翌朝。
雪はまだ降っていたが、前日ほど重くはなかった。
空気が、ほんのわずかに緩んでいる。
夜のあいだに、世界が一度、深く息をしたような感覚が残っていた。
巣穴の奥で、エリアスは目を覚ましていた。
眠りは浅かったが、疲れはない。
腹に手を当てる。
昨日と同じ場所。同じ姿勢。
(今日は、動かない?)
それでも、不安はなかった。
あの感覚は、夢でも錯覚でもなかったと、身体が知っている。
すぐ隣で、ガレンが身じろぎする。
身体は伏せたままだが、落ち着きがない。
呼吸が一定にならず、前脚に力が入ったり抜けたりする。
鼻先が何度も、エリアスの腹の前で止まる。
嗅ぐでもなく、触れるでもない。
確かめきれない何かを、探している動きだった。
「……どうしたの、ガレン」
小さく声をかけると、ガレンは低く喉を鳴らした。
何かが揺れている音。
(……昨日のこと、かな)
エリアスは思う。
命が動いたこと。
確かに感じた、小さな兆し。
それが、ガレンの中でも何かを揺らしているのだろうか。
熊としての感覚と、守るべき存在が増えたという事実が、まだ噛み合っていないのだろうか。
そのとき、巣穴の外から足音がした。
一定の間隔、人の歩幅。
「……入るぞ、」
ギルバートの声だった。
ガレンの喉が、低く鳴る。
許可の音だが、いつもより短い。
ギルバートは中へ入り、まず熊の様子に一瞬だけ目を留めた。
それから、エリアスを見る。
「……何かあったな」
エリアスは、少しだけ迷ってから、素直に言った。
「昨日……動いたんだ、お腹の中が」
言葉は短い。
だが、巣穴の空気がはっきり変わる。
ギルバートの動きが止まり、医師としての思考が走る。
「……いつだ」
「お昼すぎだったよ」
腹に手を当てながら、続ける。
話しながら微笑みが出る。
「最初は、気のせいかと思った。
でも……二回目は、違った」
ガレンの身体が、ぴくりと反応する。
耳が動き、鼻先がまた腹へ向く。
見えないものを、必死に確かめようとしている。
ギルバートは頷き、何も言わずに聴診器を取り出した。
「じゃあ、今日はもう一度、心臓の音も聞こう」
聴診器の金属が、腹に触れる。
ひやりとした感触。
エリアスは、以前より緊張していなかった。
確かめたい気持ちが勝っている。
――トク
――トク、トク
初めて聞いたときと同じ命の音。
ギルバートは位置を慎重に変え、何度も確かめる。
ガレンは、その間じっとしていられず、わずかに身体を前後させる。
(……揺り戻し、か)
ギルバートは内心でそう判断する。
ガレンの中で境界が、また少し動いている。
やがて、聴診器を外す。
「……問題ない」
静かに、だがはっきりと言った。
「胎動が出始める時期としては、順調だ」
少し微笑んだギルバートの表情。
エリアスの肩から、力が抜ける。
「……よかった」
その言葉は、自分だけでなく、ここにいるすべてに向けられていた。
ギルバートは続ける。
「これからは、恐らく活発に動く日と静かな日がある。
全く感じないのは心配だが、ある程度感じなくても、心配はいらない。
逆に、感じたからといって、無理に意識しすぎる必要もない」
医師としての言葉だが、声は柔らかい。
「命は……たくましく育つ」
その言葉に、ガレンの喉が低く鳴る。
だが、まだ落ち着かない。
鼻先が、もう一度腹の前で止まる。
「……ガレンも、心配してる?」
エリアスが言うと、ギルバートは一瞬だけ目を伏せた。
「獣は、人より先に気づくことがある。
ただ……理解が追いつくとは限らん」
ガレンの動きは、それを裏付けていた。
守りたい。
だが、何をどう守ればいいのか、まだ輪郭が定まっていない。
父性は、確かに芽生えている。
だが、それは本能よりも、ずっと不器用だった。
ギルバートは荷物を片付け、袋を置く。
往診のたびに何かと土産を持ってくる。
今日は厚手のゆったりとした服だった。
「…食べられるものが増えたら、遠慮なく言え。
あと、体調が変わったら、すぐガレンを寄越してくれ。
…次は、五日後に来る」
「うん、いつもありがとう」
エリアスは頷く。
ギルバートは立ち上がった。
外へ出る前、一度だけ立ち止まる。
「してやれることを、している」
それだけ言って、振り返らずに雪の中へ消えた。
巣穴に、静けさが戻る。
ガレンは、しばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと身体を低くし、エリアスの横にぴたりと寄る。
鼻先を腹の前に置き、深く息を吐く。
落ち着こうとしている呼吸。
エリアスは、その大きな身体に手を伸ばした。
「……大丈夫」
誰に言った言葉かは、分からない。
自分か、ガレンか、それとも――この中で静かに育っている命か。
外では、雪が降り続いている。
巣穴の中では、確かな未来の気配が、静かに積もっていた。