ふと、エリアスは目を覚ました。
いつの間にか寝てしまっていた。
月明かりと雪の白さが、巣穴の入口を淡く染めている。
夜の緊張が抜けたぶん、空気は少しだけ軽い。
身体を起こそうとして、やめた。
――重い。
風邪を引いたようなだるさは、まだ残っているが、少しだけ引いていた。
内側に、何かを抱えている感覚がするのは、ギルバートから伝えられたからなのだろう。
妊娠、という言葉が遅れて胸に戻ってくる。
その事実は、眠っているあいだに消えることはなかった。
むしろ、起きてまた意識することで、はっきりと輪郭を持った。
エリアスは、そっと腹に手を当てる。
動きも、形も、感じられない。
それなのに――
触れた瞬間、胸の奥が、きゅっと締まった。
(……本当に、いるんだ)
驚きよりも先に、奇妙な納得があった。
思い返せば、兆しはいくつもあった。
匂いに敏感になったこと。
眠りが浅くなったこと。
理由もなく、頭の中で浮かんでは消える、命、家族というぼんやりとした思考。
森の向こうで見た、幻かもしれない動物の親子。
夢の中で、人の姿をしたガレンが、隣に立っていたこと。
(全部、あとから理由が追いついてきた)
エリアスは、小さく息を吐く。
怖くないと言えば、嘘になる。
不安がないわけでもない。
――男なのに
――人間なのに
そんな言葉が、頭をよぎらなかったわけではない。
「否定できない実感」がそれ以上に強かっただけだった。
身体が、拒んでいない。むしろ、受け入れている。
エリアスは、そっと横を見る。
ガレンは熊のまま、すぐ隣にいる。
眠っているが、その意識は浅そうだった。
エリアスが動いた気配を、ちゃんと察している。
守るような距離。
出会った頃から変わらない逃げ道を塞がない距離。
(……ガレンは、いつから…)
言葉で話さなくても、ガレンは、ずっと先に理解していたのかもしれない。
もしこれが、ガレンと出会ったことで起きた奇跡なのか、祝福なのか、それとも罰なのか――
例えば仮に、そんな名前を付ける必要があるなら。
(……私は、祝福だと思いたい)
理由は単純だった。
ここに、温もりがある。
恐怖よりも、守りたい気持ちのほうが、勝っている。
エリアスは、ゆっくり目を閉じる。
外は寒い。
季節の話だけではない。
世界は、きっとこれからも優しくはない。
それでも、自分はガレンと、この命と生きていこうと、それだけは、はっきりと決めていた。
エリアスは、もう一度だけ腹に手を置いた。
強くは触れない。
確かめるためでも、守るためでもない。
ただ、そこに在ることを許すように。
そのとき、腹の奥でほんのわずかに、水面が揺れ泡が弾けるような動きを感じた。そんな気がした。
空気が入れ替わったような未知の感覚に、エリアスは息を止めた。
(……今の、)
気のせいかもしれない。
それでも、胸の奥が静かに熱を帯びた。
「……すごい、」
声は小さく、眠るガレンに向けたものだった。
返事はない。
だが、ガレンの胸がわずかに上下する。
呼吸が、ほんの一拍だけ深くなる。
それだけで、十分だった。
ガレンの体温にそっと身を寄せ、額を預ける。
あたたかい。
ただ、それだけの事実が、今は何よりも確かだった。
昔、城の誰かが言っていた。
――世界が怖いのは、守るものができたからだ、と。
エリアスは、今なら分かる気がした。
恐れることは、弱さじゃない。
失いたくないと思う気持ちが、形を持っただけだ。
(……なら、私は、この恐怖ごと、生きる)
ガレンと。
まだ見ぬこの命と。
何者であるかを、誰に説明する必要もない。
人か獣か、正しいか間違いか――そんな問いは、今もこの先も、要らない。
ここに、呼吸がある。
ここに、温もりがある。
エリアスは、再び目を閉じた。
巣穴の外では、雪が音もなく降り続いている。
世界は冷たいだろう。
だが、この場所だけは、確かに守られていた。