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夜明け前の山は、死んでいる。
音がない。
風がない。
鳥も虫も、まだ眠っている。
あるのは霧だけだ。
乳白色の闇が谷間を埋め、木々の輪郭を溶かし、足元の地面さえ曖昧にする。
シンは、その霧の中に立っていた。
天幕から這い出すのに、三分かかった。
傷が開かないように。
膝が鳴らないように。
誰も起こさないように。
それだけのことに、三分。
五日前なら、数秒で動けた。
(……今だけだ。ただ、状況が状況だ。早く回復しなければ。)
自分に言い聞かせながら、集落の外れまで歩く。
粗末な柵の内側に、生活がある。
煮炊きの跡、干された布、子供が遊んだ痕跡の泥の凹み。
数日前まで「敵」だったはずの「魔族」の生活が、ただそこにある。
シンは、それを見ていた。
頭の中で、「別の自分」の記憶が引用される。
(民族浄化の記録を読んだことがある。加害者側の論理は、いつも同じだ。まず「同じ人間ではない」と定義する。次に「脅威である」と規定する。最後に「排除は正義だ」と結論する。単純で、反駁しにくく、そして大量殺戮の免罪符になる。)
現世の自我が、冷たく返した。
(知っている。俺はそのシステムの中で育った。ゴブリンは魔族だと、物心ついた時から教わった。士官学校に入ってからは「駆除」の対象だった。)
だが今、目の前にある。
子供が遊んだ泥の凹みが。
シンは、その凹みを、少しの間だけ見ていた。
それから、目を逸らした。
感傷は、後でいい。
今は考えることがある。
羊皮紙を広げる。
炭で描いた、粗末な地図の下書き。
集落の周辺、谷の形、斜面の傾斜。
昨日ムパンギから聞いた情報と、自分の観察を重ねていく。
(帝国軍が次に来るとしたら、この谷だ。)
前世の記憶が、静かに応答した。
地形は政治を規定する。
山脈は民族を隔て、河川は交易路を生む。
そして谷は――侵攻路を生む。
(尾根を使って側面から回り込む。それが定石だ。だが霧が出る夜明け前は視界が死ぬ。その瞬間を逆用できる。)
炭が羊皮紙の上を走る。
シンの手は、止まらなかった。
だが、その手の動きとは裏腹に、胸の奥で別の声がしていた。
(……この計算の中に、「命」がいない。)
地形がある。
時間がある。
確率がある。
だが、ゴブリンたちの顔がない。
アキンの顔がない。
ヒディの顔がない。
駒だ。
計算式の中の、駒だ。
(それで、いいのか。)
前世の、「新たに色々な知識とともに入力された」価値観が自問させる。
(いい。)
自我が、即座に答えた。
感情を混ぜれば、判断が歪む。
歪んだ判断は、余分な死を生む。
駒として扱う方が、結果として生存者が増える。
(本当にそうか。)
答えが出る前に、足音が聞こえた。
「起きてたのか。」
ムパンギが霧の中から現れる。
手に、粗末な木椀を二つ持っていた。
「スープだ。怪我人が夜明け前に出歩くな。危ないぞ。」
「斥候を出す前に、話がある。」
ムパンギは黙って木椀を差し出した。
シンは受け取り、一口飲んだ。
温かかった。
少し塩気が強い。
だが、だからこそ血を失った体の奥まで染みる。
「その前に、けじめはつけておきたい。力を貸してもらえるんだな?」
「ああ、俺で良ければな。やつらを倒さなければ俺も居場所がなくなる。」
「わかった、ならば聞こう。」
シンは羊皮紙を広げた。
「この谷だ。」
シンは炭の先で、一点を示した。
「帝国の斥候が次に来るとしたら、ここを通る。道幅が広く、馬が使える。だが両脇の斜面が急峻だから、侵攻側は必然的に一列縦隊になる。」
ムパンギは腕を組み、羊皮紙を覗き込んだ。
「……続けろ。」
「夜明け前に霧が出る。この時間帯、視界は十メートル以下になる。敵の弓は使えなくなる。連携も崩れる。」
「ふん。」
「ここに伏兵を置け。」
シンは斜面の一点を示した。
「夜明けの霧が最も濃くなる刻に叩く。敵が視界を取り戻す前に、決着をつける。」
ムパンギはしばらく、羊皮紙を見つめていた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……理にかなっている。」
「ただし、条件がある。」
「何だ。」
