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第3話 命を数える

  夜明け前の山は、死んでいる。

  音がない。

  風がない。

  鳥も虫も、まだ眠っている。

  あるのは霧だけだ。

  乳白色の闇が谷間を埋め、木々の輪郭を溶かし、足元の地面さえ曖昧にする。

  シンは、その霧の中に立っていた。

  天幕から這い出すのに、三分かかった。

  傷が開かないように。

  膝が鳴らないように。

  誰も起こさないように。

  それだけのことに、三分。

  五日前なら、数秒で動けた。

  (……今だけだ。ただ、状況が状況だ。早く回復しなければ。)

  自分に言い聞かせながら、集落の外れまで歩く。

  粗末な柵の内側に、生活がある。

  煮炊きの跡、干された布、子供が遊んだ痕跡の泥の凹み。

  数日前まで「敵」だったはずの「魔族」の生活が、ただそこにある。

  シンは、それを見ていた。

  頭の中で、「別の自分」の記憶が引用される。

  (民族浄化の記録を読んだことがある。加害者側の論理は、いつも同じだ。まず「同じ人間ではない」と定義する。次に「脅威である」と規定する。最後に「排除は正義だ」と結論する。単純で、反駁しにくく、そして大量殺戮の免罪符になる。)

  現世の自我が、冷たく返した。

  (知っている。俺はそのシステムの中で育った。ゴブリンは魔族だと、物心ついた時から教わった。士官学校に入ってからは「駆除」の対象だった。)

  だが今、目の前にある。

  子供が遊んだ泥の凹みが。

  シンは、その凹みを、少しの間だけ見ていた。

  それから、目を逸らした。

  感傷は、後でいい。

  今は考えることがある。

  羊皮紙を広げる。

  炭で描いた、粗末な地図の下書き。

  集落の周辺、谷の形、斜面の傾斜。

  昨日ムパンギから聞いた情報と、自分の観察を重ねていく。

  (帝国軍が次に来るとしたら、この谷だ。)

  前世の記憶が、静かに応答した。

  地形は政治を規定する。

  山脈は民族を隔て、河川は交易路を生む。

  そして谷は――侵攻路を生む。

  (尾根を使って側面から回り込む。それが定石だ。だが霧が出る夜明け前は視界が死ぬ。その瞬間を逆用できる。)

  炭が羊皮紙の上を走る。

  シンの手は、止まらなかった。

  だが、その手の動きとは裏腹に、胸の奥で別の声がしていた。

  (……この計算の中に、「命」がいない。)

  地形がある。

  時間がある。

  確率がある。

  だが、ゴブリンたちの顔がない。

  アキンの顔がない。

  ヒディの顔がない。

  駒だ。

  計算式の中の、駒だ。

  (それで、いいのか。)

  前世の、「新たに色々な知識とともに入力された」価値観が自問させる。

  (いい。)

  自我が、即座に答えた。

  感情を混ぜれば、判断が歪む。

  歪んだ判断は、余分な死を生む。

  駒として扱う方が、結果として生存者が増える。

  (本当にそうか。)

