【関西けもケット11】岸間夜行『後尾の憂いが切れたなら』

  僕は愛を信じられなかった。信じても裏切られるのが世の常だ。

  親は喧嘩ばかりだった。あれが十五年も一緒だったなんて未だに信じられない。十五年という数字がすぐ出るのは、僕の年齢と同じだからだ。僕ができちゃった婚でできた子供ってことは逆算すればそういうことなんだよな、と下らない気付きを得たときの虚脱をよく覚えていて、あれは家出をして数日後、伯父がコンビニで買ってきた缶ビールの二本のうち一本を、盗み飲みしたのだった。春休みの時だった。

  台所の隅で飲みながら十五という数字を思い浮かべて、気づき、恐ろしくなった。それまでに僕がいかに父に愛されずに育てられてきたのか、母に偽の愛を吹き込まれてきたのか、穴埋めをするように同級生に取り繕ってきたのか、ぐるぐる回る頭の中で整理しきれず、抑制が利かなくなって半分以上残っていたビールを一気に飲み干した。気持ち悪いのを通り越して危機感を覚え、便所に駆け込んで吐き出しているところを伯父に見つかった。馬鹿なことしやがって、と僕の背中をさすり、そのあと、すまんかった、とぽつりと聞こえたのをよく覚えている。

  伯父はぶっきらぼうだがいい人だった。はじめは、[[rb:関 > せき]]市のある町のアパートで一人暮らしをしているということだけ知っていた。

  親に隠れて携帯電話で連絡を取り、事情を伝えた上で家に居たくないと話したら、

  「お前、関まで来れるんか」

  といきなり言ってきた。

  「今から?」

  「当たり前やろ。金は」

  「かね?」

  「金はあるんかっちゅうに」

  「お年玉、五千円くらい」

  「はあ。何がどうしてこうなったんか」

  電話越しの声は低かった。お金の話が出たとたん僕は身構えたが、それは杞憂だった。伯父は僕の高校受験が済んでいることの確認と、内申に響くかもしれないから翌週の卒業式までは我慢すること、式が終わったら最低限の荷物と勉強道具だけ持って、家に帰らずまっすぐJRで自分の所へ来いと言った。本当は伯父に伝えておくべきことがあったが、黙っていた。

  伯父は僕の話を聞いてくれたのだ。ちゃんと聞いてくれた。当時の僕はそれだけで、そのうれしさだけでいっぱいで、中学校でもずっと一人だったから、僕は迷わずその提案に乗った。卒業式の後、一人だけ、ずっと僕に小銭をたかってきたイヌタだかタナカだかいう犬獣人の不良が声をかけてきて、悪かったから返す、と千円札の束を突き出してきたのを、ふざけんな、と自分でも驚くくらいの大声が出て、突っぱねて、近くの駅まで駆けて行き、ロッカーから荷物を取りだして、伯父の元へ向かった。

  まだ昼間の、大人ばかりの電車の中で、僕は伯父のいる町のことを考えていた。おじさんとは本当に小さい頃、誰かの葬式で会った以来で、あまり覚えていないがいくつか何か質問されたような気がする。元気でな、とまだおじさんの半分くらいの背丈の僕の、頭を撫でて帰っていったような記憶が、おぼろげながらにあるような。そんなだから、向こうのことはあまり知らなかった。関市って言ったら刃物だったっけ。あとは、よく知らない。

  学生服が目立つのか、周囲の視線が気になった。三十分くらい耐えて乗りついだ次の電車は空いていた。席に座って発車待ちの間、さっきの不良のせいで、僕は向こうの町にはどういう獣人がいるのかと思った。こっちはこっちで獣人はいたけど、ほとんどが僕のような人間で、他の地方からの移住者に獣人がちらほら居るくらいだった。窓を見た。あ、居る、猫だ。イタチもいる。人と獣が半々くらいだった。でも十人くらいのうちの半々だ。僕はこの前の試験の数学で解いた確率の問題を思い出した。この場でたとえるなら、半々だから二分の一だ。でも、猫は三でイタチは二だから、十分の三と十分の二を足した十分の五で二分の一だ。イタチが少ない。でも、十人中二人だから、五人に一人。それでも多いな、ただ、ここからまた三十分は電車で移動するのだから、ほとんど当てにならないな。

  ああ。僕が不良に叫んで出て行ったとき、周りの卒業生と先生と、みんなこっちを見てたな。ああ。走って行く僕の姿を、他にも誰か見ていたのかな。ああ。などと、たわいのないことを考えて、電車が出るのを待っていた。

  三年も前のことをよくも思い出せるよなと思う。嫌なことばかりだったからだろう。それと比べてこの三年は、よかったと思えることが幾らかあって、それもまたきちんと思い出せる。でも、あの時も今も。僕の心には軋みがある。結局変わらないのであれば、僕はどちらへ進むべきだったか。

  言うまでもない。夕暮れにはまだ早い。

  嫌なことばかり思い出す。伯父のところへ逃げ込んですぐ、春から通う高校をどうするのかという話になった。母の指示で合格した高校へは、伯父の家からはどうやっても通えない。そのことを伝えると、伯父はため息をついた。電話越しにしたのと同じだと思った。