「地図が要る。この集落の周辺、半径二十里の地形を正確に把握しなければ、次の手が打てない。今日からアキンたちに測量を始めさせろ。歩幅を一定に保ち、起伏を記録し、基準点からの距離を数値化する。」
ムパンギの眉が、わずかに上がった。
「……測量。」
「この集落がいつまでも受け身でいれば、いずれ呑み込まれる。地形を把握することは、選択肢を持つことだ。どこで戦うか。どこへ逃げるか。どこに拠点を作るか。全部、地図が決める。」
ムパンギは、しばらく黙っていた。
霧の向こうで、集落が静かに目覚め始めている。
火を起こす音。
子供の声。
何かを煮る匂い。
「アキンが納得するかどうかは知らんぞ。」
「それはお前の仕事だ。」
ムパンギは、一瞬だけ目を細め、それから低く笑った。
「言うじゃないか。」
アキンは、案の定、納得しなかった。
「測量? 地図? 俺たちは戦士だぞ!紙の上で数を数えるのが仕事か!」
天幕の中で、アキンの怒声が響く。
ムパンギは腕を組んで壁に背を預け、黙って見ている。
シンは寝台の上から、アキンを見た。
十七歳。
筋肉質で、動きに無駄がない。
戦士としての素質は本物だ。
だが、怒りが先に立つ。
感情が、判断を追い越す。
(十年前の、俺に似ている。)
その思考が浮かんだ瞬間、シンは内側で小さく止まった。
十年前の俺はまだ子供だ。
それは「別の自分」が十年前に経験した何かか――。
境界が、また曖昧になった。
「アキン。」
シンは、感情を抜いた声で言った。
「お前は昨日の戦闘で、敵の側面攻撃に対応できなかった。なぜだと思う。」
「……地形を……把握していなかったからだ。」
アキンは、悔しそうに吐き捨てた。
「そうだ。地形は変わらない。敵は変わる。天候は変わる。だが地形だけは、把握すれば永久に使える。これは剣の稽古と同じだ。今日の苦労が、明日の命になる。」
アキンは黙った。
納得したわけではない。
だが、反論の言葉を探している。
その沈黙が、シンには十分だった。
「今日の午前中は集落の東側から始めろ。歩幅を計測して基準にする。起伏は段差ごとに記録。基準点からの距離を数える。」
「……わかった。」
ぶっきらぼうに言って、アキンは天幕を出ていった。
ムパンギが、その背中を見送りながら言った。
「説得が上手いな。」
「説得ではない。論理だ。」
「同じことだ。」
「違う。説得は感情に働きかける。論理は思考を通して構造に働きかける。感情は変わるが、構造は変わらない。」
ムパンギは、また低く笑った。
「お前は本当に面白い人間だな、シン。」
セリナが、傷の手当てに来たのは、それから間もなくだった。
天幕の中に二人になる。
外からは、アキンたちが出発する足音が聞こえる。
セリナは無言で、包帯を解いた。
傷口を確認する。
昨日より赤みが引いている。
彼女の精霊術の効果かもしれない。
「……よくなってる。」
「感謝する。」
「礼はいい。」
短い。
だが、その短さの中に何かが混じっていた。
シンは、その「何か」を分析しようとして、止めた。
「……何か聞きたいことがあるなら、聞け。」
セリナの手が、一瞬だけ止まった。
「……なぜ、わかるの。」
「そういう沈黙だったからだ。」
セリナは少しの間、包帯を巻く手を動かし続けた。
それから、静かに口を開いた。
「……昨日の夜。あなたが羊皮紙に何かを書いていた。」
「見ていたのか。」
「眠れなかっただけ。」
シンは何も言わなかった。
「戦略を立ててた。地形を分析して敵の動きを予測して、だよね?」
「そうだ。」
「それは普通の将校がすることよ。」
「そうだな。」
「……でも。」
セリナは包帯を結び、手を止めた。
「普通の将校は、あんな顔をしない。」
「……どんな顔だ。」
「苦しそうな顔。」
静寂が落ちた。
シンは、返答を探した。
だが、適切な言葉が見つからなかった。
「戦略を立てる時、人間を駒として扱う必要がある。それが苦手なのか、と思って。」
「……苦手ではない。」
「じゃあ、なぜ。」
シンは、少しの間だけ黙っていた。
「……苦手ではないことが、苦手なのかもしれない。」
セリナは、その言葉の意味を、すぐには解けなかった。
ただ、その答えが計算ではないことだけは、わかった。
(この人は、軍人なのに、――たまに軍人らしくなくなる。……なぜ?)