  答えが出る前に、足音が聞こえた。

  「起きてたのか。」

  ムパンギが霧の中から現れる。

  手に、粗末な木椀を二つ持っていた。

  「スープだ。怪我人が夜明け前に出歩くな。危ないぞ。」

  「斥候を出す前に、話がある。」

  ムパンギは黙って木椀を差し出した。

  シンは受け取り、一口飲んだ。

  温かかった。

  少し塩気が強い。

  だが、だからこそ血を失った体の奥まで染みる。

  「その前に、けじめはつけておきたい。力を貸してもらえるんだな?」

  「ああ、俺で良ければな。やつらを倒さなければ俺も居場所がなくなる。」

  「わかった、ならば聞こう。」

  シンは羊皮紙を広げた。

  「この谷だ。」

  シンは炭の先で、一点を示した。

  「帝国の斥候が次に来るとしたら、ここを通る。道幅が広く、馬が使える。だが両脇の斜面が急峻だから、侵攻側は必然的に一列縦隊になる。」

  ムパンギは腕を組み、羊皮紙を覗き込んだ。

  「……続けろ。」

  「夜明け前に霧が出る。この時間帯、視界は十メートル以下になる。敵の弓は使えなくなる。連携も崩れる。」

  「ふん。」

  「ここに伏兵を置け。」

  シンは斜面の一点を示した。

  「夜明けの霧が最も濃くなる刻に叩く。敵が視界を取り戻す前に、決着をつける。」

  ムパンギはしばらく、羊皮紙を見つめていた。

  それから、ゆっくりと頷いた。

  「……理にかなっている。」

  「ただし、条件がある。」

  「何だ。」

  「地図が要る。この集落の周辺、半径二十里の地形を正確に把握しなければ、次の手が打てない。今日からアキンたちに測量を始めさせろ。歩幅を一定に保ち、起伏を記録し、基準点からの距離を数値化する。」

  ムパンギの眉が、わずかに上がった。

  「……測量。」

  「この集落がいつまでも受け身でいれば、いずれ呑み込まれる。地形を把握することは、選択肢を持つことだ。どこで戦うか。どこへ逃げるか。どこに拠点を作るか。全部、地図が決める。」

  ムパンギは、しばらく黙っていた。

  霧の向こうで、集落が静かに目覚め始めている。

  火を起こす音。

  子供の声。

  何かを煮る匂い。

  「アキンが納得するかどうかは知らんぞ。」

  「それはお前の仕事だ。」

  ムパンギは、一瞬だけ目を細め、それから低く笑った。

  「言うじゃないか。」

  アキンは、案の定、納得しなかった。

  「測量? 地図? 俺たちは戦士だぞ!紙の上で数を数えるのが仕事か!」

  天幕の中で、アキンの怒声が響く。

  ムパンギは腕を組んで壁に背を預け、黙って見ている。

  シンは寝台の上から、アキンを見た。

  十七歳。

  筋肉質で、動きに無駄がない。

  戦士としての素質は本物だ。

  だが、怒りが先に立つ。

  感情が、判断を追い越す。

  (十年前の、俺に似ている。)

  その思考が浮かんだ瞬間、シンは内側で小さく止まった。

  十年前の俺はまだ子供だ。

  それは「別の自分」が十年前に経験した何かか――。

  境界が、また曖昧になった。

  「アキン。」

  シンは、感情を抜いた声で言った。

  「お前は昨日の戦闘で、敵の側面攻撃に対応できなかった。なぜだと思う。」

  「……地形を……把握していなかったからだ。」

  アキンは、悔しそうに吐き捨てた。

  「そうだ。地形は変わらない。敵は変わる。天候は変わる。だが地形だけは、把握すれば永久に使える。これは剣の稽古と同じだ。今日の苦労が、明日の命になる。」

  アキンは黙った。

  納得したわけではない。

  だが、反論の言葉を探している。

  その沈黙が、シンには十分だった。

  「今日の午前中は集落の東側から始めろ。歩幅を計測して基準にする。起伏は段差ごとに記録。基準点からの距離を数える。」

  「……わかった。」

  ぶっきらぼうに言って、アキンは天幕を出ていった。

  ムパンギが、その背中を見送りながら言った。

  「説得が上手いな。」

  「説得ではない。論理だ。」

  「同じことだ。」

  「違う。説得は感情に働きかける。論理は思考を通して構造に働きかける。感情は変わるが、構造は変わらない。」

  ムパンギは、また低く笑った。

  「お前は本当に面白い人間だな、シン。」

  セリナが、傷の手当てに来たのは、それから間もなくだった。

  天幕の中に二人になる。

  外からは、アキンたちが出発する足音が聞こえる。

  セリナは無言で、包帯を解いた。

  傷口を確認する。

  昨日より赤みが引いている。

  彼女の精霊術の効果かもしれない。

  「……よくなってる。」

  「感謝する。」

  「礼はいい。」

  短い。

  だが、その短さの中に何かが混じっていた。

  シンは、その「何か」を分析しようとして、止めた。

  「……何か聞きたいことがあるなら、聞け。」

  セリナの手が、一瞬だけ止まった。

  「……なぜ、わかるの。」

  「そういう沈黙だったからだ。」

  

