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  雪は相変わらず森を覆っていた。

  しかし、以前のような鋭さはない。

  踏みしめれば、きしむ音がする。

  凍りついた破壊の音ではなく、沈み込むやや鈍い響き。

  春はまだ遠い。

  だが、確実にこちらへ向かっている。

  巣穴の朝は静かだった。

  夜のあいだ燃やしていた火は、ほとんど熾になっている。

  完全には消えていないその熱が、岩肌に溜まり、冷えを和らげていた。

  エリアスは、ゆっくりと目を覚ます。

  眠りは深くはなかったが、途中で起きることもなかった。

  身体の内側にある“もう一つの存在”に、起こされることもない。

  腹に手を当てる。

  皮膚の下に、張りはあるが痛みはない。

  重さは増しているが、苦しさではない。

  ――もご

  挨拶のような動きもする。

  「……おはよう」

  自然と声が出た。

  腹の内側が、わずかに応える。

  こうして動いてることは当たり前ではない。

  毎日が奇跡なのだと、特に命を宿してからは思うようになった。

  しかしギルバートに言われたとおりに、感じない時間があっても、疑わない。動いたときも、過剰に構えない。

  (ちゃんと、続いてる。ありがとう、)

  すぐ隣で、ガレンが身じろぎする。

  身体は伏せたままだが、落ち着きがない。

  前脚に力が入り、抜け、また入る。

  夜明け前から、何度か巣穴の奥と入口を行き来していたのを、エリアスは知っている。

  「……また、起きてた?」

  問いかけると、ガレンは低く喉を鳴らした。

  短く、抑えた音。

  鼻先が、またエリアスの腹の前に来る。

  愛おしそうに匂いを嗅ぐ。

  「そんなに確認しなくても、大丈夫だよ」

  少し笑いながら言うと、ガレンは一瞬だけ動きを止め、それから喉を鳴らした。

  やめるつもりはないらしい。

  エリアスは身支度を始める。

  立ち上がる動作は、以前よりゆっくりだ。

  だが、誰かに支えられるほどではない。

  身体は、ちゃんと限界を教えてくれる。

  巣穴の中を歩く距離。

  座る場所。

  横になる向き。

  すべてが、いつの間にか“選ばれた形”になっていた。

  そして、その変化に、ガレンが合わせていることも。

  最近、巣穴の奥に増えた敷物。

  毛皮の重なり、乾いた草の層。

  最初は寒さ対策だと思った。

  だが、どうやら違うようだった。

  そこだけ、明らかに整えられている。

  身体が沈みすぎず、圧が一点に集中しない。

  「……ここ、寝心地いいよね」

  そう言ったとき、ガレンは一瞬だけ、動きを止めた。

  それから、満足そうに喉を鳴らした。

  (……準備、してくれてるんだ)

  焚火の前で、エリアスは声をかける。

  「今日、少しだけ外に出るね」

  森のほうを指す。

  「遠くまでは行かないよ」

  ガレンの喉が、短く鳴った。

  許可。

  だが、視線は離れない。

  「すぐ戻るから。ギルバートが、ちょっとは動いたほうがいいって言ってたでしょ」

  そう言って、腹を撫でる。

  すると、内側が、もごりと動いた。

  「……ほら」

  エリアスは、少し笑う。

  「そうだよ~って言ってる、」

  ガレンは、その様子を黙って見ていた。

  視線は腹から離れない。

  だが、焦りはない。

  代わりにあるのは、集中だ。

  “守る”という行為を履き違えないようにしなければならない。

  午後、予定通りエリアスは雪の中を少し歩いた。

  息が切れるほどではない。

  だが、身体が「ここまで」と告げる地点で、自然と引き返す。

  無理をしない判断が、考えずにできる。

  巣穴に戻ると、ガレンはすぐ隣に伏せた。

  鼻先を腹の前に置き、呼吸を合わせる。

  エリアスが、ぽつりと言う。

  「前より、動き、はっきりしてきた気がする」

  ガレンの喉鳴りが一段、深くなった。

  ――

  夜が来る。

  火を落とし、巣穴は暗くなる。

  エリアスは、自然と“整えられた場所”に身体を預けた。

  腹の奥で、小さく、しかし確かな動き。

  「……今日も、元気だったね。おやすみ」

  そう言って、目を閉じる。

  ガレンは伏せたまま、完全には眠らない。

  いつでも動ける位置で、距離を保つ。

  命を迎える準備は、もう始まっていた。