またその言葉が生まれかけて、止まった。
それ以上を言語化するには、まだ足りなかった。
昼を過ぎた頃、シンは初めて寝台から起き上がり、集落の中を歩いた。
足が重い。
視界が時々揺れる。
それでも歩いた。
止まれば、思考が過去へ向かう。
動いていれば、前だけを見ていられる。
集落は、思っていたより広かった。
天幕が二十ほど。
粗末だが、配置に一定の規則がある。
中央に広場があり、焚き火の跡が複数。
炊事場と思しき場所と、武器の手入れをする場所が、それぞれ端に寄せられている。
(……無意識の機能分離だ。意図してやっているわけではないだろうが、理にかなっている。)
前世の記憶が、静かに補足した。
(自然発生的な集落の構造は、多くの場合、機能的要求から生まれるものだ。防衛と生産と休息の分離。これは人類普遍の――)
「シン。」
声がして、振り返った。
ヒディだった。
小さな手に、木の実を山盛りに抱えている。
「歩けるようになったんだね!よかった。これ、食べる?甘いよ。ほら。」
差し出された木の実を、シンは見る。
小さな緑の粒。
ヒディの掌の上で転がっている。
「……もらう。」
一粒、口に入れた。
酸っぱかった。
だがその奥に、確かに甘みがあった。
何より新鮮な味だ。
「……うまいな。」
「でしょ!この森にしかないんだよ。私が見つけたんだ。」
ヒディは誇らしげに胸を張った。
シンは、その顔を少しの間だけ見ていた。
アキンと双子だから十七歳だ。
だが、小柄なのに加え、純粋な明るさが幼くも見せる。
この世界で生き延びることがどれほど過酷か、既に知っているはずだ。
それでも、この顔ができる。
(どちらが正しいのだろう。)
前世の記憶が、静かに問うた。
感情を殺して生き延びる俺と、感情を持ったまま朗らかに生きている彼女と。
どちらが、本当の意味で「生きている」のか。
「シン、難しい顔してる。」
ヒディが、不思議そうに覗き込んだ。
「そうか。」
「何か、嫌なことあった?」
「……いや。」
「じゃあ、笑えばいいじゃん。」
それだけ言って、ヒディは走って行った。
シンは、その背中を見ていた。
笑えばいい。
その言葉の単純さが、ひどく重かった。
夕暮れが山の稜線を赤く染めた頃、集落に異変が起きた。
遠くから、急いだ足音が近づいてくる。
アキンだ。
その顔を見た瞬間、シンは全ての感傷を切り捨てた。
「何人だ。」
「帝国の斥候。五人組が三隊。計十五。俺たちの測量隊に気づいて追ってきた。今、谷の入口まで来てる。」
「こちらの損耗は。」
「ゴルが、矢を受けた。動けない。」
シンは立ち上がった。
膝が軋む。
無視した。
「ムパンギを呼べ。セリナ、弓は使えるか。」
「使える。」
いつの間にか、セリナが天幕の入口に立っていた。
「ヒディは集落の中心に。動くな。」
「で、でも――」
「動くな。ここを守れ。」
それだけで、ヒディは動きを止めた。
シンは羊皮紙を掴んだ。
炭を取った。
膝をついて、地面に素早く線を引く。
「谷の入口はここだ。両脇の斜面はこの角度。敵は一列で来るしかない。」
ムパンギが天幕に飛び込んできた。
「状況は聞いた。どうする。」
「俺とセリナが右の斜面に上がる。お前は谷の出口側に回れ。アキンは囮だ。わざと追いかけさせながら谷の中央まで引き込む。」
「囮?俺が?」
アキンが声を荒げた。
「逃げながら戦えるか。」
「……できる。」
「なら問題ない。谷の中央まで来たら伏せろ。それで全員の視界が揃う。」
シンは立ち上がった。
全身が重い。
傷が熱い。
それでも足を踏み出した。
「行くぞ。」
斜面を登る。
膝が鳴る。