  セリナは少しの間、包帯を巻く手を動かし続けた。

  それから、静かに口を開いた。

  「……昨日の夜。あなたが羊皮紙に何かを書いていた。」

  「見ていたのか。」

  「眠れなかっただけ。」

  シンは何も言わなかった。

  「戦略を立ててた。地形を分析して敵の動きを予測して、だよね?」

  「そうだ。」

  「それは普通の将校がすることよ。」

  「そうだな。」

  「……でも。」

  セリナは包帯を結び、手を止めた。

  「普通の将校は、あんな顔をしない。」

  「……どんな顔だ。」

  「苦しそうな顔。」

  静寂が落ちた。

  シンは、返答を探した。

  だが、適切な言葉が見つからなかった。

  「戦略を立てる時、人間を駒として扱う必要がある。それが苦手なのか、と思って。」

  「……苦手ではない。」

  「じゃあ、なぜ。」

  シンは、少しの間だけ黙っていた。

  「……苦手ではないことが、苦手なのかもしれない。」

  セリナは、その言葉の意味を、すぐには解けなかった。

  ただ、その答えが計算ではないことだけは、わかった。

  (この人は、軍人なのに、――たまに軍人らしくなくなる。……なぜ?)

  またその言葉が生まれかけて、止まった。

  それ以上を言語化するには、まだ足りなかった。

  

  昼を過ぎた頃、シンは初めて寝台から起き上がり、集落の中を歩いた。

  足が重い。

  視界が時々揺れる。

  それでも歩いた。

  止まれば、思考が過去へ向かう。

  動いていれば、前だけを見ていられる。

  集落は、思っていたより広かった。

  天幕が二十ほど。

  粗末だが、配置に一定の規則がある。

  中央に広場があり、焚き火の跡が複数。

  炊事場と思しき場所と、武器の手入れをする場所が、それぞれ端に寄せられている。

  (……無意識の機能分離だ。意図してやっているわけではないだろうが、理にかなっている。)

  前世の記憶が、静かに補足した。

  (自然発生的な集落の構造は、多くの場合、機能的要求から生まれるものだ。防衛と生産と休息の分離。これは人類普遍の――)

  「シン。」

  声がして、振り返った。

  ヒディだった。

  小さな手に、木の実を山盛りに抱えている。

  「歩けるようになったんだね!よかった。これ、食べる?甘いよ。ほら。」

  差し出された木の実を、シンは見る。

  小さな緑の粒。

  ヒディの掌の上で転がっている。

  「……もらう。」

  一粒、口に入れた。

  酸っぱかった。

  だがその奥に、確かに甘みがあった。

  何より新鮮な味だ。

  「……うまいな。」

  「でしょ!この森にしかないんだよ。私が見つけたんだ。」

  ヒディは誇らしげに胸を張った。

  シンは、その顔を少しの間だけ見ていた。

  アキンと双子だから十七歳だ。

  だが、小柄なのに加え、純粋な明るさが幼くも見せる。

  この世界で生き延びることがどれほど過酷か、既に知っているはずだ。

  それでも、この顔ができる。

  (どちらが正しいのだろう。)

