最初に覚えていたのは時刻だけだった。23:48。理由は分からない。ただ、その数字を知っていた。目覚ましでもなく、予定表でもなく、誰かに教えられた記憶もない。それでも、23:48という並びが、生活のあちこちに貼り付いて離れなかった。
Xを開き、「千葉駅東口集合」と検索した。鍵の付いたアカウントがひとつだけ出てきた。フォローを押した。承認待ちの表示が出たが、それを見て何かを思った記憶はない。いつからこの名前を知っていたのか、考えようとしても思い出せなかった。
フォロワー数は二七五五だった。多い、と一度だけ思い、それ以上の意味を探さなかった。プロフィールには、「時間になりましたら千葉駅東口に集合でお願いします」とだけ書かれている。誰に向けた言葉なのかは分からないが、受け取る側が想定されていることだけは確かだった。
その夜、通知が来た。文も画像もなく、表示されたのは時刻だけだった。23:48。日付はなかった。集合場所の確認もなかった。それでも、その数字を見た瞬間に、納得してしまった。だから覚えていたのだと、理由ではなく結論だけが先に置かれた。
千葉駅は近い。近いというのは、思い立てばすぐ行けるという意味でもあり、考える暇がないという意味でもあった。
23:40、千葉駅東口に着いた。駅前は明るく、人が多く、いつもと変わらない顔をしている。飲み屋の呼び込みの声、タクシーの列、コンビニの光。その中で、音がひとつ足りない気がした。普段からあるわけではないのに、犬の鳴き声がないことに気づいた。
広場の端、植え込みの影に十数人が立っていた。円を作っているわけでもなく、声を掛け合っているわけでもない。ただ、同じ方向を向き、同じ間合いで立っている。その揃い方だけが不自然だった。近づいてはいけない気がしたが、足は止まらなかった。
23:48、腕時計を見た男が一歩踏み出した。誰も何も言わない。全員が自然に続いた。自分も続いた。声を出すと、空気が割れる気がした。
駅前の明るさを抜け、裏道に入る。さらに裏へ進むと、人が減るのではなく、意味だけが薄くなった。倉庫のような建物に入った瞬間、匂いが変わった。紙と埃と、湿ったコンクリート。その下に、消毒されかけた獣の匂いが混じっている。
輪ができた。中心はない。それでも、空気だけが固まっていく。誰かが言った。
「満月、近いな」
低い笑いがいくつか返る。喉の奥の振動が、人間より少し深い。そのとき、自分以外の全員が、人間に化けている存在だと分かった。分かってしまうことが、遅すぎたとも、早すぎたとも言えなかった。
「最近、匂いがうるさい」
「人間が増えた」
人間、という言葉が、ここでは別の意味で使われている。自分だけが、その意味から外れている。人間であることを悟られないようにしなければならないと考えた瞬間、その考え自体が遅れている気がした。
視線が一瞬こちらに向いた。目は合っていない。それでも、測られているのが分かる。「ずいぶん、人間に化けるのが上手だな」
言葉は柔らかかった。疑いではなく、評価だった。胸の奥が一拍遅れて冷えた。何が、どこで、どの瞬間で。問いは浮かぶのに、答えを組み立てる余裕がなかった。
そのとき、隣にいた男が何気ない調子で言った。
「最近のは、慣れてるんだろ」
それ以上、話題は続かなかった。助けられたのだと理解する前に、空気が流れ、会は進んでいく。助けられたという感覚を持てないことが、ここでは安全なのだと、なぜか分かってしまった。
会は淡々と進んだ。規則は説明されず、注意もされない。注意されない代わりに、自分で自分を監視し続けなければならなかった。その監視が、いつの間にか負担ではなくなっていることに気づき、慌てて考えるのをやめた。
集会が終わった合図はなかった。ただ、誰からともなく立ち上がり、ばらばらに外へ出ていく。時計を見ると、いつの間にか日付が変わっていた。帰り道は短かった。来るときに通ったはずの道を、いくつか思い出せない。
翌日、仕事をした。普段どおりに電車に乗り、普段どおりに席に着いた。会話も、作業も、問題なく進んだ。その「問題なく」が、どこか借り物のように感じられたが、誰も指摘しなかった。
帰り道、駅近くの本屋に入った。理由はなかった。強いて言えば、静かな場所に行きたかっただけだ。ベルが鳴り、紙の匂いがした。昨日の倉庫の匂いと似ているが、決定的に違う。ここには、生活の匂いが混じっている。
棚を眺め、手が止まった。オオカミの写真集だった。
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