傷口が開きかけている感覚がある。
無視する。
今は動ける。
後で考える。
隣でセリナが、音もなく斜面を登っていた。
エルフの足は、身軽だ。
それこそ今のシンの何倍も速い。
それでも彼女はシンの速度に合わせていた。
気を使っているのか、それとも――
「無理をしないで。」
「無理はしてない。」
「嘘。顔色が悪い。」
「見えるのか。暗いのに。」
「エルフの目は暗所に強い。」
シンは、それ以上言わなかった。
セリナも、それ以上追わなかった。
斜面の頂上近くで、二人は伏せた。
谷の底が見える。
霧が残っている。
その霧の中に、影が動いていた。
帝国の斥候だ。松明を持っている。
五人。
また五人。
また五人。
合計十五。
シンは、その動きを見た。
(……練度は低い。正規軍ではない。雇われの斥候だ。松明を持つのは夜目が利かないから。索敵能力も低い。)
「セリナ。先頭の松明持ちを狙え。谷の中央に来たら。」
「わかった。」
「撃ったら即座に移動しろ。同じ場所から二射するな。」
「……それも、普通の将校が知っていることなの?」
「狙撃の基本だ。」
セリナは少しだけ間を置いた。
それから、弓を引き絞った。
谷の底で、アキンの声が響いた。
「おい、人間ども! 俺はここだぞ!」
挑発だった。
斥候たちが反応する。
松明の光が乱れる。
アキンが走る。
斥候が追う。
谷の中央へ。
シンは息を止めた。
(……今だ。)
「放て。」
弦の音。
先頭の松明が、落ちた。
すぐにセリナが動く。
谷の底に、叫び声が響く。
混乱。
松明が乱れ、隊列が崩れる。
「次。」
また弦の音。
二本目の矢が、混乱の中で指示を出そうとした男の首を貫いた。
指揮官だ。
本能的に選んでいた。
「移動。」
二人は斜面を横へ移動する。
シンの足が、一度だけ滑った。
セリナの手が、素早くその腕を掴んだ。
「……ありがとう。」
「どういたしまして。」
たった、それだけのやりとり。
だが、その瞬間の接触が、シンの中で妙に長く残った。
谷の底では、ムパンギが出口側から踏み込んでいた。
退路を断たれた斥候たちが、浮き足立つ。
アキンが反転して斬り込む。
五分で、決着がついた。
静寂が、谷に戻ってきた。
シンは斜面を降りながら、頭の中で計算していた。
敵の損耗。
十五。
こちらの損耗。
谷の底に降りた瞬間、見えた。
三つの、動かない影。
――ゴブリン。
測量隊のゴブリンだった。
地図作成のために今日一日、歩幅を数え、起伏を記録し、基準点からの距離を刻み続けた、その三人が――泥の上に、重く沈んでいた。
シンは、その場で足を止めた。
(……三人か。)
数として処理しようとした。
できなかった。
なぜかがわからなかった。
今まで、何十人の死を数として処理してきた。
カイルの死でさえ、感情を飲み込んで次の行動に移った。
なのに今、この三つの影の前で――
(……俺の指示が、不十分だった。)
その結論だけが、冷たく出た。
地図作成の隊形が戦闘に向いていない。
間隔が広すぎる。
連携も、警戒も、指示が足りなかった。
論理は正しい。
正しいはず。
だが、それを「正しい」と結論した瞬間に、何かが――
「……くそっ!」
アキンの叫びが、夜気を引き裂いた。
泥に膝をついて、拳で地面を何度も打ちつける。
血が滲んでいるのが、暗がりでもわかった。
「間に合わなかった……! 俺が、もっと早く気づいていれば――!」
声が震えている。
泣いているのか、怒っているのか、あるいは両方か。
シンは、そのアキンを見ていた。
何も言わなかった。
言えなかった――ではない。
言葉はあった。
「次の再発防止に使う」、「仕組みを変える」、「無駄にはしない」。