  前世の記憶が、静かに問うた。

  感情を殺して生き延びる俺と、感情を持ったまま朗らかに生きている彼女と。

  どちらが、本当の意味で「生きている」のか。

  「シン、難しい顔してる。」

  ヒディが、不思議そうに覗き込んだ。

  「そうか。」

  「何か、嫌なことあった?」

  「……いや。」

  「じゃあ、笑えばいいじゃん。」

  それだけ言って、ヒディは走って行った。

  シンは、その背中を見ていた。

  笑えばいい。

  その言葉の単純さが、ひどく重かった。

  夕暮れが山の稜線を赤く染めた頃、集落に異変が起きた。

  遠くから、急いだ足音が近づいてくる。

  アキンだ。

  その顔を見た瞬間、シンは全ての感傷を切り捨てた。

  「何人だ。」

  「帝国の斥候。五人組が三隊。計十五。俺たちの測量隊に気づいて追ってきた。今、谷の入口まで来てる。」

  「こちらの損耗は。」

  「ゴルが、矢を受けた。動けない。」

  シンは立ち上がった。

  膝が軋む。

  無視した。

  「ムパンギを呼べ。セリナ、弓は使えるか。」

  「使える。」

  いつの間にか、セリナが天幕の入口に立っていた。

  「ヒディは集落の中心に。動くな。」

  「で、でも――」

  「動くな。ここを守れ。」

  それだけで、ヒディは動きを止めた。

  シンは羊皮紙を掴んだ。

  炭を取った。

  膝をついて、地面に素早く線を引く。

  「谷の入口はここだ。両脇の斜面はこの角度。敵は一列で来るしかない。」

  ムパンギが天幕に飛び込んできた。

  「状況は聞いた。どうする。」

  「俺とセリナが右の斜面に上がる。お前は谷の出口側に回れ。アキンは囮だ。わざと追いかけさせながら谷の中央まで引き込む。」

  「囮?俺が?」

  アキンが声を荒げた。

  「逃げながら戦えるか。」

  「……できる。」

  「なら問題ない。谷の中央まで来たら伏せろ。それで全員の視界が揃う。」

  シンは立ち上がった。

  全身が重い。

  傷が熱い。

  それでも足を踏み出した。

  「行くぞ。」

  斜面を登る。

  膝が鳴る。

  傷口が開きかけている感覚がある。

  無視する。

  今は動ける。

  後で考える。

  隣でセリナが、音もなく斜面を登っていた。

  エルフの足は、身軽だ。

  それこそ今のシンの何倍も速い。

  それでも彼女はシンの速度に合わせていた。

  気を使っているのか、それとも――

  「無理をしないで。」

  「無理はしてない。」

  「嘘。顔色が悪い。」

  「見えるのか。暗いのに。」

  「エルフの目は暗所に強い。」

  シンは、それ以上言わなかった。

  セリナも、それ以上追わなかった。

  斜面の頂上近くで、二人は伏せた。

  谷の底が見える。

  霧が残っている。

  その霧の中に、影が動いていた。

  帝国の斥候だ。松明を持っている。

  五人。

  また五人。

  また五人。

  合計十五。

  シンは、その動きを見た。

  (……練度は低い。正規軍ではない。雇われの斥候だ。松明を持つのは夜目が利かないから。索敵能力も低い。)

  「セリナ。先頭の松明持ちを狙え。谷の中央に来たら。」

  「わかった。」

  「撃ったら即座に移動しろ。同じ場所から二射するな。」

  「……それも、普通の将校が知っていることなの?」

  「狙撃の基本だ。」

  セリナは少しだけ間を置いた。

  それから、弓を引き絞った。

  谷の底で、アキンの声が響いた。

  「おい、人間ども! 俺はここだぞ!」

  挑発だった。

  斥候たちが反応する。

  松明の光が乱れる。

  アキンが走る。

  斥候が追う。

  谷の中央へ。

  シンは息を止めた。

  (……今だ。)

  「放て。」

  弦の音。

  先頭の松明が、落ちた。

  すぐにセリナが動く。

  谷の底に、叫び声が響く。

  混乱。

  松明が乱れ、隊列が崩れる。

  「次。」

  また弦の音。

  二本目の矢が、混乱の中で指示を出そうとした男の首を貫いた。

  指揮官だ。

  本能的に選んでいた。

  「移動。」

  二人は斜面を横へ移動する。

  シンの足が、一度だけ滑った。

  セリナの手が、素早くその腕を掴んだ。

  「……ありがとう。」

  「どういたしまして。」

  たった、それだけのやりとり。

  だが、その瞬間の接触が、シンの中で妙に長く残った。

  谷の底では、ムパンギが出口側から踏み込んでいた。

  退路を断たれた斥候たちが、浮き足立つ。

  アキンが反転して斬り込む。

  五分で、決着がついた。

  静寂が、谷に戻ってきた。

  シンは斜面を降りながら、頭の中で計算していた。

  敵の損耗。

  十五。

  こちらの損耗。

  谷の底に降りた瞬間、見えた。

  三つの、動かない影。

  ――ゴブリン。

  測量隊のゴブリンだった。

  地図作成のために今日一日、歩幅を数え、起伏を記録し、基準点からの距離を刻み続けた、その三人が――泥の上に、重く沈んでいた。

  シンは、その場で足を止めた。

  (……三人か。)

  数として処理しようとした。

  できなかった。

  なぜかがわからなかった。

  今まで、何十人の死を数として処理してきた。

  カイルの死でさえ、感情を飲み込んで次の行動に移った。

  なのに今、この三つの影の前で――

  (……俺の指示が、不十分だった。)

