29.5

  ギルバートは、夜明け前の村を歩いていた。

  足音は、いつもより重い。

  地面が柔らかいわけではない。

  ただ、自分の身体が、思うように前へ出ないだけだ。

  村は、静かだった。

  静かすぎる。

  昨夜までそこにあった怒号も、憎悪も、血の気配も、

  すべてが一晩で「なかったこと」にされたような静けさ。

  ――終わった、のだ。

  そう言ってしまえば、簡単だった。

  だが、終わったのは騒ぎだけだ。

  責任は、何ひとつ終わっていない。

  ギルバートは、柵の壊れた場所で足を止めた。

  熊が、ガレンが、入ってきた場所。

  正面から。

  隠れもせず、躊躇もせず。

  獣として、最短距離を選んだ痕跡が、まだ生々しい。

  折れた木。

  踏み潰された土。

  そして――縄。

  切れたまま、地面に落ちている。

  ギルバートは、それを拾い上げなかった。

  触れる資格が、ない。

  「……俺が、」

  声に出しかけて、やめる。

  ここで何を言っても、

  それは事実の修正にはならない。

  彼は、知っていた。

  勅令が出たときから、

  村の空気が変わったときから、

  狐が余計な言葉をばら撒いたときから。

  ――止められない。

  そう、分かっていた。

  分かっていて、

  「今は抑える」という選択をした。

  獅子の怒号で、黙らせることはできた。

  だが、それは一晩だけだ。

  力で封じた憎悪は、

  必ず、より歪な形で噴き出す。

  だから彼は、選んだ。

  ――今日は、解散させる。

  ――時間を稼ぐ。

  その“時間”の先で、

  守るはずだったものが、吊るされた。

  ギルバートは、歯を噛みしめる。

  守れなかった。

  医師として。

  獅子として。

  旧友として。

  そして――

  約束した者として。

  「……助ける、と」

  自分は、言った。

  ガレンに。

  はっきりと。

  それなのに。

  熊は、ひとりで来た。

  手負いのまま。

  引き返すこともなく。

  ――信じて、来たのだ。

  ギルバートが間に合わなかったことを、

  知らないまま。

  村の奥で、誰かの声が聞こえる。

  「……もう終わったんだ」

  「熊は逃げた」

  「人間は、いなくなった。勅令もこのまま」

  軽い言葉だ。

  処理済みの出来事として、口にされている。

  ギルバートは、顔を上げなかった。

  エリアスの顔が、脳裏に浮かぶ。

  吊るされた身体。

  背中の傷。

  声を上げなかった強さ。

  村長も、自分も、目を逸らした。

  見てしまえば、認めてしまうからだ。

  これは、「人間の責任」だけではない。

  恐怖に負け、後ろ盾を失うことを恐れ、自分たちが“獣”として扱われる未来を受け入れられなかったから。

  弱い者を差し出した。

  そして、恩も忘れ、守り手もろとも切り捨てた。

  ギルバートは、拳を握る。

  爪が、皮膚に食い込む。

  怒りと虚しさ。

  それを向ける先が、あまりにも多すぎた。

  誰かの言った言葉が、耳に残っている。

  「……人間のしたことは、人間に責任を取らせるしかない」

  (違う、)

  それは、そんなのは。

  自分たちの恐怖を、正義に見せるための言葉だ。

  「守り手を狂わせた」

  「いいように使われた」

  「村を奪うつもりだったのかもしれない」

  ――全部、後付けだ。

  ガレンが、どんな獣人だったか。

  どんな生き方だったか。

  皆、本当は知っている。

  知っていて、見ないふりをした。

  ギルバートは、深く息を吸う。

  獅子の血が、胸の奥で、低く唸る。

  「……生きていろ」

  誰に向けた言葉かは、分からない。

  熊にか。人間にか。

  それとも、自分自身にか。

  ギルバートは、森の奥を見つめたまま、動かなかった。

  もう、分かっている。

  きっと熊は、村には戻らない。

  戻る理由が、なくなったからだ。

  ここには、守るべきものも、信じるべき言葉も、もう残っていない。

  「……ガレン」

  名を呼ぶが、風に溶ける。

  返事は、ない。

  それでいいのだと、ギルバートは思った。

  あの熊は、もう「守り手」ではない。

  守るべき“一人”を得た男だ。

  それ以上でも、それ以下でもない。

  ギルバートは、拳を緩める。

  怒りも、後悔も、すべてが遅すぎた。

  それでも。

  「……いつか」

  声に出す必要はなかったが、それでも、言葉にした。

  「いつか、また会えるなら」

  森のどこかで。

  誰にも追われず、誰も裁かない場所で。

  熊が、ただ生きているだけの姿で。

  そして、その隣にあの人間がいるなら。

  それでいい。

  それだけで、いい。

  ギルバートは、背を向けた。

  ただ、覚えている。

  守れなかったことを。

  選ばれなかったことを。

  それでも――

  確かに、あの二人がいること

  森は、何も答えない。

  だが、それでいいのだ。

  それでももし、いつか、また会えたら。

  それは、祈りではなく、赦しに近い願いだった。