森は、冬の匂いを深めていた。
雪の下で、命は眠っている。
だが、すべてが死んでいるわけではない。
これは生まれてからずっと繰り返す、世界の常だった。
村の方角に、鼻先を向けることはなかった。
思い出せば、匂いはまだ分かる。
雪に混じった人の気配。
恐怖と正しさが、同じ顔をしていた夜。
エリアスの身体に残った痕も、自分の皮膚に刻まれた痛みも、忘れたわけではない。
恨んではいない。
双方に考えと理由がある。
村で果たしてきた役目を誇るつもりもないし、生き方も、選択も後悔はない。
ただ、もう、戻る理由はなかった。
ガレンは、熊のまま巣穴の外を歩いていた。
身重のエリアスを置いてあまり遠くにはいけないが、やることがある。
以前なら、空腹を満たすために最短を選んだ。
力任せにはしないが、それでも必要な分だけを奪う。
それで足りていた。
――今は、違う。
立ち止まる回数が増えた。
倒木の影。
雪をかぶった低木。
獣が通った跡。
鼻先を低く保ち、匂いを選り分ける。
脂。
血。
苦み。
甘み。
自分のためではない。
エリアスの身体に合うか。
喉を通るか。
吐き気を呼ばないか。
そして――
エリアスの腹の奥にある、小さな命に届くか。
ガレンは、肉を見送った。
食べてほしい。しかし、今のエリアスにとっては脂が強すぎる。
代わりに、流れの緩い場所で越冬する小魚を選ぶ。
骨が柔らかく、焼いたときの匂いも軽い。
木の実も同じだ。
数は少なくていい。
熟しすぎたものは避ける。口の中で気持ち悪さを生んでしまうからだ。
「足りないこと」もそうだが、それよりも「余計なこと」を恐れるようになった。
雪の下から、爪で根を掘り出す。
これには滋養がある。体調を崩したときには煎じてよく飲まされたし、ひとりになった後も何度か飲んだ。
だが、少し刺激が強い。
別の根はどうだろう。
また根を掘り起こす。
口に含み、噛み砕き、匂いを確かめる。
――これなら、
判断は早く、だが、慎重に。
ガレンは、少しの薬草と見つけた食糧を布袋ごと咥え、巣穴へ戻る。
歩幅は、自然とゆっくりになった。
早く戻りたい気持ちと、慎重でありたい気持ちが、同じ重さで胸にある。
巣穴が見えたとき、胸の奥の緊張が、少しだけ緩んだ。
エリアスとまだ見ぬ命が、そこにいる。
それだけで、ガレンの世界は十分に意味を持った。
――
「ガレン、こんなにたくさん獲ってきてくれたの?」
焚火にあたりながらエリアスは目をまるくした。
「この魚、この前食べられたやつだ…
この実は、水に入れたら口の中が少しすっきりしたやつ…」
エリアスは布の上に広がったものを順番に確認した。
気持ちが本当に嬉しかったから、無駄にしたくなくて。
「…この根、前みたいに煎じて飲めばいいのかな。
薬草も、一緒?」
ガレンは喉を鳴らした。どうやら余分ではなかったようだった。
「本当に、ありがとう。ガレン、」
エリアスはガレンの毛並みに手を添え、額を合わせた。そして、そのまま目を閉じる。
火のはぜる音と、巣穴の奥に溜まったガレンの体温が、ゆっくりと混ざる。
「……最近ね」
ぽつりと、独り言のように言う。
「食べられるものと、だめなものが、前よりはっきりしてきた気がする」
腹に、そっと手を当てる。
「前は、全部が不安だったのに」
不思議そうに、けれど穏やかに笑った。
ガレンは動かない。
ただ、エリアスの言葉を逃さぬよう、呼吸を低く保っている。
「……身体って、ちゃんと知ってるんだね」
誰に向けた言葉でもない。
しかし、ガレンの喉が、低く鳴った。
それは肯定でもあり、誓いの音でもあった。
エリアスは、その音を聞いて、胸の奥がじんとする。
(……ガレンも、もう“選んでいる”)
言葉にしなくても分かる。
獣のままでも、人に戻れなくても。
ガレンは守るべきものを中心に、自分の世界を組み替えている。
エリアスは、ガレンの胸元に体重をかけた。
「……重くない?」
冗談めかした声だったが、問いは本気だった。
自分の重み、命を宿した重み。
ガレンは、少しだけ身体を低くする。
重みを預けやすい位置に、自然と収まる。
その動きに、エリアスは小さく息を漏らした。
「……うん、ありがとう」
それ以上の言葉は、要らなかった。
焚火の向こうで、雪が静かに降り続いている。
冬はすべての厳しさを深めていく。
それでもこの巣穴の中には、選び取られた温もりと、決して尽きることのない慎重な優しさが積み重なっていた。
ガレンは、動かない。
エリアスが落ち着くまで、呼吸を合わせる。
エリアスの中にある命が、この静けさを、
この厳しいかもしれない世界を“安全”だと思えるように。
それが、今のガレンが選び続ける、ただ一つの生き方だった。