  その結論だけが、冷たく出た。

  地図作成の隊形が戦闘に向いていない。

  間隔が広すぎる。

  連携も、警戒も、指示が足りなかった。

  論理は正しい。

  正しいはず。

  だが、それを「正しい」と結論した瞬間に、何かが――

  「……くそっ!」

  アキンの叫びが、夜気を引き裂いた。

  泥に膝をついて、拳で地面を何度も打ちつける。

  血が滲んでいるのが、暗がりでもわかった。

  「間に合わなかった……! 俺が、もっと早く気づいていれば――!」

  声が震えている。

  泣いているのか、怒っているのか、あるいは両方か。

  シンは、そのアキンを見ていた。

  何も言わなかった。

  言えなかった――ではない。

  言葉はあった。

  「次の再発防止に使う」、「仕組みを変える」、「無駄にはしない」。

  全部、本当のことだ。

  正しいことだ。

  だが。

  (……今、それを言うのか。)

  記憶が、静かに止めた。

  自我が、応じた。

  (……感情は効率を鈍らせる不純物だ。早く切り替えなければ。)

  (本当にそう思っているのか。)

  (思っている。)

  (では、なぜ足が動かない。)

  シンは、自分の足元を見た。

  泥の中に、半分沈んだゴブリンの手が見えた。

  今日の朝、歩幅を数えながら出発したはずの手が。

  目を逸らそうとした。

  できなかった。

  「シン。」

  マリの声がした。

  老婆は、いつの間にか谷の底にいた。

  誰も呼んでいないのに、そこにいた。

  「マリさん。ここは危険だ。」

  「もう終わったろ。」

  反論できなかった。

  マリは、シンの隣に立った。

  三つの影を、静かに見た。

  「……この子たちは今朝、出かける前に私に声をかけてくれたよ。スープが美味しかったって。」

  シンは、何も言わなかった。

  「あんたが作った仕事が面白いって、言ってたよ。歩幅を数えるのが、意外と楽しいって。何かを少しづつ作っていくのって面白いってね。」

  沈黙。

  「……俺の指示が、足りなかった。」

  その言葉が、口から出た瞬間、シンは自分が何を言ったのか、少しだけ驚いた。

  謝罪ではない。

  言い訳でもない。

  ただの、事実の確認だ。

  だが、マリは静かに頷いた。

  「アンタがそういうんなら、そうなんだろうさ。」

  肯定だった。

  慰めではなく、否定でもなく、ただの肯定。

  「でも、あんたがいなければ、もっと死んでたよ。今夜の十五人の話じゃなく、もっと先の話として。」

  「……それは、まだわからない。」

  「わからなくていいさ。」

  マリは、それだけ言った。

  「ひとつだけ聞いていいかい。」

  「なんだ。」

  「削ったその先には、何が残るんだい。」

  またその問いが来た。

  二度目だった。

  シンは今度こそ、答えようとした。

  「生き残る者だ。」

  「そうかい。じゃあ、その『残る側』はどうやって決める。」

  「状況だ。役割、能力、配置、確率。すべてを見て、最も損失が少なくなる形を選ぶ。」

  「なるほどね。」

  マリは小さく頷いた。そして、ゆっくりと息を吐いた。

  「それをやり続けるとね――最後に残るのは、『誰も選ばなかったやつ』になるよ。」

  沈黙。

  シンは、その言葉を受け取った。

  意味はわかった。

  計算式に人間を入れ続けた先に、選択する者自身が計算式から外れる――そういうことだ。論理としては理解できる。

  だが。

  (……「誰も選ばなかったやつ」か。)

  その言葉が、頭の中で反響した。

  前世の記憶が、静かに続ける。

  (孤立した権力者は腐敗する。組織の頂点が人間性を失えば、組織全体が歪む。これは歴史が繰り返し証明してきた――)

  現世の自我が、遮った。

  (関係ない。俺は組織の頂点ではない。今はただの、負け犬だ。)

  (負け犬が生き残るために、他人を駒として扱う。それが今の俺だ。何が間違っている。)

  間違っていない。

  そう、間違ってはいない。

  (……なのに。)

