37

  森は、冬の匂いを深めていた。

  雪の下で、命は眠っている。

  だが、すべてが死んでいるわけではない。

  これは生まれてからずっと繰り返す、世界の常だった。

  村の方角に、鼻先を向けることはなかった。

  思い出せば、匂いはまだ分かる。

  雪に混じった人の気配。

  恐怖と正しさが、同じ顔をしていた夜。

  エリアスの身体に残った痕も、自分の皮膚に刻まれた痛みも、忘れたわけではない。

  恨んではいない。

  双方に考えと理由がある。

  村で果たしてきた役目を誇るつもりもないし、生き方も、選択も後悔はない。

  ただ、もう、戻る理由はなかった。

  ガレンは、熊のまま巣穴の外を歩いていた。

  身重のエリアスを置いてあまり遠くにはいけないが、やることがある。

  以前なら、空腹を満たすために最短を選んだ。

  力任せにはしないが、それでも必要な分だけを奪う。

  それで足りていた。

  ――今は、違う。

  立ち止まる回数が増えた。

  倒木の影。

  雪をかぶった低木。

  獣が通った跡。

  鼻先を低く保ち、匂いを選り分ける。

  脂。

  血。

  苦み。

  甘み。

  自分のためではない。

  エリアスの身体に合うか。

  喉を通るか。

  吐き気を呼ばないか。

  そして――

  エリアスの腹の奥にある、小さな命に届くか。

  ガレンは、肉を見送った。

  食べてほしい。しかし、今のエリアスにとっては脂が強すぎる。

  代わりに、流れの緩い場所で越冬する小魚を選ぶ。

  骨が柔らかく、焼いたときの匂いも軽い。

  木の実も同じだ。

  数は少なくていい。

  熟しすぎたものは避ける。口の中で気持ち悪さを生んでしまうからだ。

  「足りないこと」もそうだが、それよりも「余計なこと」を恐れるようになった。

  雪の下から、爪で根を掘り出す。

  これには滋養がある。体調を崩したときには煎じてよく飲まされたし、ひとりになった後も何度か飲んだ。

  だが、少し刺激が強い。

  別の根はどうだろう。

  また根を掘り起こす。

  口に含み、噛み砕き、匂いを確かめる。

  ――これなら、

  判断は早く、だが、慎重に。

  ガレンは、少しの薬草と見つけた食糧を布袋ごと咥え、巣穴へ戻る。

  歩幅は、自然とゆっくりになった。

  早く戻りたい気持ちと、慎重でありたい気持ちが、同じ重さで胸にある。

  巣穴が見えたとき、胸の奥の緊張が、少しだけ緩んだ。

  エリアスとまだ見ぬ命が、そこにいる。

  それだけで、ガレンの世界は十分に意味を持った。

  ――

  「ガレン、こんなにたくさん獲ってきてくれたの?」

  焚火にあたりながらエリアスは目をまるくした。

  「この魚、この前食べられたやつだ…

  この実は、水に入れたら口の中が少しすっきりしたやつ…」

  エリアスは布の上に広がったものを順番に確認した。

  気持ちが本当に嬉しかったから、無駄にしたくなくて。

  「…この根、前みたいに煎じて飲めばいいのかな。

  薬草も、一緒?」

  ガレンは喉を鳴らした。どうやら余分ではなかったようだった。

  「本当に、ありがとう。ガレン、」

  エリアスはガレンの毛並みに手を添え、額を合わせた。そして、そのまま目を閉じる。

  火のはぜる音と、巣穴の奥に溜まったガレンの体温が、ゆっくりと混ざる。

  「……最近ね」

  ぽつりと、独り言のように言う。

  「食べられるものと、だめなものが、前よりはっきりしてきた気がする」

  腹に、そっと手を当てる。

  「前は、全部が不安だったのに」

  不思議そうに、けれど穏やかに笑った。

  ガレンは動かない。

  ただ、エリアスの言葉を逃さぬよう、呼吸を低く保っている。

  「……身体って、ちゃんと知ってるんだね」

  誰に向けた言葉でもない。

  しかし、ガレンの喉が、低く鳴った。

  それは肯定でもあり、誓いの音でもあった。

  エリアスは、その音を聞いて、胸の奥がじんとする。

  (……ガレンも、もう“選んでいる”)

  言葉にしなくても分かる。

  獣のままでも、人に戻れなくても。

  ガレンは守るべきものを中心に、自分の世界を組み替えている。

  エリアスは、ガレンの胸元に体重をかけた。

  「……重くない?」

  冗談めかした声だったが、問いは本気だった。

  自分の重み、命を宿した重み。

  ガレンは、少しだけ身体を低くする。

  重みを預けやすい位置に、自然と収まる。

  その動きに、エリアスは小さく息を漏らした。

  「……うん、ありがとう」

  それ以上の言葉は、要らなかった。

  焚火の向こうで、雪が静かに降り続いている。

  冬はすべての厳しさを深めていく。

  それでもこの巣穴の中には、選び取られた温もりと、決して尽きることのない慎重な優しさが積み重なっていた。

  ガレンは、動かない。

  エリアスが落ち着くまで、呼吸を合わせる。

  エリアスの中にある命が、この静けさを、

  この厳しいかもしれない世界を“安全”だと思えるように。

  それが、今のガレンが選び続ける、ただ一つの生き方だった。