夜は、深く沈む。
火は小さくなっていたが、雪が風を遮り、不思議と冷えてはいなかった。
ガレン自身の熱と重なり合う呼吸が、巣穴に落ちる。
ガレンは起きていた。
身体は伏せたまま、意識だけが静かに巡っている。
胸元には、エリアスがいる。
呼吸は穏やかで、浅く、規則正しい。
――生きている。
それを確かめるように、ガレンはエリアスの呼吸を数えた。
一度。
二度。
三度。
数える必要などないと分かっている。
もちろん、止まる気配も、乱れる兆しもない。
それでも、やめられなかった。
エリアスの腹の中には、微かな熱がある。
匂いも音もない。
だが、確かに“在る”。
数日前、エリアスが言った。
『動いたんだ』
その言葉を思い出すたび、ガレンの胸の奥が、わずかにざわつく。
喜びと畏れ、どちらにも近く、どちらでもない感情。
守るべきものが、確実に増えているという事実。
ガレンは、ゆっくりと鼻先を下げた。
エリアスの腹の前、触れない距離。
もう一度呼吸を合わせる。
自分の重さを、エリアスに感じさせないようにした。
毛皮をそっとかけてやる。
――人の姿なら
ふと、思考が浮かぶ。
人の姿なら、もっと何かができたのではないか。
言葉で、体調を細かく聞けたかもしれない。
夜中に目を覚ましている理由を、問いかけられたかもしれない。
ギルバートの説明を、より正確に理解し、補助もできたかもしれない。
人の姿なら、抱き寄せることもできただろう。
人の手なら、震えを直接感じ取れただろう。
――人の姿なら
その考えは、後悔ではなかった。
選んだ結果を、責めているわけでもない。
ただ、仮定だ。
だが、その仮定はいつも途中で止まる。
獣人の力について、ガレンは多くを教わらなかった。
「獣になる力は、戻れるうちは使っていい」
「だが、使えば使うほど、戻りにくくなる」
幼い頃から、繰り返し言われてきたのは、たったそれだけだ。
可逆的だが、無限ではない。
それが、村で共有されていた理解だった。
それ以上の理由も、起源も、意味も――
疑問に思う前に、話は終わっていた。
知らされなかった、というより、考える必要がないように、話は閉じられていた。
ギルバートから聞いた話は、その閉じられた場所を、静かに開けた。
獣人の成り立ち。
熊の血が持つ、境界への近さ。
守る意志が強いほど、形を保つ理由を後回しにしてしまう性。
戻れなくなる、のではない。戻らなくなる。
その違いを、今になってようやく理解した気がした。
熊のままだから、分かることもある。
エリアスの匂いの変化。
疲れが強い日と、少し楽な日の微かな違い。
食べられるものと、拒むものの境目。
熊のままだから、選べた食べ物。
熊のままだから、巣穴の温度を一定に保てたこと。
熊のままだから、エリアスが安心して眠れている事実。
どちらが正しいかなど、決められない。
人の姿が“上”でも、
熊の姿が“下”でもない。
ただ、今の自分はここにいる。
ガレンは、低く息を吐いた。
その吐息に反応して、エリアスの呼吸が深くなる。
回される細い腕。
無意識に近づいたのだろう。
その事実に、ガレンの胸が静かに鳴る。
守るために獣へ寄り、迎えるために人へ戻る。
戻る術があるのか、わからない。
父も母も、どう思っていたのだろう。
戻りたかったのか、戻らなかったのか。
答えを聞く術は、もうない。
自分は、どう思っているのだろう。
ただ分かることは、今ここにいるということ。
この身体で、この距離で、この呼吸で。
考えることはやめられず、不安が消えるわけでもない。
それでも。
ガレンは、伏せたまま動かない。
エリアスが眠り、身体の中で命が息づき、夜が静かに過ぎていく。
そのすべてを、ただ受け止める。
今日も明日も、守る。
その先も、ずっと。
答えは、今はいらなかった。
巣穴の外では、雪が音もなく降り続いている。
世界はまだ、冬の中にある。
だが、ガレンの内側では、確かに何かが――ゆっくりと、形を持ち始めていた。