  なぜ、足が動かないのか。

  シンはまぶたを閉じた。

  泥の上の手が、瞼の裏に残っていた。

  「……次からは、死なせない。」

  気づいたら、声に出ていた。

  低く、地を這うような声。

  誰に向けたものでもなかった。

  アキンが、弾かれたように顔を上げた。

  「ふざけんな……!」

  その声は、怒りというより――悲鳴に近かった。

  「こいつらはもう死んでるんだぞ! 戻ってこないんだよ! お前の言う通りに動いた! 地図を数えて、歩幅を記録して……ちゃんとやった、ちゃんとやったのに――!」

  言葉が、嗚咽に溶けていく。

  シンは、その怒りを受け取った。

  受け止めた。

  跳ね返さなかった。

  「……そうだ。」

  それだけ言った。

  「お前たちはちゃんとやった。俺の指示が、足りなかった。」

  アキンが、息を呑んだ。

  「だから、仕組みを変える。今回の損失を、次に活かす。それが、この三人への俺なりの答えだ。」

  「……そんなの。」

  「まともな答えになっていないのは、わかっている。」

  シンは、アキンを見た。

  「だが、死者は戻らない。そのまともじゃない答えで、次の死者を減らすことはできる。俺にできるのは、それだけだ。」

  アキンは、何も言わなかった。

  泣いていた。

  声を殺して。

  シンは、その隣に膝をついた。

  体が軋んだ。

  傷が熱を持った。

  それでも、膝をついた。

  一緒に、三つの影を見た。

  何も言わなかった。

  言葉は要らなかった。

  セリナが、その光景を遠くから見ていた。

  (……この人は。)

  また言葉が生まれかけた。

  今度は、少しだけ先まで進んだ。

  (この人は、感情を切り捨てているのではない。)

  切り捨てられないから、切り捨てようとしている。

  その違いは、外からは見えない。

  だが、セリナには見えた。

  (どうして、そこまでして。)

  答えは出なかった。

  だが、一つだけ、決まったことがあった。

  この人間の隣にいよう。

  理由は要らない。

  理屈は後でいい。

  ただ、この人間が崩れ落ちる前に、誰かがそこにいなければならない。

  それが自分だという確信だけが、静かに、しかし確実に、セリナの中に根を下ろした。

  夜が深くなった。

  焚き火の傍らで、ムパンギが湯を沸かしていた。

  シンが戻ってくると、黙って木椀を差し出した。

  「……飲め。」

  「……ああ。」

  二人は、しばらく黙って火を見ていた。

  「シン。」

  「なんだ。」

  「お前は、強いな。」

  「……俺が倒れていたのを、もう忘れたのか。」

  「そういう話じゃない。」

  ムパンギは、炎を見たまま言った。

  「戦場で強い奴は多い。だが、負けた後に立っていられる奴は少ない。お前は、全部失った後で、まだ前を向いている。」

  「……前を向くしか、ないからだ。」

  「そうかもしれん。だが、それができない奴の方が多い。」

  沈黙。

  シンは、木椀の中の液体を見た。

  「……ムパンギ。」

  「なんだ。」

  「お前たちは、なぜここで戦っている。逃げる選択肢もあるはずだ。」

  ムパンギは、少しの間だけ黙っていた。

  「……逃げた先がないからだよ。」

  静かな答えだった。

  「帝国は広い。教会は帝国より広い。亜人が安全に暮らせる場所は、どこにもない。」

  「だから、戦う。」

  「戦うしか、ないからな。生き延びるためには。」

  ムパンギは、それからシンを見た。

  「……お前も、同じだろ。」

  シンは、答えなかった。

  答えなかったが――否定もしなかった。

  それが、この夜の、二人の間に生まれた最初の、本物の合意だった。

  天幕に戻る前に、シンは一度だけ足を止めた。

  空を見上げた。

  星が、出ていた。

  帝国の領地からは見えない、この森の深い星空が。

  頭の中で、二つの声がまだ、低く燃えていた。

  現世の自我が言う――明日から仕組みを変える。

  地図を完成させる。

  次の手を打つ。

  感情は後回しだ。

  前世の記憶が言う――三人の名前を、覚えておけ。

  シンは、目を閉じた。

  (……ゴル。ラン。テッシュ。)

  今日、歩幅を数えていた三人の名前を、頭の中で繰り返した。

  記録には残らない。

  戦略には関係ない。

  確率の計算には、何の影響も与えない。

  それでも、繰り返した。

  それだけが、今夜の――「別の自分」に対する、シンなりの折り合いだった。

  夜空には星が、静かに瞬いていた。

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