ギルバートは、夜明け前の村を歩いていた。
足音は、いつもより重い。
地面が柔らかいわけではない。
ただ、自分の身体が、思うように前へ出ないだけだ。
村は、静かだった。
静かすぎる。
昨夜までそこにあった怒号も、憎悪も、血の気配も、
すべてが一晩で「なかったこと」にされたような静けさ。
――終わった、のだ。
そう言ってしまえば、簡単だった。
だが、終わったのは騒ぎだけだ。
責任は、何ひとつ終わっていない。
ギルバートは、柵の壊れた場所で足を止めた。
熊が、ガレンが、入ってきた場所。
正面から。
隠れもせず、躊躇もせず。
獣として、最短距離を選んだ痕跡が、まだ生々しい。
折れた木。
踏み潰された土。
そして――縄。
切れたまま、地面に落ちている。
ギルバートは、それを拾い上げなかった。
触れる資格が、ない。
「……俺が、」
声に出しかけて、やめる。
ここで何を言っても、
それは事実の修正にはならない。
彼は、知っていた。
勅令が出たときから、
村の空気が変わったときから、
狐が余計な言葉をばら撒いたときから。
――止められない。
そう、分かっていた。
分かっていて、
「今は抑える」という選択をした。
獅子の怒号で、黙らせることはできた。
だが、それは一晩だけだ。
力で封じた憎悪は、
必ず、より歪な形で噴き出す。
だから彼は、選んだ。
――今日は、解散させる。
――時間を稼ぐ。
その“時間”の先で、
守るはずだったものが、吊るされた。
ギルバートは、歯を噛みしめる。
守れなかった。
医師として。
獅子として。
旧友として。
そして――
約束した者として。
「……助ける、と」
自分は、言った。
ガレンに。
はっきりと。
それなのに。
熊は、ひとりで来た。
手負いのまま。
引き返すこともなく。
――信じて、来たのだ。
ギルバートが間に合わなかったことを、
知らないまま。
村の奥で、誰かの声が聞こえる。
「……もう終わったんだ」
「熊は逃げた」
「人間は、いなくなった。勅令もこのまま」
軽い言葉だ。
処理済みの出来事として、口にされている。
ギルバートは、顔を上げなかった。
エリアスの顔が、脳裏に浮かぶ。
吊るされた身体。
背中の傷。
声を上げなかった強さ。
村長も、自分も、目を逸らした。
見てしまえば、認めてしまうからだ。
これは、「人間の責任」だけではない。
恐怖に負け、後ろ盾を失うことを恐れ、自分たちが“獣”として扱われる未来を受け入れられなかったから。
弱い者を差し出した。
そして、恩も忘れ、守り手もろとも切り捨てた。
ギルバートは、拳を握る。
爪が、皮膚に食い込む。
怒りと虚しさ。
それを向ける先が、あまりにも多すぎた。
誰かの言った言葉が、耳に残っている。
「……人間のしたことは、人間に責任を取らせるしかない」
(違う、)
それは、そんなのは。
自分たちの恐怖を、正義に見せるための言葉だ。
「守り手を狂わせた」
「いいように使われた」
「村を奪うつもりだったのかもしれない」
――全部、後付けだ。
ガレンが、どんな獣人だったか。
どんな生き方だったか。
皆、本当は知っている。
知っていて、見ないふりをした。
ギルバートは、深く息を吸う。
獅子の血が、胸の奥で、低く唸る。
「……生きていろ」
誰に向けた言葉かは、分からない。
熊にか。人間にか。
それとも、自分自身にか。
ギルバートは、森の奥を見つめたまま、動かなかった。
もう、分かっている。
きっと熊は、村には戻らない。
戻る理由が、なくなったからだ。
ここには、守るべきものも、信じるべき言葉も、もう残っていない。
「……ガレン」
名を呼ぶが、風に溶ける。
返事は、ない。
それでいいのだと、ギルバートは思った。
あの熊は、もう「守り手」ではない。
守るべき“一人”を得た男だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ギルバートは、拳を緩める。
怒りも、後悔も、すべてが遅すぎた。
それでも。
「……いつか」
声に出す必要はなかったが、それでも、言葉にした。
「いつか、また会えるなら」
森のどこかで。
誰にも追われず、誰も裁かない場所で。
熊が、ただ生きているだけの姿で。
そして、その隣にあの人間がいるなら。
それでいい。
それだけで、いい。
ギルバートは、背を向けた。
ただ、覚えている。
守れなかったことを。
選ばれなかったことを。
それでも――
確かに、あの二人がいること
森は、何も答えない。
だが、それでいいのだ。
それでももし、いつか、また会えたら。
それは、祈りではなく、赦しに近い願いだった。