  「そんな良いとこ蹴ったんか。や、俺が蹴らしたんか」

  剃り上げた後頭部をじょりじょりと鳴らしながら伯父は謝ったが、僕は全然気にしなかった。

  「あの、実はもう一校受かっていて」

  僕が伯父に資料を手渡すと、また頭を抱えて、ため息。

  「いつの間に受験した?」

  「最初からこっちが本命だった」

  「そうじゃなくて。……姉さん、お前の母さんは」

  「知らない。誰にも言ってないです。先生にも」

  誰にも内緒で、僕は関から通える私立高校にも合格していた。だから僕は、初めから逃げ出すつもりでいたのだ。伯父を当てにはしていたが、駄目なら駄目で、どうにかなるだろうくらいしか考えてなかった。

  そのときの伯父の眼は、理解できない物を見る眼、だった。そうだったと僕は思う。僕はその眼を、伯父が僕を蔑んだのだと理解したけど、これで僕が蔑まれる理由は理解できなかった。伯父は僕の頭を撫でたので、前後の事実が僕の頭の中で結びつかなくて、余計混乱した。

  「利口というか。しかしな、もっと大人を頼ったってくれな。もっと早く話とってくれれば、……」

  伯父は言葉を詰まらせていた。その時の様子も、本当によく覚えている。「姉さんが嗅ぎ付けるかも知れん。でも、黙っておいたままがええんだろ。[[rb:悠希 > ゆうき]]。心配しなくてもええから、お前はここから学校に通いなさい」

  伯父は僕の眼を見てそう言ったきりだった。

  高校に通い始めてから少しの間は穏やかだった。今まで通り人付き合いを避けたが、それをやっかむような奴はここにはいなかった。偏差値が集団の性質と関係するようなことが本当にあるのだと、僕は納得した。授業の進む速度が中学より遥かに速くて、しかしそれが楽しかった。

  次第に僕に勉強のことを聞く生徒が増えた。一応、無碍にはせずに、理解できる範囲で僕の解釈で彼らに教えた。

  その中の一人に、猫が居た。

  僕のクラスは人間と猫とイタチがそれぞれ二十と九と三人居て、残りは犬とか羊とか鶏とか狸とかが一人ずつしか居ない獣人がそれぞれ居て、全部で三十八人だった。駅で数えたときと大体似たような比率なので、こういうものだと思った。

  それで、その猫は[[rb:広川奏 > ひろかわそう]]といった。全身金色の毛で、口元だけ白い毛だった。

  広川は古文や歴史、英単語のような暗記する科目が苦手だと言っていた。理解した後の応用は得意なようで、数学だったり、同じ英語でも英文の聞き取りだったりは正答率が高いようだった。

  「[[rb:古田 > ふるた]]っちのノート、マジで暗記に効くっすよ」

  満足気に古文の単語ノートを僕に返す広川。中間テスト二日前の放課後だった。

  「もういいの」

  「うん。バッチリ覚えたかんね」

  「学校指定の単語帳の中身を書き写しただけのものだから、このノートが特別なにかに効くとは考えにくいのだけれど」

  「んなことねぇよぉ、君のノートの方が綺麗にまとまってて見やすいっす」

  「そう。ありがとう」

  「やー、こちらこそっすよー」

  ネコ科の大きな眼をきゅっと瞑って、広川は笑った。

  「覚えるのが苦手なら、僕と同じようにノートを作ったり、他の人がやってるような単語カードに書いたりすれば良いのに」

  「そんなマメなこと俺にはできねぇよぉ。みんなよくやるよなあ」

  広川はわざとらしく教室の中を見回した。試験前だからか何人か居残りで勉強している人もいて、広川の言動に苦笑いを見せている。それなりの進学校で勉学には真面目に取り組む生徒が多い中、広川は少し浮いているようだった。

  「中学の時はどうしてたの」

  「気合いで暗記だべ。そら、書いて覚えた方がいいって俺も分かるよ?でも字が汚えからさー、モチベ上がんねーかって」

  「ふうん」

  次の言葉を僕は少し考えてしまった。たぶん、この猫は暗記が得意でなくても努力したから、この学校に来れたのだと思った。だが、それを上手く伝えるのが難しくて、恥ずかしかった。僕の席の前に立つ広川の尻尾がゆらゆら揺れるのを、僕は眼で追った。

  「何見てるんすか」

  広川は小さく言って、尻尾を振る速度を速めた。僕は自分の視線を目ざとく広川に悟られて、別の恥ずかしさがやってきた。

  「なんでもないよ」

  「えー、そっすか?」

  ちょっと意地の悪い言い方に聞こえて、僕は眼を伏せて数学の問題の続きに向かった。視界の端で、広川が前に向き直って自分の勉強を始めたのが分かった。

  五十音順で直前の座席の広川は、尻尾が目立つ男だった。他の猫の生徒も尻尾が動くのが後方の席から目に付くが、獣人の種差の範囲で収まるものだった。広川だけがそれらと違っていて、ひときわよく動いて、それに大きな尻尾だった。前後左右に波打つ。左回り、右回り。回転軸が上に行ったり横に下に行ったりするのが昔見た宇宙ゴマのようだと思った。先生に注意されることもあったが、次第に教科によって動きを加減するなど、[[rb:小賢 > こざか]]しいのだった。

  自由なやつだな、と僕は思った。

  [newpage]

  [uploadedimage:24222296]