレンの喉から、低い音が漏れる。

  否定でも、肯定でもない、どうしようもない音。

  エリアスは、それを聞いて、ほんの少し笑った。

  「……そっか、」

  声が震える。

  痛みか、寒さか、それとも――別の何かか。

  「……でも……ガレン、だ」

  その一言で、ガレンの中で、じわじわと温かいものが広がった。

  熊としての思考は、まだ身体を支配している。

  人の部分は捨ててはいない。

  ――エリ。

  心の中で呼ぶ。

  何度も。

  何度も。

  声に出せないその名を、何度もなぞる。

  エリアスは、ゆっくりと腕を動かし、血に濡れた指先で、ガレンの毛に触れた。

  震えているのは、ガレンだった。

  「……聞こえる、」

  小さな声。言葉を探す間があった。

  その間、ガレンは動かず、ただ見ている。

  「……獣じゃない、」

  ガレンの身体が、わずかに強張る。

  エリアスは、視線を逸らさなかった。

  はっきり言った。

  「……どんなガレンでも、愛してるから」

  それは、慰めじゃない。

  覚悟の声だった。

  ガレンは、前脚を折り、ゆっくりと身を低くする。

  近づきすぎないように。でも、離れないように。

  エリアスは、もう一度、口を開いた。

  「たくさん置いてきてしまったね、」

  声は出ない。

  喉は獣のままだ。

  それでも、心の奥で、確かに答える。

  ――エリ、俺は大丈夫だ。

  エリアスは、その沈黙を待った。

  そして、微かに頷く。

  「……うん……」

  それで、十分だった。

  巣穴の外では、風が鳴っている。

  追手の気配は、まだ遠い。

  だが、この場所には、今、二人しかいない。

  熊の身体をしたガレンと、血を流しながらも生きているエリアス。

  ガレンは、誓う。

  ――もう、渡さない。

  村にも、世界にも。

  運命にも。

  たとえ、自分がこの先ずっと、この姿のままであっても。

  守る。

  すべてを抱いて、生きる。

  エリアスと共にある限り。