季節は、確実に進んでいた。
あの夜、血と怒りと恐怖の匂いに満ちていた森は、いつの間にか、夏の終わりの色を帯び始めている。
巣穴の前に生える草は伸び、朝露は冷たさを増し、夜明け前の空気には、わずかな秋の気配が混じるようになった。
熊は――
いや、ガレンは、巣穴の奥で目を覚ました。
毛はまだ厚く、骨格も人のそれには戻っていない。
だが、呼吸は落ち着き、胸の奥を焼いていた痛みは薄れている。
回復している。
それははっきり分かった。
(……生きている)
それだけで、十分だった。
巣穴の入口のほうで、小さな物音がする。
枝が踏まれ、石が転がる音。
エリアスだ。
ガレンは、身体を起こす。
立ち上がると、天井に背が触れそうになるが、もう慣れた。
入口から差し込む光の中に、エリアスが立っていた。
「……起きてた?」
声をかけるその調子は、ガレンが人だった頃と変わらない。
「今日はね、川のほうで赤い実を見つけた」
一歩、近づく。
「この前のよりは、たぶん食べられそう」
ガレンは、喉を鳴らす。
肯定の音だ。
エリアスは、それをちゃんと理解して頷く。
「じゃあ、あとで一緒に行こう」
“一緒に”
その言葉が、ガレンの内側を静かに温めた。
――
日々は、穏やかに積み重なっていった。
朝は、エリアスが先に起きることが多い。
火を起こし、水を汲み、簡単な支度をする。
手際は、まだまだ不格好だ。
火打ち石を打ち損ねて、舌打ちをすることもある。
魚を焼きすぎて、身を崩してしまうこともある。
ずっとずっと、いろんな姿を見せてくれる。
失敗する姿も、考える姿も、笑う顔も。
「……あ」
焦げた匂いに気づいて、エリアスが顔をしかめる。
「やっちゃった」
ガレンは、そっと近づき、鼻先で匂いを嗅ぐ。
食える。
そう判断すると、前脚で器用に魚をひっくり返す。
「……無駄にならない?」
エリアスが尋ねる。
ガレンは、短く喉を鳴らす。
「よかった」
そう言って、エリアスは少し笑う。
こういうやり取りが、当たり前になった。
人の言葉と、獣の反応。
完全に通じ合っているわけではない。
それでも、ズレることは少なくなった。
――
昼過ぎ、二人は巣穴を出る。
エリアスの歩調に合わせて、ガレンはゆっくり歩く。
急げば、この四肢はいくらでも先へ行ける。
だが、そうはしない。
「……あ、これ」
エリアスがしゃがみ込む。
「前に食べた実。これじゃない?」
ガレンは、匂いを確かめる。
一瞬、首を傾げ、それから頷いた。
「やっぱり。
この前の似たやつは完全に外れだったもんね」
エリアスは苦笑する。
「酸っぱすぎて、舌がびっくりした」
ガレンは、低く息を吐く。
笑いに近い音。
「ガレン、本当は知ってるよね?
でも知らないふりして、私に教えてる?」
ガレンはふうっと息を吐いた。
自ら選び、生きていくこと。
エリアスが、かつて想像もしなかった暮らしがそこにはあった。
――
夜。
巣穴の奥で、火を前に並ぶ。
外は冷えるようになったが、巣穴の中は暖かい。
ガレンの体温が、特に。
エリアスは、いつも獣の身体に寄り添った。
「……ねえ」
火を見つめたまま、エリアスが言う。
「もし、私に狩りの腕があったらさ」
ガレンが、耳を向ける。
「もう少し、役に立てたかな」
ガレンは、ゆっくりと首を振る。
その否定は、エリアスにも伝わった。
「……そっか」
小さく笑う。
「狩りは少し怖いな、」
沈黙。
だが、居心地の悪さはない。
ガレンは、ふと、身体の奥がざわつくのを感じた。
――今か、
骨が軋むような感覚。
人の輪郭が、内側から浮かび上がりそうになる。
だが、変化はない。
体の質量は減らず、形はそのままで、牙も爪も縮まない。
エリアスは、その様子を黙って見ていた。
少し心配そうに眉を寄せる。
「……身体、辛くない?」
その一言が、ガレンを引き留めた。
獣であることを、否定しない。
人に戻ることも、強要しない。
ただ、今のままを受け止める。
それが、どれほど救いになるかを、
ガレンは、言葉にできないまま理解していた。
――
季節は、さらに進む。
木の葉は色づき、夜の冷え込みは強くなり、巣穴の中で過ごす時間が増えていく。
二人は、並んで眠る。
ガレンは、獣のまま。
エリアスは、人のまま。
境界は、曖昧だ。
もうそれでもいい。
エリアスは、獣の胸に額を寄せ、目を閉じる。
「……今日も、生きてたね」
独り言のように言う。
ガレンは、喉を鳴らす。
どんな姿であっても。
どんな形に留まっていても。
ここで、共に生きている。
それが、今のすべてだった。