30

  季節は、確実に進んでいた。

  あの夜、血と怒りと恐怖の匂いに満ちていた森は、いつの間にか、夏の終わりの色を帯び始めている。

  巣穴の前に生える草は伸び、朝露は冷たさを増し、夜明け前の空気には、わずかな秋の気配が混じるようになった。

  熊は――

  いや、ガレンは、巣穴の奥で目を覚ました。

  毛はまだ厚く、骨格も人のそれには戻っていない。

  だが、呼吸は落ち着き、胸の奥を焼いていた痛みは薄れている。

  回復している。

  それははっきり分かった。

  (……生きている)

  それだけで、十分だった。

  巣穴の入口のほうで、小さな物音がする。

  枝が踏まれ、石が転がる音。

  エリアスだ。

  ガレンは、身体を起こす。

  立ち上がると、天井に背が触れそうになるが、もう慣れた。

  入口から差し込む光の中に、エリアスが立っていた。

  「……起きてた?」

  声をかけるその調子は、ガレンが人だった頃と変わらない。

  「今日はね、川のほうで赤い実を見つけた」

  一歩、近づく。

  「この前のよりは、たぶん食べられそう」

  ガレンは、喉を鳴らす。

  肯定の音だ。

  エリアスは、それをちゃんと理解して頷く。

  「じゃあ、あとで一緒に行こう」

  “一緒に”

  その言葉が、ガレンの内側を静かに温めた。

  ――

  日々は、穏やかに積み重なっていった。

  朝は、エリアスが先に起きることが多い。

  火を起こし、水を汲み、簡単な支度をする。

  手際は、まだまだ不格好だ。

  火打ち石を打ち損ねて、舌打ちをすることもある。

  魚を焼きすぎて、身を崩してしまうこともある。

  ずっとずっと、いろんな姿を見せてくれる。

  失敗する姿も、考える姿も、笑う顔も。

  「……あ」

  焦げた匂いに気づいて、エリアスが顔をしかめる。

  「やっちゃった」

  ガレンは、そっと近づき、鼻先で匂いを嗅ぐ。

  食える。

  そう判断すると、前脚で器用に魚をひっくり返す。

  「……無駄にならない?」

  エリアスが尋ねる。

  ガレンは、短く喉を鳴らす。

  「よかった」

  そう言って、エリアスは少し笑う。

  こういうやり取りが、当たり前になった。

  人の言葉と、獣の反応。

  完全に通じ合っているわけではない。

  それでも、ズレることは少なくなった。

  ――

  昼過ぎ、二人は巣穴を出る。

  エリアスの歩調に合わせて、ガレンはゆっくり歩く。

  急げば、この四肢はいくらでも先へ行ける。

  だが、そうはしない。

  「……あ、これ」

  エリアスがしゃがみ込む。

  「前に食べた実。これじゃない?」

  ガレンは、匂いを確かめる。

  一瞬、首を傾げ、それから頷いた。

  「やっぱり。

  この前の似たやつは完全に外れだったもんね」

  エリアスは苦笑する。

  「酸っぱすぎて、舌がびっくりした」

  ガレンは、低く息を吐く。

  笑いに近い音。

  「ガレン、本当は知ってるよね?

  でも知らないふりして、私に教えてる?」

  ガレンはふうっと息を吐いた。

  自ら選び、生きていくこと。

  エリアスが、かつて想像もしなかった暮らしがそこにはあった。

  ――

  夜。

  巣穴の奥で、火を前に並ぶ。

  外は冷えるようになったが、巣穴の中は暖かい。

  ガレンの体温が、特に。

  エリアスは、いつも獣の身体に寄り添った。

  「……ねえ」

  火を見つめたまま、エリアスが言う。

  「もし、私に狩りの腕があったらさ」

  ガレンが、耳を向ける。

  「もう少し、役に立てたかな」

  ガレンは、ゆっくりと首を振る。

  その否定は、エリアスにも伝わった。

  「……そっか」

  小さく笑う。

  「狩りは少し怖いな、」

  沈黙。

  だが、居心地の悪さはない。

  ガレンは、ふと、身体の奥がざわつくのを感じた。

  ――今か、

  骨が軋むような感覚。

  人の輪郭が、内側から浮かび上がりそうになる。

  だが、変化はない。

  体の質量は減らず、形はそのままで、牙も爪も縮まない。

  エリアスは、その様子を黙って見ていた。

  少し心配そうに眉を寄せる。

  「……身体、辛くない?」

  その一言が、ガレンを引き留めた。

  獣であることを、否定しない。

  人に戻ることも、強要しない。

  ただ、今のままを受け止める。

  それが、どれほど救いになるかを、

  ガレンは、言葉にできないまま理解していた。

  ――

  季節は、さらに進む。

  木の葉は色づき、夜の冷え込みは強くなり、巣穴の中で過ごす時間が増えていく。

  二人は、並んで眠る。

  ガレンは、獣のまま。

  エリアスは、人のまま。

  境界は、曖昧だ。

  もうそれでもいい。

  エリアスは、獣の胸に額を寄せ、目を閉じる。

  「……今日も、生きてたね」

  独り言のように言う。

  ガレンは、喉を鳴らす。

  どんな姿であっても。

  どんな形に留まっていても。

  ここで、共に生きている。

  それが、今のすべてだった。