全部、本当のことだ。
正しいことだ。
だが。
(……今、それを言うのか。)
記憶が、静かに止めた。
自我が、応じた。
(……感情は効率を鈍らせる不純物だ。早く切り替えなければ。)
(本当にそう思っているのか。)
(思っている。)
(では、なぜ足が動かない。)
シンは、自分の足元を見た。
泥の中に、半分沈んだゴブリンの手が見えた。
今日の朝、歩幅を数えながら出発したはずの手が。
目を逸らそうとした。
できなかった。
「シン。」
マリの声がした。
老婆は、いつの間にか谷の底にいた。
誰も呼んでいないのに、そこにいた。
「マリさん。ここは危険だ。」
「もう終わったろ。」
反論できなかった。
マリは、シンの隣に立った。
三つの影を、静かに見た。
「……この子たちは今朝、出かける前に私に声をかけてくれたよ。スープが美味しかったって。」
シンは、何も言わなかった。
「あんたが作った仕事が面白いって、言ってたよ。歩幅を数えるのが、意外と楽しいって。何かを少しづつ作っていくのって面白いってね。」
沈黙。
「……俺の指示が、足りなかった。」
その言葉が、口から出た瞬間、シンは自分が何を言ったのか、少しだけ驚いた。
謝罪ではない。
言い訳でもない。
ただの、事実の確認だ。
だが、マリは静かに頷いた。
「アンタがそういうんなら、そうなんだろうさ。」
肯定だった。
慰めではなく、否定でもなく、ただの肯定。
「でも、あんたがいなければ、もっと死んでたよ。今夜の十五人の話じゃなく、もっと先の話として。」
「……それは、まだわからない。」
「わからなくていいさ。」
マリは、それだけ言った。
「ひとつだけ聞いていいかい。」
「なんだ。」
「削ったその先には、何が残るんだい。」
またその問いが来た。
二度目だった。
シンは今度こそ、答えようとした。
「生き残る者だ。」
「そうかい。じゃあ、その『残る側』はどうやって決める。」
「状況だ。役割、能力、配置、確率。すべてを見て、最も損失が少なくなる形を選ぶ。」
「なるほどね。」
マリは小さく頷いた。そして、ゆっくりと息を吐いた。
「それをやり続けるとね――最後に残るのは、『誰も選ばなかったやつ』になるよ。」
沈黙。
シンは、その言葉を受け取った。
意味はわかった。
計算式に人間を入れ続けた先に、選択する者自身が計算式から外れる――そういうことだ。論理としては理解できる。
だが。
(……「誰も選ばなかったやつ」か。)
その言葉が、頭の中で反響した。
前世の記憶が、静かに続ける。
(孤立した権力者は腐敗する。組織の頂点が人間性を失えば、組織全体が歪む。これは歴史が繰り返し証明してきた――)
現世の自我が、遮った。
(関係ない。俺は組織の頂点ではない。今はただの、負け犬だ。)
(負け犬が生き残るために、他人を駒として扱う。それが今の俺だ。何が間違っている。)
間違っていない。
そう、間違ってはいない。
(……なのに。)
なぜ、足が動かないのか。
シンはまぶたを閉じた。
泥の上の手が、瞼の裏に残っていた。
「……次からは、死なせない。」
気づいたら、声に出ていた。
低く、地を這うような声。
誰に向けたものでもなかった。
アキンが、弾かれたように顔を上げた。
「ふざけんな……!」
その声は、怒りというより――悲鳴に近かった。
「こいつらはもう死んでるんだぞ! 戻ってこないんだよ! お前の言う通りに動いた! 地図を数えて、歩幅を記録して……ちゃんとやった、ちゃんとやったのに――!」
言葉が、嗚咽に溶けていく。
シンは、その怒りを受け取った。
受け止めた。
跳ね返さなかった。
