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地下室には、乾いた石の匂いが漂っていた。
赤みがかった猫となったリュミエは、何度も前足を見つめる。
肉球。
鋭い爪。
長くしなやかな尻尾。
どう見ても、自分は猫だった。
隣ではクリーム色の猫となったユリシアが必死に立ち上がろうとしている。
「ニャ、ニャア!」
声にならない。
伝えたいことは山ほどあるのに、口から出るのは猫の鳴き声だけだった。
その様子を見下ろしながら、魔女エルネスタが満足そうに微笑む。
「可愛い猫さんになったわね。」
リュミエは飛びかかろうとする。
しかし。
エルネスタが小瓶を取り出した。
蓋を開けた瞬間、甘く芳醇な香りが部屋いっぱいに広がる。
「ニャ……?」
頭がぼうっとした。
体が勝手に動く。
床へ身体を擦りつけ、尻尾が勝手に揺れる。
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「ニャ、ニャァ……。」
隣ではユリシアも同じだった。
ごろりと横になり、恍惚とした表情で床を転がっている。
(だめだ……。)
(身体が言うことを……。)
リュミエは必死に抵抗する。
だが猫としての本能には逆らえなかった。
「これは上質なまたたび。」
エルネスタがくすりと笑う。
「猫には、とてもよく効くの。」
二匹は完全に力を失っていた。
エルネスタは二匹を抱き上げると、小さな鉄製の檻へ入れる。
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「さて。」
「他のみんなとも仲良くしてもらいましょう。」
檻が持ち上げられた。
地下を進む。
石造りの長い通路。
やがて重い鉄格子が開いた。
そこは地下牢だった。
中には様々な動物がいる。
犬。
猫。
馬。
牛。
羊。
鳥。
そのどれもが悲しげな目でリュミエたちを見つめていた。
エルネスタが檻を床へ置く。
「新しい仲間よ。」
そう言い残し、去っていった。
静寂が戻る。
すると。
一匹の犬が近付いてきた。
「ワン。」
その瞬間。
リュミエの耳には、
『君たちも捕まったのか。』
とはっきり聞こえた。
「……え?」
思わず声を漏らす。
「ニャ?」
ユリシアも驚いている。
馬が近付く。
「ヒヒーン。」
『安心しろ。まだ完全には終わっていない。』
牛も頷く。
「モォ。」
『私たちも最初は君たちと同じだった。』
リュミエは目を見開いた。
「話が……分かる。」
猫になったことで、人間には理解できなかった動物たちの言葉が分かるようになっていた。
犬が静かに説明する。
「ワン。」
『私たちは皆、この町の住人だ。』
「メェ。」
『人間だった頃の身体は、今も町で暮らしている。』
「チュン。」
『中身だけが動物になってしまった。』
誰も助けを呼べなかった理由が分かった。
人間の姿でも、中身は動物。
動物の姿でも、中身は人間。
互いに言葉が通じない。
ベスティアは、その歪んだ均衡の上に成り立っていた。
重い扉が再び開く。
魔女エルネスタが姿を現した。
「そろそろ説明してあげる。」
彼女が杖を掲げる。
床いっぱいに巨大な魔法陣が浮かび上がった。
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赤黒い光が幾重にも重なり、地下牢全体を妖しく照らし出す。
エルネスタは、その魔法陣を満足そうに見つめながら口を開く。
「今はまだ、魂だけが入れ替わっている状態。」
「でも。」
「あと数時間もすれば、魂と身体は完全に同期する。」
リュミエの耳がぴくりと動く。
「ニャ……。」
「記憶も人格も身体へ引っ張られ、人間だった頃のあなたたちは消えていく。」
「猫は猫として。」
「犬は犬として。」
「馬は馬として。」
「永遠に、この姿で生きることになるの。」
地下牢が静まり返る。
ユリシアの身体が小さく震えた。
その時だった。
魚。
日なた。
柔らかな毛布。
窓辺で昼寝。
毛づくろい。
様々な光景が頭へ流れ込んでくる。
「ニャ……。」
気付けば前足を舐めていた。
「……!」
ユリシアは慌てて動きを止める。
リュミエも同じだった。
尻尾が勝手に揺れる。
