36

  巣穴の朝は、静かだった。

  雪はまだ深い。

  だが、凍りつくほどではない。

  外の白さとは対照的に、巣穴の内側には、夜の名残の温もりが残っている。

  腹の膨らみは、目には見えない。

  それでも――

  エリアスの手は、自然とそこに置かれていた。

  理由は、はっきりしない。

  痛みも、不調もない。

  ただ、そこに触れていると、落ち着く。

  「…朝だね、」

  誰に聞かせるでもない声。

  巣穴の入口で、雪を踏む音がする。

  人の歩幅。

  獣化していない、慎重な足取り。

  「入るぞ」

  ギルバートの声だった。

  ガレンが低く喉を鳴らし、身体をわずかにずらす。

  拒まない合図だった。

  ギルバートは静かに中へ入る。

  肩にかけた袋は、いつもより重そうだった。

  「調子はどうだ」

  「うん、悪くないよ」

  エリアスは素直に答える。

  「吐き気も……前よりは減った」

  ギルバートは短く頷き、袋を下ろす。

  中から出てきたのは、乾燥させた肉、脂が控えめの保存用の魚、木の実を煮詰めた塊、香りの強すぎない根菜。

  「……ずいぶん、たくさん」

  「村長から預かった」

  淡々とした口調。

  「この時期に手に入るもので、

  体を作るのに一番、無理がないものだ」

  エリアスは一瞬だけ視線を落とした。

  「……ありがとう。

  心配、かけてるね。村長にも伝えてほしい、」

  「ああ。せめてもの、援助だ」

  即答してから、今度はゆっくり続ける。

  「それに……今は、特に必要な時期だ」

  ガレンの視線が、袋へ落ちる。

  警戒ではない。

  理解している目だった。

  ギルバートは、慣れた手つきで器具を取り出す。

  金属の円盤と、細い管。

  「……それ、前も使ったよね」

  「ああ、聴診器だ」

  「また、聞くの?」

  エリアスの声に、不安はない。

  ただ、確かめるような響き。

  「今回は、聞こえるかもしれないからな。

  俺がエリアスに聞かせたい、きっと世界が変わる音だからな」

  「世界…、」

  エリアスは、小さく息を吸い、上着を緩めた。

  金属が腹に触れる、ひやりとした感触。

  ギルバートは耳を澄まし、位置を慎重に捉えていきながら、胸から順に確かめる。

  ――エリアスの鼓動

  ――血の流れ

  静かで、異常はない。

  チェストピースをずらし腹の少し下、左右を探る。

  体の音だけ、聞こえる。

  (……早い、か)

  そう思いかけた、そのとき。

  トク。

  ごく、微かな音。

  もう一度。

  トク、トク。

  ギルバートの呼吸が、わずかに止まる。

  チェストピースをほんの少しだけ左にずらす。

  トク、トク、トク

  必死に生きる早い鼓動。

  ギルバートは、静かに器具を外した。

  「……聞こえた」

  エリアスが、はっと顔を上げる。

  「え……?」

  「心音、聞こえたぞ。順調だ」

  そしてエリアスの耳に聴診器のイヤーピースをつけてやる。

  トク、トク、トク

  「あ…」

  世界が変わる。

  エリアスは、しばらく動けなかった。

  それから、ゆっくりと腹に手を当てる。

  「……いる、ちゃんと……」

  目頭が熱くなる。

  胸の奥が、じんわりと満ちていく。

  ガレンの身体が、わずかに揺れた。

  エリアスに近づき、鼻先を腹の前で止める。

  匂いを嗅ぎ、顔の側面を、耳をエリアスの腹につけ、低く長く喉を鳴らす。

  エリアスは、思わず笑った。

  「……ふふ、ガレンも聞こえる?」

  ――

  ギルバートは器具をしまい、袋をまとめ直す。

  「食べられるときに、少しずつでいい。

  ただ、無理はするな」

  医師としての声。

  「次は、五日後に来る。その間に、何か変わったら――」

  「うん、」

  エリアスが頷く。

  「ガレンがついてるから、大丈夫。

  ありがとう、ギルバート」

  ギルバートはそれ以上何も言わず、立ち上がった。

  もう振り返らない。

  その必要がないからだ。

  雪は、今日も降り続いている。

  だが、巣穴の中には、確かに熱があった。

  急がず、乱れず、

  命は、静かに進んでいた。

  その歩幅を、急がせるものは誰もいなかった。