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  雪は、まだ降っていた。

  だが、積もるというよりほどけていくような降り方だった。

  白さは残り、冷えもある。

  それでも触れればすぐ形を変える。

  留まる力より、次へ移る準備のほうが勝っている雪だ。

  巣穴の中も、同じだった。

  昨日までと変わらないようで、どこか落ち着かない。

  音も匂いも変わらないのに、空気だけが少し前へ進んでいる。

  エリアスは目を覚ますと、考えるより先に腹へ手を伸ばした。

  「……おはよう」

  声にすると、その動きが一拍遅れて返ってくる。

  (……ちゃんと、続いてる)

  隣では、ガレンが起きていた。

  伏せたままだが、前脚に力が入っては抜け、また入る。

  呼吸が一定にならず、巣穴の奥と入口を視線だけで往復していた。

  鼻先は、何度もエリアスの腹の前に寄せられる。

  「……そんなに、気になる?」

  小さく言うと、低い喉鳴りが返る。

  短く、落ち着かない音。

  (……やっぱり、私より、ガレンのほうが)

  この生活に少し慣れたのは、自分だけではない。

  だが、受け止め方は違う。

  エリアスは、受け入れている。

  ガレンは、まだ測っている。

  距離。

  重さ。

  時間。

  不測の事態に備えて、守るために、何度も。

  巣穴の外で、雪を踏む音がした。

  「……入るぞ」

  ギルバートの声だった。

  ガレンの喉が鳴るが、いつもより短い。

  ギルバートはそれに気づいたが、触れなかった。

  中へ入り、まずエリアスを見る。

  「調子は?」

  顔色もよく、落ち着いているように見える。

  「悪くないよ」

  エリアスは即答した。

  本当に、悪くなかった。

  吐き気も眩暈もない。

  動けば疲れるが、やめる判断は迷わずできる。

  自分身体と宿った命が、“今”をちゃんと知らせてくる。

  ギルバートは頷き、荷を下ろす。

  「動きはどうだ?」

  「あるよ、元気すぎるくらい」

  その一言で、ガレンの耳が動いた。

  ギルバートは聴診器を手に取ったが、使う前に一度エリアスの腹を見た。

  服の上からでは膨らみは、あまり目立たない。

  だが、服を捲くると腹の張り方の質が変わっている。

  「……うん、揃ってきたな」

  独り言のような声。

  エリアスが瞬きをする。

  「揃う?」

  ギルバートは、そこで初めて聴診器を当てた。

  ――トク

  ――トク、トク

  「問題ない、ずっと順調で何よりだ」

  「……うん」

  「ただ、」

  ギルバートは、続けた。

  「そろそろだ」

  宣告のようだが、これは医師としての“線引き”だった。

  当のエリアスは、すぐに実感が追いつかなかった。

  「でも……普通に動けてるし」

  「それは関係ない」

  ギルバートは食い気味に答えた。

  「生まれる兆しが、揃い始めている」

  腹の張り、胎動の質、そして時期も。

  説明は簡潔だった。

  「まぁ今日明日という話じゃないが、こればかりはわからん。

  “いつ始まってもおかしくない場所”には来たからな」

  エリアスは腹に手を当てる。

  痛みはない。違和感もない。

  いまのところは。

  

  (……生まれる?)

  考えても、実感が湧かない。

  命は確かにいる。次に起きることといえば絶対、この世界に出ることだ。

  だが、いつまでもお腹の中にいるような、不思議な錯覚を覚える。

  ギルバートは、その表情を見て、声を少しだけ落とした。

  「実感がないのは、普通だ。

  生む直前まで、そういうやつもいる」

  エリアスは、小さく息を吐く。

  「……うん、」

  ガレンはごそごそと巣穴の入り口を掘っていた。

  「……ガレン?」

  名を呼ぶと、喉鳴りが返る。

  だが、落ち着かない。

  ギルバートは、ガレンをを見た。

  「獣は、人より先に“時期”を感じるものだ」

  説明ではなく、事実として。

  「だから今は、揺れるのだろう」

  守る準備が、現実の重さを持ち始めた証拠だ。

  「ガレン、抑えるな。お前のやり方でいい」

  それが許可だと、ガレンは理解した。

  ギルバートは、荷から布と薬草を出す。

  「この薬草は、布でくるみ煮出して飲む痛み止めだ。

  痛みが出たら使え」

  エリアスは受け取り、頷いた。

  「次は、三日後…」

  だが、その声に確信はない。

  「いや、それより前に呼ばれるかもしれん」

  「…分かった」

  怖くはない。

  ただ、未知が待っている。今までの人生で抱いたことのない感情があった。

  ギルバートは立ち上がり、出口で一度だけ足を止めた。

  「いいか。始まったら考えるな。

  やったことないことでも、身体は知っている。そういうふうにできている」

  そう言うと、雪の中へ消えた。

  ――

  巣穴に、静けさが戻る。

  ギルバートが来る前と同じ静けさではない。

  ガレンはしばらく動かず、やがて身体を低くしてエリアスに寄る。

  鼻先を腹の前に置き、深く息を吐く。

  落ち着こうとする呼吸。

  エリアスは、その大きな身体に手を伸ばした。

  「……まだ、実感ない」

  正直な声。

  「生まれるって言われても……」

  ガレンはエリアスの顔を大きな舌で舐めた。

  それは、不安を振り払うようなぎこちない仕草だった。

  大丈夫――

  いつもエリアスがガレンに伝えていた言葉を、今日はガレンから受け取った気がした。

  外では、雪が降り続いている。

  ガレンとエリアスはお互いを抱き合い夜を越えた。