耳が音へ反応する。
身体が自然に丸くなろうとする。
人間の記憶は残っている。
しかし、その中へ猫としての人生が少しずつ入り込んできていた。
エルネスタは満足そうに微笑む。
「安心して。」
「数時間もすれば、人間だったことなんて忘れるわ。」
「その頃には、あなたたちは立派な猫。」
地下牢へ、高らかな笑い声が響く。
「ふふふ……。」
「アハハハハ!」
エルネスタは黒いレースの裾を優雅に揺らし、妖しく微笑むと、そのまま地下通路の奥へ姿を消した。
扉が重々しく閉まる。
再び静寂が訪れる。
犬がゆっくり口を開いた。
「ワン。」
『時間はない。』
馬も頷く。
「ヒヒーン。」
『脱出できるのは猫だけだ。』
「ニャ?」
リュミエが首をかしげる。
犬は牢屋の隅を見た。
そこには石壁の一部が崩れ、小さな穴が開いていた。
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「ワン。」
『私たちは大きすぎて通れない。』
『だが猫なら通れる。』
リュミエとユリシアは顔を見合わせた。
「ニャ。」
小さく頷く。
二匹は穴へ近付く。
思った以上に狭い。
しかし身体を細くすると、ゆっくりと通り抜けられそうだった。
犬が最後に言う。
「ワン。」
『君たちなら、この町を救える。』
リュミエは力強く頷いた。
「ニャ!」
二匹は暗い穴の中へと飛び込んだ。
石壁の向こうから、冷たい風が吹いてくる。
その先には、まだ見ぬ地下道が続いていた。
狭い穴を抜けると、そこはひんやりとした地下道だった。
石壁には苔が生え、天井からは水滴が一定の間隔で落ちている。
リュミエとユリシアは慎重に歩き始めた。
狭い地下道を二匹の猫が駆ける。
「……そういえば。」
リュミエは意識を集中させた。
すると視界の端に、見慣れたシステムチャットが表示される。
【システムチャット】
リュミエ:ユリシア、聞こえる?
ユリシア:よかった……! チャットは使えるみたい!
リュミエ:声は猫のままだけど、これなら会話できる。
二人はほっと息をついた。
人間の言葉は話せなくても、システムチャットだけは正常に機能していた。
しばらく進むと、前方から小さな足音が聞こえてきた。
白いフード。
濃紺のワンピース。
木製の杖。
セラは地下道の奥から飛び出してきた。
「リュミエさん! ユリシアさん!」
猫になった二人を見ると、驚いて駆け寄る。
「その姿は……一体何があったんですか?」
リュミエはすぐにシステムチャットを開いた。
【システムチャット】
リュミエ:城でメイドに案内された。
ユリシア:地下室へ閉じ込められて、煙を浴びせられたの。
リュミエ:そのあと、メイドが魔女へ姿を変えた。
ユリシア:自分を『エルネスタ』と名乗っていた。
セラの表情が曇る。
「魔女……。」
「この異変を起こしている人物なんですね。」
リュミエは大きくうなずいた。
セラは少し考え込み、やがて静かに言った。
「急ぎましょう。」
「この先に、火の祭壇があります。」
「火の祭壇?」
「そこには、この国を支える結晶があります。」
「きっと、皆さんを元に戻す手掛かりになります。」
二匹はセラの後を追った。
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地下道を抜けると、大きな空洞へ出た。
中央には、赤い光を放つ祭壇。
その上には、掌ほどの大きさの赤い三角錐が静かに浮かんでいた。
火の結晶。
その輝きは、生きているように脈動している。
だが。
祭壇の前には二人の人影が立っていた。
銀の正装鎧を身にまとった騎士。
白地に金縁の法衣をまとったハイプリースト。
リュミエ。
ユリシア。
間違いなく、自分たちの身体だった。
しかし。
銀の鎧をまとったリュミエが剣を構える。
その口から、ぎこちない言葉が漏れた。
「か……えさ……ない……。」
リュミエは目を見開く。
「しゃべった……?」
猫の魂が入った自分自身は苦しそうに頭を押さえる。
「ひ……の……けっ……しょう……。」
「わた……さ……ない……。」
「ま……じょ……さま……の……めい……れい……。」
言葉はたどたどしい。
だが、確かに人間の言葉だった。
ユリシアの身体も震えながら杖を握る。