「……そうだ。」
それだけ言った。
「お前たちはちゃんとやった。俺の指示が、足りなかった。」
アキンが、息を呑んだ。
「だから、仕組みを変える。今回の損失を、次に活かす。それが、この三人への俺なりの答えだ。」
「……そんなの。」
「まともな答えになっていないのは、わかっている。」
シンは、アキンを見た。
「だが、死者は戻らない。そのまともじゃない答えで、次の死者を減らすことはできる。俺にできるのは、それだけだ。」
アキンは、何も言わなかった。
泣いていた。
声を殺して。
シンは、その隣に膝をついた。
体が軋んだ。
傷が熱を持った。
それでも、膝をついた。
一緒に、三つの影を見た。
何も言わなかった。
言葉は要らなかった。
セリナが、その光景を遠くから見ていた。
(……この人は。)
また言葉が生まれかけた。
今度は、少しだけ先まで進んだ。
(この人は、感情を切り捨てているのではない。)
切り捨てられないから、切り捨てようとしている。
その違いは、外からは見えない。
だが、セリナには見えた。
(どうして、そこまでして。)
答えは出なかった。
だが、一つだけ、決まったことがあった。
この人間の隣にいよう。
理由は要らない。
理屈は後でいい。
ただ、この人間が崩れ落ちる前に、誰かがそこにいなければならない。
それが自分だという確信だけが、静かに、しかし確実に、セリナの中に根を下ろした。
夜が深くなった。
焚き火の傍らで、ムパンギが湯を沸かしていた。
シンが戻ってくると、黙って木椀を差し出した。
「……飲め。」
「……ああ。」
二人は、しばらく黙って火を見ていた。
「シン。」
「なんだ。」
「お前は、強いな。」
「……俺が倒れていたのを、もう忘れたのか。」
「そういう話じゃない。」
ムパンギは、炎を見たまま言った。
「戦場で強い奴は多い。だが、負けた後に立っていられる奴は少ない。お前は、全部失った後で、まだ前を向いている。」
「……前を向くしか、ないからだ。」
「そうかもしれん。だが、それができない奴の方が多い。」
沈黙。
シンは、木椀の中の液体を見た。
「……ムパンギ。」
「なんだ。」
「お前たちは、なぜここで戦っている。逃げる選択肢もあるはずだ。」
ムパンギは、少しの間だけ黙っていた。
「……逃げた先がないからだよ。」
静かな答えだった。
「帝国は広い。教会は帝国より広い。亜人が安全に暮らせる場所は、どこにもない。」
「だから、戦う。」
「戦うしか、ないからな。生き延びるためには。」
ムパンギは、それからシンを見た。
「……お前も、同じだろ。」
シンは、答えなかった。
答えなかったが――否定もしなかった。
それが、この夜の、二人の間に生まれた最初の、本物の合意だった。
天幕に戻る前に、シンは一度だけ足を止めた。
空を見上げた。
星が、出ていた。
帝国の領地からは見えない、この森の深い星空が。
頭の中で、二つの声がまだ、低く燃えていた。
現世の自我が言う――明日から仕組みを変える。
地図を完成させる。
次の手を打つ。
感情は後回しだ。
前世の記憶が言う――三人の名前を、覚えておけ。
シンは、目を閉じた。
(……ゴル。ラン。テッシュ。)
今日、歩幅を数えていた三人の名前を、頭の中で繰り返した。
記録には残らない。
戦略には関係ない。
確率の計算には、何の影響も与えない。
それでも、繰り返した。
それだけが、今夜の――「別の自分」に対する、シンなりの折り合いだった。
夜空には星が、静かに瞬いていた。
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