「だ……め……。」
「もっ……て……いか……ない……。」
その瞳には敵意よりも混乱が浮かんでいた。
猫の魂が、人間の身体に引っ張られ、少しずつ言葉を取り戻しているのだ。
二人とも、猫のように首をかしげている。
時折、床に落ちた光へ手を伸ばそうとしたり、鎧の裾をじゃれつくように掴んだりしていた。
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身体は人間。
魂は猫。
そのアンバランスな姿に、リュミエは思わず息を呑む。
「……。」
セラは月の結晶を胸の前へ掲げた。
淡い銀色の光が祭壇を照らす。
「月の結晶には、『認識』を司る力があります。」
「ほんの短い時間だけですが、魂を本来の身体へ戻すことができます。」
「ただし……。」
セラは真剣な表情で二人を見た。
「制限時間は五分です。」
「五分を過ぎれば、月の結晶の力は消えます。」
「その前に火の結晶を手に入れ、元の状態へ戻さなければなりません。」
リュミエとユリシアは力強くうなずいた。
月の結晶が輝きを増す。
銀色の光が二匹の猫を包み込んだ。
次の瞬間。
視界が反転する。
浮遊感。
そして。
リュミエは、自分の両手を見つめた。
銀の手甲。
騎士の鎧。
人間の身体に戻っている。
「戻った!」
隣ではユリシアも法衣姿へ戻っていた。
「急ごう!」
その声に反応するように、祭壇の前の二人もこちらを向く。
猫の魂が入った、自分たちの身体。
「ニャァァ!」
リュミエの姿をした猫が剣を抜く。
勢いよく突進してくるが、剣筋は滅茶苦茶だった。
本能のまま飛びかかるだけで、騎士としての技術はまったく使えていない。
リュミエは冷静に受け流した。
「ごめんな。」
柄で軽く打ち払う。
相手はそのまま転がり、鎧の重さに振り回されて立ち上がる。
一方、ユリシアの前では、猫の魂が入ったハイプリーストが杖を掲げていた。
回復魔法を使おうとしているのだろう。
しかし、途中で空中を飛ぶ小さな羽虫を見つけると、思わず目で追い始めてしまう。
「ニャ?」
集中が切れ、魔法は霧散した。
ユリシアは苦笑しながら近づく。
「少しだけ我慢してね。」
杖を軽く振る。
眠りの魔法が発動し、猫の魂が入った自分の身体は、その場へ静かに倒れ込んだ。
リュミエも剣を収める。
二人の戦いは、あっけないほど短時間で終わった。
祭壇が眩しく輝き始める。
赤い三角錐がゆっくりと宙へ浮かび上がった。
火の結晶。
セラは両手でそれを受け止める。
「間に合いました。」
月の結晶と火の結晶。
二つの結晶が共鳴し始める。
銀色と赤色の光が重なり合い、祭壇全体を包み込んだ。
柔らかな光がリュミエとユリシア、そして眠る二人の身体を優しく照らす。
やがて光が静かに収まる。
リュミエは自分の身体を見回した。
「……大丈夫だ。」
耳も尻尾もない。
完全に元へ戻っている。
ユリシアも胸を撫で下ろした。
「猫の記憶も……消えてる。」
セラがほっとしたように微笑む。
「成功です。」
その瞬間だった。
静かな拍手が洞窟へ響いた。
パチ……。
パチ……。
三人が振り向く。
祭壇の入口に、一人の女性が立っていた。
大きな黒い魔女帽子。
帽子から垂れる黒いレースのベール。
白と黒が美しく調和したアシンメトリーのドレス。
腰まで流れる艶やかな黒髪。
右手には、紫色の水晶をはめ込んだ銀の魔法杖。
妖しく輝く紫色の瞳が、三人を静かに見つめている。
魔女エルネスタだった。
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彼女はセラが抱く赤く輝く火の結晶へ視線を向け、口元に妖艶な微笑みを浮かべる。
「さすがです。」
「ここまでたどり着くとは、少しだけ見直しました。」
その笑みには、焦りはまったくなかった。
むしろ――。
次の遊びを見つけた子どものような、期待に満ちた表情だった。
リュミエは剣の柄を握り締める。
ユリシアも杖を構える。
セラは火の結晶を抱きしめ、一歩前へ出た。
誰も動かない。
静寂だけが、祭壇を支配していた。
――第6話 了
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